すっぴんマスター -34ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第74審/至高の検事⑩

 

 

 

 

息子の猛の行方不明に関連して、京極が壬生を探しに九条の事務所へやってきたところだ。机のうえにはかばんに入っている人間の足が転がる。何本か指がとれている。前回、まだ犬飼を見つけてはいないらしいことと、彼が息子の死を断定していることから、これを猛の死体のいちぶと考えたが、あとの描写とあわせて考えると、どうもこの足は猛のものではなく、犬飼に仕事を依頼した男のものっぽい。

 

九条は、立場のある京極がこんな物騒なもの広げて軽率だ、みたいなことをいう。物騒っていうか、人間の足なんだけど、よく落ちついていられるなこのひと。

依頼者どうしのトラブルになるし利益相反になるからということで九条は介入できないと応える。知らないとも教えないともいわず、かかわらないというスタンスだ。まあ、そういうしかないのかな。もし無理強いするようなら、事務所を出入り禁止にすると。京極はしばらく黙ってから、机のうえのペンを拾ってへし折る。なにか精密機械が仕込まれているようで、録音機能があるみたい。続けて部屋中に仕込まれている録音機器や防犯カメラを子分たちにおさえさせる。そして、不気味な丁寧さで九条を伏見組の守護神だとたたえ、非礼を詫び、同じテンションでスマホで撮影した首謀者の男の拷問写真を見せる。耳や鼻をそがれ、目玉もくりぬかれている衝撃的な画像だ。さすがに九条も目を見開いて驚いている。男はすべて白状したらしい。2週間拷問して山に埋めると。白状して用事は済んでおり、しかも殺すことは決定しているのに拷問は続けるらしい。

急がないと犬飼は海外に逃げてしまう、親の気持ちがわかるなら壬生の場所を教えてくれと。

 

 

伏見組若頭補佐、雁金正美(かりがね まさみ)の登場だ。いつも2時間くらいしか眠らなそうな顔をしている。雁金は若者の構成員が壬生らを殺すのに及び腰なのにイラついているようだ。外国人を雇って殺させることはできるだろうが、いつでも組に身体賭けられると大きなくちでいっていたのはなんだったのだという状況である。反論できないところだが、構成員の若いふたりは黙ってうなだれている。そこに鍛冶屋小鉄という年をとったヤクザがあらわれる。幹部とかではなく、ふつうに構成員のままおじいさんになった感じのようだ。鍛冶屋くらい年をとると、腕っ節がどうこうという問題ではなくなってくるだろうし、時代もあって金儲けの面でもついていけなくなってくるだろう。そういうわけで若いヤクザは陰でバカにしてきたようだが、肝心なときに彼らは動かない。鍛冶屋は最後にひと花さかせたいと雁金に持ちかける。雁金は、壬生は一般人だから銃はつかうなとだけいうのだった。が、鍛冶屋は年寄りだ。失敗したら恥をかく。お守りがわりに、隠していた銃をもって出かけていくのだった。

事務所を離れたところで若いヤクザふたりの本音が聞こえてくる。まず、壬生はふつうに強い。シャブ中のおっさんだったらまだしも、モブマッチョも含めて考えると、かなり覚悟の必要な殺しなのである。しかも、文字通り組のためならともかく、猛のカタキなのである。猛には彼らもさんざんいやなおもいをさせられてきたらしい。

そこに今度は艮克茂(うしとら かつしげ)という男がトラックに乗ってあらわれてふたりに乗れという。破門された元ヤクザらしい。このトラックで壬生の工場につっこむつもりなのだという。だが電話を通じて雁金にとめられ、いちおう納得するそぶりをする。抗争全盛期を経験している武闘派ヤクザはアツい、というのがふたりの若者の感想だ。だが、シャブでヨレていたともいう。そして、その足で、艮は予告どおり工場に突っ込むのであった。

 

工場が壊されたことを車中の壬生が久我に伝える。犬飼はすぐ見つかってしまうだろう。壬生のグループは天明會というらしいが、そうなったらグループはまるごと拉致されるだろうというのが壬生の予想だ。実行犯の犬飼たちは、首謀者と同じように2週間拷問後に殺され、ほかの関係者は準構成員にされると。獅子谷甲児がいなくなったあとのシシックみたいなものだな。

壬生や久我は拉致に関与はしていないが、いわば犬飼の保護者的ポジションであり、ただではすまないだろう。壬生の胸にはおもちが光る。どうせ殺されるなら逆に京極たちをぶっ殺すかと、すごい冷静な真顔で壬生はむちゃくちゃなことをいうのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

最終章なのかなこれ、ぜんぜんシリーズなかばという感じがしないのだけど・・・。

雁金、鍛冶屋、艮と、レギュラーっぽい感じでしっかり名前が表示されるキャラが立て続けに登場した。雁金はともかくとして、ほかのふたりがレギュラーかというと、ちょっとちがう感じはする。だが、こう、ぽんぽんと新キャラがわいてでてくるのは、なかなか興味深い。特に鍛冶屋と艮にかんしては、こうした「悲劇」を待っていたかのような感じすらある。これがウシジマくんなら、ヤクザの生きかたを描くにあたって登場したのかもしれないというふうに読むべきだろうが、九条の大罪ではどうだろう。

 

全体を通してあるもっとも大きな問題は「言葉」への意識である。ここでの「言葉」は、ひとつには法律文書を指す。そして、それに基づき、鍛え上げられた法的思考法も含む。そのうえで、言葉は、事象の横顔を描き出すものではあっても、決して全体にはなりえないということをどのように受け止めるか、というところで、九条と蔵人は分岐する。蔵人では、「言葉」は世界に覆いかぶさった網目そのものである。システムなのだ。だが九条における「言葉」は、ピアノの鍵盤や、ストップモーション・アニメのようなものでしかない。九条はその、シとドのあいだにある音を聴こうとするものであり、そこに空隙が存在することすら認めない蔵人の見落としを拾うものなのである。

この対立が本作のもっともおおきなテーマであり、ほぼ全体とみて差し支えないとおもわれる。少なくとも、烏丸や流木、山城などの弁護士たちはすべてこの問題の内側に回収されていく。だが、壬生をメインとした半グレやヤクザの太い物語があることもまちがいない。それはどういったものか。

 

壬生にかんしていえば、それは主体性の物語ということになるかもしれない。壬生は京極にじぶんの命と愛犬おもちの命を天秤にかけさせられ、結果おもちを殺してしまった。だが、選択というものは、選択肢が等価であり、どちらを選ぶべきか一考の余地があるときでなければ成り立たない。じぶんとおもちの命という、比較できない選択肢を提示し、さも壬生に責任があるかのように京極は物語を演出したが、じっさい壬生は逆らうことができなかった。この選択は、身振りとしてはまちがいなく壬生のものではあったが、主体性を欠くものだったのである。こういう強制が可能なものを「強者」という。京極は、みずからおもちの死を選んだという壬生の物語を強権的に描いたのである。こう見ると、「強者」とは、物語を描くもの、ということになる。ちょうど小説家が神の視点で登場人物を原稿用紙に遊ばせ、それぞれに「選択」をさせてぜんたいの構造を築くように、強者はあくまで弱者の責任のもとに弱者の物語を自由に描き出すのである。

 

今回、犬飼に仕事を依頼した首謀者は、目をくりぬかれるレベルの凄惨な拷問を2週間受けることになった。その後彼は殺される。そして、この2週間というのは、伏見組ではお決まりのようである。壬生が同じようなことをいっているのだ。なぜこのようなことをするのかというと、壬生がその伏見組の慣例を知っているという事実が示すように、見せしめ的な意味があるだろう。逆らえば信じられない苦痛とともに2週間生かされたあと殺される、こういうことがうわさレベルで広まることが、まず第一の目的である。もうひとつは、死によって完結する生ということがある。首謀者の男を殺すことはかんたんだ。だが、伏見組に逆らうこと、今回でいえば若頭の息子を殺すほどのことをしでかしたものが、ただ死んでしまうだけで、伏見組が負うことになった負債が解消されるということはないわけである。外部的な意味では「伏見組に逆らえば2週間拷問されたのちに殺される」といううわさが広まればじゅうぶんだ。ここではもう少し内発的な動機について考えたい。つまり、彼らにとっては、彼らに逆らうという行為の重大性を遡及的に評価する意味も含めて、相手をなるべく長く苦しめ、そうかんたんには完結させないものとしたいのである。この理路はウシジマくんの獅子谷甲児が椚を生きながらえさせていたときに気がついたものだ。椚は兄の鉄也を殺した首謀者だ。だから復讐の対象である。椚を殺すのはたやすい。しかし、甲児にとっての偉大な兄・鉄也の命が、椚の命を奪うことでつりあいのとれるものであるはずがなかったのである。だから、甲児は椚を生かし、復讐完了を先延ばしにするしかなかった。似たような理屈がここからは感じ取れるのだ。今回は京極の息子が死んでいるという点でややこしいが、要するにこれは自己評価の問題だ。伏見組は、じぶんたちの強さ、大きさを、逆らうものに対する攻撃性の大きさで表現する。彼らをあっさり殺してしまっては、彼らの生が完結するとともに、逆らったものが奪ったものの価値も小さく完結してしまうだろう。それを彼らは許さない。ことがいかに重大であるか自他に示すため、彼らはいちいち復讐をおおげさにするのである。

そして、ここに宿る意味はもうひとつあり、それが物語の主人公は誰なのかということなのだ。復讐は当然後手になる。やられた行為に対応するものとして出現する。だが、後手でありながら主体性を欠くことのない復讐もある。それが、このようにして、やられたぶんをはるかに超える大きさで圧倒することなのだ。その結果、主客は逆転する。首謀者は猛を殺し、その復讐に伏見組は首謀者を殺した。事実としてはそうなる。だが、凄惨な拷問は、まるで復讐のほうが先にあったかのように、物語を書き換える。まず伏見組の凄惨な拷問があり、追って首謀者の行為が認識されるのである。因果が逆転するのだ。

 

 

猛が死亡したことにより、新キャラのヤクザがぽんぽん出てきたことにはそういう意味がある。ヤクザでは、「誰が主体か」ということが、ことほどさように重大なのである。いま、猛が殺されたことで伏見組は負債を抱えている状況にある。これをはるかにしのぐプラスを創出し、彼らが「されたこと」が中心からはずれるほどにならなければ、彼らの強者性は貫かれないのだ。

 

そうした主体性問題に、壬生もまたかかわっているわけだが、もしこの件を九条/蔵人の対立に関わらせようとしたら、ぼくではソクラテスが想起される。ソクラテスはプラトンによって描かれた数々の「対話」で知られているが、それは現代でいう「対話」とは少し異なっている。彼は、まちゆく名士とか賢者とかと議論し、これを乗り越えるが、彼らのいうことは、ソクラテスの論理を補強する反対概念のようなものを出ることがない。ふつう「対話」といえば、全体に価値中立的な枠組みのなかで、ポリフォニックに展開するものである。しかしプラトンの描くソクラテスは、名士や賢者、ソフィストを論破し、彼の議論を徹底的ですきのないものに彫琢していくのである(ややこしいが、ここでいう「論破」も、いまいわれる論破とは異なる。現在いわれている「論破」は技術的なものをいうので、ソクラテスよりソフィストよりのものだ)。だから、ソクラテスの「対話」は、きっぱりいってしまえばどこまでもモノローグなのだ。相手と論戦をしているようで、実は作品通して、主語はソクラテス以外ではありえないのである。

この対話の景色でいうと、九条はポリフォニックな対話、というより、対話的傾聴(対話者が存在するときにのみあらわれうる発話)を志向するものであり、蔵人は、相手方の論理をじしんの内側に回収することなく、ゆがめてでもモノローグの内側に回収するソクラテス的なありかたということになる。主体性の獲得、もしくは奪取ということにかんしていえば、壬生も含めた不良たちは蔵人的であるといえるかもしれない。

 

というはなしはなかばむりやりのおもいつきなので、今後つかっていくかわからないが、とりあえず思索の記録として残しておく。

 

 

↓九条の大罪 8巻 3月30日発売

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2月23日、アントマン3作目の『アントマン&ワスプ:クアントマニア』を観てきた!

 

 

 

 

 

 

まだ公開されたばかりということもあり、ネタバレはひかえるべきなので、とりあえず記録として記事を書く。

 

劇場でMCUを観るのはこれで3回目かな。最初がエンドゲーム、次が去年のブラックパンサーで今回。DVDなど通して自宅で鑑賞するようになったのは、5年くらい前だ。当時はユアン・マクレガーにはまっていた。ユアン主演の、スマトラ島沖地震を題材にした『インポッシブル』には、けなげに家族を守ろうとする少年役でトム・ホランドが出演していた。むろん、まだ彼がスパイダーマンを演じるようになる気配すらないような時代である。このトムホがあまりにもかわいくて、いまどういう仕事してるのかなと調べて、話題になっているのは知っていたがなにをどう楽しめばよいのかよくわからなかったMCU作品のスパイダーマンに主演することを知ったのである。そのときはまだ主演が決定したくらいの感じだったようにおもう。ちょうどいい機会だということで、ぼくらはそのままマーベル作品を見ていくことにしたのである。MCUは全作品がひとつの世界を共有した壮大な物語で、スパイダーマンをみようとしたら他のもみていかなければならなかった。そうでなくとも、もともとぼくは大学時代トビー・マグワイアのスパイダーマンをTシャツ着て歩くくらい好きだったので、ためらう理由などなかったのだった。そこからはMCUにはまったすべてのひとと同じく、延々と作品世界の拡大に幸福を感じる日々なのであった。たしか、最初にいきなりアベンジャーズをみたのだとおもう。ロキがヴィランだった最初の集結ものだ。むろん、そこまでにアイアンマンらの丁寧な作品群があったうえでのアベンジャーズであるのだから、意味がよくわからないポイントも多かったのだが、それでも水準以上の満足感をもたらすのがこのシリーズである。そこから底なし沼だった。

 

 

アントマン/スコット・ラングはアベンジャーズのメンバーのなかでももっとも平凡な人間である。すごうでの泥棒であり、スーツの着こなしやたたかいのセンスなど考えると彼をそう呼ぶことには抵抗もあるが、超人血清を打ったキャプテン・アメリカが体力的には標準に見えるレベルの超人が集結する世界なので、それもしかたのないことだ。エンドゲームでいったんの区切りがついてからは、さらなる作品世界の拡大のために、エターナルズやTVAといった、サノスが懐かしくおもえてくるような超・超人や組織が登場するようにもなり、さらにその感じが強まっている。だが、アントマンはスコットの普通感がむしろその原因であるかとおもえるほど、つねに重要な役割を果たしている。彼がからだの大きさを自由に変えられるのはピム粒子という道具のおかげなのだが、これが、エンドゲームでは世界を救うことになる。時空間の概念が現実世界とは異なる量子世界を経由することで、ヒーローたちはタイムトラベルができるようになり、サノスがインフィニティストーンを集めてあの指パッチンにより人類を半減させた世界の前に戻ってストーンを回収、世界を復元することに成功したのだ。アントマンは、指パッチンが行われたとき量子世界にいた。彼を呼び戻すはずだったホープたちが消滅してしまったため、彼は5年間極小世界をさまようことになったのだ(じっさいの体感時間は5時間程度。そこからスコットは量子世界は時間の流れかたもちがうと気がつき、タイムトラベルのアイデアに至る)。あの行為によって消滅した人間の条件というのはけっきょくよくわからず、たんじゅんに2分の1の確率で助かっただけなのかもしれないが、量子世界は現実と原理を異にするというはなしなので、そのことによって彼が助かった可能性もある。

 

今回は、サノス以来となる大型ヴィランである征服者カーンとたたかうことになる。エンドゲーム以降のMCUはマルチバースの概念が持ち込まれ、無数の並行宇宙が存在することを前提に、時空の衝突や干渉、またそのはざまにおける物語を描いている(描きつつある)。ことばとして理解することの困難な物語世界を、映像作品として体感的に理解できるように設計する映画作りには感動しっぱなしだが、ともあれ、カーンはそうした並行宇宙が当たり前の次元における王である。彼はこの以前にドラマの『ロキ』にも登場している。このときは「在り続ける者」という名乗りだった。カーンはもともとずっと未来の科学者である。彼は並行宇宙の存在に気がつき、行き来するようになり、別次元のじぶんと協力しておのおのの宇宙における科学技術を発展させていったのだが、やがて次元間で侵略戦争が始まるようになる。このままでは全次元の全人類が全滅してしまう、そういうところで、「在り続ける者」を名乗るカーンは神聖時間軸を設定、決定論的に定まった運動以外の分岐が起こらないよう管理するようになる。そのために用意された機関が「ロキ」に出てきたTVAである。「在り続ける者」はひとことでいえば独裁者だったが、まだマシだったともいえる存在で、宇宙を決定論の内側にとどめようとする限りでわたしたちに自由意志はないことになるが、原理的にわたしたちはそのことに気がつくことはできない。その存在をアピールしてくることもないし、まさに神の立場にいたのが彼だったのだ。だが、魯迅のいう鉄の部屋にまどろんで酸欠で死ぬだけの人生でほんとうにいいのだろうかという疑問は、黒幕の存在を知る、もしくは感じてしまったあとでは、当然浮んでくるわけである。それが『ロキ』というドラマだった。自由意志は決定論のもとではそもそも意識されることがない。だがTVAがなんのために存在しているかというと、分岐を防ぎ、変異体を剪定するためだ。決まった路線をはずれた予想外の動きをとるものはTVAによって存在を抹消される。この瞬間、ひとはじぶんたちが鉄の部屋の内側にいて酸欠寸前であることに気がつくわけである。もし剪定から逃れて生還してしまうものがあらわれたら、そのものはものの道理として宇宙の真理そのものを疑うことになるわけである。

 

ロキのネタバレにもつながるのであまり書かないが、在り続ける者はそれでもマシだったというのは、要するに彼がいなければそうした管理が行われず、カーンどうしの抗争や並行宇宙の存在が自明となったあとに予想されるトラブルが多発するからである。今回のアントマンからフェーズ5に突入したMCUはこれを描くことになる。そして、ある種保守的なカーンだった在り続ける者より厄介なカーンを最初に目撃し、たたかったのが、アントマンだったというわけである。

 

 

アントマンの魅力はその普通感にあるが、その感じをもっとも際立たせるものは父親としてのふるまいだろう。スコットは、すごく当たり前に、むしろ映画的にといってもいいほど、娘のキャシーを愛している。その感じがこちらの相好を崩すのである。今回はそのキャシーが、ホープのワスプに続き、シリーズ三人目のヒーローとしてスーツを着てたたかう。いくつもすばらしい演出はあったが、印象深いのはスコットが分裂するところだ。ある場面では、いかにも量子世界らしく、「可能性としてのスコット」が細胞分裂的に増殖していく。彼がとりえたかもしれない行動やセリフが、彼自身の存在となってあらわれるのである。つまり、迷いが多ければ多いほど、分裂は加速していく。しかし通信装置からキャシーの声が聞こえたとき、スコットたちの意見は一致し、ひとつの目的に向けて、ちょうど蟻が高いところに登ろうとするとき高波のようになって上方に伸びていくようにして、集合意識をかたちづくるのである。迷いによってスコットはいくつもの可能性、いくともの「ありえたじぶん」を生み出してしまう。だがどのスコットももれなくキャシーを愛している。そのうえでとる行動は変わらない。だから協力する。蟻にはスタートレックのボーグのような集合意識があると聴いたことがあるが、動機を同一としたとき、集合意識は人間のなかにもあらわれうるものなのだ。

この場面でさらに胸をうつのは、直後愛するホープがあらわれるのだが(ホープも分裂しまくっている)、ふたりが合流した瞬間、可能性としての彼らが一挙に収束していくのだ。つまり、いっさいの迷いがなくなり、とるべき行動がひとつに定まるのである。愛するひとといっしょにいるとき、「完全」になるというような感覚を覚えることがある。古代ギリシャではじっさいそのように考えられていた。ひとはもともと対となるもの(異性とは限らない)と背中を合わせた球体だったと考えられていたのだ。迷いは、自身におけるある種の欠落感がもたらすものだ。しかしホープと合流したスコットには全一感しかないのである。

 

この場面からは、キャシーや、またホープとの関係性にある「愛」が、マルチバース的な可能性の並存より全一的世界と親和性が高いことも感じられる。当たり前のことかもしれない。これは並行世界ほど大規模な物語を描く場合に限らない。ぼくにとって印象深いのはファイナルファンタジー7に登場するケット・シーと、ジョジョ6部に登場するフー・ファイターズである。詳細は省くが、彼らは、死んだとしても、必要な手順を踏めば、復活することができる。だが、復活した彼らは、仲間と冒険をともにした、死んだ彼らではない。同じだけど別人。この感性は、愛が存在より経験によって育まれるものだということを示唆している。例に出しておいてナニだが、古代ギリシャの球体人間は、「運命のひと」を予感させる、例のロマンチック・ラブ・イデオロギー的だが、これらの愛の全一感は経験に依存しているのだ。経験は通時的なものであり、どこかに並行的に存在しているかもしれない「運命のひと」とは異質なものだ。とすると、マルチバースの権化であるカーンに対抗するのは愛である、ということになるかもしれない。これはクローン人間についての倫理的議論にも通じるものがあるが、じぶんとまったく同一人物が存在するとなったとき、ひとはどのように自己同一性を保つのだろうか。直観的にはまったく問題なく日常をすごせるようにもおもわれるが、ここでいっているのは、自身の唯一無二性(の実感)をどのように保存すればよいのだろうか、ということだ。マルチバースの「自分」は厳密には同一人物ではないが(ロキを観ればわかる)、自己同一性が崩壊し気が狂う、とまではいかないまでも、ゆさぶられることはまちがいない。わたしたちは、マルチバースが自明の世界で、朝起床したときに、自分が前日眠りについたときの自分と絶対に同一人物であると、どのように確信するのだろうか。ここに、物語的には経験、記憶、そして愛が生きてくる余地がある。マルチバースを支配するカーンは、カーンの連合体みたいなものとして活動しているようだが、自意識じたいはあるようであり、だからこそ戦争も起きる。今作に登場したカーンや「在り続ける者」は異端のようだが、それでも、そういうものがあらわれるということは、つめにその兆しはあるということなのだ。しかしカーンはその世界を守ろうとするだろう。その彼らと、今後アベンジャーズや人類の利害がどのように対立するのかは、はなしが複雑すぎることもありまだよくわからないが、こう考えると、キーワードは経験であり、「愛」なのではないかなというふうにおもうわけである。

 

もはやアベンジャーズ作品をみていない状況が思い出せないので、「単独でも観ることができます」みたいな無責任なことはちょっといえなくなっているが、たぶん観れるとおもう。が、もしほんとうにいきなり本作から観ようとするなら、とりあえず前のアントマン2作と、ドラマの「ロキ」は見ておいたほうがいい。でも、ロキをみるためには、少なくともアベンジャーズの1は観ておいたほうがいいよね。しかしそのためには最初のアイアンマンから観ておく必要が・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第73審/至高の検事⑨

 

 

 

 

今回は九条の兄、蔵人がメインの回だ。いままで断片的に、わかりやすい描写しかなかったが、けっこう深堀されるぞ。

とはいえ、検事の仕事はなんかよくわからんなあ・・・。とにかく、東京地検特捜部としてなにかゼネコンの談合事件を立件したということのようだ。上司、宇治部長はその仕事内容よりネットなどのニュースの取り上げられかたをほめているようであるのが印象深い。

 

トイレでは、タメ口どうしなのでたぶん同期とかだとおもうが、別のものには、並んで用を足しながら「鞍馬だけだ」といわれる。いずれ東京高検検事長になり、次長検事から検事総長になってもらう希望の星であるというはなしだ。蔵人はイギリス大使館にもいっていたことがあるらしい。とりあえず今回の手柄はたぶん宇治のものになるだろうが、筋書きを書いているのは蔵人である。そして、なにしろ世間の関心を操作するのもうまいと、やはりここでも外部評価のことをいわれる。大衆を巻き込まないと正当性を保てないから、と蔵人はこたえるが、彼の目標はそんなところにはない。そんなことでかんたんに操作される「愚民」に合わせてばかりいては国が腐る。検察を強くして国を正したい、それが彼の考えだ。しかし現実の出世コースは検察庁ではなく法務省勤務で、捜査も公判もせず法律をつくる連中のほうだと蔵人はいう。よくわからないが、検事のいわゆる出世コースからはずれているということだろうか。

 

また薬師前と烏丸がデートしてる。競馬で勝ったから薬師前のおごりで酒を飲んでかにを食べている。そこへ記者の市田も誘おうとしているところだ。あとで合流したいが、いまは動けないと電話で市田はいう。検事の張り込みをしているということで、もちろんそれは蔵人のことだ。はなしをきいて、烏丸の感想もちょっと聞ける。一般目線として、薬師前は検事を少し怖いというが、烏丸は嫌悪感を示す。検事は独任制の官庁と呼ばれているという。検察だけが刑事事件の起訴の権限をもっている。つまり検察が不起訴にしたら無罪。ひとの運命を決める権限があるということだ。

これは薬師前がいっているのかな、ネットなどでは捜査権があることで検察は事件のストーリーを描きやすいというふうにいわれがちだという。世論を味方につければ捜査の正当性も担保される。これはまさに蔵人がいっていたことだ。そしてその世論がどのように形成されるかというとマスコミを通じてということになるが、そのマスコミが、検察からのリークに期待して独自の調査をしなくなってしまうと、完全に検察のおもうがままになってしまうわけである。もちろん、現実はそんな陰謀論みたいにはできていないだろう。だがそういう図をたやすく思い描くことができるということが怖さにつながるのかなというはなしだ。烏丸はいちおう、検察も組織なので、決裁は上司が行う、検事が独断で決めることはないという。

 

蔵人と市田が合流する。ふるいつきあいのようだ。蔵人は市田の文章を気に入っていて、市田は市田で情報源として蔵人に恃んでいる。今回も蔵人はいいネタをもってきており、市田もそれを待っている。まさに薬師前のいう図に近い景色なのである。蔵人は喫煙所に入って市田を待たせるのであった。

 

 

検事どうしのうわさばなしだ。たぶんトイレで蔵人と話していた同期の男が、蔵人の「弁慶の泣き所」について語る。嫉妬とかないのかなとおもったけど、まあ、くちでいうだけの感情で済むはずもないか。蔵人の弱点とは、むろん弟の九条である。九条は依頼人を選ばないので、結果としては反社の相手ばかりしており、顧問になることは拒んだものの、けっきょく世間は彼を伏見組の実質的顧問とみているようだ。そうである以上、蔵人は反社とのつながりを否定できない。九条が世間の目にとまる前にちゃっちゃと弁護士をクビになってくれればと蔵人は願っているにちがいないのだ。

 

その九条のもとには、いかつい子分を大勢連れた京極がやってきている。壬生と連絡がとれないがどこにいるかと。そして机のうえに人間の足先がのぞくバッグが乱暴におかれる。ひとひとりが入るような大きさには見えないし、ばらばらにされた死体をどこかから見つけてきたのだ。これは京極の息子・猛の死体だ。息子は死んだ、壬生はどこだと京極はくりかえすのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

ばれないではいられないだろうなとはおもっていたが、すごいかんたんに死体までいってしまったな。

 

だが、京極はどうやって猛の死体にたどりついたのだろう。ふつうの流れなら、なんか犬飼はハメられてるっぽい描写があったから、依頼人の男かあるいはまったく別のルートから犬飼が猛を拉致したということが伝わり、捕まってしまったみたいなことだろう。だがこれは犬飼は捕まっているのだろうか。犬飼にはまだ壬生に対する忠誠心のようなものはそうないだろうから、もし捕まっていたら、おそらく壬生の居場所を吐いているだろう。としたら彼はそれを知らないのだろうか。だが、この感じはどうも犬飼はまだ捕まっていないような感じがする。写真にとられていた場面もあったので、おそらく犬飼が犯人であることはもう京極は知っているだろう。知ったうえで、その面倒をみている壬生に会いにきているのだ。問題は死体である。どうやってあの山奥まで京極がたどりついたかだ。可能性としてはふたつ、猛がなんらかの通信装置をスマホ以外にもっていて、居場所がわかったというもの、もうひとつは、誰かの裏切りである。たぶん後者だろう。あのツーブロックの男だ。彼は京極を敵にまわすことを非常におそれていたので、じゅうぶんありえることだ。これが、直接か電話かで死体の場所を伝え、じぶんだけは見逃してくれるよう頼んだのだ。

 

今回のはなしで気になるのは愚民のくだりだ。ようやく、蔵人のスタンスが描かれ始めたわけだが、いきなり世論を形成する市民を愚民呼ばわりである。けっこうはなしとしては複雑なので、書きながら整理していく。

現実の検察のすがたにかんしてはともかくとして、ここでは烏丸と薬師前の会話による相対化もこみで考えると、検察の仕事では「世論」というものが強い意味をもっている。世論が、捜査そのものや、それが暴くものについての価値判断の後ろだてになる。ではこの世論がどのように形成されるかというと、マスコミを通じてということになる。だから、宇治部長や同期は外部評価を意識する。客観的にその仕事ぶりがどのように描かれているかということが世論との距離に直結するのであれば当然のことだ。このマスコミの仕事が、きっちり批評の任務を果たしているのであれば問題はないかもしれない。だが現実には、市田がそうしているように、マスコミは情報源として検察を頼っているぶぶんがある。調査対象と癒着しているような状況なのだ。それでは客観的な批評は期待できない。ここに薬師前は怖さを感じるというはなしだ。検察とマスコミと世論が三角形を描いてバランスをとるところ、実質的にはマスコミが検察の支配下におかれることにより、世論は気付かぬ間にコントロールされて、評価するつもりが手渡された小さいものさしで目前の書割を計測しているだけになってしまうのである。

こうして、好むと好まざるとにかかわらず日ごと強化される検察の独任制の内側で、蔵人はそれを構成する単位であり、また彼自身が最終的に目標としている強く正しい国の成員であるところの国民・市民を「愚民」ととらえていると、こういうはなしである。

 

コントロールするもの、支配するものがその対象を軽蔑するというのはよくあるはなしだ。相手が尊敬に足るものであるなら、その支配が達成できたとき、それは自信につながっていくだろう。だがここではそういう自己実現的なはなしをしているのではない。そういうシステムがまずあり、そのなかで出世しつつ、目標を達成しようとする、そういう野心のものとして、蔵人が描かれているのだ。つまり、「愚民」たる世論形成の当事者を支配することそれじたいは目的ではない。だから、理由が必要になる。彼らは愚かだから支配される、そういう、問題を問題として認識せずにすませるための回路のようなものが、ここでは必要になるのだ(とはいえ、現実には支配そのものが目的の者ほど市民を愚民視しそうな気もするが)。

ここで問題なのは蔵人のインテグリティではない。厳密には重大な問題だが、そういうひともいるだろうし、こころでおもうことまではとめられない。ひっかかるのはそこではない。彼が、強く正しい国家を求めているということである。こんにちにおける国家とは、定義的には理念以上のものではない。わたしたちがそれぞれに、国と聞いて思い浮かべるものの平均的図像、それが国家にほかならない。極端なはなし、人間が誰もないジャングルのなかに「国家」が誕生することはない。だから、もし国家が理念をこえて量的なものになるとすれば、それはそれを構成する国民の総和という手続きを必ず経由することになる。にもかかわらず、蔵人は国民を「愚民」と切り捨てたそのくちで、高潔な理想を語るのである。これが成り立つためには、当然彼のなかで国民と国家が断絶していなければならないことになる。これは強者の理論である。というのは、絶対王政とかのちにあたまをもたげた全体主義とかは、こうした国家観から生まれてきたものにちがいないからである。ここでいういわゆる国家とは、どちらかといえば近代的なものであり、寡頭政治的なかつての「国家」というものは、ただ強者の巨大な家のようなものにすぎなかったはずだ。とすると蔵人は原始的国家を夢見ているかというと、そういうことでもないだろう。彼はあくまで善なるものを探究するものである。問題はそれがどこでどのように転倒するのかということだ。

ポイントは、彼の考える検察の強さとか国家の正しさとかいったことだ。この言説が自明のものとして含むのが「強さ」「正しさ」だということなのである。彼のなかでは、「正しさ」、つまり善なるものの輪郭が、非常に明瞭に浮かんでいるのだ。

 

これまでくりかえしみてきたことだが、この点こそが、九条とはっきり考えかたを異にする分岐点である。九条はふたりのちがいを、あなたに見えないものがじぶんには見えるという言い方で表現した。これは『星の王子さま』の基本テーゼを思い起こさせるものだということも何度も書いた。ここで見える見えないを分かつのは言語であり、もっといえば大人のロゴスである。となりあうあるふたつの言語が、ほんらいなめらかに連続する事象をふたつに分かつ。分かたれた事象は、そのふたつの語によって表現可能である。だが、そのふたつの語をあわせてみても、もとの事象そのものにはならない。ピアノの鍵盤のシとドのあいだにも音はあるが、西洋近代音楽の理論は原則的にそこを汲むことはない。蔵人にとっては、ピアノで表現できないその音は存在しないし、仮に存在するのだとしても、考える意味がない。では九条はというと、セロニアス・モンクがそうしたように、シとドを同時に叩き、不協和音のなかにロゴスの見落としを探り当てるのである。

 

蔵人にとっての揺るぎない善は、法律という言葉の宇宙によって保証されているものだ。ここには「正しさ」がある。「強い」検察は、九条のようなにえきらない態度でもたもたどうでもいい「愚民」を相手にするものではなく、ただ正しさを断定していくものだ。ここでの「愚民」は、九条が指摘する彼の見落としの、別のかたちでのあらわれといっていいだろう。まさしくその人間の愚かさ、善や正しさという面からでは測定できないような価値判断、こういうものが、現実には「世論」を形成している。だから、これは選民思想的なものとも異なるのだ。蔵人には見えていないのだから。彼には、この国民と国家の断絶ということがそもそも見えていない。検察を「強く」しているのが彼の意識的にか無意識的にか見落としている人間の「愚かさ」だという矛盾にも気付くことはない。それに気付くためには、見落としがあるかもしれないという保留の姿勢が必要になるからである。彼には九条というアウトロー弁護士がいるというのは、こう考えるとむしろ強みのような感じもするが、現実には、その見落としをただ「愚民」として切り捨ててしまうのとまったく同じ手つきで、彼は弟を口内炎のようなものとしかおもっていないのだ。

 

市田のもってきたネタとはなんだろうか、というところで、今回の猛の件、また九条そのものの進退ということがかかわってくるのだろうとおもわれるが、今回もうひとつ気になったのは蔵人の喫煙描写である。ぼくじしん喫煙者なのでこんなことをいうのもナニだが、完全無敵超人みたいな蔵人がスモーカーだというのは少し意外ではないだろうか。まだ断定できる段階ではないが、これは彼の完璧無敵人生の瑕疵のようなものにもみえる。つまり、弟のことだ。とすると、彼はひょっとして弟を求めているぶぶんもあるのかもしれない。喫煙者にとってのタバコは、瑕疵であるとともに大切なものでもあるからだ。周囲に配慮しつつ、またからだに悪いこともしりつつ、やめられないタバコのようなものとして、彼はどこかで弟のことをとらえているのかもしれない。

 

 

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去年末、29日ころだったとおもうが、コンビニパスタかなにかを食べていて、左上あたりの歯になにか違和感が生じ、うがいや歯磨きをしてもなくならず、指でごりごりいじっていたら歯が欠け落ちた。相方に確認してもらうと、たしかに歯が欠損していて、どうも黒くなっているようだった。

この歯はじつは、以前より歯ぎしりによって痛んでいたところだった。睡眠時の歯ぎしりじたいは少なくとも高校生のときからしているようだが(修学旅行で友人に指摘されて発覚した)、それが日中の耐え難い痛みをもたらすものになったのはこの3,4年くらいのことだ。いろいろマウスピースを試してみたがなかなかいいものに出会わず、いま使っているものを相方が見つけてきてくれるまでは、ときに気が遠くなるほどの痛みに耐えなければならなかったのである。だが最近は強い痛みは消えていた。相方が見つけてきたそのマウスピースが非常にあっていたのかなんなのかよくわからないが、歯ぎしりじたいはしているものの、日中痛くて耐えられないということは、去年のなかばくらいからなくなっていたのである。

 

 

ぼくが使っているのはこれ↓ 何種類か試したが、マウスピースの要諦は「唇を自然に閉じることができるかどうか」というところにある。そうしないとよだれがだらだら出てしまって寝るどころではないので。だからひとによってちがいはあるとおもうので、いろいろ試さないといけない。お湯で成形するのもやったことあるけど、ぼくが不器用なせいか、うまくできたためしがない。

 

 

 

 

まずそういう事情があった。そして、今回歯が欠けたところがまさに、歯ぎしりによってもっとも痛んでいたところだったのである。マウスピース装着によって、歯と歯の接触はなくなったが、強いかみ合わせじたいは行っているはずなので、なにかよくわからないがなにかがなにかして、砕けてしまったのかもしれない、そんなふうに考えた。黒いのも、そんなに気にしていなかったというか、おそらくたばこの着色汚れだろうとおもわれた。よく気にしてケアしているのでそんなにないのだが、まれに、気づかない箇所が黒くなっていることはあったのだ。そして、ぼくは虫歯という虫歯がほとんどない人間である。過去に奥歯という奥歯を大治療したことはあるものの、虫歯は日常に存在しない人間だった。虫歯になりにくい体質があるということはどこかで聞いていたので、たぶんそうなんだろうと。

だが、年末ぎりぎりに歯医者にいって、それがちゃんとした虫歯だということがわかったというはなしである。

タイミング的に最悪だったということもあって、歯医者通いはなかなか難しいものがあった。まず、年末のその一回きりで、かかりつけの歯医者は正月休みに入ってしまった。歯の状態としては、とりあえず削って、仮詰めをしただけだったのだが、気を付けてそちら側を使わないようにしていたにも関わらず、翌日には仮詰めがはずれてしまった。世はまさしく年末年始、かかりつけもなにもなく近所の歯医者はすべてお休み、ネットで調べても放置はよくないということで、自治体運営のなんとかセンターみたいなところまで出かけて再び仮詰めをしてもらった。これが1月2日とか3日とかそのくらい。その一週間後くらいに、予約していたかかりつけ医のところに再び行き、正月中にこれこれこうなったからこうなっていると説明、本格的な治療に入るとともに、歯の欠落部分だけでなく、9割がたがぽろりと落ちるという事態に。そこではじめて、担当医も想像していなかったほどにひどくやられているということがわかったのである。

歯を抜いて差し歯的なことにするか、選択肢はあったものの、けっきょくは生きている歯を残し、神経を抜いて、埋めていくというはなしになった(この神経をぬくぬかないでもひと悶着あった。ぬかないでも大丈夫そうということだったのだが、やればやるほど状態の悪さが発覚していく感じで、最終的にはそうなったのである)。で、とりあえずこのときはふたたび仮詰め状態に。

ここで不運が重なり、歯医者の先生に不幸があったとかで、1か月近く休業ということになってしまったのだ。むろん、その間に元気な仮詰めがじっとしていてくれるということはなく、都合3回はずれてしまった。最初に2回は別の歯医者にいって事情を話し、最後のはもう診療予定日ぎりぎりだったので放置。いまもまだそのぶぶんの歯はない。根の治療が完了しないと歯をつくることはできないのだ。

 

大病のことをおもえばどうということもないはずだが、休日の半分くらいは必ず歯医者に行かなければならないというのは地味にストレスである。年末からずっと右側でしか噛んでいないというのも、顔のかたち変わっちゃうんじゃないかみたいな不安もあるし、もともと食べるスピードが遅い人間なのに、牛丼屋とかいくとわかるが客が2巡くらいするペースでしか食べれないし、だいたい疲れるのである。はやく、はやく終わってくれと願いながら歯医者に向かうが、今日も根の治療のみ、先には進まないのだった。

 

 

気になるのは冒頭書いた歯ぎしりとの関連性である。歯医者の先生にそれとなく話してもなんか特にコメントがなくスルーされたのだが、因果関係があるとすると、どういうことになるだろう。歯ぎしりでひどく損傷していて、いわばけがをしているところに、ばい菌が入ったみたいなことなのかもしれない。だが、この虫歯は実はかなり削っていくまで痛みがなかった。そう、つまり年末に歯が欠けてから、年明けに神経をぬくぬかないのはなしになるまで、痛みはまったくなかったのである。だから、当初は神経はそのままにしようかということになっていたのだ。痛みがないということは、完全に死んでしまっているということなので。ぼくはそれを、頑丈なマウスピースも10日程度でだめにしてしまう、あのかみしめによって起こったことだと解釈した。げんにそのことによって去年なかばはひどい痛みに悩まされていたわけで、じっさいあれは神経系の痛みだったようにおもう。こういう経緯があったから、ぼくとしては歯ぎしりによって神経が死に、またひび割れのようなことが起きてばい菌が入り、こうなったのだと考えた。けっきょく奥のところでは神経は生きていて(神経に奥とか手前とかいう概念があてはまるのかどうかはともかく)、治療しつつ痛みがわかり、ぬくことになったわけである。ただ、ひとつうれしいのは、当然のはなしになるが、いま強いかみしめによって損傷していたあの歯のぶぶんは、空洞になっているのである。歯ぎしりは、根本的な原因としてはストレスとか睡眠障害的なことがあるだろうが、どの歯が痛むかということに関しては、かみあわせの問題となる。歯を閉じていき、噛んだときに最初にあたるぶぶんに、当然負荷がかかることになるのである。そこの歯がいまはもうない。拳がちょんぎれたまま手首の骨をドリアンにぶちこんだ独歩の気分である。

 

そうとうに意識していても、仮詰めはほんのちょっと歯ブラシが触れたりするだけで落ちてしまうことがある。なので最近はもうその周辺を磨くことはあきらめ、なるべく使わないようにしつつ、下のうがい薬でひんぱんにうがいをするようにしている。

 

 

 

 

 

 

 

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第141話/「マスキュラー」ポーズ

 

 

 

 

宿禰との手四つをオリバが圧倒する。握力でダイヤモンドをつくりだす宿禰を、いくら力自慢とはいえ、オリバが圧倒しているのである。身長差も30センチくらいあるとおもうが、もはやオリバのほうがうえの目線であり、宿禰は左手の手首に右手を添えてようやく耐えている感じだ。

 

だが、これには理由がある。うっかり忘れていたが、宿禰はジャックによって、試合前に小指を奪われているのである。それがいま使っている左手だったのだ。純粋な力比べと見せかけて、オリバは右手で宿禰は左手ということもある。前回考えた、「筋肉はすべてを解決する」が暗黙の了解で含んでいる条件のようなもの、ここに、オリバはなにくわぬ顔でこうしたじぶんに有利な状況を忍ばせているのだった。宿禰の薬指の外側にオリバの薬指と小指が食い込んでいる状態だ。薬指と小指はもともとひとつの強力な指だったという説もどこかで聞いたことがあるし、たしかにこの状況はいくら宿禰でもつらいかも。

 

このまま屈してしまうわけにはいかない。宿禰が右手をはなして張り手をくりだす。至近距離でもあり相当な衝撃で、オリバの手も離れる。オリバは平気な顔のまま、宿禰は決して弱くないという。ただ、小指が欠けていることの意味を説く。おそらく、宿禰を二代目野見宿禰たらしめていたダイヤモンドのあの儀式、あれが、小指なしではもはや不可能であるというはなしだ。これは「強いことは強いけど、もう「野見宿禰」じゃないよね」という意味だろうか。

 

宿禰の踏み込みにオリバが拳をあわせる。一瞬間があいたところで、体勢を立て直した宿禰は異様なものを目にする。まん丸の球体と化したオリバである。バキ戦で見せたパックマンだ。「なに・・・?これ・・・」という宿禰のふつうすぎるリアクションにちょっと笑ってしまった。

 

 

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来なさい。降参か?と煽るオリバだが、その前に宿禰はあまりの筋量に感心してしまっている。オリバの基本イメージはボディビルダー、トレーニング方法も格闘技者というよりは筋肉を育むものだ。その見た目が一種の感心を誘うのは自然なことである。だがそれにしてもすさまじい筋肉なのだ。宿禰はこれをモストマスキュラーポーズと受け取る。ふつうこのポーズは、コンテストの最後に、ポーズを指定されない自由時間などで選手が見せるものだが、それの究極形としての「球体」だと宿禰は受け取ったのである。その視点は新鮮だ。

勇次郎と出会ったときと同じく、宿禰は「世界は広い」「こんな男もいる」という感想を抱く。オリバの煽りを受け、喜びとともに跳躍した宿禰がこれを踏みつける。しかしながら信じがたい感触とともに宿禰は弾き返される。巨大なスプリングでも踏んだかのような弾力なのであった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

オリバのパックマンはマッスルコントロールを闘争に組み込んだ実にオリバらしい方法である。マッスルコントロールとは筋肉の緊張と弛緩を自在にコントロールする技術で、胸の筋肉をぴくぴくさせたりするのもその一種だろう。曲芸的に力こぶが僧帽筋を通って反対の腕に移動するように見せたりすることもある。オリバはこれが全身でできる。つまり、ちからをこめようとおもえばどんな場所でも、どんな小さな筋肉でも、そこだけを膨らませたりかためたりすることができるのだ。格闘技者やアスリートは基本的に筋肉をあるひとつの目的に向けて働く連続体ととらえるものだ。だがボディビルダーはそうではない。これは、筋肉を小さなところまで細分化してアイソレートして鍛える、極めてボディビルダー的な思考法がもたらした闘争技術であるといえるのだ。バキ戦ではこの方法でバキの攻撃を弾いていた。たとえば前腕のあたりを蹴ったとして、蹴りのちからが前腕の緊張に劣るというのは考えにくいわけだが、そこはこの体勢そのものにも意味があると見たほうがいいだろう。要するに、このかっこうではちからを入れても入れなくてもちょっとした刺激でころころ転がっていってしまう。つまり、そうならないために、オリバはもっと複雑なコントロールを行っているはずなのだ。たんに「ヒットポイントにめっちゃちからをこめる」というだけの技術ではないのである。ないのであるといっても、じゃあなにをしているのかっていわれると、ちょっとよくわからないが・・・。

 

ただ、このオリバボールは基本的には防御の技術である。パックマン的に相手を内側にのみこんで、ぐったりするまでもみほぐし、ペッとすることはできるが、ふつうに考えて宿禰はさすがに飲み込めないだろう。とするとオリバはただ防御に徹するだけとなってしまう。バキ戦でもけっこうとっておきっぽい技だったし、パックマンから先がまだある可能性もある。たとえばすごい転がるとか。そうでないと、だからなに?ってなってしまう可能性が高い。少なくともアライジュニアはため息とともに丸まったオリバをそのままにして帰宅してしまうだろう。

 

 

ただ、これまでの三角形・逆三角形のくだりと比べて考えてみると、少し興味深い。いままでのところでぼくはこれを、ごく単純化して守りと攻めのタイプととらえてきた。要するに土台のしっかりした三角形の体型で聖地を守る宿禰のありようと、バランスを欠くものの肉食獣的な攻撃力で相手を屈服させる攻めのありようである。じっさい、そういうふうにはなしは進んできたようにおもう。そういうところで、オリバが球体になったのである。みたように、オリバボールじたいは守りの構えといえる。だがこれを図形的に考えたとき、球体は両者を弁証法的に包括したものとなる。三角形と逆三角形のちがいは、上下に区別があるところで生じる。数学的には差がない。ただ、重力がわたしたちにもたらす上とか下とかいう感覚が、ここに区別を設けるのである。しかし球体、あるいは円というものには上下がない。むろん、ある点に色づけなどをすればはなしは別だが、数学的な世界に重力を持ち込んで生じる上下の感覚が備わった世界の段階では、円に上下の区別があらわれることはないのだ。つまりこれは、三角形・逆三角形の図示で比較されていた攻めとか守りとかいうタイプを超越したものなのである。もっといえば、そもそもその上下の感覚をもたらす重力というものが、地球という巨大な球体によってもたらされているものだ。円周が中心に向かうちから、それが重力であるとするなら、上下の感覚のみなもとは、足元にある球体なのである。そうなると、これは二種の三角形をともに含むというより、そうしたせめぎあいが生じる前の段階であるともいえるのかもしれない。いずれにせよ、オリバボールは攻めとか守りとかいう「言葉のあや」を克服するちからをもっているのだ。

 

文字通り象徴的なたたかいとなっているわけだが、具体的にいって、ではここからオリバはなにをするのかというと、よくわからない。つまり、パックマンはいくらなんでもできないし、あとは転がるくらいしか攻撃方法がなさそうなのだが、いったいどうすれば・・・。でも、中心に向かうちからが上下を生むという考えからすると、やっぱりパックマンなのかなという気もする。もし宿禰をパックマンすることができたら、サイズ的にブサイク総統に殺されかけたときのタンクトップマスターみたいになりそうで嫌だな・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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