『宝塚・やおい、愛の読み替え』東園子 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『宝塚・やおい、愛の読み替え』東園子 新曜社







「序 章 宝塚・やおいへの視点―女性と親密性 第1章 親密性のコードの編成とホモソーシャリティ 第2章 タカラジェンヌの四層構造 第3章 宝塚から読み取られる親密性 第4章 やおいという解釈ゲーム 第5章 やおいにおける恋愛の意味 第6章 宝塚・やおいにおけるホモソーシャリティと女性」目次より




女性が、男ではない男役、また明らかに通常の意味合いにおける「女性」ともことなる娘役としてふるまい、恋愛を表出する宝塚と、少年ジャンプなどに掲載されるような既存のマンガを二次創作として解釈しなおし、登場人物の男の子たちによる恋愛劇にかえてしまうやおいには、たしかに共通するがあるようにおもえた。本書を知ったのは、宝塚専門のグッズ販売店であるキャトルレーヴだったように記憶しているのだが、ググッてもあまり本書への言及がないところを見ると、もしかしたら勘違いだったかもしれない。それともあれかな、キャトルレーヴじゃなくて、東京宝塚劇場近くの書店とかに置いてあったのかな。


ここでいう「やおい」は、同人作品としてコミケなどで展開される二次創作のことを指し、一般に流通するオリジナル作品としてのBLとは区別される。最近は「やおい」という呼び方を聞かないが、とりあえず便宜的に、まず原作があって、それを解釈して改めて創作されたものをここではそう読んでいる。宝塚にかんしては、専門とはいかないまでも、もう20年以上見ているので、全身に馴染んでいるのだが、やおいとなるとまったく未知の世界である。余談だが、いちおう書店員でコミック担当なので、BLの商業作品もふつうに手にとって展開している。しかしそのほかの少年・青年マンガと比較して、あるいは読まないまでも連載作品くらいは熟知している少女マンガと比較して、しっかり意識的に展開できているかというと、まあ、できていない。せいぜいが、取次ぎの担当が用意してくれるランキングとか見て機械的に選別する程度で、それでも、けっきょく棚に愛情が感じられないので、お客さんがつかないから、売れない。出版社の営業でもきてくれたらいろいろ勉強できるのかもしれないが、うちみたいな郊外の店にはこない。売れないから返して、棚はまたもとの新刊落ち(先月の新刊)ばかりの状況になる。これではいけないのでBLを学ぼうともするのだが、まあなにから手をつけていいかわからない。そういう意味でも本書は非常に有意義だった。いや、なにか淡々とした調子ではじめてしまったが、ふつうにおもしろくて数日で読んでしまった。けっこうな長さだし、もともと著者の博士論文なので、ぱっと見はかたいのだけど、とりわけ僕のばあいはそうした事情もあって他人事ではなく、すいすい読めた。


あとがきなどによれば、著者は宝塚にもやおいにもともに精通している、ヅカオタにして腐女子であるという本書執筆には理想的な人物である。基本的には、ジェンダー論とでもいうのか、社会において性差がもたらしている意味をまず検証していき、宝塚とやおいがどういうしかたで創造され、またそれが女性たちにとってどういう価値をもっているのかということを見ていくが、こうした議論にありがちなフェミニズム的なうるささは皆無で、きわめて中立的な文体で記されており、著者の怜悧と観察力がよく伝わってくる。そしてまた、それはひるがえって、著者の両分野への愛情の強さを伝えるものでもある。好きなものであるから、冷静に中立的に評価をくだして、偏った分析をしてしまわないよう、よく注意しているのである。


少しずつ着々と理論を積み上げていく慎重な論文なので、乱暴にまとめを記すことはできないが、まず前提としてあたまに入れておかなければならない事項が第1章で展開される。一見すると宝塚にもやおいにも関係がないかのような議論なのだが、ここで説明される概念が理解できていないと、このあとのおはなしもあまり入ってこないだろう。そのなかで、本書を通して最重要の概念はセジウィック『男同士の絆』における「ホモソーシャル」である。セジウィック以前からこの用語はあったようだが、「ホモセクシュアリティと区別されるような同性間の親密性を指す(26頁)」ものとして用いたのは『男同士の絆』が最初のようだ。かなり広いところまで議論は及ぶので、ちょっと抽出しきれないが、引用せず理解したままを書くと、ここでは、男性が社会においてその地位を堅め、利得を得るために形成する男性どうしのコミュニティのようなものが想定されており、それを「同性愛ではない」という意味でホモセクシュアリティと区別するために、この概念が際立つわけである。そして、次に重要なのが友愛と恋愛の区別だ。これは、人間関係の親密性を形容するうで生じるふたつの相のことだ。ここではルーマンの『情熱としての愛』が参照され、セジウィックと並んでこの2冊は本書成立に必要不可欠な底本のようなものとなっている。近代化にともない、人々の生活はパーソナルな領域とインパーソナルな領域にわかれていった。要するに、個人的で私的な領域と、なんらかの役割を各自演じつつ成立する公的な領域のことだ。また、近代化以前では、政略結婚などの意味合いも含めて、結婚といえばインパーソナルな行事だったが、結婚が生み出す「家族」というものが、以前であれば担っていた公的なものを、現在では多く家族外で行うことが増えていき、パーソナルな領域は徐々に狭まってもいった。以前まではちからをもっていた友愛の情は、ひとびとのありかたがくっきり分かたれていくことで様態を変えていき、やがてパーソナルな領域における恋愛の情がこれに勝ることとなった。そうして、公的でインパーソナルな領域では友愛が、私的でパーソナルな領域では恋愛が、それぞれの役割を担うことになる。

そして、とりあえず認識として、男性支配の世の中というものがある。男性がその世の中でしっかり足場をかためるためには、インパーソナルな公的領域で、パーソナルな関係を築くことが近道である。これは要するに、社長と母校が同じ人間が出世競争において有利であるとか、仕事以外で交流を深めることでなにかと便宜をはかってもらえるようになるとか、そういうことである。しかし、もちろんそれはホモセクシュアル、いわゆる意味での「ホモ」ではない。くわしく書かれているが、男性にはホモフォビア、同性愛恐怖というものもある。そこで男性は、じぶんが同性愛者ではないことを示すために女性を欲望しているということを周囲に示さなくてはならない。いわれてみるとたしかに、バブル期の男性のホモソーシャルの想像図と女体への肉欲というのは非常に相性がよい。

そのいっぽう、女性は幼いころから少女マンガなどで恋愛のルール、「コード」を、物語を通して叩き込まれ、恋愛至上的な人生観を好むと好まざるとにかかわらずもつよう仕向けられている。ここも重要なところだ。男性がホモソーシャルを築き、なおかつホモセクシュアルを否定するためには、恋愛、ひいては結婚の相手である女性が不可欠である。それであるから、男性支配社会は女性に恋愛を最重要の目的としてもらわないと困るのである。そうして、よくもわるくも、女性は「恋愛のコード」を習得する。


あまりだらだら続けてもしかたないので(ぜんぶ本書に書いてあることだ)、いっきにとばすと、女性においては物語を目撃するときにこの「恋愛のコード」というフィルターを通過することとまた同時に、男性だけが独占するホモソーシャルな関係への欲望があるという。女性は、恋愛のコードに比べると、ホモソーシャルな関係というものをうまく想像できない。「ホモ」というと一般には男性の同性愛を指すとおもうが、ここでは広く同性という意味を指す。つまり、女性は、女性だけの、非性的な集団の関係性を社会から与えられることが一般に少ないのである。これが、宝塚とやおいを鑑賞する際の基礎概念となる。

宝塚についていえば、第2章で基本的な構造が説明され、3章から本格的な分析に入っていくが、じっさいに日常的に観劇しているひとならかんたんに理解できることばかりだろう。本書が重視するのは、宝塚を観劇するときにわたしたちのうちに立ち上がる重層構造である。ひとことでいえば、宝塚ファンは、テクスト論的に、目の前に展開されているお芝居それのみを手掛かりに読解するということは普通しない。僕はブログで観劇記録をつけるときには、なるべくそうしようと心掛けているが、じっさいに観劇しているときはそんなふうには見ていない。ではどう見ているかというと、そこにタカラジェンヌと姿を見出しているのである。たとえば、本書でも引き合いに出されているが、極端な例として、トップスターの退団公演がわかりやすい。特に齋藤吉正や藤井大介のショーなどが顕著だが、最近のお芝居やショーには、トップの退団を意識したセリフや振り付けが見られることがかなりある。これは、なんの事情も知らず、ぽっと劇場にワープしてショーを見ることになったひとからすれば、意味のわからない演出ということになる。組子が総出で並ぶところを、舞台のうえでなんらかの役についている蘭寿とむや霧矢大夢が指し示す場面は、彼女たちの退団という背後の事情を踏まえないと、ほとんどその意味を理解できないのである。

そうして、役柄の裏に芸名のタカラジェンヌを感じ取るのに加えて、わたしたちは愛称のタカラジェンヌというものも知っている。これは、いってみれば「タカラジェンヌの素の姿」という役柄である。「蘭寿とむ」という芸名の人物の背後には、ひといきついてリラックスした「まゆさん」という「素の姿」があり、劇団も公式にこうした姿を積極的に開示している。この裏にはさらに「本名」の領域があるのだが、これは一般には開かれることがない。宝塚では恋愛は特に禁止されていないが、かといってすすんで告白するような事項でもない。それでは「清く正しく美しく」ないからである。素の姿である愛称の領域でも、まるで恋愛とかそういう性的なことはないかのようにふるまわれる。恋愛は本名の領域に封印・漂白され、仮の、しかし芸名の姿からすると相対的にはたしかに「素の姿」である愛称の領域が並存することで、タカラジェンヌは神秘的でありながらリアリティを欠くことがない不思議な存在となる。もちろん、われわれファンもそうしたことを理解している。「素の姿」がタカラジェンヌの存在の根底ではないことはわかっているのだ。そして、わたしたちが役柄から芸名を経て、愛称を感じ取るまでのあいだに遠く受け取っているものが、愛称の彼女たちによるホモソーシャルなのである。


やおいにおいては、まず少年漫画が基本的にホモソーシャル的なものを描きがちであるという前提があるだろう。ジャンプなんかは「友情・努力・勝利」を掲げているくらいだから、ホモソーシャルは少年漫画を描く際の鉄則といってもいいかもしれない。やおいはそれを、恋愛のコードを通して理解する。意外だったのは、こうした読み方が、二次創作とはいっても、東浩紀的なデータベースとしてキャラクターなどを取り出して、つぎはぎしてつくるようなものではなく、「解釈」なのだということである。やおいでは、原作とつじつまが合わないような創作はされないのだという。はためには牽強付会のように見えても、二次創作をする側は、そうした展開に至るはずの「証拠」を求める。24時間キャラクターにカメラがついてまわるわけではない、描かれていないぶぶんはたくさんある。そして、人物どうしのかかわりには、ひとくくりには説明できない感情の揺らぎがあらわれることもある。要は「論理的矛盾」である。こうしたことを手掛かりに、やおいは「そうであってもおかしくない」物語を捏造していく。こういう説明を読んで、僕は驚愕してしまった。これは、僕がウシジマ感想やバキ感想でやっていることとまったくちがわないのである。

ホモソーシャルに親しくない女性たちは、しかしそれを欲望するので、これを彼女たちがもっている「恋愛のコード」を経由させることで理解する。だとするなら、もし真にBLを理解しようとしたら、まずは恋愛のコードを習得する必要があり、となると、遠回りになるが、少女マンガをいっぱい読むことがけっきょくはいちばんの近道なのかもしれない。


こうしたわけで、本書の理解では、女性たちの宝塚・やおい熱は、男性支配社会における抑圧の結果という結論になる。ホモソーシャルへの欲望は、たんに作品の鑑賞の段階にとどまらず、たとえばコミケでとなりあったひととの会話だとか、ファンクラブで知り合ったひととの人間関係だとか、現実の関係性にもかかわってくるもので、これは女性が社会から与えられなかったホモソーシャルなのだ。こう書くと、いかにも宝塚ややおいが当座をとりつくろう応急的な処置のように見えるかもしれないが、最終章で注意深く書かれているように、それはまちがった選択ではないはずである。みずからを抑圧する男性社会を成立させているホモソーシャルを欲望するというのは、たしかに表層的にはゆがみを感じさせる。しかし、ではどうしろというのか。抑圧されたままでいくわけにもいかないし、かといって革命を起こすわけにもいかない。それよりも、げんに宝塚ややおいは心躍る、ひとの生を救い、支える、巨大なカルチャーなわけである。僕では宝塚しか追うことはできないが(だいたい僕は男性だし)、これはそんなちっぽけなものではない。抑圧されているものをそれで回復しているのだとしても、それがこれらのカルチャーの存在目的なのではない。つまり、仮に男性支配社会が完全になくなって、抑圧が失せたとしても、宝塚ややおいの価値が変わるということはないのである。それよりも、ここで注目すべきは、そうした受け口の用意されているこれらの様式の器の大きさなのではないだろうか。







↓寄稿してます