すっぴんマスター -36ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第140話/目線

 

 

 

オリバの宿禰へのリベンジマッチ開始だ。

当初は特別乗り気にも見えなかった宿禰だが、再び三角形・逆三角形のはなしを持ち出され、相撲と実戦を対比的に持ち出されたりして、やる気になったようである。

 

いきなりオリバの左アッパーが決まる。すごい迫力の絵だ。1秒前まで会話していた感じだったのもあって、少し不意打ち気味なのかもしれない、宿禰はこれをまともにくらう。おでこでオリバの拳を砕いた彼だが、これは効いたようだ。

続けて流れるように右の拳が宿禰の顔面にめりこむ。アッパーで少し浮いているせいか、宿禰はほとんど水平にふっとび、背後の車に激突、半壊させた。宿禰も重いしオリバのパンチもすごいしで、駐車場でやるのはまちがいだったんじゃないかな・・・。ああいうのって光成が弁償してたりするのか?

歩みよるオリバを、まだ回復しきっているようではない宿禰がタックルのような動きでうけとめる。彼のばあいは低くかまえる必要はあまりない。アバラ投げがあるからである。ただ、手の触れたところをつかみさえすればよい。今度もやはりオリバの肋骨を捕る。だが、もちろんオリバは対策を考えてきたようだ。両腕で宿禰の腕を包み込み、脇ではさんだのである。その拍子に手ははずれてしまった。相撲ではこれを閂というのだろうとオリバがいう。その体勢のままロック、背後に向けて宿禰をぶん投げる。顔が地面に激突してはいるが、ダメージはどうなのか、宿禰は身軽に跳躍して回転、向き直っている。

ビキビキに血管を浮かせてパンプしっぱなしのオリバがそっと右手をさしだす。手四つで力比べをしようというのである。握力でダイヤモンドをつくるちからびとの宿禰である。なめた行動としか思えなかったろう。かなりあたまにきているっぽいが、表面上はおだやかに、これを受ける。体重では倍近いじぶんに力比べを挑む拠り所はそのバカげた筋量か、などといっている。

 

どちらも力ではバキ界屈指といっていいかもしれない。だが、どちらかというとまず宿禰が衝撃を受けているようである。なんか、おもったのとぜんぜんちがう感触みたいだ。オリバは「力士」というわりには非力だと、まだ残っていたらしいちからを加え続ける。手首の傾きにあわせて徐々に宿禰のからだは下がっていき、手首を守るためか、宿禰が逆の手を手首にそえたあたりで、ついに宿禰の目線がオリバの下になってしまうのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

なんか、「こういうのが見たかった」という回だった。最初のアッパーの絵、いいなあ。

 

前回の三角形のくだりを踏まえて、このたたかいは攻めるものが強いのか守るものが強いのかというはなしになるのではないか、ということを先週書いた。オリバはアバラをつかまれた状態でちからをこめたことを「手違い」としていたが、これじたい、オリバ的にはけっこう事件だったわけである。というのは、人間が強くなろうとするにあたって手にする技術、もっといえば「パワー以外のもの」をパワーで塗りつぶすスタイルがオリバのものだったからである。肋骨をつかまれた状態でモストマスキュラーのポーズをとって、背中の張りで宿禰の手を弾き飛ばすことができるなら、このスタイルは貫かれる。けれども、もし指がはずれなかったら、オリバの背中が発したエネルギーはじしんの肋骨に返っていくことになる。けっきょく、それが彼の肋骨を砕いたのだ。この行動が「手違い」だったということは、あの局面ではじぶんの「パワー」だけでは危機を乗り切ることはできなかったということを認めることにほかならなかったのである。

もちろん、そういう意味もここにはこめられているとおもうが、あるふたつの行動の同一の面を比較しようとするときに、条件を考慮しなければ、これは当然おこりうることだともいえる。無双の腕相撲チャンピオンに、それなりに腕力にじしんのあるものが挑むとき、ふつうはノーマルな腕相撲をすることになるとおもうが、「強いんだったら小指でやってよ」というはなしなったら、チャンピオンは受けざるをえないかもしれないが、試合としてはあまり意味のないものになる。背中の張りとしっかり握りこんだ握力でどちらが強いのかというと正直よくわからないが、直観的には、「ふつうに考えて無理」というものではないかとおもわれるわけで、要するに、あのときは「背中の張り対決」をしたわけでも「握力対決」をしたわけでもなかったのである。こういうふうに読みかえれば、「筋肉はすべてを解決する」オリバの哲学は、あるときには成り立たないときもあるが、それは腕相撲チャンピオンが小指で試合をせざるを得ないような状況をも含むものではなくて、暗黙に了解される条件のようなものが、ほんらいは前提としてあるべきなのである。腕相撲チャンピオンが「じぶんはもはや生涯誰にも負けることがないだろう」というときは、当然にノーマルな腕相撲の試合が想定されているし、不慮の事故で半身不随になった将来を含む発言ではないし、弱りきった死の直前の体調は「生涯」には含まれないのである。

 

だが実戦ではむしろ「小指で腕相撲をしなければならない」という状況はあらわれうるし、むしろそうした状況を作り出すのがたたかいの上手いものということになる。じぶんの強いところで相手の弱いところを叩くのがたたかいの基本だからだ。そう考えると「じゃあけっきょく『筋肉はすべてを解決する』は実戦的思想ではないのでは」ということにもなるかもしれないが、それこそが手違いというものだろう。あのときのオリバは、劣勢であったこともあり、ちょっと虚勢を張ってしまったぶぶんがかなりあったのだろう。腕相撲でいえば、相手が冗談ぬきで強そうだという点を見抜いたうえで、自ら小指でやってやると提案してしまうような状況だったのだ。相手の弱いところを見つけだすのが基本なら、じぶんの強いところを押し出すのもまた基本である。みずから小指での腕相撲を申し出る必要は、ほんらいない。それは相手が挑発などで引き出すものだ。これが「手違い」の真意であろうとおもわれる。

こういうことがより鮮明にみえるのは、手四つの展開である。バキでも餓狼伝でも、手四つは「力比べ」の展開に典型的なやりかただが、ここで重要なことは、右手と左手のちがいはあれど、ほぼ完璧に条件を等しくできるということである。相撲でも四つに組むという言い方があるが、考えてみればこのように完全に条件を同じくするたたかいかたというのは、この2種類の「四つに組む」以外に、案外ないのである。

 

アバラ投げはオリバに致命傷を与えたが、見たようにじっさいにはじぶんでじぶんを損なってしまったぶぶんがあった。条件が常識的なものであればやはり「筋肉はすべてを解決する」はずであるということを、オリバは今回示す必要があった。それが「閂」という方法だった。ここにはいくつかの意味が潜んでいるが、ひとつにはそれが相撲にもある技だということが大きい。相撲的な発想でつかみかかられているものなのだから、相撲的な発想で、なおかつじぶんのパワーの文脈でこれを突破しなければならなかった、そこで「閂」なのである。

さらにここには「攻め」の姿勢が見て取れる。しっかり食い込んだ指を、くいこまれた箇所の筋肉で正面から突破しようとしたのが以前のたたかいだった。これは、いま考えたようにあまりにも「手違い」が過ぎたわけだが、同時に、そもそもこれはオリバのスタイルではなかったのである。侵食するものをうけとめ、押し返す、これは守りの、三角形の哲学において行われるものなのだ。では逆三角形のものはこのときどうすればよいかというと、攻める以外ないのである。もちろん、たとえばここでは、宿禰のつかみはぜんぶ無視して、親指を目玉にめりこませるとか、そういうことをしてもいい。だが行動者はオリバである。あくまで「筋肉はすべてを解決する」を実践するしかたで攻めなければならない。そこで、都合よく脇のしたにさしこまれた腕を抱え込むのである。それが食い込んだ指をはずすにあたってどれほど効果的かというと、よくわからない。引き続き宿禰は指をくいこませ続けるかもしれないし、もしそうなったら、オリバは宿禰の腕を抱え込むみずからのパワーをまたじぶんの肋骨に逆流させてしまうことになる。だが、前回と異なり、この条件ではたがいに「肋骨」と「両腕」を相手に預けることになる。宿禰は指をくいこませ続けることはできる。だがそれは、同時に閂のダメージを受け容れることも意味するのだ。

 

このようにして、オリバはみずからの逆三角形のスタイルを改めて点検することで、また「条件」というものを自明とせずみずから獲得するものとすることで、攻めの姿勢を貫くことになった。これがついに呼び込んだのが、今回の手四つでの圧倒である。逆三角形スタイルは、攻め、相手を屈服させるものだ。図像的にも今回オリバの目線が宿禰を超えたのはきわめて逆三角形的なのである。

 

 

 

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第70審/至高の検事⑥

 

 

 

薬師前が毎朝新聞の編集部にきてインタビューを受けている。相手はいつか輝幸の件で山城に直撃取材をしようとしていた市田智子だ。

市田は「犯罪者の社会復帰」という連載をもっていて、弱者の社会復帰を支援している薬師前の仕事についてはなしを聴いていたというところだ。薬師前が最初に連載を知ったのは烏丸が誉めていたからで、市田に薬師前を紹介したのも烏丸らしい。意外とアクティブにそういうところで動いてくれるんだな。

 

そこで、烏丸を知っている相手なので、薬師前が彼のはなしをはじめる。薬師前はひとの世話ばかりしているタイプの人間なので、この手の描写は意外と貴重だ。烏丸が担当した執行猶予者に会いに行った際、時間が余ったからショッピングモールで食事したり、ゲームコーナーをうろついたりしたことがあったらしい。デートっぽいいい雰囲気だ。パスタはおいしかったが、食べる前に想像できる味で感動がなかったと、すましたスフィンクスみたいな顔で烏丸はいう。ゲームコーナーではクレーンゲームのなかにいるコアラが目に入る。コアラっていうか、なんだろうこれ、ハギーワギーみたいなくちをしたやつだ。薬師前はコアラを集めているという。どこがいいかというと、意外性である。見た目はかわいいけどマッチョ、毎日すすんでユーカリの毒を摂取して、それを抜くための盲腸が2メートルもある、へんな生き物だ。

でも薬師前はクレーンゲームが苦手だという。烏丸は捨てる日が想像できるものはいらないというが、薬師前が「私は捨てない」というので、烏丸が一発でゲットする。むかし下手なのをバカにされて、動画で研究したことがあるそうだ。とはいえ、クレーンゲームって確率機とかあるから、ものによっては上手くてもとれないことはあるよね。運もよかったのかも。薬師前はお礼にマッサージ機をおごるのだった。

 

薬師前は、なぜこの連載をしているのかと市田に訊ねる。

市田は週刊誌の記者だった。まだ週刊誌に勢いがあったころで、編集部で寝泊りもふつうの時代に新入社員として入った。資料があっても目次だけ読んで、翌週には忘れられるゴシップ記事を量産する日々。そこである無差別殺人事件が起こった。絵を見れば読者にはわかることだが、烏丸の父親が殺された事件である。流木が弁護をし、九条の父・鞍馬が検事を務めたものだ。烏丸の父は、他の被害者を守るために殺されたのだという。前回や今回のはなしだけでは、死者が何人いたのかなどくわしいことはよくわからず、父親が守った人間が生還したのかどうかもわからない。だが、ともかく父親は誰かを守ろうとした。東大法学部出身、有名商社のエリート社員ということもあって、一時的にこれは英雄譚として取り上げられたが、翌週、市田の上司、編集長は、この「英雄」のゴシップを拾ってこいと指示したのである。うそかほんとか、市田は援助交際の記事を書き、雑誌は売れた。世間の目は1週間でくるりとかわり、遺族は同情から誹謗中傷の対象になった。それで市田は週刊誌をやめた。

続けて市田は従業員のふりをして葬儀に潜入したという。ひっそりとした家族葬で、母親と息子、つまり烏丸しかいなかったという。烏丸は母親を支え、線香の火を寝ずに見守っていたと。ということは、お葬式は二度目の記事が出たあとということになるだろうか。警察に預けられていたりして、しばらくあげられなかったとか、そんなことなのかな。市田は烏丸の名前を出してはいないが、薬師前はこれを烏丸のはなしだと理解しているようである。

 

同様のはなしを、警察署前で遭遇した九条と烏丸もしている。明るかった母はそれから笑わなくなった。楽しんでると不謹慎といわれそうで、人目をおそれてしまうのだ。「誰も自分を救えない」と「死んだほうが楽」が口癖になってしまった母。他者に絶望し、なにも期待せず、無でいることを選んだ生きかた。その母親の目と九条のものが、似ているのだと烏丸はいう。だから心配しているのだ。どういう意味かな、九条は、過去と現在に固執すると未来を失う、だから自分は変わったと、九条は応えるのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

情報量の多い回だった・・・。うまく考えまとまるかな?

といっても描かれたのはふたつの状況、薬師前を通して観察された烏丸の意外な一面と、市田経由で語られた烏丸の過去と、さらにそれが彼にとっての九条への心配にどうつながっているのかということだった。

 

薬師前の観察描写で気になる点といえば、二度も出てきた「想像できる(出来る)」という文句である。ひとつめは、食べたパスタがおいしかったという薬師前の他愛のないことばに対し、にべもなく、食べる前から味が想像できて感動できなかったというくだりである。このぶぶんからは、なんとなく、高校生くらいの男子がしでかしてしまいそうなニヒルの演出みたいにも見えなくもないが、烏丸にデート経験があまりないということではないだろうから、そう見えるだけだろう。いや、でも勉強ばっかりしてて案外・・・。

ともかく、それと呼応するように、今度はコアラのくだりで、同じようなセリフが出てくる。ぬいぐるみというのは生活不可欠のものではないから、いつか捨てる日がくるかもしれない、こないかもしれないが、可能性はゼロではない。捨てるという状況は、想像可能である。そういうものはいらないというはなしだ。

どちらも、想像できるものについて、彼は興味をもたないということを描いたものだ。この「想像できる」というのは、いままでのぼくの文脈でいえば、「空語ではない」くらいの意味だろう。彼が九条とともに「日本一のたこ焼き屋」にあのようにこだわるのは、それが空語だからである。なにも意味していない、もしくはなにを意味しているのかわからない、だから、気になる。気になるその先からは、探究するのか、それともただただ落ち着かないのかに分岐するだろうが(たこ焼き屋は後者のぶぶんもある)、ともあれ、言葉の意味するところが、過不足なく言葉を充実させているという状況が、「想像できる」ものなのである。意味するものと意味されるものが完全に一致する状態とでもいえばいいだろうか。ふつう、言葉はそのようにはできていない。プロレスファンがくちにする「強い」と格闘技ファンがくちにする「強い」は意味が異なるだろう。だが、そのように、主観やそのときどきの状況によって意味が変化しないもの、もしくは、してはいけない、しないように使用者が努めるべき言葉が、世の中にはあるわけであって、それは法律の文書であるわけである。ひとによって単語それぞれに別の意味が付与されていては統一的なルールも刑罰も成り立たない。立法事実や広く「常識」などを前提としつつも、基本的には解釈の揺れが起こらないように、条文は書かれているのである。これは、「想像できる」世界だろう。だが感動はない。また、ぬいぐるみに関していえば、コアラの行く末について、いくつかのパターンが瞬時に理解できるということが「想像」のなかでは起こる。そこには「捨てられる」も当然含まれる、だからほしくない。ここに見えているものは、捨てられる可能性が少しでもあるものはほしくないという、理解しあえないなら無でいいとした母親の感情にも通じる虚無感もみえる。だがここで注目すべきは時間感覚だろう。烏丸の「想像」の範疇では、ぬいぐるみの「捨てられる未来」が瞬時に可能性として織り込まれるだろう。こう書くと、彼が依拠する言葉が、分岐する無数の状況として「捨てられる」を想定するということになりそうだが、おそらくそういうことではない。むしろ逆である。烏丸の思考法は、むしろ未来を硬直させる無時間モデルなのである。じっさいには、世の現象という現象はより複雑だ。薬師前の「パスタおいしかった」は、ただ薬師前の味覚を通して感じられたパスタの味がリポートされ、情報として共有されているわけではない。これは「会話」である。同意するなり、批評を加えるなり、なんなら反論するなりすることで、会話は成立する。もし「未来」のモデルを想定するのであれば、そこにはこういう、複雑な派生、ぶつかりあう波のような、行く先を把握することに意味が見出せないほどの大きな起伏が潜んでいるはずなのである。それを、法律家としての思考習慣か、過去の経験からか、彼は無時間モデルに回収してしまうのである。

 

ただ、これは彼が好んでやっていることでもある。前回述べられたように、烏丸は、理解不可能な事件のなかで法律だけが機能して明確だったとしていた。そこに生きる意味を見出そうとしたと。無差別殺人は極端だとしても、世の中は理解できないものごとでみちみちている。それを、法律の無時間モデルに回収し、「想像できる」ものとする、それが彼の願いであり、げんに実行している思考法なのだ。不思議なのは彼がそれについてどうやらそれほど誇りをもってはいないようだということである。いや、誇りをもってはいるかもしれないが、論破するのが大好きなひとが喜々として相手をやりこめるような悦楽の表情は見られない。そういうものだから、とでもいうようなあきらめが感じられるのである。おそらくこの彼の表情が、そのまま九条への興味へとつながっているのだろう。九条はその「理解できないもの」を理解できないままにしておく人間だからである。すべてを「想像できる」のなかにおさめようと努めてきた人生で、烏丸はしかしそこに感動を見出すことはなかった。つまらなかったし、疑問もあったのかもしれない。そういうところに九条と出会い、なにが彼にそうさせているのか、研究しようとしたのではないだろうか。薬師前の、コアラについての「意外性」のくだりも、表情は描かれていないが、烏丸は意外と興味深く聞いたのかもしれない。意外性とはまさに想像の外にあるものだ。つまり、薬師前が「意外性」を求める感情は、「想像できる」世界に自ら身をおいてつまらなそうにしている烏丸のものと近いのである。

 

そして、九条を心配する烏丸だ。市田の書いた記事により、被害者だった烏丸の母親は誹謗中傷を受けるようになった。以来、母親は笑わなくなり、他者を求めなくなった。それは、ひとを信じられなくなったということもあったろうが、ひとめを気にしてということも大きかったようである。そんな母親と九条の目が似ているという話だ。

どうしてこのふたりの目が似てしまうのかというと、感情を殺しているからなのだが、ではなぜ感情を殺しているのか。むしろ意味するものと意味されるものが一致する世界、すべてが理解できる世界に住む烏丸や、九条の兄・蔵人のほうが、感情を殺しているといえそうでもある。だがそうではないのだ。烏丸は、じしんの経験もあり、たぶんそういう面もあるだろうが、蔵人はそうではない。なぜなら彼は法律と一体化しているからである。法律への帰属意識が、自己同一性レベルにまでなっているため、感情を殺す必要がないのである。また、解釈に揺れがない、もしくは揺れを想定しなくてよい地図のようなものを手にする旅人は、迷いがないということもあるだろう。彼らは現象を外部にはじき出して対象化することができる。感情があるかないかを問題にする必要がにない状況を作り出すことができるのだ。

だが九条はそうではない。複雑な状況だが、九条は、人間としての感情が「ある」ということをむしろ認めていくことで、自らの感情を殺すことになる。「家族の距離」などでは、彼の同情心のようなものの片鱗も見えたが、原則的に彼はむしろ感情を殺すことであのような仕事が可能になる。蔵人らが現象を対象化するいっぽう、九条はみずからの感情を対象化するのである。どうしてそうする必要があったかといえば、「理解できないもの」を理解できないままにしておくためである。蔵人には見えないもの、星の王子さまが大切なものだとした「目に見えないもの」の価値をそのままに保存するためである。これは、ポジティブな意味でもネガティブな意味でもあらわれうるだろう。たとえば、しずくのような非常に弱い少女の考えていることを「ほんとうに」理解する必要は、“理解者”にはない。できるにしくはないが、絶対条件ではない。ただ、彼女のために、物理的にも心理的にも居場所を確保する、彼女の発言や行動をいったんプールし、括弧にいれて整理する。それが「理解者」だ。これは「理解できないもの」をそのままにするばあいのポジティブな相だ。ネガティブな相は、むろん、到底許せるものではない悪人を弁護する際にあらわれる。だが、九条のポリシーはそれも守らなければならない。その際に感情を殺す必要が生じる。それは当然そうだろう。「理解できない」ものがそのままになっているのだから、納得もいかないのである。納得がいかなくても、しずくのようなものは、誰かに危害を加えるものではないから、負の感情がわいてくることもないが、森田のような男ではそうもいかないだろう。

そうした九条の表情が烏丸の母親と似るということは、母親の状況、つまり理解を絶した他者の悪意にさらされるという状況が、すなわち九条にとっての悪人との対話に通じるということだ。先週まつりあげた英雄を今週たたきのめす週刊誌に合理性や一貫性はない。ただ、気まぐれな指先の恣意で売上をとろうとするだけの、ほんらいであれば些細な存在だ。だが人間の悪意はそれを拾い上げ、増幅させる。そのときついに、「理解できないもの」は「害をなすもの」に変化する。そうなったときわたしたちにできることは、それらを決してわかりあうことのできないものとしてブロックすることだけである。いや、現代でいう「ブロックする」という状態は行動として主体性が強く、強い意味をもっている。ここで彼らがとるべき行動はもっと消極的なものになるだろう。つまり、それがそこにいるということを感じないようにするということ、感情を殺すということなのである。

 

それについて九条が述べた「過去と現在に固執したら未来を見失う」という言葉はいかにも謎めいている。正直なんのことをいっているのかわからないが、烏丸のはなしを聞いたあとなので、行動の因果についていっているのかもしれないとはおもう。つまり、たとえば烏丸では、過去の凄惨な事件があって、いま弁護士の仕事をしている。これが行動の因果である。事件という原因があり、弁護士の仕事をしているという結果がある。だがたとえばここで、法律はすべてを見通すものであるという、当初の動機となった見立てがまちがいだったとしたら、という疑問が烏丸のなかでわいているとしたとき、それはもちろんいまの行動に影響をおよぼすわけである。げんに彼はいま九条の行動原理を理解しようと流木のもとに身を寄せているし、迷いに迷っている。具体的にそのことをいっているというわけではないのだろうが、おそらく九条はそういうはなしをしているのだ。そこに至った原因、また経緯、そういうものにこだわると、行動がブレブレになり、到達すべき未来を見失ってしまうと。そして同時にこれは、外部ではなく、自分自身を無時間モデルで見るということでもあり、烏丸らとの対比でいえば平仄もあう。意味するものと意味されるものが一致する世界観においては、過去から未来が、複雑な分岐と可能性の重さのちがいによって広がってはいても、硬直したひとつの写真のようなものとして把握できる。そのぶん、彼らはそれを観察する自分というものを外側において、感情を殺さずにすむ。けれども九条は逆である。九条の観察対象は伸縮する宇宙のようなものだ。そのためには固定された空間座標の原点が必要になる。それが無時間モデルの自己なのである。

 

 

 

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第139話/この2人

 

 

 

 

新年一発目バキ道、完治したオリバが宿禰と再戦だ!

ジャック戦のダメージがまだ残っているとみえる、夜道をいく宿禰に、「リハビリ」ということでオリバが呼びかけたところである。すれちがうひとたちはみんなこの異形の2人に注目してしまう。並んで歩くと6人分くらい幅をとりそうだ。いや並ばないでもらえますか。

宿禰は軽く2メートルを越す超巨漢だし、オリバも身長は190センチほどだがパッと見は肥満とおもわれるほどの横幅である。どこかでオリバの身長は180センチ程度というような説明を見た気がするが、今回のこれは横幅の印象も含んだものかもしれない。どちらもまず腕がすごすぎる。ぶあつい胸と背中で腹部では服が浮き上がり、太ってみえるというわけだ。こんなレベルでなくても、熱心にトレーニングをしているものにとって「太った?」がうれしい言葉なのは、こういうわけである。

 

ひとけのない駐車場に到着、宿禰はとりあえず言葉のまま、「リハビリ」ということだったが、とはなしを進める。パワー面でのリハビリは済んでいるとオリバはこたえる。だが実戦はまだだと。それをリハビリと呼ぶかどうかはじぶんが決める。だが宿禰からすれば、オリバとのたたかいには決着がついている。リハビリと呼ぶには無理がある「実戦」を、積極的に行う意味はあるのかということなのだ。

しかしオリバ的には、あの決着は「相撲」だという。だが、あのファイトの時点で似たようなやりとりはすでにあった。途中から、あれはたしかに「実戦」になったのである。それを宿禰はしっかり指摘する。オリバはそれには応えず、三角形と逆三角形の比較を持ち出す。どちらがより実戦向きなのかというあのはなしだ。重心が下にある力士は安定した三角形になるいっぽう、細いウエストと広い肩にあらわれる。あの金剛力士のかまえからも見える上からの圧力で屈服させることを目的とする逆三角形の対比だ。これは肉食獣と草食獣の顔貌にもあらわれているものである。また腰の太さや、昆虫における胴の太さにも、神秘的に浮かび上がる図像だ。

 

指で三角形をつくっていたオリバが、それをほどき、ゆっくりと上昇させてオリバポーズをとる。前回はここで手違いがあったと。そしてそこからモーストマスキュラー、力強く腕をおろして力み、オリバ脱ぎである。シャツが弾け、数メートル後方の車の上に落下する。互いに譲らぬ「三角関係」、ここに決着としたいとオリバはいう。相撲の間合いではないだろう。だが古代相撲の間合いではある。微妙に気乗りがしない様子だった宿禰は、ここでようやく表情を変えるのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

オリバはいいなあ・・・。宿禰に負けちゃったときはショックだったけど、どうかがんばってもらいたい。というか、この状況はなにか、すごい既視感がある。アライジュニアのときみたいだ。彼もジャックに負けて、ぼろぼろになってるところを、いちど敗北した渋川や独歩に狙われたのだった。まあ、三角形のくだりからして、オリバはそういうファイトをしないとはおもうけど。

 

 

オリバはあのときのモストマスキュラーな力みを率直に「手違い」と認めた。あのとき彼は、アバラ投げをしようと肋骨をつかむ宿禰の指を、背中の筋肉で弾こうとしたのだ。しかしそれが失敗したときのことは考えていなかった。それが失敗するというのは宿禰の指がはずれないということであり、それはつまりオリバの「力み」それじたいのパワーが肋骨に逆流するということでもあったわけである。

たしかにあれは手違いであったわけだが、これをそのように認めたということは、わりと大きい感じがする。要するにオリバのあの行為は、「筋肉はすべてを解決する」という哲学のあらわれにほかならなかったからである。どんなに下手な絵も、墨汁をかけてしまえば、ただ真っ黒な絵として、ひとつのゆるぎない状況に収束することになる。「筋肉はすべてを解決する」というのは、要するにそういうスタンスのことであり、格闘技術をほとんどあえて身につけてこなかったオリバは確実にそういう哲学のもとにいるはずだし、もっといえばそれがブラックペンタゴン篇でバキに語った筋肉への愛であり、強さの源だったはずなのだ。ところが今回彼はそれを間違いだったとした。肋骨をつかんだ指もじゅうぶんな筋肉のパワーがあれば弾き飛ばせる、そう考えたことが間違いだったと認めたのである。これはオリバ史上最大の事件ではないだろうか。

 

もしこれがぼくの解釈通りなら、オリバは筋肉の万能をあきらめたということになってしまうが、筋肉の万能を信じるがゆえその他の格闘術をあえて身につけていないわけである。筋肉が墨汁であり、どんなに下手な絵も、またどんなに上手い絵も、ただの真っ黒な絵にすることができる、だから彼は筋肉魔人でいようとするのだし、じっさいそれで強かったのだ。ここにあらわれるのは必然的に「筋肉で解決できない事態もある」ということを認めるという状況なのだ。

おそらくこのはなしのポイントは、オリバじしんが語っているように、三角形と逆三角形の対比というところなのだろう。いわば、守りのかたちと攻めの形である。宿禰の逆三角形は、足裏以外の接地が認められない相撲のルールが要請するものだ。といっても宿禰は大相撲の力士ではないので、そのルールを念頭に稽古をした結果そうなったということではない。むしろ、力士がそういうスタンスだからルールがそうなっていったというほうが正しいのだろう。力士は倒れない。倒れないのだから、試合をして優劣を決めるのであるなら、足裏以外の接地を負けとしようと、こういう順序ではないかとおもわれる。なぜ倒れないことがよしとされるかというと、宿禰の役目は神の守護というようなところになるわけである。身を守る、もしくは相手を打ち倒すというところには、優先的な興味はない。立ちはだかって外敵の侵攻をくいとめる、押し返す、こういうものが力士の本質としてあるとするなら、「安定」は是となり、からだも三角形になるのである。対してオリバは現代のファイターである。相手を打ち倒す、屈服させることが目的だ。もっとも、オリバにとっての最優先はなにかというとマリアであって、マリアのからだを抱きかかえることや、審美的な意味でマリアに認められることも大きな意味をもつから、たとえば彼に対して「見かけ倒し」というような言葉は罵声にはならない可能性もある。が、ともかく、ここでははなしを単純にして、それを肉食獣的な、自己保存を拡張させた自己実現のあらわれとみることにしよう。この両者が比較されるというはなしなのである。それはいったいどういうことなのか? このはなしの要諦は、三角形の頂点にある。ひとことでいえば、長方形ではいけないのかということなのだ。

 

ここでいう「三角形」「逆三角形」には比喩的な意味も含まれている。三角形は倒れないものの物質化であり、逆三角形は攻撃性のあらわれだ。そしてそれがじっさいの身体のフォルムに具現化しているという状況である。長方形では、いくら底辺が長くても、バランスを欠き、いまの宿禰の安定性は得られないだろう。頂点と比較して底辺が広がっていることが寛容なのだ。逆三角形も同様であり、長方形は審美的にも価値が低く、屈服を求める圧力も弱いものとなるだろう。つまりこの両者の対比というのは、あるこだわりをもってひとつの傾向に向ききることの、価値の比較なのである。長方形は、三角形より安定性を欠くかもしれないが、逆三角形の威圧も、それより劣るとはいえ、同時備えている。だがふたりはそういう道を選ばなかった。ふつうに存在しているだけの頭部、もしくはウエストが頂点になってしまうほど、その逆側を広く鍛え上げた極端な存在、それが彼らなのだ。

 

このふたつの価値は、ほんらい比較不可能なものである。ある状況でその優劣が決定しても、別の状況では逆転する、そういう絶対的な価値を帯びたありようなのである。だから問題は、これから彼らがやろうとしているファイトが、どちらにとってより有利かということになる。守るものと攻めるもの、どちらが実戦では強いのかと、こういうはなしなのだ。勇次郎と郭は勝負なしという状況になったが、実質攻めの勇次郎が勝っていたといっていいだろう。たほう、武蔵戦では本部が守護りきった。つまり、見た目ほどかんたんにこたえが出るものではないのである。個人的にはオリバのいいところを見たい気もする。流れ的にもこれはアライジュニアだし、蹴速も徹底的に負けてしまったところだ。若いふたりにはてひどい敗北をもっと経験して、もっと強くなってもらいたいところだ。

 

 

 

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■『東京歳時記 今が一番いい時』出久根達郎 河出書房新社





上京して東京暮らし50年、四季折々の風景と人間模様。日々の暮らしのなかのささやかな発見が輝く、想い出雑記帳。出久根達郎版東京物語」Amazon商品説明より




新年一発目は出久根達郎の随筆。年末年始になにか肩の力を抜いて読めるものがほしいなとなって、出先で見つけた河出のアウトレットで発掘した。じつはよく知らない作家で、古書店主だったとか、本それじたいについての本が多いとか、その程度の認識だったが、いい感じに余裕のある文章で、事実年末年始の「なんでもない時間」にはぴったりでもあった。去年より「ただ読む」、つまり「読み終えたが書評は書かない」を実行に移しており、なにか書くべきことが浮かんでくるタイプのものではない本書はまさに乱読のなかに含むべき一冊だけど、年始ということで、記録のためにもとりあえずあっさりとした記事にしておく。


初出はかつて存在した『俳句研究』(2007年9月に刊行終了)の連載で、冒頭にさまざまな俳人・文学者の一句を掲出し、そこから連想される日常のひとこまを、4ページ程度のごく短い随筆とする内容だ。


作者は1944年生まれということで、この手の短めの日常観察記ではよく見られるもので「老い」が通奏することになるが、とはいえ、黒井千次のようにそれがテーマとして意識されるほどのものでもなく、関節のこわばりや注意力の欠如が、そのことによって生じた、もしくは生じかねなかったトラブルによって前景化するのと同じく、じんわりと日常の動きに遠く感じとられるようである。「エッセイの題材」というおはなしでは、インタビューを受けて、エッセイの題材を探すようなことはしていないと応えている。まず生活があり、そのために文章を書くものだからである。そういう自然さ、文章が穏やかな必然性を伴って生まれ出てくる感じが、語り口によく出ているのだ。

とはいえ、ではどうやって題材を見つけるのかというと、やはり観察である。「当たり前の日常ですが、ふと立ち止まって、よくよく眺めると、アレ? 面白いな」(32頁)となるものを、少しだけ追ってみる、それでもう文章は必然性を帯びるのだ。些細な物事を些細なままにしておくことも、人間の時間は有限なので、重要な生のテクニックだろうが、そもそも生とは役に立つかどうかの合理性を前提とするものではない。よくあるはなしで、たとえば古文学習は役に立つかとか、三角関数を社会に出て使うかとか、いろんな角度でかまびすしく議論されているが、こうした問いはそもそも立てることじたいが危うさを含んでいる。なぜなら、役に立つかどうかを延々突き詰めていくと、なぜ生きるかにたどりついてしまうからである。生まれなければ問いもなく、役に立つかどうか気にする必要もない。こうした議論は生が自明であるからこそ生じうる無邪気な行為で、また同時に、問いの性質上、発生した瞬間に前提を失うものでもあるのだ。


だから一般に役に立たないとされる(ぼくはぜんぜんそう考えませんが)芸術・文学的営みこそが合理性から離れた生の発現である、などというおおげさなはなしでもないのだが、こうした日常の些細な気づき、観察や考察がむしろいきいきと作者の世界を立体的にするのを見れば、そういうことだよなとなるわけである。一編が短いこともあり、寝る前など穏やかな気持ちになることのできる、小ぶりながら読みでのある一冊だった。







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あけましておめでとうございます。


年越しはいつものように相方の家で。ただ、いつもとはなにかが違っていた。なんでかわからないが、ぜんぜん年越し感がなく、いつもはそんなに興味なくても「年越しだから」ということでつけるテレビもつけず、23時30分くらいまでWWEをみたりしていた。ジョン・シナがスマックダウンに久しぶりに参戦、ケビン・オーエンズとともに、ロマン・レインズ、サミ・ゼイン組を倒したという大ニュースを受けて、それに関連する動画をみたり、あとトリプルHがシナとCMパンクの対戦のレフェリーをしている謎の試合を見たりしていたら、そうなっていた。で、もうそんな時間なのに、なぜか『ラストナイト・イン・ソーホー』を見始めてしまい、55分くらいに「いかん、年が変わる」となって、いつもみている2355のスペシャルをつけ、阿佐ヶ谷姉妹と新年を迎えた。

ぼくは意外と年越しの感じが好きである。さくらももこもそんなことを描いているが、ともかく12月31日まで帳尻を合わせて、年明けからなにもかも忘れたようにけろっとなる現金さがたまらない。ポストモダン時代にあって暦は、災害のようにネガティブではない、好ましいものとしては残されたほとんど唯一の「大きな物語」であるからかもしれない。それが、ぼくじしんなぜかそこにコミットしようとしていなかったのである。大人になってからは初めての連休のせいだろうかとも思ったが、これまではむしろ休みがぜんぜんないことで年越し感を損なっていたのである。ということは、連休があることにかまけて、ふだんはしていた「年越し感を味わう努力」を気づかず怠けていたということかもしれない。


ともあれ年が明け、『ラストナイト・イン・ソーホー』という傑作に胸を打たれ、いい感じにスタートのはずが、いますごく体調が悪い。昨晩久しぶりにビール飲んだからかもしれない…。



 

 




今年も引き続き教養の底上げをしていくことになるが、目標としては、最近はなにか集中力に欠いている感じがあり、なにをしても身になっていない感触がある。その原因は、たぶんいろいろなことに手を伸ばしすぎということだろうと考えている。たとえば語学では、いまはもうノートを使って声に出しつつ例文をうつす、みたいなことはしていなくて、ただラジオを流すだけみたいなことが多い。結果、ほとんど聴いておらず、聴いたかどうか思い出せないことすらある。なぜかというと、同時になにかをやっているからである。これが、たぶんよくないのだ。10代のスポンジ脳ならまだしも、その頃以上にいくつも学習事項を抱えて、そのすべてをやろうとするから、結局ぜんぶ中途半端になってしまっているのである。だから、少しルーティンやその周辺の雑務を見直さなければならないかもしれない。


いつも正確な時間に散歩する姿をみてひとが時計の針を調整したといわれているのはカントだったかな、そこまでの厳密な時間の管理は、ぼくにはできない。高校では遅刻で留年しかけ、大学では一限に出れずついに中退にまでなった、時間と犬猿の仲な人間である。だからこれは、相対的なはなしだ。これらのルーティンをぼくが実行していると聞いたら、高校の友人などは驚き、笑うかもしれない。だらしない人間なのだ。おそらくぼくをギリギリのところでまともにしているのは、ピアノを独学でマスターした経験と、空手の延長にある筋トレである。これらのことはぼくに「反復」がもたらすものの貴重さを非常に明らかなかたちで教えてくれたものだ。左手と右手の運動規律が別々で、どんなに複雑な曲でも、ひとつひとつ、拍子ごとに分解するレベルで楽譜を読み、それらをつなげて反復していけば、いつか必ず「あ、そういうことか」と納得する瞬間がやってくる。筋トレのほうがもっとわかりやすい。去年ぼくは約8年前から取り組んでいたプランシェをついに達成した。ふつうならもう少しはやくできるかもしれない。筋トレの内側でさえわりと興味が散ってしまうので、結果としてはひとつの達成にひとの何倍も時間がかかるのである。だが、そうした反復・蓄積が価値のあるものだという実感はたしかなものだ。それがぼくにルーティンをさせる。あとは、それをどう管理するかである。幸いというか不幸にもというか、「モノを知らない」を突きつけられる毎日ではあるので、メンタルの調子さえよければモチベーションを欠くことはないだろう。問題は目がうつり、しかもそのどれをもやろうとすることなのだ。ぼくの時間管理力はひとより弱い、そのことを忘れて、やりたいことぜんぶ詰め込んでたら、そりゃパンクするのである。


とはいえ、たとえば去年はじめた数学をやめたほうがいいのかというと、そういうはなしではないだろう。ではどうするかというと、ここでは筋トレの超回復の理論と、それに基づくスケジュールのたてかた、そのノウハウが役に立つかもしれない。

ごく初歩的なことを大雑把に書くと、筋トレとは、対象の筋肉をトレーニングで破壊する行為である。筋肉は、次にその破壊が行われたときに耐えられるよう、適切な補給と休憩がとられていれば、以前より強く大きくなる。それが超回復だ。この回復に、だいたい1日から3日くらいかかる。その間、その筋肉にはなるべく強い刺激がいかないようしなければならない。そのため、スケジュールが必要になる。上級者ほど筋肉を微細に把握し、ある種目が筋肉のどこに働きかけているか綿密に計算してスケジュールを立てるが、ここではわかりやすく「胸から上」「体幹」「下半身」くらいで考えるとしよう(このとらえかたはじっさい筋トレ初心者にも有効だとおもいます)。これを月曜から順番にやっていく。そうすれば、水曜日の「下半身」の翌日である木曜日には、「胸から上」は回復しきっており、トレーニングのタイミングとなる、といったわけである。(この感じだと週に2巡して日曜日は全休みたいにするといいかも、このはなしと関係ないけど)


この思考法を、学習ルーティンにもちこんではどうかというはなしだ。むろん、語学のように、毎日やったほうがいいものはその限りではないだろうが、そのためにこそ、時間を確保しなければならない。つまり、いまは語学と数学、法律、行政学、経営学、図書館学などをいっきに集中力を欠いたままやっているところ、語学以外を分散させるのである。そして超回復的には、たとえば法律と行政学は隣接させないほうがいいとか、数学は単独でたくさんやって週1がいいかもとか、そういうはなしになるわけである。


まあこれは完全にいま思いついたことでぜんぜん詰めてないが、悪くない気がする。日中の仕事に不満があって、不完全燃焼だと、寝る前に損を取り戻そうとしてなかなか入眠できない「リベンジ夜更かし」をさがちだというが、それにも似て、「やるべきことができていない」感覚が強いと、ついその場であれもこれもとなりがちだ。しかしそうではなく、もっと広い時間感覚でやっていけばよいのではないかというはなしである。そのための、回復を見越してスケジュールを立てる超回復理論というわけだ。


まあこんなこと威勢よく書いても実現できるかわからないが、元日とはそういうものですよね。みなさま、本年もどうぞよろしくお願いいたします。




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