すっぴんマスター -38ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

今年は職場がホワイトなところに異動になった。もちろん、ストレスなどないわけではないが、それまでのドストエフスキー的虚無労働と比べれば天国だし、拘束時間的な意味でのきつさもない。細かな問題じたいは山積みだし、折を見て記事にしていきたいが、快適といって差し支えないとおもう。その印象を強くするものが、休日である。これまでぼくと相方は懇意にしているひとのはからいもあってずっと同じ職場で働いてきた。此度の異動もこちらから頼むまでもなくセットで計画されたのである。だが、これまではふたり同時に休むことができなかった。物理的にとれないとか、兼務先の兼ね合いでできなかったとか、いろいろそのときどきで事情もあったが、意図的に(意地悪で)はずされていたこともあった。こういう日々を経て現在、特に求めなくても自然に同じ日に休みがやってくるようになったのであるから、幸福といってよいところなわけである。

 

こういう日になにをしているかというと、今年は映画を楽しんできた。映画じたいはこれまでもずっとDVDやサブスクで年中観てきたが、これはつまり、映画館に行くようになったということである。月2回くらいの頻度だが。継続読者のかたはよくご存知のように、ぼくらには観劇という趣味もあったが、いろいろあって、現在はお休みしている。そこに、価格的には10分の1にもなる映画がすべりこんできたかたちである。

こういう日々はどうも5月の『シン・ウルトラマン』からはじまったようなのだが、すでに記憶があいまいになっていて、ほんとうにそうだったかよくわからない。記録もとってないし、ここにもあまり書いてこなかった。年末のまとめの記事でなにを観たのか、普段どおりなら書くところだが、そういうわけで正確な内容にはならない。念のためいま覚えている限りで書くと、ウルトラマンのあとにドラゴンボールを観たのだとおもう。たぶん2回。そのあとミニオンズを3~4回。それからNOPE、ブレットトレイン、“それ”がいる森、犯罪都市2・・・。なんか忘れてる気がするんだけど思い出せない。このままだとするとNOPEまで洋画はぜんぜん観てなかったことになるんだけど、そんなことあるかな・・・。

 

そしてこの習慣は、じっさいぼくを救いもした。夏場に暗い記事が投稿されたことを覚えているかたもおられるかもしれないが、あのメンタルがかなりやられていた時期、ミニオンズ2作目の『ミニオンズ・フィーバー』が上映されていたことは幸運だった。ソーかトップガンでも観ようとしたが時間的にかなわず、ドラゴンボールの2回目を観て、それでも帰る気になれなくて、もうなんでもいい、なんにも考えたくないとなって、よく知らないミニオンズを観たのである。それからはまってしまって、いまでも彼ら、特にボブのグッズが増殖し続けている状況である。

 

 

 

 

正直にいってそれまではほんとうにミニオンズのことはよく知らなかった。なんか若い女の子とかが好きな黄色いあざとい連中、というような印象しかなかった。ミニオンたちが主人公になる前作より前の、怪盗グルーのシリーズも、実は観たことがなかったのである。ただ、その『ミニオンズ』の前作だけは、なんとなく記憶にある。テレビで観たとか、誰か子どもといっしょにいるときに並んで観たとか、そんなことかもしれない。しかしそのときは、なにかスマーフと同列のようにしか感じなかったように記憶している。狂ったようにぬいぐるみを集めるというようなことはなかったのだ。それがいまそうなっているのは、非常に落ち込んでいる時期に出会い、回復のきっかけをつくってくれたからなのだろう。誇張ぬきでミニオンズには救われたのだ。しかしそうだとすると、ぼくにとってミニオンズは現実逃避のよすがのようなものになっているはずだが、そうではないのが不思議なところだ。

 

ここまで書いておいてナニだが、実はいまだに怪盗グルーのシリーズのほうが表面をさらう程度でしっかりとは見ていない。というのは、ミニオンたちが主人公となる『ミニオンズ』以降では、ケビン、スチュアート、ボブ、オットーといった名前つきの個性をもったキャラが活躍するわけなのだが、グルーのシリーズでミニオンズは多少の差異といった程度の違いはあってもあくまで集合体としてあつかわれているのである。厳密には、グルーが名前を呼ぶ場面もあるし、個性もあるが、描きかたがぜんぜんちがうのだ。だがこれも奇妙なはなしである。いまとなっては「ミニオンズ」という造形が非常に魅力的なものだということは自明のものとして受け取れる。しかしながら、彼らはあくまでグルーの仕事を手伝う謎の黄色い集団として登場したわけなのである。ギズモやグレムリンが、ビリーの青春銀行員生活を彩るただのアイコンであるなんてことはなかった。グレムリンたちが人間たちの存在感を“凌駕しない”なんてことは想像もできないのだ。しかしミニオンズたちはグルーのシリーズでは「きわめて印象的かつ重要な集団」にとどまっている。そんなことがあるだろうか。あるだろうか、といっても、あるのだから、意味はないのだが、それが非常に不可思議に感じられるわけである。

 

グレムリン同様、ミニオンズも、明らかに「子どもたち」をモデルにして作られている。印象的なのはその言葉である。彼らの言語は、じっさいに存在する世界の言葉を混交させた不思議なものだ(だからときどき日本語が聞こえてくることもある)。ともかく、人間はそれを理解することができない。グルーはコミュニケーションをとっているが、すべて完璧に理解しているのかなというとよくわからない。まさに子どもか動物と意思疎通をはかる大人のしぐさで、グルーをはじめとした優しい大人は彼らとやりとりをするのだ。このやりとりの向こうに、ちょうどわたしたちが子どもに対して感じるように、可能性のようなものが兆す。よくわからない言葉で理解しあう集合体の向こうに、大人にとっての評価が保留された、広さもよく見えてこない宇宙が広がっているような感覚が呼び起こされるのだ。これがグルーにとっての不可能を可能にさせるような様子に結びついているのではないかというのがいまの感想である。それは、たんに「子どもたち」の集団を前にしたときの昂揚感に留まるものではない。もっと抽象的に、たとえば教育学のレベルで「子どもたち」の未来を考えるときのような次元で、「子どもたち」が形成しうる、大人にはコミットできない宇宙のようなものの広がりが兆すのである。

こうしたうえで新たに製作されだした「ミニオンズ」のシリーズでは、グルーやそれに近い良心的な大人も登場するものの、基本的には彼らの目線で物語が紡がれることになる。「目線」とは、そのままの意味だ。そのまま、カメラの位置を低くして、彼らの見たままを描き、彼らの感じたままを映像にする、それが「ミニオンズ」なのだろう。だから、演出面でわかりやすくなっているぶん問題はないが、彼らの混交言語によるやりとりを大人が翻訳するということはほとんど行われない。今回の『ミニオンズ・フィーバー』ではまだ小さいグルーと合流し、グルーがかなりのぶぶん通訳をすることになるが、グルーが小さいぶん、目線は非常に低く、通訳という印象もほとんどない。集合体としてのミニオンズが小さな宇宙として身近にあり、場合によってはそれを愛でる、そういう大人の、人間の感性ではなく、ミニオンにとっての深刻さ、ミニオンにとっての価値観を経由したまなざしで、世界が新たに見つめなおされるのである。そうすることではじめて、ミニオンズがたんなる集合体でないことが明らかになる。ミニオンズは、大人たちがある種の無責任さでもって「子どもたち」と呼ぶような状況を超越して、あんなにそっくりでありながらじつはまったく異なっているということを、事後的には自明なこととして発見させるのだ。ケビンやスチュアート、ボブの見た目は、じっさい異なっている。だが、ちょっとグルーのシリーズを観たという程度の鑑賞者にとってみれば、「全員同じ」という感想が出てきても不思議ではない。だがそうではないのだという悟りが、あとになってみれば明らかなものとして、当時のじぶんに呆れてしまうような気持ちとともにやってくるのである。

 

こうした発見が、ぼくではボブのあまりのかわいさとともにあらわれた。とりわけボブが、ことばを失ってしまうほど、とにかくかわいいと感じられる、その事実が、ミニオンズが集合体ではないということの証明である(ケビンもスチュアートもオットーも大好きだが)。そしてそこに無限の自己肯定が宿るのだ。たぶん、ぼくがあのとき根こそぎミニオンズに気持ちをもっていかれ、救われたのはそういうことなんだろうとおもう。

 

いまでも、ちょっと疲れたなというときに、『ミニオンズ・フィーバー』でもっとも印象的な曲である、ダイアナ・ロスの「Turn Up The Sunshine」をビデオつきで聴いている。前作『ミニオンズ』は60年代が、今作『フィーバー』では70年代が舞台になっていて、それぞれ印象的に当時のヒットソングが使われているが、このダイアナ・ロスの曲があまりによくできていて、「聴いたことがある」とすらおもったものだから、ぼくはてっきりこれも「当時のヒット曲の再録」かとおもっていたのだが、そうではなくオリジナルである。コロナ禍の全人類に語りかけるような内容で普遍性もあり、ビデオに出てきて踊るミニオンズたちのかわいさもあって、多幸感で涙が出てくることもある。ほんとうにあのとき「なんでもいいから」でミニオンズを選んでよかったとおもう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第134話/蹴速の意地

 

 

 

 

最初の接触、横蹴り気味の蹴速の踵に独歩は正拳を当てて、骨を砕いてしまった。手応えもあり、蹴速がいくらなんでもないようにふるまっても、独歩はそのことを見抜いてしまう。だが、「仕切りなおし理論」の蹴速はまず外面を取り繕い、あとから内実を補うものであるから、もちろんこれを認めようとはしない。そうして、砕けた踵のまま、今度は両者の蹴り足がぶつかりあうのだった。

 

互いにはじけ跳び、蹴速は四股立ち、独歩はいつもの天地上下の構えになっている。開始時にはパフォーマンス的に独歩も四股立ちをしていたが、けっきょく自然ととるのはこの構えで、要はそこまでの余裕は独歩にもないということかもしれない。

だが、独歩は構えを解く。もういいんじゃないかと。蹴りの手応えのはなしだ。ぶつかった踵はもう「踵」ではなかった。既に壊れているものを蹴った感触だったのだ。それは重心からも明らかであると、ふつうにまっすぐ立っている蹴速を見ながら独歩はいう。はじまって1分くらいしか立っていないだろうし、観客としても受け止め難い状況のようだ。

独歩がどういうつもりかわからないが、こんなことをいわれては逆に幕引きのしようがなくなってしまう。蹴速くらいのファイターならよけいだ。前に似たようなことをいわれたときは足を地面に打ちつけてノーダメージをアピールしていたが、さすがにそういうことはもうできないのかもしれない。蹴速は右足をゆっくりあげて親指でかたほうの鼻をふさぎ、手バナをかむようにして、鼻水をとばす。なんかよくわからない行動だが、唾をはきかけるようなものととらえればよいだろう。蹴速は顔中に血管を浮かせたいい顔で、幕を引くのは独歩じゃないという。

 

そうして駆け出す蹴速だが、移動するのもようやくといったところだ。だがそういうふりという可能性もあるぞ。蹴速は左の突きだか張り手だかをくりだすが、それをくぐった独歩は崩れている右足を上から足刀で叩く。闘争の基本は「相手の弱いところをじぶんの強いところで叩く」というところにあるが、独歩はこれを徹底的にやる男だ。相手が負傷しているなら、呼び出して試合をする。負傷箇所が明白なら、そこを叩く、そういう男なのだ。

動きのとまった蹴速のおおきな胴体が目の前にある。独歩は、体の分厚さとは無関係に肋骨を破壊するあの正拳の連打をくりだし、蹴速はそれをまともに受けてしまうのである。だが、血を吐く蹴速は、独歩の肩に手を置き、ぎりぎりこれに耐えるのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

3度目の接触で蹴速は瀕死状態である。ここまで実力に差があるとはなあ。

とはいえ、蹴速は力士でもある。でもある、というか、力士である。いままで蹴りの描写ばかりだったこともあるし、宿禰や現代の力士との対比で、相対的に「蹴りのひと」という印象が強かったわけだが、このあたり、読者も独歩も誤ったところに導かれている可能性もある。つまり、たしかに蹴速は「蹴りの強い力士」ではあるのだろうが、それはなんでも行うことのできた古代相撲ならではのオリジナリティなのであって、じつはそれはふつうの力士が「握力が強い」とか「張り手がすごい」とかいうのと同列のことなのかもしれないのだ。もしそうなら、当然に蹴速はまだ負けていない。肩に手をのせられるほどの距離である、これは力士にとって最高の間合いなのだ。

また、蹴りといってもいろいろある。これまで彼が横蹴り気味の直線的な技ばかりだったせいもあるが、蹴速の引き出しはもっと豊かなはずだ。相撲の文脈でいえば、たとえば首相撲からの膝蹴りである。また金的である。そして柔道の刈り技にも通じるような下段への攻撃である。蹴速が蹴りに長けているというのであれば、当然こういう技にも通じているにちがいないのだ。

 

ほとんどはなしが進んでいないので、改めて分析すべき対象がなく、書くこともあまりないが、独歩の分裂的な行動は少し気にかかる。当初四股立ちをパフォーマンス的に見せるほどの余裕があった独歩だが、今回距離をとったところで、もっともとりなれた天地上下の構えになっているわけである。これは身体が自然に防御体勢に入ったことを意味するだろう。要するに、負けないまでも、遊んではいられないというようなことを、からだが感じ取ったのだ。独歩じしんそのことには気づいているはずである。そのうえで彼は構えをほどき、試合を終えようとする。これはふたつの状況が考えられる。ひとつは、ことばの通り試合を終えようとしているということ、もうひとつは、いつものように、この言説じたいが戦略であるということだ。いっぽうは、ことばのままに、心配もこみで試合を終えようとしている状況、たほうは、こうしたある種の挑発でもって蹴速を弱体化させようとする試みである。じっさい蹴速は、よせばいいのに、壊れた右足をあえて用いて蹴りを放ってきた。あんなことをいいながらやはり右足を狙って攻撃する独歩である、みたびこれを期待して挑発した可能性はある。いずれにせよ、独歩は試合をコントロールし、流れを掌握しようと努めているように見えなくもないわけである。これは逆に蹴速のポテンシャルを彼が感じ取ったということを示しているようにもおもわれる。

 

 

勝つまで幕間を主張する当麻の人間である蹴速が独歩の提案する「幕引き」を怒りとともに拒否するのは当然のことだ。観戦している光成は、得意の「仕切りなおし」はできないぞというふうにいっているが、そうだろうか。たしかに、いま突然回れ右をして逃げ出してしまったとしても、試合としては蹴速の負けになってしまうだろう。だがそれは宿禰戦にかんしても同じことだったはずだ。当麻の主張する「仕切りなおし」は、あくまで当麻側の匙加減によるものなのである。光成も独歩も、それを決めることはできない。それは今回のあの怒りの描写につながっている。同様にして、踵が壊れて右足が使えないのかどうかも、独歩が決めることではない。また、「踵が粉砕している」という客観的観測によっても、これを決定することはできない。ただ彼じしんが「踵が壊れた」と宣言したときだけ、踵は壊れるのである。こういうことをくりかえすうち、いつか「踵が壊れない独歩戦」が訪れる、それが当麻の必勝法である。独歩はおそらく二度目の接触に至ったことで、当麻の頑迷固陋を強く感じ取り、ややこしくなる前にさっさと終わらせなければえらいことになるということを感じ取ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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第65審/至高の検事①

 

 

 

 

これ以上反社とかかわるようなら九条とはもういれない、と宣言し、じっさいに離れた烏丸。いまは九条の師匠のひとりでもあった流木のところに身を寄せているようである。

流木は烏丸の浮かない表情を心配するが、別になにか思い悩んでこうなっているわけではなく、いつもこういう顔である。とはいえ、悩みがないわけでもない。先日山城に話しかけられて九条が危うい立場になるかもしれないといわれたことを烏丸は説明する。壬生から詐欺師への、4000万の恐喝に加担した可能性があると。ちょっと勘違いしていたのだけど、九条と壬生が訴えられるかもしれないといわれていたのは、数馬ではなく智慧光院だったということかな。でも第62審で山城は「数馬さんが警察に相談すれば」といっているが、これも「この件を表に出せば」くらいの意味なのかもしれない。数馬はたぶんもう出てこないし・・・わからないが、智慧光院は名前の表示のしかたがいかにも準レギュラーだったので、これからやっかいな関係性を築いていくのかもしれない。

ともかく起訴されたらコトで、弁護士会退会ということにもなるかもしれない。流木はなんだかのんびりした調子ではなしを聴いている。そして烏丸に、九条は悪か善かと問う。今回の主題に直結する場面だ。それが烏丸にはわからない、だから流木のところにきたのかもしれないと烏丸は自己分析、「至高の検事」がいたらパクられるんじゃないかというのだった。

 

もちろん検事といえば九条の兄、鞍馬蔵人である。鞍馬家では劣等生でもあった九条は、身内のトラブルを事前に避けてか、元奥さんの名前で弁護士をしている。鞍馬家は父親も優れた弁護士で、流木や山城と同世代、蔵人は「鞍馬」の名前に誇りをもっており、学業で劣り、弁護士になってからも反社とつきあっているような弟を嫌悪している。

蔵人の上司は宇治信直検事部長という「検事」をそのまま人間にしたような人物である。裁判を終えたばかりのようで、蔵人は宇治の仮設の組み立てを讃えている。自己保身ばかり考える検事が増えてきたとするいっぽうで、じぶんたちは「正義」に身を捧げようとする、蔵人の上司という感じの男だ。彼も蔵人には期待している。小野という同僚がヤメ検(検事をやめて弁護士になること)になるというはなしで、蔵人は「弁護士は嫌いです」とはっきりいう。それは司法制度の全否定につながるし、なんかおかしいだろという気がするが、もちろん蔵人は弟のことを思い浮かべているのだ。

 

クラブでもめごとだ。じぶんの女にちょっかい出したということで、輩が2人組みにからんでいる。このいっぽうは、最初の交通事故の事件のときにでてきた森田という男だ。森田はクラブのオーナーでもある壬生の名前を出して輩を追っ払い、なにか薬物を含んで夜通し遊んで、最後には立て看板を破壊して道路で力尽きた。これを嵐山が回収、薬物の陽性反応とあわせて詰める。いつも通り森田はカンモクパイするつもりっぽいが、交通事故のときにはなくしたといっていた、ずいぶん使い込まれたスマホが出てきたことを問われ、ベッドのしたから出てきたと応える。嵐山のほんとうの目的は壬生であり九条だ。量刑を軽くしてやるから協力しろというはなしだ。

 

ブラックサンダーと外出中の九条のもとにさっそく壬生から電話。後輩、おそらく森田の件で、いつもの「お願い」である。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

烏丸、蔵人、嵐山という最重要人物たちが集結しており、まるで最終章のおもむきである。ひょっとして『九条の大罪』は、そんなに長く連載されないのかな。ウシジマくんがあんなに長かったから、てっきりそのくらいの感覚で続くものとおもっていたけど、そうでもないのかも。

 

久々に九条の兄・鞍馬蔵人が登場した。

蔵人は検事として優秀で、弁護士の九条と対立するばかりでなく、法律家としてのものの考えかたも非常に異なっている人物である。

どう異なっているかというのは、彼が登場した第10審の九条のセリフにすべてあらわれている。

 

 

 

「あなたには見えなくて

 

私には見えているものがある」

 

 

むろん、この言い回しは九条に向けても成り立つものだろう。蔵人が見ているものと九条が見ているものは異なっている。ただ、客層が異様ではあっても、九条もいちおう司法試験を受けて弁護士として、法律家としての思考法を身につけた人物だ。そのうえでこの言い回しは、ある種の達観を示唆するものと考えられる。それはなにかというと、今回蔵人と宇治の会話でも見られた「善悪」というものへの態度の違いにあらわれる。そしてこれは、『星の王子さま』の有名なあのセリフ、「大切なものほど目に見えない」というものを想起させる言い回しでもある。そういうわけで、ぼくはこれを手がかりにこれまで蔵人のことをとらえてきた。

 

 

 

 

 

 

星の王子さまがこのことばで示すものは、大人がその社会生活の結果身につけた常識とか論理性とか、そういうものを経由してみる世界は、ある種のフィルターを経た世界の似姿であり、真実ではないということだった。ぼくはここでの「常識」を、端的に「言語」と受け取ってきた。この「言語」はソシュール的な意味においてである。ソシュールは「価値」という考えかたを導入することで、カタログ的な性質から言語を解放した構造主義の父である。聖書が示すのは、まずものや生き物が存在し、そのうえでわたしたちがそれに命名するという物語である。「犬」という生物は、わたしたちが「犬」と命名する前から存在しており、それを受け取ってわたしたちは「犬」という語をほどこす。しかしソシュールはそうではないという。目前には現状犬でもあり狼でもありタヌキでもあるような生物がうろうろしている。そしてあるとき、わたしたちはそこに「犬」や「狼」という語で世界を区切るようになる。真っ白な砂浜に網をかぶせて、区切られた領域をその語の担当区域とするのである。この範囲を「価値」という。言語とは「世界」という空間にみっちりすきまなくつめこまれた風船の集合なのだ。わたしたちが「犬」と呼ぶまで「犬」は存在しない。少なくとも人間が言語的に世界を認識する思考様式のなかには存在しなかった。エスキモーの言語には「雪」に該当する単語がない。雪が、わたしたちにとっての背景をなす認識できないなにものかであり、「雪」がもたらす現象には名前をつける意味があっても、それをとりだして価値をほどこす意味がないからである。

こういうふうに、わたしたちは年齢とともに言語による世界の分節法を身につけていく。言語は論理的思考に欠かすことのできないものだ。もちろん「善悪」もことばである。人類の存在しない宇宙空間に「ひとからものを奪うのは“悪”だ」というような観念はありえない。蔵人の思考法はこの意味で徹底的に言語的なものである。法律は言語で表現されるものなのであるから、それも当然のはなしだ。だが、その思考法もあるところまですすむと融通さを欠くことになる。星の王子さまが指摘するのは、そうした言語的思考がうわばみの飲み込んだ象の姿を見抜くことがなく、かたくなにそれを帽子だと主張し続ける愚かさなのだ。そのいっぽうで、九条はうわばみのなかに象を透視することができる。「善悪」のものさしを金科玉条としないことで彼が身につけたのが、この「大切なもの」を見抜く能力なのである。

とはいえ、法律はどうあれ「文章」で構成されているものであり、情念に支配されるものではない。九条は感情で動く人間ではないが、蔵人からしたら同じことだろう。法律的にいっても、善なのか悪なのか微妙な状況というものはある。だが言語的な思考が導くのは、善と悪のあいだに「微妙な状況」があるのだとしても、そこに第三の層である「微妙な状況」というクリアな物語だけである。九条がいっているのは、そのように言語で指差すことのできないものを、じぶんは見ることができるということなのだ。

 

まだ描写の少ない蔵人だが、鞍馬の、つまり父の名、要するに家系を非常に重視しているらしいということはどうもあるようだ。だから、成績的にはふるわなかった九条が気に入らない。ばかにしているとかいう以前に、そんなものが鞍馬家のものとして存在していることが許しがたいのである。九条が劣等生だろうとなんだろうと、そんなことは蔵人の能力や実績にはなんの関係もないはずだが、そうならない。なぜかというと、彼のアイデンティティが「鞍馬」によりかかったものだからである。彼は、「鞍馬」の人間としてふるまい、またそれにふさわしい結果を残すことでナルシシズム的に充足している。であるから、当の鞍馬家にそれにふさわしくない人物が所属していることに耐えられない。彼は蔵人個人として弟を嫌うのではなく、「鞍馬」として拒むのである。

勘当されていることもあるが、名前をかえて活動する九条はこれを汲んでこたえたものとなる。今回蔵人は、弁護士は嫌いだとまでいってのける。弁護士の存在は司法制度的に必然的な道理であり、どちらかというと蔵人らしくない発言である。これは、当然脳裡に弟の姿が浮んでいるためだ。それほどまでに、蔵人にとって九条は邪魔なものなのだ。愚かなのだからどうでもいい、とはなれない、それほど、彼にとって「鞍馬」は大きく、重要な依存の対象なのである。

こうなると、蔵人の四角四面な「善悪」の定義が、九条を拒むことであらわれたものなのではないかともおもわれてくるが、もしそうだとすると、彼は気付かぬうちに大嫌いな弟の存在を経由して自己規定していることになる。誇りになるものがなにもないとき、憎悪を隣国など外部に向けることで自己規定を果たすことがあるが、それとよく似ているかもしれない。蔵人の実力からしてそういうことはないとおもわれる、つまりさすがに九条が先でそのあとに善悪の起源がやってきたというようなことはないとおもわれるが、もしそうだとするなら、蔵人の九条依存はそうとうである。じっさい、蔵人は九条を経由していないにしても、常にその存在をおびやかされてはいるわけである。なぜなら、愚かながらに存在していいと認めるということは、じぶんに「見えないもの」があるということを認めるということにほかならないからだ。ふつうは、これは認めざるを得ないことである。あなたとわたしは異なった人間なのであるから、わたしに見えないものを、いまあなたは見ているはずだ。しかし兄弟、しかも同じ法曹となれば、そうもいっていられないのかもしれない。九条は蔵人の「無敵の善悪理論」に常にひとさじの不安感を加えてくるのである。

 

今回のタイトルは「至高の検事」、これはいきなり烏丸のくちから出てきた言葉だ。至高の検事がいたら九条はパクられると。これは「九条をパクるものは至高の検事である」とも読めるかもしれない(論理的には正しくないが)。至高の検事とはなにか? それはこれからのおはなしだが、流れではやはり蔵人の一派、つまり以上述べた言語的世界観で善悪を切り分けるものたちである。九条は、言語ではあらわせないもの、「いいしれぬもの」をこれまでも拾ってきた。笠置雫や曽我部のようなとても弱い人間のふるまいを、果たして言語は正しく評価することができるのだろうかということだ。同様にして、そうした「危ういふるまい」を、評価しないまま法律の評価の俎上にのせる九条の「危ういふるまい」を、善悪は善悪のものさしで分節することができるのだろうか。これが烏丸のいっている「至高」ということだろう。九条にとって今回は修羅場になるだろうが、そう考えると、これは同時に蔵人にとっての試練でもあるはずだ。評価不能のものを絶対に評価しなければならないとき、彼はどうするのか?そういうはなしではないかとおもわれる。

 

 

嵐山にかんしては、犬飼も出てきたことだし、これから大きな動きがあるのだろう。ただ、数馬の詐欺の件がいまいちよくわからないので、具体的なことはなんともいえない。彼もまた九条のスタンスを認めない杓子定規の人間である。

 

 

 

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第64審/愚者の偶像⑮

 

 

 

 

長編となった愚者の偶像も今回でおしまいです。菅原をとるのか、壬生をとるのか、自分のあたまで考えた結果、数馬はどうするのか?

数馬は江ノ島にきている。病気で動けない妹の数恵に景色を見せ、旅の感覚を味わってもらうためだ。もちろん、最終的には2億ためて、手術して、元気になってもらって、いっしょに行くつもりなのだろう。が、とりあえずは映像で実況である。

台風が近づいているためにすごい雨だが、サーファーは元気に波乗りしている。数馬はなんでもない会話を妹としながら、千歌のことを思い出していた。そのときも台風だったそうだ。

いまの千歌は小山に家を解約されて数馬のところに居候している。が、半端なくわがままな千歌との同棲はきつい。彼女は生得的にわがままであるというより戦略的にそれを行ってきたタイプだが、数馬相手でも容赦ない。千歌にいわれてアイスを買ってきた数馬だが、気に入らないらしくすごい剣幕で怒っている。

千歌は、上下関係のある仕事と考えろという。千歌はそうとらえるのだろうな・・・。仕事なら人生の総量のどれくらいを預けるのか配分するところである。しかし千歌はそういう生きかたはしてこなかった。全存在をかけて、じぶんという人間の価値そのものを担保に生き抜いてきたのである。数馬はまだましなほうだ。会社勤めのサラリーマンとかじゃ1日ももたないだろう。

彼女は数恵の件も知っているらしい。妹には2億作るのにじぶんにはアイスをケチるのかという。さすがにこれには数馬も本気で怒る。それが決め手なのか、千歌は出て行った。それから数馬は会っていない。だがうわさは流れてくる。千歌にはもともと小山以外に愛人がふたりいたそうである。いっさいの買い物にお金をつかわない千歌の貯金はそうとうなもののようだ。千歌はモモヨを中国の富裕層にあてがって売春させたりもしていたようだが、結果としては梅毒を港区おじさんにお土産することになったという。さすがにブラックリスト的なあつかいになったか、ついに千歌は落ち着く場所を見つけることにしたらしい。金持ちの老人である。どう見ても遺産目当ての結婚だったが、千歌は老人を魅了し、尻に敷いて、全財産を相続させるという遺言書を書かせたうえで婚姻届を出したという。老人は不能だったのでセックスはできなかったが、精子バンクをつかって子どもをつくろうとはした。だが千歌は体型が変わることや子育ての面倒を考えて拒否した。女性用風俗の男性キャストを呼んで、老人の前で行うのが恒例になっているという。家のことはすべて家政婦かモモヨに・・・ってモモヨはまだいるのか。

 

数馬の感想だが、千歌は食事をおごってくれたひとにはこころからご馳走様といっていたという。また、父親をバカにしてはいたがちょくちょく実家に顔を出したりはしていた。ちょっとしたことだが、そういう優しいぶぶんも千歌にはあり、老人はそういうところを見ているのだろうと。千歌が唯一自発的に好んで行ったのは耳かきだけだという。砂金みたいに耳垢がとれるのが楽しいのだ。

前に千歌と江ノ島にきたときも台風であった。お参りでなにをお願いしたのかは内緒だったが、荒れる海を見てなにをおもうかは教えてくれた。「私の未来」、そして「数馬との素敵な生活」だと。

 

今度は壬生だ。九条もいる。産業廃棄物の処理場らしいが、行政ともめて使えずにいて、いま九条に相談しているところだ。九条がいなかったらちょっと身の危険を感じそうな場所である。

で、例の1億円出資の件だが、数馬はこれをはっきりと断る。まず飲食がリスキーであり、フランチャイズは胴元が儲かるしくみだから壬生の丸儲けじゃないかというはなしを、はっきりとするのだ。こういうことをうつむかずにいえるというだけで数馬が人間として非常に強くなったということを示すが、さらには、ほんとうに壬生がじぶんを取り込むつもりだったら詰め将棋みたいに逃げ場をなくしてからやるはずだということまでいう。たとえば、妹を実質的な人質にしてしまうとか、そういうことだ。それもそうかもしれない。たしかに、取り込むにしては少し壬生は手加減している感じがあった。それは例の「自分で考える」にかかっていたものとおもわれるが、ともかくそうだった。

壬生は数馬の成長を堪能するかのようにして少し笑いつつ、イチから起業するという数馬に忠告をする。数馬は人が良すぎるところがある。成功したら、ゼロイチでモノをつくれない有象無象が善人面で集まってくる。とすれば奪われることが心配ということかとおもえば、そうではない。連中は、ゼロイチができるものからパクりまくって価値のわからない大衆に向けて売りまくっていくだろう。

 

 

 

「大衆は愚者が作った偶像を崇めて生きる意味を見失う。

 

お前は自尊心を奪われることなく自分の道を突き進め」

 

 

 

最後に壬生が示したのは、具体性を欠きつつもまるで見てきたようなリアリティを含んだ精神論なのであった。

続けて数馬は九条に謝礼をわたす。いつか顧問弁護士になってほしいというはなしだ。だが、九条はキョトンとする。顧問ということは人間関係を金で買うということ。信頼があればいつでも相談にのると、それが弁護士の仕事だという顔つきで、九条がしめるのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

駆け足気味だったが「愚者の偶像」完結。といっても九条の大罪は各章連続して連載されているので(小山は「消費の産物」の登場からずっと出ているし、犬飼は「事件の真相」から続く嵐山の娘殺害事件の犯人である。菅原と壬生の確執はもっと前、「家族の距離」からのものだ)、新しい登場人物が次回あらわれるくらいのことだろう。この駆け足の感じは次回のアイデアの存在を示唆するものかもしれない。

 

 

千歌は最後までじしんのわがままを貫いた範馬勇次郎のような生きかただった。板垣恵介的には、強いということは、わがままを通せるということである。だが、わがままを通せることが強いことを証明するわけではない。千歌は、男性支配社会で「女」であることを徹底的に利用してサバイブするタイプの人間だった。この点、実は壬生に通じているぶぶんもある。壬生は前回、犬飼に対して、犬飼の行いを自己責任論で一蹴しながらも、自分もまた「言いなりの犬」であり、いつかここを脱出してやるという夢を語っていた。ここに流れるのは自己責任論と「まちがった世界」をとりあえず受容するしたたかさである。世の中は理不尽であるが、その世界のまちがいを指摘して正そうとしてもしかたない。この思考法はブラック企業のものと紙一重である。その会社が違法行為をしていても、それを選択したのは自分、これを悪くいったり告発したりなんてことはできない、という思考法だ。この発想は人間の成長を阻み、抵抗のちからを奪っていくものである。しかしもちろん、壬生や千歌はそこにとどまるものではない。彼らは世界がまちがっていようがなんだろうがどっちでもかまわない。ただ、可能な限りちからをたくわえてのしあがっていくだけだ。その先にたとえば京極打倒だとか、千歌の行為をただ「ギャラ飲み」といって済ませてしまうことができないような世界があるのかもしれないが、それは先のはなしである。ただ、彼らで異なるのは、やはり千歌が女性であるということだろう。自己責任論は選択的行為、もしくは選択的行為が想定できる結果に対して添えられるものだ。しかし彼女が「女」であることは選んだものではない。自己責任論で怠惰のなかにまどろむことすら許されない世界、それが千歌にとっての「女」である。千歌はその場所で、「女」として使えるものをすべて使って、全存在に値札をつけて、既存の邪悪なルールの覇者となっていく。彼女の「わがまま」なふるまいは、「強さ」の先取りである。くりかえすように、「強さ」は「わがまま」を含みうるが、逆は成り立たない。だが千歌は、先にあえて「わがまま」なふるまいを実現することによって、じしんの値段をつりあげるのである。高価であるから、また強者であるからわがままにふるまうのではない、わがままにふるまうことが、彼女が強者であることを予感させ、価値を注入するのである。といっても、彼女がいつもあんなふうにふるまっているということはないだろう。あれは相手が数馬だったからこそ慎重さを欠いた状態で出てきた、脇の甘い言動なのだ。ふだんはもっと戦略的に「わがまま」を使いこなしているはずである。

 

価値があるように見せかけて事後的に価値を注入する、これこそが「愚者の偶像」の構造だ。「売り手」として一人前になった数馬に、今後のための忠告として経営者、それもゼロからものをつくりだせるものとしての気構えを伝える。数馬が新しく作り出したものは、それができないものに模倣されていくだろう。そのものに本来価値はない。だが「大衆」にはそれがわからない。いわれるがまま、価値があるっぽいという風情を受け止めて、金を落としていくだろう。おもしろいのはここに続く壬生のセリフである。そんな世界はくそくらえ、ではないのである。ここからも、壬生にとっての「まちがった世界」への姿勢が見て取れる。世界とはそういうものである。だから自尊心を失うんじゃないと、こういうふうに助言するのであった。

ここで「愚者」は数馬の仕事を盗むものたちで、「偶像」はそれが作り出したニセモノの商品のことだ。これを「大衆」が崇めるという図である。「偶像」が「偶像崇拝」などとむすびついて宗教的に語られるときこれはイドラとかアイドルの訳語ということになるが、もともとの「偶」という漢字にも、「土偶」などからわかるように「ひとの形をしたもの」という意味があり、これは当然に呪術的な儀式と関係性の深い語である。「偶人」の成分は土や石であり、これらが個別に意味をもつということはない。それが、ある条件を満たしたとき、これまで宿していなかった価値を突然帯びることになる。それはもはや「ひと」である必要もない。資本主義社会で貨幣は神の代理人となる。生み出したものに支配されることをマルクスは「疎外」と呼んだが、労働が転じて現れ出たもののはずの貨幣、そして商品が、じしんも含めたものごとの「価値」を測定する唯一のものさしとなっているのだ。こう考えると、人間の物欲とは、ほんらい信仰心に近いものだったのではないかともおもわれてくる。ともあれ、「大衆」が「偶像」にコミットするのは自然なことである。いったい、その「偶像」がほんとうに「ホンモノ」なのかということを決めることは、たとえば著作権などの人工的な文脈を除いては、誰もいうことはできないからだ。だが、ゼロからものを生み出した本人であれば、それを感じ取ることはできるかもしれない。もちろんこれも、「ゼロから生み出すことは可能か」という議論はあってしかるべきだが、おいておく。しかし、生み出したものはやがて作者の手を離れ、思いもよらなかった角度から注目され、価値を帯び、複製されていくだろう。物神主義的な世界でまさにこうした労働の成果物(アイデアが盗まれて成り立ったものもまた何段階か経たあとでの成果物である)は「偶像」であり、神である。そういう世界で、壬生はそれに支配されるなということをいっているのだ。つまり、驚くべきことに壬生は、生み出したものが遠く変化したものに支配されるな、「疎外されるな」といっていることになるのである。

 

こういう視点でいえば、よく似てはいるが、千歌はある種の「結末」をすでに迎えてしまったのだな、という感想になる。というのは、千歌はどこまでも「自分という偶像」に支配されていたからである。「わがまま」を先行させ、からっぽのまま意味がありそうな身振りをとって事後的に価値を注入することで、「千歌」は成り立っていた。ちょうど崇拝されることで崇拝すべき存在になる偶像のように、である。しかしそのせいで、彼女はもはや「千歌」を成り立たせる以外のふるまいをいっさい拒むことになってしまったのだ。もちろん、金持ちの老人をつかまえた「結末」は、「千歌」としてはまちがっていないのだろう。しかしそれはかつての彼女が望んだ未来だったろうか、というのが、今回台風の海を前に数馬の感じたであろうことだ。

 

「港区女子・千歌」は千歌の労働の成果物である。だが、全存在的にその「労働」に費やしたため、もはや彼女に逃げるところなどなかった。その道にかけるほかなくなってしまったのである。そうして、千歌は「千歌」に疎外される。こうしてみると、資本主義社会で全存在的な価値にベットすることのリスクが見えもする。千歌はその道を極めたようなところがあるからまだいい。まだいいが、近くで彼女をみてきた数馬が慟哭するくらいには、彼女は遠くにいってしまった。もはや「港区女子・千歌」を生み出した千歌本人はここにはもういないのである。壬生の忠告はこう見てみると数馬には強く響いたことだろう。千歌のなかには、自尊心の対象となる、「港区女子・千歌」の生みの親であったところの千歌本人が、もういないのである。彼女の内面がほとんど描かれなかったのもこのせいかもしれない。

 

壬生はけっきょくなにを考えて数馬を育てていたのだかよくわからなかったが、なんだろうな、あんがい本気で育成ゲームやってる感覚だったのかもしれない。飼い犬のまとめ動画を見ている象徴っぽい場面もあったが、あれも、そんなに悪い意味ではなく、犬を育ててる感覚だったということなのかも。真顔で後輩の金本を殺すような人間なので一概にはいえないが、数馬の反論に対して激昂したりがっかりしたりすることもなく、ふつうに助言とかするところからしても、壬生はおもったよりカタギよりなのかもしれない。もちろん、京極とかと比べてということだが。

 

 

 

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第63審/愚者の偶像⑭

 

 

 

 

菅原とケリをつけるため、彼のクラブにやってきた壬生。犬飼も含めた彼らからは3億を要求されているが、むろん壬生は手ぶらだ。周囲は金属バットをもった壬生以上の巨体にかためられてとても逃げたりたたかったりできる状況ではない。

 

 

フロアに転がっているかたまりはやはり久我だ。壬生が声をかけて無事を確認、そして帰ろうとする。いやいや帰れないだろ。丑嶋社長みたいだな。

金をもってきた様子がない壬生に犬飼は怒る。壬生ははっきり払う意志がないことを伝えるが、すると菅原が、ほとんどいきなりバットで殴りつけてくる。上から振り下ろす感じだ。壬生は十字受け気味にこれを受け止める。バットが曲がってしまっているので、菅原は少なくとも重傷を与えるつもりで殴ったのだろう。が、壬生は平気だ。わりと冷静なふりをしていた菅原が、たまっていたものを吐き出す。久我を潜入させて介護施設をつぶされた件だ。あのときは報道もされていたはずだし、山城弁護士とともにそうとうやっかいな目にあったはずだ。3億どころではなく全財産寄越せと。だが壬生は逆に時計を弁償しろという。どうも、バットの一撃は高そうな腕時計で受け止めたものらしい。

菅原でなくても、この状況でなにいってんの?となるところだ。京極に尻拭いしてもらうつもりなのかと菅原はいう。ねんのためメモだが、菅原は「京極さん」といっている。

俺はいつも用意周到だという壬生。とつぜん、取り巻きのひとりが菅原をバットで殴りつける。犬飼も複数のものからポコポコやられてうずくまる。何人かスパイがいたどころではない、周囲を封鎖していた筋肉バットたちは、ひとり残らず壬生の息がかかっていたのである。

そうしている間に壬生が久我を救出、顔をおおっていたビニールを剥ぐ。かなりうらんでいる菅原と、なにするかわからない犬飼のもとにいたので、どんな状態が少し気がかりだったが、ひどく殴られたという程度で、歯を抜かれたりみたいな取り返しのつかない系のやつはされてないっぽい。微妙な描写だが何日かたっているはずで、ご飯とか水分とかどうしてたのかなとかも気になる。ドМだから大丈夫だろと、壬生はいつか聞いたような声をかける。

最初は抵抗していたようだが、ある程度殴られて観念したらしい菅原が、あぐらをかいてとっとと殺せという。犬飼は地面につぶれているが、意識はあって、壬生をにらんでいる。だが壬生は菅原は殺さないという。買っているから。頭は切れるし商売上手、しかしこのままではどちらも中途半端な街の輩だ。もっと大きな影響力をもつために菅原のちからが必要だと、味方に引き入れようとするのである。

犬飼のことを壬生がどう評価しているかは不明だが、いちおうこのはなしには犬飼も入っているらしい。もちろんこんな誘いに犬飼は納得できない。だが壬生は、それを選んだのはお前だとあっさりいう。そして道理を説く。あの事件は、小山の依頼で京極が指示したものである。怒るべきはほんとうに壬生なのか。

 

 

「俺は京極の犬だ。お前と同じ言いなりの犬だ。

 

首輪を外していずれ奴にカエシてやる」

 

 

 

久しぶりに烏丸弁護士の登場だ。山城に呼び出されたらしい。九条が恐喝の共犯に問われる可能性があるが、知ってることはないかというはなしだ。烏丸は、こういう人間なので、表面的には落ち着いたものである。それに、こういうふうになるだろうというのが、烏丸のいっていたことでもある。九条は最悪弁護士会退会処分になるという。これは弁護士にとって死刑宣告に等しいと山城はいうのだった。

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

弁護士にとって死刑宣告に等しいということは、たぶん復帰は難しいというようなことだろうな。烏丸はどんな感情でいるのだろう。

ただ、山城のいっている件は、数馬が壬生を訴えたら、というはなしである。この流れじたいも菅原と山城がつくったものだ。先週の流れではどうも数馬は壬生につくようだったし、今回のこの状況でも、菅原は壬生につくことになるだろう。というかそれ以外選択肢がない感じだった。とすれば訴えじたいがなくなるかもしれない。しかしだとしても、それは壬生がアウトローとして有能だったから回避できただけのことで、かかわったヤクザや半グレが似たようなことをして、しかもあまりキレモノでなくて事件が回避できなかったら、山城のいうとおりになってしまうということになる。今回はいいかもしれないけど、烏丸の危惧する状況は少しも去っていないのだ。

 

壬生は今回、菅原と犬飼という、別々のしかたでじぶんをうらんでいるふたりを丸め込むことに成功した。いや、まだ結論は出ていないので断定はできないが、たぶんうまくいくだろう。とんでもないキレモノだなとしかいいようがない。あのクラブでの状況にしても、ぼくは嵐山が参戦する以外ないと考えていたが、まさか菅原一派をまるごと引き入れていたとはおもいもしなかった。

どうやってあんなに大勢の不良たちを丸め込んだのかというと、たぶん、金と徳性だろう。だが金で買った関係はそれを上回る利益が見込まれる、もしくは不利益が想定できるとき、コントロールできなくなる。このまま菅原についていたほうが、長期的にみてもうかると見るものもいるかもしれないというはなしだ。そこでそのうえに効いてくるのが壬生じしんの魅力である。まず人物として信頼でき、そしてついていきたいとおもわせるカリスマ性を備えていれば、四角四面な「金」の現金さみたいなものはかなり抑えられるのだ。久我がげんにそういう回路で壬生と関係している。久我はまず人間として壬生を尊敬しているのだ。スパイというのは、敵方に味方を送り込むということなので、実はこちらも危険を冒している。裏切らない、もしくは裏切るとしても予想ができる、そういう場合でなければ、スパイは任せられない。このときに紐帯となるのが、壬生とは人徳なのである。その人物を尊敬できると感じるのならば、まずひとは美学の面で裏切るを避けるだろう。さらに加えて、憧れや尊敬の念は信頼も呼び込む。ここでいう信頼とは、身もふたもないいいかたをすれば、「壬生についていったほうが得だ」というようなものだ。こうした人間的魅力のもたらすものが、報酬というその場の短期的なつながりの上にまぶされれば、これだけ大人数を同時に裏切らせるということも可能かもしれない。

こういう想像をするのは、これだけの人数を同時に裏切らせることの難しさもそうなのだが、3億を払うという行為をどうするのかということを考えたときにそれ以外ないということもある。どういうことかというと、いま15人くらいいる不良たちにもし大金を積んだとすれば、それはそれで、アウトローとしてはちょっとカッコワルイからである。まず「3億を払う」という結論は壬生としてはありえなかった。大金すぎるということではなく、それはアウトローとして終わりであることも意味する。菅原と犬飼の暴力に屈服したということを、その行為は示してしまうからだ。さらにいえば、壬生がこれまで他人を経由して行った犯罪について追究するものの出現を誘発しかねないものでもある。要するに、じゃあ俺にも金寄越せよ、という輩が出てきてしまうのだ。かといって、じゃあその3億を15人で割って、ひとりに2000万ずつ払うから、ということになると、彼らに借りをつくることになる。2000万も出るようならそれは不良としては尊敬に値することでもあるので、ぼくが考えているほどでもないのかもしれないが、彼らをスムーズに裏切らせるためにはやはり金以外の要素がどうしても必要だろうとおもわれるのだ。

壬生が菅原を殺さなかったのは、たぶんくちにしたままの理由なのだろうとおもわれる。もしこれがふたりだけの状況で、目撃者がいなかったら、もしかしたら殺しちゃってたかもしれないが、でも菅原はかなり大物の不良なので、金本が消えたときほどすんなりみんなが忘れてくれるとも限らないだろう。菅原は計算のできる男だと、つまりいまこちらにつくことを必ず選ぶはずだという確信があったから、壬生はああいうことをいったのである。多少わだかまりを残した状態で菅原を引き入れることになったとしても、周囲は壬生を尊敬するもので囲まれているわけであって、そうそう裏切れるものでもないだろう。それに組織は「いろんな人間」がいたほうが大きくなる。見落としがなくなるからだ。菅原が壬生と敵対するならそれもよし、そういう人間は、壬生が見落とすものを見つけてくるのである。

 

犬飼は壬生にだまされた気でいたが、自己責任論で一蹴された。犬飼の感覚がどういうものだったかというと、まずいまよりはさらにものが見えていなかった「超バカな10年前の自分」がいる。いまもべつに聡くはないだろうが、とにかくあのころはものすごいバカだった。このバカに、壬生は10年刑務所に入るというのがどういうことか特に説明せず、殺人を依頼した。これがまずひとつ、そして、その後も壬生が特に熱心に面会するようなことがなかったということもここには付け加わっていた。自由が制限される刑務所のなかで犬飼が唯一できた壬生へのコミュニケーションは、「面会を拒否する」ということだけだった。ところが壬生は会いに来ない。犬飼は10年間、「会わない」ということすらさせてもらえなかったのだ。あのときの犬飼の言い方からすると、壬生がもし会えるまで面会をくりかえしていたら、トラブルは回避できた可能性がある。犬飼がこうなったのもこの視点では自然なことなのだ。

だが壬生からすれば依頼を受けたのは彼の責任だ。自己責任論は一般化できないライフハックだが、自分自身に対して戒めとして用いるぶんには有効なときもある。ここで壬生は「人殺し」と呼んで犬飼をつきはなしているが、続く言説は犬養とじぶんがそう変わらない「言いなりの犬」だということを伝えるものなので、少し彼に寄り添ったものに変化もしている。つまり、親や教師がいうような言葉ととらえることも可能なのだ。普遍的な定理として自己責任論を持ち出すことは愚かだが、自分を戒めるときのように、あるもの、とりわけ先を期待しているようなものを先達が叱りつけるようなときもまた、有効に働きうるかもしれない。だまされていようがバカだろうが、誰に強制されたわけでもない犬飼じしんの選択でそうなったのである、だったらその結果を引き受けなければならないと、そういっているわけだが、これは犬飼じしんの選択権を多いに認めたものでもあるのである。同じことを壬生は数馬にもいっていた。決定権を他人に委ねず、自分の頭で決めろと。結果として壬生は数馬や犬飼を教育することになるわけだが、これはおそらく、そういう意図でされているというよりは、壬生じしんのスタンスなのだろう。そして、そういう態度が信頼を呼ぶ。信頼は、一貫性がもたらす。一貫性がなければ将来の利益の予測もできないし、ロールモデルにもならない。そしてげんに、このようにして、壬生には強固な信念があるわけである。

続く壬生の言葉は、じぶんも犬飼と変わらないと伝えるものだ。ここのところは少し飛躍しているのでわかりにくいかもしれない。犬飼の選択が完全に自己責任で語ることのできるものであり、じぶんも変わらないというのであれば、壬生も犬飼も「言いなりの犬」ではない。ここで壬生がいっていることをそのままに受け取るなら、犬飼の言い分にも理を認めなければならない。犬飼もまた壬生のように「言いなりの犬」であるなら、自己責任もなにもないはずだからだ。ここには、彼が夢見ている「京極を打倒した世界」と「現実」とのあいだの疎外のようなものがあるのだ。

わかりやすくするために「京極を打倒した世界」を「正しい世界」、「現実」を「まちがった世界」とする。「まちがった世界」では、なにしろまちがっているので、理不尽がまかりとおっている。犬飼がだまされたと感じるような出来事に満ち満ちており、到底納得できない。だが、そのうえで、壬生は自己責任論を採用するのである。なぜかというと、おそらく彼の考えでは、「まちがった世界」を「まちがっている」とする限りで、成長は生じないからである。いちいちそんなことを指摘してもしかたない、ともあれ、世界がまちがっているなりにくだした判断によってこの結果が訪れているのだから、その責任は引き受けると、こういうことなのだ。これはブラック企業的な思考法でもあり、一歩間違えると「まちがった世界」へ順応してむしろ成長を阻害してしまうものである。だが、彼は「まちがった世界」の歪みを観察するより「正しい世界」にはどうすればたどりつけるのかというところにリソースを割くのである。これが、敵である菅原まで引き入れようとする今回の行動に直結した、彼の基本スタンスと見ていいだろう。世界のまちがいばかりを見ていると、じしんのなかに原因を探さなくなるということはじっさいあるだろう。自分が書いた小説がいっこうに評価を得られない状況で「世間の読解力」ばかりに原因を求めている作家がいたら、ほんとにそうかねとなるだろう。くりかえすように自己責任論は一般化できないしぼくじしん常に批判的でいるものである。だが、じぶんへの戒めという面では、ときに有効であることは認めなければならない。とりわけ壬生のように、より強大に、より多くなろうとするものでは当然の思考様式なのだ。壬生はそれを犬飼に求めるのである。

 

 

 

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