すっぴんマスター -36ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

今年はたくさん映画館に行くことができた。

近くに映画館がないということではない。にもかかわらずそれをしてこなかったのは、基本的に出かけるときには相方と出かけたいからだった。だが、いまの会社にふたりして入ってからは同じ日に休みになるということがほとんどなくなってしまったのである。なにも考えなくても自然に生じるはずのそうした休日を意図的にはずされてきたからである。映画じたいはどちらも大好きで、以前からネットフリックス、アマゾンプライム、ディズニープラスには入っていてほぼ毎日なにかを見ているし、ユアン・マクレガーに大ハマリしていたときなど、ここで休めなければやめますくらいの勢いで休みを捻出して映画館に行ったりはしていた。だが、今年になって職種が変わり、かなり自由にお休みや有給を組み込めるようになったおかげで、積極的に映画館にいけるようになったというわけである。それまではぼくらには宝塚をメインとした観劇という趣味があり、月1くらいで日比谷の東京宝塚劇場などに出かけていたのだが、このようにあまりにも休みをとることが難しく、好きなひとのほとんどが退団してしまったことなどの事情も重なり、いつしか足を運ばなくなってしまった。けっきょく今年はいちども宝塚を観ていない。が、そのかわりに、お財布にも優しい映画鑑賞の習慣が根付いたのである。

 

観劇でも映画でも、これまでは必ずそのことを記事にし、なるべくオリジナルな感想を残していこうと努力してきた。だが今年はそれをほとんどやらなかった。これは読書のほうでも同様である。そもそもぼくはこのブログを、読んだものすべてについて書いていくことで文章や考える力の底上げをはかろうと開設した。じっさい、それはうまくいったとおもう。だが同時に問題も発生した。もともとぼくは本を読むのに時間がかかるほうだったが、たとえば作者とか編集者とかその作品の専門家とか、そういうひとたちが読むことを想定して、みずからに緊張をほどこし、考えるちからをつけていこうと読書をすすめていったわけなのである、当然、さらに読むスピードは遅くなる。すると、あまりたくさんのものは読めなくなってしまう。これは問題だった。ブログを始めたのが2007年なので、この15年間ずっと難問だった。どこかで「読んだけど書かない」を実行しなければ、というふうになっていたのである。今年はそれができた。「書かない」が「できた」というのもなんだか奇妙だが、じっさいこれまでは書かずにはいられなかったのだからまちがってはいない。こういう事情があったから、映画にかんしてもほとんど書かないで過ごしてきたのであった。特に映画にかんしては、ここまで通ったことはいままでになかったので、映画というより「映画館」について乱読的に親しむ時期だろうととらえている。が、おかげでなにをいつ見たのやらもはやさっぱりである。幸いツイッターをみればわからないでもないのだが、ブログには記録の意味もあるので、来年以降はもう少し記事を増やしていきたい。

 

そういうわけで以下はツイッターのじぶんのつぶやきをふりかえった結果になるわけだが、2022年は13本の映画を観たことになる。複数回みたものがいくつかあるので、映画館にはたぶん20回くらいいったのかな。乱読とはいえないものの、まあまあなんじゃないかなとおもう。

 

映画館はTOHOがメインになる。ちょっと足を伸ばせばイオンシネマもあるので、状況に応じて使い分ける感じだ。ぼくでは、しばらく通ってみてから、特にTOHOの、映画本編が始まる前のあの宣伝とか劇場内注意喚起系の映像じたいがすでに大きな癒しになっている。TOHOだとはじまるけっこう前からときの女の子が新作の案内をしていてそれも心躍るし、有名な映画泥棒の短い映像も楽しい。観劇もそうだったが、劇場に出かけるときには、そういうインスタレーション的な空間の体験という意味でもすでに鑑賞なのである。ただ、椅子はイオンシネマのほうが心地よい。くわしく検証したわけではないが、イオンのほうは椅子の背が低いのか、頭を後方に預けることができるのだが、TOHOはけっこうまっすぐにならなければならないので、なるべく最後方に座るようにしている。まあ、イオンでもたいがいいちばん後ろを選ぶんだけど。そのいっぽう、ポップコーンとかを買うときには肘置きに引っ掛けて動かすことのできるTOHOのトレーが魅力的であり、ぼくの行っているところだけなのかどうかわからないが、イオンはそれがないというちがいもある。こういうふうに劇場によって鑑賞の手触りがまったくちがってくるので、同じ映画を2回以上観るようなときはなるべく会場を変えるようにしている。

 

 

今年最初にみたのは『シン・ウルトラマン』で、これが5月19日である。そこからはほんとうに楽しい日々が続いた。6月23日には『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』を鑑賞、これは2回観たようにおもう。その2回目のとき、ぼくは仕事でひどくい失敗をしたところで、かなりメンタルをやられており、なにか帰りたくない感じがあり、なんでもいいからもういっぽん映画をみようということで『ミニオンズ・フィーバー』を観たのだった。くわしく書いたのでもうくりかえさないが、ミニオンズには文字通りに救われた。動物と暮らしたことのあるひと、あるいは、想像するしかないが、小さい子どもと暮らしたことのあるひとは、こちらの意志にかかわらず勝手に動くものをひどく求めてしまう感情を知っているかもしれない。ぼうっとしているときに、視界のすみにもぞもぞ動くうさぎがいる、ただ、いる、そういう感覚である。ミニオンズを愛しくおもう気持ちはこの感覚とよく似ている。ぼくは、まったくこちらのおもったとおりに動かないミニオンズたちのふるまいを通じて、失敗にとらわれ、自己否定とともに逆説的に肥大しはじめたじぶんという存在を、いちど冷却することができたのだ。不思議なはなしだが、大きく自信を損なったり、自虐的な気持ちになっているときというのは、むしろじぶんの価値にばかり目がいっているのである。

このミニオンズはおそらく都合4回ほど観にいった。映画館の近くにはゲームセンターがあるので、帰りにはそこのUFOキャッチャーでミニオンズのぬいぐるみをたくさんとって帰るのが習慣になっていった。だからいまぼくや相方の家には黄色くてまるっこいぬいぐるみやなんかが大量にある・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

8月22日には『ジュラシック・ワールド 新たなる支配者』を観ている。以前、観た映画をカウントしたとき上げ忘れたほどなので、実をいうとあんまり印象に残っていないのだが、大好きなシリーズで、グラントやマルコムが登場するおはなしでもあり、映画としてどうこうというより、なにか年末の歌謡祭的なものとして受け取るべきなんじゃないかなというふうにおもっている。とはいえ、思い返してみても別に不出来ということではなかったので、やっぱりぼくは書いておかないと忘れてしまうようである。

 

8月30日には『NOPE』、9月22日に『ブレットトレイン』を鑑賞。どちらもすばらしく、このへんでもうなに見てもおもしろいんじゃないかというような感じになってきていた。NOPEはサウンドが最高で、あの音はたぶん映画館じゃないとわからなかったよなあといま振り返ってみておもう。ブレットトレインは伊坂幸太郎原作ブラット・ピット主演の快作で、音楽もよくて、サウンドトラックも手に入れた。

 

 

 

 

 

 

こういう具合に、休みがあれば映画を見るという習慣ができてくると、特に観たいものがないが休みである、という日も、当然出てくる。都心の映画館ならそんなこともないのだろうが、現状ぼくらのいっているところでは7割邦画、2割アニメ、残りが洋画という感じで、ティーン向けの邦画を除くと、すぐに尽きてしまうのだ。というわけで、9月30日には、前情報なく衝動的に『“それ”がいる森』を観た。『リング』の中田秀夫監督だし、まあつまんないってことはないでしょ、くらいの気持ちで臨んだのだが、くわしい内容を知りたいかたは各自検索してください。ぼくは、この経験から多くを学びました。

 

とんで11月3日には『犯罪都市 THE ROUNDUP』を鑑賞。マ・ドンソク主演の人気作第2弾だった。不覚にもぼくはこれがシリーズものだと知らずに観たのだが、マ・ドンソクなので、必然的に腕力!上腕二頭筋!拳!破壊!という映画なので、あんまり関係ない。敵役のソン・ソックもかっこよかった。マ・ドンソクを主演にするにあたっては「どういう映画を撮ればいいか」が非常にはっきりしているので、製作は工夫に集中すればよく、やりやすいんじゃないかなあとおもう。

 

11月18日には『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』。映画館にいくようになってからはソーの映画もやっていたのだが、機会に恵まれず(やっていても朝早くだけとかになっていて、無理だった)、そうこうするうちにディズニープラスで見れるようになってしまったので、今年マーベルはこの1本だけになった。チャドウィック・ボーズマン/ティチャラ王の死とともにはじまる、弔いと克服の物語である。マーベル、というよりMCUは、非常に挑戦的かつ独創的なキャスティングを行ってきた。すべてのはじまりである『アイアンマン』のロバート・ダウニーJrにしてからが、すでにスターではあったものの、薬物の問題などもあってキャリア的には危機的な状況だったところ、アイアンマンで再起したというようなぶぶんが少なからずある。キャプテン・アメリカのクリス・エヴァンス、マイティ・ソーのクリス・ヘムズワースは、以後マーベルの世界観を引っ張っていく人物でありながら、超有名スターというものではなかった。少なくともぼくは知らない俳優だった(クリヘムの兄弟は知っていたが)。こういう背景が、なにかこう、映画をテクストとして、単独の織物として読ませないようなところがあった。役者と役柄がほとんど一致しているのである。それが、3Dメガネでみるような立体的効果を呼び込む。ファンがキャップのふるまいに賛同し、尊敬すらするとき、彼はクリス・エヴァンスをも同時に尊敬の眼差しで見つめているのだ。こういことを意図してやっているのかどうかは不明だが、そういう状況になっていけば、ファンサービスとして、ヒールのレスラーがプライベートをなるべく隠してキャラクターに徹するように、役者のほうでも役柄的なふるまいをしていくようになる。この感覚にぼくは宝塚とWWEを通しても親しんでいる。わたしたちが目にする「彼ら」は、三層構造になっている。まったく見ることのできないプライベートのゾーン(宝塚歌劇を論じた東園子『宝塚・やおい、愛の読み替え』によれば「本名」)、わたしたちに見せるために演出された私的なゾーン(互いに呼び合う「愛称」)、そして役柄のゾーン(「芸名」または「役名」)である。ふつう、テクストとして映画が見られるときに、この「愛称」のゾーンというのは、不要でもあり、出てくることはない。MCUではここがかなり鮮明に現れているのである。

こういう作劇方法のなかでのチャドウィック・ボーズマンの死がもたらしたダメージは、悲しく、また非常に深刻だった。それは、どう考えてもブラックパンサーの死以外のなにものでもなかったのである。これを、ティチャラの仲間たちが、ブラックパンサーという映画が、またファンが、どう乗り越えていくべきなのか、そういう映画だった。ヒーロー映画でありながら文芸作品的な静けさとリリシズムに満ちた作品だったとおもう。

 

 

 

長くなってきたので駆け足で。11月29日には『ザ・メニュー』、12月2日『ブラックアダム』、12月8日『THE FIRST SLAM DUNK』、そして今年の映画納めは12月23日『ラーゲリより愛を込めて』となった。ブラックアダムはむろん、史上最高の仕上がりとされるザ・ロックの筋肉を拝みにいったのである。ぼくは現役時代のロック様をよく知らないので、終わってから改めて試合を見てみたのだが、たしかにいまのロックは1.5倍くらいの太さになっている。というか、スクリーンではむかしからとてつもなく巨大なザ・ロックだけど、WWEのリングのうえではどちらかというと細いほうなんだなということに気がついた。シルエット的にはランディ・オートンみたいな感じかな・・・。ジョン・シナとかも、リングでは最大レベルということはぜんぜんないのに、映画に出るとふつうに怪物だもんな。

 

 

スラムダンクとミニオンズを除いて、今年いちばんは『ザ・メニュー』でまちがいない。サスペンスというかミステリというか、孤島のレストランで供される不穏なヌーベル・キュイジーヌ、その異常なコンセプトが徐々に明かされていき、来訪客たちが少しずつからめとられていく、そういうはなしである。全体を覆う繊細さと違和感、コミュニケーションの限界とひとさじのユーモア、映画体験全体がすばらしく、またあの不穏な空気を感じたいという気になる。それからアニャ・テイラー=ジョイがとにかく美しい。ずっと見ちゃう。ブルーレイ買うぞ。

 

 

 

 

 

来年もこんな感じでぜんぜんいいんだけど、可能なら、もっと都心のほうとか、ミニシアターみたいなのにも挑戦してみたいかな・・・。

 

 

 

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第138話/嫌(や)な夜

 

 

 

 

 

満身創痍の蹴速が決着後すぐ独歩に再挑戦する。本人は「仕切り直し」といっているが、「仕切り直し」が勝ちを目的とした方法だとすると、なんか奇妙な行動である。このコンディションで、さっき万全の状態でまったく歯が立たなかったひとに勝てるわけはないので。

 

とはいえ、その心意気やよし、みたいなことかもしれない、独歩は受けて立つ。だが、動き出した蹴速はすぐに気絶してしまいそうな動きである。これがそういう「ふり」だったらたいしたものだが、そうではない。まず、両耳がない。独歩の正拳連打で胸骨や肋骨はぐしゃぐしゃだし、脇腹には貫手もくらっている。そして、蹴りの彼にはもっとも重要な右の踵は完全に破砕された。ファイナルファイトのミニゲームで破壊されきった自動車くらいぼろぼろだ。

迫り来る瀕死の蹴速から、独歩は逃げることもできた。だが、二本の指をつきだす。くちにするように目をついたのではなく、両鼻に根本までくいこませた強烈な一撃だ。すさまじい攻撃だが、目突きのように、相手の今後の人生を左右するタイプの技ではない。独歩の太い指で蹴速の鼻が裂ける。そのまま独歩は親指をあごにひっかけ、口蓋全体をわしずかみにするようにつきさしている指も曲げる。そしてその闘志をたたえ、床に投げるのだった。せめてもの敬意として、むかえうち、そして目を回避したのである。

 

 

どこかの大病院、リハビリテーション室である。非常に充実したウェイト器具のなかでベンチプレスをしているのはビスケット・オリバだ。宿禰にアバラをつかまれ大半が粉々になってしまったが、鎬紅葉になんとかしてもらったようだ。そしてそのまま、その病院でリハビリという名の筋トレをしているというわけである。

ベンチプレスは400キロにもなる。これは鎬紅葉のマックスということだ。これは1RM、1回だけ持ち上げることのできるマックスということだろう。ここから筋肥大、筋力アップなど目的にあわせて回数と重さを計算していくのが標準的な方法だ。かつてはパワーファイターとしてはまず紅葉だったこともある彼のマックスである400キロを、オリバは複数レップ、というか複数セットこなすらしい。ということは1RMはもっといくということだよな。

ともかくからだはもう大丈夫なようだ。再起不能レベルの負傷だったのでこれはよかった。

 

これはリハビリ完了ということなのかな、オリバのお礼の口調からして、もう退院っぽい。これからどうするかといわれ、おとなしくしているというはなしだが、もちろんそうではないことは紅葉にもわかっている。ジャックをあれだけとめた紅葉である、心変わりした彼は危険なら止める男だ。ということは、ほんとうに完治してるっぽい。

 

夜の街を行くのは久しぶりの宿禰だ。オリバはその行く手をふさぐ。宿禰はぎりぎりオリバを思い出してくれた。リハビリという名のリベンジである。

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

オリバは好きなので復活はうれしいぞ。バキでは1回負けるとけっこう続くことあるから、これはオリバのいいところがみれるかも・・・?

 

 

独歩が目ではなく鼻の穴で勘弁してくれたのはよかった。強さという点では宿禰程度、もしくはそれに劣るとしても、ファイターとしてのありようは久しぶりにはっきりしているタイプだったから、ここで退場は惜しい。ぜひ、ここから成長して、独歩、そして宿禰を倒してもらいたい。

 

いまのままでは蹴速は独歩には勝てない。前回、前々回に描かれた勇次郎描写がほんとうのところなにを意味するのかはしばらくたってみないとわからないが、現状では、蹴速の「若さ」のようなものを指摘したものと受け取れる。蹴速は、当麻家の方針としての「仕切り直し理論」を用いて、「勝つまでは負けていない」を実践する人間である。その彼が、独歩に負けた直後、仕切り直しということで再戦を望んだ。ほんらいの当麻家の「仕切り直し理論」は、少なくとも勝ちに向けた理論、詭弁であったはずである。だから、からだを治し、体感した独歩の強さを勘定にいれて、日を改めて挑むというのであれば、はなしはわかる。だが今回の行動は、「仕切り直し理論」によって導かれたものとはとてもいえない。そういう“ズルイ”行動ではなく、言葉のままの、ただの仕切り直しである。そういうことではないはずだ。であるのに蹴速は立ち上がらずにはいられなかった。それだけ独歩に「完敗」したという感想が強かったということかもしれないが、勇次郎の描写とあわせて考えたとき、これは若さがさせたことかもしれないな、というふうにはおもわれるわけである。

蹴速の敗因はというと、いろいろあるだろうが、いちばんは独歩の拳の強さを理解していなかったということがあるだろう。蹴りは突きよりスピードが劣り、運動距離も長いぶんとらえやすい。だとするなら、空手の達人である独歩の拳が蹴速の蹴りを叩くという状況は、じゅうぶん想定できたはずである。そして、独歩の拳は部位鍛錬により鍛え上げられている。タコでおおわれ、骨じたいも鍛え上げられた空手家の拳は、ただじょうぶであるというだけでなく、一個の自律した凶器として機能するものだ。筋肉や技術でコントロールされた突きは、当然シャープで、重い。しかし巻き藁で鍛えられた拳の重さはそれとは異質なのである。ぼくが通っていた道場にも、偏執的に巻き藁ばかりやっているおじさんがいたが、拳それじたいが重さを孕んでいるようで、スパーリングするのがほんとうに嫌だった。部位鍛錬は拳の安全のためだけではなく、もっと積極的な訓練なのである。そういう拳がありうるということを、蹴速はおそらく考えていなかった。たんに事実として知らなかっただけなのか、じぶんの蹴りに自信があったせいか、それはわからないが、ともかく、「独歩に踵を叩かれる」というじゅうぶんありえる事態を、彼は想定していなかったのである。だから、様子を見るまでもなくいきなりあの蹴りが出せたのだ。

こういう、じしんを捕鯨砲の銛と考えるようなところが、特に若い格闘家にはあるのかもしれない。なぜなら若さは、筋肉を無限に成長させ、その威力に天井というものがないとおもわせるものだからである。サムワン海王にかけた言葉からもわかるように、範馬勇次郎じしんは、実はこれを肯定するものだ。だが今回勇次郎が強いんだエピソードにも見える捕鯨砲の描写で示したのは、こういう、若さが保証する筋肉信仰の先にあるものだったんではないかとおもわれるのである。

蹴速がこういう敗因分析をしていないことは明らかだ。なぜなら、満身創痍の状態で、闘志やプライドなどの理由で無謀にも再び独歩の前に立つという行動じたいが、ダイヤモンドの拳を持つ独歩の前にじぶんの体重がのった踵をさしだす行為の延長線上にあるからである。勇次郎くらいの異形の筋肉の持ち主であればはなしは別かもしれない。だがそうではないのであれば、それが一般的にみていかに突出したものであっても、人差し指でさばける捕鯨砲のふるまいを出ることはないのだ。

 

直観的にはおそらく勇次郎の指摘には宿禰も含まれているのではないかとおもわれるが、気になるのはオリバである。というのは、オリバもまた筋肉星人だからだ。げんに彼は、よせばいいのに肋骨をつかまれた状態で、それを弾こうとしてちからをこめ、みずから骨を砕いてしまったのだ。まさしく捕鯨砲状態、「威」を高めることにこだわりすぎて失敗してしまっているわけである。だが、このあたりは単行本で読むとより強い印象を帯びてあらわれるとおもうが、オリバが傷を癒し再び宿禰の前に立ったのは、蹴速が満身創痍のまま捕鯨砲状態で独歩の前に立ちはだかった直後なのである。ここはおそらく比較されているぶぶんだろう。闘志に突き動かされて動けないのにたたかう蹴速と、しっかり治して異常なリハビリをこなし、おそらく脳内で対策も立ててきているオリバでは、同様に捕鯨砲的筋肉人間でありながら、明らかにしたたかさの面でちがいがある。しかも宿禰はジャック戦の傷がまだ癒えていない。たぶんそういう、経験がもたらすしたたかさのようなものが、宿禰と蹴速には欠けていると、おそらくこういうことを、強いんだ描写の過程で勇次郎は体現したのである。

 

 

↓来年の1月6日、板垣先生の自衛隊漫画をまとめた単行本がついに出るもよう。最近本誌に載った新しいものだけでなく、これまでは読むことじたい困難だった以前の伝説的な読み切りも収録される。ほんとうにおもしろいのでおすすめです。待っていた!

 

 

 

↓バキ道15巻、2月8日発売予定

 

 

 

 

 

 

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第68審/至高の検事④

 

 

 

 

壬生の仲間になった犬飼だが、さっそくどでかいことをやらかした。さらってボコボコにした人間が京極の息子だったのである。

いまのところはまだそれが京極の息子なのかどうか、壬生も犬飼もわかっていない。だが京極から息子が行方不明であるという連絡を受けて、ぴんときたのか、壬生はすぐ犬飼に電話をかけている。だが、犬飼は壬生の指示通り、すぐにスマホの電源を切り、SIMカードをぬいているのだった。壬生としては犬飼がさらったという男が京極の息子かどうかをまず確認したいので、電話で久我をつかまえ、犬飼を探して彼が拉致した男が誰なのかを調べるようにいうのだった。

 

犬飼はむかしからの連れとしばりあげビニールかなにかで顔を包んだ男のまわりで今後どうするか話し合っている。基本的には壬生の指示するままで、男は病院の前に捨てていくということだ。この男が誰なのかということだが、じつは犬飼もわかっていない。依頼された襲撃だったのだ。男は、親が有名な不良で、男たちが逆らえないのを知っていて、その彼女を襲いまくり、撮影した動画を海外のエロサイトに流しているという最悪の人物だ。依頼者は大金を用意しているが、もし殺してくれるなら、さらに言い値を払うともいう。そこまでするなら、依頼者を殺して全財産奪ったほうが早いのでは?と、からだが冷たくなるようなアウトローの合理性で犬飼はいう。これはもっともなわけだが、特に依頼者は反論などしていない。が、計画は実行された。どちらにしても殺すなら、という理屈なわけだが、相手が憎まれているものであるなら、ばれる確率も低くなる。しかしそういうことではなく、そもそも殺すところまでやる気ではなかったということのようだ。車で待ち伏せた犬飼らはスタンガンなど使って彼を拉致するのだった。

だが、ふと犬飼が男に目を向けると、おそらく音楽をきかせていたであろうところからコードが抜けてしまっており、会話を聞かれてしまっていたようなのだ。様子を見ようと犬飼がビニールを剥ぐ。同じタイミングの描写では壬生が、行方不明になっているという京極の息子の顔を、なにかのSNSで確認しているところだ。ビニールのなかから出てきたのはまぎれもなく京極の息子、竜也なのだった。というわけで犬飼は予定変更、竜也を殺して山に埋めることにするのだった。

 

壬生と九条は屋上でくつろいでいるところだった。そこに電話がきてバタバタしていた感じだ。九条はこれから森田の接見などあるという。そこで壬生は、改めて礼をいう。森田の件についてというより、九条のありかたについてだ。立場を守る弁護士が多いなか、依頼者のために戦ってくれる稀な弁護士だと。

 

さて、森田である。彼がスマホの件を九条の指示としたことを九条はまだ知らない。森田は、父親に頼んで弁護士を変えるつもりだというのである。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

森田と接見した帰り道に、九条はやはり嵐山と話した帰りの烏丸と遭遇する。まさかこれは、嵐山とかとは別のところで、偶然烏丸に依頼がまわってきた感じじゃないだろうな。しかし、そうするとよくわからない。森田は、京極だとか小山だとかを弁護することに比べたら、小粒すぎて、いかにもふつうの弁護士の仕事っぽい。烏丸が批判した九条の態度、悪人と親しすぎる状況とは、遠いといえばそうかもしれない。しかし森田がスマホゲームしながら運転して子どもの片足を奪ったことを烏丸は知っているわけである。仕事なのだから当然のことである、というのであれば、「悪人とのかかわり」を、どこかで線引きするにあたって、彼はなにを基準にするのだろう。「仕事なのだから」は九条にとっても同じことなのだ。森田と京極の人物的な違いは、小粒なのか大物なのかという点にしかない。

となると、烏丸が森田を弁護するのだとしたら烏丸の意図は2通り考えられる。ひとつは、たんに考えをじゃっかん軌道修正したということである。嵐山と話して、九条は職務を遂行しただけだとくちにすることで、じしんその言い分に納得したのかもしれない。そしてふたつめは、軌道修正の結果ともいえるかもしれないが、罪を憎んでひとを憎まずというか、罪刑法定主義の原理的発想というか、「ひと」ではなく犯罪行為の「構成要件」を担当するという考えである。改めていってみると当たり前のことだが、九条が結果として悪人ばかり弁護することになっている現実が目前にあると、そういう視点もちょっとかすんでしまうぶぶんはあるかもしれない。九条は別に悪人ばかり選んで仕事をしているわけではなく、結果としてそうなってしまっているだけなのだ。

しかし、とはいえ、なんだかよくわからないふるまいであることにはちがいない。たぶんこの場面は、偶然ふたりが出会ってしまったという以上の意味はないだろう。森田の弁護士は別の誰かがするのだ。

 

罪刑法定主義とは、「法律なくば犯罪なく、法律なくば刑罰なし」というものである。ひとの犯す「罪」や、それに対応する「罰」は、「法律」が設定する。もし「罪」を犯すものが「悪」だとするならば、「悪」とは「法律」がそのように指差すものである。そして「法律」とは、日本では基本的に文章で構成されている。「言葉」なのだ。このことと、九条との対面におけるやりとりから、彼の兄・蔵人は、「言葉」によって、もっといえば「言葉」のみによって世界を分節し、最終的には「悪」を想定する人物と考えられた。そしてこれは烏丸もそうだった。例の「日本一のたこ焼き屋」である。彼は「日本一」ということに定義を求める。言葉がすでにそこにある以上、それが空語であることに彼は耐えられない。九条はそうではなく、ほんとうに日本一なら残るし、そうでないなら淘汰されるという立場であり、語じたいがどのようなものであれ、内実はやがて伴うという見方だ。

法律、つまり「言葉」のない世界に、罪、転じて「悪」はない。「言葉」が「悪」を創出する。そのように言い換えてみると、蔵人の立場ももう少しクリアに見えてくるかもしれない。九条は『星の王子さま』が「大切なものは目に見えない」と指摘する「見えないもの」をつかみとろうと努めるものである(詳細は第10審感想)。とはいえ、なにかを大切におもうという感情、ここでは見えていないので「おもうはずだ」ということになるが、いずれにせよそれをつかみとるための回路のようなものは、大切なものとそうではないものとの差異を受け取らなければ成り立たず、そうした感性は言語と無縁ではない。だからこの「星の王子さま」のテーゼは、王子のような超越者以外のものにとっては、失望とともに語られるものである。なにかを「大切」であるとおもうということ、それは世界を分節する行為と密接につながっている。むろん、動物が言語を用いずになにかを「大切」にすることはあるだろうから、これは極論ではある。しかし、現実問題、「大切なものは目に見えない」ということを理解はしても、それをつかむことはたしかに誰にもできないのである。目に見えないのだから。なぜ見えないのかというと、「大切」におもうという感性が、世界を分節する言語の機能と高い親和性をもっており、事物と事物のあわいにある「指差すことのできないもの」の出現を導いてしまうからである。

 

九条は弁護士であり、法律の原則と手続きを頑なに守る頑固者である。だから、九条の「星の王子さま」的要素は、じつは本質的ではないのかもしれない。ただ彼は、「法律なくば」の世界を常に前提にして、もしくは視野にいれて、仕事をするのだ。森田のようなどうしようもない悪人のはなしをしているのではなく、ここでぼくは曽我部やしずくのような、とても弱いものたち、九条が手をさしのべなければどうにもならないところに落ちこんでしまうひとたちを想定している。こういうものたちは、法的には、また言葉で構成される「理知」の視座からは、こぼれおち、「見えない」ものたちである。九条には、彼らが見えている。法律、言葉が、彼らの存在のあとにくる。たこ焼き屋の味のあとに、「日本一」という称号があらわれ、定義されるように、である。

では蔵人、また烏丸はというと、まず言葉がある。言葉の宇宙があり、その地図の内側に、事物を配置する。善や悪は、その宇宙の秩序に導かれて自然に決定する。なかには、その宇宙が均衡を保つ以前の場所にいる九条が守る「悪」も、当然あるわけである。だから、そうした九条のスタンス、またシンプルに「悪」を許さないという態度が成立するためには、「法律」への全幅の信頼が必要になる。では九条はそうではないのかというのが難しいところだ。彼自身はむしろ必要以上の原理にしたがう人間だ。それがどうしてここまで蔵人と分岐してしまうのか、というところでは、やはり「弁護士」という仕事がポイントになるのだろう。罪刑法定主義のもともとは、国家の恣意による国民への刑罰を禁ずるため、要するに国民を護るところにある。「悪」を規定し、積極的に探し出すことが、少なくとも最優先の動機ではないのである。法律は、犯罪行為を明確なものとし、なにをすると罰せられるのか国民に明らかなかたちで開示し、ひいては刑罰権の濫用を防ぐ、こういうものなのである。こう考えると、九条と蔵人は、罪刑法定主義の解釈の表と裏である、などということがいえるかもしれない。蔵人においては、「法律なくば悪はなし」は、法律が悪を規定するものであり、その法律は全幅の信頼をよせるものであるから、悪は徹底的に叩かなければならないということになる。たほうで九条では、「法律なくば」は別のしかたで響く。というか、文章がいっていることそのままに響く。法律がないところには悪がなかったのであると。まず「世界」がある、まず「人間」がいる。そのうえで、害悪を抑制し、弱いものを護るために、秩序が必要になる。だが同時に、強力な国家権力に好き勝手に罪と罰を設定させてはならない。法律はそのためのものにほかならないのであり、九条はこの理路で、蔵人とはまったくちがう動機で、「手続き」を守るのだ。

 

勉強ができるタイプの烏丸は、当然蔵人タイプ、言語としての法律を読み取って、それを経由して世界じたいも読み取るタイプの視点を採用する。だが、彼が九条のイソベンをしていたのは、そうではない、まったく異なる、罪刑法定主義の裏側からの視点がありうるということを知ったからである。彼はここで揺れているわけである。

 

今回の展開と関係ないところで書きすぎてしまった。いまはなにしろ竜也と犬飼だ。京極は、息子が行方不明だというわりにはぜんぜんあわてておらず、案外この展開に怒らないなんてこともあるんじゃないかなという気もするが、彼はヤクザである。怒っているかどうかはあまりかんけいない。どうあれたいへんな弱みの生じた人間を見逃すはずはないのである。だから、なんとしても壬生はこの件を隠し通さなければならない。竜也は人間的にはやはりどうしようもなさそうだから、生かしておくのはまずいだろう。前回壬生が指示したとおりに行動すれば、しばらくは安全かもしれない。だが京極は当然犬飼に依頼したあの男にすぐたどりつく。そうなったら、彼はあっさり犬飼に依頼したことを吐くだろう。問題はその展開が壬生には瞬間的に見えてしまうということである。わりと詰んでいるわけだが、どうするのかな。といっても、菅原と犬飼が組んだときも詰んでるように見えたしな・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

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12月8日、『THE FIRST SLAMDUNK』を観てきた!

いまの仕事になってから月2くらいで映画館にいけるようになって、とても幸福だ。以前はこの位置に観劇がきていたわけで、よく通ってたときの頻度はいまの映画よりちょっと少ないくらいで、観劇は映画の10倍はお金を使うことを考えると、いまもむかしもビンボーなのにどうしてそんなことが可能だったのか、というか、けっきょくいまはさらにお金を使う場所が増えているということなのかなとか、いろいろおもうところはあるが、ともかく休みの日にどこか出かけるかとなって、まず映画が出てくるという日々は、幸福以外のなにものでもない。この日々は5月のシン・ウルトラマンがからはじまったようで、ドラゴンボール、運命のミニオンズ、ジュラシックワールド(前回素で忘れていた)、NOPE、ブレットトレイン、“それ”がいる森、犯罪都市の第2弾、などを見ていった。この2週間くらいのあいだはブラックパンサーとザ・メニュー、ブラックアダムにスラムダンクという感じで、なんだろう、いまあまり小説を読めていなくて、物語不足のいつもの感じがほんらい出てきてもいいところなのにそれがないのは、映画で備給しているということなのかなという感じだ。これまでの習慣では、このようにして鑑賞したものは必ず記事にしてきたが、今年はほとんどやらずにきた。というのは、読書にかんしても実はそうで、読み終えたが記事にしていないものがいくつかある。ぼくは、一種のトレーニングとして、おもしろかったかどうかにかかわらず、読んだものについて必ず一定水準以上の記事を書くということをしてきたのだが、それがもともとの遅読をさらにパワフルなものにしてきたことはまちがいなかったのである。ちゃんと読まないとちゃんとした記事は書けないので。それはそれで大きな成果をもたらしたとはおもうが、直観的にそろそろ乱読的な、無作為のインプットの時期がきてもいいんじゃないかなとはおもっていたのである。ずっとそれができなくて(つまり、“書かない”を選ぶことができなくて)苦労してきたが、今年はそれがかなりスムーズにできた。それも映画のおかげだとおもう。まあ、宝塚は、同じくらいのペースでみて、ぜんぶ書いていたわけなのだが・・・。

 

 

さて、伏せられていた声優の出演者がもとのアニメとまったくちがっていたことなど、はじまる前から賛否両論だったスラムダンクである。特にあっと驚く展開があるものでもないので、ネタバレもなにもないような気がするのだが、公式はくわしく語らずに宣伝をしているようなので、問題ないとはおもいつつも、本記事でも以下よりはじめて内容に触れていくこととする。

 

 

 

 

 

 

ぼくのスラムダンク体験は、実はつい最近のことだ。十数年前、書店員になってコミック担当になったとき、一種の教養として、スラムダンクも読んでいないようではどうしようもないというふうに考えて読んだのである。スラムダンクが少年ジャンプで連載していた当時は小学生、ぼくの家庭は漫画を読んではいけません的なところだったのだが、ジャンプだけは許されていて、買っていた。しかし、なぜだかスラムダンクだけは読んでいなかったことをよく覚えている。いまでもそうだが、スポーツ漫画にアレルギーがあるのかもしれない。読み切りまで毎週なめるように読んでいたのに、スラムダンクだけ、選択的に読んでいなかったのだ。不思議なものである。

書店員になり、すぐさまおもしろさに開眼したかというとほんとうはそういうこともなく、5巻くらいまで読んでしばらくとまっていたことを覚えている。だが、花道がリバウンドをとれるようになったりして、試合らしい試合が成立してからのおもしろさは尋常ではない。そして、ピークはぼくにとってもやはり最後の山王戦だった。なにしろ、山王戦が好きすぎて、相方の家に全巻そろえている以外に、最後の5、6巻を手元に置いておけるように改めて買いなおしたくらいである。そして読み始めたらぜったい最後まで読んでしまう。赤木、三井、宮城、流川、桜木、それに木暮の、それまで語られてきた細かな物語がある一点に向けて収束していくさまは、漫画的体験としてはほとんど究極といってもいいとおもう。いや、漫画的体験などと断る理由もない。特に山王戦は、ありとあらゆる物語体験のうちで、これ以上削るものもなく不足するものもない、完璧に彫琢された絶対知的完成度の試合なのである。

この山王戦が、この映画では描かれた。いま書いたように、山王戦にほとばしる「物語の喜び」のようなものは、それまでの蓄積があってこそのものだ。赤木がいままでかなり苦しいおもいで「全国制覇」という無謀な夢を抱いてきたこと、木暮がそれについてきてくれたこと、三井の後悔と反省、桜木が愚かしさと純粋さのまがりくねった道を豪速で駆け抜けて手に入れてきたもろもろ、こういうことを知ったうえでのあのリバウンド、河田や沢北の克服、負傷、一年生どうしのパスなのである。それがわかっていたから、はじまる前からどこかで山王戦をやるらしいと知ったとき、大丈夫なのかとおもったことは否定しない。だがそれは杞憂に終わった。おもえばぼくはアベンジャーズも特別アイアンマンなどを研究せずにいきなり観て感動した経験をしているのである。単独でじゅうぶんにおもしろくなるよう、細かいところを言い出すときりがないほど多くの工夫をこらして、本作は見事に結ばれているのだ。その結果として(あとで述べるように、それだけが理由ではない)本作ではかなり削られている箇所もあるが、それらはたいがい、そこに至るまでの道程を熟知しているものにだけ意味がわかるような描写かもしれない。それでも、可能な限り削らないようにしている感じはあった。たとえば、湘北の2年にはヤスという男がいるが、一瞬、ヤスがひとりで画面に抜かれるところがある。この映画だけがスラムダンク体験であるというひとにとっては素通りしてよい、ほんの一瞬の些細な場面だが、ヤスファンにはうれしい大画面のはずである。これに関連するところで、本作ではギャグ要素がかなり抑えられているが、それでも、三井、宮城、桜木がならんでガッツポーズ的なことをする場面が、遠目で描かれたりもしていた。展開上不要になる、この映画においては不用意な挿入になりかねないそういうものを、可能な限りねじこもうとしている感じを、ぼくはこういうところから受け取った。

 

なにしろ本作はバスケ描写に圧倒的に優れている。これは監督もつとめた井上先生の強い希望で実現したものだ。アニメーションの知識もバスケの知識もないので、拙い表現になることを許していただきたいが、本作はCGによる運動表現に満ちており、正直いうと当初はその感じが違和感になってしまわないか心配でもあった。だが、観てみれば見事というほかない仕上がりなのである。それどころか、ついに、現代の技術は、井上先生が漫画で表現していた試合のそのままの映像化を可能にしたのだなと感じさせる完成度なのである。とりわけ遠景である。遠く引いたカメラ位置でコートを描く際、試合をしている計10人が、おのおのの判断のもとに、ガードしたり攻めたりしている、そういう、極めてポリフォニックなスポーツの現場が、展開というモノローグに回収されないまま、つまりそれぞれの自律性を確保したまま、保存されているのである。じっさいにバスケの試合を見たことはないが、それでもこれには感動しないわけにはいかなかった。そして、これが井上先生の目指したものだったのだなというふうに理解したのである。

 

このこと、つまり、本作を観ていて訪れた感動が「遠景からの卓越した描写」にあることを理解するとともに、同時に感じていたものの正体も見えてくるようになった。それは、少し書いたように、ギャグと恋愛要素の抑制である。ギャグについては、パンフレットのインタビューを見るとわかるように、漫画表現であればこそのぶぶんもあったようで、映画では難しいというふうになって削除されたところもあるようである。だがぼくには、これは試合のリアリズムを徹底的に探究した結果のようにおもわれた。ギャグが抑制されているといっても、たとえば桜木は山王のことをヤマオーというし、ゴリは桜木に拳骨をくらわせたりはする。だがそこで、タンコブがプクーと膨れ上がったりはしないし、あの、なんというのか、目とか鼻が小さくなるギャグ絵になるようなことはない。シリアス絵のあのまま、桜木は拳骨を痛がるのである。同様にして、花道とハルコ、もしくはハルコと流木の恋愛(というかたんに“好き”という感情があるという事実)、また宮城とアヤコさんの関係性は、ほとんど描かれない。あとで書くが、本作は宮城が主人公となっており、そのぶん、アヤコさんとのやりとりは少しあるが、恋愛というほどかというとそうでもない。スラムダンクで恋愛は初期衝動にはなるが、原動力にはならない。とまで断言するのはおかしいが(原作の宮城などはそういうこともないかもしれない)、花道などは特にそういうぶぶんがあるとおもう。

なぜこうした要素が抑制されたかというと、抑制しようとしてそうなったというより、試合のリアリズムを探究した結果として、少年漫画的な含み、非現実的なギャグ描写や試合の前段階たる恋愛要素が除かれたということなのではないかとおもわれたわけなのだ。

 

そして、このこと、特にギャグが抑制されていることが、もうひとつの状況を呼んでいるとぼくは推測する。それは桜木花道のキャラクター、特に声質である。本作で桜木の声を担当するのはジャイアンで有名な木村昴である。たしかに、声質としては、以前のかたにも通じるものがあり、桜木らしいといえばそうだろう。じっさい、ぼくは宣伝を見ていたときから、みんながいうほど不用意なキャスティングではないんじゃないかなとおもっていた。しかし映画を観てみると、逆にそこには、新たな桜木像とでもいうか、キャラクターの変質を感じ取ることができたのである。それがギャグ要素の抑制と連なっているのだ。木村氏の桜木は、あのニャーニャーいう感じの幼さがあまりない。いってみれば、粗暴な雰囲気はじゅうぶん残しつつもちょっと知的なのだ。これも、井上先生や木村氏の解釈というより、本作が試合のリアリズムを探究し、ギャグを抑制した結果なのではないか、というのがぼくの考えである。わかりやすくいうと、ゴリに殴られてタンコブがプクーする桜木としない桜木では、声も当然変わるのである。

 

さて、そうしたバスケ表現に支えられた試合展開が、じっさいにはなにを描いているのかというと、ポイントガード・宮城リョータの内面であり、過去であり、つまり背景であった。井上先生的には、新しく映画をつくるならいままでになかったスラムダンクを、という意図があったそうである。ドラマのある赤木や三井、主人公もしくは主人公格としてライバルどうしでもある桜木と流川のなかにいて、宮城はいかにも脇役だったかもしれない。非常に魅力的なキャラクターであることはまちがいないにしても、物語を牽引するタイプではなかったのだ。じっさい、原作初読の時点での宮城は、実力はあるがまとまって仕事をすることができないチームをパスで支える技術面での大黒柱であって、いちばん大人な感じのする人物だった。なんだろう、うまいたとえが出てこないが、とりあえず宮城にボールがまわればひと息つけるみたいな感じは強くあったのである。本作ではその意味、また理由が明かされていく。彼は幼いころに父と兄を立て続けに失っている。兄は、宮城以上にバスケのセンスに優れ、将来を期待されていた。その兄が授けた「生きぬく技法」のひとつが、正確なセリフは忘れたが、どんなにきつくても平気な顔を貫くということだったのである。これは、宮城のなかでは指針レベルを超えて内面化されていて、じぶんで気付かないうちにそれを実行するほどになっている。グレた三井一派に囲まれたときは、平気な顔をしながらも手が震えていた(このとき三井はそのことに気付いているようだった)。アヤコさんに試合前の緊張について語ると、どこまでほんとうのことをいっているのか、アヤコさんはぜんぜんわからなかったというようなことをいい、それを聞いて宮城も意外な顔をするのである。つまり、表面に内側の緊張や葛藤がまったく出ていないということに、宮城じしん気付いていなかったのだ。だが、アヤコさんのいうことは読者こそもっともよく理解できるはずである。じっさいに原作を読んだファンは、宮城のひょうひょうとした態度に緊張した筋肉をほぐされ、ホッとしてきたはずだからである。赤木は、バスケへの情熱とあの体格や顔貌でチームを引っ張ってきたが、こういう点でいえば、宮城も明らかにキャプテンの器であり、いちばん似ている人物は、本作には登場しないが、稜南のエース、仙道だとおもう。仙道は、実力だけでなく、やはりひょうひょうとした、物事に動じない様子と、敵チームまで目が届くような面倒見のよさをいたるところで見せてきた。状況によらずに人間を見通せるちからはリーダーに欠かせない資質なのである。

父と兄という、強力なロールモデルを欠いたまま、それでも平気なふりを続け、バスケにすがって生きてきたところのある宮城は、ポイントガードとして適切な「主人公であることを回避する能力」のようなものを身につけていったのかな、などということを観ながら考えていたが、平気なふりはどこまでも「ふり」でしかない。試合はそれでもいいが、実生活はそうではない。そこに、母とのわだかまりが生じる。だから、平気ではないことを認めるその先に、母親との和解があった。では、それが試合に転じるとなにが起きるのだろう。「平気なふりをする」というふるまいじたいにちがいはない。異なるのは、それが消極的なものか積極的なものかということだろう。自衛のためにやむを得ず平気なふりをして主人公であることを回避することと、主人公であることを回避することによってポイントガードの仕事をまっとうすることでは意味がまったくちがうのである。宮城がポイントガードとして完成するためには、この克服が必要だったのだ。

 

 

桜木と並んで作中もっとも太い物語を生きているのが赤木だが、当然、2時間ちょっとの映画では、赤木の物語をも描ききるということは難しい。このあたりを、覚えている限りで原作に登場はないとおもうのだが、赤木のひとつうえの、もじゃもじゃあたまのセンパイが一身に背負う感じで表現している。「全国制覇」という無謀な夢を真面目に語る赤木を半笑いで、あるいは部を去る足で罵倒しながら否定する多くのものたちのイメージを、ひとりの人物に集約したのだ。見事だったとおもう。

 

 

スラムダンクという作品全体もそうだが、特に山王戦は、「一瞬眠りに落ちた瞬間にみる夢」みたいな感触が非常に強い。原作では山王とのたたかいで完全燃焼した湘北は、あとの試合でぼこぼこに負けてしまい、けっきょく全国制覇は果たせないのだが、この試合はまったく描かれない。そしてそのこともまたこの試合の“夢”感を増すことになる。じっさい、高校生の部活として行われるこうしたスポーツの試合は、いっしゅの夢なんじゃないかなとおもう。印象的なのは、負傷をおして試合に出る赤木や桜木である。足が折れてもいいから試合場に立つなどということは、現実が現実として動き出した大人になってからまっとうすることは難しいだろう。桜木の負傷に気がつきながら、あまりに調子がいいためについ気付いていないふりをしてしまった安西先生は、みずからを「指導者失格」という。じっさいそうだろう。だが、それでも秒速で伸びていく桜木を見ていたい、そして桜木じしんの、じぶんのすさまじい成長とそれが導くはずの試合結果をこの目と身体で感じたいという感覚そのものは、痛いほどわかる。そしてそれは、大人になってからは決して実現することのできない、人生の空白のような「高校の部活」だからこそ可能なものなのだ。たぶん、それが「青春」というものなのだろう。ひとはいつまでたってもじぶんの「青春」時代のはなしをしている。それは、それがもう二度とやってこない、かつ、ほかの経験とはかえることのできない、唯一無二のものだということを知っているからなのだ。そうした、誰もが抱える、各様に無二の青春を、バスケットボールの試合形式で2時間に凝縮したもの、それが本作である。

 

 

いろいろな見解が入り乱れているので、原作やアニメファンで観にいくのを迷っておられるかたもいるとおもう。特にアニメのファンのばあいは、声のちがい、特に、うえで述べたような、桜木のキャラクターそのものの変質と連動したちがいに戸惑うばあいもあるようである。たしかにそういうぶぶんはある。しかし本作がたいへんな傑作であることはまちがいないので、ぜひ見てもらえたらなとおもう。

 

 

 

 

 

 

 

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第137話/直線力

 

 

 

 

勇次郎強いエピソードが週をまたいだ?!

いや、検証したわけじゃないからわからないけど、勇次郎が強いのはみんな知っているので、逆にいまさらなにをする気なのかなという興味はある。

今回使われるのは地球最大の生物・クジラを一撃で仕留めるという捕鯨砲である。それを、ストライダム企画で、勇次郎に向けて発射するというものだ。

 

ここでライフル銃の解説が入る。ライフル弾の初速は時速1000キロにもなるというが、まっすぐ進むその軌道に笹の葉が入っただけで、大きく軌道をはずれてしまうという。花山がいってたやつだな。闇金ウシジマくんでも、あたまを狙った弾丸がなにかのはずみで頭蓋骨と皮膚のあいだに入ってしまい、緊箍児のようにハチのぶぶんをまわってしまったことがあった。それは巨大な推進力あってこそのもろさなのだろう。ほんの少しの横からの衝撃が、増幅し、誇張されて、大きく的がはずれてしまうのである。

 

というわけで、勇次郎はこの捕鯨法を、よけるのでも受けるのでもなく、横なぎにするのである。人差し指で廻し受けだ。回転にのまれた銛はその場で的を見失い、やがて地面に突き刺さる。これなら独歩もできるかもしれないな。

 

勇次郎は、なぜだか「例外はない」という。誰も例外があるなんていってないのだが、ともかく、直線に進むもの、特にそのちからが強いものは、横からは無力であると。クジラをぶち抜くパワーがあるなら人差し指でじゅうぶんなのだ。

 

さて、これがいったいなにを意味するのか?どうやら今回の勇次郎は、いつもの強い描写ではなかったようである。というのは、描写が、直前までの独歩対蹴速戦にもどるからだ。完全に終了した試合の、続きである。独歩が会場をあとにしているところだ。その前に、前傾姿勢の蹴速がたちはだかる。独歩は、両耳なくしたばっかりで、両目までなくすことはないと、指を伸ばしつつおどかす。この状況でやっても蹴速に勝ち目があるとはとてもおもえない。独歩なりの優しさだろう。

蹴速は耳がないので、なにをいっているのか正確にはわからない。だが「仕切り直し」だという。いや当麻家の「仕切り直し」ってそういうジャック的なやつじゃないよね。やるなら日を改めて独歩が酒でも飲んでるときにしようよ。

 

蹴速が前に出る。だが、前に出るとほぼ同時に気絶しているか、ほとんど意識がない状態になっているようだ。右足の踵は粉々、正拳の連打で肋骨の大部分にヒビが入り、両耳をむしられ、さらに貫手で両脇をやられている。日本語をしゃべっているだけで超人といえるレベルのダメージだ。当然の成り行きである。独歩は、嫌な夜だとしながら、目突きを放つのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

嫌でもやるのが独歩のいいところでもあるが、どうだろうな、さすがにここで両目はいかないか・・・。

 

おそらく単行本で続けて読んだほうが流れがつかみやすいところかもしれないが、どうやら今回の勇次郎描写はありがちな強い描写ではなかったようだ。似ている感じのでいうと、柳の実力を語る国松とか、スペック戦中に街のチンピラに説教かます柴千春とか、あんな感じかもしれない。どうも、今回の勇次郎は、前後に伸びる独歩・蹴速戦におけるなにかについて語っているものとおもわれるのである。それがなんなのかは、正直言ってよくわからない。たとえば、蹴速が猪突猛進型でとにかく力任せに独歩へドスコイして、独歩が年の功でそれをいなす、みたいな試合展開だったならはなしはわかるが、なんというか、独歩はふつうに正面衝突しているようにみえる。いや、見えるだけで、じっさいにはかなり蹴速は翻弄されていたのかもしれない。けっきょく、蹴速はほんらい逃げ出してそれこそ「仕切り直し」をするべきタイミングで、砕けた足のままたたかい続けてしまったのだ。だから、わからない。わからないが、たぶん蹴速の、あるいはまた宿禰の未熟さのようなもの、捕鯨砲のようにじゅうぶんな威力を孕みながら、横から思いがけず突かれるとよろめいてしまうような拙さを、勇次郎は物語を通して指摘しているものなのかなというふうにはいえるかもしれない。

 

そもそも、今回の「仕切り直し」は、ほんらい当麻蹴速が用いてきたものとはまったく別におもわれる。彼らが用いてきた「仕切り直し理論」は、けっきょくのところ「詭弁」である。試合は、勝つまでやる、だから負けてない、そういう言い分を正当化するために、彼らは「仕切り直し」という言葉を用いてきたのだ。だが、今回の蹴速では、ことばのそのままの意味での「仕切り直し」である。目覚めるなりピクルのもとにダッシュしたジャックと変わらない。要するに、ぜんぜんずるくないのだ。もしかすると勇次郎はこのことを示しているのかもしれない。蹴速はこれで独歩の強さがじゅうぶんわかったはずだ。だとすれば、対策のしようもある。この場はそのまま退散し、怪我が治るのを待ち、拳のかたさを想定した稽古を重ね、さらにタイミングまで狙って「まだ負けてない」宣言をすれば、可能性はある。それがほんとうの「仕切り直し理論」のはずだ。しかし、そうせず、誤った意味での「仕切り直し」という語をくちにしてまで連続してたたかうことを選んでしまったのは、意地とかプライドとか、要するに若さがもたらすぶぶんが大きいだろう。それでは独歩には勝てない。バキには勝てるかもしれないが(バキはよく油断して負けるので)、渋川や本部にも勝てないだろう。勇次郎がいっているのはそういうことかもしれない。

 

ただ、あの目突きが目に突き刺さっているものかどうかというのは、微妙なところでもある。今回直線的な攻撃を放っているのはむしろ独歩のほうである。とすれば、それは横からの不意の衝撃に弱いはずである。以上のようなことを読者や独歩に考えさせることじたいが蹴速の目的であり、罠にかかってまっすぐに歩いてくるところを横からつっつくことが、最後の攻撃だった、なんていう展開もありえる。だいたい、二本指の目突きというのは高いリスクを伴う技だ。すぐ近くに鼻の穴や口があるので、はずすとそうしたところにひっかかるし、もし相手に技が見えていたら、顎を引かれて額を突き出されたら指を失うのはこちらである。だから、目突きはたいてい補助的な技術として学ぶことが多い。ぼくの道場でも、目をねらうときは5本の指ぜんぶを開いて顔の前にばらまくようにして使うよう指導していたし、大山倍達は薬指を含めた三本指を使い、中指を鼻筋にすべらすようにして使用していた。突き刺す必要はない、ほんの少し触れればよい。目は非情に繊細な器官なので、威力は不要なのである。そうして視界を奪ったところで、逃げるなり金的を打つなりする、そういう技なのだ。描写的にはなにかがつぶれるような音がしてもいる。それが、目なのか指なのか、というところだろう。

 

 

 

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