今週の九条の大罪/第65審 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第65審/至高の検事①

 

 

 

 

これ以上反社とかかわるようなら九条とはもういれない、と宣言し、じっさいに離れた烏丸。いまは九条の師匠のひとりでもあった流木のところに身を寄せているようである。

流木は烏丸の浮かない表情を心配するが、別になにか思い悩んでこうなっているわけではなく、いつもこういう顔である。とはいえ、悩みがないわけでもない。先日山城に話しかけられて九条が危うい立場になるかもしれないといわれたことを烏丸は説明する。壬生から詐欺師への、4000万の恐喝に加担した可能性があると。ちょっと勘違いしていたのだけど、九条と壬生が訴えられるかもしれないといわれていたのは、数馬ではなく智慧光院だったということかな。でも第62審で山城は「数馬さんが警察に相談すれば」といっているが、これも「この件を表に出せば」くらいの意味なのかもしれない。数馬はたぶんもう出てこないし・・・わからないが、智慧光院は名前の表示のしかたがいかにも準レギュラーだったので、これからやっかいな関係性を築いていくのかもしれない。

ともかく起訴されたらコトで、弁護士会退会ということにもなるかもしれない。流木はなんだかのんびりした調子ではなしを聴いている。そして烏丸に、九条は悪か善かと問う。今回の主題に直結する場面だ。それが烏丸にはわからない、だから流木のところにきたのかもしれないと烏丸は自己分析、「至高の検事」がいたらパクられるんじゃないかというのだった。

 

もちろん検事といえば九条の兄、鞍馬蔵人である。鞍馬家では劣等生でもあった九条は、身内のトラブルを事前に避けてか、元奥さんの名前で弁護士をしている。鞍馬家は父親も優れた弁護士で、流木や山城と同世代、蔵人は「鞍馬」の名前に誇りをもっており、学業で劣り、弁護士になってからも反社とつきあっているような弟を嫌悪している。

蔵人の上司は宇治信直検事部長という「検事」をそのまま人間にしたような人物である。裁判を終えたばかりのようで、蔵人は宇治の仮設の組み立てを讃えている。自己保身ばかり考える検事が増えてきたとするいっぽうで、じぶんたちは「正義」に身を捧げようとする、蔵人の上司という感じの男だ。彼も蔵人には期待している。小野という同僚がヤメ検(検事をやめて弁護士になること)になるというはなしで、蔵人は「弁護士は嫌いです」とはっきりいう。それは司法制度の全否定につながるし、なんかおかしいだろという気がするが、もちろん蔵人は弟のことを思い浮かべているのだ。

 

クラブでもめごとだ。じぶんの女にちょっかい出したということで、輩が2人組みにからんでいる。このいっぽうは、最初の交通事故の事件のときにでてきた森田という男だ。森田はクラブのオーナーでもある壬生の名前を出して輩を追っ払い、なにか薬物を含んで夜通し遊んで、最後には立て看板を破壊して道路で力尽きた。これを嵐山が回収、薬物の陽性反応とあわせて詰める。いつも通り森田はカンモクパイするつもりっぽいが、交通事故のときにはなくしたといっていた、ずいぶん使い込まれたスマホが出てきたことを問われ、ベッドのしたから出てきたと応える。嵐山のほんとうの目的は壬生であり九条だ。量刑を軽くしてやるから協力しろというはなしだ。

 

ブラックサンダーと外出中の九条のもとにさっそく壬生から電話。後輩、おそらく森田の件で、いつもの「お願い」である。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

烏丸、蔵人、嵐山という最重要人物たちが集結しており、まるで最終章のおもむきである。ひょっとして『九条の大罪』は、そんなに長く連載されないのかな。ウシジマくんがあんなに長かったから、てっきりそのくらいの感覚で続くものとおもっていたけど、そうでもないのかも。

 

久々に九条の兄・鞍馬蔵人が登場した。

蔵人は検事として優秀で、弁護士の九条と対立するばかりでなく、法律家としてのものの考えかたも非常に異なっている人物である。

どう異なっているかというのは、彼が登場した第10審の九条のセリフにすべてあらわれている。

 

 

 

「あなたには見えなくて

 

私には見えているものがある」

 

 

むろん、この言い回しは九条に向けても成り立つものだろう。蔵人が見ているものと九条が見ているものは異なっている。ただ、客層が異様ではあっても、九条もいちおう司法試験を受けて弁護士として、法律家としての思考法を身につけた人物だ。そのうえでこの言い回しは、ある種の達観を示唆するものと考えられる。それはなにかというと、今回蔵人と宇治の会話でも見られた「善悪」というものへの態度の違いにあらわれる。そしてこれは、『星の王子さま』の有名なあのセリフ、「大切なものほど目に見えない」というものを想起させる言い回しでもある。そういうわけで、ぼくはこれを手がかりにこれまで蔵人のことをとらえてきた。

 

 

 

 

 

 

星の王子さまがこのことばで示すものは、大人がその社会生活の結果身につけた常識とか論理性とか、そういうものを経由してみる世界は、ある種のフィルターを経た世界の似姿であり、真実ではないということだった。ぼくはここでの「常識」を、端的に「言語」と受け取ってきた。この「言語」はソシュール的な意味においてである。ソシュールは「価値」という考えかたを導入することで、カタログ的な性質から言語を解放した構造主義の父である。聖書が示すのは、まずものや生き物が存在し、そのうえでわたしたちがそれに命名するという物語である。「犬」という生物は、わたしたちが「犬」と命名する前から存在しており、それを受け取ってわたしたちは「犬」という語をほどこす。しかしソシュールはそうではないという。目前には現状犬でもあり狼でもありタヌキでもあるような生物がうろうろしている。そしてあるとき、わたしたちはそこに「犬」や「狼」という語で世界を区切るようになる。真っ白な砂浜に網をかぶせて、区切られた領域をその語の担当区域とするのである。この範囲を「価値」という。言語とは「世界」という空間にみっちりすきまなくつめこまれた風船の集合なのだ。わたしたちが「犬」と呼ぶまで「犬」は存在しない。少なくとも人間が言語的に世界を認識する思考様式のなかには存在しなかった。エスキモーの言語には「雪」に該当する単語がない。雪が、わたしたちにとっての背景をなす認識できないなにものかであり、「雪」がもたらす現象には名前をつける意味があっても、それをとりだして価値をほどこす意味がないからである。

こういうふうに、わたしたちは年齢とともに言語による世界の分節法を身につけていく。言語は論理的思考に欠かすことのできないものだ。もちろん「善悪」もことばである。人類の存在しない宇宙空間に「ひとからものを奪うのは“悪”だ」というような観念はありえない。蔵人の思考法はこの意味で徹底的に言語的なものである。法律は言語で表現されるものなのであるから、それも当然のはなしだ。だが、その思考法もあるところまですすむと融通さを欠くことになる。星の王子さまが指摘するのは、そうした言語的思考がうわばみの飲み込んだ象の姿を見抜くことがなく、かたくなにそれを帽子だと主張し続ける愚かさなのだ。そのいっぽうで、九条はうわばみのなかに象を透視することができる。「善悪」のものさしを金科玉条としないことで彼が身につけたのが、この「大切なもの」を見抜く能力なのである。

とはいえ、法律はどうあれ「文章」で構成されているものであり、情念に支配されるものではない。九条は感情で動く人間ではないが、蔵人からしたら同じことだろう。法律的にいっても、善なのか悪なのか微妙な状況というものはある。だが言語的な思考が導くのは、善と悪のあいだに「微妙な状況」があるのだとしても、そこに第三の層である「微妙な状況」というクリアな物語だけである。九条がいっているのは、そのように言語で指差すことのできないものを、じぶんは見ることができるということなのだ。

 

まだ描写の少ない蔵人だが、鞍馬の、つまり父の名、要するに家系を非常に重視しているらしいということはどうもあるようだ。だから、成績的にはふるわなかった九条が気に入らない。ばかにしているとかいう以前に、そんなものが鞍馬家のものとして存在していることが許しがたいのである。九条が劣等生だろうとなんだろうと、そんなことは蔵人の能力や実績にはなんの関係もないはずだが、そうならない。なぜかというと、彼のアイデンティティが「鞍馬」によりかかったものだからである。彼は、「鞍馬」の人間としてふるまい、またそれにふさわしい結果を残すことでナルシシズム的に充足している。であるから、当の鞍馬家にそれにふさわしくない人物が所属していることに耐えられない。彼は蔵人個人として弟を嫌うのではなく、「鞍馬」として拒むのである。

勘当されていることもあるが、名前をかえて活動する九条はこれを汲んでこたえたものとなる。今回蔵人は、弁護士は嫌いだとまでいってのける。弁護士の存在は司法制度的に必然的な道理であり、どちらかというと蔵人らしくない発言である。これは、当然脳裡に弟の姿が浮んでいるためだ。それほどまでに、蔵人にとって九条は邪魔なものなのだ。愚かなのだからどうでもいい、とはなれない、それほど、彼にとって「鞍馬」は大きく、重要な依存の対象なのである。

こうなると、蔵人の四角四面な「善悪」の定義が、九条を拒むことであらわれたものなのではないかともおもわれてくるが、もしそうだとすると、彼は気付かぬうちに大嫌いな弟の存在を経由して自己規定していることになる。誇りになるものがなにもないとき、憎悪を隣国など外部に向けることで自己規定を果たすことがあるが、それとよく似ているかもしれない。蔵人の実力からしてそういうことはないとおもわれる、つまりさすがに九条が先でそのあとに善悪の起源がやってきたというようなことはないとおもわれるが、もしそうだとするなら、蔵人の九条依存はそうとうである。じっさい、蔵人は九条を経由していないにしても、常にその存在をおびやかされてはいるわけである。なぜなら、愚かながらに存在していいと認めるということは、じぶんに「見えないもの」があるということを認めるということにほかならないからだ。ふつうは、これは認めざるを得ないことである。あなたとわたしは異なった人間なのであるから、わたしに見えないものを、いまあなたは見ているはずだ。しかし兄弟、しかも同じ法曹となれば、そうもいっていられないのかもしれない。九条は蔵人の「無敵の善悪理論」に常にひとさじの不安感を加えてくるのである。

 

今回のタイトルは「至高の検事」、これはいきなり烏丸のくちから出てきた言葉だ。至高の検事がいたら九条はパクられると。これは「九条をパクるものは至高の検事である」とも読めるかもしれない(論理的には正しくないが)。至高の検事とはなにか? それはこれからのおはなしだが、流れではやはり蔵人の一派、つまり以上述べた言語的世界観で善悪を切り分けるものたちである。九条は、言語ではあらわせないもの、「いいしれぬもの」をこれまでも拾ってきた。笠置雫や曽我部のようなとても弱い人間のふるまいを、果たして言語は正しく評価することができるのだろうかということだ。同様にして、そうした「危ういふるまい」を、評価しないまま法律の評価の俎上にのせる九条の「危ういふるまい」を、善悪は善悪のものさしで分節することができるのだろうか。これが烏丸のいっている「至高」ということだろう。九条にとって今回は修羅場になるだろうが、そう考えると、これは同時に蔵人にとっての試練でもあるはずだ。評価不能のものを絶対に評価しなければならないとき、彼はどうするのか?そういうはなしではないかとおもわれる。

 

 

嵐山にかんしては、犬飼も出てきたことだし、これから大きな動きがあるのだろう。ただ、数馬の詐欺の件がいまいちよくわからないので、具体的なことはなんともいえない。彼もまた九条のスタンスを認めない杓子定規の人間である。

 

 

 

↓九条の大罪7巻 11月30日発売

 

 

 

 

 

 

 

管理人ほしいものリスト↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

連絡は以下まで↓ 書きもののお仕事お待ちしてます

tsucchini3@gmail.com