すっぴんマスター -35ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

今年は藤田祐樹『ハトはなぜ首を振って歩くのか』から宇野千代『雨の音』まで17冊の本を読んだ。去年が22冊、病みに病みまくってまったく本が読めなかった2019年の15冊とほぼ同じになった。

しかしとはいえ今年はいろいろ手応えを感じられもした。まず、この17冊には英語の本が含まれている。『Eleanor&Park』である。3年くらい時間をかけているし、そもそもYAあつかいの易しい英語なので、とりたてていうようなこともないのだが、紙にせよ電子にせよ、これまでは洋書を買ってもぜんぜん読みきれなかったのだ。調べたら2011年の不思議の国のアリス以来である。

それから、去年と同じく、電子書籍で青空文庫もたくさん読んできた。明治時代の短めの小説や随筆がメインで、物語不足はここで補うことができた。去年は通勤時間がけっこうあったので、そこで電子での読書が習慣づき、今年は勤務先が家に近くなったぶん通勤時間が短くなり、以前より読まなくなったものの、その習慣は生きていたという感じである。

青空文庫に限らず、電子での読書をけっこうしてきたなという印象もある。ここでいう青空文庫は、キンドルで読んできた。それと並行して、おもに安売りなどのタイミングを狙って、いろいろ買いだめもしているのだ。ぼくのものを知らない問題に対応するためにビジネス書的なものにも食指を動かしてきたが、振り返ってみるとちゃんと読みきったものは『サクッとわかるビジネス教養 地政学』だけか。この手のものはバカにされがちだが、ともかく一般常識、一般教養的なものに欠ける人間なので、いろいろなことを網羅的に学びたかったのである。最後に読んだことになる『雨の音』も、講談社のセールで手に入れた電子書籍だった(講談社の学術や文芸はときどきこういう、どうかしてるとしかおもえないセールをアマゾンで行うので、注意してみているといいですよ)。宇野千代は中毒性の高い文体で、いつかしっかり読みたいとおもっていたので、衝動買いしたのである。ほかにもたくさん買ったのだが、まだぜんぜん読めてない。本田済『易学 成立と展開』は、おもしろいのだけど、電子で買うべきではなかったと後悔している。八卦や六爻など、表を見て理解しなければならないものが、紙ならばすぐに到達できる表のページを、電子では探し出すのにかなり手間がかかるのである。おもしろいのになあ・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

今年最大の達成は、映画の記事にも少し書いたが、「読んだけど記事を書かない」ができた、できただけでなく、習慣レベルに落とし込むことができたということである。

あちこちでくりかえし書いてきたように、ぼくはそもそもこのブログを訓練のために開設した。ひとつには、書いたものに自信がなくともとにかく公開する、誰でも読むことのできる場所に置く、そうすることで、当時欠けていた(と自己分析した)文章の緊張感を得ようとしたのである。また、職業的な文章力をつけるために、「読んだものについて必ず文章にする」ということも実行してきた。おもしろかったのかつまらなかったのか、そういう電気刺激的な、感情の痙攣みたいなことは、この文脈ではどうでもよかった。もしそれがつまらなかったり理解できなかったりしたら、むしろ腕が鳴る、そのくらいになりたいと考えたわけである。そしてそれは、予想した以上の効果をあげたとおもう。まあ、その「効果」のほどは読者のみなさんが判断することなので、あまり言及しないが、意味はあった。そして、ぼくにはよくあることで、そうして極端に走った結果、期待していない効果も呼び込むことになった。もともと読むのが遅かったぼくが、もはや読書家とは名乗れないほどの読書量になってしまったのである。書いた本人が読むかもしれない、その作品の専門家が読むかもしれない、そういう緊張感を求めて書いているのだから、当然精読することになる。てきとうなことは書けないからだ。しかしそのぼくが求めた緊張感と読書量は反比例することになったというわけである。かくして、いつしかぼくは、「読んだけど書かない」を実行しなければ、と願うようになった。だが、それはなかなか実現しなかった。いいことなのかわるいことなのか、いつのまにかどうしても書かずにおれず、そのままにしておくと気持ち悪くてしかたない、そういうふうになってしまっていたのである。

だが今年はそれがナチュラルにできた。たぶん電子書籍の読み捨てのような感覚が根付いたおかげだろう。読み終えてすぐそれを忘れるということが、自然にできるようになったのである。じっさい、読んでからなにも書かなかったものは電子が多い。『雨の音』や地政学の本もそうだ。ほかには、高橋昌一郎監修の『認知バイアス事典』や、カール・シュミットの『陸と海』などが該当する。この『認知バイアス事典』なんかはめちゃくちゃおもしろくておすすめなんだけど、たんにおすすめするだけなら、書評の体裁で構える必要もなく、いまそうしているように、おすすめですといえば済むことでもある。必要ならそういうライトな記事をどんどん立てるようにしていけばよいのである。(ちなみに認知バイアス事典は第二弾も出ており、既に購入済み)

 

 

 

 

 

 

 

 

読書には乱読と精読の時期がそれぞれに必要だというのが持論だ。特に若いころ、二十歳くらいまでは、わけもわからずたくさん読んでいることが望ましい。じぶんがいままで読み損ねているから例に出すのだが、『カラマーゾフの兄弟』を高校生が完全に理解する必要なんてない。しかし、とりあえず読んでおく。わからないところは飛ばす、そういう時期が最初に必要なのだ。それが、精読の体力を育む。そしてやってきた精読の時期に、思考力や文章力、分析力を高めていく。が、このはなしでいえば、きっとある段階で躓きがやってくるのである。それがおそらくいまなのだ。これからしばらくは乱読の時代をすごしたいとおもう。といっても、読むのが遅いのは変わらないとおもうが。

 

「ものを知らない問題」に関して言えば、出口汪『早わかり文学史』や丸谷才一『日本文学史早わかり』などがよかった。出口先生のほうは明治以降の近代をあつかった受験生向けの本だが、読み物としてのおもしろさもじゅうぶんである。特に森鷗外について熱い口調がすばらしかった。丸谷才一は題名がもたらす印象からははるかに遠い、ふつうに文芸批評な作品だったが、これもおもしろかった。

 

通勤時の読書ではネットで読める論文や論説を拾って、キンドルや、なんだかわからないがスマホの「ブック」という機能に収めて読むようなこともかなりやっていた。読んだら消しちゃうけど、覚えている範囲では、藤井一亮「公民教育研究」、岡成玄太「裁判官の私知利用の禁止」、渡辺千原「法を支える事実」などを読んだ。私知利用と立法事実のはなしは興味として連続しており、来年も引き続き(通勤時に)研究していく。

 

さて、小説と評論、それぞれに今年いちのものを毎年決めているわけで、2022年はどうしようかというと、小説は白井智之『人間の顔は食べづらい』、評論では風間賢二『怪異猟奇ミステリー全史』ということにする。白井智之は今年唯一の「発見」だったかもしれない。もともとは、飴村行の粘膜シリーズに終わりが見えてきて、それがさびしくて探し出した悪趣味作家である。これでしばらくは大丈夫そう。そしてその白井智之をそもそも紹介してくれたのが『怪異猟奇ミステリー全史』だったというわけである。もともとは、地政学や文学史の本同様、広い知識を身につけるために手に取ったはずである。ミステリはどちらかといえば得意な分野だが、こういう人間なので、すべての知識がふわっとしている。そこで、得意ならもっとその強度をあげようとしたわけだが、そんな次元の本ではなかった。博覧強記の風間先生が怪奇系ミステリを中心に文学史を語りつくす、知的興奮不可避のとてつもない一冊である。本が好きなひとはぜったいに読んでください。

 

 

 

 

 

 

 

 

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記事を立てるほど読んでいないのだが、毎年やってることなので。

今年は『GIGANT』10巻から『HUNTER×HUNTER』37巻まで、ぜんぶで47冊の漫画を読んだ。去年が83冊。

書店でコミックを担当していたころは、もともとがあまり漫画を読んでこなかった人生であったため、遅れを取り戻そうとするように、年間400冊近くの漫画を読んでいた。なにごとも似たようなことになりがちだが、極端なふるまいは、効果としてよいものとわるいものを同時的にもたらすものである。これくらい読めば、それは当然漫画リテラシーみたいなものはついていく。現状九条や刃牙感想などで、文芸批評的なもの以外の、いかにもな漫画読解的な着眼は、このころの経験に足場があることは疑いない。だって、ドラゴンボールとか幽遊白書時代のジャンプ作品、それにちびまる子ちゃんレベルの国民的作品を除くと、それまではぜんぜん読んでなかったんだから。だが、こんな勢いで増殖する漫画を整理整頓して保持するなんてことはぼくにはとうてい不可能なのである。経済事情も深刻だった。漫画は、基本続いていくものだから、ある作品を一冊読み始めるということは、そこから2〜5巻、長い場合50巻とか、買うことになる(かもしれない)覚悟を決めるということなのである。

そうしたわけで、コミック担当を離れてからは、読む漫画を減らす努力をしてきたのだ。新刊の継続購入を断った作品もいくつもある。いまではそれを後悔してる作品もあるが、あのとき、つまりコミック担当を離れたときというのは、店が閉店になったときで、まったく納得いってなかったぶん、いささかヤケになってそういう行動に出てしまったのである。まさかそのあとすぐ別の会社で再び書店員になるとは想像できなかったのだ。


さて、この47冊というのは、適量なのだろうか。月4冊程度なわけで、常識的な数にも見える。だが、いまの書店所属で書店から離れている状況もあるのだろうが、正直「美的感覚が硬直、もしくは老いている」という感じは否定できない。今年もネトフリやアマプラでアニメをたくさん見てきたが、たとえばチェンソーマンにはまるわけである。で、グッズを探して相方とアニメイト的なところにいく。すると、チェンソーマン以外のアニメをひとつも知らない、なんなら区別もつかないという状態であることに気がつくのである。いまはわりと保守的なひとたちのなかにいるのでよけい見えにくくもなるが、フレッシュな表現方法はフレッシュな世界の見え方である。本にかかわるものはここを死守しないといけない。だとしたらこれはちょっとまずいなとはおもうわけである。


読書メーターで既読本を振り返っても、今年はまったく新しい漫画に進んでいない。今年始まり、残念ながら今年終わった、押切蓮介『ジーニアース』と、ぼくの現在の仕事にかなり近いものを描いた、ずいの先生原作『税金で買った本』くらいだ。しかし、押切先生は前から大ファンだし、『税金で買った本』はぼくには実質共感本、記憶再体験本で、未知ではない(どちらもおもしろいしおすすめだが)。来年はもう少しこう、店頭で1巻を、読んだことのない作家、できたら新人の1巻を衝動買いしたいかなあとおもう。






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いつものことなので、まず各部位の数字を残しておく。括弧内が去年のもの、数字がふたつあるものは左側が左。

 

 

身長  173

体重  67(66)

首   39(38.5)

上腕  35(34) 35(33.5)

前腕  28(26.5) 29.5(30)

胸囲  106(104)

肩周り 113(117)

腹囲  75(75)

臀部  91(94)

大腿  54(54) 52(52)

下腿  37(37) 37(37)

 

 

下半身のなんという、悪い意味での安定感だろう・・・。まあ、正直去年も今年もスクワットあんまりやってないからな。ふつうに生きてて適度に運動してたらこの大きさだってことだろう。

“肩周り”では脇をとじた状態で三角筋側部のいちばん厚いところに高さをあわせて水平に周囲の長さを測っている。これでなにがわかるか、じぶんでもわからないが、肩トレが大好きな人間なのに大きさがわからないのが毎年悲しくて、去年から計り始めたのだ。が、正直いってしっかり計測できているものかよくわからない。胸囲との差が7センチしかないってなんかおかしいだろ。しかも去年より小さくなってる・・・。なんかまちがってるかもしれない。

気になるのは上腕かなあ。去年よりはマシになってるけど、それは一年前がひどかったからだ。35センチくらいがいままでの人生の平均値なのである。しかも、今年はプルアップを本格的にはじめて、見てわかるくらい腕が太くなっているので、これも正直よくわからない。ここまでよくわからないんじゃ、計ってる意味もないが、まあそんなに厳密なことでもない、来年のモチベーションになればいいかなというものなので、こんな感じでいいのかもしれない。それから、上腕が太くなったといっても、輪切りにしたときいちばん太いところに効率よく筋肉が積もるということもない。上腕の太さは二頭筋だけではなく三頭筋も関係している。腕はたしかに太くなっているのだが、同じ箇所(計測位置が二頭筋がいちばん盛り上がっているところ)の三頭筋が発達しているわけではないということだろう。

 

だが正直今年は数値のことはどうでもいい。ほんらいであれば数字につながっているはずの事態であるが、どうでもいい。今年はプランシェを実現することができたのだ。調べたら8年前に(2014年3月)にぼくはこの技のことを知ったようである。まだプリズナートレーニングもはじめていなかったころのことで、胸トレにかんして腕立て伏せでは物足りなさを感じるようになっており、足を浮かせればさらに負荷が増すのでは?と考えて調べたらじっさいにそういう技がある、と知ったのがきっかけである。その後ポール・ウェイドやアル・カヴァドロなどと出会い、胸トレへの物足りなさは幻想だったことをよく理解したが、それとは別にプランシェは大きな目標として存在し続けたのである。なにしろ肩トレが好きなので、三角筋前部の自重技としては最高峰に位置するプランシェは、非常に魅力的だったわけである。難度が高いのはまちがいなく、ひとによって教えかたも、到達までの道のりもぜんぜんちがうので、動画や本もあまり参考にならない。安全面だけ先達に学び、あとはじぶんで工夫していくしかない感じだった。

とはいえ、最後に加速をかけてくれたのはカヴァドロ兄弟の『ストリート・ワークアウト』だったことはまちがいない。『プリズナー・トレーニング』のポール・ウェイドは、どちらかといえばビッグ6(プッシュアップ、プルアップ、レッグレイズ、ブリッジ、スクワット、ハンドスタンドプッシュアップ)だけやっていればいい、そこの究極を目指していればじゅうぶんだ、という教師であり、極端な離れ業については、なにもいわないけどいい顔をしない、といったタイプだった。じぶんもやるし、やってもいいけど、そんなことより片手プッシュアップをゆっくり深く100回できるようになれよ、といった姿勢なわけである。たほうで、ポール・ウェイドの盟友であり、ストリート・ワークアウトで一時代を築いたといっても過言ではないカヴァドロ兄弟は、もっといろいろなことに挑戦していく。その彼らがついに出版した筋トレ百科には、プランシェをはじめバックレバーやフロントレバー、ヒューマンフラッグのようなスタティックな技についてたくさん書かれていたのだ。自重トレの原則は漸進的に難度をあげていくところにあり、カヴァドロ兄弟もその鉄則のもと、タック・プランシェやストラドル・プランシェ、スコーピオン・プランシェなどの易しめの種目を紹介していたのである。これは、発想面でもモチベーション面でもぼくには大きかった。とりわけスコーピオンができることに気がついてからは、あとは足の位置をどう調整していくかという技術面、体重の配分に集中することができ、伸びも速かった。かくして、秋くらいだったかな、ぼくは完全に腕と足を伸ばした状態のプランシェ保持を達成することができたのである。

ここまで書いておいてなにだが、この「保持」が、実をいうとせいぜい5秒というところである。できない日も多い。からだがあったまっていなくていきなり失敗することもあるし、あっためすぎるとパワーが不足する。リストやショパンなどの非常に難しい練習曲のようだ。というわけなので、ほんとうのことをいえば、いまようやく「プランシェの練習」ができるようになったというところであり、やるべきことはまだたくさんある。スコーピオン(反った状態)でなおかつ足を開いていれば、2~3回プッシュアップもできるようだが、まだぜんぜんふらふらだ。ともあれ、新しいトレーニングの道がようやく開通したことはまちがいない。

 

 

 

 

 

 

それからプルアップである。長いあいだ、ぼくは背中のトレーニングにつまずいており、不本意ながら水のタンクなどをつかってローを行ってごまかしてきた。プルアップは自重トレーニーでなくても積極的に行うべき種目だが、そのための高い鉄棒が、周囲になかったのである。いや、厳密にいうと、少し歩けば、高い鉄棒はあった。だがぼくは、ただコンビニにいくだけでしょっちゅう職質される人間である。ぼくの地区は、暴走族が公園にたまっていると通報してもぜんぜんきてくれないが(ほんとうに来ない)、仕事帰りの明らかなカタギには積極的に職質をしていく(いいところを見せたいのか、若い女の子が新人として入ったばかりの4月とかだと特に)というアウトロースタイルの国家権力がしきっているので、冗談抜きで職質されまくるのである。とはいえ、深夜に出歩くのが悪いのだろうといわれたら、一理あるかもしれないとはおもわれる。というわけで、深夜にちょっと歩いて鉄棒に行ってプルアップをして帰ってくるというかんたんなことが、どうしても実行できなかったのだ。それが、ふとしたとき、去年の暮れくらいだったかな、もっと近所のふつうの鉄棒で、足を前に伸ばした状態で行うLプルアップをやればいいのではないかということを発見したのである。やってみてわかったが、そこの公園は夕方でもほとんどひとが通りかからない。そして、仮におせっかいな自警団みたいなひとが「公園で不審な男が懸垂してる・・・!」と通報したとしても、トレーニング時間はせいぜい10分、職質ごっこが趣味のアウトローが到着するころにはぼくはもういないのである。

Lプルアップは腹筋を収縮した状態で行い、バランスをとりにくいぶぶんもあるので、難度は高くなるが、いままでまともにできなかった背中のトレーニングがこれでできるのだから、そんなことはもうどうでもいいのである。はじめるなりいきなりできたので、もともと腹筋や背筋はそれなりに備わってはいたようである。そこからさらに、Lプルアップをアンダーハンドとオーバーハンドでつかいわけたり、鉄棒を肩に背負うように行うコマンドープルや、深度は浅くなるが、首のうしろにバーをまわしてみたり、いまは5~6種目くらいを、そのときの気分や状態、筋肉痛の状況などによってつかいわけて、やはり10分くらいやっている。また、インターバルは時間がもったいないし、鉄棒の前になにもせず立ってハアハアはたしかに通報案件かもしれないので、なるべく避けるため、スーパーセットでディップスやボディウェイト・エクステンションを行っている。ボディウェイト・エクステンションとはここでは三頭筋のトレーニングで、要はフレンチプルを自重で行うものだ。プルアップは背中だけではなく上腕二頭筋にも強く働きかける。特に、アンダーハンドのLプルアップとコマンドープルは、ぼくは背中ではなく腕の種目ととらえている。だから「鉄棒の日」は、背中と腕の2種類にわかれることになる。そこで、鉄棒の、背中の日は、スーパーセットでディップスをメインにし、腕の日はボディウェイド・エクステンションを行う、というふうにコントロールしている。

文面からも伝わるとおもうが、この「公園トレ」ができるようになってからは非常にトレーニングが充実している。プルアップだけではない、ディップスも、これまで椅子などつかっていたものが、より胸に届きやすい水平バーでできるようになったのだ。じっさい、やはり数字に出ていないのが残念だが、明らかに大胸筋が大きくなった。そのボディウェイト・エクステンションにしてもバーがなくては不可能だ。まだその段階ではないが、鉄棒さえあれば、バックレバーやフロントレバーにさえ挑戦できるのである。ぼくはほかに「プランシェ・ハンドスタンドの日」と「片手プッシュアップの日」を抱えているが、正直この胸と腕をスーパーセットとして組み込んだ2種類の「鉄棒の日」があれば、上体はじゅうぶんなのである。当然グリップも鍛えられる。

この経験を通じて目に見えて巨大になったのは上腕二頭筋である。ジム通いのトレーニーで、もしカールに飽きてきたようなら、とりあえずアンダーハンドのプルアップとコマンドープルをおすすめしたい。アンダーハンドはどちらかといえば短頭、コマンドーは長頭に届きやすい。

 

こういう感じで、1週間のうちに「プランシェ・ハンドスタンドの日」「片手プッシュアップの日」「背中胸メイン鉄棒の日」「腕メイン鉄棒の日」が入った結果、スクワットやブリッジはかなりおろそかになってしまっているのが現状だ。腹筋は、Lプルアップでかなり使うのでいいとしても、スクワットは、カップ麺ができるのを待つあいだフルスクワットをやったりとか、あとは3週間に1回思い出してしっかりやるような感じになってしまっている。その人間の筋トレのすべては脚に出る。脚の筋肉は、腕や胸ほど周囲に見えないし、じぶんでも年中確認するようなところではない。だからつい後回しになりがちで、しかも片足でやるようになればキツさもひとしおである。来年はこのあたりの精神的弱さも克服していきたい。

 

 

 

 

 

 

 

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もう2022年も終わろうとする12月29日、鎌倉に出かけて鶴岡八幡宮と高徳院鎌倉大仏を見物してきた。







今年は仕事が変わり、年末年始に前代未聞の連休がある。「仕事納め」がある仕事なのだ。無職期間や感染症系を除くと、この規模の自由時間は大学生以来かもしれない。相方も同様である。さてどうするというところで鎌倉を提案し、翌日に即行ったわけである。なんでいま鎌倉に行こうと思ったのかじぶんでもよくわからないが、寺社教会に、なんとなしにふらっと行ってみたいような感覚は実は30過ぎたころからあった。しかし忙しさ、というか日々のせわしなさもあって、具体化することはなかった。それが戸惑うほどの1週間もの連休を受けて思い出されたのかもしれない。


まったくのノープランで出発したので、順路も決めず、そもそも鶴岡八幡宮は誰が建立したのかとかもわからず、鎌倉大仏が釈迦ではなく阿弥陀如来だということも知らないままいきなり鎌倉に降りたったわけだが、これはこれでおもしろかった。『ウルトラ怪獣散歩』という、東京03が声をあてて、メフィラス星人をメインに3人の怪獣が名所をゆく番組がかつてあって、DVDも何枚か持っており、なかに鎌倉編があったので、それを前日に見たのみである。しかもこのシリーズは、ガチなのかギャグなのか、怪獣だからという理由で神社仏閣の撮影許可がおりないということが頻繁にあり、鎌倉は鶴岡八幡宮も大仏もNGということだったので、実質なにもみていないも同然である。(それはそれとして、ウルトラ怪獣散歩はめちゃくちゃおもしろいのでおすすめです)





とはいえ、怪獣散歩でなんとなしに景色を見ておいたのはよかった。番組では工事中だった若宮大路を通り、遠くに鶴岡八幡宮が見えたときは感動した。神社はやっぱり初詣でみんないくだろうから、案外すいてたりとかしないかな、などと考えていたが、そんなことはなく、ふつうに混んでいた、が、たぶんこんなもんじゃないんだろうな。幼い頃の家族旅行や修学旅行以来の寺社見物で、勝手がわからなすぎてかなりむだな動きが多かったとおもうが、楽しかった。鳩のおみくじでは大吉も出たよ。

お守りやなんかをわさわさ買って、写真撮って、などとしていたら次第に暗くなってきて(出発が昼過ぎだった)、大仏が見えなくなってはいけないから、江ノ電に乗って長谷に向かうことにしたが、結局このとき、あとでわかったが、ほかにもあったらしいお堂の数々を見逃してしまった。鶴岡八幡宮は単独の目的で行くか午前中から動いていないとじゅうぶんには堪能できませんね。





大仏にはほんとうに圧倒され、感動した。と同時に、不思議な感覚もあった。なにか筋肉がほぐされるような感じがしたのだ。それでぼくは、そもそもなぜ、30過ぎくらいからときどき神社仏閣を求めていたのかわかった気がした。非常に絶大な存在、手持ちのものさしでの計測をそもそも試みようとすらしないような超越、こういうものに身を委ねたいと感じていたのだ。だから、穏やかな顔貌の、しかし巨大な大仏の包容力を受けて、ぼくはまず弛緩し、カタルシスを覚えたのだ。競争社会に生きるような仕事人間ではないにしても、ぼくはぼくなりに、昨日より強く賢くあろうとはしているわけである。ロック様の圧倒的な上腕を見れば、腕トレ頑張っちゃうし、切れ味のいい批評を読んだら、こんなのが書けたらと感じる。だが神仏にそうしたロールモデル的なものやライバル意識をもつということはないわけである。知らず知らず、ぼくらは日常のなかでじぶんを相対化し、鼓舞されたり自信喪失したりしている。だが大仏の前でそういう感情はなくなる。一時的に世界と休戦することになるのである。

(関係ないはなしだが、この「昨日より強く賢く」の成長モデルっていかにもバブル期の右肩上がりの会社像が反映されてるっぽく、なるほど、だからばりばり働くベンチャーの社長とかは筋トレ好きなのかな、とか思ったのだが、じゃあ株式会社が出現する前の「成長」の感覚ってどうだったのかな、みたいなことも思った。たとえば武芸の上達という概念はあったろうけど、たぶん現代人が「成長」とくちにするのとはちがうよな)


じつは長谷寺と建長寺も行きたかったのだが、行きたかったことをまったく思い出さなかったし、暗くなってしまったので、今日はこれで帰ってきた。屋内の観音菩薩とかももっとゆっくりみたい。思っていたより鎌倉はぜんぜん近いということも今回判明したし、相方も鎌倉を好きになってくれたので、またすぐ、すいてそうな時期に行ってみたい。







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第69審/至高の検事⑤

 

 

 

森田と接見した帰りの九条が、嵐山に呼び出されたあとの烏丸と遭遇。どのくらいたっているのかわからないが、烏丸の忠告を無視して悪い連中とのつきあいを続ける九条から烏丸が離れて以来となる。

 

なにか考え事をしているときに、うっかりそこにいない烏丸を呼んでしまい、ブラックサンダーとともにさびしさをかみしめるくらいには九条もこたえているっぽいが、そんな様子はもちろん見せない。接見できていたのかと九条に聞かれて、ただちがうと烏丸はこたえ、しかしそれ以上はなにもいわない。九条についていろいろ聞かれたあとなのである。

烏丸が流木のところでイソベンをしていることは九条も知っている。その後のことなど、なにか聞きたいのではと烏丸がうながすが、九条はなにもいわない。逆に烏丸は同じことをくりかえす。京極の依頼は断るべきだった。あの件に限らず、彼らとのつきあいはよくないことしか呼ばない。嵐山は不良たちとつきあいを続ける九条をマークしているのだ。烏丸ははっきり京極や壬生の名前を出し、なぜ依頼を受けるのかと問う。職責だからと、九条のこたえは変わらない。

たぶん烏丸のセリフだとおもうが、依頼人を擁護するために負う義務は誠実義務と呼ばれるだろうかという。要するに、たとえば今回森田の件では、森田の利益を守るためにスマホを隠すように指示したわけであるが、それは「森田のため」という状況を単独でみれば誠実ということになるが、それを一般化したときにそのままそう呼べるのだろうか、という意味だろう。こうした葛藤は弁護士にはありがちなものかもしれない。真実を探究するほうがよほどたやすい。弁護士は依頼人との信頼関係がまずある、事実と価値のはざまにあるような任務を負っているのだ。

 

九条はふたりで座っているベンチの前に広がる公園を示し、自由にみえても規制や法律でがんじがらめに縛られているとする。日常的に意識されることはなくても、そこに決まりはある。であるなら、どんな人間にも法律だけは平等であるべきだというのが九条の考えである。しかしそれが九条を追い詰める。森田のような人間はげんにかんたんに九条を裏切る。ほかならぬ九条がその重荷を背負う意味はあるのか? 烏丸はそういうことをいいたいのかもしれない。

 

そのころ、うっかり京極の息子を拉致してしまった犬飼たちである。はなしを聞かれてしまったため、殺して埋める計画に変更だ。チェーンソーをまわして犬飼がバラバラにする準備である。京極竜也は焦って、じぶんの父親が京極であることをいうのだが、犬飼は「そうか」といって少しも動揺しない。むしろ、だったらなおさら証拠隠滅のために殺さなきゃというところだ。

 

烏丸は、法律ではなく九条の感情の話を聞きたいという。それじゃ生きてるだけで精一杯じゃないかと。これに「そうですか」と応える九条のコマは、犬飼のものに対応しているようにもみえる。

むしろここからは烏丸のはなしだ。なぜ東大法学部首席で、官僚にもなれたのに弁護士なのかと。きっかけとなった事件があるのだ。死刑になりたいという理由で無差別殺人を犯した人物の裁判を、小学生のときに傍聴したと。犯人の意図も、殺された理由もまったく理解できないなかで、法律だけは明確に機能していた。烏丸はそこから生きる意味を見つけようとしているのである。

それだけの情報で九条は、その裁判はじぶんも傍聴していたという。が、烏丸はそれを知っている。殺されたのがじぶんの父親で、犯人の弁護士が流木、検事が九条の父・鞍馬だったのである。そのとき、ふたりはとなりあって座っていたのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

これは急展開だなあ。烏丸は有馬以外にも地獄を抱えていたか・・・。

 

烏丸の経験は非常に複雑だ。彼は、ほかならぬ父を、理不尽な事件によって失っている。理不尽であるということは、論理的な説明を通しての解釈ができないということだ。「死刑になりたい」という動機も、そのことによって事件が起きたという事実も、そしてそのことによって父が死んだということも、ふつうは理解できない。しかし法律のもとにそれを語るとき、そこには価値をほどこすことができる。「評価」できるようになるのである。それを通じて、烏丸は生きる意味を探すために、法律の道を選んだと。

裁判が結果どうなったのかはこのはなしではわからない。鞍馬が勝って犯人が有罪になったということならはなしは早い。理不尽な事件に対しても刑法はきちんと機能して、しかるべき罰がくだされることになり、そこに感銘を受けたということなら、わかりやすい。だが流木が勝ったとしたらどうだろう。しかもいま烏丸は流木のところにイソベンしているのだ。

ふつうに考えると、烏丸は九条の行動原理のようなものを理解するために、その源流たる流木のもとにいるのだということになるかもしれない。九条は、もともとのひとがらやそれまでの人生経験もあるだろうが、その弁護士としてのスタンスにおいて、人権派の流木から大きな影響を受けていることはまちがいない。流木には、九条のようになにかたかられているような印象はないが、犬飼の弁護士でもあるようだし、烏丸の父を殺した犯人の弁護をするくらいなので、なかなかのものである。それでも九条のように異端あつかいされているようではないのは、あくまで「人権」というような広い概念を戦略的に用いてきたからだろうか。どういうことかというと、九条は「平等」を是としてどんな人間の相談も公平に受けていき、結果として不良ばかり面倒をみることになっているが、流木はもっと強い語調で「弱者」を相手にするのである。平等である、したがって強者も弱者もない、というのではなく、どういう人間が不当なあつかいを受けている弱者であるのかをまず規定して、そのうえで人権派弁護士として仕事をするのである。ここのところには大きなちがいがあるだろう。やっていることにちがいはない。だが、流木は「彼らが弱いから」依頼を受けるのに対し、九条は、いってみれば「弱いも強いもない」という立場でけっきょく弱いもの、ここでいう弱さは曽我部のような生命としての弱さでもあり、また不良たちの社会の爪弾き者としての弱さでもあるが、そういうものを相手にするのである。岡目には九条のほうが誠実のように見えるかもしれないが、前者の、ぼくが想像する流木のようなスタンスは、賛否割れることはあってもちからがある。強い味方がたくさんできやすいのである。

今回みてもわかるように、烏丸はとにかく「理解」ができない。嵐山に対して職務というような語を用いて九条を弁護していたように、もしかしたらあたまでは九条の行動原理を理解しているのかもしれないが、同時に、なぜそれをほかならぬ九条が選ばなければならないのか、苦しくないのかという疑問を封じることはできない。だから彼は、ヒントを求めて、流木のところにやってきたのだ。しかも流木は、弁護士を目指すきっかけとなった原体験の当事者なのである。ということは、まったく理解の断絶した烏丸と九条の交差点ということでもある。理解できない犯罪者を弁護する流木の姿が、烏丸の動機のうちにはある。もしそこで納得できるものが見つかれば、それはじしんの行動にも接続するものとなるはずだ。烏丸はそういうことを考えて流木のふるまいを観察しているのだ。

 

法律はどんな理不尽も「評価」する。だがそれは同時に、理解できないものの存在をそのままに放棄はしない、ということでもある。ここもポイントだ。これは九条の父・鞍馬から兄・蔵人に受け継がれる「言葉」のラインである。「二本一のたこ焼き」のくだりでいうなら、九条がまず「味」があり、そののちに追って定義されるというところであるいっぽう、鞍馬は「定義」、つまり「言葉」を優先するものである。それは、法律が言葉で構成されている以上、当然にあらわれてくる思考法である。だが九条は、その異端っぷりもあり、『星の王子さま』のスタンス、「大切なものほど目には見えない」ということをよくわかっている。曽我部やしずくのような、定義することの難しい、ということは「見る」ことの難しい、非常に弱い人間を、では「言葉」で構成されている法律は見捨てるのか、というはなしなのである。ここには、ある種の落とし穴がある。法律はどのような理不尽も「評価」する。評価できない前代未聞の事態が発生しても、応急的に対応可能だし、すぐにしかるべき法律が成立する。だが、「言葉」というのは、原理的に必ず「見落とし」をするものなのである。それはちょうど、ピアノの鍵盤のようなものだ。ピアノの鍵盤では、「シ」と「ド」のあいだに音がない。フレットレスのバイオリンなどを聴けばわかるが、もちろんじっさいにはそうではないわけである。数学的に、理論的に音を調整し、管理するために考案された非常に論理的な楽器、それがピアノなのだ。「言葉」を用いて世界を解釈するということは、ピアノで音楽を表現するのと同じことだ。じっさい、ピアノは世界最強の楽器におもえる。だがそれは、平均律で構成された音楽の宇宙にわたしたちがなれきってしまっているからではないだろうか。ピアノが世界を再構成したあと、わたしたちはもはや「シ」と「ド」のあいだにある暗闇のなかを想像することも困難になっている。九条が拾うのはそこなのだ。では、たとえば「ド」の音をゆるめて、しかし「シ」より少し高くすればその音を出すことはできるのではないかというと、そういうはなしではないのである。これが「理解できないものの存在をそのままに放棄はしない」ということだ。これは新たな法解釈や法成立にあたる。それをしても、依然としてそのすきまに虚無はある。つまり、「言葉」が万能である、すべてを表現可能であると考えることじたいがまちがいなのである。言い換えれば、わたしたちが「理解」できないものを「理解」しようとすること、それが誤りなのだということなのだ。ここでいう「理解」は、とりわけ烏丸を通じては「言葉」にほかならない。だから、説明してくれと彼はいう。どういうつもりでそんな困難を背負うのかと、彼は九条に問う。だが、そうした問いをたてるということじたいが、九条に到達できない彼の未熟さを示してもいる。曽我部やしずくがなにかばかげたことをしてしまったとき、なぜそうしたのかと、九条は問い詰めないのだ。

 

こう考えると、九条がいつも「職務だから」的な、あっさりした説明ばかりしている点にも合点がいく。要するに、それは説明できることではないし、そもそも説明しようと試みることじたいがまちがいなのだ。それは「言葉」へ全身を預けることを意味する。彼も法律家である、言葉を駆使して生計を立ててはいる。だがその危うさも、父や兄を通して知っているのだ。だから、烏丸が納得するのを九条はただ待つほかないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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