今週の九条の大罪/第63審 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第63審/愚者の偶像⑭

 

 

 

 

菅原とケリをつけるため、彼のクラブにやってきた壬生。犬飼も含めた彼らからは3億を要求されているが、むろん壬生は手ぶらだ。周囲は金属バットをもった壬生以上の巨体にかためられてとても逃げたりたたかったりできる状況ではない。

 

 

フロアに転がっているかたまりはやはり久我だ。壬生が声をかけて無事を確認、そして帰ろうとする。いやいや帰れないだろ。丑嶋社長みたいだな。

金をもってきた様子がない壬生に犬飼は怒る。壬生ははっきり払う意志がないことを伝えるが、すると菅原が、ほとんどいきなりバットで殴りつけてくる。上から振り下ろす感じだ。壬生は十字受け気味にこれを受け止める。バットが曲がってしまっているので、菅原は少なくとも重傷を与えるつもりで殴ったのだろう。が、壬生は平気だ。わりと冷静なふりをしていた菅原が、たまっていたものを吐き出す。久我を潜入させて介護施設をつぶされた件だ。あのときは報道もされていたはずだし、山城弁護士とともにそうとうやっかいな目にあったはずだ。3億どころではなく全財産寄越せと。だが壬生は逆に時計を弁償しろという。どうも、バットの一撃は高そうな腕時計で受け止めたものらしい。

菅原でなくても、この状況でなにいってんの?となるところだ。京極に尻拭いしてもらうつもりなのかと菅原はいう。ねんのためメモだが、菅原は「京極さん」といっている。

俺はいつも用意周到だという壬生。とつぜん、取り巻きのひとりが菅原をバットで殴りつける。犬飼も複数のものからポコポコやられてうずくまる。何人かスパイがいたどころではない、周囲を封鎖していた筋肉バットたちは、ひとり残らず壬生の息がかかっていたのである。

そうしている間に壬生が久我を救出、顔をおおっていたビニールを剥ぐ。かなりうらんでいる菅原と、なにするかわからない犬飼のもとにいたので、どんな状態が少し気がかりだったが、ひどく殴られたという程度で、歯を抜かれたりみたいな取り返しのつかない系のやつはされてないっぽい。微妙な描写だが何日かたっているはずで、ご飯とか水分とかどうしてたのかなとかも気になる。ドМだから大丈夫だろと、壬生はいつか聞いたような声をかける。

最初は抵抗していたようだが、ある程度殴られて観念したらしい菅原が、あぐらをかいてとっとと殺せという。犬飼は地面につぶれているが、意識はあって、壬生をにらんでいる。だが壬生は菅原は殺さないという。買っているから。頭は切れるし商売上手、しかしこのままではどちらも中途半端な街の輩だ。もっと大きな影響力をもつために菅原のちからが必要だと、味方に引き入れようとするのである。

犬飼のことを壬生がどう評価しているかは不明だが、いちおうこのはなしには犬飼も入っているらしい。もちろんこんな誘いに犬飼は納得できない。だが壬生は、それを選んだのはお前だとあっさりいう。そして道理を説く。あの事件は、小山の依頼で京極が指示したものである。怒るべきはほんとうに壬生なのか。

 

 

「俺は京極の犬だ。お前と同じ言いなりの犬だ。

 

首輪を外していずれ奴にカエシてやる」

 

 

 

久しぶりに烏丸弁護士の登場だ。山城に呼び出されたらしい。九条が恐喝の共犯に問われる可能性があるが、知ってることはないかというはなしだ。烏丸は、こういう人間なので、表面的には落ち着いたものである。それに、こういうふうになるだろうというのが、烏丸のいっていたことでもある。九条は最悪弁護士会退会処分になるという。これは弁護士にとって死刑宣告に等しいと山城はいうのだった。

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

弁護士にとって死刑宣告に等しいということは、たぶん復帰は難しいというようなことだろうな。烏丸はどんな感情でいるのだろう。

ただ、山城のいっている件は、数馬が壬生を訴えたら、というはなしである。この流れじたいも菅原と山城がつくったものだ。先週の流れではどうも数馬は壬生につくようだったし、今回のこの状況でも、菅原は壬生につくことになるだろう。というかそれ以外選択肢がない感じだった。とすれば訴えじたいがなくなるかもしれない。しかしだとしても、それは壬生がアウトローとして有能だったから回避できただけのことで、かかわったヤクザや半グレが似たようなことをして、しかもあまりキレモノでなくて事件が回避できなかったら、山城のいうとおりになってしまうということになる。今回はいいかもしれないけど、烏丸の危惧する状況は少しも去っていないのだ。

 

壬生は今回、菅原と犬飼という、別々のしかたでじぶんをうらんでいるふたりを丸め込むことに成功した。いや、まだ結論は出ていないので断定はできないが、たぶんうまくいくだろう。とんでもないキレモノだなとしかいいようがない。あのクラブでの状況にしても、ぼくは嵐山が参戦する以外ないと考えていたが、まさか菅原一派をまるごと引き入れていたとはおもいもしなかった。

どうやってあんなに大勢の不良たちを丸め込んだのかというと、たぶん、金と徳性だろう。だが金で買った関係はそれを上回る利益が見込まれる、もしくは不利益が想定できるとき、コントロールできなくなる。このまま菅原についていたほうが、長期的にみてもうかると見るものもいるかもしれないというはなしだ。そこでそのうえに効いてくるのが壬生じしんの魅力である。まず人物として信頼でき、そしてついていきたいとおもわせるカリスマ性を備えていれば、四角四面な「金」の現金さみたいなものはかなり抑えられるのだ。久我がげんにそういう回路で壬生と関係している。久我はまず人間として壬生を尊敬しているのだ。スパイというのは、敵方に味方を送り込むということなので、実はこちらも危険を冒している。裏切らない、もしくは裏切るとしても予想ができる、そういう場合でなければ、スパイは任せられない。このときに紐帯となるのが、壬生とは人徳なのである。その人物を尊敬できると感じるのならば、まずひとは美学の面で裏切るを避けるだろう。さらに加えて、憧れや尊敬の念は信頼も呼び込む。ここでいう信頼とは、身もふたもないいいかたをすれば、「壬生についていったほうが得だ」というようなものだ。こうした人間的魅力のもたらすものが、報酬というその場の短期的なつながりの上にまぶされれば、これだけ大人数を同時に裏切らせるということも可能かもしれない。

こういう想像をするのは、これだけの人数を同時に裏切らせることの難しさもそうなのだが、3億を払うという行為をどうするのかということを考えたときにそれ以外ないということもある。どういうことかというと、いま15人くらいいる不良たちにもし大金を積んだとすれば、それはそれで、アウトローとしてはちょっとカッコワルイからである。まず「3億を払う」という結論は壬生としてはありえなかった。大金すぎるということではなく、それはアウトローとして終わりであることも意味する。菅原と犬飼の暴力に屈服したということを、その行為は示してしまうからだ。さらにいえば、壬生がこれまで他人を経由して行った犯罪について追究するものの出現を誘発しかねないものでもある。要するに、じゃあ俺にも金寄越せよ、という輩が出てきてしまうのだ。かといって、じゃあその3億を15人で割って、ひとりに2000万ずつ払うから、ということになると、彼らに借りをつくることになる。2000万も出るようならそれは不良としては尊敬に値することでもあるので、ぼくが考えているほどでもないのかもしれないが、彼らをスムーズに裏切らせるためにはやはり金以外の要素がどうしても必要だろうとおもわれるのだ。

壬生が菅原を殺さなかったのは、たぶんくちにしたままの理由なのだろうとおもわれる。もしこれがふたりだけの状況で、目撃者がいなかったら、もしかしたら殺しちゃってたかもしれないが、でも菅原はかなり大物の不良なので、金本が消えたときほどすんなりみんなが忘れてくれるとも限らないだろう。菅原は計算のできる男だと、つまりいまこちらにつくことを必ず選ぶはずだという確信があったから、壬生はああいうことをいったのである。多少わだかまりを残した状態で菅原を引き入れることになったとしても、周囲は壬生を尊敬するもので囲まれているわけであって、そうそう裏切れるものでもないだろう。それに組織は「いろんな人間」がいたほうが大きくなる。見落としがなくなるからだ。菅原が壬生と敵対するならそれもよし、そういう人間は、壬生が見落とすものを見つけてくるのである。

 

犬飼は壬生にだまされた気でいたが、自己責任論で一蹴された。犬飼の感覚がどういうものだったかというと、まずいまよりはさらにものが見えていなかった「超バカな10年前の自分」がいる。いまもべつに聡くはないだろうが、とにかくあのころはものすごいバカだった。このバカに、壬生は10年刑務所に入るというのがどういうことか特に説明せず、殺人を依頼した。これがまずひとつ、そして、その後も壬生が特に熱心に面会するようなことがなかったということもここには付け加わっていた。自由が制限される刑務所のなかで犬飼が唯一できた壬生へのコミュニケーションは、「面会を拒否する」ということだけだった。ところが壬生は会いに来ない。犬飼は10年間、「会わない」ということすらさせてもらえなかったのだ。あのときの犬飼の言い方からすると、壬生がもし会えるまで面会をくりかえしていたら、トラブルは回避できた可能性がある。犬飼がこうなったのもこの視点では自然なことなのだ。

だが壬生からすれば依頼を受けたのは彼の責任だ。自己責任論は一般化できないライフハックだが、自分自身に対して戒めとして用いるぶんには有効なときもある。ここで壬生は「人殺し」と呼んで犬飼をつきはなしているが、続く言説は犬養とじぶんがそう変わらない「言いなりの犬」だということを伝えるものなので、少し彼に寄り添ったものに変化もしている。つまり、親や教師がいうような言葉ととらえることも可能なのだ。普遍的な定理として自己責任論を持ち出すことは愚かだが、自分を戒めるときのように、あるもの、とりわけ先を期待しているようなものを先達が叱りつけるようなときもまた、有効に働きうるかもしれない。だまされていようがバカだろうが、誰に強制されたわけでもない犬飼じしんの選択でそうなったのである、だったらその結果を引き受けなければならないと、そういっているわけだが、これは犬飼じしんの選択権を多いに認めたものでもあるのである。同じことを壬生は数馬にもいっていた。決定権を他人に委ねず、自分の頭で決めろと。結果として壬生は数馬や犬飼を教育することになるわけだが、これはおそらく、そういう意図でされているというよりは、壬生じしんのスタンスなのだろう。そして、そういう態度が信頼を呼ぶ。信頼は、一貫性がもたらす。一貫性がなければ将来の利益の予測もできないし、ロールモデルにもならない。そしてげんに、このようにして、壬生には強固な信念があるわけである。

続く壬生の言葉は、じぶんも犬飼と変わらないと伝えるものだ。ここのところは少し飛躍しているのでわかりにくいかもしれない。犬飼の選択が完全に自己責任で語ることのできるものであり、じぶんも変わらないというのであれば、壬生も犬飼も「言いなりの犬」ではない。ここで壬生がいっていることをそのままに受け取るなら、犬飼の言い分にも理を認めなければならない。犬飼もまた壬生のように「言いなりの犬」であるなら、自己責任もなにもないはずだからだ。ここには、彼が夢見ている「京極を打倒した世界」と「現実」とのあいだの疎外のようなものがあるのだ。

わかりやすくするために「京極を打倒した世界」を「正しい世界」、「現実」を「まちがった世界」とする。「まちがった世界」では、なにしろまちがっているので、理不尽がまかりとおっている。犬飼がだまされたと感じるような出来事に満ち満ちており、到底納得できない。だが、そのうえで、壬生は自己責任論を採用するのである。なぜかというと、おそらく彼の考えでは、「まちがった世界」を「まちがっている」とする限りで、成長は生じないからである。いちいちそんなことを指摘してもしかたない、ともあれ、世界がまちがっているなりにくだした判断によってこの結果が訪れているのだから、その責任は引き受けると、こういうことなのだ。これはブラック企業的な思考法でもあり、一歩間違えると「まちがった世界」へ順応してむしろ成長を阻害してしまうものである。だが、彼は「まちがった世界」の歪みを観察するより「正しい世界」にはどうすればたどりつけるのかというところにリソースを割くのである。これが、敵である菅原まで引き入れようとする今回の行動に直結した、彼の基本スタンスと見ていいだろう。世界のまちがいばかりを見ていると、じしんのなかに原因を探さなくなるということはじっさいあるだろう。自分が書いた小説がいっこうに評価を得られない状況で「世間の読解力」ばかりに原因を求めている作家がいたら、ほんとにそうかねとなるだろう。くりかえすように自己責任論は一般化できないしぼくじしん常に批判的でいるものである。だが、じぶんへの戒めという面では、ときに有効であることは認めなければならない。とりわけ壬生のように、より強大に、より多くなろうとするものでは当然の思考様式なのだ。壬生はそれを犬飼に求めるのである。

 

 

 

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