Rainbow Rowell “Eleanor&Park” | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

 

 

 

 

 

通勤時間などに電子でちょっとずつ読んでいたRainbow RowellのEleanor&Parkを読み終えた。とっくに『エレナーとパーク』のタイトルで邦訳もされている、80年代のアメリカを舞台にしたティーンの恋愛ものだ。調べてみたら2020年の1月の記事ですでに読んでいるようなので、もしかすると3年くらいかけて読んでいたのかもしれない。別に難しい英語で書かれている本ではないのだけど、通勤時間等のちょっとした空き時間に読むということをどこかで決めていたためにこうなった感じだ。

 

きっかけは前の前の勤務先で洋書をやっていたことだ。ツイッターで知ってる限りの現役作家をたくさんフォローして、そこから流れてくる情報や関係性の網目を手がかりにアメリカやイギリスの出版社・書店もフォロー、知らない作家の新作概要を読む、というような日々だった。そこまで熱心に仕事をしているものはまわりにもいなかったが、もともとが誰もなにもしていない棚だったということもあり、結果はすぐに売上に反映されていった。しかし、売上が3倍になろうとも・・・逆にいえばそれで忘れられていた「洋書」という棚が目立ってしまったせいで、むしろ縮小しよう、なんなら洋書をやめようというようなばかげた話すら出るようになってしまい、なかなか、モチベーションを保つのは難しかった。週一でニューヨークタイムズのベストセラーランキングみたいのチェックして、知らない作家や海外で話題の人物・事物をインプットして、傾向をみて、とはいえ日本のこの立地では売れないかなとか考えたりみたいなの、懐かしいなあ(いまはもうやってない)。

 

そのころの最初の段階で、まず「YA(ヤングアダルト)」という分類をはじめて知った。いまではなんのこともないふつうの分類におもえるが(図書館でも使用されている)、10年以上書店員をやっていてはじめて知ったものだった。要するに10代の若者向けということで、日本では典型的には新海誠とかがイメージしやすいかもしれない。ライトノベルも機械的な分類では含まれるかもしれないけど、なんとなくこの語には若者の生活と地続き感があるので、いわゆるライトノベルではファンタジー色が強すぎるかも。こういうところで、YAの売れそうなやつとか、もともと棚にあったやつとかを見ている過程で、本書を見たのである。というのは、どれか1冊YAを読もうかなとはなったのだが、その時点で5冊くらい洋書を抱えていたので(なにを読んでいたのか、そしてそれがどこにいったのかはもうよくわからない)、これに関しては「持ち歩いてちょっとずる読もう」ということが最初から決まっていたみたいに、電子で購入することにしたのである。

 

アジア系のパークという男の子は、小さくてなめられがちでもあるがテコンドーをやっているので実はけっこう喧嘩が強く、おそらく女の子からもけっこう人気がある。彼のいる学校に、いかにも冴えない、しかりひどく個性的なエレナーという女の子が転校してくるおはなしだ。ほとんど慣用句のように、転校生のエレナーは通学バスや学校で意地悪をされるが、パークはそんな彼女とひとめで恋に落ちてしまう。だが、両者はただ純粋に恋だけを楽しめばよい人生ではない。とりわけエレナーの家庭環境はひどく、貧困だけでなく、母親の新しい夫の男の暴力的なふるまいがエレナーや小さな兄弟たちにまで及びかねない日々で、このあたりの描写は非常に暗く、つらい。

恋愛ドラマは原則的に彼らの私的関係をいかにして公的なものしていくかということの過程を描写することになる。結婚は恋愛の社会化の到達点だ。そのために、私的関係であったはずの恋愛関係はいくつもの障害を乗り越えなくてはならなくなる。それがシェイクスピアの時代から続く恋愛ドラマの構成の定番といっていいだろう。そういう意味ではごくふつうのラブストーリーといえるかもしれない。エレナーもパークもある種の瑕疵(もちろん、あるひとびとはそうとらえる、という意味で)を抱えており、毎日がまったくままならず過ぎていく。恋愛ものがというか、YAを読んだことがないということもあってこれ以上のことは書けないが、それでもどことなく本書が優れていると感じられるのは、互いに人生の苦しさを抱えつつも、ときには思い切った方法を用いてそれを乗り越えていくということかもしれない。エレナーの家庭環境からすると、ふたりの恋がすごく順調に運ぶものではないだろうということは明らかだった。そしてじっさい、最高にすっきりしたエンディングが訪れるということはない。しかしそれでも、なんの根拠もなく、再生と再構築の感覚は、読後読者のなかに宿っている。そのままならない日々のなかで、ひとつだけ不動におもわれるものが、彼らの間にはたしかにあったからである。

 

ショーン・ダフィのシリーズもそうだが、こういうふうに長い時間をかけて、しかもほとんど毎日ちょっとずつ読んでいくということをしていると、登場人物が他人のようにおもわれなくなってもくる。今回は英語で読んだこともあって、日本語よりはるかに深く読み込まなければならなかったということもあるかもしれない。母語では読み飛ばしてしまうぶぶんも、外国語ではそうもいかないからだ。洋書をやっていた店のあと、ぼくは思い出すだけで気が滅入る地獄みたいなところに異動になった(いまはまたちがうところにいる)。その通勤時にもぼくはこれを読んでいたので、ふたりにはずっと助けられていたとおもう。今回は読み終わるのがほんとうに辛かった・・・。でも、こういう読み方もあるんだなと、いろいろ勉強になった。次はなんのYAを読もうかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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