第72審/至高の検事⑧
犬飼が京極の息子・猛を葬ったころ、京極は九条を訪ねていた。てっきり不透明なお金を隠すためかとおもっていたが、純粋に息子をおもう気持ちもあるようで、京極は財産を息子に預けようとしているのだ。九条は無理だと断ったが、京極は息子への愛を語って食い下がる。嵐山ら警察はいま伏見組の企業舎弟をマークして脱税で捕まえようとしているっぽい。それも理由のひとつではあるようだが、だから隠すというより、おさえられる前に息子にあげてしまいたいというところのようだ。もしあと1年で死ぬならと、京極が唐突にたとえばなしを始める。残された時間を愛するものに捧げ、生きた証を残したいと。
猛の拉致を依頼したもののところに犬飼たちがやってくる。チャイムを鳴らしまくり、警戒心より怒りを引き出して無理にドアの外に出させた感じだ。男が出てくるなり刃物をもった手で殴り、部屋に乱入。全財産を寄越せという。犬飼は京極の息子だとは聞かされていなかったのだ。逃げるのに金がいるというはなしだ。
男の部屋からはものすごい札束が出てくる。さらに犬飼らは男を連れ出しATMに向かう。その様子を、なにものかが遠くから撮影している。札束をとられた男は妙に落ち着いており、これは、はめられている感じだ。
壬生たちはモブマッチョを総動員して犬飼を探している。犬飼は壬生から逃げているわけではないのだが、まだ拉致した相手が京極の息子だとはわからなかった段階で、スマホの電源を切ってSIMカードを抜き、しばらく隠れるように指示されたため、どこにいるのかわからないのである。それとほぼ同時に猛の行方がわからないという連絡が京極から入ったのだ。なので壬生からすると、犬飼がさらったのが猛だという確証はないのだが、もうまちがいなくそうだということで行動しているようである。
車のなかで久我がこの件に関係はない心配事をくちにする。グループ内に明らかに品質では劣るのに妙に売上のよい飲み屋みたいな店がいくつかあるという。壬生は、伏見組の資金洗浄をしている店だと応える。口を割らないものを選んでやっているそうで、だから末端の久我は知らなかったのだろう。壬生によれば、毎年世界で2兆ドルの金が洗浄されており、実は犯罪組織のしめる割合は1%にも満たないという。ほかは富裕層の連中で、タックスヘイブンの国を利用し、税金逃れをしているのだ。国は取りっぱぐれたその税金を貧乏人からとる。
前の車が青信号なのに停まったままだ。久我がクラクションを鳴らすと、小さい肉蝮みたいなのが出てきてスパナで威嚇する。が、刺青びっしりの壬生がひとこというだけでミニ蝮は逃げていってしまうのだった。煽り運転やるのは心が貧しいクソだと壬生はいうが、うん? たしかにミニ蝮の車はへんなところに停まっていたわけだが、後ろから、煽る、といわないまでもせかしたのは久我のような・・・。
そうして、よく壬生たちが悪いことをするのに使うボーリング場の廃屋に到着。犬養が猛を拷問していたところだ。GPSかなんかで最後の居場所がわかった感じかな。そこには猛の顔を覆っていたビニールが落ちており、血がたくさんついている。最悪の状況に備えて行動しようということで、壬生は猛が死んだと断定するのだった。
つづく。
はなしとしてはまだ過渡的な段階だが、大人たちがいろいろ動き始めた感じだ。
壬生は犬飼のことをどう見ているのだろうか。ふつうに考えると、誘拐を依頼されて、特に調べもせず、相談もなく実行し、それが京極の息子だったということもナチュラルに連絡なし、独断で殺して埋めてしまう、というのは、そうとうに厄介なもの、ヤクネタである。
だが、厄介どころか、犬飼はそもそも壬生に殺そうとしていた人間だ。それを壬生は飲み込み、味方にした。この動機がはっきり見えてこないことには、壬生の感覚というのはうまく読み取れないかもしれない。
犬飼は菅原とともに壬生から金を奪おうとして大勢のモブマッチョとともにこれを包囲した。しかしモブマッチョはすべて壬生に寝返っており、逆に彼らはやられてしまった。菅原は仕事のできる男であり、若い不良への影響力という点でも殺しには惜しい男である。こういう意図でもってか、壬生は菅原を殺さず、協力するよう求めた。犬飼に関しては、壬生に依頼された殺人で10年も刑務所にいたことについて、詳細を知らされていなかったり、面会にこなかったりといったもろもろを含めて犬飼は恨んでいたわけだが、それもこれもじぶんの選択である、という自己責任論で壬生はこれを一蹴した。だが、バカがバカのままバカをした、というふうには片付けず、京極を乗り越える夢を語り、壬生は犬飼をも、心服といかないまでも納得させ、引き入れた。以上が経緯となる。
あの場面におけるいちばん大きなポイントは、菅原がいたということだろう。壬生襲撃の現場に菅原が関わっているかどうかで、壬生の行動も、展開も大きく変わっていたにちがいないのだ。もっとはっきりいってしまえば、いまの展開では壬生はかなり犬飼に感情移入というか赦しの態度をもって接しているが、もし菅原があそこにいなかったら、ふつうに殺していた可能性もかなり高いのではないかということだ。それくらい、菅原は大きい存在のはずである。まずキレモノである。久我が壬生を慕うように菅原を慕っている若い不良も多いはずだ。壬生は、失われるものと手に入るものを、菅原を殺したときと生かしたときで比べて、けっきょくは仲間にしようということになったにちがいないのである。
以上のことを考えあわせると、壬生は「菅原を生かすことで手に入るもの」をそのまま保存するために犬飼を殺すわけにはいかないという結論に至ったということになる。「菅原はほしい、でも犬飼はヤクネタだからいらない」ではだめだったのだ。菅原を求める以上、犬飼も救わなければならない、そうしないと一貫性を欠く、そういう状況だったのである。そうでないのなら、壬生は菅原がいなくても犬飼を助けていただろうと、こういうはなしだ。
ひとつ浮ぶのは、一種の感情移入ということがある。じぶんが京極の犬であるように、間接的には犬飼もそうである。つまり相似形なのだ。だが厳密にいえば壬生は犬飼には感情移入していない。というか、いっさいのその手のコミットメントを自身に封じているようなところがある。菅原を仲間にして大きな存在になろうというはなしについても、なにかファミリーのようなものが想定されているわけではない。わたしはわたし、あなたはあなた、というような冷たさはどこまでも残っている。だからこれは壬生の行動の原因となっているというより、むしろ犬飼に対する説得材料のようなものにおもえる。犬飼が「小さいじぶん」だから助けた、というのは順序が逆のようにおもわれるのだ。
ではなぜ壬生は犬飼を助けたのか。もっと厳密にいえば、菅原を助けたことによって生じた「犬飼を助ける理由」はなんだったのか。また、菅原が関与していなくても犬飼は助けられたとして、ではその理由はなんなのかということだ。
前者、菅原を助けたことによって生じた「犬飼を救う理由」は、やはりパフォーマンス的な意味合い、「どう見えるか」という点について考えたほうがいいだろう。壬生が菅原ばかりか犬飼まで救うことでなにが表現されているかということだ。大きなものは、その野心と懐の深さだろう。あそこにいたモブマッチョたちはそれだけのことをしてでも京極を乗り越えようとしている壬生の決意を読み取ったことだろうし、清濁あわせのむ男っぷりをみて信頼も新たにしたはずだ。そういう、リーダー的な人物が表示すべき「大人の態度」のようなものが、ここでは表現されていると考えられる。役に立つから、という理由で菅原だけを救うのと、理由については明確にせず両方救うのでは、印象がかなりちがうのである。この考えでいえば、菅原がはなしに関与していなくても、犬飼もまた、単独で救われていたかもしれない、ということにもなる。どうしても壬生が金本を殺している件が引っかかって、ほんとうにそうなるかなという気にもなるが、あれは金本のせいで伏見組の幹部が逮捕されてしまったからである。おそらく京極が命令したのだろう。
そうしたわけで、壬生にとっては犬飼がヤクネタかどうかというのはどうでもいいことなのかもしれない。というより、不良たちを取り仕切っている以上、なにもかもが起こりうることなのだ。その低体温的なあきらめの感覚が、壬生の個性といってもいいだろう。菅原たちを引き入れたあのときの壬生のふるまいがパフォーマンス的なものだということは、いわば外部からの評価であって、壬生じしんがどういうつもりだったのかということはわからない。おそらく、ここに至るまでの修羅場で身についた、正解を引くための自然の行動なのだろう。だがその行動原理はなになのかというはなしだ。壬生にかんしてこれまで語られてきたもので唯一確実なのは、自己責任論である。これは犬飼だけでなく、数馬にも語っていたことだ。じぶんの頭で考えて、じぶんで決定せよということである。自己責任論というのは通常、一般化ができない。他人に求めることができないのである。自己責任を語る際に登場する人物は自己ただひとりだ。通常、ある理論を一般化するとき、事物は統一的な単位のようなもので想定される。ところが自己責任論が問題にするのはそれをくちにする「自己」のみである。自己が自己をどう感じているかということだけを手がかりに立論しているのである。だがこれは、逆にいえばじぶんがじぶんに語りかける際、つまり戒めるときには、有効であることもある。そしてこれをさらに広げて、対象が愛するもの、じぶんの分身のようにおもえるものであるときも有効だ。つまり、親にとっての子や、教師にとっての生徒である。こういう状況であれば、一般化できない自己責任論が誰かに語られるという状況も生じうるのである。
壬生は「じぶんの経験」が相手にも当然生かされるものだと考えるタイプの蒙昧ではない。おそらくは相手を買っており、もしかすると自分と似ていると、そのように考えたとき、彼はこれをくちにする。じっさい、数馬についてはそんなところがあった(と書きつつ、壬生はどこまでも本音が見えないので、わずかには疑いもある)。壬生が犬飼についてどのように考えているのかは、数馬以上によくわからないわけだが、諸悪の根源は京極なのだとはしても、たしかに壬生は犬飼に殺人を依頼してはいるのだし、そこに加担したことにじゃっかんの負い目はあるのかもしれない。だが、そうなのだとしても、それを自己責任論で解釈すれば、選択したのはけっきょくじぶんであり、恨みなど発生しようもないのである。そこに、壬生は犬飼の圧倒的な未熟さ、つまり「未完成」を見ているのだ。となれば、この感情は大人が子どものいたずらを赦すときの感情ということになる。もちろん、今後の展開次第では、ふたりの関係が丑嶋とマサルのようになる可能性もある。だが現段階でそれは、ただ「大人と子ども」の関係のように見える。一般化できない理屈だとわかっていても、われわれ大人はたとえば「先生のいうことは聞きなさい」みたいなことを子どもいうだろう。壬生が犬飼を救ったときの感情の回路は、これに近いのではないだろうか。
自己責任を原則にしつつ、それを一般化はせず、組織として巨大化していく。それはまるで社会そのものである。おのおのが自身の責任のもとに組織に属し、じぶんのあたまで考え、行動する。これを是とする壬生グループは、当然に今回のような不測の事態も最初から含んでいる。ミスや反抗をありうるものとする組織だからこそ、大きさや強度を求める壬生は、積極的に菅原や犬飼のようなヤクネタも引き入れることができたのだ。だが、このはなしは自然に、そのミスが行き着く先をそのもの個人に帰着させることになる。九条や蔵人が関わって、これから複雑になっていくであろうはなしがどこかに落ち着いたとき、壬生が犬飼にどのような責任のとらせかたをするかで、ここまで考えたことがよりはっきりいえるようになるかもしれない。
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