すっぴんマスター -31ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第144話/全力の限界

 

 

 

 

オリバボールに飲み込まれて窒息寸前にまでなった宿禰だったが、ぎりぎりのところで脱出、余力をすべて使い果たす突撃ではカウンターでオリバの拳をもらい、ついに倒れてしまうのだった。

 

顔を突いていたオリバじしんがふっとび驚嘆する体当たりだった。それだけの衝撃が宿禰の顔面に訪れたということである。離れて着地したオリバはちょっと心配しているようである。オリバの腕は無事なようだ。

そっと地面に手をつき、うつぶせだった宿禰が寝返りをうって仰向けになる。もう残ってないと宿禰はいう。オリバの勝ちだと。とはいえ、今回のオリバはいかにも実戦派のふるまいを見せていた。ジャック戦からどれくらいたったのかわからないが、少なくとも宿禰の左手には小指がなく、万全ではなかった。そういうことをオリバはいう。慰めというより、じぶんが勝ったことによる余裕が引き出した本音だろう。なりふりかまわず勝ちにいったということだ。でもそんなのは力士じゃないと宿禰はいう。いつでも備わっているから力士を名乗れると。

とりあえず死ぬことはなさそうなので、オリバは去っていく。宿禰も、どこか満足しているようでもある。「愉しんだ」と、じぶんで感想を漏らしているのだ。だがそのじぶんの考えにすぐ疑問も感じる。それでいいのだろうかと。

 

別の日、宿禰と蹴速がちゃんこ鍋を囲みながら話している。ふつうに今回のオリバ戦のことを宿禰が話して蹴速が聞いている感じなのだが、いやあなたたちそういう仲だったんですか?! 長年のライバルだろうから互いに「あいつ」呼ばわりみたいな関係なのかと・・・。この雰囲気は独歩・渋川のものが近いかもしれない。

 

ふたりは「格闘家(かれら)」の話をしている。それはそうだけど、誉めてるだけでは・・・などと蹴速はいう。この口調からして、ふたりは、なんというか、孤高の力士としての自覚がまずあって、ちょっと「格闘家」というものに挑戦してみようじゃないかというようなはなしが出てきて、それでふたりしてそれぞれに行動していたみたいに見える。彼らは、神事なりライバルの克服なり、やることがあるので、「格闘家」のように、誰より強いかとか、誰に勝ったとか、そういう競争原理には興味をもてなかったのだろう。生まれがそうだろうし、そうする意味もなかった。それが、なぜかこういう流れになって、バキやジャック、独歩やオリバとたたかうことになったのである。ふたりの会話からは、「格闘家(かれら)」に対する「オレら」が感じられるのだ。

 

宿禰はしかし、試してないことがあるともいう。気遣ったと。得るものはあった。勝ちを捨てることにはなったが、おかげで格闘家の強みと弱みが見えた。それを知りたかったのだ。

 

『「全力」の限界』について蹴速が語る。というか語って聞かせる。陸上競技が示す人間の全力の限界は20秒以内であると。言葉としては繊細なところで、より厳密にいえば、「全力」は常にいくらでも出せるはずだ。もう立ち上がれないという状況になっても、その状態における「全力」は出せるからだ。ただ、その出力はどんどん落ちていく。フルパワーの最速状態は20秒しかもたないということだろう。フルパワーの10秒を見せつけてやれと、なぜか蹴速は宿禰を鼓舞するのだった。いや、宿禰もだけど、蹴速もがんばってよ、ライバル応援してる場合かよ、わりと好きなファイターなんだからさ・・・。

 

それで、宿禰は光成に試合を申し出たようだ。ジャック、オリバと、バキ界でも屈指の強者とたたかって、しかもどちらにも負けたあとだ。光成も驚くが、宿禰が真剣な顔なので、いちおう納得したようだ。そこで宿禰は、その10秒のはなしをする。10秒で試合を終わらせると。相手が誰であってもだ。範馬刃牙でもかと、光成はなぜかいきなりチャンピオンの名前を出すのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

宿禰はためらいなくバキでも10秒で倒せるといい、バキもまたそれを朗報として受け取るのだった。

 

オリバはオリバボールで攻めとか守りとかいった立ち位置を無効化したが、ここではなしがややこしくなってしまった。宿禰は勝ちにこだわっていなかったというのである。とはいえ、よく考えると、三角形だとか逆三角形だとかいうのはオリバがいっていたことなので、じっさい、いうように宿禰はそういう相対関係にはこだわっていなかったのかもしれない。

 

彼ら、というか厳密にはオリバがいっていただけなわけだが、オリバと宿禰のファイトは、三角形と逆三角形のどちらが上か、はっきり決めよう、みたいなことではじまった。これらは彼らの見た目の図像化であるとともに、両者のファイトスタイルをよくあらわしてもいた。三角形たる宿禰は、もともと聖地を守ることを任務にしていた守るものであって、そこから出ていって敵を倒すようなものではない。彼の任務は、どうあれ相手を聖地に存在しない状態に戻すことである。逆三角形体型のオリバはいわば肉食の狩猟型で、敵を探し出して屈服させる。相手を食い、吸収している点で変化があるといえばそうだが、これもやはり、相手を眼前から抹消することがとりあえずの目的とはなる。攻めであろうが守りであろうが、相手を目の前から消し去るという目的で両者は一致していた、このことを、オリバボールは示唆した。というのは、オリバボールは上下の概念を無効にするからである。そもそも、ふたつの合同の三角形が、「逆三角形」なのかどうかを考えるためには、上下の概念、重力、大地の存在が不可欠である。八方に虚無が広がる宇宙空間で、そこに浮ぶ三角形が逆三角形かどうかを決めることはできない。宇宙服を着て浮ぶ観測者やカメラがそこに存在すればできるようにもおもえるが、その場合も、上下を定めるのは大地のニュアンスを含む足側が下であるという慣習的判断や、カメラを通じて画面を見ているものの大地の方向がそれを決める。円や球は、大地が備わった地上の原理のなかにおいても、上下の判断ができない。唯一考えられるものは「転がる」という状況をもってのみであるが、これも、線上、もしくは面上のある点が他のどの点とも異なること(座標で指示できること)が前提となる(現実ではたとえば色を塗ったりとか)。オリバボールは転がることすらない。わたしたちには筋肉でおおわれた先に、オリバの頭がどのあたりにあるかということがわかるが、ここではそうしたことは無視する。すると、このいつまでも転がることのないボールは、どんなときもどちらを向いているか不明ということになるのである。これが、オリバボールが上下を、大地を失わせるという意味だ。

この先になにがあるのか、ということで、前回は、相手がいなければありえないようなたたかいの状況、つまりコミュニケーション的状況というものを想像した。そのときには、ソクラテスの議論のタイプをイメージした。プラトンの描くソクラテスは、街の名士や賢者をつかまえていろいろ「対話」をするが、読んでみるとよくわかるように、それはいまいわれている「対話」とはちょっと異なっている。プラトンじしんがそのつもりで書いているのだろうから当たり前のはなしだが、名士たちの発言はどれも注釈のようなものでしかない。ある大枠の説明があり、考えられる反論が名士によってくりだされ、ある種例外的なそうした反論をひとつひとつソクラテスがひねりつぶしていく、そういう流れなのである。だから、というといつかソクラテスの専門家に怒られるんじゃないかと冷や冷やしているが、プラトンの描くものは対話というより独白、モノローグなのである。名士たちの反論は、ソクラテスの議論がいかにすきのないものであるか示すための刺激でしかない。彼の「対話」はすべて彼という主語のもとに回収され、独白と化していく。そして、「格闘技」にも似たようなところがあるというはなしだ。このはなしに寄せて書いていけば、「格闘技」とはなんなのかというと、それは「この闘争の主語は誰なのか」という点で、それをじぶんに引き寄せる技術なのである。オリバボールの先にはおそらくこのことの克服ということがある。格闘のある一瞬を写真のように切り出し、それを連続させたとき、すべての状況は、どちらかの攻めと守り、もしくはそれらが同時に行われているものとして認められるだろう。格闘の「主語」を獲得するということは、守りにおいても後手に甘んじず、主体的なものとしてそれを主導するということだ。大地の概念を欠き、三角形に上下の区別を持たないオリバボール以降の世界では、しかしこうした読みとりかたはできない。ではそれらはなんなのかというと、コミュニケーションにほかならないのではないかということだ。

 

闘争をコミュニケーションとする発想は別に新しいものではなく、どちらかといえば手垢にまみれたありふれたものだろう。だが、宿禰や蹴速は、あれほどの強者でありながら、相手の顔が見えるような、試合とも呼べるようなファイトを、これまでまったくしてこなかった。要するに、これまでバキ読者が自然にしてきたような「闘争とはなにか」的な考えの歴史を、彼らはじっさいのファイトを通じて急激に身につけているような状態なのだ。そして、今回の会話をみると、宿禰にはもともと、オリバボールの先にあるこのコミュニケーション的な闘争のありようというものが見えていたのかもしれないとおもわれるのである。それが、格闘家を「かれら」という三人称で呼ぶ立ち位置である。これは、今回初めて明らかになった蹴速との親密な関係性もこみで、彼ら古代相撲の力士たちを指す「オレら」もニュアンス的に含んでいる。ここからは、客観性とともに、未知なるものに接続する通常のコミュニケーションとよく似た形状の心理が見て取れるのだ。

いままでの宿禰には、ただ「自分」しかなかった。それでも強いのだからじゅうぶんといえばじゅうぶんだが、彼のばあいはトレーニングも徹底してひとりで行ってきた。そこへ、どこからか「格闘家」の存在が、外部から情報としてやってくる。こうしてみると、彼が闘争を自然にコミュニケーション的なものと受け取ったとしても不思議はないかもしれない。相手は、主語を奪い合う敵というより、よくわからないものたちなのだ。だから、勝ちは二の次になっていた。もちろん、彼も人間だし、若いということも、プライドもあるので、最終的には「かれら」を「オレら」のうちに回収しようとするソクラテス的動機がなかったとはいえないし、げんにこれまではそのように見えていた。しかし、ともあれ、初期衝動的にはそういうところがあったのだ。こうみると、オリバのオリバボールは、彼がそのぶん優っていたというより、宿禰によって自然に導かれたというふうに見たほうがよいのかもしれない。

 

そしてこのコミュニケーションの作法は、オリバ戦では究極の「全身全霊」を引き出した。力士はどの立ち合いも全身全霊で行う、はずだが、最後の一撃は、オリバも驚くすばらしいものとなった。前回細かくみたように、これは、最後だからこそできたことでもある。現実に立ち合いでは算数のようにできるものではないが、たとえば100の体力があるとして、全身全霊の立ち合いが30の体力を消耗するとしよう。すると、2回あの突撃をしたあとでは、40の体力が残っていることになる。これがあの、次が最後だという状況だ。次に30だけ使って10残してももう動けない。そこで、みずからそれを最後だとすることで、宿禰は通常出力できない40の立ち合いを実現したということなのだ。ではどうしてそんなことが可能だったのかというと、それはオリバという非常に強い相手がいたからなのだ。40の出力をきちんと受け止めるものが目前にいてはじめてその衝撃は現実のものとなる。これが宿禰のコミュニケーション的闘争なのである。

 

宿禰がまだ試していない「全力」とはどういうものか。いま見たように、コミュニケーション的闘争は、究極の全身全霊を引き出すことができる。単独では出せない出力を、相手がいる状況であれば、彼らは出すことができるのである。だが、まだ試していないといっている以上、今回見せたようなものではないらしいということはわかる。となると、これはむしろコミュニケーション的作法からは離れたものなのではないかとおもわれる。彼がしていたという「気遣い」は、このレベルのものだ。すると、これは主語の奪い合いである。いままで主語の奪い合いをするものとばかりたたかっていたせいで見えにくくなっているのかもしれないが、宿禰はここのところまで実は「格闘家」としてはたたかってこなかったのだ。相手の格闘家たちはみんな、主語を奪おうと迫ってくるが、宿禰は「遅れてきたもの」として、コミュニケーションをとろうと、気遣ってきた。そのあたりが、彼らが微妙にかみあってなかったようにみえたことの理由なのかもしれない。だが、彼も格闘家の思考法を学んだ。コミュニケーション的作法が導く全身全霊以上のものが、この格闘家的作法によって引き出されるのかどうかというのはわからないが、試していないという言いかたからして、具体的ななにかがあるのだろう。それを、ソクラテス的に実行するということなのだ。今回相手は刃牙に決まったが、相手は誰でもいいというのも印象的な言い回しだ。コミュニケーション的芸能の漫才師がいくら一流でも、ボケやつっこみが誰でもそれが成り立つということはないだろう。前に立つのが誰でも実現可能であるということなのだから、それは決してコミュニケーション的なものではないのである。

 

だからまあ、なにをするにしても、宿禰は以後格闘家的ふるまいをみせるかもしれない、ということになると、これまで相手が格闘家で、描写上それに引っ張られていたぶぶんもあっただろうということで、いままでとなにがちがうのかよくわからないということになる可能性もある。その具体的ななにかがどういうものか、それによって、展開の雰囲気はかなり変わってくるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今日は円応寺と建長寺に行ってきた!





円応寺は北鎌倉から歩いて20分くらい、うっかりすると見逃しそう。建長寺を少し過ぎた道路反対側にひっそり伸びる階段の奥。運慶が彫ったとされる閻魔様がおる。


建長寺はずっと行きたかったところ。門がカッコいいのだ。









天狗の像があるらしき半僧坊への道のりはほぼハイキングらしいので、今回はあきらめた。建長寺も一回では見切れないね…

第143話/嚥下

 

 

 

 

オリバボール状態になって宿禰のすべての攻撃を無効にするオリバ。この技は防御だけではない、条件が整えば攻撃もできる!パックマンのように球体の内側に相手を飲み込むのである。

 

とはいえ、以前バキにしかけたときのように完全に飲み込むことは難しいようだ。手足の大半がはみだし、オリバじしんの球体表現もかなり崩れている。全員で宿禰の状態をつぶしているような状態だ。

目撃者の松永(壊された車の持ち主)が引き続き証言する。2メートルの球体が3メートルの巨人を飲み込んだのだと。球の大きさはせいぜい直径1メートル、宿禰は2メートル超だが3メートルはない。だが体感的にはそう感じてしまうのだ。

 

蛇がゆっくり獲物を飲み込んでいくように、オリバは、ひとつひとつ丁寧に、はみ出た宿禰の手足を拾い、内側にたくしんこんでいく。最終的には両足がのぞいている程度にまで飲んでしまったのだ。だがやはりオリバの球体はかなり崩れてはいる。宿禰の抗うパワーもそうだろうが、なにしろ大きさだろう。

小さい生き物を手の中に隠して運ぶとストレスで弱ってしまう、これはそういう攻撃だったとおもうが、なによりまず窒息という現実がやってくるようだ。宿禰は膝を抱えた胎児のかっこうで収まっているっぽい。それがオリバのからだに圧迫されて、呼吸ができていないのだ。嫌な技だな。

ばかげた話だが、宿禰は「消化される」という恐怖を感じたようだ。屈辱感とともにふりしぼった最後のちからで、なんとか彼は脱出に成功するのだった。開いたオリバを見て松永は人間だったのかと驚いている。

ちょっとだけサイズが足りなかった、とオリバは余裕をもっていう。そう、ただ大きさが足りなかっただけだ。技としては成功しており、宿禰も窒息寸前だったのである。宿禰は余力を計算している。けっこうぎりぎりっぽい。次の立ち合い、要するに次の衝突を決着とすると宣言する。そんなことを宣言しないでも、たたかいはいままで続いてきた。これまでのものとなにがちがうのかとオリバは問う。ちがいはないらしい。立ち合いとはいつも全身全霊で行うものだと宿禰がするのを、オリバはつまらないコメントだという。

 

言葉の通り、特に戦略があるわけではなかったようである。構えたオリバに宿禰は力士らしく頭から突っ込む。その顔面に、オリバのかためた拳がめり込んだ。すさまじい馬力に殴ったオリバがふっとんでいる。パンチで跳躍したような状態だ。ありきたりの立ち合いということだが、今宵いちばんのものだとオリバは内心讃えている。

腕がどうにかなっていても不思議ではない衝撃だったろうが、とりあえずオリバは無事だ。息をきらせながら立ち上がろうとするが、宿禰は突っ伏したまま動かないのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

そろそろ決着みたいだが、おもったよりアライジュニアっぽくないというか、互いにきちんと敬意を払った結末になりそうでよかった。

立ち合いは常に全身全霊ということだが、最後の一発はカウンターをくらわせたオリバが驚嘆するほどのものとなった。どうしてこういうことになったかというと、逆に余力がほとんどなかったからとおもわれる。人間のふるまいというものは、ゲームの体力ゲージみたいに数量化することの難しいものだが、宿禰の体感的には、残りの馬力はわずかという感覚があった。これは要するに、あと1回、ぶちかましを行ったら、勝ってもも負けても終了みたいなことだろう。こういう状況だったから、宿禰は残っていたものをすべて使い切ったのである。つまり、じっさいには、1回のぶちかましプラスアルファぶんくらいの体力はあった。だが、そのわずかなアルファを残したところでどうしようもない。だから彼は底まで使い切ったのだ。そうして、結果的には「全身全霊」の一撃を超える一撃を生むことができたのである。

 

これが、オリバの拳によって受け止められ、結果として宿禰はダウンしたようである。ここから導けることがひとつだけある。彼ら力士は、覚悟を決めてさえいれば相当な攻撃も耐えることができる。だが、それも限度がある。その限度というものを定めるのが、「全身全霊」なのだ。衝突して相手に衝撃を加えるものは、じしんの身体にも衝撃を負っているわけである。つねにフルパワーで激突する彼らは、つねに同程度の衝撃をじぶんにも課しているのだ。今回宿禰がダウンしたのは、通常の「全身全霊」の一撃を上回るパワーを、彼が意図せずしてみずから引き出してしまったからである。それは、パワーおばけのオリバも驚くほどの衝撃を生み出した。だが、頭を、今回は顔を先端にして相手を突き出す相撲スタイルでは、その衝撃はそのままじぶんへと返ってくることになる。彼らのスタイルとすさまじいパワーは、彼らのうたれ強さを育みもする。しかしそれは限界ともなる。じしんが通常だしうる衝撃を超えるものを、彼らは受け止めることができないのである。

力士の頭をぶつけあうたたかいかたがそのまま打たれ強さにつながっているのだとすれば、この方法がまちがっているとはいえないだろう。突きを行うものは拳を鍛えるし、キックボクサーはスネを鍛える。同じように頭部や首が非常に鍛えられている力士は、ふつう考えられる以上にタフネスについても仕上げられているのである。だがこれは、ある種の制限ともなるわけだ。空手家が、じしんいままで引き出したことのないパワーをもって突きを放ち、拳が壊れてしまったとしても、ダウンするということはない。だが力士は、限界を超えた衝撃を生み出すことに成功した瞬間、彼自身もそれを受け止めなければならないのである。

 

相手を倒すためにみずからの身体もさしだす、いままでよく見えすぎていて逆に認識できなかったことだが、相撲にはそんなところがあるのだった。そう見ると、これは格闘技的な考えからは遠いものとなる。格闘技術とはなにかということをひとことでいえばそれは、いかにして「じぶんの強いところで相手の弱いところを叩く」かだからだ。だがこれはある種のコミュニケーションである。コミュニケーションとはメッセージの伝達である。メッセージや表現は単独で成り立つことはできるが、コミュニケーションは必ず相手を必要とする。今回の宿禰のダウンは、体重差によりふっとんではしまったものの、しっかりとその衝撃を跳ね返すことのできるオリバという人物の拳があってはじめて生じるものだ。そして力士としての「顔面を差し出す」というスタイルである。ここからはもはや「格闘技術」のもつ合理性は感じられない。あるのは、圧倒的出力による鍛えられたじしんのタフネスへの信頼と、見たことのないその先の景色への賭けである。それを可能にするためには、オリバという相手がいなくてはならなかったのだ。

宿禰じしんは、出自もあって、孤独にひとり相撲などで鍛えてきたものだ。彼は、250キロの膨張する力士を相手に、丹念に技術やパワーを練ってきた。しかしそれはけっきょくのところイメージである。じしんの経験や記憶にない超越を、輪郭もくっきり、具体的に想定することは、人間にはできない。だが、これまでのその経験に支えられた「自己」というものの、いまだみぬ出力を、「相手」がいるときには、引き出すことができるのである。

 

これまでの三角形/逆三角形の図象はすべて格闘技術的な、相手を屈服させることを目的とした文脈のなかでのものだった。三角形の安定したスタイルで聖地を守る宿禰は、そこから敵を追い出すことを目的とする。聖地は、襲撃の前と後とで変化していないことが重要である。たほうで逆三角形の狩猟者は、相手を飲み込み、じしんの糧とすることが目的である。たたかいの前と後とで、吸収・消化しているぶん変化はあるが、相手が消滅しているという点では三角形のものと同様である。これは、二者の対話を、いかにして独白にするのかという問題と似ている。どこかでも最近書いた気がするが、プラトンの書くのソクラテスの「対話」は、じつのところソクラテスのモノローグである。登場する名士や賢者は、ソクラテスの議論に必要な質問者のようなものでしかない。結果的にそれらはただ、ソクラテスの考えがいかにすきのないものであるのかを見せるかませ犬的なものでしかにのだ。そうして、ソクラテスは複数人による彼のモノローグを成立させる。格闘技にも似たところがある。要するに、「誰がこの試合の主語なのか」ということを争って決める、それが格闘なのだ。オリバのパックマンは、球体という形状を通して、上下の意味を損ない、「大地」を失わせた。今回の宿禰の動作はその先にあるものかもしれない。「大地」を失ったとき、闘争における三角形と逆三角形は等しいものとなった。宇宙空間でその三角形が上を向いているのか下を向いているのか議論してもしかたないのだ。これは、考えてみれば攻めなのか守りなのかということを議論しても意味がないということを導いた可能性がある。宿禰は、聖地を守って敵を追い払う。オリバは、相手を食って吸収する。けれども、両者はともかく「相手をなきものにする」という点で同一なのだ。オリバボールは闘争というものがどんなスタイルであれこの点で等しいということを匂わせた。その先に、相手がいなければ成り立たない闘争のようなものを宿禰が見せた(かもしれない)とすると、おもしろいのではないだろうか。

 

 

 

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第142話/巨人と球

 

 

 

 

オリバのリベンジマッチはいまのところオリバ優勢で進んでおり、いまオリバがパックマン状態になっているところだ。

宿禰はそれをマスキュラーポーズと受け取る。ボディビルの大会では、ポーズが指定されない自由な時間に多くの選手がモースト・マスキュラーポーズをとる。オリバが肋骨をつかまれた状態でやってしまったあれだ。細部の筋肉の作りこみより、全体のバルク、とにかく筋肉がそこにたくさんあるということを示す、わかりやすいポーズである。その究極がこの球体なのであると。

 

宿禰は200キロを超える巨体を舞わせてこれをスタンプするが、不可解な弾力とともに弾き返されてしまう。ヒットポイントに力が集中することで、どんな攻撃も無効にしてしまうのがこの技なのだ。宿禰はオリバの力士としての引き出しに驚嘆している。彼がいままで想像もしなかったような筋肉やちからへのアプローチなのである。

 

オリバはまるいまま怯えるなという。そして、これ以上どうしようもない、歯が立たないというなら、立ち去れと。ただし、それは負けということである。敗北を受け入れるということであるとも。

歯が立たないとしても宿禰は別に大きなダメージを負っているわけではない。これが負けというのは無理がある気もするし、宿禰も受け容れる気はない。宿禰は力任せに蹴りも放つが、スーパーボールでも蹴っているように弾かれてしまう。

 

このファイトには目撃者がいた。飲食店経営・松永智史であり、ふっとんだ宿禰が半壊させた車の持ち主である。帰ろうと駐車場にきてみたら車が壊れていて、かたわらには3メートルくらいの力士、その前には直径2メートルくらいのなんかでかい球があるという状況だったのである。もちろんこれらの数字は体感的なもので、さすがに彼らもそこまで大きくはないが、2メートル近い一流選手というのはじっさい3メートルくらいあるように感じるものである。彼らくらいの筋量ならなおさらだろう。モニタリングの撮影を疑うレベルの現実離れした状況なのであった。

 

拳、鉄槌、かかと、肘、どれも通用しない。負けではないにしても、どうしていいかわからないというのが宿禰の心境だろう。そのとき、松永は球が開くのを目撃した。跳ね上がり、けもののくちのように開き、手足を牙のようにして力士に襲いかかったのである。そしてひと飲みなのであった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

さすがに宿禰をパックマンするのは無理だろう・・・とおもっていた時期がぼくにも。

だが、バキを飲み込んだときのように、全身がきれいに収納されるというわけにはいかなかったようで、宿禰の手足はかなりはみ出ている。でも、バキ戦のときも全身がおさまるまではちょっと時間がかかったような気がする。暴れ飛び出る手足をひとつひとつつかんで、完全に収納し、丹念にこねくりまわして、ペッとする、それがこの技だ。表面積的に無理な気もするけど、もしオリバが宿禰の全身をおさめることに成功したら、それはそれは、バキどころのダメージではないかもしれない。いやでも力士って関節もかなりやわらかいっていうしな、どうだろう・・・。

 

 

バキ世界では特定の実在ファイターがモデルとなって描かれることが多いが、オリバにもセルジオ・オリバという実在のボディビルダーのモデルがいる。セルジオ・オリバも、ビスケット・オリバと同じく、掌側を外に向けて拳を高くあげたあのポーズをよくやっていた。だが、ボディビルディングは格闘技ではない。こういう意味で、前回も書いたように、実にオリバらしい技というのがこのパックマン、オリバボールである。というのは、この技というのは、マッスルコントロールをつかっているからである。マッスルコントロールとは筋肉の任意のぶぶんにちからを入れる技術のことで、なかやまきんに君の筋肉ルーレットもそうだし、力こぶが首のうしろを通って逆の腕に移るように見えるパフォーマンスを見たことのあるかたもいるかもしれない。とにかく、おもった箇所に必要なちからをこめることができる、これがボディビルダーの強みである。なぜこういうことが可能かというと、ボディビルディングの思考法には筋肉を分離させてとらえるところがあるからだ。人間の運動というものは複数の筋肉と骨や関節が複合的に働きあって実現するものだ。たとえば野球の投球においてもっとも重要な筋肉は肩なのだろうが、もちろん肩だけが異様に発達しているからといってすごい速い球が投げられるということにはならないわけである。握力も、腕をたぐりよせる胸のちからも、体幹や下半身も、すべての筋肉が総動員されて球を投げるという単純な動作は成立している。そこに筋肉や関節のやわらかさだとかちからを抜くタイミングのセンスだとかもからみあい、ようやく速球が誕生するのだ。こういうわけであるから、特にアスリート系のトレーニングもまた複合的なものが望ましい。そのほうが効率的かつ安全でもある。だがボディビルは動作効率を超えて一般には見過ごされるような細かな筋肉まで鍛え上げていく。通常大きな筋肉に隠れているような筋肉がどれだけ鮮明に浮き立つか、そういうところに主眼がある。そこで、トレーニングは筋肉をアイソレートしてとらえるものに自然なっていく。こういう背景が呼んだものがオリバボールだというわけである。小さな筋肉まで不必要に鍛え上げる、からだのどんなぶぶんにもちからをこめることができる、というようなことは、関節を中心に複合的に筋肉を働かせるアスリートの実用思考からは遠いものとなる。しかし、それがファイトに使うことができるとしたらどうだろう。その果てに出現したのが、マッスルコントロールで防御をするオリバボールであるというわけだ。

 

しきりに感心する宿禰の姿が示すように、オリバのこの技は、きわめてオリバらしく、オリジナリティあふれるものとなっている。そして、ここでより重要なことは、それが球体だということである。これは明らかに例の三角形と逆三角形のどちらが優れているかという文脈の先にあるものだ。内容的にあまり進んでいないのでこれもまた前回のくりかえしになるが、三角形と逆三角形のありようはそれぞれ守りと攻めにわけることができる。そしてこれは、それを実現していた両者のファイトスタイルや気性、出自とも連続したものだ。聖地に住まいこれを守る宿禰は(そして“力士”は)、どこかに進み出て悪を退治するタイプの戦士ではない。しっかりとそこに根付き、不動の体重で守るものだ。だから安定した三角形タイプの体型、ファイトスタイル、思想になる。対するオリバは、いわゆる意味でのファイター的な、狩猟タイプになる。逆三角形は不安定さとともに攻撃性や肉食性、前進する意志のようなものを宿している。こういう異なった両者のどちらがうえかというはなしだったのである。ここんい入り込んできたのが球体である。ここにおける「球体」がなにを導入するのかというと、上下の区別のない世界である。三角形が安定しているとか、逆千角形が不安定で前のめりだとか、そういうイメージは、そもそも「地面」や「重力」があってのことである。宇宙空間には「逆三角形」などというものは存在しない。上下を規定する重力が存在しないからだ(そもそも踏みしめる大地がないので、「ファイト」という概念じたいが存在できない可能性もあるが)。もちろん、じっさいには大地のうえでたたかっているので、オリバの球体にも大地の要素はある。だがそれはキャンセルされている。ここで球体に「上下」の概念が加わりうる状況というのはなにかというと、「転がる」という状況である。直径を等しくする円や球体は、仮にいま絶対的な地点から(たとえば画面越しの固定された視点から)転がしたとしても、数学的にはなんの変化も観測できない。わたしたちがそれを「転がった」ととらえることができるのは、たとえば位置であり、たとえば見た目の上下感覚だったり(オリバボールなら腕の場所とかでわかる)、ともかく、地上の「上下」が自明である状況においてのみなのである。しかし、オリバはなんらかの方法を用いて転がらないようにしているのだ。正面から蹴られて、前腕ぶぶんの筋肉で弾く、これがオリバボールの防御原理なわけだが、本来はそれと同時転がってしまわなければならない。そうならないのは、球体の反対側の接地面において、等しいちからでふんばっているからなのだ。オリバがじっさいにはどのようにして「転がらない」を実現しているかは不明だ。ここで重要なのは、事実として彼が転がっていかないということである。転がらない、もしくは転がったとしても認識できない、こういう状況は、上下のない世界であると考えられるのだ。そして、上下のない世界とは、大地のない世界、安定や不安定といった評価法がない世界、すなわち、三角形や逆三角形といったファイトスタイルが意味をもたない世界ということになるのである。

 

この球体スタイルは、こうみると三角形の理念を弁証法的に包括するようでもあるが、これも前回書いたように、三角形が依存する大地じたいがそもそも球体であるというところがおもしろいところだろう。いわばオリバボールは、大地がなければありえなかった安定・不安定の競走を超えて、みずから自律的に大地を生み出すのである。そして上下の概念を生み出す重力とは、球体の中心に向かって働くちからだ。つまりパックマンである。宿禰は、彼がこだわり、毎日くりかえし四股でふみつけ、ちからの源としてきたにちがいない大地に吸収されてしまったことになるのである。

 

その中心地点でもやはり上下の感覚はないだろう。だが、ここで思い起こされるのは、宿禰の稽古法であった、250キロの膨張する力士である。宿禰は立禅的に気を練りつつ、全方向に250キロの体重を動かせ続ける、存在し得ない力士をイメージして一人相撲をして鍛えてきた。これは実質「爆発する力士」である。爆発する以上、ここには中心がある。爆発しようとするものを制圧すること、これを、彼は日常的に行ってきたのだ。そしてこれはオリバボールと同じ原理なのである。「爆発する力士」には安定も不安定もない。これと組み合い、抑える、これが宿禰の力士としてのありかたなのだ。この稽古でなにが確認できるかというと、ひとつにはまず動作の「抜け」である。ゴムボールを握れば指のあいだからボールがやわらかくふくらんでくるように、「爆発する力士」は宿禰の腕をすりぬけてありとあらゆる方向に飛散していくだろう。これを宿禰はひとつひとつの動作を細かく調整しながら抑えていく。ここからは、彼が聖地を守るものとして自然に身につけたであろう、「不均衡を是正する」という動作の傾向が見て取れる。オリバもまさに、暴れるバキを収納するために、動作の「抜け」を見つけてとびでるバキの手や足をひとつずつ拾い、最後には完全に球体のなかにしまいこんでいたが、実は宿禰もまったく同じことをやっていたのだ。だとするなら、オリバボールは宿禰にも可能であるということになる(腹がじゃまをするとかそういう現実問題はおいて)。宿禰の驚きようをみると、おそらく彼はそのことに気がついていない。とすると、今後気付く可能性がある。つまり、大地に依存した安定/不安定の原則から逃れた、みずから中心的を創出するありかたに、ということである。オリバは宿禰に大きなヒントを与えてしまった可能性があるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第74審/至高の検事⑩

 

 

 

 

息子の猛の行方不明に関連して、京極が壬生を探しに九条の事務所へやってきたところだ。机のうえにはかばんに入っている人間の足が転がる。何本か指がとれている。前回、まだ犬飼を見つけてはいないらしいことと、彼が息子の死を断定していることから、これを猛の死体のいちぶと考えたが、あとの描写とあわせて考えると、どうもこの足は猛のものではなく、犬飼に仕事を依頼した男のものっぽい。

 

九条は、立場のある京極がこんな物騒なもの広げて軽率だ、みたいなことをいう。物騒っていうか、人間の足なんだけど、よく落ちついていられるなこのひと。

依頼者どうしのトラブルになるし利益相反になるからということで九条は介入できないと応える。知らないとも教えないともいわず、かかわらないというスタンスだ。まあ、そういうしかないのかな。もし無理強いするようなら、事務所を出入り禁止にすると。京極はしばらく黙ってから、机のうえのペンを拾ってへし折る。なにか精密機械が仕込まれているようで、録音機能があるみたい。続けて部屋中に仕込まれている録音機器や防犯カメラを子分たちにおさえさせる。そして、不気味な丁寧さで九条を伏見組の守護神だとたたえ、非礼を詫び、同じテンションでスマホで撮影した首謀者の男の拷問写真を見せる。耳や鼻をそがれ、目玉もくりぬかれている衝撃的な画像だ。さすがに九条も目を見開いて驚いている。男はすべて白状したらしい。2週間拷問して山に埋めると。白状して用事は済んでおり、しかも殺すことは決定しているのに拷問は続けるらしい。

急がないと犬飼は海外に逃げてしまう、親の気持ちがわかるなら壬生の場所を教えてくれと。

 

 

伏見組若頭補佐、雁金正美(かりがね まさみ)の登場だ。いつも2時間くらいしか眠らなそうな顔をしている。雁金は若者の構成員が壬生らを殺すのに及び腰なのにイラついているようだ。外国人を雇って殺させることはできるだろうが、いつでも組に身体賭けられると大きなくちでいっていたのはなんだったのだという状況である。反論できないところだが、構成員の若いふたりは黙ってうなだれている。そこに鍛冶屋小鉄という年をとったヤクザがあらわれる。幹部とかではなく、ふつうに構成員のままおじいさんになった感じのようだ。鍛冶屋くらい年をとると、腕っ節がどうこうという問題ではなくなってくるだろうし、時代もあって金儲けの面でもついていけなくなってくるだろう。そういうわけで若いヤクザは陰でバカにしてきたようだが、肝心なときに彼らは動かない。鍛冶屋は最後にひと花さかせたいと雁金に持ちかける。雁金は、壬生は一般人だから銃はつかうなとだけいうのだった。が、鍛冶屋は年寄りだ。失敗したら恥をかく。お守りがわりに、隠していた銃をもって出かけていくのだった。

事務所を離れたところで若いヤクザふたりの本音が聞こえてくる。まず、壬生はふつうに強い。シャブ中のおっさんだったらまだしも、モブマッチョも含めて考えると、かなり覚悟の必要な殺しなのである。しかも、文字通り組のためならともかく、猛のカタキなのである。猛には彼らもさんざんいやなおもいをさせられてきたらしい。

そこに今度は艮克茂(うしとら かつしげ)という男がトラックに乗ってあらわれてふたりに乗れという。破門された元ヤクザらしい。このトラックで壬生の工場につっこむつもりなのだという。だが電話を通じて雁金にとめられ、いちおう納得するそぶりをする。抗争全盛期を経験している武闘派ヤクザはアツい、というのがふたりの若者の感想だ。だが、シャブでヨレていたともいう。そして、その足で、艮は予告どおり工場に突っ込むのであった。

 

工場が壊されたことを車中の壬生が久我に伝える。犬飼はすぐ見つかってしまうだろう。壬生のグループは天明會というらしいが、そうなったらグループはまるごと拉致されるだろうというのが壬生の予想だ。実行犯の犬飼たちは、首謀者と同じように2週間拷問後に殺され、ほかの関係者は準構成員にされると。獅子谷甲児がいなくなったあとのシシックみたいなものだな。

壬生や久我は拉致に関与はしていないが、いわば犬飼の保護者的ポジションであり、ただではすまないだろう。壬生の胸にはおもちが光る。どうせ殺されるなら逆に京極たちをぶっ殺すかと、すごい冷静な真顔で壬生はむちゃくちゃなことをいうのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

最終章なのかなこれ、ぜんぜんシリーズなかばという感じがしないのだけど・・・。

雁金、鍛冶屋、艮と、レギュラーっぽい感じでしっかり名前が表示されるキャラが立て続けに登場した。雁金はともかくとして、ほかのふたりがレギュラーかというと、ちょっとちがう感じはする。だが、こう、ぽんぽんと新キャラがわいてでてくるのは、なかなか興味深い。特に鍛冶屋と艮にかんしては、こうした「悲劇」を待っていたかのような感じすらある。これがウシジマくんなら、ヤクザの生きかたを描くにあたって登場したのかもしれないというふうに読むべきだろうが、九条の大罪ではどうだろう。

 

全体を通してあるもっとも大きな問題は「言葉」への意識である。ここでの「言葉」は、ひとつには法律文書を指す。そして、それに基づき、鍛え上げられた法的思考法も含む。そのうえで、言葉は、事象の横顔を描き出すものではあっても、決して全体にはなりえないということをどのように受け止めるか、というところで、九条と蔵人は分岐する。蔵人では、「言葉」は世界に覆いかぶさった網目そのものである。システムなのだ。だが九条における「言葉」は、ピアノの鍵盤や、ストップモーション・アニメのようなものでしかない。九条はその、シとドのあいだにある音を聴こうとするものであり、そこに空隙が存在することすら認めない蔵人の見落としを拾うものなのである。

この対立が本作のもっともおおきなテーマであり、ほぼ全体とみて差し支えないとおもわれる。少なくとも、烏丸や流木、山城などの弁護士たちはすべてこの問題の内側に回収されていく。だが、壬生をメインとした半グレやヤクザの太い物語があることもまちがいない。それはどういったものか。

 

壬生にかんしていえば、それは主体性の物語ということになるかもしれない。壬生は京極にじぶんの命と愛犬おもちの命を天秤にかけさせられ、結果おもちを殺してしまった。だが、選択というものは、選択肢が等価であり、どちらを選ぶべきか一考の余地があるときでなければ成り立たない。じぶんとおもちの命という、比較できない選択肢を提示し、さも壬生に責任があるかのように京極は物語を演出したが、じっさい壬生は逆らうことができなかった。この選択は、身振りとしてはまちがいなく壬生のものではあったが、主体性を欠くものだったのである。こういう強制が可能なものを「強者」という。京極は、みずからおもちの死を選んだという壬生の物語を強権的に描いたのである。こう見ると、「強者」とは、物語を描くもの、ということになる。ちょうど小説家が神の視点で登場人物を原稿用紙に遊ばせ、それぞれに「選択」をさせてぜんたいの構造を築くように、強者はあくまで弱者の責任のもとに弱者の物語を自由に描き出すのである。

 

今回、犬飼に仕事を依頼した首謀者は、目をくりぬかれるレベルの凄惨な拷問を2週間受けることになった。その後彼は殺される。そして、この2週間というのは、伏見組ではお決まりのようである。壬生が同じようなことをいっているのだ。なぜこのようなことをするのかというと、壬生がその伏見組の慣例を知っているという事実が示すように、見せしめ的な意味があるだろう。逆らえば信じられない苦痛とともに2週間生かされたあと殺される、こういうことがうわさレベルで広まることが、まず第一の目的である。もうひとつは、死によって完結する生ということがある。首謀者の男を殺すことはかんたんだ。だが、伏見組に逆らうこと、今回でいえば若頭の息子を殺すほどのことをしでかしたものが、ただ死んでしまうだけで、伏見組が負うことになった負債が解消されるということはないわけである。外部的な意味では「伏見組に逆らえば2週間拷問されたのちに殺される」といううわさが広まればじゅうぶんだ。ここではもう少し内発的な動機について考えたい。つまり、彼らにとっては、彼らに逆らうという行為の重大性を遡及的に評価する意味も含めて、相手をなるべく長く苦しめ、そうかんたんには完結させないものとしたいのである。この理路はウシジマくんの獅子谷甲児が椚を生きながらえさせていたときに気がついたものだ。椚は兄の鉄也を殺した首謀者だ。だから復讐の対象である。椚を殺すのはたやすい。しかし、甲児にとっての偉大な兄・鉄也の命が、椚の命を奪うことでつりあいのとれるものであるはずがなかったのである。だから、甲児は椚を生かし、復讐完了を先延ばしにするしかなかった。似たような理屈がここからは感じ取れるのだ。今回は京極の息子が死んでいるという点でややこしいが、要するにこれは自己評価の問題だ。伏見組は、じぶんたちの強さ、大きさを、逆らうものに対する攻撃性の大きさで表現する。彼らをあっさり殺してしまっては、彼らの生が完結するとともに、逆らったものが奪ったものの価値も小さく完結してしまうだろう。それを彼らは許さない。ことがいかに重大であるか自他に示すため、彼らはいちいち復讐をおおげさにするのである。

そして、ここに宿る意味はもうひとつあり、それが物語の主人公は誰なのかということなのだ。復讐は当然後手になる。やられた行為に対応するものとして出現する。だが、後手でありながら主体性を欠くことのない復讐もある。それが、このようにして、やられたぶんをはるかに超える大きさで圧倒することなのだ。その結果、主客は逆転する。首謀者は猛を殺し、その復讐に伏見組は首謀者を殺した。事実としてはそうなる。だが、凄惨な拷問は、まるで復讐のほうが先にあったかのように、物語を書き換える。まず伏見組の凄惨な拷問があり、追って首謀者の行為が認識されるのである。因果が逆転するのだ。

 

 

猛が死亡したことにより、新キャラのヤクザがぽんぽん出てきたことにはそういう意味がある。ヤクザでは、「誰が主体か」ということが、ことほどさように重大なのである。いま、猛が殺されたことで伏見組は負債を抱えている状況にある。これをはるかにしのぐプラスを創出し、彼らが「されたこと」が中心からはずれるほどにならなければ、彼らの強者性は貫かれないのだ。

 

そうした主体性問題に、壬生もまたかかわっているわけだが、もしこの件を九条/蔵人の対立に関わらせようとしたら、ぼくではソクラテスが想起される。ソクラテスはプラトンによって描かれた数々の「対話」で知られているが、それは現代でいう「対話」とは少し異なっている。彼は、まちゆく名士とか賢者とかと議論し、これを乗り越えるが、彼らのいうことは、ソクラテスの論理を補強する反対概念のようなものを出ることがない。ふつう「対話」といえば、全体に価値中立的な枠組みのなかで、ポリフォニックに展開するものである。しかしプラトンの描くソクラテスは、名士や賢者、ソフィストを論破し、彼の議論を徹底的ですきのないものに彫琢していくのである(ややこしいが、ここでいう「論破」も、いまいわれる論破とは異なる。現在いわれている「論破」は技術的なものをいうので、ソクラテスよりソフィストよりのものだ)。だから、ソクラテスの「対話」は、きっぱりいってしまえばどこまでもモノローグなのだ。相手と論戦をしているようで、実は作品通して、主語はソクラテス以外ではありえないのである。

この対話の景色でいうと、九条はポリフォニックな対話、というより、対話的傾聴(対話者が存在するときにのみあらわれうる発話)を志向するものであり、蔵人は、相手方の論理をじしんの内側に回収することなく、ゆがめてでもモノローグの内側に回収するソクラテス的なありかたということになる。主体性の獲得、もしくは奪取ということにかんしていえば、壬生も含めた不良たちは蔵人的であるといえるかもしれない。

 

というはなしはなかばむりやりのおもいつきなので、今後つかっていくかわからないが、とりあえず思索の記録として残しておく。

 

 

↓九条の大罪 8巻 3月30日発売

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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