第132話/古代角力と空手
ついについに愚地独歩と当麻蹴速のたたかいがはじまるぞ。
休載と自衛隊漫画をはさんでだいぶたってしまった。自衛隊漫画はまえの2エピソードも非常に優れているので、1冊の単行本にして出してほしいなあ。行軍のはなしのときに、ごく短い休憩時間で、用意された時間の大部分を使って先輩たちがわざわざ装備をはずして休憩するというくだりがあって、それを読んでからはぼくも休憩時間にちゃんとエプロンとったりネクタイゆるめたりするようにしている。装備のまま疲れに任せて短時間眠っちゃうと起き上がれないくらい疲労が前面に出てしまうのだ(板垣先生がそれをやってしまった)。
前にチャンピオン本誌サイズの増刊だかムックだかで『戦場の詩』というのが出たことがあった。自衛隊漫画と、少しだけ発表されたガイアの外伝漫画、それに本編ジャックの回想によった勇次郎とジェーンのなりそめのくだりを収録した、ミリタリー系のエピソードを網羅したかなりナイスな1冊だったけど、ああいう感じで、ふつうに単行本出して欲しいです。お願いします。
なにしろ独歩が期待してるっぽいのがいい。けっこう上機嫌だよね。その背後に、宿禰のように、高くあげた足を静止させた力士・蹴速がいる。ただ、蹴速はそっと地面を踏みしめる。四股を地面に叩きつけるのではなく、コントロールしておろすのである。これは宿禰のものよりトレーニングとしての効果が高いかもしれない。なんでもゆっくりやるのは技術を練り上げ筋肉を適切に育むのにいいのだ。
審判みたいなひとに呼ばれて両者中央に集まる。独歩が身長178センチなのを考えると、蹴速はぎりぎり190ないくらいかもしれない。宿禰が規格外すぎて小さく感じられるな。
審判のひとの説明にある「正々堂々」のくだりを受け、両者はそれを確認しあう。つまり、そうはいかないことを互いに理解しあっているということだ。
元の位置にもどって独歩は息吹を見せる。体中から呼吸とともに余計なものを取り去る空手の呼吸法だ。ぼくのいた道場にはのちに世界チャンピオンになったひともいるのだが、まだ若かったそのひとの指導では、息吹で肋骨や腹筋をしめて内臓を鍛えるということをいっていた。動作として現代に生きている古流のもので、その解釈はさまざまにあるのだろう。実況は息吹を四股に対応する力をためるものととらえている。空手の呼吸は原則的に鼻から吸った空気をへその下、丹田に送り込むようにイメージする。そうすると自然に、近代体育的な意味での腹式呼吸が行われるわけだが、中国拳法など取り入れていた城南支部では、酸素が背骨を通っていく、また出るときもそこを通る、というふうに指導していたような記述を見た記憶がある。また丹田は眉間に第三の目を意識し、そこで見つめる、意識するようにして存在させる、というふうにもどこかで読んだ。いずれにせよ、息吹は、通常無意識に行われる「呼吸」を制御し、関節でつながる身体の連続性を意識しながら、ぎりぎりまで“締める”行為と考えられる。丹田に磁力を宿し、これから行われるたたかいに全身を総動員するのである。と同時に、筋肉はリラックスしていなければならず(緊張はスピードを損なう)、また相手に対する意識も、漠然としているほうが好ましい(一点に集中してはならない)。とっちらかっている手足をひとつの球体にとりまとめて動けるようにする、というような感覚だろうか。
試合開始とともに、独歩が小走りで近寄っていく。そして、絶妙の距離感のところで四股立ち。そこへ蹴速の蹴りが襲いかかるのだった。
つづく。
四股立ちは猛剣戦でもやっていたな。あれはけっこうたたかいのあとのほうに出てきたもので、克巳はこれを、動き回るのをやめて踏みとどまることにしたものと解釈していた。
試合はようやくはじまったが、それと同時にまだなにもはじまっていないので、書くこともない感じだ。
ひとつ期待させたのは、審判の「正々堂々」にふたりが反応したことである。ふたりとも、いわゆるフェアプレーをしようという気はなさそうである。いや、蹴速にかんしては、たとえばいきなり逃げ出すようなことをしたりしてとがめられても「なにが?」みたいな顔をしそうではあるので、見たまま、正々堂々やるつもりではあるかもしれないが、この流れはそのように語ってはいないというわけである。そして、互いに相手もまたそうであるということがわかってるっぽい感じもよかった。大相撲篇では、大相撲が特殊であり、たいへんなゲストであったこともあり、なにか理念対決みたいになっていたぶぶんもあったが、久しぶりにバキ的には正統派な、地下闘技場らしい独歩のたたかいが見れるかもしれない。
猛剣戦のときの感想では、力士というものは独歩にとって「空手を選ばなかったじぶん」だということを書いた。空手と相撲は実はけっこう似ている。技術の細部をみると似ているはずもないが、行うべきことや理念には近いものがあるのである。だが、現実には両者の距離は離れている。親子喧嘩や武蔵篇を経て「表」と「裏」の差がなくなりつつあるといっても、ひとびとの生活は変わらないし、「強さ」の基準が変わったなんてはなしも聞かない。依然として、かつて独歩が通り魔に使用した危険な技は「使用してはならない技」であり、監視カメラが捕捉する対象であり、つまり独歩のいちぶぶんは「裏」のままなのである。だが相撲はちがう。相撲は、なにを隠すでもなく、全的に「表」の存在である。そしてそれが強さのゆえんでもあった。表だろうと裏だろうと、土俵だろうと地下闘技場だろうと、彼らの「やるべきこと」は変わらないのである。どうしてそういうことになったのかというと、逆説的に相撲ががんじがらめともいえるルールの制約をみずからに課しているからなのだ。ルールは、どれも理由があって設けられるものだが、「試合のルール」を考えるにあたっては、まず「試合」とはなんなのかということを考えなくてはならない。ここで「試合」とは、身につけた技術を使用し、熟練を確認する場所である。だから、技術の修得がうまく確認できないような現場は「試合」にはふさわしくない。ボクシングはパンチの技術に優れた競技である。だが、ある程度体重差があると、技術もなにもなく、純粋な体力差で試合が決してしまうこともある。古い時代には平気で死者も出ていたそうだ。こういうこともあって、厳しい体重制がしかれる。そうすれば、少なくとも体重由来のパンチ力の差は生じず、よりピュアな技術戦が可能になるのだ。
もちろん、いちど決められたルールがのちにふさわしくないとされることはあるだろう。だから極真会館などもルールを日進月歩させている。だが相撲が設置したルールとはいったいなんなのかというと、その動機についてはともかく、結果としては、血をみず、それでいて強さがきちんと反映され、場合によっては前提をくつがえすような勝利がもたらされることもあるものとなったのだ。これは加えて大衆にも受け容れられる。そのようにして、相撲はある種の完成をみたのだ。極真会館の顔面殴打禁止は、たとえば目突きのような空手になくてはならない技術を封印した。じっさいに技術としては存在している(道場では習う)。しかしそれはあくまで「裏」の、現実に実現してはならないものとして細々と継がれていくものなのである。相撲はそうではない。
誕生の地点ではよく似ていたかもしれない相撲と空手は、このようにして大きく分岐した。この意味で独歩が、力士に対して、相撲と空手のほとんど唯一の接点ともいえる四股立ちをしてみせるのは、ある種の親近感の表明であるとともに、嫉妬でもあったかもしれない。少なくとも猛剣に対しては複雑なものだったろう。では蹴速に対してはどうかというと、彼も四股を踏むが、「じぶんは力士です」感は大相撲や宿禰などと比べるといかにも弱いわけである。なんというのかな、相撲のオルタナ感が強いのだ。こういう視点でみれば、独歩は親近感を覚えている可能性が高いといえるかもしれない。
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