今年はたくさん映画館に行くことができた。
近くに映画館がないということではない。にもかかわらずそれをしてこなかったのは、基本的に出かけるときには相方と出かけたいからだった。だが、いまの会社にふたりして入ってからは同じ日に休みになるということがほとんどなくなってしまったのである。なにも考えなくても自然に生じるはずのそうした休日を意図的にはずされてきたからである。映画じたいはどちらも大好きで、以前からネットフリックス、アマゾンプライム、ディズニープラスには入っていてほぼ毎日なにかを見ているし、ユアン・マクレガーに大ハマリしていたときなど、ここで休めなければやめますくらいの勢いで休みを捻出して映画館に行ったりはしていた。だが、今年になって職種が変わり、かなり自由にお休みや有給を組み込めるようになったおかげで、積極的に映画館にいけるようになったというわけである。それまではぼくらには宝塚をメインとした観劇という趣味があり、月1くらいで日比谷の東京宝塚劇場などに出かけていたのだが、このようにあまりにも休みをとることが難しく、好きなひとのほとんどが退団してしまったことなどの事情も重なり、いつしか足を運ばなくなってしまった。けっきょく今年はいちども宝塚を観ていない。が、そのかわりに、お財布にも優しい映画鑑賞の習慣が根付いたのである。
観劇でも映画でも、これまでは必ずそのことを記事にし、なるべくオリジナルな感想を残していこうと努力してきた。だが今年はそれをほとんどやらなかった。これは読書のほうでも同様である。そもそもぼくはこのブログを、読んだものすべてについて書いていくことで文章や考える力の底上げをはかろうと開設した。じっさい、それはうまくいったとおもう。だが同時に問題も発生した。もともとぼくは本を読むのに時間がかかるほうだったが、たとえば作者とか編集者とかその作品の専門家とか、そういうひとたちが読むことを想定して、みずからに緊張をほどこし、考えるちからをつけていこうと読書をすすめていったわけなのである、当然、さらに読むスピードは遅くなる。すると、あまりたくさんのものは読めなくなってしまう。これは問題だった。ブログを始めたのが2007年なので、この15年間ずっと難問だった。どこかで「読んだけど書かない」を実行しなければ、というふうになっていたのである。今年はそれができた。「書かない」が「できた」というのもなんだか奇妙だが、じっさいこれまでは書かずにはいられなかったのだからまちがってはいない。こういう事情があったから、映画にかんしてもほとんど書かないで過ごしてきたのであった。特に映画にかんしては、ここまで通ったことはいままでになかったので、映画というより「映画館」について乱読的に親しむ時期だろうととらえている。が、おかげでなにをいつ見たのやらもはやさっぱりである。幸いツイッターをみればわからないでもないのだが、ブログには記録の意味もあるので、来年以降はもう少し記事を増やしていきたい。
そういうわけで以下はツイッターのじぶんのつぶやきをふりかえった結果になるわけだが、2022年は13本の映画を観たことになる。複数回みたものがいくつかあるので、映画館にはたぶん20回くらいいったのかな。乱読とはいえないものの、まあまあなんじゃないかなとおもう。
映画館はTOHOがメインになる。ちょっと足を伸ばせばイオンシネマもあるので、状況に応じて使い分ける感じだ。ぼくでは、しばらく通ってみてから、特にTOHOの、映画本編が始まる前のあの宣伝とか劇場内注意喚起系の映像じたいがすでに大きな癒しになっている。TOHOだとはじまるけっこう前からときの女の子が新作の案内をしていてそれも心躍るし、有名な映画泥棒の短い映像も楽しい。観劇もそうだったが、劇場に出かけるときには、そういうインスタレーション的な空間の体験という意味でもすでに鑑賞なのである。ただ、椅子はイオンシネマのほうが心地よい。くわしく検証したわけではないが、イオンのほうは椅子の背が低いのか、頭を後方に預けることができるのだが、TOHOはけっこうまっすぐにならなければならないので、なるべく最後方に座るようにしている。まあ、イオンでもたいがいいちばん後ろを選ぶんだけど。そのいっぽう、ポップコーンとかを買うときには肘置きに引っ掛けて動かすことのできるTOHOのトレーが魅力的であり、ぼくの行っているところだけなのかどうかわからないが、イオンはそれがないというちがいもある。こういうふうに劇場によって鑑賞の手触りがまったくちがってくるので、同じ映画を2回以上観るようなときはなるべく会場を変えるようにしている。
今年最初にみたのは『シン・ウルトラマン』で、これが5月19日である。そこからはほんとうに楽しい日々が続いた。6月23日には『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』を鑑賞、これは2回観たようにおもう。その2回目のとき、ぼくは仕事でひどくい失敗をしたところで、かなりメンタルをやられており、なにか帰りたくない感じがあり、なんでもいいからもういっぽん映画をみようということで『ミニオンズ・フィーバー』を観たのだった。くわしく書いたのでもうくりかえさないが、ミニオンズには文字通りに救われた。動物と暮らしたことのあるひと、あるいは、想像するしかないが、小さい子どもと暮らしたことのあるひとは、こちらの意志にかかわらず勝手に動くものをひどく求めてしまう感情を知っているかもしれない。ぼうっとしているときに、視界のすみにもぞもぞ動くうさぎがいる、ただ、いる、そういう感覚である。ミニオンズを愛しくおもう気持ちはこの感覚とよく似ている。ぼくは、まったくこちらのおもったとおりに動かないミニオンズたちのふるまいを通じて、失敗にとらわれ、自己否定とともに逆説的に肥大しはじめたじぶんという存在を、いちど冷却することができたのだ。不思議なはなしだが、大きく自信を損なったり、自虐的な気持ちになっているときというのは、むしろじぶんの価値にばかり目がいっているのである。
このミニオンズはおそらく都合4回ほど観にいった。映画館の近くにはゲームセンターがあるので、帰りにはそこのUFOキャッチャーでミニオンズのぬいぐるみをたくさんとって帰るのが習慣になっていった。だからいまぼくや相方の家には黄色くてまるっこいぬいぐるみやなんかが大量にある・・・。
8月22日には『ジュラシック・ワールド 新たなる支配者』を観ている。以前、観た映画をカウントしたとき上げ忘れたほどなので、実をいうとあんまり印象に残っていないのだが、大好きなシリーズで、グラントやマルコムが登場するおはなしでもあり、映画としてどうこうというより、なにか年末の歌謡祭的なものとして受け取るべきなんじゃないかなというふうにおもっている。とはいえ、思い返してみても別に不出来ということではなかったので、やっぱりぼくは書いておかないと忘れてしまうようである。
8月30日には『NOPE』、9月22日に『ブレットトレイン』を鑑賞。どちらもすばらしく、このへんでもうなに見てもおもしろいんじゃないかというような感じになってきていた。NOPEはサウンドが最高で、あの音はたぶん映画館じゃないとわからなかったよなあといま振り返ってみておもう。ブレットトレインは伊坂幸太郎原作ブラット・ピット主演の快作で、音楽もよくて、サウンドトラックも手に入れた。
こういう具合に、休みがあれば映画を見るという習慣ができてくると、特に観たいものがないが休みである、という日も、当然出てくる。都心の映画館ならそんなこともないのだろうが、現状ぼくらのいっているところでは7割邦画、2割アニメ、残りが洋画という感じで、ティーン向けの邦画を除くと、すぐに尽きてしまうのだ。というわけで、9月30日には、前情報なく衝動的に『“それ”がいる森』を観た。『リング』の中田秀夫監督だし、まあつまんないってことはないでしょ、くらいの気持ちで臨んだのだが、くわしい内容を知りたいかたは各自検索してください。ぼくは、この経験から多くを学びました。
とんで11月3日には『犯罪都市 THE ROUNDUP』を鑑賞。マ・ドンソク主演の人気作第2弾だった。不覚にもぼくはこれがシリーズものだと知らずに観たのだが、マ・ドンソクなので、必然的に腕力!上腕二頭筋!拳!破壊!という映画なので、あんまり関係ない。敵役のソン・ソックもかっこよかった。マ・ドンソクを主演にするにあたっては「どういう映画を撮ればいいか」が非常にはっきりしているので、製作は工夫に集中すればよく、やりやすいんじゃないかなあとおもう。
11月18日には『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』。映画館にいくようになってからはソーの映画もやっていたのだが、機会に恵まれず(やっていても朝早くだけとかになっていて、無理だった)、そうこうするうちにディズニープラスで見れるようになってしまったので、今年マーベルはこの1本だけになった。チャドウィック・ボーズマン/ティチャラ王の死とともにはじまる、弔いと克服の物語である。マーベル、というよりMCUは、非常に挑戦的かつ独創的なキャスティングを行ってきた。すべてのはじまりである『アイアンマン』のロバート・ダウニーJrにしてからが、すでにスターではあったものの、薬物の問題などもあってキャリア的には危機的な状況だったところ、アイアンマンで再起したというようなぶぶんが少なからずある。キャプテン・アメリカのクリス・エヴァンス、マイティ・ソーのクリス・ヘムズワースは、以後マーベルの世界観を引っ張っていく人物でありながら、超有名スターというものではなかった。少なくともぼくは知らない俳優だった(クリヘムの兄弟は知っていたが)。こういう背景が、なにかこう、映画をテクストとして、単独の織物として読ませないようなところがあった。役者と役柄がほとんど一致しているのである。それが、3Dメガネでみるような立体的効果を呼び込む。ファンがキャップのふるまいに賛同し、尊敬すらするとき、彼はクリス・エヴァンスをも同時に尊敬の眼差しで見つめているのだ。こういことを意図してやっているのかどうかは不明だが、そういう状況になっていけば、ファンサービスとして、ヒールのレスラーがプライベートをなるべく隠してキャラクターに徹するように、役者のほうでも役柄的なふるまいをしていくようになる。この感覚にぼくは宝塚とWWEを通しても親しんでいる。わたしたちが目にする「彼ら」は、三層構造になっている。まったく見ることのできないプライベートのゾーン(宝塚歌劇を論じた東園子『宝塚・やおい、愛の読み替え』によれば「本名」)、わたしたちに見せるために演出された私的なゾーン(互いに呼び合う「愛称」)、そして役柄のゾーン(「芸名」または「役名」)である。ふつう、テクストとして映画が見られるときに、この「愛称」のゾーンというのは、不要でもあり、出てくることはない。MCUではここがかなり鮮明に現れているのである。
こういう作劇方法のなかでのチャドウィック・ボーズマンの死がもたらしたダメージは、悲しく、また非常に深刻だった。それは、どう考えてもブラックパンサーの死以外のなにものでもなかったのである。これを、ティチャラの仲間たちが、ブラックパンサーという映画が、またファンが、どう乗り越えていくべきなのか、そういう映画だった。ヒーロー映画でありながら文芸作品的な静けさとリリシズムに満ちた作品だったとおもう。
長くなってきたので駆け足で。11月29日には『ザ・メニュー』、12月2日『ブラックアダム』、12月8日『THE FIRST SLAM DUNK』、そして今年の映画納めは12月23日『ラーゲリより愛を込めて』となった。ブラックアダムはむろん、史上最高の仕上がりとされるザ・ロックの筋肉を拝みにいったのである。ぼくは現役時代のロック様をよく知らないので、終わってから改めて試合を見てみたのだが、たしかにいまのロックは1.5倍くらいの太さになっている。というか、スクリーンではむかしからとてつもなく巨大なザ・ロックだけど、WWEのリングのうえではどちらかというと細いほうなんだなということに気がついた。シルエット的にはランディ・オートンみたいな感じかな・・・。ジョン・シナとかも、リングでは最大レベルということはぜんぜんないのに、映画に出るとふつうに怪物だもんな。
スラムダンクとミニオンズを除いて、今年いちばんは『ザ・メニュー』でまちがいない。サスペンスというかミステリというか、孤島のレストランで供される不穏なヌーベル・キュイジーヌ、その異常なコンセプトが徐々に明かされていき、来訪客たちが少しずつからめとられていく、そういうはなしである。全体を覆う繊細さと違和感、コミュニケーションの限界とひとさじのユーモア、映画体験全体がすばらしく、またあの不穏な空気を感じたいという気になる。それからアニャ・テイラー=ジョイがとにかく美しい。ずっと見ちゃう。ブルーレイ買うぞ。
来年もこんな感じでぜんぜんいいんだけど、可能なら、もっと都心のほうとか、ミニシアターみたいなのにも挑戦してみたいかな・・・。
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