すっぴんマスター -37ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

ブログ納め。気付いたら大晦日が迫っていて、誰も特に期待していない年末まとめ記事書ききれないかとおもったけど、なんとか終わったぞ。いっぱい書いたので、お正月のひまなときにでも読んでください。

 

今年もいろいろあった。

まず、年のはじめに仕事に変化があった。書店の現場から現在の職場に移ったのである。ただ、それはふつうの異動ともちがった。会社はそのままだが、まるきりノウハウのない、他社と共同で行う新事業に、出向というのかなんというのか、相方ともども投入されたのである。なにはともあれこういうときまでぼくと相方をセットにしてくれる上層部のひとには感謝しかないが、ともかく心機一転、本にかかわるものではあるが、思考法からなにから根本的に異なる業務に携わるようになったのである。職場のメンバーは全員資格のある専門職で、最初はついていけるか心配でもあったが、おもったほどどうということでもなく、本に関しては問題なかった。問題なのは思考法のほうである。ここに、ぼく特有の不注意が重なり、夏ごろにはどでかいミスをついにやらかしてしまった。なんというのかな、いままでの書店でのミスよりは小さいのだけど、すべてが大きく評価されるというのか、なんでもおおごとになる業界なのである(その点についてはいまでは納得している)。あんまりくわしく書けないのだが、そのときはひどくメンタルをやられてしまった。しかも、じぶんのミスでへこむというのはいままでにないことでもあった。むろん、ぼくはこれまでの人生で数え切れないほど不注意ミスをしてきた人間である。大事な受験の願書を出し忘れ、これが最後のチャンスという後期試験では読書に熱中しすぎて電車を間違え、書店でもいろいろ致命的なことをやらかしてきた。だがそれらは、つきつめればぼくだけが困るだけのことであった。それに、書店でのミスというものは、多く環境によるミスというぶぶんがあったわけである。人手がたりないとか、サビ残だとか、上司の頭が悪いとか、要するにじぶん以外のところにも原因があるということを、じしんへの言い訳として用意することができたのだ。だが今回はそうではなかった。じぶんが完全に原因であり、かつ、他人に迷惑がかかる、こういう状況に、おそらく社会人になってはじめて遭遇したのである。こんなことはおそらく新卒社会人2年目以内くらいにふつうは経験していることなんだろう。だがぼくはふつうではない。よくとらえれば、40を前にしてようやくそういう経験ができたということになるだろうか。

得意な領域での事件ではないにしても、この件でぼくは徹底的に自信を喪失し、しばらくなにもできないし、人生初レベルでなにも考えられなくなってしまっていたが、ミニオンズが助けてくれた、というはなしはすでにしている。ほんとうに、ミニオンズ、特にボブには、命を救われたような感じすらある。ありがとうボブ。

 

 

 

 

職場はおおむねホワイトであり、これまででは考えられなかったようなことが次々に実現している。まず2連休がたまにある。相方との同じ休みの日が、特段希望を出さなくても自然に生じてくる。年末年始が大型連休である。そして給油極は、定時に帰れるということである。というか、厳密にいうと、定時に帰らなければならないという圧迫感がすごいのである。特に他社のひとは秒レベルの正確さで定時帰宅をしており、むかしみたいにちんたら残って仕事とかができない感じだ。たぶんそれでいいのだろう。個人的には、ふだんマルチタスク的な感度で動いているので、集中力を要する仕事をするときはサビ残だろうがなんだろうが残ってやりたいのだけど、それはそれで甘えなのだろう。とはいえ、前にもはなしをしたが、そうしてオンとオフをくっきりデジタルにわけるという生活のありかたがどうにもなじまない感じがある。なんというのかな、ぼくはただじぶんという存在を増大させるために仕事をしているようなところがあるので、日常の読書はすべて「勉強」だし、仕事も、そこまで意図的ではないにしても、その「勉強」がなめらかに接続するようなものを選んできたのである。だから、いまこうして詮無いことを延々書き綴るのも「訓練」であり、同時に思考力や文章力を高めて「仕事」に連続させる行為でもあるのだ。つまり、オンとオフが基本的にないのである。だから、書店など本に、また知性にかかわる限りサビ残は苦ではないのだが、そのあたりは少しずつ考えかたを変えていかなければとおもっている。

 

仕事以外で覚えている範囲でいうと、4月7日には東京ドームシティの刃牙展に行ってきた。

 

 

 

十年以上感想書いてる連載作品の原画展なんて、もちろんはじめてのことである。ひかえめにいって最高だった。原画の迫力ももちろんだけど、実物大ジャックとか花山とかの造形物の存在感も、いまでもかんたんに思い出すことができる。

 

 

 

 

 

 

夏には新型コロナウイルス陽性。10日間自宅療養になった。朝目覚めとともに「これは明らかに熱がある」と感じられるあの感覚になり、計ると38度超、こりゃやっちゃったかと職場に休みの報告、病院を探すことになった。しだいに熱はあがり、39度くらいにまでなったが、なかなか病院が見つからない。保健所は電話がつながらず、ネット予約の発熱外来をみてもどこもいっぱい、え、これ病院見つかるまでこの熱でずっと起きてなきゃいけないの?と絶望したが、たまたま何度目かに見た病院にキャンセルが出たようで、さっきまで×がついていたところが○になっているのを発見、無事診てもらえたのだった。調べるまでもなく陽性、自宅療養が決定した旨職場に電話、大量の飲み物と食事を買って帰宅した。しかし熱は翌日午後にはほぼ落ち着き、あとは身動きのとれないフリータイムだけが残ることになった。とはいえ、残り1週間ほど動けない時間があるといっても、同じだけ休みがあったなら同様にして家でじっとしている可能性の高いぼくであるから、なんでもなさそうにおもわれる。だが、問題はたぶんそういうことではないのである。1週間休みがあって、たとえば相方の存在がなかったら、たぶんぼくはふつうに家でずっと読書映画筋トレゲームなんだろう。だが、それとこれとはちがうのである。というのは、自宅療養は「外に出なくていい」ではなく、「外に出てはいけない」だからである。選択が制限されたうえでのことなのだ。そこに、微量のストレスは当然加わることにはなる。

その期間をどうしていたかというと、相方と会えないので、ニンテンドースウィッチのヒューマンフォールフラットをオンラインでいっしょにやったりもしたが、彼女には仕事がある。その日中には、いままでどおりのルーティンを強度を上げて行いつつ、高校数学をやっていた。ぼくはもとは数学科にいた理系である。まともに授業には出ないまま中退してしまったので、大学数学についてはほとんど学んでいないが(線形代数だけはなぜか異様にできた)、いちおう、数学は「持ち味」のひとつといっていいのではないかとおもう。もちろんそれは、いまの職場が文系のひとばかりだからこそおもうことでもある。こういうところに理系の思考法があってもいいのではないかな、ということはうっすらおもっていて、それと同時に、なにもかも忘れてしまった、かつては得意だった高校数学をやりなおし、なんなら大学数学にも進んでみようと、こういうふうに考えたのである。統計学などやるにも数学は使うし、きっと意味はあると。

やってみてはじめて、「なにもかも忘れている」がレトリックにならないということを理解し、愕然とした。マジでなんにも覚えてないのである。とりあえず積分をやりなおしたいと考えて、大学への数学の「1対1対応の演習」シリーズの数Ⅲ、微積分のやつを買ってはじめたのだけど、もう、ぜんぜんついていけない。大学への数学このシリーズはポイントをしぼって構成された便利本なので、すでにやっているはずの公式とかは解説もなくぼんぼん使われる、となるとそこでまたわからないところが出てきて、動画など見て確認する・・・みたいなことをずっとくりかえしていたのである。だから最初は極限からじっくりやりなおしたが、あれは、楽しさはあったけど、たいへんな日々だった・・・。数学の習慣はルーティンとまではなっていないが休みの日にはすすめるようにしており、極限と微分だけは終わらせた。そこで大学数学の線形代数の本も手に入れてあったのを読んでみたが、やはりちんぷんかんぷんだったので、今度は数Bのものを買って、ベクトルをやりなおしているところである。ベクトルは数学のなかではいちばん好きだったので、わりとぽんぽん進んでいる。

 

 

 

 

 

それから、この数学をはじめる前だったか後だったか覚えていないが、関連してYoutubeの学習系チャンネルを延々と見たりもしていた。数学の基本的なことに関してつまずいたときには、家庭教師のトライの映像授業、トライイットを参照した。で、このチャンネルが数学に限らないあらゆる科目の授業を配信しているとわかり、世界史とか地理とか、これまでスルーしてきた感じのやつをメインに、数学や読書に疲れたときに観るようにしていた。コロナで動けないひとにはとりあえずおすすめです。

 

基本的に休みには映画を観にいっていたので、お出かけ的なことは刃牙展以外特にないまま過ごしてきたが、12月には銀座と鎌倉に出かけた。15日、JUNK FOOD OPERAのクオッカちゃんの展示を観に銀座ロフトへ。展示といっても、フロアの片隅を借りた小さなものだが、目当てはグッズである。ぼくもかわいいポーチとかたくさん買った。

銀座に行くのはおそらく人生ではじめてとおもわれたので、そうとうに疲れるだろうなと覚悟していたのだが、調べてみたら位置的にはほとんど有楽町と変わらず、ということは東京宝塚劇場に行くのと同じだった。となれば土地の風土というか、そこにいるひとたちの雰囲気も大差ないということである。正直言って渋谷とかのほうがぜんぜん疲れるし、むしろ銀座は居心地がいいように感じた。たぶん、大人の街ということなのだろう。帰りに三省堂をのぞくために入った東京交通会館は、昭和の残り香に胸がキュンとする、たいへん美しい建物だった。子どものころ乗ったフェリーの内装みたいな床の模様やフロア案内、お店の看板のフォントや階段の設計の感じなど、初めてきたのにすべてが懐かしかった。また行きたい。

そして、つい先日のはなしだが、29日には鎌倉にいって、鶴岡八幡宮と鎌倉大仏を拝んできた。詳細は記事へ。

 

 

 

 

 

こうしたわけで、年半ばに大型のやらかしとコロナがあったものの、だいたいのところ健全で、実りある1年となったとおもう。来年はさらに「モノを知らない」を脱し、持ち味を生かしつつ、不注意を減らしていきたい。映画もたくさん観るぞ! みなさんも1年間お疲れさまでした。よいお年をお迎えくださいませ。

 

 

 

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今年は藤田祐樹『ハトはなぜ首を振って歩くのか』から宇野千代『雨の音』まで17冊の本を読んだ。去年が22冊、病みに病みまくってまったく本が読めなかった2019年の15冊とほぼ同じになった。

しかしとはいえ今年はいろいろ手応えを感じられもした。まず、この17冊には英語の本が含まれている。『Eleanor&Park』である。3年くらい時間をかけているし、そもそもYAあつかいの易しい英語なので、とりたてていうようなこともないのだが、紙にせよ電子にせよ、これまでは洋書を買ってもぜんぜん読みきれなかったのだ。調べたら2011年の不思議の国のアリス以来である。

それから、去年と同じく、電子書籍で青空文庫もたくさん読んできた。明治時代の短めの小説や随筆がメインで、物語不足はここで補うことができた。去年は通勤時間がけっこうあったので、そこで電子での読書が習慣づき、今年は勤務先が家に近くなったぶん通勤時間が短くなり、以前より読まなくなったものの、その習慣は生きていたという感じである。

青空文庫に限らず、電子での読書をけっこうしてきたなという印象もある。ここでいう青空文庫は、キンドルで読んできた。それと並行して、おもに安売りなどのタイミングを狙って、いろいろ買いだめもしているのだ。ぼくのものを知らない問題に対応するためにビジネス書的なものにも食指を動かしてきたが、振り返ってみるとちゃんと読みきったものは『サクッとわかるビジネス教養 地政学』だけか。この手のものはバカにされがちだが、ともかく一般常識、一般教養的なものに欠ける人間なので、いろいろなことを網羅的に学びたかったのである。最後に読んだことになる『雨の音』も、講談社のセールで手に入れた電子書籍だった(講談社の学術や文芸はときどきこういう、どうかしてるとしかおもえないセールをアマゾンで行うので、注意してみているといいですよ)。宇野千代は中毒性の高い文体で、いつかしっかり読みたいとおもっていたので、衝動買いしたのである。ほかにもたくさん買ったのだが、まだぜんぜん読めてない。本田済『易学 成立と展開』は、おもしろいのだけど、電子で買うべきではなかったと後悔している。八卦や六爻など、表を見て理解しなければならないものが、紙ならばすぐに到達できる表のページを、電子では探し出すのにかなり手間がかかるのである。おもしろいのになあ・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

今年最大の達成は、映画の記事にも少し書いたが、「読んだけど記事を書かない」ができた、できただけでなく、習慣レベルに落とし込むことができたということである。

あちこちでくりかえし書いてきたように、ぼくはそもそもこのブログを訓練のために開設した。ひとつには、書いたものに自信がなくともとにかく公開する、誰でも読むことのできる場所に置く、そうすることで、当時欠けていた(と自己分析した)文章の緊張感を得ようとしたのである。また、職業的な文章力をつけるために、「読んだものについて必ず文章にする」ということも実行してきた。おもしろかったのかつまらなかったのか、そういう電気刺激的な、感情の痙攣みたいなことは、この文脈ではどうでもよかった。もしそれがつまらなかったり理解できなかったりしたら、むしろ腕が鳴る、そのくらいになりたいと考えたわけである。そしてそれは、予想した以上の効果をあげたとおもう。まあ、その「効果」のほどは読者のみなさんが判断することなので、あまり言及しないが、意味はあった。そして、ぼくにはよくあることで、そうして極端に走った結果、期待していない効果も呼び込むことになった。もともと読むのが遅かったぼくが、もはや読書家とは名乗れないほどの読書量になってしまったのである。書いた本人が読むかもしれない、その作品の専門家が読むかもしれない、そういう緊張感を求めて書いているのだから、当然精読することになる。てきとうなことは書けないからだ。しかしそのぼくが求めた緊張感と読書量は反比例することになったというわけである。かくして、いつしかぼくは、「読んだけど書かない」を実行しなければ、と願うようになった。だが、それはなかなか実現しなかった。いいことなのかわるいことなのか、いつのまにかどうしても書かずにおれず、そのままにしておくと気持ち悪くてしかたない、そういうふうになってしまっていたのである。

だが今年はそれがナチュラルにできた。たぶん電子書籍の読み捨てのような感覚が根付いたおかげだろう。読み終えてすぐそれを忘れるということが、自然にできるようになったのである。じっさい、読んでからなにも書かなかったものは電子が多い。『雨の音』や地政学の本もそうだ。ほかには、高橋昌一郎監修の『認知バイアス事典』や、カール・シュミットの『陸と海』などが該当する。この『認知バイアス事典』なんかはめちゃくちゃおもしろくておすすめなんだけど、たんにおすすめするだけなら、書評の体裁で構える必要もなく、いまそうしているように、おすすめですといえば済むことでもある。必要ならそういうライトな記事をどんどん立てるようにしていけばよいのである。(ちなみに認知バイアス事典は第二弾も出ており、既に購入済み)

 

 

 

 

 

 

 

 

読書には乱読と精読の時期がそれぞれに必要だというのが持論だ。特に若いころ、二十歳くらいまでは、わけもわからずたくさん読んでいることが望ましい。じぶんがいままで読み損ねているから例に出すのだが、『カラマーゾフの兄弟』を高校生が完全に理解する必要なんてない。しかし、とりあえず読んでおく。わからないところは飛ばす、そういう時期が最初に必要なのだ。それが、精読の体力を育む。そしてやってきた精読の時期に、思考力や文章力、分析力を高めていく。が、このはなしでいえば、きっとある段階で躓きがやってくるのである。それがおそらくいまなのだ。これからしばらくは乱読の時代をすごしたいとおもう。といっても、読むのが遅いのは変わらないとおもうが。

 

「ものを知らない問題」に関して言えば、出口汪『早わかり文学史』や丸谷才一『日本文学史早わかり』などがよかった。出口先生のほうは明治以降の近代をあつかった受験生向けの本だが、読み物としてのおもしろさもじゅうぶんである。特に森鷗外について熱い口調がすばらしかった。丸谷才一は題名がもたらす印象からははるかに遠い、ふつうに文芸批評な作品だったが、これもおもしろかった。

 

通勤時の読書ではネットで読める論文や論説を拾って、キンドルや、なんだかわからないがスマホの「ブック」という機能に収めて読むようなこともかなりやっていた。読んだら消しちゃうけど、覚えている範囲では、藤井一亮「公民教育研究」、岡成玄太「裁判官の私知利用の禁止」、渡辺千原「法を支える事実」などを読んだ。私知利用と立法事実のはなしは興味として連続しており、来年も引き続き(通勤時に)研究していく。

 

さて、小説と評論、それぞれに今年いちのものを毎年決めているわけで、2022年はどうしようかというと、小説は白井智之『人間の顔は食べづらい』、評論では風間賢二『怪異猟奇ミステリー全史』ということにする。白井智之は今年唯一の「発見」だったかもしれない。もともとは、飴村行の粘膜シリーズに終わりが見えてきて、それがさびしくて探し出した悪趣味作家である。これでしばらくは大丈夫そう。そしてその白井智之をそもそも紹介してくれたのが『怪異猟奇ミステリー全史』だったというわけである。もともとは、地政学や文学史の本同様、広い知識を身につけるために手に取ったはずである。ミステリはどちらかといえば得意な分野だが、こういう人間なので、すべての知識がふわっとしている。そこで、得意ならもっとその強度をあげようとしたわけだが、そんな次元の本ではなかった。博覧強記の風間先生が怪奇系ミステリを中心に文学史を語りつくす、知的興奮不可避のとてつもない一冊である。本が好きなひとはぜったいに読んでください。

 

 

 

 

 

 

 

 

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記事を立てるほど読んでいないのだが、毎年やってることなので。

今年は『GIGANT』10巻から『HUNTER×HUNTER』37巻まで、ぜんぶで47冊の漫画を読んだ。去年が83冊。

書店でコミックを担当していたころは、もともとがあまり漫画を読んでこなかった人生であったため、遅れを取り戻そうとするように、年間400冊近くの漫画を読んでいた。なにごとも似たようなことになりがちだが、極端なふるまいは、効果としてよいものとわるいものを同時的にもたらすものである。これくらい読めば、それは当然漫画リテラシーみたいなものはついていく。現状九条や刃牙感想などで、文芸批評的なもの以外の、いかにもな漫画読解的な着眼は、このころの経験に足場があることは疑いない。だって、ドラゴンボールとか幽遊白書時代のジャンプ作品、それにちびまる子ちゃんレベルの国民的作品を除くと、それまではぜんぜん読んでなかったんだから。だが、こんな勢いで増殖する漫画を整理整頓して保持するなんてことはぼくにはとうてい不可能なのである。経済事情も深刻だった。漫画は、基本続いていくものだから、ある作品を一冊読み始めるということは、そこから2〜5巻、長い場合50巻とか、買うことになる(かもしれない)覚悟を決めるということなのである。

そうしたわけで、コミック担当を離れてからは、読む漫画を減らす努力をしてきたのだ。新刊の継続購入を断った作品もいくつもある。いまではそれを後悔してる作品もあるが、あのとき、つまりコミック担当を離れたときというのは、店が閉店になったときで、まったく納得いってなかったぶん、いささかヤケになってそういう行動に出てしまったのである。まさかそのあとすぐ別の会社で再び書店員になるとは想像できなかったのだ。


さて、この47冊というのは、適量なのだろうか。月4冊程度なわけで、常識的な数にも見える。だが、いまの書店所属で書店から離れている状況もあるのだろうが、正直「美的感覚が硬直、もしくは老いている」という感じは否定できない。今年もネトフリやアマプラでアニメをたくさん見てきたが、たとえばチェンソーマンにはまるわけである。で、グッズを探して相方とアニメイト的なところにいく。すると、チェンソーマン以外のアニメをひとつも知らない、なんなら区別もつかないという状態であることに気がつくのである。いまはわりと保守的なひとたちのなかにいるのでよけい見えにくくもなるが、フレッシュな表現方法はフレッシュな世界の見え方である。本にかかわるものはここを死守しないといけない。だとしたらこれはちょっとまずいなとはおもうわけである。


読書メーターで既読本を振り返っても、今年はまったく新しい漫画に進んでいない。今年始まり、残念ながら今年終わった、押切蓮介『ジーニアース』と、ぼくの現在の仕事にかなり近いものを描いた、ずいの先生原作『税金で買った本』くらいだ。しかし、押切先生は前から大ファンだし、『税金で買った本』はぼくには実質共感本、記憶再体験本で、未知ではない(どちらもおもしろいしおすすめだが)。来年はもう少しこう、店頭で1巻を、読んだことのない作家、できたら新人の1巻を衝動買いしたいかなあとおもう。






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いつものことなので、まず各部位の数字を残しておく。括弧内が去年のもの、数字がふたつあるものは左側が左。

 

 

身長  173

体重  67(66)

首   39(38.5)

上腕  35(34) 35(33.5)

前腕  28(26.5) 29.5(30)

胸囲  106(104)

肩周り 113(117)

腹囲  75(75)

臀部  91(94)

大腿  54(54) 52(52)

下腿  37(37) 37(37)

 

 

下半身のなんという、悪い意味での安定感だろう・・・。まあ、正直去年も今年もスクワットあんまりやってないからな。ふつうに生きてて適度に運動してたらこの大きさだってことだろう。

“肩周り”では脇をとじた状態で三角筋側部のいちばん厚いところに高さをあわせて水平に周囲の長さを測っている。これでなにがわかるか、じぶんでもわからないが、肩トレが大好きな人間なのに大きさがわからないのが毎年悲しくて、去年から計り始めたのだ。が、正直いってしっかり計測できているものかよくわからない。胸囲との差が7センチしかないってなんかおかしいだろ。しかも去年より小さくなってる・・・。なんかまちがってるかもしれない。

気になるのは上腕かなあ。去年よりはマシになってるけど、それは一年前がひどかったからだ。35センチくらいがいままでの人生の平均値なのである。しかも、今年はプルアップを本格的にはじめて、見てわかるくらい腕が太くなっているので、これも正直よくわからない。ここまでよくわからないんじゃ、計ってる意味もないが、まあそんなに厳密なことでもない、来年のモチベーションになればいいかなというものなので、こんな感じでいいのかもしれない。それから、上腕が太くなったといっても、輪切りにしたときいちばん太いところに効率よく筋肉が積もるということもない。上腕の太さは二頭筋だけではなく三頭筋も関係している。腕はたしかに太くなっているのだが、同じ箇所(計測位置が二頭筋がいちばん盛り上がっているところ)の三頭筋が発達しているわけではないということだろう。

 

だが正直今年は数値のことはどうでもいい。ほんらいであれば数字につながっているはずの事態であるが、どうでもいい。今年はプランシェを実現することができたのだ。調べたら8年前に(2014年3月)にぼくはこの技のことを知ったようである。まだプリズナートレーニングもはじめていなかったころのことで、胸トレにかんして腕立て伏せでは物足りなさを感じるようになっており、足を浮かせればさらに負荷が増すのでは?と考えて調べたらじっさいにそういう技がある、と知ったのがきっかけである。その後ポール・ウェイドやアル・カヴァドロなどと出会い、胸トレへの物足りなさは幻想だったことをよく理解したが、それとは別にプランシェは大きな目標として存在し続けたのである。なにしろ肩トレが好きなので、三角筋前部の自重技としては最高峰に位置するプランシェは、非常に魅力的だったわけである。難度が高いのはまちがいなく、ひとによって教えかたも、到達までの道のりもぜんぜんちがうので、動画や本もあまり参考にならない。安全面だけ先達に学び、あとはじぶんで工夫していくしかない感じだった。

とはいえ、最後に加速をかけてくれたのはカヴァドロ兄弟の『ストリート・ワークアウト』だったことはまちがいない。『プリズナー・トレーニング』のポール・ウェイドは、どちらかといえばビッグ6(プッシュアップ、プルアップ、レッグレイズ、ブリッジ、スクワット、ハンドスタンドプッシュアップ)だけやっていればいい、そこの究極を目指していればじゅうぶんだ、という教師であり、極端な離れ業については、なにもいわないけどいい顔をしない、といったタイプだった。じぶんもやるし、やってもいいけど、そんなことより片手プッシュアップをゆっくり深く100回できるようになれよ、といった姿勢なわけである。たほうで、ポール・ウェイドの盟友であり、ストリート・ワークアウトで一時代を築いたといっても過言ではないカヴァドロ兄弟は、もっといろいろなことに挑戦していく。その彼らがついに出版した筋トレ百科には、プランシェをはじめバックレバーやフロントレバー、ヒューマンフラッグのようなスタティックな技についてたくさん書かれていたのだ。自重トレの原則は漸進的に難度をあげていくところにあり、カヴァドロ兄弟もその鉄則のもと、タック・プランシェやストラドル・プランシェ、スコーピオン・プランシェなどの易しめの種目を紹介していたのである。これは、発想面でもモチベーション面でもぼくには大きかった。とりわけスコーピオンができることに気がついてからは、あとは足の位置をどう調整していくかという技術面、体重の配分に集中することができ、伸びも速かった。かくして、秋くらいだったかな、ぼくは完全に腕と足を伸ばした状態のプランシェ保持を達成することができたのである。

ここまで書いておいてなにだが、この「保持」が、実をいうとせいぜい5秒というところである。できない日も多い。からだがあったまっていなくていきなり失敗することもあるし、あっためすぎるとパワーが不足する。リストやショパンなどの非常に難しい練習曲のようだ。というわけなので、ほんとうのことをいえば、いまようやく「プランシェの練習」ができるようになったというところであり、やるべきことはまだたくさんある。スコーピオン(反った状態)でなおかつ足を開いていれば、2~3回プッシュアップもできるようだが、まだぜんぜんふらふらだ。ともあれ、新しいトレーニングの道がようやく開通したことはまちがいない。

 

 

 

 

 

 

それからプルアップである。長いあいだ、ぼくは背中のトレーニングにつまずいており、不本意ながら水のタンクなどをつかってローを行ってごまかしてきた。プルアップは自重トレーニーでなくても積極的に行うべき種目だが、そのための高い鉄棒が、周囲になかったのである。いや、厳密にいうと、少し歩けば、高い鉄棒はあった。だがぼくは、ただコンビニにいくだけでしょっちゅう職質される人間である。ぼくの地区は、暴走族が公園にたまっていると通報してもぜんぜんきてくれないが(ほんとうに来ない)、仕事帰りの明らかなカタギには積極的に職質をしていく(いいところを見せたいのか、若い女の子が新人として入ったばかりの4月とかだと特に)というアウトロースタイルの国家権力がしきっているので、冗談抜きで職質されまくるのである。とはいえ、深夜に出歩くのが悪いのだろうといわれたら、一理あるかもしれないとはおもわれる。というわけで、深夜にちょっと歩いて鉄棒に行ってプルアップをして帰ってくるというかんたんなことが、どうしても実行できなかったのだ。それが、ふとしたとき、去年の暮れくらいだったかな、もっと近所のふつうの鉄棒で、足を前に伸ばした状態で行うLプルアップをやればいいのではないかということを発見したのである。やってみてわかったが、そこの公園は夕方でもほとんどひとが通りかからない。そして、仮におせっかいな自警団みたいなひとが「公園で不審な男が懸垂してる・・・!」と通報したとしても、トレーニング時間はせいぜい10分、職質ごっこが趣味のアウトローが到着するころにはぼくはもういないのである。

Lプルアップは腹筋を収縮した状態で行い、バランスをとりにくいぶぶんもあるので、難度は高くなるが、いままでまともにできなかった背中のトレーニングがこれでできるのだから、そんなことはもうどうでもいいのである。はじめるなりいきなりできたので、もともと腹筋や背筋はそれなりに備わってはいたようである。そこからさらに、Lプルアップをアンダーハンドとオーバーハンドでつかいわけたり、鉄棒を肩に背負うように行うコマンドープルや、深度は浅くなるが、首のうしろにバーをまわしてみたり、いまは5~6種目くらいを、そのときの気分や状態、筋肉痛の状況などによってつかいわけて、やはり10分くらいやっている。また、インターバルは時間がもったいないし、鉄棒の前になにもせず立ってハアハアはたしかに通報案件かもしれないので、なるべく避けるため、スーパーセットでディップスやボディウェイト・エクステンションを行っている。ボディウェイト・エクステンションとはここでは三頭筋のトレーニングで、要はフレンチプルを自重で行うものだ。プルアップは背中だけではなく上腕二頭筋にも強く働きかける。特に、アンダーハンドのLプルアップとコマンドープルは、ぼくは背中ではなく腕の種目ととらえている。だから「鉄棒の日」は、背中と腕の2種類にわかれることになる。そこで、鉄棒の、背中の日は、スーパーセットでディップスをメインにし、腕の日はボディウェイド・エクステンションを行う、というふうにコントロールしている。

文面からも伝わるとおもうが、この「公園トレ」ができるようになってからは非常にトレーニングが充実している。プルアップだけではない、ディップスも、これまで椅子などつかっていたものが、より胸に届きやすい水平バーでできるようになったのだ。じっさい、やはり数字に出ていないのが残念だが、明らかに大胸筋が大きくなった。そのボディウェイト・エクステンションにしてもバーがなくては不可能だ。まだその段階ではないが、鉄棒さえあれば、バックレバーやフロントレバーにさえ挑戦できるのである。ぼくはほかに「プランシェ・ハンドスタンドの日」と「片手プッシュアップの日」を抱えているが、正直この胸と腕をスーパーセットとして組み込んだ2種類の「鉄棒の日」があれば、上体はじゅうぶんなのである。当然グリップも鍛えられる。

この経験を通じて目に見えて巨大になったのは上腕二頭筋である。ジム通いのトレーニーで、もしカールに飽きてきたようなら、とりあえずアンダーハンドのプルアップとコマンドープルをおすすめしたい。アンダーハンドはどちらかといえば短頭、コマンドーは長頭に届きやすい。

 

こういう感じで、1週間のうちに「プランシェ・ハンドスタンドの日」「片手プッシュアップの日」「背中胸メイン鉄棒の日」「腕メイン鉄棒の日」が入った結果、スクワットやブリッジはかなりおろそかになってしまっているのが現状だ。腹筋は、Lプルアップでかなり使うのでいいとしても、スクワットは、カップ麺ができるのを待つあいだフルスクワットをやったりとか、あとは3週間に1回思い出してしっかりやるような感じになってしまっている。その人間の筋トレのすべては脚に出る。脚の筋肉は、腕や胸ほど周囲に見えないし、じぶんでも年中確認するようなところではない。だからつい後回しになりがちで、しかも片足でやるようになればキツさもひとしおである。来年はこのあたりの精神的弱さも克服していきたい。

 

 

 

 

 

 

 

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もう2022年も終わろうとする12月29日、鎌倉に出かけて鶴岡八幡宮と高徳院鎌倉大仏を見物してきた。







今年は仕事が変わり、年末年始に前代未聞の連休がある。「仕事納め」がある仕事なのだ。無職期間や感染症系を除くと、この規模の自由時間は大学生以来かもしれない。相方も同様である。さてどうするというところで鎌倉を提案し、翌日に即行ったわけである。なんでいま鎌倉に行こうと思ったのかじぶんでもよくわからないが、寺社教会に、なんとなしにふらっと行ってみたいような感覚は実は30過ぎたころからあった。しかし忙しさ、というか日々のせわしなさもあって、具体化することはなかった。それが戸惑うほどの1週間もの連休を受けて思い出されたのかもしれない。


まったくのノープランで出発したので、順路も決めず、そもそも鶴岡八幡宮は誰が建立したのかとかもわからず、鎌倉大仏が釈迦ではなく阿弥陀如来だということも知らないままいきなり鎌倉に降りたったわけだが、これはこれでおもしろかった。『ウルトラ怪獣散歩』という、東京03が声をあてて、メフィラス星人をメインに3人の怪獣が名所をゆく番組がかつてあって、DVDも何枚か持っており、なかに鎌倉編があったので、それを前日に見たのみである。しかもこのシリーズは、ガチなのかギャグなのか、怪獣だからという理由で神社仏閣の撮影許可がおりないということが頻繁にあり、鎌倉は鶴岡八幡宮も大仏もNGということだったので、実質なにもみていないも同然である。(それはそれとして、ウルトラ怪獣散歩はめちゃくちゃおもしろいのでおすすめです)





とはいえ、怪獣散歩でなんとなしに景色を見ておいたのはよかった。番組では工事中だった若宮大路を通り、遠くに鶴岡八幡宮が見えたときは感動した。神社はやっぱり初詣でみんないくだろうから、案外すいてたりとかしないかな、などと考えていたが、そんなことはなく、ふつうに混んでいた、が、たぶんこんなもんじゃないんだろうな。幼い頃の家族旅行や修学旅行以来の寺社見物で、勝手がわからなすぎてかなりむだな動きが多かったとおもうが、楽しかった。鳩のおみくじでは大吉も出たよ。

お守りやなんかをわさわさ買って、写真撮って、などとしていたら次第に暗くなってきて(出発が昼過ぎだった)、大仏が見えなくなってはいけないから、江ノ電に乗って長谷に向かうことにしたが、結局このとき、あとでわかったが、ほかにもあったらしいお堂の数々を見逃してしまった。鶴岡八幡宮は単独の目的で行くか午前中から動いていないとじゅうぶんには堪能できませんね。





大仏にはほんとうに圧倒され、感動した。と同時に、不思議な感覚もあった。なにか筋肉がほぐされるような感じがしたのだ。それでぼくは、そもそもなぜ、30過ぎくらいからときどき神社仏閣を求めていたのかわかった気がした。非常に絶大な存在、手持ちのものさしでの計測をそもそも試みようとすらしないような超越、こういうものに身を委ねたいと感じていたのだ。だから、穏やかな顔貌の、しかし巨大な大仏の包容力を受けて、ぼくはまず弛緩し、カタルシスを覚えたのだ。競争社会に生きるような仕事人間ではないにしても、ぼくはぼくなりに、昨日より強く賢くあろうとはしているわけである。ロック様の圧倒的な上腕を見れば、腕トレ頑張っちゃうし、切れ味のいい批評を読んだら、こんなのが書けたらと感じる。だが神仏にそうしたロールモデル的なものやライバル意識をもつということはないわけである。知らず知らず、ぼくらは日常のなかでじぶんを相対化し、鼓舞されたり自信喪失したりしている。だが大仏の前でそういう感情はなくなる。一時的に世界と休戦することになるのである。

(関係ないはなしだが、この「昨日より強く賢く」の成長モデルっていかにもバブル期の右肩上がりの会社像が反映されてるっぽく、なるほど、だからばりばり働くベンチャーの社長とかは筋トレ好きなのかな、とか思ったのだが、じゃあ株式会社が出現する前の「成長」の感覚ってどうだったのかな、みたいなことも思った。たとえば武芸の上達という概念はあったろうけど、たぶん現代人が「成長」とくちにするのとはちがうよな)


じつは長谷寺と建長寺も行きたかったのだが、行きたかったことをまったく思い出さなかったし、暗くなってしまったので、今日はこれで帰ってきた。屋内の観音菩薩とかももっとゆっくりみたい。思っていたより鎌倉はぜんぜん近いということも今回判明したし、相方も鎌倉を好きになってくれたので、またすぐ、すいてそうな時期に行ってみたい。







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