すっぴんマスター -32ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第77審/至高の検事⑬

 

 

 

 

京極の息子・猛をうっかり殺してしまった犬飼。

当初は壬生がなにか知ってるのではくらいで九条を通じて連絡をとろうとしていた京極だったが、やがて逃亡中だった犬飼の連れふたりが捕まり、ぜんぶわかってしまう。逃げてきた犬飼は壬生と合流、九条と今後のことについて話し合っているところだ。

といっても、京極の弁護もつとめる九条は、利益相反になるからということで、犬飼の弁護はできないという。だが、1年たって埋めた死体の死因わからないようになれば検察は起訴しない。だから、犬飼は1年くらい逃げてから自首して黙秘がベストのようだ。累犯前科もあるということで、6年で出てこれる。では壬生はどうするかというと、彼が預かっている京極の武器をもって出頭しようというのが九条の提案だ。このあたりの前回のやりとり、ぼくは微妙に読み違っていたのだが、「独り言」で壬生に対していっているのは犬飼のはなしで、じゃあ壬生はどうするのかというところで、ここからが本題ですとわざわざ言い換えてこういう提案をしている。要するに、猛の殺人について犬飼を弁護することはできないので「独り言」を聞いてもらい、壬生にかんしては京極への一種の攻撃として、おそらく九条じしんの身を守るためもあって、こういうことをいうのである。

しかし現状に加えて裏切りまでしてしまったら、壬生の身が危ない。が、いまはとにかく京極が自由にしていることが問題ということなのかもしれない。ではなにで投獄するかというと、10年以上になる重い刑は銃刀法か殺人くらいしかないと九条はいう。そして殺人で京極を捕まえることは難しい。偉いヤクザは自分で悪いことはしない・・・という背景に拷問中の京極がうつるのがおかしいが、ともかく、仮に殺人をしているのだとしても、捕まるのは下の者だ。だから壬生が、京極の武器をもって自首し、京極の銃刀法違反を証明しようということなのだ。

 

とはいえ、である。九条のはなしでは、銃刀法は自首による減免規定があるので、罪を免れることは不可能ではないという。つまり、じっさいに銃をもっていた壬生も銃刀法違反になるが、捕まるのは持ち主の京極だけで、壬生は懲役にならない可能性もあると。だが、それで京極は10年シャバからいなくなっても、伏見組が消滅するわけではないし、10年のあとはどうすればよいのか。いくら壬生が強い不良でもキツイ事態になることは避けられない。それについては、警察の保護を九条はあげているが、なかなか、かんたんに頷ける条件でもない。

この件でこれ以上の提案はない、九条は、梯子をはずさないでくださいよと、壬生に念を押すのだった。九条がじしんの希望を壬生に告げるというのは珍しい場面だ。たんに「裏切らないでくれ」ということだけではなくて、じぶんはそちら側だということも告げているのである。

 

九条が去ったあと、壬生が犬飼に指示を出す。外資系ホテルをとったから、つまり京極の手配書が出回るラブホテルのようなところではない場所をとったから、海外逃亡の準備が整うまで隠れていろと。犬飼は壬生の指示で嵐山の娘を強姦・殺害し、10年捕まっていた。そのうらみで殺そうとしていたことを、犬飼は馬鹿みたいだったという。逆に、なぜじぶんを殺そうとしたものにここまでしてくれるのかと犬飼は問う。死に別れた弟、いつもそばにくっついてなついていた弟に似ているからかなと壬生はこたえ、犬飼は涙を流す。ほんとかよ。弟のはなしなんて初めて聞いたけど。おもちのことかな。「死んだ犬に似ててさ・・・」だとちょっと逆にひどいもんな。

 

 

少し前の回で、若頭補佐の雁金に怒られていた若いヤクザふたりがそれぞれに動いている。ひとり、久我みたいな顔の男は、待機している菅原のもとへやってきて、京極のもとに連れ出している。もうひとりの金髪の男は、拳銃をもって壬生を探している鍛冶屋といっしょに飲んでいる。鍛冶屋は撃ちかたを忘れないようにときどきフィリピンで練習しているという。そこへなにか連絡、鍛冶屋はどこかへ向かうのだった。

 

壬生と久我はどこかの廃屋へ向かい、厳重にしまってある金庫のなかからいくつもの銃を出す。金庫じたいがみたところ三つもあり、みんな小型だが、ものすごい数の銃が出てくる。そこへ菅原から電話がかかってくる。が、相手は菅原ではなく、京極なのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

菅原は京極が犬飼の連れを拷問している現場につれられ、携帯を渡してしまったようだ。目玉をくりぬかれたり、壮絶な拷問中の彼だが、いまの描写では大腸をひっぱりだされて、目の前のマイクスタンドに巻きつけられており、その横に、菅原が突っ立っている。まあ、彼にはもうそれが見えないわけだが・・・。

 

犬飼にかんしては、埋めた死体がうまく死因のわからない状態になることが前提ではあるが、1年外国に身を潜め、そのあと自首して、暴行の事実が露わにならないよう黙秘する、という流れになるようだ。壬生はというと、被害者の猛が犬飼によって殺されたことは京極らヤクザにとっては「事実」である、ということがある。犬飼が隠れたのなら、いまと同じようにどこにいったかということを詰められるし、伏見組の目の届くところでまともな生活はもうできない。そのうえでの戦略が、今回の九条の提案だった。京極の武器をもって自首すれば、京極は10年刑務所に入ることになり、壬生はうまくいけば罪を問われない。警察の保護もつくから、伏見組の報復にも対応できるはずである。もちろん、問題点はたくさんある。警察の保護があるといっても、年がら年中家を監視してもらえるわけではないだろうし、第一それでは壬生じしんの仕事ができない。そして京極が壬生の裏切りにより10年投獄されるということは、11年目には報復する気満々の彼が野に放たれるということでもあるのだ。完璧な安全が約束されたような方法ではない。だが、ひとまずはそうするしかない。そうしなければ、壬生はいまこの日に、最悪殺されるのである。

 

しかし、もしここで壬生が、犬飼を差し出したとしたらどうなるだろう。いちおう壬生は犬飼の兄貴分ではあるだろうから、責任がまったくないということにはならないとしても、しおらしい態度でそれをすれば、かなり高い確率で壬生は助かるのではないだろうか。今回の犬飼の、なぜここまでしてくれるのかという疑問は、まさにそういうものだろう。これに対して壬生は「弟」を持ち出している。弟のはなしは初耳である。あらすじを追いながらも書いたことだが、これは愛犬・おもちのことのような感じがする。「犬を思い出すから」ではさすがに言い方がナニなので、弟ということにしたのかもしれない。

壬生には、じっさいそういう感情が、いまわいているのかもしれない。だが、仮に彼が犬飼に対してそういう気持ちになっていなかったとしても、もはや彼は犬飼を差し出すという選択をとることはできなくなっている。いや、厳密にはできるのだが、それと同時に、菅原・犬飼コンビを掌握したあのカリスマ性は、失われるどころか、ひどいイメージダウンをともなって地に落ちるのである。菅原の背後には一晩腕を組んだまま黙って直立不動していられる忍耐強いモブマッチョが大勢いる。こういうものも含めて、壬生は、菅原や犬飼を「言葉」で制圧した。それは、ヤクザなんかに負けてたまるかという、半グレの自尊心にも訴えかけるものだったろう。そういう、野心を奥底に抱えた強い不良というイメージが、壬生にひとを引き寄せるのである。そんな彼が、命の危機だからと、ヤクザにこびて弟ぶんを差し出すようなまねはできない。ひとことでいえば「そんなかっこわるいことはできない」ということなのだ。

とすれば、壬生は犬飼をなんとか救わなくてはならない。それは、もはや「壬生」という社会的価値の、不良たちが「壬生」と聞いて思い浮かべるもののとるべき行動そのものなのである。

そのうえで、彼が目標としているのは京極越えである。ウシジマくんのシシックがそうだったように、歴史と権威を備えたヤクザを「越える」ということは、じっさいには不可能に近い。国のしくみを根本からかえるレベルの野望なのだ。可能性があるとすれば、壬生じしんがヤクザになることだが、たぶん、丑嶋や獅子谷兄弟がそうだったように、そのつもりはないのだろう。だからこれはどこまでも「夢」なのだ。しかし、おもちの件も含めて、壬生にはさまざまな感情がうずまいているはずである。けっきょく壬生は最終的にどうしたいのか?ということなのだ。京極を殺す、またやりこめる、それだけで、もしかすると満足してしまうのか? それとも、菅原のような強者をもっと集めて、メキシコの麻薬カルテルみたいにちからだけで国とわたりあうような組織を求めるのか? そのくらいになればそれはヤクザにかわる新勢力だろう。だがそういうふうにも見えない。この問いは、人生について、けっきょくあなたはどうなりたいの?と問うようなものに近いのかもしれない。金持ちになりたいひとは、どの段階を「金持ち」とするのだろうか、物書きになりたいひとは、たとえば本を1冊出版できたとして、それで人生の全可能性をまっとうしたといえるのだろうか? 壬生の野望は、目標であるにしても、具体的な青写真というより、活動の原動力のようなものなのかもしれない。だが、そのなかにもひとつだけはっきりした目標はあり、それが、おもちを殺させた京極への復讐なのである。だから、壬生のうちでは、かなうかなわないは別にして、「より強大に」という野望があり、その内側で、その文脈において、京極に復讐をしたいという動機がたぶんある。今回問題となるのは、壬生にとってどの選択が、この「より強大に」かつ「京極越え」を同時に、安全に行えるものなのかということだ。そこで九条なのである。壬生にとっての九条はなんなのかというと、野生の感覚に近い殺し殺されの世界を法律文書を経由して再構築する、一種の社会化装置なのである。

ただ、社会化のその方法が、法律文書を媒体としたもので、九条が法律の人間であることは、たまたまであるともいえるかもしれない。というのは、社会化のために方法は、なんでもよいからだ。ここで重要なことは、価値判断である。ある行動とある行動を、仮定のまま比較し、どちらがマシか、ということを考えるための媒体なのだ。これがたとえば肉蝮のような単独完結型の不良なら、ルールなんていらない。ただ、じぶんのことだけ考えていればよい。しかし、「より強大に」を求める壬生のまわりにはすでに社会が構成されている。「どうやればダメージがいちばん少なくすむか?」と考えるとき、じぶんの身体のことだけでなく、犬飼のような身内のもの、そしてその関係性という概念的なものにまで気をまわさなければならない、壬生はそういう立場になっているのである。これを、外部的な目線で読み取り、なんらかの地図のうえに配置する、それが社会化するものの仕事である。九条ではそれが法律であるのである。といっても、法律以外なにがあるのかということではある。国というものは、ルールがなければ自律しない。見知らぬ他人とそれなりにうまくやっていける広い土地、それが国家である。九条は壬生にとってのそうした意味でのブレインなのだ。

 

そして九条は、ただ法律の専門家であるだけでなく、蔵人と比較して言葉にすることの困難なものを言葉の領域で扱う専門家でもある。ここで「言葉にすることの困難なもの」とは、リリカルである以上に、壬生のようなものも含むわけである。ふつうにひとも殺している壬生が一般の社会生活に溶け込んでいることは、法治国家の認めるところではない。法律の支配する世界では、壬生は透明な存在になっている。見えないのだ。だが、組織が大きくなるにつれ、他人とのかかわりが増えていくと、そこには責任のようなものが生じることになる。責任とは、このように外部的な目線で野生の感覚を読み取っていったときにあらわれる価値の大きさのことだ。九条がいう「梯子を外さないで」というのは、当然そのことを指している。見えない、だから存在しない、ではすまないものを、九条は拾う。ポジティブな意味では、それはたとえばしずくや曽我部のような社会的弱者のことを指す。しかし、これを言葉のまま行使すると、透明な壬生もあらわれてくる。九条は、じしんのポリシーにしたがって、これもとりあつかう。しかし、曽我部を救うことが困難でありいとわれる事態である以上に、壬生に加担することは大きな問題である。それでも事件に踏み入った九条の立場を汲んで、裏切らないでくれと、こういうはなしだ。

 

だが状況はさらに動きつつある。京極が菅原のスマホで電話をかけてくるということは、少なくとも菅原が京極の近くにいるということである。菅原の描写がないのでわからないが、兵力は失われたと壬生が判断する可能性はある。自首するなら兵力もなにもないが、いま書いてきたかれの社会的価値、守るべきカリスマのようなものが、すでに無意味になっているとしたら、また犬飼を売るという選択肢も出てくるかもしれない。それならそれで、九条にはダメージはないだろうが、もしここでまた売られたら、今度は犬飼が、あることないことしゃべってしまうだろう。あとは鍛冶屋と嵐山の動きがどうなるかだな。

 

 

 

 

 

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第146話/丁度よい

 

 

 

 

これまで隠してきたという全力の10秒を示すべく、宿禰は改めて試合を組むよう光成に依頼、負け続きの身でそういうことを言い出す宿禰にイラついたためか、光成はバキの名前を出す。むろん、それでかまわない。そしてバキもそれを電話ごしに承諾、試合成立となるのだった。

 

当日の宿禰のウォーミングアップは徹底的なもので、発汗の感じは試合中か終了後のものだ。彼のいう全力の10秒は、おそらく11秒目には動けなくなるようなものとおもわれる。当然、からだの状態は完全にあたたまっているものでなくてはならないわけである。

たほうのバキは仮眠どころか熟睡レベルで横になっている。御手洗さんに時間だと声をかけられ、大きくて伸びて長いあくびで息吹ばりに息を吐き出す。柔軟っぽいことをするのかと思いきや、すぐにふわりと立ち上がり、首にタオルをかけて出発しようとする。普段着のままなのだ。さすがに御手洗さんが不思議がる。アップをしないばかりか、スニーカーに長ズボンの普段着のままなのかと。バキは、こっちのほうが実戦かなと、はっきりした考えがあるわけではないようだが、直感にしたがうようにしてそうしているようだ。それを御手洗さんが笑いながら「寝起きくらいが丁度よい・・・と」みたいに言い換える。いちおうバキは、そこまでは言ってませんよという。

 

闘技場にあらわれたバキに歓声があがるが、実況とあわせてすぐにバキの普段着の異様さが指摘される。会場にはすでに宿禰がおり、全身滝の汗のまま、ぴょんぴょん飛び跳ねてアップし続けている。あまりに対照的な両者に、観客たちはそれぞれの動揺を見せている。客席のうしろには花山、独歩、克巳がきているぞ。

 

立会人の合図とともに、宿禰は大きく跳躍、巨体をおもわせない身軽さで音もなく着地して位置につく。向き合うと改めて体格差が明らかになる。体格差っていうのかなこれ、バキの頭は宿禰の廻しくらいの位置だ。

 

急な試合の申し込みを受けてくれたことについて宿禰は礼をいう。丁寧な口調だ。バキは、チャンピオンは断れないからと、すごいふつうの態度だ。

いつもどおり、立会人が武器の使用禁止など告げ、試合がはじまるのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

花山と独歩はバキの調子がいいといっている。バキは達人であり、いつでもベストであると。

 

はなしとしてはほとんど進んでいないので、前回考察がそのまま通用する内容だった。かんたんにまとめると、バキは宮本武蔵直系の実戦ファイターで、宿禰は、武蔵が作り出した非常に大きな最強戦線の文脈、それこそバキ世界全体を覆うような流れからはずれた(というより厳密にはそれ以前の)古代ファイターということになる。実戦性をとことん追求していった武蔵系では、ウィーミングアップはいかにもアスリート的だが、そもそも宿禰はそこに与するものではない。だから、宿禰のアスリート的ふるまいは、実はぜんぜんアスリート的ではない。バキ世界的な文脈で「アスリート的」というときは、まず武術系の思考法が善としてあり、それの反対命題としてあらわれるものとなる。武術的もアスリート的も、少なくとも評価という意味では、単独ではあらわれない。ところが、宿禰の時代には、武術的を形成した武蔵の系譜も、またもちろんスポーツ的なものもなかった。いってみれば、人類が武蔵以前に格闘技の文脈で採用した最初の方法を、彼はとるにちがいないのである。武蔵的実戦に慣れ親しんだファイター、またわたしたち読者は、いかにも宿禰のありようは非実戦的で、スポーツ的にみえるかもしれないが、そういう評価のものさしがない時代の様式を、彼はまっとうしているだけなのである。

そして、これはじっさい自然なふるまいでもある。というのは、武蔵的な流儀のうちでは、おそらくこれから宿禰が実現するにちがいない「全力の10秒」という身体表現は、不可能とまでいわなくても、なじまないからだ。まず、いま宿禰がやっていることから推測できるように、「全力の10秒」には徹底的なウォーミングアップは欠かせない。バキがげんにそれをしないことで示しているように、日常すべてを闘争と想定するような武蔵的実戦の世界では、こうした発想は生まれてこないのである。また、仮に「全力の10秒」が実現できたとして、万が一それで倒しきれなかったらどうするのかということを、古代相撲は考えていない。オリバ戦でわずかに見せた、通常の出力を上回るパワーを引き出せても、それであのように倒れてしまうのであったら、負けてしまうわけである。武蔵的な流儀が「全力の10秒」にたどりつくということは、このように考えるとまずありえないのだ。というか、それをする理由がなにもないのである。

しかるに、武蔵以前とはいえ、闘争に身をおいていた古代相撲の力士たちは、これを実現する。両者でなにが異なっているのかというと、勝敗観なのではないかということだ。武蔵流が「全力の10秒」をそもそもやろうとしないのは、勝つため、そして負けないためである。ウォーミングアップをしなければ引き出せない技なら、それは備わっているとはいいがたいし、失敗したときに負け、悪くて死亡が決まってしまうような技は不完全であると、武蔵的な思考法はとらえる。しかし、これはそもそも、勝つこと、また負けないことがが最善であるという前提があってのはなしだ。そうでない闘争も、かつてはありえたのかもしれないし、あるいは、神話の世界という彼らの出自が、そのふるまいを様式的なものにこだわらせるのかもしれない。そのあたりはじっさいの攻防を見てみないことにはわからないが、ただ、ややこしいのは、宿禰がそれでいて絶対の勝利を望んでいる、もしくは宣言しているということである。もともと、宿禰や蹴速は、バキたちとはちがう勝敗観をもっているようなところはあった。なんというのか、ギラギラしていないのである。蹴速の仕切り直し理論などは、「勝ち」を求めているがゆえの屁理屈であるともとれたが、それにしても、ほかにやりようはあるだろうとはおもわれたわけである。なんというか、どこかうぶなのだ。こうした先に出てきた宿禰の、まだ見せていないものを見せることができれば勝てるという宣言は、どう受け止めればよいだろうか。ひとつには、やはりジャックやオリバらとたたかった経験が大きいのである。勝ちへの貪欲さと、そのためになにをすればいいのか、どうものを考えればよいのかということを、彼は知ったのだ。そうしたところで、勝ちへの欲望が生じたのかもしれない。だが、おもしろいのは、そのために、つまり「勝ち」を得るために、「勝ち」に貪欲な格闘技者たちのありようにはならないという点である。彼は、勝利よりもそこまでの過程を重視するような古代相撲スタイルのまま、勝利を求めるのだ。ここのところからは、前回見たように、じしんの存在価値、またよって立つところの古代相撲というものの自負、そしてそれを証明したいという欲望が見て取れる。古代相撲は、たしかに、「勝ち」を最善としたものとしては設計されていないかもしれない。しかし、だからといって勝てないということではないと、こういう着想なのではないだろうか。

 

 

 

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第145話/ウォーム・アップ

 

 

 

 

 

オリバに敗北した宿禰は、実は知り合いだった蹴速と会食、これまでたたかってきた格闘家たちにはまだ見せていないぶぶんがあるとする。格闘家たちは格闘家たちで、じぶんとはちがった育ち、理念、原理でたたかっており、学ぶところは多かった。それに気遣いもしていたという。そうもいっていられないと、バキ道開始当初さかんにいわれていた例の力士にとっての全力の10秒のはなしを蹴速が持ち出し、けしかけるのだった。

光成と会談する宿禰は、相手は誰でもいいという。ジャックに負け、オリバに負けたばかりの宿禰がそういうことをいうものだから、光成もちょっとイラッときてしまったのかもしれない、よりによってバキの名前を出す。宿禰のこたえはかわらない、そしてバキも、携帯の電話口で即OKするのだった。

 

電話を切る光成。光成がスマホをつかっているのがなんかじわじわくる。お年寄り用の使いにくいアレ使ってんのかな・・・。

宿禰は試合が即決まったことに驚いている。即決どころか、退屈していたからありがたいというのがバキの返事だ。宿禰は「退屈」しのぎの言葉に引っかかっているようだが、光成がいうように、バキはああみえて地下闘技場の王者で、敵なしの人間だ。次のたたかいは2度目だということを強調する宿禰だが、光成はあれはリハーサルにすぎないという。じっさい、バキは合気っぽいかわしかたとかトリケラトプス拳とかで遊んでる感じがあり、宿禰としてもなんかよくわからないままごまかされたみたいなところがあるのかもしれない。宿禰はまだバキを知らない。だがそれは向こうも同じである。バキどころか、誰も知らない。そういうはなしなのだ。

 

光成は10秒の件を持ち出し、10秒で終わらせるつもりだということをバキが知ったらどうするかななどという。10秒で終わらせるというのは、試合が10秒というより、全力の動きが10秒間持続するということだろうが、戦術のいちぶではあるだろう。だがいってもいいと宿禰はいう。結果は変わらないからと。たんに自信のあらわれなのか、それとも、彼が見せていないというその姿の本質にかかわることなのか、それはわからない。

 

当日、東京ドーム地下、宿禰はめちゃめちゃにからだをあっためている。いきなりフルパワーを出さなければいけないのでしかたのないことかもしれない。光成はマイク・タイソンのことを思い出していた。タイソンも十分すぎるほどのウォームアップから、1ラウンド目のケタはずれのパフォーマンスを生み出していたのだ。

10秒の件は、光成はちゃんと伝えたらしい。バキのリアクションは、そうですかと、ひとことだけだ。本音はどうだかわからないが、宿禰はさすがだとする。

 

たほうのチャンピオン、いつもの御手洗さんが腕時計を見て時間を知らせる。バキは、バッグを枕にして仮眠をとっているのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

開始前から対照的なふたりである。

宿禰の隠しているものがいったいどういうものなのかわからないので、ここまでの描写がなにを表現したものかということも、まだなんともいえない。両者は、ウォームアップということにかんしてまったくちがう考えかたをしている。ふつうに考えると、宿禰の「全力の10秒」は、ぎりぎりまでからだをあっためることでようやく出現するものだとおもわれるので、この行為は自然だが、バキ的な実戦の観点から、これはいかにもアスリート的であり、非日常である。いつでも「全力の10秒」が出せるようにからだをあたためておくことなんてできないからだ。だとするなら、実戦においてはバキのようなふるまいが正しいことになる。しかし、それでもしバキが敗北したときには、それをどう受け止めればよいのだろう。実践的な日常の準備は、スポーツ的な非日常の準備に勝てないということになってしまうのだ。

 

前のバキ対宿禰がどういう内容だったかぜんぜん思い出せなくてじぶんの記事を読み返して、ついでに思い出したのだが、そのころぼくは、バキを武蔵の系譜につらなる闘争のリアリズムの先端にあるものと考え、宿禰をそれ以前の原闘争的なものに取り組むものと考えていたようである。第26話あたりでそのはなしをしているのだが、読み返してもいまいちそのときの考えのリズムがつかめなくて、ポイントがどこかわからないのだが、おもえばいまから行われるものも「バキ対宿禰」なのであるから、同様のことが引き続きいえるかもしれない。

 

バキは、武蔵的なリアリズムの先端にいる。これは、イメージ的なもので説明するなら、小細工を弄してでもとにかく勝ちを奪うというスタイルのことだ。ともかく勝つこと、それだけが重要であり、過程はどうでもいい。だから、倒れている相手にとどめをささない、みたいなことが、武蔵ではありえない。このへんの議論はバキではいやというほどくりかえされてきたし、あんまり思いだせないが、ここでもいやというほど熟考してきたはずなので、読者のみなさんは、記憶力に難のあるぼくなんかよりよほど論点を理解していることともうが、ともあれ、武蔵的な視点でいえば、過程はどうでもいい。そこと、小細工や卑怯さは直接的にはつながらないが、武士道やスポーツマンシップ的なものと親和性の高いこうした闘争においてふつう厭われるそのようなスタイルが自然に馴染むという点において、やはり無関係とはいいがたいだろう。

だが、「武蔵的なもの」の居場所は、現代にはもはやない。ルールの整備や格闘技術の洗練により、「武蔵的なもの」は、理念レベルでも技術レベルでも、すでに克服され、内面化されている。生殺与奪の権について語られるときには、つい「殺」や「奪」のほうに目がいきがちである。おそらく、そうすることによって変化したものは、もとにもどすことができないからだろう。だが、言葉をそのままに観察すれば、この権利はどの向きにおいても等価のはずだ。とどめを“ささない”を選択した、相手を生かす権利を行使したと、このようにとらえ、ルールの内側にその思想を宿したものが、現代の流儀なのである。なぜなら、殺し、奪って、物事を復元できない状態にすることは、法治国家では認められないからである。これらの発想の背景には法律や社会といった、異なるひとびとと暮らす平和な共同体というモデルが自然に描かれているのだ。そのあとに、自然な感性のままにみればより強い意味をもつとおもわれる「殺」や「奪」は鈍化し、並びのそのままの価値になっていく。そこで、近代格闘技は「生」や「与」を選択できるようになったのである。

こういうしかたで現代のファイターは「武蔵的なもの」を内面化している。バキたちのような実戦派ですらそうなのだ。これを、武蔵から牙をぬいたような状態とみる向きもあるだろうが、おそらくそうではないのであり、それこそが、前作『刃牙道』で描かれたことだったのである。(詳細はすごいがんばって書いたまとめがあるので読んでください。超長いけどおもしろいよ)

 

 

 

 

 

 

では宿禰はどうなのかというのがわからないわけだが、ふつうに考えると、彼は武蔵以前の世界の流儀を継いでいるのだから、この血統からははずれていることになる。それが、彼や蹴速に多くを学ばせたのだ。でも、今回のたたかいではこの学びはあんまり関係ないっぽい。そうではなく、彼らが知らないものを見せてやるという感じが、どうやら強いようだ。以上のように考えてみると、それこそが、武蔵がつくってしまった「武蔵的なもの」により、むしろ排除されてしまった闘争の姿が、そこにはあるのではないかとおもわれるわけである。それこそが、「全力の10秒」なのだ。「武蔵的なもの」は、結果だけが重要なので、たとえば不意打ちとかもOKである。だから、日常すべてが闘争の前段階になり、「ウォーミングアップ」という概念が消失する。結果として、宿禰がこれから発動しようとしている「全力の10秒」という、人生そのものを燃焼してしまうかのような燃費の悪いファイトスタイルを、完全に失ってしまったのだ。じっさい、武蔵的な意味でいえば「全力の10秒」は実戦的ではない。ウォームアップをしなければ使えないということは不意の攻撃に対応できないということだし(「不意の攻撃」がそもそも武蔵的なわけだが)、もし相手を倒すのに失敗したら、11秒後からはただやられるのを待つだけの時間が過ぎていくのである。このスタイルは、明らかに「結果」をそれほど重視していない。結果、つまり勝敗を重視するなら、このスタイルにはならない。彼が重視するのは、10秒間全力を出せたということ、そしてその出力がすばらしいものであったということ、それだけのはずだ。この発想はすこし儀礼的でもあり、短絡的だがいかにも神事にたずさわるものの考えという感じもする。だが宿禰はさらにここに「絶対勝つ」という結果を伴わせようとしているのである。この最後のぶぶんは、おそらく、彼がいままでたたかってきた、バキや勇次郎、ジャック、オリバの影響だろうとおもわれる。蹴速なんかは仕切り直し理論を用いて「最終的に勝てばいい」みたいな感じだったわけだが、宿禰はもっと勝ちを志向するのである。

 

勝ちを目指し難いスタイルで勝ちを目指す、それがなにを意味するかというと、存在価値ではないかとおもわれる。宿禰が、たんにじぶんの勝利を願うだけなら、格闘家的スタイル、武蔵直系スタイルに学べば済むことだろう。あれだけの才能の持ち主なのだから、すぐ連勝ファイターになれるはずだ。だが彼はそうしない。それは、武蔵以前のじぶんお古代相撲的ありようこそが真に価値あるものだという自負があるからだ。つまり、ここでいわれている「勝利」は、一般的な意味とも少し異なっている。わるくいえばもっと幼稚な、「じぶんの古代相撲スタイルのほうが優れている」というような願望のあらわれなのである。優れたスタイルなのだから、それをしっかりやれば勝つに決まっている、そういう考えなのではないかとおもわれるのである。

 

 

 

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第76審/至高の検事⑫

 

 

 

 

更新遅くなってしまってすいません。

九条と壬生が合流したところだ。壬生のそばには犬飼がいる。京極の息子・猛を殺した犬飼らはラブホテルに潜伏していたのだが、部屋から出て公衆電話から連絡をとってきた犬飼に、壬生はすぐそこを出るようにいっていた。伏見組の指名手配がかかっていてホテルには顔写真がいっているにちがいないというはなしである。それで犬飼はあわてて(たぶんそのあしで)逃げてきたのだが、壬生の予感は的中し、ホテルにはヤクザたちが乗り込んでいったのである。犬飼は海外に逃亡できるかどうかだけ考えているので、最初九条を密入国の業者かなにかとおもっている。

 

まず委任契約だと九条はいう。要するに逮捕された際の弁護をするということだろう。だが犬飼のぶんの書類はない。犬飼は京極の息子を殺したものであり、それを弁護すると、別の依頼人である京極と利益相反になってしまう。というか、そんなこと以前に、犬飼の態度は悪すぎるし、立場がわかっていない感じがありありだ。

海外逃亡するといっても数百万円しかない、その後どうするつもりかと壬生は犬飼を諭すようにいう。他のふたりはラブホ以来連絡がついていないが、いつでも逃げれるように靴をはきっぱなしにして、金も三等分したと犬飼はいう。それを壬生は甘いという。いまごろふたりは拷問されて居場所を問い詰められているにちがいないと。数百万しかもっていないという見通しの甘さを突きつけられて、犬飼は、しかしじぶんはこれくらいのことを考慮して行動してきたと、ぬかりのなさを伝えるつもりで靴のはなしなどしたわけである。だが、壬生からすれば全体的に大雑把で見通しが甘いというわけだ。

犬飼の連れは、壬生のいうように捕まって、どこかの廃屋であちこち切除されているところだ。猛殺しの依頼人と同じく、鼻や指を落とされ、たったいまスプーンで目玉をくりぬかれたところである。耳や舌が無事っぽいのはいま問い詰めているところだからかな・・・。

 

 

犬飼が黙ったところで、いつものように九条が「独り言」をいう。死体遺棄で出頭しろと。壬生は3年、前科のある犬飼は6年で出てこれる。犬飼は文句をいうが、人を殺して6年なら安いと壬生はいう。そもそも壬生は殺してないしな。犬飼はこの件にかんして特になにもしてないのに3年いくことになる壬生のことを少し考えてほしい。仲間も生きているなら出頭して黙秘、死んでいればそれはそれでヨシ。

死体を埋めるのにどれくらい掘ったのかと、九条が具体的なはなしをする。犬飼は動物に掘り返されるのを考慮して150センチくらい掘ったと。ハブサンは3メートル掘ってたけど、浅いぶんにはバクテリアが繁殖しやすくていいらしい。ともかく、それなら1年後には白骨になっているか、なんらかの理由で腐敗を免れて死蝋化するという。白骨、もしくは死蝋なら、検察は起訴しないのだという。死因がわからなければ殺害と死体を結びつけることはできないからだ。死蝋でもそうなるというのはよくわからないが、まあそういうことなのだと了解しておこう。とにかく、証拠がない状態で完全に黙秘する、それしかないというのが九条の考えだ。壬生は犬飼に、1年くらい逃亡してから出頭したらどうかなどといっている。

 

ここからが本題だと、九条は独り言を続ける。京極の武器庫の場所は知っているかと。知ってるもなにも、預かっているのは壬生だというはなしである。九条は、それをもって出頭するよう伝えるのだった。

 

壬生にいわれて兵隊を集めた菅原は、夜明けまでそのまま待っていたようだ。腕組んで駐車場に散って立っているモブマッチョも、夜明けまで腕組んで駐車場に立っていたようだ。見上げた忍耐力だな。

 

艮が乗ったトラックの突っ込んだ壬生の工場には嵐山たちがきて調査している。防犯カメラですでにドライバーが伏見組の元構成員であることはわかっている。伏見組と壬生がなんらかの事情でもめていることはまちがいない、両方つぶすのにいい流れだと嵐山はいうのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

ほんとに最終章なんじゃないかっていう展開だ。誰かが誰かを出し抜いて、負けたほうが舌打ちして終わる、ということにはならなそうだな・・・

 

今回は久々に九条の悪いところが見えた感じだ。これまでけっこう繊細な描かれかたが多かったので忘れていたが、九条は表面的にはこういうことをしているんだよということが非常にわかりやすく見えるとおもう。

 

現状では壬生は菅原の兵力を使って伏見組と戦争をはじめるようなところにまでなっていた。しかも、今回わかったところでは京極の武器は壬生が預かっていたというからすごい。京極としては、壬生の居所がわからないというのはかなり大きかったわけである。ヤクザは組織なので、じっさいに戦争がはじまってしまったらとても壬生たちの勝てるものではないわけだが、武器がないとなれば、モブマッチョをあれだけ集めている状況で、しかも朝まで腕組んだままじっとしていられる忍耐力のある連中なのであるから、伏見組壊滅くらいまでいった可能性がある。だがそれは九条としても避けたかった。壬生の友人として、ということも少しはあるだろうが、いくらなんでもその状況に一枚かんでいる弁護士という立場は厄介すぎるわけである。

 

もし戦争が起きて、京極が死に、壬生が逮捕や指名手配ということになったら、伏見組の実質的顧問みたいな立場だった九条はかなり有名になってしまう。週刊誌とかにも取り上げられるだろう。これは、九条というより兄の蔵人のほうがおそれていた状況となる。彼の同僚たちがうわさしていたあの状況というわけだ。だがもちろん、彼が兄のためにそういうことをしたのだということではない。九条は九条の考えのもとに、今回の作戦を指示したにちがいないのだ。それはどういう考えかというと、当たり前のことになるが、はなしが大きくなりすぎる前に、要するにどうにかなる段階でなんとかしようというだけのことだ。そして、壬生と犬飼が出頭を飲む限りで、じっさいこれはどうにかなりそうである。犬飼の連れにかんして死んでいたらそれはそれでいいとしたり、猛の死が死という事実の重みをまったくともなっていなかったり、なにか不良弁護士的な当初の九条のイメージそのままという感じの今回の言動だが、こうみると、彼はたんにこの先おこりうることを予測して、しかもそこにじぶんがどうかかわる可能性があるのかということを見通して、解決可能な段階に事態を押しとどめただけなのだということがわかるし、そもそも弁護士的観点というものは法律文書的に事物を統一的に観察する立場にあるものなので、語の感触としては非常に冷たく感じられても、現実にとられうる言動というものはこんなものなのだろう。

 

ただ、それだけではなさそうにおもわれるのが、武器庫の件である。壬生が6年刑務所に入るというはなしの時点では、その間の壬生の安全を確保するというようなことかともおもわれたが、最後に唐突にこういう発言が出てきたわけである。武器庫の武器をぜんぶ警察にもっていくことがなにを意味するのかはわからないが、九条が考えなければならないことはおそらくふたつあった。ひとつは、6年壬生の安全が確保できたとしても、では7年目はどうするのかということであり、もうひとつは、もう悪い連中とつきあうなという烏丸の忠告なのである。武器庫の件は、このふたつを同時に片付けるものとおもわれる。壬生がいないあいだ、京極が九条を放っておいてくれるということはない。それどころか、アウトローとの付き合いという意味では壬生というはなしのわかる緩衝材がなくなるぶんもっと悪い環境になるだろう。壬生は、まだマシなのだ。このばあい、九条と壬生の利害は一致することにもなるから、壬生からも文句は出ない。ただ、そうすることによってなにが起こるのかは、わからない。そのことによって嵐山に京極を逮捕させるつもりなのか、ヤクザとして丸腰にして弱体化させるだけなのか、それは不明だ。だいたい、逮捕されたとしても、6年以上捕まっていてくれるとも限らない。壬生が出頭するということは、6年の安全とともに、猛の件について関係していることを認めることにほかならず、報復は避けられないわけで、この問題はどうしても解決しなくてはならない。そこに関係しているとはおもうのだが、結果どうなるかはわからない。

 

犬飼の連れは指や鼻を落とされ、目をくりぬかれていた。しかし耳や舌は無事なようである。これはおそらく、コミュニケーションをとるためとおもわれる。耳は、京極の質問を聞くために残り、舌はそれに応えるために残る。それ以外は不要ということだ。このとき、犬飼の連れは、ただ京極の目的のためだけに存在する人間ということになる。彼はもはや主体性をもつことができない。見られはするが、なにかを見るということはできないし、なにかに触れたりにおいを嗅いだりすることもない。耳がなにかの音声を拾い、舌が叫び声をあげることもあるだろうが、それも監禁という状況により封じられる。相手の主体性を削ぎ、じしんの主体性を誇張して表現する、それが彼らの拷問の手法である。犬飼の連れを問い詰めても、彼らは犬飼の場所は知らない。せいぜい、出かけるときに壬生の名前を出していたということをいうくらいであり、それはもう京極にはわかりきっていることだ。だが、どちらにせよ、2週間この苦痛は続く。そうして、痛みの交換様式において、京極は必ずじしんの回収額がもとの損失を上回るよう構成する。そうすることにより、ほんらい後手にまわる「報復」という行為を、まるでそれが運動の出発点であるかのように示すのである。この「主体性の奪い合いゲーム」が、彼ら悪い大人たちにとっての基本的なルールとなる。そして、この思考法は蔵人の「言葉」による全能感にも通じるものだということを、2回くらい前にむりやりこじつけて考えた。これまではピアノの鍵盤を例にして、シとドのあいだにある音を聴き取ろうとするのが九条であり、そんなものは存在しないか、存在するとしてもシかドのどちらかであるとするのが蔵人であるというふうに書いてきた。これは、数字にもたとえることができる。この世界を自然数のみで構成されているものとするのが蔵人で、小数点以下まで想定するのが九条であるというわけだ。そうして、じしんの信仰するルールに読み替えるという蔵人のしぐさが、アウトローたちの主体性問題と響きあうわけである。ただ、かといって延々無理数を小数点以下無限に読み込んでいくというわけにはいかない。どこかであきらめるなり四捨五入するなりして区切りをつけなければならない。芸術家なら、それを別の器に入れ替えて、無限に続く小数点以下の数字を保留したまま表現できるかもしれない。だが九条もまた蔵人と同じ法律家だ。どこかで彼はそれを発声可能な数字にしなければならない。それが「落としどころ」である。『九条の大罪』は当初「性格が悪い」という煽り文句とともに連載を開始していた。その印象は、まさしく今回描かれたような不良弁護士、悪徳弁護士というようなものだったわけだが、現実の彼はそうではなかった。そうではなかったが、同時にそうでもあった。それが今回の描写である。円周率は無限に続く。しかし、それでは計算が不可能になる。3とするなりパイとするなり、計算が可能なかたちにしなければ、解は得られない。それを行うとき、彼は今回のようになるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『82年生まれ、キム・ジヨン』のチョ・ナムジュの短編が、3月に翻訳されて出たんだけど、期待していた以上によくてうれしい。





実をいうとキム・ジヨン以降の小説も出てるのは知っていたのだけど、買ってはいなかった。最近最後まで読めないことも増えてて(読み途中の本が何百冊もある)、短編はそのあたりそんなに気にしなくてもいいし、もともと短編小説という様式が好きなので、今回ようやく手にとれた。

だから作家単位での変化という意味で読むことはできないので、最近はどの作品もそうなのかどうか、そのあたりもわからないのだけど、期待した「以上」という量的な驚きというより、どちらかといえば期待したものと違った感触に驚いているのだった。ちょうどいま一緒に読んでる(というほど読めてないが)チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『なにかが首のまわりに』という短編集と非常に雰囲気が似ていることにも驚いた。




文体にかかる社会的規範性のようなものに目配せしつつも、女性たちの人生を、ただ女性的な属性に投げ込むのでなく、つまり、たとえば「虐げられる女性」というモデルケースとして描くのではなく、個別に、親密に描いていく、そんなスタンスが近いので当然なのだろうが、それにしても、だとしたらこの喪失感っぽい感覚の正体はなんなんだろうなと。

読み終えることができたら記事にしたいのでここではあまり深く追求しないが、どうも「連帯感」なのではないかなという気はしている。これが深いシンパシーを生む。一般に使われるときの「共感」という状況は、閉じたものになる。わたしがあなたに共感するとき、わたしの「共感」という感情作用のなかに、じつはあなたはいない。ただ、あなたをきっかけに、わたしが、わたしの経験を、記憶を思い出しているだけなのだ。だから、ある種ヒーリング的な効果は認めざるを得ないとしても、「共感」はコミュニケーション的なものからははるかに隔たる閉鎖的感情なのである。ではこのシンパシー(本作における共感をこう呼ぼう)はなんなのかというと、連帯感なんじゃないかなと。





連帯感についてどこかでくわしく考えたような…と調べたら九条39話が出てきた。まあまあよく書けてるので読んでもらえればよいが、ひとことでいえば、本質的なことがらに関する連帯は深いシンパシーを呼び込むということだ。女性が連帯するのと労働者が連帯するのはだいぶ異なる。女性が女性と連帯するとき、そこには癒し難い傷みたいなもの共有の感覚が、まずある(そうではない、とするのがボーヴォワール以降なわけだが)。けれども、それらをたとえば「傷ついた女性、ほかならぬ女性」として描くのは、やや循環的だ。彼女の傷は彼女のもので、ほんとうの意味で「わたしの傷」のように感じることはできない。「共感」はなにも意味しない。でも、「私は偶然生き残った」感覚もまた否定できない。そのはざまに生まれる文体が、本書のものであり、アディーチェのものなんではないかと。描かれている対象との、少し遠い感じのする距離感は、その人物個人に対する敬意のあらわれであり、それでもなお連帯を続けようとしたとき、こうした喪失感やふたしかさのようなものが現れるのだ。







キム・ジヨンはなにを描きなにを告発するのかに意識的でありつつも、小説としてどうこうという以上の意味を持ちすぎてしまった(本書収録「誤記」はそういうはなし)。そのつもりで書かれているからといえばそうだが、つまり、仮にこのはなしにこころ動かされたとしても、作品がもたらしたものが逆流することで完成した物体としての書籍の価値みたいなものが、エモーショナルかというとちょっとそういうことではないとかぶせ気味に邪魔してくるのである。それで悪いということではないが、しかしこの新しい短編を通しては、フェミニズムにかんして文学になにができるかということにかんして、一歩進んだ感じがする。




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