すっぴんマスター -33ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第72審/至高の検事⑧

 

 

 

犬飼が京極の息子・猛を葬ったころ、京極は九条を訪ねていた。てっきり不透明なお金を隠すためかとおもっていたが、純粋に息子をおもう気持ちもあるようで、京極は財産を息子に預けようとしているのだ。九条は無理だと断ったが、京極は息子への愛を語って食い下がる。嵐山ら警察はいま伏見組の企業舎弟をマークして脱税で捕まえようとしているっぽい。それも理由のひとつではあるようだが、だから隠すというより、おさえられる前に息子にあげてしまいたいというところのようだ。もしあと1年で死ぬならと、京極が唐突にたとえばなしを始める。残された時間を愛するものに捧げ、生きた証を残したいと。

 

猛の拉致を依頼したもののところに犬飼たちがやってくる。チャイムを鳴らしまくり、警戒心より怒りを引き出して無理にドアの外に出させた感じだ。男が出てくるなり刃物をもった手で殴り、部屋に乱入。全財産を寄越せという。犬飼は京極の息子だとは聞かされていなかったのだ。逃げるのに金がいるというはなしだ。

男の部屋からはものすごい札束が出てくる。さらに犬飼らは男を連れ出しATMに向かう。その様子を、なにものかが遠くから撮影している。札束をとられた男は妙に落ち着いており、これは、はめられている感じだ。

 

壬生たちはモブマッチョを総動員して犬飼を探している。犬飼は壬生から逃げているわけではないのだが、まだ拉致した相手が京極の息子だとはわからなかった段階で、スマホの電源を切ってSIMカードを抜き、しばらく隠れるように指示されたため、どこにいるのかわからないのである。それとほぼ同時に猛の行方がわからないという連絡が京極から入ったのだ。なので壬生からすると、犬飼がさらったのが猛だという確証はないのだが、もうまちがいなくそうだということで行動しているようである。

車のなかで久我がこの件に関係はない心配事をくちにする。グループ内に明らかに品質では劣るのに妙に売上のよい飲み屋みたいな店がいくつかあるという。壬生は、伏見組の資金洗浄をしている店だと応える。口を割らないものを選んでやっているそうで、だから末端の久我は知らなかったのだろう。壬生によれば、毎年世界で2兆ドルの金が洗浄されており、実は犯罪組織のしめる割合は1%にも満たないという。ほかは富裕層の連中で、タックスヘイブンの国を利用し、税金逃れをしているのだ。国は取りっぱぐれたその税金を貧乏人からとる。

前の車が青信号なのに停まったままだ。久我がクラクションを鳴らすと、小さい肉蝮みたいなのが出てきてスパナで威嚇する。が、刺青びっしりの壬生がひとこというだけでミニ蝮は逃げていってしまうのだった。煽り運転やるのは心が貧しいクソだと壬生はいうが、うん? たしかにミニ蝮の車はへんなところに停まっていたわけだが、後ろから、煽る、といわないまでもせかしたのは久我のような・・・。

 

そうして、よく壬生たちが悪いことをするのに使うボーリング場の廃屋に到着。犬養が猛を拷問していたところだ。GPSかなんかで最後の居場所がわかった感じかな。そこには猛の顔を覆っていたビニールが落ちており、血がたくさんついている。最悪の状況に備えて行動しようということで、壬生は猛が死んだと断定するのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

はなしとしてはまだ過渡的な段階だが、大人たちがいろいろ動き始めた感じだ。

壬生は犬飼のことをどう見ているのだろうか。ふつうに考えると、誘拐を依頼されて、特に調べもせず、相談もなく実行し、それが京極の息子だったということもナチュラルに連絡なし、独断で殺して埋めてしまう、というのは、そうとうに厄介なもの、ヤクネタである。

だが、厄介どころか、犬飼はそもそも壬生に殺そうとしていた人間だ。それを壬生は飲み込み、味方にした。この動機がはっきり見えてこないことには、壬生の感覚というのはうまく読み取れないかもしれない。

 

犬飼は菅原とともに壬生から金を奪おうとして大勢のモブマッチョとともにこれを包囲した。しかしモブマッチョはすべて壬生に寝返っており、逆に彼らはやられてしまった。菅原は仕事のできる男であり、若い不良への影響力という点でも殺しには惜しい男である。こういう意図でもってか、壬生は菅原を殺さず、協力するよう求めた。犬飼に関しては、壬生に依頼された殺人で10年も刑務所にいたことについて、詳細を知らされていなかったり、面会にこなかったりといったもろもろを含めて犬飼は恨んでいたわけだが、それもこれもじぶんの選択である、という自己責任論で壬生はこれを一蹴した。だが、バカがバカのままバカをした、というふうには片付けず、京極を乗り越える夢を語り、壬生は犬飼をも、心服といかないまでも納得させ、引き入れた。以上が経緯となる。

あの場面におけるいちばん大きなポイントは、菅原がいたということだろう。壬生襲撃の現場に菅原が関わっているかどうかで、壬生の行動も、展開も大きく変わっていたにちがいないのだ。もっとはっきりいってしまえば、いまの展開では壬生はかなり犬飼に感情移入というか赦しの態度をもって接しているが、もし菅原があそこにいなかったら、ふつうに殺していた可能性もかなり高いのではないかということだ。それくらい、菅原は大きい存在のはずである。まずキレモノである。久我が壬生を慕うように菅原を慕っている若い不良も多いはずだ。壬生は、失われるものと手に入るものを、菅原を殺したときと生かしたときで比べて、けっきょくは仲間にしようということになったにちがいないのである。

以上のことを考えあわせると、壬生は「菅原を生かすことで手に入るもの」をそのまま保存するために犬飼を殺すわけにはいかないという結論に至ったということになる。「菅原はほしい、でも犬飼はヤクネタだからいらない」ではだめだったのだ。菅原を求める以上、犬飼も救わなければならない、そうしないと一貫性を欠く、そういう状況だったのである。そうでないのなら、壬生は菅原がいなくても犬飼を助けていただろうと、こういうはなしだ。

ひとつ浮ぶのは、一種の感情移入ということがある。じぶんが京極の犬であるように、間接的には犬飼もそうである。つまり相似形なのだ。だが厳密にいえば壬生は犬飼には感情移入していない。というか、いっさいのその手のコミットメントを自身に封じているようなところがある。菅原を仲間にして大きな存在になろうというはなしについても、なにかファミリーのようなものが想定されているわけではない。わたしはわたし、あなたはあなた、というような冷たさはどこまでも残っている。だからこれは壬生の行動の原因となっているというより、むしろ犬飼に対する説得材料のようなものにおもえる。犬飼が「小さいじぶん」だから助けた、というのは順序が逆のようにおもわれるのだ。

ではなぜ壬生は犬飼を助けたのか。もっと厳密にいえば、菅原を助けたことによって生じた「犬飼を助ける理由」はなんだったのか。また、菅原が関与していなくても犬飼は助けられたとして、ではその理由はなんなのかということだ。

前者、菅原を助けたことによって生じた「犬飼を救う理由」は、やはりパフォーマンス的な意味合い、「どう見えるか」という点について考えたほうがいいだろう。壬生が菅原ばかりか犬飼まで救うことでなにが表現されているかということだ。大きなものは、その野心と懐の深さだろう。あそこにいたモブマッチョたちはそれだけのことをしてでも京極を乗り越えようとしている壬生の決意を読み取ったことだろうし、清濁あわせのむ男っぷりをみて信頼も新たにしたはずだ。そういう、リーダー的な人物が表示すべき「大人の態度」のようなものが、ここでは表現されていると考えられる。役に立つから、という理由で菅原だけを救うのと、理由については明確にせず両方救うのでは、印象がかなりちがうのである。この考えでいえば、菅原がはなしに関与していなくても、犬飼もまた、単独で救われていたかもしれない、ということにもなる。どうしても壬生が金本を殺している件が引っかかって、ほんとうにそうなるかなという気にもなるが、あれは金本のせいで伏見組の幹部が逮捕されてしまったからである。おそらく京極が命令したのだろう。

 

そうしたわけで、壬生にとっては犬飼がヤクネタかどうかというのはどうでもいいことなのかもしれない。というより、不良たちを取り仕切っている以上、なにもかもが起こりうることなのだ。その低体温的なあきらめの感覚が、壬生の個性といってもいいだろう。菅原たちを引き入れたあのときの壬生のふるまいがパフォーマンス的なものだということは、いわば外部からの評価であって、壬生じしんがどういうつもりだったのかということはわからない。おそらく、ここに至るまでの修羅場で身についた、正解を引くための自然の行動なのだろう。だがその行動原理はなになのかというはなしだ。壬生にかんしてこれまで語られてきたもので唯一確実なのは、自己責任論である。これは犬飼だけでなく、数馬にも語っていたことだ。じぶんの頭で考えて、じぶんで決定せよということである。自己責任論というのは通常、一般化ができない。他人に求めることができないのである。自己責任を語る際に登場する人物は自己ただひとりだ。通常、ある理論を一般化するとき、事物は統一的な単位のようなもので想定される。ところが自己責任論が問題にするのはそれをくちにする「自己」のみである。自己が自己をどう感じているかということだけを手がかりに立論しているのである。だがこれは、逆にいえばじぶんがじぶんに語りかける際、つまり戒めるときには、有効であることもある。そしてこれをさらに広げて、対象が愛するもの、じぶんの分身のようにおもえるものであるときも有効だ。つまり、親にとっての子や、教師にとっての生徒である。こういう状況であれば、一般化できない自己責任論が誰かに語られるという状況も生じうるのである。

壬生は「じぶんの経験」が相手にも当然生かされるものだと考えるタイプの蒙昧ではない。おそらくは相手を買っており、もしかすると自分と似ていると、そのように考えたとき、彼はこれをくちにする。じっさい、数馬についてはそんなところがあった(と書きつつ、壬生はどこまでも本音が見えないので、わずかには疑いもある)。壬生が犬飼についてどのように考えているのかは、数馬以上によくわからないわけだが、諸悪の根源は京極なのだとはしても、たしかに壬生は犬飼に殺人を依頼してはいるのだし、そこに加担したことにじゃっかんの負い目はあるのかもしれない。だが、そうなのだとしても、それを自己責任論で解釈すれば、選択したのはけっきょくじぶんであり、恨みなど発生しようもないのである。そこに、壬生は犬飼の圧倒的な未熟さ、つまり「未完成」を見ているのだ。となれば、この感情は大人が子どものいたずらを赦すときの感情ということになる。もちろん、今後の展開次第では、ふたりの関係が丑嶋とマサルのようになる可能性もある。だが現段階でそれは、ただ「大人と子ども」の関係のように見える。一般化できない理屈だとわかっていても、われわれ大人はたとえば「先生のいうことは聞きなさい」みたいなことを子どもいうだろう。壬生が犬飼を救ったときの感情の回路は、これに近いのではないだろうか。

 

自己責任を原則にしつつ、それを一般化はせず、組織として巨大化していく。それはまるで社会そのものである。おのおのが自身の責任のもとに組織に属し、じぶんのあたまで考え、行動する。これを是とする壬生グループは、当然に今回のような不測の事態も最初から含んでいる。ミスや反抗をありうるものとする組織だからこそ、大きさや強度を求める壬生は、積極的に菅原や犬飼のようなヤクネタも引き入れることができたのだ。だが、このはなしは自然に、そのミスが行き着く先をそのもの個人に帰着させることになる。九条や蔵人が関わって、これから複雑になっていくであろうはなしがどこかに落ち着いたとき、壬生が犬飼にどのような責任のとらせかたをするかで、ここまで考えたことがよりはっきりいえるようになるかもしれない。

 

 

 

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どうもツイッター本社がスパムを駆逐するために行ったことの影響らしく、ぼくのアカウントも凍結されてしまった。

匿名で質問など受け付けるマシュマロを自動投稿で設定していたのだけど、どうもそういうのがよくなかったみたい。あとURLつきの投稿が多いとか。ブログ更新したらお知らせするので。それでツイッターのAIがbotと認識したのかも。そういうひとが続出していて、いまツイッター凍結祭らしい。まあ、タイムラインは見れないので(フォロー・フォロワーが0の状態になっている)、検索してみた感じるだけど(検索結果やもともと設定してる「本」などのジャンルツイートは流れてくる)。


違反という違反はないわけで、手違いといっていいとおもうから、異議申し立てはふつうに通る…はず。とりあえず、しばらくツイッターにはいませんので、そんな奇特な人はそうそういないとおもいますが、ぼくに用事があるひとはここのコメントかいちばん下にあるメールでどうぞ。


しかし、ツイッターの経営者が変わったとき、「ツイッターに何かあったらすっぴんマスター集合で」みたいなことを、たしかにいったけど、けっこうかんたんにそうなってしまったな…。このアメブロにしたところで他人から借りてる場所だし、儚いよな。賃貸じゃなくて持ち家がほしいよね。




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第71審/至高の検事⑦

 

 

 

 

犬飼が依頼されて拉致した京極の息子・猛を殺そうとしているところだ。以前壬生の携帯に表示されたときは竜也という名前だったが、変更されたようだ。

犬飼は、猛にひどい目にあわされた男に依頼されて仕事をしているのだが、彼が京極の息子だとは知らなかった。知らなくても、こちらの正体がわからなければたいした問題ではなく、適当に痛めつけてそのへんに放り出すつもりが、会話を聞かれてしまい、殺すしかないとなっているところである。とはいえ、別に切迫感はなく、穴のあいた靴下を捨てるような感覚で殺そうとしているのだった。猛は泣きながら命ごいをするが、犬飼の落ち着きはやふつうではない。

 

まわりには連れがふたりいる。ひとりは指を落とされた男だろう。もうひとりが、さすがにとめる。また数百万の金で殺人・逮捕は割に合わないと。ということは、このツーブロックの男も愛美の殺害時にいたということだ。だいたい、常識的に考えて京極の息子はいくらなんでもやばすぎる。

だが、犬飼はたんに狂気に突き動かされて殺そうとしているわけではなく、彼なりの合理性に基づいて行動しているようだ。犬飼が猛ならどうするか。助かったとなれば、身の安全を確保しつつ、当然犯人を探す。うらみをもっていそうなものをかたっぱしから拷問し、口を割らせる。あっという間に見つかってしまうというわけだ。でも殺したら警察や伏見組に追われるわけだが、難しいところだ。バレなければいいというのが犬飼の考えだ。そこで犬飼は、死刑判決がかかった刑事裁判に見立て、猛に最終陳述をさせることにする。

猛は全演技力を投入して熱弁する。威張りたくて威張っていたわけではない、ヤクザの息子はどこまでいってもヤクザの息子、なめられたら終わり。あんたらもわかるだろうと。じぶんは人の恩を忘れない、任侠道に反することはしない。それを聴いてあっさり犬飼は「身の上話聞くとやりづれーな」となっている。よくわからん男だな・・・。

だが、もうひとりの、たぶん犬飼に指を落とされた男(いま指はある)が、至高の検事として異議を申し立てる。彼は猛を知っていたようだ。そして、こいつだけは死んでいい人間だという。小学生のころから最低の男で、じぶんより弱いものは徹底的にいじめてきた。それも、犬の糞を食わせたり給食に尿を混ぜたりといったたぐいの、人権を根底から否定するようなやりかただ。高校生になると組織的に恐喝・強姦の日々、ハメ撮り動画で脅して美人局をやらせたりしていた。不良にしてもやることが外道すぎるわけだが、親が親なので誰も逆らえなかったという。まるで、その、犬の糞を食わされた本人であるかのようないいかたで、犬飼もそういう。そうではなかったが、ひどいことをされていた。元カノが強姦の被害者だったのである。そしてその動画は海外サイトに売られ、彼女は警察に被害届を出しに行く日、駅のホームでなにものかに突き落とされて死亡した。猛は知らないというが、彼は猛の手下がやったとおもっているようだ。

犬飼の連れはチェーンソーを猛の首に突き立てる。ふつうにこれで死にそうに見えるが、この場は犬飼がとめて死ななかった。なぜとめたかというと、山まで歩かせて生き埋めにしたほうが楽だから、ということだ。連れのはなしを聞いて、いっしゅん傾いた気持ちはまたもとにもどったようである。かくして、猛は生きたまま山奥に埋められたのだった。

 

九条のところにはその京極が訪ねてきている。個人資産を息子名義にできないかというはなしだが、へたすると息子ごと逮捕になるからできないと九条が断っているが、京極は心ここにあらずという感じだ。嫌な予感がする、じぶんの勘は大体当たると。

 

 

 

つづく。

 

 

 

ほんとに殺してしまったっぽい。犬飼を飼いならすことはできるのかなあ・・・。

 

今回テーマの「至高の検事」はこのはなしの最初、第65審で烏丸のくちから出た言葉で、九条は善か悪かと流木に問われ、それがわからないからここ(流木のところ)にいる、至高の検事がいたらパクられるかも、というふうに使われたものだ。「至高」とは究極の、もっとも上位のものということだが、善か悪かわからないと応えたくちで烏丸がこういっているというのがポイントかもしれない。ふつうに見ると、「検事」の価値を作中で究極に体現しているものといえば、蔵人ということになる。だが、もしかするとここでは、まだ存在していない、理解を超えた究極体としての「検事」が夢想されているのかもしれない。

どういうことかというと、厳密には対称的ではないにしても、九条と蔵人は依頼人や社会的弱者について対立関係にある。蔵人は、法律家としての生きかたをとことんまっとうするもので、文章、「言葉」ですべてを理解するものである。そもそも法律というものがそういう性質にある。ときと場合で解釈が異なってしまうとか、共有するのが困難であるとか、そういうものは国を治める公準として馴染まない。むろん、法律やその解釈はふつう難解なものとなるが、たとえば説明のうまい弁護士とかがうまく話せば誰にも伝わるとか、基本的にはそういうものでなければならない。蔵人は世界をこの「言葉」によって成り立つものと観念する。だが九条はそうではなく、あなたに、つまり蔵人に見えないものがじぶんには見えると、文学的に告げる。この表現が文学的にならざるを得ないのもまた必然である。なぜなら彼は、言葉がとりこぼすものをこそ重視し、拾って、手続きの内側に守るものだからである。このこと、つまり「蔵人には見えないものがある」ということを、条文的な鮮明な文章で語ることはできない。いやできるかもしれないが、それを理解しないものにつきつける表現としては、適切ではない。九条にとって依頼人は文芸作品のようなものである。彼はとにかくその言葉に耳をすませ、テキストを読み込む。そうして、文学を批評する感性と相似形に、しかし学会で発表する立場のように法的手続きを遵守し、しかるべき手段に出るのである。

このように、ちょうど、作品には「作者」、つまり真理、解答が存在するものとして、目前に開かれた物語を事実の結合関係として読むものと、無数の、とらえきることのできないエクリチュールの交差点としてテキストを読み込むもののように、蔵人と九条は対立関係にある。烏丸はというと、くりかえし見てきたように、基本的には蔵人側、万物を「言葉」のなかにおさめようとするものだが、それでいいのだろうかという疑問を抱えるものである。だから九条に興味がわき、いまもどうしていいかわからず流木のもとに流れ着いている状態なのだ。このうえで彼は「至高の検事」をくちにしたのだ。こうみると、「至高の検事」はある種の超越、九条と蔵人の立場をどちらも包括するか、あるいはどちらもしりぞけたものとして、そのうえにあらわれる究極の法的立場なのではないかと考えられるのである。

 

もしいま起きている事件に九条がかかわるとなると、犬飼を弁護するというはなしになりそうだが、まずはほんとうにそうなるかなということがある。犬飼を弁護するためにはたぶん壬生からの依頼が発生するはずである。京極との深い関係性があるなかで、九条ばかりか壬生まではそんな行動に出るとはちょっと思えない。だから、いまいちこの先の九条のかかわりかたが見えてこないが、このはなしには蔵人もからんでくるはずなので、すぐに犬飼は逮捕されて、蔵人や嵐山が出張ってきて、壬生と九条が追及されるみたいな流れかもしれない。対立関係にあるうちは、勝負はただそのときどきの機微にゆだねられるだろう。つまり、法的立場の価値としては、九条と蔵人に差はないのである。あとは個人の信念の問題だ。だが「至高の検事」はこれを超越するだろう。それはいったいどのようなものか。

 

今回は戯れのようなものとして京極猛の刑事裁判が犬飼によって行われている。もちろん、シミュレーションとすら呼べないようなお遊びだが、いちおうそういうことになっている。被告は猛。死刑が求刑されている。そこでツーブロックの犬飼の連れが、弁護士的なふるまいをとる。といっても猛をかばうものではない。司法側にあたる犬飼の行動がわりにあわないというはなしだ。報酬があるわけでもなく社会から讃えられるわけでもないのに殺すのはちょっと、という流れである。そこで猛からはなしを聞くことになる。ここで犬飼はじっさい躊躇いのようなものを見せているが、即座に指を切られた連れがちがう証言を重ね、あっさり犬飼は態度を変更、刑が執行された。このはなしのポイントは二つ、なぜ犬飼は即座に態度を変えたのかということと、この裁判の検事はどこにいるのかということだ。

犬飼が態度を変えたのは、もちろん連れの証言があったからである。まだ描かれていない展開が今後あるだろうし確実なはなしでもないが、いちおうここは、犬飼がほかならぬじぶんの連れの証言であるということを重くみてということでいいだろう。ふつう、証言というものは、被告に近い者のものほど価値が小さくなる。この理屈でいえば、当然被告自身、つまり猛より連れの言葉のほうが重くなるだろう。だがこの場合、証言をする彼の言葉には私情が含まれており、端的にいって彼は被告が殺されることで得をする当事者的人物なのである。それでいてこの証言が重くみられるためには、やはり犬飼が「じぶんの連れ」という点に強い意味をみたということなのだろう。これは、いままでのはなしでいうと九条が抱える可能性のある問題点であるといえるかもしれない。彼が「じぶんの連れ」であることは、事件の事実関係には含まれない。証言者が専門家としての公平な見解を訊ねられているという場合を除き、証言は基本的に事実関係の内側に無機物として配置されなければならないだろう。すべてが言葉によって開かれている蔵人はこの点心配ないとして、前もって記述されることが決してない「見えないもの」をあつかう九条の信頼性は、こういう状況を想定したとき、どのように担保されるのか。

ふたつめはどこに検事がいるのかということだが、ここでは犬飼が検事と裁判官を同時に務めていることになるわけである。そもそもひとつめのポイント、なぜ犬飼は態度を変えたのかという点も、犬飼が裁判官も兼ねているからこそ前景化したことであって、ふつうなら問題にもならないことだ。これが指摘するものは逆に蔵人の短絡性のようにもおもわれる。もちろん蔵人はそんな単純な意味で発言をしているのではないのだが、彼の言説をごくシンプルにして拡張してしまうと、コンピューターに条件を入力して刑を出力するみたいに、裁判の結果というものは一瞬にして算出されてしまうのではないかということだ。法律の言葉は誰もが接続できるところに広がっている法的世界の設計図だ。そしてそこに書いていることを以外は顧みないというのであれば、彼のいうとおり悪は常に悪であり、罰すべきものはあらかじめ決定しているのである。こういうとき、果たして現行の裁判制度というものはほんとうに必要なのだろうか。弁護士も、なんなら裁判官も不要ではないだろうか。九条の感性のはなしもそうだが、以上のことは事態を究極まで極端にしたときに出てくる愚かな問いだろう。だが、そういう状況が想定可能なとき、制度の信頼性はどのように保存されるのだろうかと、こういうはなしである。

 

犬飼が猛を殺すべきだったかどうかというのは、そもそも「誰を」を問うまでもなく「殺す」が論外なのであるが、ここで演じられた戯れの裁判ではそのことはとりあえす問われない。問題はどのようにその判決がくだされたのかということだ。ぼくとしてもいまじゃっかん、はなしがそうなるように無理やり書いたところもあるのだが、いちおう、犬飼の裁判はこのようにして九条、蔵人両方を批判するものとして読むことができる。究極的にはともに抱えうる欠陥が同時に出現したもの、それが猛への刑の執行なのだ。

こう考えると、九条、蔵人をともに乗り越える「至高の検事」なら、猛をどうすべきだったかの正しいこたえを出してくれるはずである。それは、今後京極らがからんで「どこがまちがっていたか」が明らかになるにつれ、像を結んでいくかもしれない。

 

 

 

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1月30日から『少年院ウシジマくん』がスタートしたぞ!裏サンデーか、マンガワンのアプリで読める。

 

 

 

 

 

 

真鍋先生のツイート↓

 

 

 

 

山崎先生はラーメン滑皮を描いていたかただ。担当編集者というのは、ウシジマくんのときの真鍋先生の担当ではなくて、いまの担当のかたなのかな。いずれにせよ、期待を裏切らないすばらしい内容だ。

 

なにが感動かって、ウシジマくんが『闇金ウシジマくん』の主人公だっていうことですよね。

特に決まりがあるわけではないけど(あるわけがない)、慣習的に、スピンオフ作品には本編の主人公は登場しない、なるべく出さない、みたいなしばりがあるとおもうんですよ。花山薫が主人公のスカーフェイスにバキは出てこないし、『霊媒師いずな』にぬ~べ~は出てこない。ジョジョ4部の人気キャラ、岸辺露伴を主人公にした不定期シリーズの『岸部露伴は動かない』では、仗助の後ろ姿が描かれたけど、一般的な意味で登場はしていない。どれもほとんど不自然といっていいほど、主人公が出てこない。こういうところで、完結した本編に、原作者が考えたものではないにしても、良質なスピンオフをすでに描いている漫画家が、主人公の過去エピソードを加えてくれるというのだから、驚愕・期待は不可避でした。ただまあ、以上のことを考えると逆に、丑嶋がいわゆる意味での「主人公」ではなかったという可能性も出てくるが・・・。じっさい、厳密にいうなら、最終章ウシジマくんを除くと丑嶋は終始「ものさし」みたいなものだったからな。

 

丑嶋がウシジマくんになる、人格形成のおはなしになるとおもうのだけど、それを裏付けるように、少年時代の丑嶋はおしゃべりである。それはじっさい彼が未完成だからということをちょっと書いた。

 

 

 

 

 

これじたいはおもいつきだけど、退院後と比べていかにもおしゃべりなのは彼がまだウシジマくんではないからだ、というのはいえるとおもう。万物を金に換算する「ウシジマくん」になってからは、じぶんの感情とか主観、あるいは感情移入することによって見えてくる他者の主観、こういうものは、押し殺すまでもなく、不要になる。その結果であり、また準備となるのが、沈黙、つまり黙(しじま)である。じっさい、丑嶋が沈黙のよく似合う人間であるのは、名前にこの「しじま」の響きが含まれているからというぶぶんはかなりあったろう。では彼から沈黙をとりさるとどうなるのかというと、当然しゃべるようになり、さらには名前から卯(う)、つまりうさぎが出現するという思いつきだ。うさぎは丑嶋にとっての聖域で、唯一の「ウシジマくん」のペルソナを脱ぐことのできる場所だった。だが、完成したウシジマくんはこの世界のふたつの領域をきっちりわけている。それがまだできていないのが、ある種の乳臭さとともによくしゃべる若い丑嶋なのだというおはなしだ。

同房にいる仁科という男はたいへんな巨体で、しかも大人になった丑嶋によく似ている。ただ、『軍鶏』を読んでいる世代なので、ほんとうに信用していいのかなみたいな気持ちもある。信用できてもできなくてもいっしょにすごさなくてはならないのが少年院のたいへんなところだろうが、ともあれ、こうしてまた丑嶋の新しい面が見れるというのはたいへんなことだ。同じころの柄崎や加納、戌亥にしょぼくれた鰐戸三兄弟とかも出てきてくれたらうれしいぞ。

 

 

 


 

 

 

 

 

 

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第140話/目線

 

 

 

オリバの宿禰へのリベンジマッチ開始だ。

当初は特別乗り気にも見えなかった宿禰だが、再び三角形・逆三角形のはなしを持ち出され、相撲と実戦を対比的に持ち出されたりして、やる気になったようである。

 

いきなりオリバの左アッパーが決まる。すごい迫力の絵だ。1秒前まで会話していた感じだったのもあって、少し不意打ち気味なのかもしれない、宿禰はこれをまともにくらう。おでこでオリバの拳を砕いた彼だが、これは効いたようだ。

続けて流れるように右の拳が宿禰の顔面にめりこむ。アッパーで少し浮いているせいか、宿禰はほとんど水平にふっとび、背後の車に激突、半壊させた。宿禰も重いしオリバのパンチもすごいしで、駐車場でやるのはまちがいだったんじゃないかな・・・。ああいうのって光成が弁償してたりするのか?

歩みよるオリバを、まだ回復しきっているようではない宿禰がタックルのような動きでうけとめる。彼のばあいは低くかまえる必要はあまりない。アバラ投げがあるからである。ただ、手の触れたところをつかみさえすればよい。今度もやはりオリバの肋骨を捕る。だが、もちろんオリバは対策を考えてきたようだ。両腕で宿禰の腕を包み込み、脇ではさんだのである。その拍子に手ははずれてしまった。相撲ではこれを閂というのだろうとオリバがいう。その体勢のままロック、背後に向けて宿禰をぶん投げる。顔が地面に激突してはいるが、ダメージはどうなのか、宿禰は身軽に跳躍して回転、向き直っている。

ビキビキに血管を浮かせてパンプしっぱなしのオリバがそっと右手をさしだす。手四つで力比べをしようというのである。握力でダイヤモンドをつくるちからびとの宿禰である。なめた行動としか思えなかったろう。かなりあたまにきているっぽいが、表面上はおだやかに、これを受ける。体重では倍近いじぶんに力比べを挑む拠り所はそのバカげた筋量か、などといっている。

 

どちらも力ではバキ界屈指といっていいかもしれない。だが、どちらかというとまず宿禰が衝撃を受けているようである。なんか、おもったのとぜんぜんちがう感触みたいだ。オリバは「力士」というわりには非力だと、まだ残っていたらしいちからを加え続ける。手首の傾きにあわせて徐々に宿禰のからだは下がっていき、手首を守るためか、宿禰が逆の手を手首にそえたあたりで、ついに宿禰の目線がオリバの下になってしまうのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

なんか、「こういうのが見たかった」という回だった。最初のアッパーの絵、いいなあ。

 

前回の三角形のくだりを踏まえて、このたたかいは攻めるものが強いのか守るものが強いのかというはなしになるのではないか、ということを先週書いた。オリバはアバラをつかまれた状態でちからをこめたことを「手違い」としていたが、これじたい、オリバ的にはけっこう事件だったわけである。というのは、人間が強くなろうとするにあたって手にする技術、もっといえば「パワー以外のもの」をパワーで塗りつぶすスタイルがオリバのものだったからである。肋骨をつかまれた状態でモストマスキュラーのポーズをとって、背中の張りで宿禰の手を弾き飛ばすことができるなら、このスタイルは貫かれる。けれども、もし指がはずれなかったら、オリバの背中が発したエネルギーはじしんの肋骨に返っていくことになる。けっきょく、それが彼の肋骨を砕いたのだ。この行動が「手違い」だったということは、あの局面ではじぶんの「パワー」だけでは危機を乗り切ることはできなかったということを認めることにほかならなかったのである。

もちろん、そういう意味もここにはこめられているとおもうが、あるふたつの行動の同一の面を比較しようとするときに、条件を考慮しなければ、これは当然おこりうることだともいえる。無双の腕相撲チャンピオンに、それなりに腕力にじしんのあるものが挑むとき、ふつうはノーマルな腕相撲をすることになるとおもうが、「強いんだったら小指でやってよ」というはなしなったら、チャンピオンは受けざるをえないかもしれないが、試合としてはあまり意味のないものになる。背中の張りとしっかり握りこんだ握力でどちらが強いのかというと正直よくわからないが、直観的には、「ふつうに考えて無理」というものではないかとおもわれるわけで、要するに、あのときは「背中の張り対決」をしたわけでも「握力対決」をしたわけでもなかったのである。こういうふうに読みかえれば、「筋肉はすべてを解決する」オリバの哲学は、あるときには成り立たないときもあるが、それは腕相撲チャンピオンが小指で試合をせざるを得ないような状況をも含むものではなくて、暗黙に了解される条件のようなものが、ほんらいは前提としてあるべきなのである。腕相撲チャンピオンが「じぶんはもはや生涯誰にも負けることがないだろう」というときは、当然にノーマルな腕相撲の試合が想定されているし、不慮の事故で半身不随になった将来を含む発言ではないし、弱りきった死の直前の体調は「生涯」には含まれないのである。

 

だが実戦ではむしろ「小指で腕相撲をしなければならない」という状況はあらわれうるし、むしろそうした状況を作り出すのがたたかいの上手いものということになる。じぶんの強いところで相手の弱いところを叩くのがたたかいの基本だからだ。そう考えると「じゃあけっきょく『筋肉はすべてを解決する』は実戦的思想ではないのでは」ということにもなるかもしれないが、それこそが手違いというものだろう。あのときのオリバは、劣勢であったこともあり、ちょっと虚勢を張ってしまったぶぶんがかなりあったのだろう。腕相撲でいえば、相手が冗談ぬきで強そうだという点を見抜いたうえで、自ら小指でやってやると提案してしまうような状況だったのだ。相手の弱いところを見つけだすのが基本なら、じぶんの強いところを押し出すのもまた基本である。みずから小指での腕相撲を申し出る必要は、ほんらいない。それは相手が挑発などで引き出すものだ。これが「手違い」の真意であろうとおもわれる。

こういうことがより鮮明にみえるのは、手四つの展開である。バキでも餓狼伝でも、手四つは「力比べ」の展開に典型的なやりかただが、ここで重要なことは、右手と左手のちがいはあれど、ほぼ完璧に条件を等しくできるということである。相撲でも四つに組むという言い方があるが、考えてみればこのように完全に条件を同じくするたたかいかたというのは、この2種類の「四つに組む」以外に、案外ないのである。

 

アバラ投げはオリバに致命傷を与えたが、見たようにじっさいにはじぶんでじぶんを損なってしまったぶぶんがあった。条件が常識的なものであればやはり「筋肉はすべてを解決する」はずであるということを、オリバは今回示す必要があった。それが「閂」という方法だった。ここにはいくつかの意味が潜んでいるが、ひとつにはそれが相撲にもある技だということが大きい。相撲的な発想でつかみかかられているものなのだから、相撲的な発想で、なおかつじぶんのパワーの文脈でこれを突破しなければならなかった、そこで「閂」なのである。

さらにここには「攻め」の姿勢が見て取れる。しっかり食い込んだ指を、くいこまれた箇所の筋肉で正面から突破しようとしたのが以前のたたかいだった。これは、いま考えたようにあまりにも「手違い」が過ぎたわけだが、同時に、そもそもこれはオリバのスタイルではなかったのである。侵食するものをうけとめ、押し返す、これは守りの、三角形の哲学において行われるものなのだ。では逆三角形のものはこのときどうすればよいかというと、攻める以外ないのである。もちろん、たとえばここでは、宿禰のつかみはぜんぶ無視して、親指を目玉にめりこませるとか、そういうことをしてもいい。だが行動者はオリバである。あくまで「筋肉はすべてを解決する」を実践するしかたで攻めなければならない。そこで、都合よく脇のしたにさしこまれた腕を抱え込むのである。それが食い込んだ指をはずすにあたってどれほど効果的かというと、よくわからない。引き続き宿禰は指をくいこませ続けるかもしれないし、もしそうなったら、オリバは宿禰の腕を抱え込むみずからのパワーをまたじぶんの肋骨に逆流させてしまうことになる。だが、前回と異なり、この条件ではたがいに「肋骨」と「両腕」を相手に預けることになる。宿禰は指をくいこませ続けることはできる。だがそれは、同時に閂のダメージを受け容れることも意味するのだ。

 

このようにして、オリバはみずからの逆三角形のスタイルを改めて点検することで、また「条件」というものを自明とせずみずから獲得するものとすることで、攻めの姿勢を貫くことになった。これがついに呼び込んだのが、今回の手四つでの圧倒である。逆三角形スタイルは、攻め、相手を屈服させるものだ。図像的にも今回オリバの目線が宿禰を超えたのはきわめて逆三角形的なのである。

 

 

 

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