今年は職場がホワイトなところに異動になった。もちろん、ストレスなどないわけではないが、それまでのドストエフスキー的虚無労働と比べれば天国だし、拘束時間的な意味でのきつさもない。細かな問題じたいは山積みだし、折を見て記事にしていきたいが、快適といって差し支えないとおもう。その印象を強くするものが、休日である。これまでぼくと相方は懇意にしているひとのはからいもあってずっと同じ職場で働いてきた。此度の異動もこちらから頼むまでもなくセットで計画されたのである。だが、これまではふたり同時に休むことができなかった。物理的にとれないとか、兼務先の兼ね合いでできなかったとか、いろいろそのときどきで事情もあったが、意図的に(意地悪で)はずされていたこともあった。こういう日々を経て現在、特に求めなくても自然に同じ日に休みがやってくるようになったのであるから、幸福といってよいところなわけである。
こういう日になにをしているかというと、今年は映画を楽しんできた。映画じたいはこれまでもずっとDVDやサブスクで年中観てきたが、これはつまり、映画館に行くようになったということである。月2回くらいの頻度だが。継続読者のかたはよくご存知のように、ぼくらには観劇という趣味もあったが、いろいろあって、現在はお休みしている。そこに、価格的には10分の1にもなる映画がすべりこんできたかたちである。
こういう日々はどうも5月の『シン・ウルトラマン』からはじまったようなのだが、すでに記憶があいまいになっていて、ほんとうにそうだったかよくわからない。記録もとってないし、ここにもあまり書いてこなかった。年末のまとめの記事でなにを観たのか、普段どおりなら書くところだが、そういうわけで正確な内容にはならない。念のためいま覚えている限りで書くと、ウルトラマンのあとにドラゴンボールを観たのだとおもう。たぶん2回。そのあとミニオンズを3~4回。それからNOPE、ブレットトレイン、“それ”がいる森、犯罪都市2・・・。なんか忘れてる気がするんだけど思い出せない。このままだとするとNOPEまで洋画はぜんぜん観てなかったことになるんだけど、そんなことあるかな・・・。
そしてこの習慣は、じっさいぼくを救いもした。夏場に暗い記事が投稿されたことを覚えているかたもおられるかもしれないが、あのメンタルがかなりやられていた時期、ミニオンズ2作目の『ミニオンズ・フィーバー』が上映されていたことは幸運だった。ソーかトップガンでも観ようとしたが時間的にかなわず、ドラゴンボールの2回目を観て、それでも帰る気になれなくて、もうなんでもいい、なんにも考えたくないとなって、よく知らないミニオンズを観たのである。それからはまってしまって、いまでも彼ら、特にボブのグッズが増殖し続けている状況である。
正直にいってそれまではほんとうにミニオンズのことはよく知らなかった。なんか若い女の子とかが好きな黄色いあざとい連中、というような印象しかなかった。ミニオンたちが主人公になる前作より前の、怪盗グルーのシリーズも、実は観たことがなかったのである。ただ、その『ミニオンズ』の前作だけは、なんとなく記憶にある。テレビで観たとか、誰か子どもといっしょにいるときに並んで観たとか、そんなことかもしれない。しかしそのときは、なにかスマーフと同列のようにしか感じなかったように記憶している。狂ったようにぬいぐるみを集めるというようなことはなかったのだ。それがいまそうなっているのは、非常に落ち込んでいる時期に出会い、回復のきっかけをつくってくれたからなのだろう。誇張ぬきでミニオンズには救われたのだ。しかしそうだとすると、ぼくにとってミニオンズは現実逃避のよすがのようなものになっているはずだが、そうではないのが不思議なところだ。
ここまで書いておいてナニだが、実はいまだに怪盗グルーのシリーズのほうが表面をさらう程度でしっかりとは見ていない。というのは、ミニオンたちが主人公となる『ミニオンズ』以降では、ケビン、スチュアート、ボブ、オットーといった名前つきの個性をもったキャラが活躍するわけなのだが、グルーのシリーズでミニオンズは多少の差異といった程度の違いはあってもあくまで集合体としてあつかわれているのである。厳密には、グルーが名前を呼ぶ場面もあるし、個性もあるが、描きかたがぜんぜんちがうのだ。だがこれも奇妙なはなしである。いまとなっては「ミニオンズ」という造形が非常に魅力的なものだということは自明のものとして受け取れる。しかしながら、彼らはあくまでグルーの仕事を手伝う謎の黄色い集団として登場したわけなのである。ギズモやグレムリンが、ビリーの青春銀行員生活を彩るただのアイコンであるなんてことはなかった。グレムリンたちが人間たちの存在感を“凌駕しない”なんてことは想像もできないのだ。しかしミニオンズたちはグルーのシリーズでは「きわめて印象的かつ重要な集団」にとどまっている。そんなことがあるだろうか。あるだろうか、といっても、あるのだから、意味はないのだが、それが非常に不可思議に感じられるわけである。
グレムリン同様、ミニオンズも、明らかに「子どもたち」をモデルにして作られている。印象的なのはその言葉である。彼らの言語は、じっさいに存在する世界の言葉を混交させた不思議なものだ(だからときどき日本語が聞こえてくることもある)。ともかく、人間はそれを理解することができない。グルーはコミュニケーションをとっているが、すべて完璧に理解しているのかなというとよくわからない。まさに子どもか動物と意思疎通をはかる大人のしぐさで、グルーをはじめとした優しい大人は彼らとやりとりをするのだ。このやりとりの向こうに、ちょうどわたしたちが子どもに対して感じるように、可能性のようなものが兆す。よくわからない言葉で理解しあう集合体の向こうに、大人にとっての評価が保留された、広さもよく見えてこない宇宙が広がっているような感覚が呼び起こされるのだ。これがグルーにとっての不可能を可能にさせるような様子に結びついているのではないかというのがいまの感想である。それは、たんに「子どもたち」の集団を前にしたときの昂揚感に留まるものではない。もっと抽象的に、たとえば教育学のレベルで「子どもたち」の未来を考えるときのような次元で、「子どもたち」が形成しうる、大人にはコミットできない宇宙のようなものの広がりが兆すのである。
こうしたうえで新たに製作されだした「ミニオンズ」のシリーズでは、グルーやそれに近い良心的な大人も登場するものの、基本的には彼らの目線で物語が紡がれることになる。「目線」とは、そのままの意味だ。そのまま、カメラの位置を低くして、彼らの見たままを描き、彼らの感じたままを映像にする、それが「ミニオンズ」なのだろう。だから、演出面でわかりやすくなっているぶん問題はないが、彼らの混交言語によるやりとりを大人が翻訳するということはほとんど行われない。今回の『ミニオンズ・フィーバー』ではまだ小さいグルーと合流し、グルーがかなりのぶぶん通訳をすることになるが、グルーが小さいぶん、目線は非常に低く、通訳という印象もほとんどない。集合体としてのミニオンズが小さな宇宙として身近にあり、場合によってはそれを愛でる、そういう大人の、人間の感性ではなく、ミニオンにとっての深刻さ、ミニオンにとっての価値観を経由したまなざしで、世界が新たに見つめなおされるのである。そうすることではじめて、ミニオンズがたんなる集合体でないことが明らかになる。ミニオンズは、大人たちがある種の無責任さでもって「子どもたち」と呼ぶような状況を超越して、あんなにそっくりでありながらじつはまったく異なっているということを、事後的には自明なこととして発見させるのだ。ケビンやスチュアート、ボブの見た目は、じっさい異なっている。だが、ちょっとグルーのシリーズを観たという程度の鑑賞者にとってみれば、「全員同じ」という感想が出てきても不思議ではない。だがそうではないのだという悟りが、あとになってみれば明らかなものとして、当時のじぶんに呆れてしまうような気持ちとともにやってくるのである。
こうした発見が、ぼくではボブのあまりのかわいさとともにあらわれた。とりわけボブが、ことばを失ってしまうほど、とにかくかわいいと感じられる、その事実が、ミニオンズが集合体ではないということの証明である(ケビンもスチュアートもオットーも大好きだが)。そしてそこに無限の自己肯定が宿るのだ。たぶん、ぼくがあのとき根こそぎミニオンズに気持ちをもっていかれ、救われたのはそういうことなんだろうとおもう。
いまでも、ちょっと疲れたなというときに、『ミニオンズ・フィーバー』でもっとも印象的な曲である、ダイアナ・ロスの「Turn Up The Sunshine」をビデオつきで聴いている。前作『ミニオンズ』は60年代が、今作『フィーバー』では70年代が舞台になっていて、それぞれ印象的に当時のヒットソングが使われているが、このダイアナ・ロスの曲があまりによくできていて、「聴いたことがある」とすらおもったものだから、ぼくはてっきりこれも「当時のヒット曲の再録」かとおもっていたのだが、そうではなくオリジナルである。コロナ禍の全人類に語りかけるような内容で普遍性もあり、ビデオに出てきて踊るミニオンズたちのかわいさもあって、多幸感で涙が出てくることもある。ほんとうにあのとき「なんでもいいから」でミニオンズを選んでよかったとおもう。
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