『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』を観た | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

 

 

 

 

 

 

 

映画『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』を観てきた!2022年6月23日。仕事が変わってからは月1で相方と出かけられてうれしい。ただ映画館に行くだけだが、これまでは意図的に同じ日の休みをはずされていたので・・・。

 

 

ちょっと前にテレビでブロリーをやっていて、それを途中から見て以降しばらく、ドラゴンボール熱が続いていた。1983年生まれのぼくもふつうにドラゴンボール大好き少年で、水曜の夜7時は黄金の時間だった。

少年時代に誰が、あるいはストーリーのどういうところが好きだったか?というとちょっと思い出せないのだけど、大人になってからはだんぜんピッコロだった。悟飯を守って死ぬあの場面もそうだし、セル戦での、悟飯をつかった悟空の戦略をまちがっているとするところも大好きだ。年をとるにつれ、ピッコロの人物としての魅力がわかってきて、どんどん好きになっていくのである。逆にいえば、ピッコロがあの物語で主力として活き続けるにはそれしかなかったということもあるかもしれない。サイヤ人という概念が導入されてからは、ふつうの人間はほとんど居場所がなくなってしまった。クリリンや天津飯はまだいい。どちらも達人だから、パワー系のサイヤ人が持ち得ない技術の繊細さを表現しうるし、クリリンには悟空たちとの長く深い信頼関係と18号という魅力的な奥さんもいる。しかし、もっと出してくれてもよかったのにな・・・とおもわれるようなちょい役の達人(たとえば、ナムとか、チャパ王とか)は、たたかいのレベルが上がるにつれもはや登場することも許されなくなってしまった。登場可能性があったとしてもミスター・サタン枠である。あのヤムチャでさえ観戦するだけになってしまっていったのだ。こういう次元で、クリリンたちよりははるかに強いがサイヤ人よりは弱い、しかしキャラクターとしてしまってしまうのは惜しい、こういう位置にピッコロはいたのだとおもわれる。今回の映画では、このピッコロと、彼を語るうえで欠かすことはできない悟飯との関係性がメインで描かれたのである。観にいかないわけにはいかないのだった。

 

 

今度の敵はレッドリボン軍である。この点でもぼくが食いつくにはじゅうぶんである。ぼくが現在進行形でアニメを見て、それから遅れてコミックやジャンプ本誌を買うようになったのはフリーザから人造人間篇あたりだったとおもうのだが、それ以前のはなしもわりとすぐ読むようになっていたようにおもう。特にレッドリボン篇はかなり好きだった。物量で攻めてくるレッドリボンはある点ではぼくら読者のような「一般人」の量的拡大であって、彼らが行う悪行や、あるいは悟空から受けるダメージというのは、こちらの現実感覚と地続きでもあった。要するにトレースできるのである。これを、悟空はとことん打ち破っていく。ときどきブルー将軍や桃白白のような、悟空をもおびやかすような特殊人材が現れるのもたまらない。そして、こうしたことを踏まえたうえで、やっぱり悟空がめちゃくちゃ強いという結果が、圧倒的な解放感を呼ぶのである。まだサイヤ人という設定が出ていなかったあのころ、「満月をみると大ザルになる不思議な少年」ということで悟空の説明が回収できたときには、とにかく悟空のもっている「可能性」に興奮したものである。「サイヤ人」はいわばその「説明」にあたるわけだが、ものごとは不思議なままにほどかないでおいたほうがいいときもあるというふうなことも、当時から感じていた。「サイヤ人」はそうした説明とともに「戦闘能力」という量的概念も持ち込んだものであり、ある面でドラゴンボールが停滞することなく42巻つきぬけた原動力として大いにそれを認めつつも(これがなければあれ以上はなしが広がることはなかった)、物語が、悟空がもっていた素朴な不思議さを損なってはしまったよな、とはおもうわけである。

 

 

レッドリボン軍は現在レッド製薬という表向きの顔で活動しており、いまも世界征服をたくらんでいる。社長はマゼンタという男で、レッド総帥の息子だ。調べてみるとこの母親がバイオレット大佐で、名前の由来としてはレッドと混ぜるとだいたいマゼンタになるということのようだ。これが、ドクター・ゲロの孫であるヘドを見つけ出し、強力な新しい人造人間、ガンマ1号と2号を作るという筋書きだ。

悟空がレッドリボンを壊滅させたとき、なんとか逃げ出したドクター・ゲロは、これを恨み、フリーザを超える人造人間を、またそれをも上回るセルを作り出した。セルはゲロの残した人工知能が完成させたのではなしとしては別になるが、17号たちをつくった時点でのゲロはフリーザのことは知らないはずである。そのうえで、これらを圧倒的に上回る17号や18号、さらにはそれ以上の16号を作り出していたというのは驚くべきことである。ふつう、こういう創作は想像力によってかなり限定されるからだ。要は、レッドリボンとたたかっていたようなころの悟空や亀仙人たちが、仮にはなしに聞いたとして、フリーザやセルほどの「強さ」を、ほんとうに理解できただろうかということなのである。とりわけ強さを競っているものなのであるから、なにか目標物があって、それを超えるというしかたで、基本的にこれらの創作、もしくは修業はなされていくはずだ。この意味でもゲロがどれくらい天才だったかがわかるというものだ。車輪で動く車の発明という経験を経ずにホバリングしながら道路を移動したり運転手なしで動いたりする自動車を思いつくことはかなり難しいのだ。

ともかく、このゲロは、なにしろ悟空を倒すことは大きな目標にしていた。しかしマゼンタやヘドはそうではない。マゼンタはただ世界征服が目的のようである。ヘドはというと、もはやそういう野望はない。ゲロを上回るほどの天才であるが、ヒーローオタクで(ヒーローのサイン会みたいのに出かけている写真が一瞬うつる)、どちらかといえば正義をなすものを愛している。ゲロへの愛着のようなものも特にない。その傾向を見抜いたうえでの戦略なのか、マゼンタは、悟空ファミリーを「悪の組織」としてヘドに伝える。悟空たちは「悪いヤツ」なのだ。そういうことならと、ヘドは協力する。そのうえでつくられたガンマ1号・2号は、必然、ヒーローを名乗ることになるのである。

 

この、マゼンタが語る「悪の組織」としての悟空ファミリー、もしくはブルマ・ファミリーという像は興味深い。じっさい、あの世界に生きている市民たちは、事実を知ったとして、悟空たちをそのように受け取らないとも限らないわけである。これは、「正義とはなにか」みたいな重大なはなしではないだろう。もっと生活実感に即した、政治的なはなしかもしれない。要するに、彼らのちからが圧倒的に強すぎるということがまず事実としてある。ちからをはかろうにも、用意したパンチングマシンはちょっと強くたたいただけで壊れてしまう。セル戦が中継されたこともあって、それ以降の悟飯たちは以前よりさらにちからを隠して生活するようになってしまった。ここには、「あまりにも強大なちからは恐怖を呼ぶ」という信憑があるようである。だから、マゼンタが悟空たちを「悪」としたのはまちがっていないのだ。制御できないほどの強いちからをもったものたちがこの世界にはいる、こういう事実だけで、ひとは恐怖を感じるのだ。

 

強すぎることは「悪」である、というのは厳密ではなく、たとえばミスター・サタンは、「強い」ことを理由に賞賛されている。ただ、その強さは一般人と地続きのものだ。要するに、悟空たちほどに強くなってしまうと、それは想像を絶した存在になってしまう。こういうものを、ひとはおそれるのだ。このはなしは、先ほどの、ぼくがレッドリボン軍篇をどうして好きかということとも通じるかもしれない。なぜ今回、マゼンタのくちを通じて、ヘドをだますためという動機ありきとはいえ、悟空たちを「悪」ととらえる視点が導入されたかというと、それが「一般」の感覚だからなのだ。この意味では、次第しだいに人造人間を強くしていく、想像力を少しずつ拡張していくというしかたではなく、いきなり17号、18号をつくりえたドクター・ゲロもまた超人であり、一般的な意味でいっても「悪」ということになるだろう。ブルマ含めドラゴンボールの世界では科学力がある程度のちからをもっている。ただそれは、人類の財産として、「想像を絶するもの」に対抗するものとしては用意されない。ゲロ、ブルマレベルの知力は、やはり脅威であり、その意味では、悟空たちのパワーと等しいのである。

 

こういう状況が呼び込んでいるのが、悟空やベジータたちの神格化だろう。これは比喩的な表現ではなくて、文字通りの神化である。新作のドラゴンボール超は、中途半端なところまでしか読んでいないので、大雑把な認識で語るものだが、今作をみても、悟空たちは相変わらず破壊神ビルスと仲良くつるんでいる。もうひとつは、彼らをそこまでの存在たらしめた理由であるところの「サイヤ人」という要素への回帰であり、これがブロリー篇にあたるだろう。彼らはポッといきなり神になったのではなく、理由があってそうなった。その「説明」を、現実感覚とは別のところからフィクショナルに持ち込んだものが「サイヤ人」という物語なのだ。

 

こうしたうえで、なぜ今回レッドリボン軍がテーマになったのかというと、たんに新しい鉱脈を探していたというようなことだとはおもうのだが、それが物語としてどういうものを持ち込んだのかというはなしである。ゲロもヘドも、以上のような意味では一般人ではない。しかし世界征服をたくらむレッドリボン軍は、いかにも現実感覚の住人なのである。そこからけっきょく飛躍していては、一般人と悟空たちのあいだの断絶は埋まらない。しかし、ポイントは、ヘドがあくまで彼らを「悪」と認識して、正義をなそうとした結果ガンマを生み出しているということだろう。悟空たちを「悪」とするのは現実感覚なのだ。

ではなぜそうした現実感覚による、いまさらながらの相対化が行われたのかというと、キャラクターを活かすためなのではないかとおもわれるのである。ピッコロはまだましなほうだ。しかし、ドラゴンボールにはまだ魅力的なキャラが隠れている。これを引き出すためには、現実感覚が物語世界に通奏していなければならないのだ。といっていまの時点でたとえばナムが登場できるかというともちろんできない。しかし、準備にはなる。つまり、現実感覚に即したある種の語彙が、基本的なところに備わっていなくては、そもそも「登場できるかどうか」という次元でナムがあつかわれることはないのである。指輪物語の世界にスマートフォンは決して出現しないのだ。

こうしたわけで、本作でレッドリボンがあつかわれたこととピッコロがメインであることは連続しているのではないか、というのがぼくの考えである。ピッコロは人物として魅力的である、これを主役にしたい、しかしながら現行の神話的世界の文脈では出すことができない。強さのレベルを引き下げず、それでいて地に足ついた物語をつくるには・・・という具合に、レッドリボンがあらわれたのではないかと想像できるのである。

 

じっさいのところ鳥山明の創作するキャラクターはじつに魅力的だ。ぼくはむかしからドラゴンボールの表紙絵が大好きだ。一枚の絵、ひとりの人物の、その向こう側に、世界の広がりが感じられる、そういう絵を描くのだ。技術的なことはわからないが、たぶん、デザインが優れてるとかそういうことなのだろう。服装や機械の構造、また配色などから、それがそこに至るまでの物語内での時間や労力が感じられるのだ。だから、ガンマ1号がただ突っ立っているだけの絵を、ぼくはずっと見ていられる。そこからなにかが始まり、そしてすでに始まっている、そういう感じが、高揚感とともに到来するからである。ピッコロの再解釈とともに、今作は鳥山明のそういう強みに改めて回帰したように感じられる。さらに上へ、もっと強くという原『ドラゴンボール』的なものを、ぼくも求めてはいる。しかし同時に、キャラクター固有のもの、強さとは別にその人物しか持ち得ないものを描くパワーも『ドラゴンボール』はもっている。ここに、本作は自覚的な挑戦したのではないかとおもわれる。

 

というわけで本作はピッコロの、またピッコロと悟飯の関係性のファンにはたまらない内容となっている。ちょっと過剰なほど「こういうのがみたかった」が盛り込まれているのだ。ピッコロファンは絶対観にいって。ガンマ1号2号もかっこいいしかわいいし、悟飯の娘のパンも、これはピッコロが面倒をみているのだが(ピッコロは年中子守をしているな)、ものすごいかわいい。パンは原作にもぎりぎり登場しているけど、まだこんなに掘り下げる余地あったんだなと驚くはず。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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