すっぴんマスター -39ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第133話/蹴速VS独歩

 

 

 

 

蹴速と独歩の試合が始まる!ずいぶん更新が遅くなってしまったので今回は駆け足で。

最初の攻撃は独歩の突きと蹴速の蹴りだ。前回の引きが蹴速の蹴りで、拳や蹴り足の位置関係からしても、まず蹴りが放たれ、独歩がそれを迎えうつのに拳を選択したようである。

廻し蹴りっぽい軌道で放たれた蹴速の蹴りだが、じっさいはかかとを突き出す横蹴りのような軌道である。なんか前もこんなことあったな。これは、力士が四股で大地を踏みしめるのに通じる動作かもしれない。初登場時の岩もこれで砕いていたし、いずれにせよ蹴速にとってもっとも強力な攻撃といっていいだろう。これを独歩が拳で受け止める。ゆるく握った拳を強く握りこみながらねじ入れる、お手本のように美しい正拳だ。蹴速の蹴りがこちらに伸びてくるぶん、ねじ込みは着弾よりすこし遅れており、結果としては威力が浸透しやすくなっているのかもしれない。

骨と骨がぶつかった音なのか、大きな音で互いを弾く。もちろん独歩の拳はなんでもない。すさまじい部位鍛錬により、拳がそれじたいで鈍器になっているような男なのだ。たほう、涼しげな表情の蹴速だが、いまのでかかとにヒビが入ってしまった。同じように四股立ちで向き合うも、独歩は立ち方の違和感などから右足を負傷したことを見抜いてしまう。だが蹴速はいつもの「なにがですか顔」をする。「なんでこんな意味のないことするんですか?」とかピュアに訊ねちゃう新入社員みたいな表情だ。

だが独歩にはもうわかっていることだ。蹴速は認めるかわりにすさまじい勢いで右足を地面に打ち込み、無事をアピールした。文字通り地面に足が刺さっている。案外見たことのない描写だな。

闘争にはたくさんの嘘が必要であると、独歩は蹴速の態度を肯定、続く攻撃も再び右足で行う蹴速も認めている。今度は独歩も蹴りだ。やはり互いに横蹴り気味の直線形の蹴りのようだ。ということは足裏、もしくはかかとどうしがぶつかりあったのだろうか、両者ははじけ飛ぶのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

最初の拳とかかとの衝突のエネルギーは、蹴速のかかとにヒビが入ったぶぶんに流れ込んだ。だからということでもないだろうが、最初が弾きあうような感じではなかった。今回は互いに遠くにふっとんでいるので、どこも怪我していないのかもしれない。

 

試合ははじまったばかりで、なんでもない描写だが、蹴速のスタンスがひとつ明確になった。ヒビが入ったかかとを、彼は地面に叩きつけた。怪我してると指摘されて、してないけど?としたわけだ。これじたいはふつうのことだが、蹴速がやるとまた意味がちがってくる。たたかっていれば怪我をするのは自然なことだ。つまり、こういう怪我に関してはもうひとつ、「こんな程度のこと怪我のうちに入らない」というスタンスがありうるわけである。そうであるところ、彼は怪我の存在を認めないのである。彼が展開する「仕切りなおし理論」に「負け」はない。仮に当代のものが死亡してしまったとしても、それを勝利までの幕あいだと解釈すれば、敗北ではない。敗北を認めないことによって勝利までの道のりを耕していく、そういう思考法なのだ。敗北には敗因というものがある。敗北を認めないのであればそういうものも見えてこないわけで、進歩もないのでは、ともおもわれるが、この「認めない」というのは、おそらく現実逃避的なこととはちがうのだろう。当麻家はたぶん敗因を探るということはしているはずである。つまり、うちうちでは、ある試合の結果を敗北として受け容れてはいるのだ、そうでなければ彼らは永遠に野見に勝つことはできない。つまりもっと厳密にいえば仕切りなおし理論とは、「敗北を認めているところを周囲には見せない」という態度だったのである。そして、そういう嘘を積み重ねた先に、じっさいに「負けていない」という事実が訪れ、やがて「勝利」にたどりつくという確信が、彼らにはあるのである。今回のかかとの件はこの思考法の縮小版だ。負傷を認めず、表情にもその気配をにおわせないほどに内と外が離れれば、やがてその事実も存在が薄まっていく。認めないことによって、げんにそれがないという事実が到来するのである。

こういう思考法の結果、蹴速はあの「なにがですか顔」を身につけていったのだろう。蹴速では内と外が別のルールで律されている。そうして外面を取り繕うことで、やがて追いつく(かもしれない)内面の成長を待つのだ。こういうことを2000年も続けているというのなら、きっと成功体験があるはずである。というのは、こう書きながらも、この蹴速ルール、「仕切りなおし理論」が有効とはちょっとおもえないからだ。花山くらいの気高さがあれば読者として説得される可能性もあるが、そうでもない。それどころか、独歩にはわずかな立ち方の違和感を見抜かれてしまっている。これはつまり、蹴速の専門であるところの外面の取り繕い、要するに嘘がばれてしまっているということなのだ。「仕切りなおし理論」はまず外面を用意して、内面がそれに追いつくのを待つ。しかしじっさいにはそううまくいかない。負けた事実を認めなければ敗因分析はできず勝利はやってこないし、足が痛ければ重心移動も不自然になる。彼が隠そうとする対象こそが本質なのだ。だからこそ、つまり、そういう事実を当麻が2000年かけても理解していないということはないはずなので、成功体験があるのではとおもわれるわけである。これが描かれるということはないだろうが、このあたりは作品外の情報含めて深めるとおもしろくなるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第62審/愚者の偶像⑬

 

 

 

 

 

金持ちになった虚無感から関係性を金で買うようになり、典型的な詐欺に引っかかって大金を失った門脇数馬。その件は壬生や九条のちからを借りて解決することができたが、手数料として取り戻した金の大半を壬生に持っていかれてしまう。そのことを相談する相手が、最近知り合いになった、壬生とも敵対する菅原なのだった。

 

とりあえず菅原は顧問の山城弁護士に連絡をとる。これは恐喝であり、警察に連絡すれば壬生逮捕もありうると。はなしにかんでいる九条さえ逮捕される可能性があるとまで山城はいう。大袈裟にいっているわけではなく、じっさいその可能性が高いということのようで、九条のスタンスが気に入らない山城は爆笑している。菅原は近いうち犬飼とともに壬生を詰めるつもりでもあり、どの方面から見ても壬生はもう終わりである、はやくどちらかを選べと、菅原は数馬にいうのだった。

 

やってきた数馬に、壬生は新しい仕事を頼もうとしている。1億出資させて赤字経営の会社の共同経営者になり、黒字になったら売ろうという、いつかいっていた究極の金儲け、安い会社を買って高く売るというやつだ。全国チェーンの豚王国という居酒屋で、はじめたばかりの介護ビジネスに食事を流すアイデアもあるという。そこの社長について内偵してこいと。どれだけの搾取が行われるのか、またどれだけ数馬にとってもうけがあるのか、不透明なぶぶんはあるものの、言葉のままならふつうのビジネスに見える。つまり、そうじゃないんだろうな。いくら壬生がキレモノでも、そうかんたんに問題解決できるなら、その道のプロがなんとかしてるんじゃないかともおもえる。

だがそもそも数馬には1億なんて金はない。壬生は懐事情はわかってるという。そこで数馬は4000万の件をついに話す。いくらなんでも半分もっていくのはやりすぎじゃないかと。この言い方だと、1億とはいわないまでも金はありそうな感じだ。そんなはずはないのだが・・・。

尊敬してた壬生に裏切られた気分だというのを聴いて、壬生は素直に、普段から取り分は半分だからと言い訳する。不満があるなら交渉しろよと。たしかにそうだろう。表面的にはまともな言説だ。

壬生は菅原の名前を持ち出して、空気を入れられたんだなという。壬生が数馬を気に入ったのは妹やひとのために考えて行動してたからだった。いずれにせよ、決めるのは菅原でも自分でもない、決定権を他人にゆだねるなと、壬生はいうのである。

 

その足でか、数馬は妹のお見舞いだ。元気になったら数馬がテレビでいっていた江ノ島にいってしらす丼食べたいと、泣けることをいう。妹の数恵が眠ったところで母親がやってくる。母親は説明くさい口調で数恵について語る。病気は拘束型心筋症。法改正で脳死の子どもから臓器移植ができるようになったが日本では時間がかかる。アメリカで手術するのに2億円。数馬は、手術代としてコツコツ貯めて8000万になるという驚くべきことをいう。数馬は、詐欺で失った金や千歌に提供するものも含めて、妹のために貯めた金は勘定にいれていなかったのである。

 

帰り道ではなにかを決意したようである。「こうなりたくない」の選択肢はよくわかっている。彼が「こうなりたくない」とおもうものは、たとえば歳をとっただけのガキであり、ひとの失敗だけが好物の極端に損をおそれる人間である。欲だけ一人前で惰性で生きる「一般大衆」にはなりたくないのである。

 

 

さて、菅原とケリをつけるといって数馬とわかれた壬生は、菅原がケツモチをしているクラブにやってきている。倒れているのは久我かな。壬生もすごいガタイだが、明らかに素人ではないとおもわれる巨体のものもごろごろおり、そういう連中が15人ほど、金属バットをもって壬生を包囲する。もちろん、そこには菅原と犬飼もいるのである。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

どう考えても暴力で突破できる状況ではなく、かといって説得でどうにかなるともおもわれないが、壬生は勝機がなければこんなところにのこのこやってこないだろうから、きっとなにか作戦があるのだろう。おとなしく3億もってきてる様子もない。くりかえすように、いま対菅原・犬飼で壬生が使えそうなものというと嵐山以外にない。娘殺しの黒幕として、嵐山は壬生をうらんでいるが、当然主犯である犬飼を出所後マークしていないということはないはずなのだ。なにかうまい口実をつけて通報しているのではないだろうか。

 

今回いちばん驚いたのは数馬にはまだ貯金があったということである。金持ちになってはいいが、なにも生産しないブルシットな日々に損なわれ、彼はやがて人間関係を金で買うようになった。金で買った関係は持続することがなく、彼は次から次へと金を使っていかなければならなくなり、そんなときに、おいしいはなしにのせられて詐欺に引っかかり、全財産を失ってさらに借金までしてしまったのである。そこで、壬生伝いに九条を紹介してもらったというのがこの何回かのはなしだ。あのとき、全財産を失ったとくちにする数馬の表情に嘘があるとはおもわれなかった。げんに、彼としても嘘をついているつもりはなかったのではないか。つまり、数馬にとっては、じぶんがつかえるお金、「財産」といえるお金と、妹のためにしていた貯金は、まったく別のものだったのである。ほとんど感動的とすらいってもよい兄の強さである。どうしてそんなことが可能だったかというと、数馬にとっては「妹を救う」ということが、すべての動機に先立つ根本的な使命だったからである。ふつう、お金というものは、あなたがもっている1万円札とわたしがもっている1万円札にちがいはないので(ちがいがないことがお金の存在目的なので)、なんの契約もなくそれを交換することができる。ところが、数馬にとってはそうではない。「妹のための貯金」として組み込まれた1万円は、もう「妹のため」という目的以外で動くことのない、お金以外のなにかになっているのだ。

そして、そんな数馬を気に入ったと、まさに今回その8000万円(プラス2000万)を必要とする壬生がいったということが、符合でもあり、不気味でもある。壬生は貧乏な時代から数馬の面倒を見ているので、どれくらい稼いでいるかだいたい見当がついていたわけだ。妹を大切にする数馬である、詐欺に際しても奪われることのなかった、かたい資産があるにちがいないと、壬生は踏んでいるのかもしれない。

ただ、それも別に強制するものではない。壬生は本心からいっているのかもしれないが、なんであれもしここで数馬が1億用意することになるのであれば、ある種の洗脳のように、数馬は壬生の思ったとおりに動いていることにもなる。ただ、やはりどうだろうな、壬生はふつうに裏のないことをいっているような感じもするが・・・。

壬生は決定権を他人に預けず、自分で決めるようにいう。こうなれば、壬生が暴力や詐欺まがいのことをしたとしても、1億出したのは本人の意志だったということになるだろうし、法的にどうこういう以前に、数馬がそのことを認めてしまう状況になってしまうだろう。

 

その結果数馬にどういう心境の変化が訪れたのか、それは次回以降ということになるが、今回のモノローグで描かれたことは、「こうなりたくない」はこれまでもずっとあった、そしてこれからはその先、「毒を飲み込んででも富裕層になってやる」ということである。「こうなりたくない」の選択肢はわかってる、といっている以上、このマインドは以前からあったもので、じっさい彼の金持ち成長譚は貧乏な父親を否定するところからはじまっている。つまり、彼のストーリーはすべて「否定形」だった。もちろん、「金持ちになりたい」という漠然とした野望はあった。しかし、たとえば「小説家になりたい」と野望するものが、まったく小説を書かず、別の方法でなりあがったあと、ゴーストライターに書いてもらって本を出すことになっても、うつろな気分になるだけなのである。彼には「金持ちになりたい」の輪郭が、またその内実が、よくわかっていなかった。たんに、金持ちが貧乏の否定形だったというだけのことだ。その考えかたじたいは変わらない。いったい、そのままの思考法で、彼が新しい境地に達することはあるだろうかというと、それは否定すべき対象を知り尽くした、背理法のような思考法をとったときである。じっさいにそんなことは不可能だが、ここでは実感が伴えばそれで済む。「こうなりたくない」の全容がすべて解明されたとき、「こうなりたくない」、ではないありようの全容も同時に判明する。理屈ではそうなる。数馬に訪れた実感は、おそらくそのようなものだったはずである。すると、彼は、彼自身の内側にもありえたすべての、ほんの些細なものまで含めた「こうなりたくない」まで捨て去ることになる。これが「毒を飲み込んで」ということとおもわれる。彼は、彼自身を構成してもいる弱さ、彼を彼たらしめる条件である無意識下の醜いものも捨て去り、数馬であることを辞めるのである。これはむろん、これまでみてきた小山的なありようだ。小山的なものが喜んで参加した「大人の運動会」を、以前までの数馬は気持ち悪いと感じていた。というのは、この「大人の運動会」の目的が、金のちからが及ばなかった幼い時代をも金で覆い尽くすというところに背徳感を覚える、こういうものだったからである。これは、ちょうど出所した犬飼が象徴するように、人生のある種の断絶を受け容れるもののことである。数馬はそうではなかった。数馬は、父親を否定するかたちで現存していた。したがって、父親は、否定されるものとして、まだ存在しており、もっといえば並存している。彼の生は貧乏なときからずっと地続きで、それゆえ、小山的な断絶の思考法、幼いころの記憶を快楽のために切り売りするようなありようを、拒否していたのである。だが、おそらく、強い決意とともに「こうなりたくない」の拒否を徹底することを決めた彼は、じしんを改変することを余儀なくされる。ここに断絶が生じるのだ。もっとずっとたんじゅんにいえば、小山的なものになることを受け容れるこころの準備が、数馬のうちに整ったのである。

では具体的になにをするのか。つまり、毒とはなんなのか。流れからすると1億を壬生に預けるというはなしだろう。壬生に金を預けるだけならこれまでと変わらない。それが毒となるのは、その1億が、ほかの1億と交換できないものであるときだけだ。むろん、「全財産」に含まれない妹のための貯金である。ここまでの彼の稼ぎかたの思考法は単線的だった。究極的には妹に金が集まりさえすればそれでよかった。だが、妹を治すにはもっともっと金がいる。そこで彼は、「妹のために金を貯める」という、彼自身の最後の鎧でもあった弱さを捨て去る。彼は、「妹のために妹を売る」決意をしたのである。

 

 

 

↓九条の大罪7巻 11月30日発売予定

 

 

 

 

 

 

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通勤時間などに電子でちょっとずつ読んでいたRainbow RowellのEleanor&Parkを読み終えた。とっくに『エレナーとパーク』のタイトルで邦訳もされている、80年代のアメリカを舞台にしたティーンの恋愛ものだ。調べてみたら2020年の1月の記事ですでに読んでいるようなので、もしかすると3年くらいかけて読んでいたのかもしれない。別に難しい英語で書かれている本ではないのだけど、通勤時間等のちょっとした空き時間に読むということをどこかで決めていたためにこうなった感じだ。

 

きっかけは前の前の勤務先で洋書をやっていたことだ。ツイッターで知ってる限りの現役作家をたくさんフォローして、そこから流れてくる情報や関係性の網目を手がかりにアメリカやイギリスの出版社・書店もフォロー、知らない作家の新作概要を読む、というような日々だった。そこまで熱心に仕事をしているものはまわりにもいなかったが、もともとが誰もなにもしていない棚だったということもあり、結果はすぐに売上に反映されていった。しかし、売上が3倍になろうとも・・・逆にいえばそれで忘れられていた「洋書」という棚が目立ってしまったせいで、むしろ縮小しよう、なんなら洋書をやめようというようなばかげた話すら出るようになってしまい、なかなか、モチベーションを保つのは難しかった。週一でニューヨークタイムズのベストセラーランキングみたいのチェックして、知らない作家や海外で話題の人物・事物をインプットして、傾向をみて、とはいえ日本のこの立地では売れないかなとか考えたりみたいなの、懐かしいなあ(いまはもうやってない)。

 

そのころの最初の段階で、まず「YA(ヤングアダルト)」という分類をはじめて知った。いまではなんのこともないふつうの分類におもえるが(図書館でも使用されている)、10年以上書店員をやっていてはじめて知ったものだった。要するに10代の若者向けということで、日本では典型的には新海誠とかがイメージしやすいかもしれない。ライトノベルも機械的な分類では含まれるかもしれないけど、なんとなくこの語には若者の生活と地続き感があるので、いわゆるライトノベルではファンタジー色が強すぎるかも。こういうところで、YAの売れそうなやつとか、もともと棚にあったやつとかを見ている過程で、本書を見たのである。というのは、どれか1冊YAを読もうかなとはなったのだが、その時点で5冊くらい洋書を抱えていたので(なにを読んでいたのか、そしてそれがどこにいったのかはもうよくわからない)、これに関しては「持ち歩いてちょっとずる読もう」ということが最初から決まっていたみたいに、電子で購入することにしたのである。

 

アジア系のパークという男の子は、小さくてなめられがちでもあるがテコンドーをやっているので実はけっこう喧嘩が強く、おそらく女の子からもけっこう人気がある。彼のいる学校に、いかにも冴えない、しかりひどく個性的なエレナーという女の子が転校してくるおはなしだ。ほとんど慣用句のように、転校生のエレナーは通学バスや学校で意地悪をされるが、パークはそんな彼女とひとめで恋に落ちてしまう。だが、両者はただ純粋に恋だけを楽しめばよい人生ではない。とりわけエレナーの家庭環境はひどく、貧困だけでなく、母親の新しい夫の男の暴力的なふるまいがエレナーや小さな兄弟たちにまで及びかねない日々で、このあたりの描写は非常に暗く、つらい。

恋愛ドラマは原則的に彼らの私的関係をいかにして公的なものしていくかということの過程を描写することになる。結婚は恋愛の社会化の到達点だ。そのために、私的関係であったはずの恋愛関係はいくつもの障害を乗り越えなくてはならなくなる。それがシェイクスピアの時代から続く恋愛ドラマの構成の定番といっていいだろう。そういう意味ではごくふつうのラブストーリーといえるかもしれない。エレナーもパークもある種の瑕疵(もちろん、あるひとびとはそうとらえる、という意味で)を抱えており、毎日がまったくままならず過ぎていく。恋愛ものがというか、YAを読んだことがないということもあってこれ以上のことは書けないが、それでもどことなく本書が優れていると感じられるのは、互いに人生の苦しさを抱えつつも、ときには思い切った方法を用いてそれを乗り越えていくということかもしれない。エレナーの家庭環境からすると、ふたりの恋がすごく順調に運ぶものではないだろうということは明らかだった。そしてじっさい、最高にすっきりしたエンディングが訪れるということはない。しかしそれでも、なんの根拠もなく、再生と再構築の感覚は、読後読者のなかに宿っている。そのままならない日々のなかで、ひとつだけ不動におもわれるものが、彼らの間にはたしかにあったからである。

 

ショーン・ダフィのシリーズもそうだが、こういうふうに長い時間をかけて、しかもほとんど毎日ちょっとずつ読んでいくということをしていると、登場人物が他人のようにおもわれなくなってもくる。今回は英語で読んだこともあって、日本語よりはるかに深く読み込まなければならなかったということもあるかもしれない。母語では読み飛ばしてしまうぶぶんも、外国語ではそうもいかないからだ。洋書をやっていた店のあと、ぼくは思い出すだけで気が滅入る地獄みたいなところに異動になった(いまはまたちがうところにいる)。その通勤時にもぼくはこれを読んでいたので、ふたりにはずっと助けられていたとおもう。今回は読み終わるのがほんとうに辛かった・・・。でも、こういう読み方もあるんだなと、いろいろ勉強になった。次はなんのYAを読もうかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第132話/古代角力と空手

 

 

 

 

ついについに愚地独歩と当麻蹴速のたたかいがはじまるぞ。

休載と自衛隊漫画をはさんでだいぶたってしまった。自衛隊漫画はまえの2エピソードも非常に優れているので、1冊の単行本にして出してほしいなあ。行軍のはなしのときに、ごく短い休憩時間で、用意された時間の大部分を使って先輩たちがわざわざ装備をはずして休憩するというくだりがあって、それを読んでからはぼくも休憩時間にちゃんとエプロンとったりネクタイゆるめたりするようにしている。装備のまま疲れに任せて短時間眠っちゃうと起き上がれないくらい疲労が前面に出てしまうのだ(板垣先生がそれをやってしまった)。

前にチャンピオン本誌サイズの増刊だかムックだかで『戦場の詩』というのが出たことがあった。自衛隊漫画と、少しだけ発表されたガイアの外伝漫画、それに本編ジャックの回想によった勇次郎とジェーンのなりそめのくだりを収録した、ミリタリー系のエピソードを網羅したかなりナイスな1冊だったけど、ああいう感じで、ふつうに単行本出して欲しいです。お願いします。

 

 

 

なにしろ独歩が期待してるっぽいのがいい。けっこう上機嫌だよね。その背後に、宿禰のように、高くあげた足を静止させた力士・蹴速がいる。ただ、蹴速はそっと地面を踏みしめる。四股を地面に叩きつけるのではなく、コントロールしておろすのである。これは宿禰のものよりトレーニングとしての効果が高いかもしれない。なんでもゆっくりやるのは技術を練り上げ筋肉を適切に育むのにいいのだ。

審判みたいなひとに呼ばれて両者中央に集まる。独歩が身長178センチなのを考えると、蹴速はぎりぎり190ないくらいかもしれない。宿禰が規格外すぎて小さく感じられるな。

審判のひとの説明にある「正々堂々」のくだりを受け、両者はそれを確認しあう。つまり、そうはいかないことを互いに理解しあっているということだ。

 

元の位置にもどって独歩は息吹を見せる。体中から呼吸とともに余計なものを取り去る空手の呼吸法だ。ぼくのいた道場にはのちに世界チャンピオンになったひともいるのだが、まだ若かったそのひとの指導では、息吹で肋骨や腹筋をしめて内臓を鍛えるということをいっていた。動作として現代に生きている古流のもので、その解釈はさまざまにあるのだろう。実況は息吹を四股に対応する力をためるものととらえている。空手の呼吸は原則的に鼻から吸った空気をへその下、丹田に送り込むようにイメージする。そうすると自然に、近代体育的な意味での腹式呼吸が行われるわけだが、中国拳法など取り入れていた城南支部では、酸素が背骨を通っていく、また出るときもそこを通る、というふうに指導していたような記述を見た記憶がある。また丹田は眉間に第三の目を意識し、そこで見つめる、意識するようにして存在させる、というふうにもどこかで読んだ。いずれにせよ、息吹は、通常無意識に行われる「呼吸」を制御し、関節でつながる身体の連続性を意識しながら、ぎりぎりまで“締める”行為と考えられる。丹田に磁力を宿し、これから行われるたたかいに全身を総動員するのである。と同時に、筋肉はリラックスしていなければならず(緊張はスピードを損なう)、また相手に対する意識も、漠然としているほうが好ましい(一点に集中してはならない)。とっちらかっている手足をひとつの球体にとりまとめて動けるようにする、というような感覚だろうか。

 

試合開始とともに、独歩が小走りで近寄っていく。そして、絶妙の距離感のところで四股立ち。そこへ蹴速の蹴りが襲いかかるのだった。

 

 

つづく。

 

 

 

四股立ちは猛剣戦でもやっていたな。あれはけっこうたたかいのあとのほうに出てきたもので、克巳はこれを、動き回るのをやめて踏みとどまることにしたものと解釈していた。

 

試合はようやくはじまったが、それと同時にまだなにもはじまっていないので、書くこともない感じだ。

ひとつ期待させたのは、審判の「正々堂々」にふたりが反応したことである。ふたりとも、いわゆるフェアプレーをしようという気はなさそうである。いや、蹴速にかんしては、たとえばいきなり逃げ出すようなことをしたりしてとがめられても「なにが?」みたいな顔をしそうではあるので、見たまま、正々堂々やるつもりではあるかもしれないが、この流れはそのように語ってはいないというわけである。そして、互いに相手もまたそうであるということがわかってるっぽい感じもよかった。大相撲篇では、大相撲が特殊であり、たいへんなゲストであったこともあり、なにか理念対決みたいになっていたぶぶんもあったが、久しぶりにバキ的には正統派な、地下闘技場らしい独歩のたたかいが見れるかもしれない。

 

猛剣戦のときの感想では、力士というものは独歩にとって「空手を選ばなかったじぶん」だということを書いた。空手と相撲は実はけっこう似ている。技術の細部をみると似ているはずもないが、行うべきことや理念には近いものがあるのである。だが、現実には両者の距離は離れている。親子喧嘩や武蔵篇を経て「表」と「裏」の差がなくなりつつあるといっても、ひとびとの生活は変わらないし、「強さ」の基準が変わったなんてはなしも聞かない。依然として、かつて独歩が通り魔に使用した危険な技は「使用してはならない技」であり、監視カメラが捕捉する対象であり、つまり独歩のいちぶぶんは「裏」のままなのである。だが相撲はちがう。相撲は、なにを隠すでもなく、全的に「表」の存在である。そしてそれが強さのゆえんでもあった。表だろうと裏だろうと、土俵だろうと地下闘技場だろうと、彼らの「やるべきこと」は変わらないのである。どうしてそういうことになったのかというと、逆説的に相撲ががんじがらめともいえるルールの制約をみずからに課しているからなのだ。ルールは、どれも理由があって設けられるものだが、「試合のルール」を考えるにあたっては、まず「試合」とはなんなのかということを考えなくてはならない。ここで「試合」とは、身につけた技術を使用し、熟練を確認する場所である。だから、技術の修得がうまく確認できないような現場は「試合」にはふさわしくない。ボクシングはパンチの技術に優れた競技である。だが、ある程度体重差があると、技術もなにもなく、純粋な体力差で試合が決してしまうこともある。古い時代には平気で死者も出ていたそうだ。こういうこともあって、厳しい体重制がしかれる。そうすれば、少なくとも体重由来のパンチ力の差は生じず、よりピュアな技術戦が可能になるのだ。

もちろん、いちど決められたルールがのちにふさわしくないとされることはあるだろう。だから極真会館などもルールを日進月歩させている。だが相撲が設置したルールとはいったいなんなのかというと、その動機についてはともかく、結果としては、血をみず、それでいて強さがきちんと反映され、場合によっては前提をくつがえすような勝利がもたらされることもあるものとなったのだ。これは加えて大衆にも受け容れられる。そのようにして、相撲はある種の完成をみたのだ。極真会館の顔面殴打禁止は、たとえば目突きのような空手になくてはならない技術を封印した。じっさいに技術としては存在している(道場では習う)。しかしそれはあくまで「裏」の、現実に実現してはならないものとして細々と継がれていくものなのである。相撲はそうではない。

 

誕生の地点ではよく似ていたかもしれない相撲と空手は、このようにして大きく分岐した。この意味で独歩が、力士に対して、相撲と空手のほとんど唯一の接点ともいえる四股立ちをしてみせるのは、ある種の親近感の表明であるとともに、嫉妬でもあったかもしれない。少なくとも猛剣に対しては複雑なものだったろう。では蹴速に対してはどうかというと、彼も四股を踏むが、「じぶんは力士です」感は大相撲や宿禰などと比べるといかにも弱いわけである。なんというのかな、相撲のオルタナ感が強いのだ。こういう視点でみれば、独歩は親近感を覚えている可能性が高いといえるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

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第61審/愚者の偶像⑫

 

 

 

 

深くわかりあったということでもなければ利害が一致したというようなはなしでもない数馬と千歌に、偶然のような幸福の瞬間が訪れたところである。そこからしばらくは仲良くやっているようだ。千歌がわがままをいい、数馬がそれに応えるという、歪ではあるが充足した関係だ。

そのふたりが仲良く千歌の家に入っていくところを、小山が見ていた。小山と千歌は愛人契約をしており、自分以外の男を部屋に入れたら・・・という脅しを以前していた。ちょうど数馬がご飯をつくっていて聴こえないところにいたので、千歌は小山からの電話に出る。たったいま、たまたま小山が目にしたわけではなく、すでに部下に見張らせていたようだ。契約は解消、違反なので手切れ金もなし。部屋を解約するから出て行けということだ。ちょうど若い女に変えようとおもっていたところだからと、小山はひどいことをいう。千歌は窓から外にいる小山を見ている。

だが千歌のほうが上手である。ひどいことを口走ったという自覚が小山にあると、彼女はそう踏んだようだ。だから「ひどいこと言うわね」という。すると小山は少し態度を軟化させて、「金だけだろ?俺なんて」という、わずかに情のこもった応答である。ここをつかんでたぐりよせない手はない。そう思うのはそっちの問題、自分はそうではなかったと千歌はいう。人間的に小山に問題はあるけど、彼は家族を大切にしている。自分のことも同じように考えていると思ってたと。まず「人間的には問題がある」といきなりいうことで、この言葉が本音に近いということが示される。そのうえで、小山が家族を大切にしている、少なくとも「家族を大切にしている自分」を大切にしている事実をうまく用いて、自尊心をくすぐるのである。小山は一拍あけて引越し代は出すという。千歌はそこに300万円ぶんの家賃も上乗せするのだった。

 

電話を切って、ごはんをもってきた数馬に、別のところでいっしょに住もうと千歌はいう。だが、それは数馬が金持ちであることが前提である。あの詐欺師に会う前に同居が始まっていたら、数馬は虚無感もなかったろうし、状況はちがったかもしれない。だがいまの数馬は文無しだ。さっそく同居を開始しても、数馬は歯磨き粉の量にケチをつけている。そういうのは千歌はいちばん嫌いだろう。数馬は詐欺師の件がどうなったのか九条と連絡をとる。要約すると、携帯番号や口座はわかったが、どれも別人のものだった。だが九条は別の提案をする。登場するのは私立探偵の片桐士郎である。彼も名前が表示されているので、準レギュラーなのかもしれない。手足にがっつり刺青が入っているが暴力の気配は弱く、おしゃれな感じすらする。探偵にしてはものすごく目立つようだが、いまどきの探偵はあまり表に出ないのかもしれない。

片桐は、厳密には壬生の紹介らしい。数馬と詐欺師の智慧光院が出会ったパーティーの様子を撮影した、ネット上に散らばる無数の写真、これをとにかく集め、そのなかから智慧光院を探し出す。そしてこれに懸賞金をかけて、SNSに晒すと。危うさも感じられる方法だが、極めて現代的で、効果的なやりかたかもしれない。顔が出てるなら絶対見つかるよねこんなの。

 

見つかった智慧光院は壬生に詰められる。金は回収できた。だが、被害額の半分、2000万は回収費としてもっていかれ、弁護士費用と借金返済で数馬には300万しか残らなかったという。このはなしを、数馬は先日知り合った菅原にしているのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

菅原は「展開が早すぎる」という。壬生が最初から仕組んでたんじゃないかというはなしだ。菅原的には、犬飼も含めてもうじき壬生を終わらせるつもりである。あんなのとつきあうのはやめとけというところだろう。

ただ、壬生が仕組んでいたとなると、どこからだろう。今回の描写では、智慧光院はふつうにしめられており、顔見知りではなさそう。となると、「数馬は必ずこの手の詐欺にいつか引っかかる」という確信があったことになる。実をいうと、その可能性はじゅうぶんある。いつか書いたことだが、数馬は人生のある段階とある段階を断ち切ることができない普通人である。小山なんかが数馬と同じペースで金持ちになっても、虚無を感じて人間関係を金で買って・・・なんてことにはたぶんならないだろう。金持ちにも適性があるのだ。ひょっとするとこれが、壬生のいっていた、前科のない云々のことなのかもしれない。前科のあるものは、自由を奪われる経験を経て、いちど「幕間」を経験しているにちがいないのである。こういうものは、無機質な金持ちしぐさみたいなものをうまくとれるのかもしれない。

 

数馬と、小山のような人間の分岐点は「大人の運動会」である。同じくらい稼いだとしても、数馬決して小山のようにはなれなかった。「大人の運動会」のような企画を、背徳的で快楽をともなうイベントとは見れず、きもちわるいと感じてしまう、それが数馬なのである。どうしてこういうことがおきるかというと、ひとつには自己史観である。「大人の運動会」はある種の「復讐」である。お金のちからがまだ及ばなかった遠いむかしの記憶に介入し、書き換えることで、じしんの人生から不如意なぶぶんを除こうとするような行為が、「大人の運動会」なのだ。そこに背徳感が宿るからこそ快楽もあるわけだが、なぜ背徳的かというと、小学生や中学生のころの、とりわけ運動会のような状況に、性愛が呼び込まれる余地はなかったからである。無垢で、また無力であった人生のこの時代さえ、金のちからは覆ってしまう。そういう実感の伴った変態行為が「大人の運動会」なのである。

しかしそれと同時に、当然のことだが、彼らにとってのじっさいの「運動会」の記憶、また経験が、ほんとうに書き換えられるということは、タイムスリップでもしない限りないわけである。このときに、じぶんの人生を振り返るというしかたで確認される自己史は分岐する。「無垢な時代」を切り捨て、じしんの手の内に、金の力でコントロール可能なものとして取り戻す、これが彼らの行いだ。数馬にはこういう思考法ができなかった。これは父親の件について語っていたところからもわかることだ。彼は、貧困をマルチバース的に人生を乗り換えることで忘れようとはしなかった。そこからの連続としてあるいまのじぶんが克服すべきものとして、父や貧困は語られていたのだ。「大人の運動会」に彼が感じた気持ち悪さは、守られるべき「無垢な時代」に、ほんらい持ち込むことのできない概念(金や性愛)を持ちこんでいるというたんじゅんな事実そのものに向けられているのである。数馬はそれを、自己史の改竄という文脈でとらえることができない。なぜなら自己史とは一本の連続体だからなのだ。

 

もうひとつは、金を使うという行為の自動詞的側面である。壬生は「大人の運動会」を受けて、「奪っちゃいけないもの」を奪う小山のような人間と、「売っちゃいけないもの」を売るももよのような人間による愚かな営みだとしていた。この行為では、互いに身体と無垢な記憶という、「手放してはいけないもの」を手放し、交換しているわけであるが、これがじっさいには貨幣を通じて行われることで、非対称性が生じているわけである。数馬の感じた気持ち悪さはまずこの「手放しはいけないもの」を小山が手放しているという点に起こるものだ。だが金持ちにはその先がある。というのは、じっさいに小山が支払っているものは記憶ではなく、金だからである。小山たちは「手放してはいけないもの」であるところの「無垢な記憶」を、いわば金を払ってでも手放したかったわけである。そして金銭が介在することで、ももよ側は自分自身のものであるはずの身体から疎外される。そうして損なわれてきたひとたちを、わたしたちはいやというほどみてきたが、ここでのポイントは、小山たちの動機が、ただ「金の力を行使する」ということだけにあるということである。彼らが「無垢な時代」を書き換えるのも、「金にはそれだけのちからがある」ということを確認する作業にほかならない。そこに加えて、そうした場所にももよのような人間を置いて蹂躙することで、金の全能性を確認しているのだ。つまり、ここに生じている出来事の根本的な動機、意味は、ただ「金を払う」ということだけなのである。これを「買う」という動詞で表現することができるが、ふつう「買う」という品詞は目的語を伴う他動詞である。ところが、ここで行われている「買う」は目的語を必要としてない、自動詞なのだ。「歩く」「生きる」のように、「買う」それじたいが目的になっているのである。

だが、「買う」が自動詞かすることそれじたいは、ものの道理でもある。お金は、運動しているときだけ存在している。仮にすべての人類が貨幣を通じて品物を交換するという行為をやめてしまったら、手元にいくらあっても、それはなんの価値もない。それは、潜在的に使用可能であるということが自明であるから、なにもしなくても価値を含んでいるのだ。このことは、ぼくでは此度のコロナ禍で、実感と、また不思議な符合とともに確認されたことだ。コロナをおそれて社会の機能を抑制すると、経済が停滞する。ウイルスもまた運動それじたいを目的とする有機体である。ここで、ウイルスと貨幣の動きは比例するのである。

 

数馬はそうした、お金というものがもともともっている自動詞的側面、ウイルス的側面にも耐えることができなかった。これが、彼が「大人の運動会」をきもちわるいと感じたもうひとつの理由である。そこには目的がなかった。ただ金の力を確認する、「買う」ことだけが目的になっていたのだから。そしてじしんが金持ちになっても、この感覚はけっきょく去ることがなかった。だからうつろな気分になり、一時しのぎに関係性を買い、また気分が落ち、最後には智慧光院の詐欺に引っかかったのである。この「関係性を買う」という行為は、行為としては虚無的ではあっても、「目的」があるぶん、彼にはましに見えたろう。ただ金がウイルスみたいに増殖するのを眺めているよりは、じゃかじゃか使ってなくなってしまうのをみているほうがまだ「意味」を見出しやすいからだ。

 

以上のようなことを考えると、数馬が詐欺にひっかかるのはいかにも必然である、ということになるわけである。数馬には「買う」の自動詞的なぶぶんを気持ち悪く感じる性質があった。こういうものは、金持ちになっても満たされず、やがてこういうことになるだろう、あるいは、なるかもしれないと、することはできたわけである。では、そのことと、壬生がいっていた犯罪歴があるなしがどういうふうにかかわるのかという問題があるが、これはおそらく、犬飼との対比が生きてくる。もっといえば、ポイントは「服役」である。「服役」が、ひとの自己史を断絶させる。それは自由を奪う刑罰だからだ。だから、壬生の考える犯罪歴のある人間は、「服役」の前と後で、人生を容易に区別する。むろん、さまざまなありようがあるので一概に、一般論として語れることではないということは断っておかなければならないが、少なくとも犬飼は、「服役」前の壬生との関係を書き換えようとしているわけである。壬生の依頼を受けて、300万でひとを殺し、10年を失った、あの分岐点を3億で帳消しにしたい、書き換えたい、それがいまの彼が求めるものだ。これは、「大人の運動会」を企画するものと等しい、人生を非連続体とみなすものの発想なのだ。そして、少なくとも犬飼では、それは「服役」によって生じている。こうしたものは、行為と、それがもたらす結果にかんして、いちいち過去の行動と結びつけたりはしないだろう。そして、「買う」の自動詞的側面もたやすく受け容れることができる。金のちからを行使するものは、その結果だけをみて、全能感を味わうことができるだろう。しかし、現実には、全能なのは「金」そのものであり、行為者はむしろ「金」なのである。「買う」の自動詞的側面をなんの疑いもなく受け容れることができるものは、金に支配されているものなのである。逆に「他動詞的である」とはどういうことかといえば、動機と行為、また結果が連続しているものである。ここで「買う」をどうとらえるかということと、その人物の自己史観が結びつく。自己史を、「服役」などを通じて非連続体としてとらえる思考法は、動機と行為、結果が直線では結びつかない、動詞のなかに内在する「金」のようなものに身を任せるありようと親和性が高いのである。逆に数馬は、人生を連続体、因果の流れでとらえる結果、「買う」もまた連続的なものと考えがちだ。だから、目的語の位置が空白であると虚無に陥るのである。

というぐあいにすっかり壬生の計画通りということではなしをすすめてみたが、なにしろこれは菅原がいっていることなので、ぜんぜんそうではない、壬生の計画はもっと別のところにある可能性もじゅうぶなる。だが、ここまで考えたことはそうまちがってもいないだろう。

 

この文脈で千歌はどうなるのかというと、前回書いたように、彼女にはなにかあきらめのようなものが感じられる。なにか、まだ描かれていない経験があって、あきらめつつも断固たる決意でいまの生きかたを選び取っている感じがあるのだ。ここにも、犬飼の「服役」に近い、なにか分岐点が遠く感じられる。彼女の金使いもまた自動詞的である。高い服や食事は目的語になりうるが、それらは書割のように重さをもたない。彼女もやはり「金を使う」「金を使っている自分を見せる」ことが目的化しており、「買う」は他動詞のふりをした自動詞なのである。最初に描かれた、ベッドのなかにいた彼女といまの27歳の彼女のあいだになにがあったのか、なんとなく描かれないような気もするが、おそらくなにか人生を断絶させるような決定的な経験があったにちがいないのだ。むかしの彼女は数馬に人生の半分を預けてもいたので、もしかすると俳優としての数馬の失敗が原因であるのかもしれない。

 

 

 

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