すっぴんマスター -37ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第67審/至高の検事③

 

 

 

 

 

森田を手がかりに九条を、そして壬生、最終的には京極を捕まえようとする嵐山。最初の交通事故の事件の際、森田がスマホを隠していた件をとりあげ、それを九条の指示によるものだったということを証明しようとしている。動作としては軽微にもおもわれるが、事実としては証拠隠滅にほかならないわけである。そのために必要な条件は三つ、森田じしんの証言、それを裏付ける第三者の証言、そして客観証拠である。森田は頭脳がナニなので時間の問題だし、客観証拠も手に入った。残る第三者の証言として、その場にいたはずの烏丸が、警察に呼び出されたところである。

 

烏丸はバイクに乗って警察にやってきた。意外っていうか、これまで描写がなかったっていうか、九条との関係性のなかには浮き上がってこなかった彼の一面である、と同時に、そこにそこにスーツにヘルメットで流木もバイクで現れて、あたまが混乱する。たまたまふたりしてバイクが趣味だったのか? 流木はツーリング仲間ができてふつうにうれしかったかも・・・。

流木はなにをしにきたかというと、録音機能が内臓されたペンを、忘れ物だと届けにきたのだった。弁護士が警察と対するのだから、それは個人として組織に対立するということである、自分の身は自分で守らないといけない。

 

聴取がはじまり、当然に録音は疑われ、嵐山たちはスマホを出すよう烏丸にいう。まず、なぜイソベンを辞めたのか、というところからはなしははじまる。烏丸は個人的な理由と応えており、事実、個人的な理由であるが、犯罪者に取り込まれていく九条に嫌気がさしたのでは?と、嵐山が的確に突いてくる。そして、その一例として、森田の件を出してくる。森田はすでに九条の指示でスマホを隠したと自供したようだ。なんかこの、ちっちゃいことで延々と大きな物語が展開してく感じ、ヤクザくんを思い出すなあ・・・。丑嶋がハブを殴ったのはぜんぜんちっちゃくないが。同様にして、弁護士がスマホを隠させたということも、体感を超えて、現実にはとても大きな問題なのだということだろう。

嵐山はそこに、スマホの位置情報の履歴が残っていることも付け加える。烏丸は、事務所にきたのだから履歴が残ってるのは当然だと切り返す。履歴というくらいだから時間なども見れるだろうし、しばらくのあいだスマホが事務所にあったことになっているはずなので、烏丸の言い分は通らないだろうが、前回冗談で書いたように、入口のどこかで森田じしんも気付かぬうちに落としてしまったとか、言い逃れはできなくもないのかもしれない。

嵐山は烏丸の胸ポケットにささるペンが録音のできるものであることも見抜いた。そこから、森田との会話も録音していないか、「指示」を烏丸も聞いていたのではないか、というか共犯なのでは、と問いを重ねていく。それに対してはひとこと、「九条先生は弁護士の職務を遂行したまでです」とだけ返している。

 

 

屋上にいる九条と壬生である。壬生のもとに犬飼から電話がかかってくる。犬飼は壬生と敵対していたが、菅原を含めて説得し、仲間にした。犬飼のじっさいの胸のうちはわからない。マサルのように、復讐心を抱えているかもしれないし、壬生にも火種としての認識はあるだろう、が、とりあえずは、まさにマサル同様、後輩というか舎弟というか、身内として動いているようだ。そして今回、状況はわからないが、面倒をおこしたやつを拉致してヤキをいれたがどうしたらいいかという電話を、壬生にしてきたのである。面識はないという。菅原のクラブとか、なんかケツモチしてるデリヘルとかそういう感じのやつで暴れたみたいなことだろうか。防犯カメラの死角でさらったから絶対ばれないと。それならどっかに捨てて来いと壬生はいう。殺すつもりということだろうか。さらに、しばらく姿を消すようにとまでいっているので、たぶんそういうことだろう。電話が終わったら電源を切り、電波を拾われないようにしろともいう。SIMカードも抜いてスマホとは違うところに隠せと。ほとぼりがさめたら高速を走りながらスマホの電源いれろと。

 

続けて電話、今度は京極である。妻から電話があり、息子が行方不明になっていることがわかったのだという。知らないかと。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

もちろん、犬飼がさらっていま始末しようとしているのが京極の息子というはなしなのだろう。犬飼はこれ、わざとやってないよな・・・。

壬生にとって犬飼とはなんなんだろうかということを考えると、どうしても丑嶋とマサルのことを思い返してしまうが、ほとんど同時に、いやあれとはぜんぜんちがうなというふうにもおもう。犬飼は、アウトローとしての突破力はあるのだろうが、非常識すぎて、管理にコストがかかりすぎる。かといって肉蝮のような圧倒的強者ということもないし、いわゆるヤクネタじゃないかな、というのが率直な感想だ。

なぜ壬生は犬飼を引き入れたのか。菅原と犬飼が結託し、壬生から3億を奪おうとしたあの場面、周到な壬生は周辺の兵隊をすべて裏切らせて、逆に菅原と犬飼を制圧してしまった。この状況からすると、ひとつには、まずどうしても菅原がほしかったということがあるだろう。ほしかったというか、菅原ほど優秀な人間を保身のために殺すようなふるまいを、とるべきではないと判断した、ということだろうか。じっさい菅原は悪党としては優秀だろう。組織に属しているわけでもないのに、単独で悪徳介護施設つくって、さらに手広くいろいろやろうとしていたのだから。その「能力」を壬生が欲しいとおもったぶぶんは、じっさいあるとおもう。獅子谷兄弟がそうだったように、後ろ盾のない半グレが、歴史と仁義でかたく守られたヤクザの権威に対抗しようとしたら、物量を用意するしかない。生まれたときから金持ちで、文化資本にめぐまれ、高い教養をもつものに対抗する貧乏家庭出身のものがどうしても下品な成金ふうになるのとよく似ている。それが、彼らの筋肉信仰につながっている。壬生を含め、彼らの膨れ上がった上体は、不安と、また実質的かつ唯一の対抗手段である「物量」の表象にほかならない。同様の目的で、壬生はとにかく「有能な身内」がほしいのである。菅原レベルなら人脈も豊かだろう。もし菅原が抵抗するなら殺してしまったかもしれないが、菅原はそういう計算のできる男でもあるだろう、壬生はそうならないことを予想していたにちがいない。

こうした流れのなかで、その場にいた犬飼をどうすべきだったのかというはなしなのである。まず、犬飼はじっさいに壬生の後輩である。そして、なにはともあれ、犬飼が壬生の指示で10年刑務所にいたという事実は変わらない。こういうものを、いうことを聞かないからといって殺していては、いくら非情さが一種のカリスマを呼び込みうるアウトロー業界といえども、ついていくものは少なくなってしまうだろう。そもそも、以前推測したように、菅原の周辺を取り込むことに成功したのは、金以上に壬生の徳性があったからにちがいないのだ。

こういう事情こみで、壬生は犬飼を引き受けた。このとき壬生は自己責任論で犬飼のうらみを一蹴している。自己責任論は、「述懐」や「独り言」でしか成立しない、普遍化不可能の原理である。少なくとも自然状態をぬけでた法治国家では必ずそうなる。だがそのいっぽうで、そうした言説がじしんへの戒めとして効果的に働くこともある。警察にたよることのできない闇金業はすべて自己責任であると考えることによって、丑嶋は孤独ではあるが鋼のメンタルと強固な人間関係を築き上げることができたのだ。だから、もし自己責任論が自分ではなく他者に向けられて、しかもそれが正しいもの、有効なものであると考えられるときというのがどういうときかというと、その他者を、自分自身のように考えているときということになるのである。たとえば親子、兄弟のような関係だ。その直後に、じぶんもまた京極の犬であると壬生がいっていることがそれを補ってもいる。壬生は、じしん納得するものとして、一種のポリシーとして「自己責任論」をとらえているだろう。これを、犬飼ばかりか、数馬のようなものにも、彼は伝えている。これが示すものはなにか。むろん、彼自身が個人的に数馬や犬飼を好ましくおもっているとか、たんに優しいとか、そういう面もあるかもしれない。しかし、ここでは一種の願いを読み取ることにしよう。どういうことかというと、壬生じしんが、厳しい自己責任論のもとにみずからを律し、京極を乗り越えようとしているところなのである。だとするなら、たとえば数馬は、厳しい自己責任論のもと、適切に努力を続ければ成功するはずだし、犬飼もまた、じぶんを買う壬生を乗り越えることができるはずなのである。論理的にそうなる。

だがそうなると、壬生は、「壬生が京極にしようとしていること」、たとえば復讐の相似形になる、「犬飼が壬生にしようとしていること」の存在、実現をも認めなければならなくなる。数馬とはちがい、壬生じしんが犬飼の復讐劇の当事者だからだ。ここで彼は、武術家がじしんの殺傷行為を正当化するために相手の行為も認めるようには、寝首をかくことをよしとはしなかった。じっさい、壬生に指示したのは京極なのであるから、犬飼の認識はまちがっていたわけである。そうして壬生は犬飼の怒りの矛先を正しいところに向けさせることに成功した。これは、ただ壬生じしんの身を守る意味もあっただろうし、認識のしかたとしてもまちがってはいないわけである。

このようにして壬生と犬飼は、自己責任論によって制御された、目的地をともにする復讐劇の当事者となったわけである。犬飼はまだバカのままだが、壬生は彼に期待しているというより、自己責任論によって舗装された道筋の先に成功があるという未来を予定しているのである。だがこのモデルにも欠陥がある。それは、陰謀論的に、京極を「諸悪の根源」として硬直させてしまっていることだ。むろん京極にも逆らえない相手、つまり京極を犬とする存在があるはずなのだが、そういう具体的なはなしをしているのではない。そうではなく、壬生が自分達を「犬」だとして、仕返しをたくらむ物語を語るとき、じぶんを飼うものが犬である可能性を見落としてしまうということなのである。なぜそうなるかというと、もし壬生が京極の飼い主に焦点を結び、「京極にも事情がある」などということが前景化されてしまえば、壬生じしんも怒りの矛先を間違えてしまっていたことになってしまうからである。事実、作中で壬生がはっきりと打倒京極を打ち出したのは、犬飼屈服と同時だったという点も興味深い。おもちの件もあり、いつか京極に仕返しをしてやろうという気持ちは、壬生のなかにも強くあったろう。しかしそれが具体的なかたちを結ぶためには、京極には「諸悪の根源」になってもらわなければならない。もし京極なりの「事情」を認めてしまえば、犬飼を諭したように、じぶんもまた怒りの矛先を変えなければならなくなる。つまり、復讐は成立しなくなる。そしてもちろん、「事情」を認めていく作業に終わりはない。仮に、はなしを極端にして、京極におもちを殺させた(厳密には壬生が殺したのだが)ようなひどいふるまいを強いる「さらなる強者」がいるとして、では、その「さらなる強者」を飼うものがいないとは言い切れなくなるのだ。一般社会で「責任の所在」などといわれるときの「責任」とはほんらい、こういう主体性の拡散を、便宜的に収束させる生活の智慧のようなものなのである。どこかで「行為の主体」、要するに「事態の責任者」を決定しない限り、行為に意味をもたせることは難しくなるし、目的も立てにくくなるのだ。

同時にこのことは、京極を特別視することにもつながるだろう。なぜなら、この「責任者不在」の連鎖をとめるためには、京極に特別な存在になってもらわなければならないからだ。もちろん、おもちを亡くした壬生にはじっさいそうである。壬生の強い自己責任論は、ひょっとするとこの点と表裏なのかもしれない。彼は、京極に事態のすべての責任を負わせるかわりに、自分自身もそれがもたらすものを背負わせるのである。

 

作中の原理でいえば、以上のように、京極と犬飼は同時に出現したことになる。人ごみのなかに知人を見つけたり、マッスとして認識されていたクラスメートのなかのひとりを好きになってしまったり、「その他大勢」だったものの特定の誰かが突如明瞭な輪郭とともに認識される状況とも似ている。そして今回即座にそこでトラブルが発生したことになる。犬飼がいうにはバレそうもないので壬生はこのまま突破してしまうかもしれないが、もしこのまま何日も行方がわからないとなって京極が本気を出して探せば、息子が「どこ」でもめごとを起こしたのかはすぐわかるだろうし、そこに「誰」がいたのかがわかるのも時間の問題だろう。犬飼が拉致した瞬間はどこにも記録されていないとか、そんな理屈は京極には通じない。目処がついたらあとは詰めるだけなのだから。このあとの壬生の態度で、いろいろなことがわかりそうな感じがする。

 

 

烏丸はとりあえず必要最低限のことしかくちにせずに嵐山の聴取を乗り切りそうだ。烏丸が九条のもとを離れたのは、悪党とのかかわりにうんざりしてというよりも、九条を心配して、というところが大きかった。だから、これ以上関わるならじぶんは離れるという、ちょっとした脅しをかけていた。ところが九条はそれをやめない。そこで、約束を守るとともに、彼は弁護士というもののありかたについて改めて考え直している段階なのである。烏丸じしんよく理解しているように、九条はじっさいグレーなことをかなりやっている。烏丸も少しは加担してきた。それが例の「日本一のたこ焼き」に表象されるものである。それがほんとうに日本一なのかどうか、またそれを証明すべきかどうかという問題は、九条の行動が白なのか黒なのか、あるいはそもそもそれをはっきりすべきなのかどうかという問題と等しいのだ。優秀な法律家である烏丸は、蔵人と同じく、どちらかといえばやはり白黒はっきりさせるほうなのである。それが法律を構成する「言葉」の性質なのだ。だから、「日本一」というたこ焼き屋の宣言にもやもやする。けれども、彼が九条を「おもしろい」と感じ、学ぼうとおもった点は、そこにはない。そうした一般にグレーとされる領域にこそ、彼が直観的に学ぼうと考えたものがある。まだ結論が出せない彼には、今回のようなリアクションしかとりようがないのである。だが、九条をかばうような言葉からは、明らかに傾きも見て取れる。それは、長いつきあいのもたらすただの情だろうか。たんなる法律上の機能ではない、人間がとる「ありよう」としての弁護士、こういうものを、おそらく烏丸は九条を通してみてきたはずである。それを、少し離れたところから冷静になってみてみるといういまの状況は、たしかに若い彼には必要かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

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第136話/捕鯨砲

 

 

 

 

独歩対蹴速が独歩の勝利で無事終了したところで、勇次郎ツエエ回だ!

今回描かれるのは捕鯨砲・・・、バキの長い読者ならいっしゅんにしてなにが描かれるのか了解できるとおもうが、ともかく、鯨を一発でしとめるための武器である。動画をちょっと見たが、ほんとうに大砲みたいな威力で、急所を射抜けば鯨を一撃で倒すことのできる強力な道具だ。

砲手は佐渡元一という漁師で、人間にそれを撃ってくれと頼まれているようだ。誰にかっていうと、ストライダムしかいないわけだが、ふつうの感覚なら「なにいってんのコイツ」というところで、シャレにもならない。100トンにもなる鯨をしとめる武器なんだよと。シロナガスクジラも即死させるというのだが、できるかどうかはともかく、シロナガスクジラは保護の対象じゃないかな。第一大きさがちがう。蟻にピストルを使うようなものだよね。

 

帰ろうとする佐渡を、ストライダムが逃げるのかと引き止めたらしい。血の気のあらい漁師ということか、佐渡は立ち止まって喧嘩を買う。そこで、ストライダムは改めて説明をする。マッコウ鯨より手強い男を連れてくるから仕留めてほしいのだと。とりあえず会うだけでいいとも。

 

夜になってしまった。どうやって間をもたせていたのか、佐渡とストライダムは着岸した船のうえでまっている。そこへ、徒歩で勇次郎がやってくる。佐渡はひとめでストライダムのいっていることがほんとうかもしれないと考え出す。陽炎のような闘気も見えているようだ。

佐渡は顔中に玉の汗を浮かべ、勇次郎を迎える。勇次郎はちょっとご機嫌だ。わがままを聞いてくれるそうだなと、明るく語りかける。会話には文脈というものがある。佐渡からしたら、鯨を殺す道具を人間に撃ってくれと頼まれて、撃たれる本人が「我儘」という語を使ってきたのだから、なにがなんだかさっぱりわからないだろう。だが、勇次郎は、その我儘を聞かぬようなら殺すと、じっさいに発声したのかどうかはよくわからないが、ともかく佐渡に理解させる。

 

佐渡は恐怖以上に興味を抱え始めていた。直観的にはマッコウ鯨10頭分だと。

そうして捕鯨砲が勇次郎に向けられる。胸のまんなかを、出し抜けに撃てと。陸のうえの勇次郎に砲が向けられ、発射されるのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

勇次郎ツエエ回が1回で終わらなかった?!そんなこともあるのか・・・。

 

 

ストライダムは勇次郎の依頼を受けた結果としてこの企画を立てたのだろうが、彼は勇次郎に対しては「本気で殺したい」と「もっと強いところを見たい」という反対の感情を同時に抱えている難しい人物である。というか、だからこそ勇次郎とうまくやれている。「本気で殺したい」ひとが真顔で計画するから、それなりに手応えのある遊びが成立する。それでいて本人は友人のたのみを聞いているくらいのつもりでいるのだ、勇次郎からしたらじっさい「いい友達」なのだろう。

 

とはいえ、捕鯨砲で勇次郎の強さのどのぶぶんが計測されるのだろう。そもそも、勇次郎は発射された銛をどうするつもりなのだろうか。状況そのものが非常識なのでどうしようもないが、ふつうに考えたら、よけるんだろうとおもう。出し抜けに撃てというのはそういうことだろう。突然きた、とてつもなく危険なものを避けるという経験である。だが、そうだとするとそこに捕鯨砲ほどの威力は必要だろうかという気もする。捕鯨砲より速い武器や技はほかにもいっぱいあるだろう。とすると、まさか受ける気なのか?という気もする。もしくは叩き落すとか・・・?

 

捕鯨は国際的に非難もされている文化だが、調べたら日本書紀や古事記にも記述があるようで、日本人はつきあいが長いようだ。ただ、ここで問題になっているのは鯨ではなく、鯨漁のほうなので、ややこしい。狩猟は、言語による分節以前の、一体的な自然から人間にとってのなにかしらを抽象し、貨幣にし、交換体系に組み込むという作業にほかならない。なかでも鯨は自然、あるいは海そのものといってもいいような大きさで抽象に逆らう存在だったろう。もともとはなんの意味もなさない空間のいちぶを、言語によって区切り、「この部分をこう呼ぶ」と決める作業が人類の言語運用だとしたとき、それがきわめて困難なものであり、ある意味「不自然」であるということをつきつけるのが、捕鯨なのである。おそらく、だからこそ、捕鯨は漁のうちでも独自の価値をもって生きてきた。しかし、だとすると、きわめて困難なその言語化の道具たる捕鯨砲を撃ってもらいたいと依頼するとは、いったいどういうことだろう。それは、人類の自然に対する傲慢な態度を、いつものように、じしんのふるまいのうちに回収しようとする、標準的な勇次郎的しぐさの裏返しであるのかもしれない。勇次郎はいつでも、闘う相手のやることなすこと、つまり可能なことを、「自分にもできる」と示してきた。彼の強さの根拠をひとことでいえば「既知」となる。お前の知っていることはおれも知っている、お前のできることはおれにもできる、こうすることで、彼は相手の無価値を宣告し、同時に、自分と自分以外を瞬間的に区別するのである。この意味では、通常の勇次郎なら、鯨を仕留めるほうにまわるわけである。それが、今回は逆に仕留める道具に対峙しようというのだ。親子喧嘩後の心変わりとみるべきか、たんに「強力なもの」として鯨と同程度に捕鯨砲に価値を見出しているだけなのか、めずらしく「つづく」勇次郎回で、まだなんともいえないが、しかし初見ではちょっと意外だなという感想をもったことは事実である。彼がじぶんの強さを確認したり示したりするには、捕鯨砲を相手どるより鯨を倒したほうがよほどわかりやすいし、やりごたえもあるにちがいないからだ。ここに、やはりどこか彼の内面の変化のようなものが見て取れるのである。と同時に、「捕鯨」の歴史の古さも考えたら、これはいま宿禰や蹴速が登場していることと無関係ではないのかもという仮説も浮んでくる。特に宿禰では「自然」に対する感受性のものも見られた。いまのはなしでいうとそれは、言語で分節される前の、豊かな富の源泉である。こういうものを、我々は文明でもって、言語でもって切り分け、独自の「価値」で管理できていると思い込んでいる。勇次郎はその最先端にある捕鯨砲に向き合うことで、なにかその傲慢に挑戦しているようにも見えるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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■『東京結合人間』白井智之 角川文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

「男と女が互いの身体を結合させ、結合人間となって特殊な生殖を行う世界。この結合の過程でときおり、一切嘘がつけない結合人間=オネストマンが生まれる。オネストマンの圷はある日、高額な求人に目をとめる。オネストマン7人の共同生活を撮影する映画の出演者を募集するというのだ。報酬目当てで参加した圷は、他の参加者たちと孤島に向かう。しかし、撮影クルーは海上で姿を消し、オネストマン7人だけで一夜を明かした翌朝、孤島の住人親子が死体で発見された。容疑者7人は嘘をつけないはずだが、なぜか全員が犯行を否定。圷は推理を試みるが、新たな犠牲者が出てしまい―」Amazon商品説明より

 

 

 

人間の顔は食べづらい』に続いて白井智之の2作目『東京結合人間』を読んだ。本作も受賞等はないものの、道尾秀介や綾辻行人に激賞されている傑作である。

 

本作もまた前作と同じく「特殊設定もの」であって、いかにしてその特殊な設定をリアリズム的に描くかというところがまず作家として壁になるわけだが、このひとにおいては特殊設定で謎やトリックを作り出すのが基本みたいなところがあるので、荒唐無稽な設定もなんなく見てきたように生々しく描ききっており、その点では大好きな飴村行に近いところがあったので、親近感もあった。飴村行もまた徹底的に「どうかしている」作品を書くが、なにしろそのリアリティ、ありえない世界が当然のように語られ、架空の生物の名前をうっかりググってしまうほどに活きいきとした摂理を描いてきた。非常にグロテスクなその粘膜シリーズの世界はぼくにとっては癒しになっているところもあり、特に大切に読んできたのである。そうしたところで、既出の粘膜シリーズに終わりが見えてきてしまって、どうしようとなっていたときに、風間賢二の『怪異猟奇ミステリー全史』の最後のぶぶんで期待の新人として語られていた白井智之を読んでいくことになったのである。

ただ、括りとしてはホラーになる粘膜シリーズと異なり、白井智之は基本的にミステリ、それも新本格的なパズルを描くていくことになる。独自の常識、独自の価値観や自然の原理で構成されたパラレルな世界において、事件が起き、奇妙な謎が発生し、論理的に謎が解かれるのである。たまらないですよね。

 

『人間の顔は食べづらい』は新型コロナウイルス(作品発表はパンデミックより前)蔓延により肉食が不可能になった世界で、人肉食が採用された架空の世界だった。といってもひとを殺してがぶがぶ食べるのではなく、クローン技術で自分自身を作り出して食用に育て、食べるというはなしである。その際、頭は切り落とされて身体だけが注文者に届くようになっているところ、箱から除いたはずの頭部が入っていた、という、状況が凄すぎて謎レベルがよくわからなくなってくる事件である。ともあれ、作者の特長はたんにこうした異常な特殊設定だけにあるのではなく、くりかえすようにそこで起こる事件を論理的に解きほぐすというところにある。本書では、生殖の非合理に気がついた自然が、人類に「結合」という能力を授けることになった世界だ。肛門からパートナーに侵入し、文字通り結合し、その後子どもを産むようになる。結合した人間は結合人間と呼ばれ、文字で読んでいる限りでは登場する結合人間はわたしたちの知っている「人間」と変わらないのであまり気にならないが、じっさいは手足や目が4つずつある、想像も難しい感じの風体をしているのである。それだけではない。本書を物語、謎を構成する最大の要素は、「オネストマン」である。これは、結合の際にある種の「失敗」をしたときに誕生する、嘘をつけない結合人間である。

そんなオネストマンが、映画の撮影のためにある島に集合しているところで殺人事件が起こる。だが、誰も犯行を認めない、そういうおはなしだ。この舞台のいちぶには呉多島という島が登場するが、これは、論理パズルでよく登場するクレタ島を参考にしているのだろう。調べたらクレタ人の元ネタはエピメニデスのパラドックスというものらしい。クレタ島出身のエピメニデスという哲学者が考えたパラドックス的状況で、クレタ人である彼が「クレタ人はみんなうそつきである」といったとき、なにがわかるか、というような問題である。これはたとえばぼくが「ぼくはうそつきです」とくちにしたときと同じで、論理的には偽(成り立たない)の命題ということになる。正直者しかいない状況で誰かが嘘をついていなければ成り立たない事件が起きた場合、どう考えればいいのか、そういうはなしなわけである。

こうしたわけで「オネストマン」は物語の重要な要素であるわけだが、それが生まれるのはそもそも「結合」という、どこからそんなアイデアをもってきたのかとなるような生理があってのものであり、当然結合、また結合人間という状況それじたいも、事件に深く関わっている。ほんとうに見事というほかない。

 

今作を読んでわかったことのひとつとして、リアリティがある。ばかげているといってもいいようなこの状況を通じて、なぜか、読者は非常に強いリアリティのもとで事件を体験することになるのである。どういうことかというと、ふつう、殺人事件のような出来事は、日常と非日常を断絶するのだが、ミステリを読もうとするものは、当然それを期待してそうするわけである。要するに、通常のミステリにおける非日常は、お手軽な、離脱可能なものなのだ。わたしたちは、感情移入することはあっても、正体不明の殺人犯に殺される心配をしながら、背後を気にして謎解きをするということはない。ところが、白井作品ではそうではない。なぜなら、わたしたちがコミットする非日常に至るまでの背景にあたる日常が、ぜんぜんふつうではないからである。相似形ではないが、おそらく面積としてはほぼ等しく、わたしたちは、作中人物が感じている非日常感を事件に感じることになるのだ。だから、たとえば手足が四つずつある結合人間が鳩首してああでもないこうでもないと議論するとき、少し寝坊して事件発生を知った結合人間のように、緊張感とともに情報収集をしていくことになる。読者である、つまり「そこに参加していない」という遅れを、特殊設定が埋めて、断絶を解消することになるのである。リアリティは再現だけに宿るものではないのだという考えたら当たり前のことがよくわかる小説なのである。

 

次は『おやすみ人面瘡』を読みます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第66審/至高の検事②

 

 

 

 

「九条の大罪」最初の事件でも登場した森田が嵐山に捕まる。内容としては、酔って暴れただけだが、薬物も所持していたらしい。だが、嵐山の目的は森田というより、以前森田を助けた九条である。

 

休日に壬生から連絡を受けた九条が詳しいはなしを聞く。森田は壬生の後輩だが、シビアに人間関係を取捨選択する壬生であれば特に、とことんまで面倒をみるような人間でもない。だが森田の父が建設会社の社長で付き合いがあるということのようである。このいいかたでは、たとえば死体処理を部分的に任せているとかそういうことではなさそう。ただのつきあいっぽい。

 

ブラックサンデーとの休日返上で九条が森田に会いにいく。薬物所持に陽性反応、実刑は免れない、そもそも森田は交通事故の件で執行猶予中だと、説教気味に九条がいうのを、森田は含みのある目つきで見ながら黙って聞いている。房にもどってからも、森田は嫌な感じでなにかを考えている。彼はいま嵐山から九条を売るようにいわれているところなのだ。当然、そういうはなしだろう。

車での帰り道、九条はなにかがひっかかるという。森田がつかまったのは森田の知性がナニだからであって、そこまではある意味想定内の展開なわけだが、その後の森田のリアクションのことかもしれない。今回森田からはどうしても外に出たいというような気持ちは感じられなかったのだ。ときどき、サブリミナルにしかけられているかのようにあらわれる「日本一のたこ焼き」を今日も気にしつつ、九条は通過する。車が停めづらいのだという。

 

 

嵐山が重点的に攻めているのは森田のスマホである。最初の事件のとき、森田は運転しながらスマホでゲームをしていて、事故をおこした。だからスマホを調べられるとまずい。なのでなくしたということで事務所に置いていけと九条は指示したのである。そのことはまだ森田はだまっている。だが、もしこれが弁護士の指示ということになれば、証拠隠滅になる。しかも今回、なくしたはずのスマホを森田はもっていたわけなのである。

部下に問われて、嵐山がいくつか必要な条件を列挙していく。ひとつは森田本人の供述。あさはかな森田はもう少しゆさぶれば九条に指示されたといってしまうだろう。今回の九条の説教も後押しになってしまってもいる。次に第三者、別の参考人の証言をとって、森田の供述の信用性を高める。そのうえでみっつめ、客観証拠を加える。物理的な、誰がみても解釈に異同が起こらない数量的証拠だ。これが嵐山の攻め手である。

そこで解析の終わったスマホを深見がもってくる。薬物の売人とのやりとりは出てこなかったそうだ。だが、今回は売人は追わなくていいと嵐山はいう。どうせ行き着くのは京極である。

続けて、位置情報サービスで利用頻度の高い場所が知らされる。自宅、父親の会社、パチンコ屋、というところで、交通事故のあった日の履歴が九条の事務所になっていることも明かされる。決まりじゃん、どうすんの。待てよ、事務所に入る前に外の生垣的なところで森田が落としてしまったということにすれば・・・。

 

 

九条はいったん屋上の秘密基地にもどって鯖缶とキムチのグラタンを食べている。近くには壬生とブラックサンデー。嵐山の動きを詳細に知ることはできないが、ふたりの洞察力をもってすれば、これからなにが起ころうとしているかというのはよくわかるようだ。嵐山は歩兵の森田を攻め、飛車角の壬生や九条を落として王将の京極を狙う気だと。九条は壬生に対してはけっこう素でしゃべるんだな。京極のこととか、建前上よく知らないふうにしそうなものだけど、壬生とは前提事項のようにして話している。

弁護士事務所に強制捜査というのは、よほどでないと警察もためらうのだという。失敗したら大騒ぎだからだろうか。しかし勝算があるなら徹底的にやると。

 

流木のところにいる烏丸に、嵐山から電話がかかってくる。本庁にきて話せないかと。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

九条を落とすのに必要な三つの要素、ひとつめの森田の自供は時間の問題だろう。三つ目の客観証拠も手に入った。あとはふたつめ、第三者の参考人の証言ということになる。それが、その場にいたはずの烏丸、ということになるだろうか。1巻を読み返すと、九条は「独り言」としてスマホを置いていくようにいい、その前に烏丸はスマホでゲームをしていた供述は控えたほうがいいというふう言っている。いったいどのあたりから「指示」になるか、という点も気になるが、客観証拠が見つかっているので、このあたりは「森田がそう感じた」というだけで大きな意味を持つかもしれない。そしてそれを聞いていた烏丸が、森田がそう感じることに合理性はあるかどうかを証言すればよいのである。法律面では弱者である森田のことであり、ここに合理性は認められてしまうだろう。この流れでは、烏丸はスマホを置いていけとはいわないまでも、ゲームの件がこちらに不利に働くことについて、そしてその証言を積極的にはしないほうがいいということについては、思い至り、じっさいくちにしたことは黙っているということになる。ただ、このあたりのことは手続き的にどうなるかはわからない。森田と話しているのは九条であり、烏丸は近くにいただけとも解釈できるからだ。だからこの件の法律的解釈にかんしては放棄して、問題は烏丸のなかでの一貫性である。漫画としてはまだキャラクターがそれほど固体化していなかった第1審のはなしだ。いま烏丸は、これ以上反社会的勢力とつきあうようなら九条のもとを離れるとして、じっさい離れているわけである。白黒はっきりさせたわけだ。ところが最初のころの烏丸はまだグレーなぶぶんも受け容れていたようでもあったわけである。それは、あくまで九条の部下として、ということなのだろうが、いずれにしても、遡及的に九条がこうして断罪されることが必然なのだとしたら、烏丸もそこに与していたものとして、裁かれないまでもなんらかの罰を受けなければならないのではないだろうか。というか、烏丸はそう考えないのだろうかということである。

 

今回、いつもの「日本一のたこ焼き」が出てきた。確証はなく、なんとなくの印象レベルで感じていたことで、烏丸がまさしく今回のような状況を危惧するようなときに、たこ焼きが出てくるような気が、以前からしていたのである。覚えている限りでは今回を除いて3回、たこ焼き屋への言及はあった。ひとつめは、この森田の件の仕事をしていた車中、ふたつめは、小山と食事に行くときふたりの間で会話に出てきたものだ。みっつめは、捕まっている久我から嵐山と犬飼のことを聞かされたあとである。いずれも、烏丸が「よくない流れだなあ」と感じそうな場面で、不意にたこ焼きの描写、もしくは話題が挿入されてきたのである。

今回はそのたこ焼き描写に烏丸がかかわっていないはじめてのものとなる。ここで、その最初のたこ焼き登場時のふたりの会話を引用しておく。

 

 

 

烏丸「日本一のたこ焼きか。何をもって定義してるのか。

 

しっかり定義しないと気持ち悪い」

 

九条「自称日本一は味がついてこなければ淘汰されるでしょ。

 

いずれ暗黙の了解で定義づけられますよ」

 

 

こうみてみるといかにもなやりとりである。そして、この「定義」の問題は、おそらくこの「至高の検事」の中心人物となるであろう、九条の兄で検事の鞍馬蔵人における、デジタル倫理とでもいうべきあの言語的価値観にも通じるものである。

「日本一のたこ焼き」を「定義」するとはどういうことかというと、「たこ焼き」という食べ物、状況、現象がひとまとまりに想定できるとして、そのなかから特定のもの、特にここでは「日本一」ということなので唯一のものを選び出すための条件を設定するということである。「日本一」と「日本一でないもの」を明確に区別できるようにする、ということなのだ。これはまさしく、善と悪を一瞬のためらいもなく切り分けて裁こうとする蔵人のスタンスなのである。前回かなりくわしく書いたので、あとで読んでもらえればとおもうが、ごくあっさりまとめると、蔵人は「文章」で構成された法律の専門家らしく、言葉で世界を分節する。だから、定義された「善」や「悪」、またそのあいだにある「善でも悪でもないもの」、このみっつの段階以外の場所に人間は存在しない。厳密にはおそらくみっつめの「善でも悪でもないもの」は法律でも日常でも言及する理由が基本的にないので無視してよいものだろうが、これもまた言葉であり、決して「あわい」ではないのだということを強調する意味であげておく。対する九条は、兄の見えないものが見える。つまり、言語がとりこぼすものが見える。これは『星の王子さま』的視点であるというのがいままでのはなしだ。三つの段階、善、善でも悪でもないもの、悪、これらのどこにも組み込みがたいものが、世界には存在する。ただしそれは、言語化することができない。言語化した途端、たとえば「善と、善でもあくでもないもののあいだにあるもの」というしかたで、截然と区別されてしまうからである。そうではない、そうしたデジタルな思考法が見落とすものが世界にはあり、特に、最初から無邪気に善悪のような区別を信じ込んでいては、そういうものが「ある」ということすら気がつけない。九条はそういう考えかたで、たとえば曽我部のような、善でもいい悪でもいい、いったいなにに分類すればよいのかとなるような弱者を救ってきたのだ。九条が対するのは、個別の状況に対する言語批判ではなく、態度なのである。

 

そのたこ焼きが「日本一」かどうか定義しようとする烏丸は、蔵人のこのデジタル倫理側のものであった。しかし、定義されるものも、定義するものも、ともに言葉である。言葉が言葉を守っているのだ。だとすれば、言葉がゆらぐとき、定義もゆらぐことになる。その言葉が本来指し示している内実は、たとえば「味」である。味がついてこなければ淘汰されるとするのが九条の考えかたであるわけで、これはつまり、言葉の前に内実があるということなのである。言語学的にはソシュール以前の考えかたということになるが、身体的にはよく理解できることだ。逆にいえば、言葉が世界を決定してしまう結果として、わたしたちは失っているものがあるわけであり、それをこそ、異端の弁護士は拾おうとしているのだ。

 

だが、もっと象徴的なことは、この「日本一のたこ焼き」に、九条たちがなかなか到達できないということだ。話題になるだけで検証されないのである。そして、このたこ焼きのことは烏丸もけっこう気にしていた。これは、彼自身、定義の不明瞭な状況にあるものごとをどうあつかうべきなのか、迷っていたということなのかもしれない。だから、「日本一のたこ焼き」は現時点で一種の空洞なのである。九条にとってはただ「味」をたしかめるべき対象でしかないが、同時にこの店は烏丸のこと、また遠く蔵人まで含んだデジタル倫理を想起させる価値観でもあるだろう。そういう世界のみかたがあるということは、九条ももちろん理解しているのだ。そして烏丸にとっては、定義できないものとして不明瞭なまま違和感をともなって存在している気持ち悪いものである。これは九条そのものともいえるかもしれない。現在進行形の言葉ではまだ説明できない「なにか」なのである。

見たように、烏丸も九条のもとではグレーな身振りをとることがあった。もしかするとそれこそがおもしろかったのかもしれない。彼は別にグレーなのがいやで九条を離れたわけではない。依頼人がふつうに犯罪者だから、危ないし倫理的に問題があると感じ、そうしたのだ。あのたこ焼き屋は、たがいの価値観の中継地点のようなものとして機能しているのである。

 

ただ、それが、烏丸のいないところではじめて、九条の側からの描写で出てきたというところは、烏丸ではなく、九条のほうの迷いを感じさせもする。「至高の検事」がもたらしうる究極の言葉の分節を、危機感とともに、あるいは引っかかりとともに、感じているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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第135話/初めて耳にする音色(おと)

 

 

 

 

 

筋肉の装甲を無効にする独歩の正拳連打が蹴速の胸に重く叩き込まれる。蹴速の肋骨はひびだらけになり、たまらず吐血である。

その流れで、あげていた手が落ちただけのようにも見えるが、蹴速の掌が独歩の両肩に置かれた。すると蹴速は跳躍、両足で独歩の首をはさみこんだ。観客たちはそれを三角絞めと見て驚いている。しかし、三角絞めは相手の片腕と首を同時にはさんで、じぶんの足と相手の腕で首を絞める技なので、厳密にはちがう、とおもうが、かたちとしてはたしかに足が三角形を描いており、よくわからない。ウィキなどみるとやはり三角絞めの定義は相手の手をつかうもので、足で首だけを絞める技はヘッド・シザーズとか首4の字固めとか呼ばれるっぽい。柔道ではヘッド・シザーズが禁止されており、それで三角絞めが考案・進化したという説もあるみたい。総合ではガードポジションから相手のパウンドを受けつつ流れるように移行できるので、技としては非常に合理的なものである。

 

これも一種の足技、ということだろうか。三角絞めが講道館を通じて生まれたことを考えると、腕をはさんでいないとはいえ古代相撲という名称からは考えられないようなスマートな技術である。足はがっつり首にはまっていて放っておけば独歩は失神してしまう。だが蹴速もあちこち骨折していてぼろぼろである。独歩は気の毒すぎて反撃がしにくいなどというが、技が決まっている以上そうもいっていられない。こうした絞め技はきれいにきまるとほんとうにすとんと落ちるものである。猶予はない。独歩は自由になっている両手を使って反撃に移る。まず、つかみやすい位置にあった蹴速の両耳をつかんで、ためらいなく引きちぎる。続けて、鍛えぬいた貫手を両方、蹴速の腹の側面に差し込む。すさまじい攻撃だ。蹴速はたまらず技を解いて落下、光成が勝負ありを告げるのだった。

 

独歩は仰向けに倒れて動かない蹴速の横に座り、ちぎった耳を拾って闘技場の職員のひとたちに渡している。氷漬けにしておけ、いい医者も紹介するからと。そうして独歩はドリアンに切り取られた腕もくっつけたのだ。

ふたりは試合を振り返る。最初のあの、正拳による踵の粉砕、あれでもう決まっていたのだ。逆にいえばあれがなければわからなかったということでもある。意識があるらしい蹴速は「次」は気をつけなきゃというのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

歴然とした実力差を見せ付けて独歩が勝利した。だが、最後に決め技になりうる三角絞めそのものは決まっていたのはなんとなく惜しかったようにもおもう。片腕がとれていたらなあ・・・。まあ、独歩は相手の爪剥いででも動けない状態から脱出する男なので、ああいうのはなんでもないのかもしれないが。ダメージや負傷以外で独歩の動きをとめようとしたら、からだのどのぶぶんも1ミリも動かせないような、氷漬け的な状態にするしかないかもしれない。

 

「仕切り直し理論」、勝つまでは負けていません理論で宿禰との試合を無効にしてきた当麻家の末裔・蹴速だったが、この試合は最後までやりきるかたちとなってしまった。といっても、宿禰との試合も「最後までやりきった」ことにちがいはないので、このあと彼がどう出るかで事態は変わってくる可能性もある。が、ともかく、途中で逃げ出して試合放棄とかいうことにはならなかった。逆にいえば、どうしてそうしなかったのかという疑問も出てくるところである。

 

蹴速も独歩も、最初の踵粉砕でほとんど試合は決まっていたという点で意見は一致しているようである。とするなら、当然、蹴速はあの時点でこの試合はもう勝てないということを理解していたはずなのである。であるのに、彼は逃げ出すということをしなかった。しかし、この「逃げ出す」というアクションについては、勇次郎戦での鮮やかあな逃げ足が印象に強いぶんこういう問いが出てくるわけだが、くりかえすように初代宿禰とのたたかいではこういうことは起こらなかったわけである。なぜかというと、彼らの示す「仕切り直し理論」というのは、理論として必要があったから生じたものだったからなのである。理論がまずあって、結果として当麻が優れた格闘一族になっている、ということではなく、ぬぐいがたい宿禰戦での敗北があって、それでもなお「当麻家」の価値を保存しようとしたとき、こういう発想が出てきたというはなしなのだ。となれば、当然のことながら、「初代蹴速」、つまり初代宿禰に踏み殺された記紀に登場する蹴速は、「仕切り直し理論」を用いてはいなかったはずなのである(確実にそうとも言い切れないが)。

そもそも、いままでいっしょくたにして書いてきたが、「仕切り直し」と「逃走」は同じものを指す言葉ではない。「逃走」は「仕切り直し」をするための方法のひとつであり、また同時に、シコルスキーや柳とたたかっていて逃げたバキのように、「逃走」しながら「仕切り直し」を意味しない状況も想定できる。だから、「逃走」しなかったからといっていまの蹴速に「仕切り直し」の意図がないとも限らない。「逃走」という身振りのネガティブな面を考えれば、ひとまえでもあることだし、避けたのかもしれないな、というふうにも想像できる。ただ、以上のような経緯を考えると、勇次郎戦でみせた鮮やかな逃げ足とは別に、案外蹴速は「逃走」を選ばないファイターなのかもしれないというふうにおもえてくる。「仕切り直し理論」はあくまで必要なときにあらわれてくるものなのであって、彼ら当麻家の方針そのものと一致するような思想ではないのかもしれないのだ。

だからこそ、倒れた蹴速のくちからは「次」という言葉が出てくる。「次」の試合という視点が敗北者のくちから出てくる状況というのは、いかにもスポーツ・競技の世界のものだ。げんに、戦国の生死を決定する文脈で武蔵とたたかった烈に「次」はなかった。これは負けても生きて帰ってこれる、試合外の条件に保護された現代のファイターの発想なのである。だが、その世代が死んでも家単位で試合を持続させることができる「仕切り直し理論」を用いた当麻には「次」がある。彼がこれをくちにしたということは、「仕切り直し理論」が必要になったということでもあるのだろう。蹴速のいう「次」は、スポーツマンのくちにする「次」とはまったく異なっている。こうみると、彼ら当麻は、武術家もスポーツマンも到達できない境地に達しているのかなという感じもしてくる。敗北した武術家に「次」はない。だが、死んでも試合を持続させるという発想を体現できる当麻にだけは、それが許されるのだ。

 

 

独歩にかんしては、ひとつ気にかかることがある。それは、蹴速の耳をちぎる必要はあったのかということだ。手のすぐ届くところに耳があったとか、貫手をするにあたって、かたくひきしまっている蹴速の腹筋をいちどほどく必要があったとか、たぶん戦術上の理由がここにはあったものとおもわれる。三角絞めをしている蹴速は、さかさまになって腹筋運動をしているのと同じ体勢になっているわけで、体幹はそうとうにかたくなっているとおもわれる。ここで耳をちぎり、緊張がゆるみ、なんなら少し落下する、そのタイミングで、貫手を差し込んだのである。しかしながらこれはぼくの解釈にすぎない。そういう描写があるわけではない。そういう描写がない、ということを踏まえたうえでみると、どうしても、耳をひきちぎり、しかもそれをあのように紳士的に返却する必要はあったのか、ということになるわけである。なにがいいたいかというと、このとき独歩が引きちぎった「耳」は、メタファーなのではないかということだ。

ここでの「耳」は、独歩からの音声メッセージを受信する器だ。そうだとしたとき、独歩が比喩的に発したメッセージは、実は反対のふたつのものが考えられる。ひとつは、「聞く耳をもて」ということであり、もうひとつは、「聞く耳をもつな」だ。前者においては、独歩はくりかえし降伏をすすめていたわけである。絞められてもなお独歩は気の毒であるとしており、そのことばを容れろという意味で、耳が注目されたのである。たほうで、「耳をちぎりとる」という行為は、蹴速から受信の器を奪うことでもあった。「聞く耳をもて」というその足でその「聞く耳」を奪うというのは奇妙でもあるのだ。

こうしたところで、両者は止揚されて、「聞く耳」についての感度をあげろ、という命法に生まれ変わるのである。「耳をちぎりとる」という行為が蹴速にとって「耳をちぎりとられる」という状況として受け取られるときになにが起こっているのかというと、それは「そこに耳がある」ということなのだ。だからこそ耳は返却された。この行為の肝は「耳を奪う」ことではなく、「そこに耳がある」ということを蹴速に気付かせることだったのである。

 

そうだとして、独歩は蹴速がなにについて聞くべきだと考えたのだろう。試合内容ではないだろう。あんなふうに降伏をすすめられて納得してしまっているようでは、独歩レベルのファイターに勝つことなどできない。独歩も、そのあたりは、そうなるものだというふうに理解していた。彼が「聞く耳」を欠いているもっとも重要なポイントといえば、もちろん「仕切り直し理論」である。「仕切り直し理論」は、他者の解釈をすべて無視して、じぶんの世界観を優先することで成り立つ思考法だ。ほかの誰がなんといおうと、宿禰には負けていません、いまはまだ幕間です、というのが、「仕切り直し理論」なのである。2000年も歴史のある家系である、この言葉のまま、彼らがぜんぜん負けを認めず、敗因分析もせず、負けたときのままの稽古をしているなんてことはおそらくないとはおもわれる。だが、それはそれで矛盾もしている。ほんとうは「敗北」を受け容れて、敗因分析をしているのに、対外的には「負けていません」とくちにするということは、他者の解釈をそこに容れているということだからである。ほんとうに他人がどう解釈しようと関係ないと考えるのであるなら、それを他人に向けて表明する必要もないのである。ここに、死刑囚たちがそうであったように、いっしゅの「無理」が生じるのである。それは生きる辛さに直結するタイプの、自己矛盾的な混乱を呼ぶものである。独歩は、まだ若い蹴速にかかっているそうした当麻の呪いを解除しようとしたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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