すっぴんマスター -40ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『舟を編む』三浦しをん 光文社文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

「出版社の営業部員・馬締光也(まじめみつや)は、言葉への鋭いセンスを買われ、辞書編集部に引き抜かれた。新しい辞書「大渡海(だいとかい)」の完成に向け、彼と編集部の面々の長い長い旅が始まる。定年間近のベテラン編集者。日本語研究に人生を捧げる老学者。辞書作りに情熱を持ち始める同僚たち。そして馬締がついに出会った運命の女性。不器用な人々の思いが胸を打つ本屋大賞受賞作! 馬締の恋文全文(?)収録!」Amazon商品説明より

 

 

 

 

もっと一般によく読まれている本も読んでいかなければシリーズ、以前から読んでみたい気持ちはあった三浦しをん『舟を編む』を読んだ。書店員として三浦しをん氏のことはもちろんよく知っているが、読んだことはない。ただ、本屋大賞を受賞した本書は辞書作りの編集部の物語なのだ。ずっと興味はあったのである。

 

玄武書房の辞書編集部が次にとりかかる新しい辞書は『大渡海』である。これまでは社員の荒木と監修をつとめる松本先生のコンビで辞書を作ってきたが、荒木の定年が近づいてきたこともあり、後継が探されることになる。そこで、営業部にいた変わり者の馬締(まじめ)が引き抜かれる、というおはなしだ。辞書作りにはそれほど精通していないがある種もっとも一般的な感性を備えているともいえるチャラい西岡、職人気質のものが多い部署で淡白な実務を確実にこなす佐佐木、西岡の後任としてだいぶあとに異動してきた岸辺などを中心に、トリビアルな業界の慣習だとか辞書編集のコツみたいなものを大さじで加えながら、非常に特殊な任務である辞書作りが描かれていく。

 

本書においてもっとも特徴的なものは時間感覚である。だが、これは必然ともいえる。馬締が発見され、ついに『大渡海』が完成するところまでが小説の枠組みにおさまるわけだが、これがおよそ15年という期間に及ぶのである。章ごとに語り手が交替する構成になっているが、次の章でひとっとびに13年経過していたりするのだ。多くのひとがかかわり、無数の判断と失敗を超えたところにある辞書とは、ある入力に対して即座に出力が確認できるようなせわしない思考法では作れないのである。ここにはふたつの意味がある。ひとつは、とにかく辞書を作るという行為が非常にハードであり、時間がかかるということであり、もうひとつは、辞書じたいがもっている価値、効果というものが、遠大な時間感覚のもとでとらえるべきものなのだということなのだ。

辞書の価値、効果とはどういうことかというと、いくつも重要な描写はあるのだが、たとえばチャラついた西岡が珍しく馬締と辞書トークをする場面、「西行」の項目に「流れもの」を加えるべきかどうかというところで(164頁~)、西岡がまるで小説読者を想定する作家のように、もしじっさいの流れものがこの項目を読んだとしたら、きっと心強く感じるはずだというふうにするのである。似たような描写では若い岸辺とすっかりベテランになった馬締との「愛」についての議論もある(249頁~)。こういうふうに、言葉の定義は、人生における迷い人を支えるちからがある。「辞書に書いてある」は非常に強力なのだ。

これと同じ論点で、辞書は公共がつくるべきかというものもある。これは馬締と松本先生の間でされた会話だ(281頁~)。海外では国の命令で辞書がつくられることは珍しくない。国の命令であるのだから、当然公金が投入されることになるので、日本のようにいち企業や個人が私人として出している状況からすればうらやましいわけである。しかし松本先生は、当初はそう考えていたものの、いまはそれでよかったとおもうというふうにいう。第一に、公の組織が介入してくれば、口出しは避けられないし、権威づけのために利用されることもかなりのばあいあるだろう。辞書とはそういうものではないはずだ。流れものが、じしんの無力感のうちに光を見出すような、そういうものなのだ。馬締は松本先生のことばを受けてから、「言葉とは、言葉を扱う辞書とは、個人と権力、内的自由と公的支配の狭間という、常に危うい場所に存在するのですね」という。この悟りに、ほとんど公共事業のような時間感覚と重労働で行われながら、あくまで私人による発行として出現する辞書というものの特殊性がすべてあらわれている。「定義」は権威性を含んでいる。だからこそ、「流れもの」はひと安心する。いまの無力な自身のありかたに「ちから」を加えるのが権威なのだ。しかしそれは権威そのものではない。辞書作りは、そのあいまを無邪気にたゆたう言葉をつかみとる不可能は作業なのだ。今回は描かれなかったが荒木などがくりかえしいうように、だからこそ、改訂もまた辞書作りの大きな仕事となるのである。

 

 

物語も終盤に差し掛かったところ、全体図が見え始め、辞書作りでは当然とされるくりかえしの校訂で、「血潮」という語がぬけていることが発覚する。原因はわからない。用例採集カードという、辞書製作者がつねに持ち歩いているものにも「血潮」はあった。なぜそれが抜けたのかわからない以上、他の言葉の抜けもありえる。というわけで、ここから1ヶ月かけて、学生バイトもすべて動員し、みんなで合宿して無限にもみえる辞書の語をひとつひとつチェックしていく作業に入るのである。

こういう展開が、丸谷才一のいう「趣向」というか、本作をヒット作たらしめたのだとおもうが、けっきょくなぜ「血潮」がぬけていたのかはわからない。そして1ヶ月の調査の結果、「血潮」以外にぬけているものはなかったこともわかるのである。

実は同じ頃、精神的にも実務的にも編集にあたっての背骨となっていた松本先生が体調を崩して現場を離れてしまう。「血潮」事件は先の公金のはなしを馬締とした三日後のことだ。松本先生は実物の印刷を見ることはできたが、本の完成前に亡くなってしまう。「血潮」事件の間、松本先生はいちども編集に顔を出さず、馬締たちも心配させないようにこのことは黙っていたので、結局先生はこのことを知らずにこの世を去ってしまったのだ。「血潮」事件の意味するところはなにかと考えると、この松本先生の離脱とほぼ同時であるということは見逃せない。

血潮とは、血そのもののことであったり、熱血のことを意味したりする。これがなにかを「表している」のだとすると、ではそれまでの馬締たちには情熱が足りなかったのかということになるが、むろんそんなはずはない。荒木は馬締という、辞書をつくらないでなにをするんだというとんでもない逸材を見つけてきた。あの西岡でさえ、やがては馬締の影響か「西行」のくだりのようなことを言い出すし、異動してからもなにかと世話を焼いてくれるようになった。女性誌から異動してきた岸辺も同様である。佐佐木はまともな部署には必ずひとりはいる、事務作業を完全無欠に行う人間だ。松本先生と荒木は仏と鬼のように彼らを見守る。完璧な布陣であり、モチベーションもじゅうぶんだ。情熱がとかいう以前に、なにかが欠けているとはとてもおもえない(強いて言えば資金が欠けているが)。こういうところに、松本先生が離れるとともに出現したものとはなにか。それは「きず」ではないかとおもわれる。失敗、ミス、誤認、つまり「流血」なのだ。仏のような松本先生は、このチームが流血するのをとめていた最後のピースだったわけである。しかし、この件を知らない松本先生は、じぶんを欠いたチームの仕事が完全に達成されるであろうことを理解していた。つまり、血をとめることができるであろうということをわかっていたのである。そして、その流血と止血をともに経験したことで、『大渡海』はついに完成したのだ。というのは、辞書というのはある種写真のようなものだからである。ある瞬間の言葉の全体像をつかみとったものなのだ。むろんそんなことはできない。であるから、ふつうは流血することになる。「きず」を負うはずなのだ。その経験が、『大渡海』には必要だったということかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第60審/愚者の偶像⑪

 

 

 

 

望みどおり金持ちになれた門脇数馬だが、人間関係には餓えていた。たぶんそのせいで、ひとを見る目もだいぶ弱っていたのかもしれない、典型的ともいえる詐欺にひっかかり、全財産を失ってしまったのだった。壬生の紹介で九条に相談するも、あまり希望はなさそう。こういうところでヤケ気味になり、帰りの遅いを千歌を待ち伏せて口汚く罵る。その現場にあらわれたのは菅原と犬飼なのであった。

 

なにがどう転んでそうなったのかよくわからないが、一同は千歌の部屋にいる。これが数馬との初対面になる菅原は、なにものか知ろうと、数馬のスマホを確認しており、「地獄だ」とする数馬がそのそばにうずくまっている。というのは、ベッドに半裸で横たわる千歌に、パンツ一丁の犬飼が迫っているからだ。

この状況でパンツになっちゃうのもどういう状況なんだという感じだが、やらせろと盛る、見るからに危険な犬飼が接近しても、千歌は暴れずに拒んでいる。怖くて硬直してしまっている可能性もあるが、じっさいに別におそれていないようにもみえる。ほんとうにそうっぽいが、眠いと千歌はいう。しかし犬飼的には起きてても寝ててもどっちでもいい。ただ入れたいだけだ。パンツに指をかけるところまできて、さすがに、知り合いの菅原になんとかしてというが、菅原はスマホのチェックが終わったらという。千歌は女の子を呼んでいるらしい。それで、菅原は犬飼をここまで連れてきたということなのだろう。それまで千歌でもいいと犬飼はいうが、千歌はそういう肉体労働はしないと、以前にもいっていたことをいう。とはいえ、彼女は月40万で小山と愛人契約をしている。そのことを犬飼にいわれると、ハイスペックでないと相手にならないとまでいってしまう。やっぱり、犬飼は怒る。うつぶせの千歌のあたまを殴り、25過ぎたババアと罵倒する。だが千歌もぜんぜん負けない。少しも感情的にならずに、そういう態度が飲み会で女の子を帰らせた、お前は動物以下と断ずる。数馬は丸くなってしまってるいっぽうで、千歌はすごい胆力だな・・・。

ついに犬飼がナイフを出して顔を切ってやろうかと脅すところまでいく、が、とうとう菅原があいだに入り、犬飼の手首をつかんで止める。で、数馬と同時に確認していた千歌のスマホを放り、女の子が迷ってるらしいから迎えにいけという。その間、電池が切れたみたいに落ち着いている犬飼はキッチンの流しに小便だ。こういう間取りの家って、たいがいちょうど犬飼の背中側あたりにトイレがあるものだ。それをわざわざ、腰の高さでしずらいであろうキッチンにするというのは、もちろんマナーの悪さとかそういうことを超えたところに目的があるということである。

 

千歌が出ているあいだに犬飼は下着をあさり、電マを引っ張り出して遊んだりしながら、今度は数馬を罵る。金があっても目の前で好きな女がやられそうになってるのに、なんにもできないんだなと。少年刑務所では上下関係が絶対だった。ちょうど犬のように、部屋の成員4人をランクづけして、上は下を徹底的に辱める。金を稼いでいるとか、社会的地位の高い役職についているとか、そういう絶対的な基準で測定ができない世界でその人物が上であることを証明するためには、下にあるべきものを「下である」と示し続けるほかないのである。犬飼の小便はそういう意味だったわけである。

 

女の子、というかももよ(モモヨ)が到着したということで、菅原は犬飼に金を渡す。数馬とふたりきりになったところで、菅原はまず犬飼の態度を謝る。そして千歌のはなしになる。ここからのはなしは、菅原の見解というよりは、界隈での一般的な感覚と受け取ってもいいものだろう。港区では25歳を過ぎるとババア扱いだ。むかしは芸能人やモデルなどをアテンドして金持ちたちからも信頼されていた千歌だが、彼女も今年で27、港区的には価値がなくなりつつあり、呼べる女も限られてきた。加えて、こういう生活なので、老化・劣化もはやいという。ただ若いというだけの女の子に下に見られるので、性格も悪くなるし、稼げなくなったからといってブランディングで生計を立てているようなものだからいまさら生活を変えることなどできない。数馬はほんとに千歌が好きなようだが、そんな彼女のなにがいいのかと。

 

犬飼と比べたら菅原は正常人っぽいので、数馬もくちを開く。そういう、ひとを物扱いする言い方は嫌いだ。他人の決めた価値観なんてどうでもいい、じぶんは千歌そのものが好きなのだと、数馬は涙をにじませながらいう。

話を途中から聴いていたのかもしれない、戻ってきた千歌が語りをはじめる。じぶんは周りが決めた、みんなが欲しがるものが好きだと。数馬と逆なわけだ。大事なのは金持ちであることそのものではなく、じぶんにとっていくら使ってくれるかだともいう。

 

菅原が帰ったあと、ふたりは話を続ける。価値観がちがっても、ババアになっても、じぶんのことが好きだというなら、犬飼の小便でくさくなったキッチンを新品同様にしてくれ、そして美味しい朝ごはんをつくってくれと、千歌はいう。数馬はもちろんそうする。朝日が差し込むなか、まったく価値観が重ならないままでいながら、不思議に安定した関係性がここで少し見えるのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

千歌は今年27、全盛期を過ぎて港区的にはババアだというはなしだが、ということは、全盛期は25歳より若かったはずで、たんじゅんに考えると最低2年くらい前から千歌は売春の仲介みたいな仕事をしていたはずである。今回のこのはなしは、1年前、ふたりがまだ希望に満ち溢れていたころの描写からはじまった。その1年後、すっかりおちぶれた数馬がケツ花火しているところからいまのはなしにつながっているわけである。あのむかしのころの千歌がそういう仕事をしていたはずはないので、そうなると現時点でケツ花火からは1年以上経過しているということになる。まあ、そのくらいになるのかな。数馬もここまで金持ちになったわけだし。わりとぽんぽん進むから平常の時間感覚では読まないほうがいいな。

 

 

今回の価値観のくだりと、あのころ、まだ数馬がおちぶれていなく、そもそも俳優にもなっていなかったころの千歌のことを考えると、なかなかおもしろい。あのころの千歌は、数馬が人気者になってしまうことをおそれていた。嫉妬していたのだ。ところがいま彼女は、「みんなが欲しがる物が好き」なのである。他人がどうおもうかとは無関係に好きなものが好きとする数馬と逆であるばかりでなく、千歌はあの頃の自分自身とも反対の価値観なのだ。

いっぽうで数馬もまたむかしとはちがう価値観にいるようである。あのとき、ふたりがベッドで語り合った数年前では、数馬の女性観についてのコメントはなかったのだが、推測できることはあった。ひとつには、あのころも数馬は千歌のことが好きだったが、どちらかというとそれを「守るもの」と考えたうえでそうだったようなのである。必ず成功すると断言する彼に、じぶんは現実を思い知ったと千歌はちからなくいう。その返事で、彼は成功したら結婚しようというのである。この応答が暗示するものは、千歌が成功してもしなくても、面倒はじぶんがみるよということだ。これは旧来の「男性」のありかたのようでもあり、また夢を見ているぶん、数馬は千歌そのものを選び取るというよりは、「千歌を守るじぶん」を選び取っているようにも見える。反対とまではいかないが、やはりいま、千歌そのものが好きだとする彼のありようと比べると、これはやはり異なっているといえるだろう。さらに、むかしの数馬はいまの千歌に近いとすらいえるかもしれない。俳優として、男性として、千歌を守る、こういう「姿」は、第三者的なものであり、あこがれの対象であり、魂が追い求めるというよりはむしろ「社会的価値」に近いからだ。「“みんな”が考えるかっこいい男」のようなものを数馬は探していたのである。

こうしたふたりのありかたが、年月を経て逆転したというわけなのだが、ではなぜそうなってしまったのだろう。両者に共通するものは「敗北」だろう。とりわけ千歌では、この感覚はむかしの描写の時点で感じられた。歌手としてうまくいく気がしない、という以前に、「東京」に負けているようなところが、彼女にはあったのだ。こういう場所で彼女がやがて採用したのが、港区女子、いってみれば、既存の女性としてのジェンダーロールを徹底的に利用するしたたかなありかたである。千家を守ろうとする数馬においても、それが善性のものではったにせよ、彼女を「弱いもの」としてあつかってはいた。そしてそれを守るもの、強く、成功するものが「男性」である、というジェンダーロールもここには見られる。この意味では数馬は社会的性差に敗北しているといえるかもしれない。千歌の敗北感はおそらく数馬に対してもごく微量にあったことだろう。恋愛を通じて薄まっていたとしても、そうした劣等感はつきまとっていたかもしれない。こういうところで、彼女はむしろその「社会が勝手に決めた性的な役割」をむしろ徹底的にまっとうしようとしたわけである。そのうえで彼女が女衒のような仕事をはじめたところには、もっとも恐怖すべきものである金を管理する立場についた丑嶋と同じものが感じられる。要するに、ここでの女衒は、「女を管理する立場」なのである。東京に、夢に、また性差に敗れた彼女は、その役割を利用する立場に進んで立つことで強固な足場を築いた。それと同時に、その敗北を克服するために、「女」を、そしてそれを「欲望するもの」をコントロールする立ち位置を選んだのである。

そして数馬は逆の道をたどる。つまり、社会的に認められた立ち位置、男性であること、成功者であることの望んでいた彼は、ついに「そんな周りの決めた価値観なんてどうでもいい」というところまで進んだのである。

 

こうみると、千歌はいかにも生存戦略としてこの道を選んだようでもあるが、ケツ花火以降の彼女からはむかしのような心底の幸福感のようなものは感じられない。どこか、すべてをあきらめたうえで、ほかに方法がないからこうしているというような感じするのだ。このとき、愚者の偶像④で千歌が数馬にいっていた、「千歌が本当に欲しい物は絶対に手に入らない」「数馬がお金持ちになったら今の数馬はいなくなるよ」というセリフが浮んでくる。この「本当に」がどの程度の深度の言葉なのかによって内容は変わってくるが、今回を踏まえると、彼女の欲しいものはみんなが欲しがるものであるのだから、手に入りにくくなる、というようなこともいえるかもしれない。だが、このあとの「数馬がお金持ちになったら~」ということも含めると、この「本当に」は、まだ語られていない、つまりいまの文脈でいうと彼女があきらめているようにみえるなにかにかかっているようにおもわれる。つまり彼女は、それが手に入らないとどこかの段階で理解し、いまの生き方を新しく選んだのだ。では、彼女があきらめたものとはなんなのか。いささか大形かつ凡庸な結論になるが、「どこか」でしか成立しない「愛」である。もっといえば、この世では成立不可能の、ロミオとジュリエット的な本質的愛だ。

ぼくの臆断こみで、検証せずに書いていくと、当初のふたりの関係はもっとも一般的にみられるもの、「成功を求め“男”としての生きかたを選び、その結果として“弱い”女性を守るもの」と「成功とか守るとかどうでもいい、ただそのひとといっしょにいたいとおもうもの」だったわけである。夢見る数馬は千歌を守ってくれる。ただ、それは「社会的に」ということだ。男とはそういうものだから、という但し書きが、そこには添えられているのである。たぶん、数馬にはそういう意識はほとんどなく、ほんとうに愛していたから、あそこで結婚しようという言葉も出てきたのだろうが、それもまた、彼女の夢が破れつつあるという流れで出てきたものだった。ジェンダーロールとはそういうものである。本人がどういうつもりであるかにかかわらず、背骨の歪みのように、傾向として現出してしまうものなのだ。

そののち千歌が採用したのは、見たように、「女性」の役割を貫徹し、そればかりか監督するものだった。「社会的女性」を極めたといってもいいかもしれない。ここのところまでは、敗北感と生存戦略のために千歌がそうしたというふうに見てきたが、同時に、いまだ彼女が数馬をどこかで求めているがゆえ、というふうに見ることもできるかもしれない。というのは、数馬は「社会的男性」として彼女を求めているのだ。じぶんはただ、女性も男性もなく、「千歌」として「数馬」を求めているにもかかわらずである。だから彼は、数馬に対応するように、「社会的女性」になったのである。今回彼女が他人の価値観でじぶんの価値観を形成するということをいったのは、そういうことである。

このまま数馬が俳優として成功すれば、ふたりは「社会的男性」と「社会的女性」として、ある意味平凡なカップルのままだったろう。もちろんこの段階でも、彼女が「本当に」望んでいる愛はあらわれてはいない。しかしいちおう暮らすことはできる。金持ちになったら数馬はいなくなるというのは、この状況をつきつめたものだろう。むしろ、ある種の必然性とともにそこに、これまた社会性の強い制度としての「結婚」がほどこされることで、彼女が「本当に」求めるものは隠蔽されてしまうだろう。また、「社会的男性」は、ある面「社会的女性」を求めていない。なぜなら、「社会的男性」は「守る」を目的的に行うものだからである。彼らが必要とするのは、じぶんの価値には無自覚に、右も左もわからず途方にくれる弱いものである。「社会的女性」に目覚めた自覚的「女性」は、こういう男性の動機を活性化するものではないだろう。つまり、じっさいは成立してもいないのだ。

だが、そうもならなかった。数馬は落ちぶれてしまったからである。再び金持ちになったところで、真の愛は訪れない。こういう感覚が千歌にはずっと流れているのだ。

 

つまりこれは、男女の愛は男女である以上成立しないというアポリアなのだ。では、わたしたちはどうすればよいのか。今回の最後のぶぶんは、そこにいちおう着地点を与えたものとおもわれる。ぼくにはあの朝日を浴びる最後のコマは、太陽系の惑星が一直線になる惑星直列のような、偶然成り立った奇跡的幸福タイムのように見える。いまの数馬は「本当の愛」を、男だとか女だとか、港区だとかババアだとか成功者だとか、そういう他人の価値観を超えたところで手に入れている。しかしいまとなっては千歌のほうにその感覚はない。ないが、一時的に、戯れのように思い出すことはできるかもしれない。そこで、わずかに冗談含みに、女王さまのようにあえてふるまってみせて、彼女はいま彼女がまっとうしている「社会的女性」の役割を芝居のように見せかける。そして数馬も、芝居のように、「喜んで」といわんばかりに行う。このすれちがいは、男女がともに、同時に「本当の愛」を求めることはまれだということかもしれない。ともあれ、まるでそれまでジェンダーのバランスの不具合を調整しようとするように、両者はすれちがう。しかし、それこそ惑星直列のように、一致する瞬間が、ひょっとすると人生にはあるのかもしれない。それがこの場所だったのではないだろうか。千歌が求めるものはこの世界では成立しない、「どこか」にあるものだ。「どこか」とは、どこでもない場所のことであり、追ってもおってもたどりつけないものだ。それが、こんなところに前触れもなく出現したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第59審/愚者の偶像⑩

 

 

 

 

出所した犬飼が壬生に接近、菅原との関係もちらつかせて3億を要求した。

菅原はぞろぞろ仲間を連れて壬生の工場を包囲していたが、あれは脅しであって、その場は犬飼が要求を伝えるだけでみんな帰ったようだ。

今日壬生は京極のところにきている。これから小山とはなしがあるということで、AVのスタジオだ。京極はからのバスタブの底に座ってえらそうにしている。

用件はむろん犬飼のことだ。京極はすでにすべて理解している。一度払ったら終わり、ケツ毛までむしりとられると京極はいう。だからじぶんがあいだに入って面倒みてやるよというはなしだ。滑皮・丑嶋ラインである。むしりとるのは京極のほうだ。壬生はそっと断るが、京極はあきらめていないようである。ここのところは、時代だなあという感じもある。丑嶋のバックには猪背組がいた。丑嶋にその気はなくても、みんなそれはわかっていた。だから肉蝮みたいな超人類を除くと、ハブみたいな強力かつなんらかの覚悟を決めたヤクザでなければ、丑嶋が非ヤクザだといってもそうそう手は出せなかったのである。しかし菅原・犬飼はただの半グレである。京極のことも知っているだろう。それでいてこのトラブルであるのだから、京極はもう少しイラついてもいいところのはずである。なぜなら、関係があることが周囲には知られているじぶんの存在が無視されて、壬生がゆすられているということなのだから。なんなら犬飼が殺した女が小山の愛人であるという点で、そもそも依頼主は京極であるというところまで犬飼は理解していたわけである。それを、特段じぶんがなめられたというふうにはとらずに、壬生のトラブルとして把握しているのだ。これは菅原や犬飼を、火種としては滑皮にとってのハブくらいのものと、京極が考えていると見ていいだろう。ヤクザとして動きにくい時代ということもあるかもしれない。

 

 

烏丸がいなくなって疲れ気味の九条のもとには門脇数馬がやってきている。

見るたびに状況が変わっている数馬だが、詐欺にあって大金を失ったところだ。すでに自己分析は済んでいるらしく、これまでの、おもに心理面での経緯がスピード感をもって語られる。数馬は突如として金持ちになった。金目当てにろくでもない連中が大勢集まってきたが、彼自身金持ちであるという状況になれていなかったせいもあってか、たくみにかわすというわけにはいかなかった。また、壬生にいわれたのかじぶんで考えたのか、意外なほどスマートな洞察だが、「承認欲求を満たせない仕事で稼ぐとお金を散財して代用品で心を満たそうとしてしまう」と数馬はいう。金が金を生む系のビジネスではなにかを生産している、なにかに貢献しているという感覚は生まれないのだろう。そこで、その生まれたお金で関係や承認を買ってしまうのだ。

そこへ、デカ目の詐欺師がやってきた。智慧光院翔というものものしい名前の、第一印象は悪くない感じのメガネの男である。すごい名前だが、やはり京都にじっさいにあるお寺みたい。そしてくっきり名前が出たということは、準レギュラーになるのかもしれない。

貯金してもしかたない、わが社を通じて投資しませんかという、よく見るやつである。最初はしっかり振り込みが行われた。はなしを確認できたと考えた数馬は、全財産に借金までして4000万投資した。というところで突如智慧光院との連絡が途絶えたという、ポンジスキームである。ポンジという詐欺師の名前に由来した方法で、時間差で投資を始めたものの金を前のものにまわすことで、じっさいには投資を行わずに運用がしっかりされているように見せかけて、今回の数馬のように大金が動いたところで姿を消すというやりかたらしい。

 

とりあえず記録が欲しいということで、LINEのスクショや口座情報などを九条は求める。そういう行動を起こすことで、刑事事件になることをおそれて返金に応じさせようということだが、あまり期待しないようにとも九条はいうのだった。

 

千歌の家の前で数馬が飲んだくれている。やってきた千歌を数馬はタク代乞食、糞ビッチなどと罵倒し、数万を投げつけ、その拍子に浅い階段のところでずっこけている。そこへやってきたのは菅原と犬飼なのであった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

千歌は壬生とも通じていたが、菅原とも親しくしていたようだ。数馬の指摘は正しいというか、彼女が彼女なりに選択した生存術が、要するにそういうことなのだ。

 

壬生が犬飼を追い払う方法のひとつとして、京極はもちろん考えられた。しかしながら、京極はヤクザであり、犬飼たちに金を払うのも京極を頼るのも、けっきょくは同じことである。京極は壬生がなめられていることをじぶんがなめられているものとは受け取らなかったわけだが、壬生としてはそれでよかったのかもしれない。

こうなると、壬生がとれる手段は、前回の考えを踏まえれば嵐山だけになる。嵐山もまたこの件に関与しており、犬飼をマークしていないはずはない。だが、今回の流れをみると、どうにかして数馬をつかって支払いを回避する方法が、今後生まれてくるのかもしれない。このあたりはぜんぜん読めない。数馬は菅原と接触することになるのだが、状況を聞いてむしろ数馬は菅原の仲間になってしまうかもしれないし、なんらかの物語の転がりのうちで、3億の件がうやむやになるということもありえる。いずれにせよ、数馬と菅原が出会ったことが、この壬生にとってはしんどい状況を動かすにちがいない。

 

今回は数馬の自己分析がけっこうおもしろくて、少し見直した。とはいえ、もともと数馬は成金にはなりきれないようなところもあった。性質的には「まとも」というか、ルソーのいう「憐れみの情」みたいな、法や良心以前に想定可能な人間の善性がどこまでもこびりついてとれないところがあるのだ。たとえば、小山も悪徳金持ちになってもうけっこう長いとおもうのだが、彼が若い時代に、じぶんは非生産的な金持ちであり、「孤独」である、どうしても金で関係を買ってしまう、なんてことを悩んだとはとてもおもえないわけである。おもえないだけで、ひょっとしたらそういうぶぶんもあったのかもしれないが、もはやかげもかたちも見当たらない。そういう、根底からのクソ野郎みたいなものに、数馬はなりきれないのである。そうなれば、生きるのはずいぶん楽になるだろう。しかし数馬は、「大人の運動会」に興奮することはなくきもちわるいと感じ、あとになってではあっても、「孤独」から関係を金で埋めてしまったというような洞察ができるのである。

このちがいについて壬生は、「奪っちゃいけないもの」を奪う小山のような人間、また「売っちゃいけないもの」を売るももよのような人間、というふうに呼んで、じぶんや数馬とは別の存在として規定していた。彼らは互いに「手放してはいけないもの」を交換しあっている。そういう意味で小山とももよは同類なのだが、この交渉が貨幣を通じて行われることで、非対称性が生じる。というか、そこでしか生じない。つまり、ここでは「買う」という行為それじたいが目的となって自律しているのである。

「買う」はほんらい「なにを」の目的語が添えられる他動詞である。しかし自律する「買う」は目的語をもたない自動詞だ。交換するために創造された、もしくは生まれたお金が、ただ運動することそれじたいを目的に、ウイルスが蔓延していくように、世界を動いていく。数馬が「大人の運動会」を通じて感じた気持ち悪さ、また壬生が小山たちを蔑みつつ別世界の人間だというように遠ざける理由は、ここにあったと、これまで考えてきた。お金そのものには、じつはそうした魔力がもともと備わっているのであり、「金が金を生む」という、経済の自動詞的側面は、むしろ本質であるともいえる。コロナ禍で感染リスクと経済をはかりにかけたときに、多くのひとはこの「お金にとっては運動それじたいが目的である」ということを感じたのではないだろうか。不思議なことである。運動(感染)じたいが目的である新型コロナウイルスを回避してお金の運動を止めるか、ある程度ウイルスの感染を認めつつ、運動(経済活動)じたいが目的であるお金の運動を持続させるか、人類は選択を迫られていた(いる)わけなのだから。

お金というものには、もともとそうした自動詞的面がある。つまり、極端なことをいえば、数馬がぎりぎり備えている善性からすれば、そもそもお金というものが気持ち悪いのだ。貨幣の誕生については諸説あるだろうが、ふつうに考えると、交渉・契約の簡便化だろう。全世界的な交換や贈与の体系というものがまずあって、これが数量的に調整されていった結果が貨幣経済なのだ。しかしやがて貨幣は自律しはじめ、交換の目的をこえて運動じたいが存在理由になる。生み出したものにむしろ支配されることをマルクスは疎外と呼んだ。数馬の抱えている「違和感」は、まさしくこの疎外で語ることができるかもしれない。

そして彼がこの違和感を持続させることができたのは、おのれの人生を連続的なものとして見れているからだろう。「大人の運動会」が示したのは、じしんの幼いころの記憶を切り売りできる感性がこの世には存在するということだ。数馬にも父親という乗り越えたい過去があった。だが彼はそれを人生から切り離しはしなかったのである。ここのところが、よくもわるくも疎外を疎外として感受してしまう彼の状況をつくったのだろう。「魔物の側の人間」になりきれないのは、彼の人生が否定したい父親のものと連続しているからなのだ。

 

そうした、お金が備えている自動詞的なものに行動全般がとらわれてしまっていたのが、少し前の数馬ということになる。いまはそれを反省的に振り返れているが、もともとは俳優志望で、承認欲求も強いほうだったろう彼である。なにも生み出さず、ただお金というウイルス的感染力のある魔物が増殖する手伝いをしているだけで実質なにものでもないという状況は、しんどかったろう。だから、当のお金の魔力を借りて、仮の人間関係を構築する。これを維持しようとすると、さらにお金が必要になる。ここにあらわれたのが智慧光院というわけだ。

特段悪いことをしたわけでもない数馬なのであるから、なんとか返金してもらいたいところだが、九条がああいうくらいなので、ふつうに難しいのだろう。菅原が数馬方面でどう関与してくるかで、おそらく展開的には壬生の今後も変わってくる。おもったよりぜんぜん複雑になってきたな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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なにか書かないと鬱々と気持ちが暗くなってしまうので、最近の読書事情を記録しておこう。

といっても、もともと遅読のうえに忙しさでまったく読めていなかったところにこの精神的なダメージなので、それはもちろん、ぜんぜん読めていない。特に小説はひどい。たぶんおもしろいんだろうなとおもわれる新刊や、おもしろいことを知っている作家の本などすら読むことができない。なんというか、入ってこないのだ。ぼうっとしたあたまでの推測だが、どうもフィクションの文体というものが、人間の呼吸に近いので、なにかこう、生身なのである。どちらかというと読んでいるときにからだも使うタイプの読書といえばいいのかな。いままでもそう感じていたのかどうかよくわからないけど、そんな感じがする。

そのいっぽうで勉強系の本は、それでもまだ読める。ぼくの備えている能力とか、失われた自信とかとは無関係に、無機質に、無感動に目の前にそびえたってくれるからかもしれない。これまでにも、あまりにも疲労が極まってなにも考えられなくなっていたようなときでも、語学だけはできるみたいなことはあった。これも同じことかもしれない。

この種の勉強はルーティンとなることが望ましい。効果という点でもそうだし、いまのような状況になってみると、それだけがぼくを現実につなぎとめているというような感じすらある。習慣的な生活の営みは、予祝的な側面をもっている。このあいだの丸谷才一の本で、平安時代の宮廷文化、歌詠みを通じて、四季の味わいかたというものの「お手本」が示され、そこで共有されていった世界の「感じかた」が国の礎になっていったというはなしがあったが、ぼくは予祝的なルーティンには同一のものを感じている。目的があって、資本主義的にそれを求めて祈るのではない。まず祈りがあり、現実のほうをそちらに引き寄せるのである。本質的には、行為が先にあるということなのだ。そして、それが習慣化されていれば、とりあえずそれが行われることによって、精神は現実に引き止められる。わけもわからないまま初詣にいくことによって、しかしひとは無意識にこの1年をなんとか乗り切ろうと決意しているのである。

 

そういう点で語学、ロシア語と英語はなんとか続いているが、最近はそこに数学をプラスした。微積分とか、もうぜんぜん覚えてないな・・・みたいな思いつきからである。「大学への数学」の「1対1対応の演習」シリーズで微積分のやつを購入した。

 

 

 

 

 

 

また恥ずかしい昔話だが、ぼくは数学科出身の人間である。なぜかというと、数学が得意だったからである。念のためいうが、別に好きではない。ただ、適当に授業受けていれば高得点がとれたというだけだ。それだけならほかにも学科はあるわけだが、なぜ数学科かというと、たいがいの数学科は、数学の配点が大きいぶん、数学一科目で入れるところが多かったのだ。ぼくは当時独学でピアノの練習をしていた。70パーセントくらい本気で「芸大にいく」なんてことをいってまわっていたような時代である。こういう状況だったので、なるべくピアノ以外のこと(読書は例外)には時間を使いたくなかった。そこで必然的に、ほとんどなにもしないでもできた数学一本でいこうということになったわけである。

しかし、20年ぶりくらいにやってみて、当然のことながらありとあらゆる公式やテクニックを忘れてしまっていることがよくわかった。解説などでは公式を用いてもいちいち「ここで何々の公式を用いて・・・」などという説明はされず、自明であるといわんばかりに無言で数式がほどかれていくのである。久しぶりすぎて忘れているのももちろんあるが、たぶん、ぼくはもともとあんまり公式を覚えていなかった。なにもかも勘でやってたから。数学をやらなければならない理由などいまはないのだが、こうして20年前サボってやらなかったことを回収しているわけである。三角関数とか対数とか、ほんとに99パーセント忘れていて、極限の段階で息も絶え絶えである。

 

ぼくはほんとうにモノを知らないので、基礎的な教養を高めなければ、ということで地図帳や文学史、古語の本を買ったことは以前も書いたが、これらは問題集とかではないぶんルーティンに落とし込むことが難しく、なかなか習慣化しない。いちどの学習をかたまりでとらえることができず、量的な習慣化が難しいものは直線的な読書にしてしまうのが効果的だ。ぼくでは法律等の勉強がそれにあたっている。『九条の大罪』がはじまるにあたって、おすすめなどもされて訴訟法の本などももってはいるのだが、例に漏れずはなしが具体的実務的になるととたんに理解が困難になる症状があらわれ、苦戦している。それ以外では著作権をちょっとかじりつつ、国の成り立ちを根本から知りたいという動機では行政学の本も毎日少しずつ読んでいる。行政学はかなりおもしろくて助かっている。ぼくが読んでいる以下のものは新版が出たばかりでもあり、かなりいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フィクションが読めないいっぽうで、案外哲学系の本は読めたりする。あんまり難しいもの、もしくは古かったり翻訳だったりするものだと体力を使うので億劫になってしまうが、もともと日本語で書かれた現代のものはするする読める。いまは、ずいぶん前に買って途中まで読んであった内田樹『前‐哲学的』と、『はじめての動物倫理学』の田上孝一による『99%のためのマルクス入門』を愛読している。内田先生は最近ブログ本や編著本が多くなっているが、『前‐哲学的』は初期論文集であり、ほとんどがカミュ論で、後半ではレヴィナス論などもあり、かなり骨太な内容である。内田先生はブログ的文体と論文が地続きなのが魅力のひとつだが、それでは少しものたりないとなってきたかたにはちょうどいい。ずっとスリリングだしずっとおもしろい。田上先生のマルクス入門は疎外論の入門と言い換えてもよさそうだが、あの明解な語り口でざくざくとマルクスがほどかれていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

通勤の電子の読書では、こういう時期でもあって、というわけでもないが、dブックで無料で手に入ったので、地政学の本を読み終えた。このあたりもぼくでは知識皆無であるから、きわめてあっさりした内容でありながら、ふつうに勉強になった。

電子は並行していろいろ読みがちだけど、いまメインなのは『易学』である。非常におもしろいのだけど、易経にかんしては電子で読むべきではなかったかなあと少し後悔している。八卦とか六爻とか、いちおう表があることはあるんだけど、いまいちそのページを固定してみる方法がわからず、本だったらしおりはさんだりはしっこ折っておけば済むのになあ、なんておもってしまうのだった。この本と易経じたいは非常におもしろいです。

 

 

 

 

 

 

 

仕事と無関係ではないが、関係があるかというと微妙でもあるところで、しかし毎日楽しく読んである種の癒しをもらっているものとしては、『近代出版研究』の創刊号である。今年4月に皓星社から刊行が開始された、年刊の雑誌である(といっても雑誌コードがあるものではない書籍なので、注文に際して書店員は注意)。

 

 

 

 

 

 

ふつうに転がっている「本」――つまり印字された洋紙が束ねられ背表紙などがついた表紙にくるまれた冊子――についての疑問は答えるディシプリンは日本にまだないのが実情だ(巻頭言より)

 

 

ということで、「日本の近代書籍について、小さい問題の登録所として」刊行された。「小さい問題」とは、たとえば洋行した作家の証言などでは海外に「立ち読み」はないようなのだが、それはなぜか? 日本にしかないのだとして、いつごろ、どういうふうにはじまった?(小林昌樹『「立ち読み」の歴史』)かというようなことである。おもしろいでしょ。

奥付の歴史だとか、あの読書猿氏による独学書の研究だとか、どのページを開いてもわくわくしておもしろいのだが、同時に、「これは、知らなかった世界だなあ」という感覚もかなりある。たんに読書人として「レベルが違う」といえばそれまでだが、たとえばいま引用した巻頭言から、ぼくでは引っかかる。“ふつうに転がっている「本」”、というところに、わざわざ「洋紙が束ねられた―」というような説明が入る感覚である。これは実はこの前のところで、日本書誌学は近代書物を対象としないできた、というくだりがあって、それを踏まえているわけだが、それにしても、ふつうに本屋に行って本を買い、ネットで目的買いをし、流通・販売に長いあいだかかわってきたものとしては、なにを言っているのか、違和感が残るわけである。ぼくでは「本」といえば「近代書物」とイコール、合同であり、「洋紙が束ねられた―」もの以外まず想像もしないからである。「ふつうに歩いている「人間」――つまり骨格と筋肉、脂肪で構成され、巨大な脳をつうじた言語活動により社会的生活を営む知的な有機体――・・・」というふうには書かないのである。それ以外の「人間」は存在しないから。つまり、「本」というのは、ぼくが想像可能なもの以外にも存在するということなのだ。こういう点で、出版をあつかうものでありながらぼくにとっては異質、新しい世界の導入になっているのである。図書館学系の記事も新鮮なものが多い。本にかんしては小さいころから親の理解があったため、けっこうぼこぼこ本屋で買い物をしていたから、図書館については思い入れもあまりないのだが、市民に知を提供する機能としては興味がある。行政学の勉強ともつながるかも・・・(いま思い出したが、ときどき人生に生じる無職期間では、図書館にお世話になったこともある)

 

 

 

 

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勤務先でわりと大型のミスをやらかしていまい、しばらくのあいだ暗い気持ちが続いている。

原因は以前からじぶんで書いて、気をつけてきたことそのまま、ぼくの不注意によるものである。ミスによって損なわれたものは、即座に回復することができた。しかしそのときにとった方法も、いまだに納得できる理由はもらえていないのだが、誤ったものであったらしく(なにかを損なったりはしていない)、延焼につぐ延焼で、直接のボスにだいぶ迷惑をかけてしまった。

こういう経験をしてみてふと、ぼくはこれまでの人生でミスらしいミスをしてこなかったのだと気がついた。というのは、これまでの職場環境があまりにも劣悪すぎて、仮にそれがぼくの不注意によるものだったとしても、じぶんに向けても他人に向けても言い訳をすることができたし、事実、それらは環境がそうでなければ起こらなかったであろうとおもわれたのである。しかしいまの職場環境はまあまあよいものだ。5人で1日かけてやる仕事をワンオペ2時間でやるみたいなことはないし、だれもがやる気に満ちており、細部にわたってエネルギッシュな活動が続いている。こういう、状況についてのすべての選択権がこちらに任されている状態、そこで不注意からミスをしてしまったという状態、これが初めてのことだったのだ。

原因としては、ポジションとしてそうでもあったため、ひとり作業の合理化をすすめており、おもいもかけないところで触れてはいけないところに触れてしまったというところである。これも、ある意味これまでの劣悪な環境が間接的にもたらした悪習で、けっきょくぼくら書店員はけっこうひとりで物事の決着をつけなくてはならないことが多いのである。あほくさくても、ひとつひとつ別の人間と確認しながらことを運ぶべきだったのだ。

ともあれ、ぼくはそうしてほとんど人生で初めて、じしんの存在の重さ、また連鎖的に発生する管理責任みたいなものを実感・目撃したのである。ボスがまたいいひとなので、ぼくのかわりに怒られに本社へ出かけたりしているのが申し訳なさ過ぎて、あたまが上がらない。

 

この件で徹底的に自信を喪失してしまい、しばらく本も読めていないのだが、こうした種類のミスについては、じつはぼくじしん予言していた。不注意だからいつかやらかすという意味においてではなく、じぶんの責任の範囲における背負うべき失敗、敗北として、ということである。(こんばんは20220204

ではこの敗北からなにを学ぶべきなのか。正直言うとまだ鬱な気分が続いていてうまくものが考えられないのだが、ひとつには前提として「ひとりでなんでもかんでもやろうとする」のをやめたほうがいいということはまちがいなくある。適当に分業したほうが、ミスは減るし、楽だし、なにかあっても連帯責任になる。こう書くとちょっと現状への皮肉みたいになるが、でもじっさい、現代の書店の忙しさ、タスクの多さというのは常軌を逸している。どこの書店でも、スタッフはひとりでいくつもの仕事を同時にしている。それにずっと慣れてきたから、ひとつの仕事を複数人で相談しながら、というのは、いかにも無駄におもえたのである。しかしそうではないのだ。それを無駄におもうということは、12人のスタッフがいる店で、2人がコロナに感染し、やむを得ずしばらく10人でまわしたら、しばらくして「10人でまわせるじゃん、以後10人でお願いね」と告げてくる“本部”と変わらない思考法である。ずっとその思考法を憎んできたのに、いつのまにかじぶんがそうしたスタンスで仕事をしていたというわけである。

ただ、とはいえ、オールマイティにじしんを強化していきたいという気持ちは依然としてあり、ゆったりひとつの仕事に取り組む時間感覚はそれとあまり馴染まない。そのへんの落としどころはどうしようかというのはずっと悩んでいる。また、サービス残業的なものへの嫌悪感もいまの職場では強く、時間ぴったりに全員帰宅するのが基本となっている。平気で残って仕事をしてしまうのはむかしからの悪い癖で、それをすると帰りたいひとが帰りにくくなったり、いろいろ問題はあるのだけど、これまでは関わっているひとじたいが非常に少なかったので問題なかった。しかしこれからはそうもいかない。ただ、その思考法の派生系で、仕事のオンオフをしっかり区切るというのが、ぼくにはどうしてもできない。ぼくは、別に仕事にいくときに「オン」になっていないし、帰るときに「オフ」にしてもいない。正直いってその区別がよくわからないのだ。この点は譲る気がない。ぼくの生活はずっと連続しているし、だからこそ、ディレッタント的なじしんの傾向をそのまま持ち込める書店業についてきたのである。

 

と書いてみたものの、鬱な気分はちっとも去ってくれない。不注意ミスというばそうなのだが、あまりにも不注意がすぎて、多くのひとは「なぜそんなことが起こったのか?」ということが理解できないレベルなのだ。たぶん、ぼくはすっかりバカ認定されているだろう・・・。でもしかたない。こつこつやっていって、また積み重ねていくしかない。

 

 

 

 

 

 

 

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