すっぴんマスター -41ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第58審/愚者の偶像⑨

 

 

 

 

まずは回想、烏丸がはじめて九条に話しかけたところである。警察署か裁判所かわからないが、とりあえずどこかに役所的なところだ。イソベンにしてくれないかと。普段の言行からもわかったことだが、最初に声をかけたのは烏丸だったのだ。

 

東村ゆうひ法律事務所の・・・という自己紹介を受けて、そんな四大の上澄みが底辺弁護士になんの冗談かと、九条は木で鼻をくくる態度である。すごいな、そこまでいわんでも。とはいえ、九条はたぶん、弁護士仲間からは嫌味や喧嘩腰の態度で話しかけられることが多いんだろうな。

烏丸は事務所を辞めるという。大手事務所は資料集めや雑務ばかりでつまらないと。下積みってことなんだろうけど、烏丸は非常に優秀なので、経験を積む意味もあまり見出せないのだろう。烏丸がわたす水を、九条も飲む。

東村がつまらないのはいいとして、なぜ九条かというと、もともと興味があった。世間が死刑をのぞむような被疑者の弁護だった。そんな仕事にはふつう関わりたくない。なぜ弁護したのか? こたえはいまと変わらない。世間を敵にまわしても最善の弁護を尽くす義務があるからと。儲かるわけでもなく、それどころか世間から疎まれることにもなる仕事である。だが九条は、はっきりと「使命感」という言葉を用いて、そうした外的要素とそれが別物であると応えるのだった。

おもったとおりおもしろい人物だと確信した烏丸が笑う。以降のつきあいがいままでに至るわけだが、その烏丸は、反社とのつきあいにかんして見解を異にし、九条から離れてしまったのだった。これ以上反社とのつきあいを続けるなら辞めるということを烏丸が警告したうえでの行動である、九条は事態を理解していたはずだが、けっこうな喪失感があるらしい。ブラックサンダーと床に座る九条の姿は、まるっきり「事態が最悪のところに至るまで心のすれちがいに気がつかず、つれあいに家出された仕事人間」である。

 

壬生のところには犬飼がやってきている。犬飼がじぶんを恨んでいるであろうことは壬生にはわかっているはずである。だがぜんぜん態度は軟化しない。軟化しないというか、ただの「10年ぶりに会う後輩」に過ぎないという感じの態度である。壬生の命令で10年も刑務所に入っていたのにと、犬飼でなくてもおもうところだが、まだ壬生は「思い出話でもするか?」という感じだ。しかしこの10年は語って済ませることのできるものではなかった。怒りで震える犬飼は、面会にも来なかったということをいう。これはけっこう意外なところかもしれない。壬生もいちどは面会に行こうとしたが、拒否された、だから行かなかったということのようだが、犬飼的には何度も足を運ぶのが筋じゃないかと。

しかしそれももうどうでもいい。愛美殺しは300万では足りない、3億寄越せと、犬飼はついに言う。犬飼はすでに小山、京極、嵐山の事件への関与を理解している。わざわざ彼らの名前をくちに出して「3億でも安い」とするのは、脅迫だろう。壬生は知らない、過去の話だで乗り切ろうとするが、そういうわけにもいかない。外には菅原と、その子分たちが10人ほどきており、工場を囲んでいるのだ。久我は既につかまっている。久我が風俗店経営で摘発されたときニュースに顔が出て、菅原は壬生とのつながりに気付いたのだという。外畠を捕まえて芋づる式に嵐山がどうにかしようとしてたアレだよな。ぼくもアレ、ちょっと大丈夫かなっておもったんだよな・・・。久我はあんまりおもてに出ちゃだめじゃないかなって。

いずれにせよ久我はただでは済まない。そうして右腕が人質になったような状況で、壬生は再び3億要求されるのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

久我は人質のようでもあるが、同時に菅原がこの件に積極的に関与する理由にもなるだろう。

犬飼はまず、じぶんがあの愛美殺しの詳細をよく理解しているということを伝えた。これは、「3億」と聴いて驚いてみせる壬生に対しての反応だ。つまり「3億は高くない」というのは、10年という時間の重みを年をとることによって知って、そののちに発生したうらみの量の表現ではないということになる。おそらく、刑務所にいて、無意味に10年を過ごしていたころの感覚としてはそうだったろう。だがそれはしだいに犬飼のうちで置き換えられていった。どのタイミングで、どうやってかは不明だが、事件の詳細を知ることによってである。つまり、そこには小山、京極、嵐山といった面々が関わっていたわけである。それだけの事件なら、ある面「10年」は妥当であるかもしれない。とするなら、やはり300万は安すぎると、こういうふうに考えられるのだ。

だがこれは彼があとからじぶんのうらみに根拠付けをしているだけのことだ。ここで行われていることは脅迫である。事件の詳細を嵐山にばらしたら、またばれうるかもしれないということが小山や京極にばれたら、どうなるか。もちろん、特に後者のばあいは犬飼もただでは済まないわけだが、壬生も責任を負うことにはなるだろう。だから犬飼のこの脅迫は、ほかならぬ壬生にとって、犬飼に3億払う価値はあるんじゃないのかということなのだ。

そうしてまず壬生には3億払うべき理由があるということが示されたが、それでもとぼけることはできる。単独のちから関係では壬生のほうがうえだからだ。しかしそこに菅原が参加することになる。菅原は壬生とは因縁があり、犬飼ともつながりがあったが、ほんらいこの件には無関係だ。しかし久我を通して無関係ではなくなった。ただの、なんかあやしい、むかつく後輩くらいのものだった壬生に制裁を加える理由ができたのである。そうして、犬飼はバックアップを、菅原は適当な鉄砲玉を手に入れたというわけである。

じっさい、この状況は「詰み」に見える。だが、ずいぶん前から壬生は犬飼と菅原がつながっていることを知っていたし、犬飼がたぶんなにかしてくるだろうということもわかっていたはずだ。なにか手を打っているとはおもわれる。考えられる手段としては京極か嵐山の2択だろう。京極に頼めればはなしは早いかもしれない。なぜなら、いま見たように、犬飼が事件の詳細を知っており、しかもばらしそうであるという事態は、京極にとってもなんとかしたいものだろうからだ。けれども、それは壬生が死んでからでも済むことかもしれず、なんなら壬生の責任のもと3億払えよということになるかもしれない。もっといえばたぶん壬生はそもそも京極に借りを作りたくないだろう。とするなら嵐山しかない。背景はどうあれ、犬飼は愛美殺しの実行犯である。出所した犬飼を嵐山が見張っていないとは考えにくいし、見張っていないなら見張っていないで、壬生が微妙に歪んだ情報を流して、この工場を見張らせているかもしれない。それで犬飼どころか菅原一派までいっせいに逮捕、というのはなんだか丑嶋社長すぎるかな。

 

犬飼については面会のことをあんなふうに震えながらいうというのが興味深かった。はなしの通りなら、いちどは壬生も面会に向かったのである。だが拒否されたので、それからは行かなかった。そしてそれこそが犬飼は気に食わなかったと。

まず最初の拒否である。犬飼は、300万であの犯罪ということで、たぶんむしろ喜んで命令に従ったはずである。だがどこかの段階で、10年の刑の重みを知り、だまされていたことを理解した。要するに、若くてあたまのよくないじぶんに対し、10年刑務所に入るというのがどういうことなのかというのを、くわしく説明しなかった、ということだ。おそらくタイミング的にもこれが最初の拒否の段階にあたるとおもわれる。そしてその後、壬生は二度と来なかった。この段階での彼がどういうふうに壬生を見ていたのかというのは、二通り考えられる。ひとつは、「だまされた」ということを理解しつつも、やがて背景の事情を知り、逆にむしろある程度赦していたというものである。まずありえないとはおもうが、最初の拒否以降は、面会を期待していたということだ。待っていたが、来なかったと。

そしてもうひとつは、刑務所内で唯一とれる壬生への反応としての「拒否」を、面会を通じて実現しようとしていたというものである。刑務所とは、「自由」を奪う場所だ。そのなかでただひとつだけ、壬生に対してできる反抗というのは、やってきた彼を拒むことだったのである。だが壬生は最初のいちどきりで、二度と来なかった。くりかえしの面会とそれを拒む犬飼の行動によって、おそらくはそうとううらみの感情を抑えることができたはずだが、壬生はそうしなかった。結果、犬飼のうちには去勢されたような感覚ばかりがつのったはずである。それがいまこうして爆発しているわけだ。

犬飼の言い方も、まず「面会に来なかった」ことを言い立て、壬生は「行った」といい、「何回もくるのが筋だ」というふうになっており、おもしろい。つまり、最初の「面会に来なかった」には、壬生がいちどだけやってきて、じぶんが拒否したことが含まれているのである。夫婦喧嘩で、「皿洗いすらろくにしてくれないよね?」といっぽうがいい、相手が「×月×日の夜やろうとしたけどいいって言ったじゃん」といい、「皿洗いは毎日やるものだけど?」と応えているような状況なのである。要するにここからは、拒否するかどうかに関わらず壬生は来るべきだったのであり、それを待っていたという感想が見て取れるのだ。つまり、どことなく回避できた可能性が感じられるのである。

 

この「回避できた可能性」に関していえば、九条も同様である。九条にかんしては、烏丸がはっきり条件を示していたぶん、可能性どころではないが、今回の喪失感にちからが抜けている九条をみると、どうもそのことによってなにが起きるかまでは理解していなかったようである。

壬生は、悪人であり、冷酷な男である。だから犬飼の人生のことなどどうでもいい。たんに仕事の部品として使い捨てただけなのだろう。ただ、同質とはいえないまでも、こうして文章に立てる限りでは等しくなりかねない仕事人間的な冷酷さは、九条にも備わっている。それは、ホームをもたない、屋上生活の人間の冷酷さである。九条が人生のハレとケにおけるケを、娘の生活圏に預け、じぶんは人生全編をハレ、もしくは本番、端的には「仕事」に捧げている人間なのだ。だから、ペルソナをはずし、筋肉をほぐして無防備になる「家」をもたない。つねに緊張しているからである。こういう人間なので、すべてを「仕事の論理」でとらえる。その論理の先に、引き続き反社とつきあいを続けるということがあり、その結果烏丸は離れていったわけだ。「仕事の論理」の必然であるわけである。しかしそこに不可解な喪失感がやってきたわけだ。なぜかというと、烏丸は「おもしろい」から九条のところにいたのである。そして木で鼻をくくる態度だった九条も、じぶんをおもしろいという烏丸をおもしろいとどこかでおもったにちがいないから雇ったのである。あのときの、初対面の烏丸に対する九条の態度からは、普段彼が弁護士仲間からどういう扱いを受けているのかということともに、弁護士の横のつながりやそこから派生する縦のつながりを利用する気がまったくないということがよくわかる。その彼が烏丸を雇うのは、「仕事の論理」がそうさせるからだろう。九条じしんもそう考えていたはずだ。烏丸はじっさい有能なので。しかしいま烏丸が去ったことで、九条は「仕事の論理」だけが烏丸を選ばせたわけではないことを実感しているのである。

 

「仕事人間」は「仕事の論理」で問題を解決すべきだろう。おそらく壬生はじっさいそうする。しかし九条は究極のところでそうはいかない可能性がある。なぜなら、彼が全人生的にふりきったハレの現場で守るものは、ひとびとのケの現場だからである。同様に仕事人間であっても、じしんがより強大になっていくことにすべてを費やす壬生と、自己投資することがあってもけっきょくはすべてが他人のために行われる九条では根本的に異なっているのだ。もしふたりが対立するようなことがあるとすればここかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第131話/蹴速流と空手

 

 

 

 

 

蹴速と独歩の試合が始まる!今回も準備回。

 

明言はなかったが、会場は地下闘技場、宿禰対ジャックと同じく、観客のいる前で、正式な試合として行われる。

試合といってもついこの前も大相撲相手にカルチャーショック的なパフォーマンスを披露したばかりで、独歩にはなんでもない日常だ。股割りをしている独歩を、選手の付き人みたいなことをしているあの紳士なおじさんが見ている。独歩が彼に「御手洗さん」と話しかける。このひと御手洗さんっていうのか・・・。いままで描写あったかな?

 

ふたりは東京ドームが後楽園球場だったころからの知り合いだ。四半世紀にもなろうと御手洗がいう。長く独歩を見てきた御手洗は、「お変化(かわ)りない」という。「枯れ」の気配がないという。ほんとだよ、いつ枯れるんだよこのひとは。年をとると瞬発力に衰えが見えて必然的に渋川剛気や郭海皇のように技の方面に傾いていくけど、独歩は技を備えつつ同時にとてつもなくパワフルだからな。渋川と郭にかんしては、年をとって衰えたからそうなったというより、もともとそうした技術タイプのファイターだったからいまでも現役でいられるというふうにいったほうが正しいが。

独歩は股割りからゆっくりと拳逆立ちに移行する。からだをあたためるための動作ではない。バキ世界では試合前に逆立ちしているひとをよく見かけるけど、なんだろう、自律神経を整えるとか、血流を満遍なく全身に行き届かせるとか、そういう感じの意味でもあるのかな。

 

 

蹴速のところには光成がいる。宿禰のように180度を超えるものではないが、蹴速も見事な四股を行う。やはり角刀、神事であると光成はいうが、踏みしめる際にはずいぶんそっと足を落としている。宿禰と同じでは、決してない四股だ。

蹴速は感謝しているという。現存する徒手武術のうち、もっとも蹴速流に近いのは空手だと。しかも独歩は立場的にも実力的にもその頂点に君臨する男なのだ。

 

 

さて、試合が始まる。大勢の観客に実況つきの、ちゃんとした試合だ。実況的には、宿禰と同じく、あくまで「古代相撲」の流れで蹴速を受け止めている。ついこの前宿禰と大相撲のストーリーをやったばかりなので、観客もそのほうがうれしいだろう。こうみると、蹴速のほうが肩幅はあるけど、ふたりの体型はよく似ている。独歩もにこにこ、期待しているようである。

 

 

 

つづく。

 

 

 

宿禰の持ち味が神話的な握力にあったぶん、バキ道ではやはり描写の半分くらいが組み合いになっていたが、同じ力士だとしても蹴速は打撃系、久しぶりにすごい打撃戦が見れるかもしれない。

 

おもったより「試合」っぽい感じで経過しているのは、もちろんこれが「試合」であることが特に蹴速にとっては重要だからかもしれない。要するに、ピンチになったからといって彼はほんとうにこの状況から逃げるのかということだ。また仕切りなおし理論では死んでも負けにはならない。初代蹴速は宿禰に踏み殺されているが、蹴速はこれを一族としてのたたかいに読み換えることで、いまだに決着のついていない幕あいのたたかいと解釈しているのである。だが、この世のたたかいというたたかいをすべて含みうるとさえおもわれる地下闘技場のルールでも、さすがに死んだら試合終了だ。この点どうするのかということである。

この、地下闘技場のルールにかんしては、まずは蹴速がどうするのかというはなしであるが、逆にいえばルールのほうが相対化されるということでもある。総合格闘技が一般的に認知されるにつれ、やれることが多いほうが強い的な理論で、ルールがないほうがより実戦に近い、というふうに考えているひとはいまでは少なくなった印象だが、当初はこうした理屈で語るひとは非常に多かった。時間がたつにつれ、総合格闘技も格闘ジャンルのひとつであるという認識のされかたをされるようになることで、総合の、なんというか「アルティメット感」のようなものはうすらいだようにおもわれるのである。全体的な技術が日進月歩していて、怪我が減り、選手間のレベルが拮抗するために「鮮やかな一本勝ち」も減ったということもあるだろう。同じような「アルティメット感」を、地下闘技場ももっているわけである。こちらは、総合が目指したものよりはより原則とか状況よりの究極さになるだろうか。武器の使用以外すべてが認めらるというのは、たしかにある意味画期的だった。「していいこと」を列挙するのではなく、「してはいけないこと」をひとつだけ述べて、あとはご自由にというスタンスだったわけである。それだから、その内側ではある種の革命的なことも起こった。いちばんはジャックの嚙みつきである。果たして歯を金属にした嚙みつきは「武器の使用」にならないのか・・・という議論はあってもいいだろうが、ともかく、ジャックはこれまで多くのものが想像しなかった、もしくは仮にしたとしても使用にまでは至らなかった「嚙みつき」を用いて、最大トーナメント準優勝を達したのである。

こうしたわけで、地下闘技場は基本的に「なにしてもいいよ」というスタンスではあったのだ。しかしこの状況が成立する前提条件には、わざわざことばにはされていない、暗黙のものがあったわけである。たとえば出場者が次元間を移動するスタンド使いで、負けそうになるなり別の次元の体力満タンなじぶんを連れてくるというようなことは、ふつうに考えてしてはいけないわけだが、「試合は同一人物により持続的に行われる」というような宣言は、特段されないわけである。同様にして、死んでも一族としてのたたかいは続いているので負けではない、などという主張を組み込む余地はないのである。

とはいえ、武蔵は例外として、地下闘技場ではひとが死にそうになるとさすがに止めが入る。光成が騒ぐし、審判みたいなひとたちがわらわら出てくる。うまくとめられたことのほうが少ないが、ともかく止めようとはする。なのでこの点については心配することはないが(相手も独歩だし)、いずれにせよポイントは蹴速の「仕切りなおし理論」である。さすがに「ちょっと疲れたのでいったん休みましょう」みたいのは通らないとおもうので、蹴速はなんらかの方法で試合場を逃げ出す必要がある。それが成功したときには、地下闘技場はおそらく独歩の勝ちを宣言する。ちょっと、なにでそういうことが起きたのか思い出せないのだが、たしか、選手が不在か逃走かして不戦勝が成立したことが過去にもあったはずだ。そういう状況を蹴速はどう受け止めるのか、もしくは地下闘技場にそれを認める柔軟さはあるのか、そういうはなしになっていくとおもわれる。

 

しかし、こう考えると、蹴速は斬新なファイターである。これまでも、死刑囚やピクル、武蔵の登場によって、バキ世界の勝負観や闘争観というものは微妙に更新されてきた。しかしそのどれもが、地下闘技場の文脈に、多少無理をすれば組み込むことのできるものだった。「試合」というものはふつう、身につけた技術を実践的に行使してみる場所なので、禁則が必要になる。しかし地下闘技場はそうではないので、なるべく禁止事項は少ないほうがいい。ある格闘技の技術体系、これがどのように身についているかを確かめる場所ではなく、ただ個対個で強さを競う現場なのだ。しかしさすがに武器を認めてしまうと、偶然のもたらすちからが大きくなりすぎて、勝負が勝負といえなくなる。極端なはなし、日本刀の重さによろめいた女の子が相手の腕を落としてしまう・・・みたいなギャグも認めなければならなくなってしまうのだ。しかしこれも、互いが武器の熟練者ということなのであれば、偶然性の要素は抑えられる。武蔵に対する烈、本部のたたかいで武器が認められたのはこういう事情があったからだろう。ふつうの選手では認められない。ロブ・ロビンソンとジャックがたたかうとなって、ロブ・ロビンソンがガトリング・ガン持ち出してジャックを撃ち殺したとして、ロブ・ロビンソンが勝ったと考えるものなどひとりもいないのである。

しかし「仕切りなおし理論」を地下闘技場の文脈に収納することはたぶんできない。ときどき考えるのは、死刑囚たちのような、敗北を認めないひとたちが闘技場に参加したとき、試合はどうなるだろうかということだ。独歩やガイアのような百戦錬磨の男なら、恐怖や屈服の感情によって彼らをコントロールし、敗北の言質をとることはできるだろう。しかし試合後、あのときはああいったけど、ほんとは負けてないと、言い出したらどうするのだろう。またいつのどの場面だったか思い出せないのだが、こういうところで光成は、わりと権威主義的な物言いをする。あのとき正式に勝敗は言い渡された、みたいな言い方だ。ふつう勝負というものは、現場にいるふたりのあいだにだけ成立している約束事である。しかし地下闘技場で行われる限りで、その勝敗ははっきりと決まる。当事者より上位の審級が、特に審判団とかがいるようにも見えないが、あの会場にはあるのである。だが蹴速は最初からそうした権威的な決まりごとを踏みつけるようなところがある。「仕切りなおし理論」が行使されるかどうかを置いたとしても、どこかオルタナティブっぽい感じがあるのだ。それはおそらく「一族」単位で思考する戦争脳のせいだろう。見たところ蹴速は「自分」という一人称でしゃべっているが、なにか、英語に訳すと主語がweになりそうな雰囲気が、その語調にはあるのだ。個の死が全体の敗北にはつながらないという発想はまちがなく戦場のものである。ただ、戦争の思考法といっても、その思考法は原始的なものだ。現在の国際法が考えるところの戦争とはまったく異なる。こういう意味では、「地下闘技場」という審級はジュネーヴ条約のようなものと考えるといいのかもしれない。近代的にはそれでじゅうぶん、誰もが納得する勝敗の落としどころが決する。だが古代相撲の彼はそうではないだろうと、こういうはなしだ。

 

 

 

 

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第130話/椅子

 

 

 

 

仕切りなおし理論をつかって当麻を「無敗全勝」であるとする蹴速。そこへあらわれたのは愚地独歩である。

そのときのことを思い返しながら蹴速が稽古している。あの烈海王が使用していた、指先を丸めた足による正拳まで使いこなす男である、空手の前蹴りのように、中足(親指のつけね)で蹴る方法も、当然使うのだろうが、いままでみたところでは、足裏を平らに突き出す感じの、おそらくかかとをつかった蹴りが多いようである。蹴速は、片方の足を地面につけないまま、さまざまな角度で蹴りを打つ。ここに拳や掌底も加わる。かなり水平に近い角度で、地面をしっかり蹴り込んだ、威力のありそうな掌底だ。

 

独歩の第一印象は「よく切れる鉈」だった。鉈の重量感に切れ味を添えている点でうまい表現であり、蹴速の洞察力がなかなかのものであることがわかるが、光成は独歩を、薪を断ち切るとともにうぶ毛をそり落とす「存在し得ない唯一無二の刃物」だという。いや、たぶん蹴速はまさにそういうことをいっているのだとおもうけど、光成は「たぶん想像しているそれを超えてくるよ」といいたいのだ。

蹴速の前にはペットボトルが置いてある。未開封なのかどうかはわからないが、みたところきっちりしまっている。自粛期間中こういうチャレンジがはやったけど、きっちりしまってるとなると次元の異なる難易度だろう。ふつうこのチャレンジでは、足裏もしくは靴の足先なでるように後ろ廻し蹴りを使用するが、蹴速は正面に立って内廻し気味のみょうな角度で蹴る。当然成功、これを光成が喜んでみている。かみそりの切れ味があるのはじぶんだってそうだというはなしなのだ。

光成はくりかえし独歩のすごさを伝えるが、蹴りにかんしていえばやはり蹴速にはゆずれないものがある。そして、おかしなことを言い出す。自分は、蹴速を名乗って以来椅子に腰掛けたことがないと。光成はなんかムカツク顔で、中華食べながら座ってたじゃんみたいなことをいうが、そうではなかった。蹴速はあのときも空気椅子をしていたのだ。となると、脚の筋肉が緩むのは就寝時だけということになるだろうか。床に座るときはどうなんだろう。

こういう生活を20年も続けている。そしてもはや、中腰のままくつろげるようにさえなっている。そのとき、彼の脚は「蹴速」と化し、また「鉈」と化していたと。

 

 

神心会本部では独歩が克巳と寺田の前で氷の試し割りをしようとしている。ふつう、試割りって演武につながるものだから「見せる」ものだとおもうんだけど、独歩っていっつも特に誰に見せるでもなくこういうことしてるよね。人体を経由せず思い切り破壊ができるから、ふつうに好きなんだろうな。

特に「見せる」場合では、失敗はできないので、板であれ氷であれ、成功しやすくしているものだ。露骨にヒビをいれるなどしなくても、板だったらしばらくストーブの前に置いてものすごく乾燥させていたりする。氷も、独歩いわく、透明になるといけないということだ。やるなら白いうちがいいと。

背丈くらいの高さにまでなっている氷のかたまりに触れ、独歩は掌底の寸剄でこれを破壊する。わずかの距離もなく、正拳のねじこみもないので、地面の蹴り込みだけで行ったようなものだ。ある種の蹴り技だろう。

氷は割れるどころか粉々になってしまうのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

相変わらず独歩は進化を続けているな。最大トーナメントのときの「いまが維持できる最後のピーク」みたいなやつなんだったんだろうな・・・。

 

蹴速の「仕切りなおし理論」がそもそも「気の持ちよう」みたいなところがあり、もっというと言葉の解釈の問題なので、誠実さという点で蹴速はあまり信用できない。だが「脚」に関しては、たぶん信用していいんじゃないかな、という気はする。というのも、前回から今回にかけてのある種の「即答」具合が、少しムキになっているように見えるからだ。

 

ここでいっている「即答」というのは、独歩は鉈でありかみそりであるような存在しない刃物だと光成がいうのを思い返しながらボトルキャップチャレンジをやり、独歩の蹴りはすごいぞから「そうですか」とひとこといって即座に空気椅子のはなしにうつっているところのことだ。蹴りにかんしては彼としてもそうとうに自負しているところがあり、停止した状態から勇次郎の巨体を真上に投げたことからしても、じっさい脚力にかんしては尋常ではないものがあるとおもわれる。おもしろいのは、その脚力は逃げ足にも通じるものであるから、仮にそこにプライドをもっていたとしても「仕切りなおし理論」を阻害しはしないということだが、しかし同時に、ここにはやはり危うさと強さが共存しているだろう。「無敗全勝」を2000年継承してきた「脚」は伊達ではないだろうが、独歩のような異常格闘者と遭遇したときもそれが有効かどうかはわからない。近代格闘技が殺人術から脱して整備され、普遍性を備えたうえでそこにおける達人を生み出したのはほんの100年間程度のあいだのことだからだ。こういう意味では、プライドはよい方向に傾くかもしれない。としつつも、それは弱点にもなるかもしれない。つまり、逃げればよいところ、決定的に自信を砕かれてしまうかもしれないとか、そういうことだ。

独歩登場はそもそも力士は卑怯なことをしないというあの流れからのものだった。「仕切りなおし理論」では、負けることがなく、そして勝つまでやるから、「無敗全勝」である。しかしだとすれば、文字通り勝つまでやればよいのだから、敗北をおそれることはないだろう。もっといえば、彼らは時空を超えた「一族」としてたたかいをとらえているので、永遠に結果を保留し続けることだってできるはずである。だが、前回判明したのは、それでも「敗北」はありうるということだった。死んでも負けたことにしないものが、敗れるというのはどういう状況か、それはまだよくわからないが、その流れで卑怯な手をつかう独歩があらわれているのだ。独歩じしんは、実をいうとそれほどそのときのたたかいの結果を重視するタイプではない。人間生きていれば負けることもあるだろうくらいの感じだ。でも負けっぱなしはいやなので、相手が弱ったりしたら喜んで駆けつけてボコボコにする。あのときは負けで、今回は勝ちと。そういうふうに、そのときどきの勝敗をあまり重視せず、グラフでいうと振動しながら、ちょっとずつ自身を高めていくのである(ただ気分的に最後の試合が負けは嫌だというのはある)。こういう意味でもふたりは反対の性格なのだ。蹴速はなにがなんでも負けを認めず、負けるくらいなら逃げる、克巳タイプであるが、独歩は、「次勝てばいい」くらいの、しかしその「次」は確実にやってくるタイプなのだ。「敗北」にまったく耐性がなく、プライドも抱えている蹴速と、そのときどきの勝敗にこだわらないがゆえに最終的には勝利する独歩というわけである。いやな予感しかしないのであった。

 

独歩は掌底の寸剄で氷を砕く。「独歩の蹴りはすごい」からこの描写になるというのも興味深い。描写としても、とりわけ地面の蹴り込みをわかりやすく描いているということはない。だが、手と氷の距離がなく、正拳のようなわずかなねじこみ、回転もない以上、これはいわば、アイソメトリック・トレーニングのような状況から強く伸びをしただけのような状態なのである。天井の低いところに手をつけた状態でいて、そこから思い切り踏み込んで伸びたような感じなのだ。これをして氷を砕くほどの瞬発力を生むには、手が離れていない以上、足のほうでそれを生むしかないのである。というわけでこれは一種の蹴り技であるというはなしなのだが、こういう具合のことが、これからはもはや描かれないのかもしれない。地面を蹴るというはなしはアライジュニアでもやっているし、バキ世界ではほぼ自明ともいえる。とすると、これからはたとえば蹴速がくりだすただの拳についても、そこにどの程度「蹴り」が関与しているか見ていかなければならないかもしれない。

 

 

 

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第57審/愚者の偶像⑧

 

 

 

 

 

出所した犬飼が菅原の指示したドライバーの仕事をしようとしているところだ。

復習だが、犬飼は嵐山刑事の娘・愛美を犯し、殺した少年グループのリーダーである。動物的な犯行のようにもみえるが、じつは背後に悪い大人の動きがあった。愛美は当時小山とつきあっていた。これは「消費の産物」の主人公・笠置雫がAVデビューした会社の社長である。つきあっていたといっても実は愛人で、妊娠もした愛美は小山のことでそうとうに病んでいた。そこで、小山がかげでしている悪いことを暴露するというようなことを言い出したのである。そこで小山は当時もいまもケツモチをしているヤクザの京極に相談、京極は自由に手足としてつかっている非常にちからのある半グレである壬生に命令、壬生が犬飼に愛美を殺すよう300万で指示、という流れである。これで10年少年刑務所にいることになった犬飼は、改めて300万という額と10年の刑を比べて、壬生へのうらみを深くしている。反省はまったくしていない。ただ、10年と300万ではつりあわないというはなしだ。そうして、外に出たら、壬生に3億を要求し、断ったら殺すと語っていたのである。

少年刑務所では後ろ盾がないとキツイ、ということで、面倒は菅原が見ていたようだ。菅原は壬生と敵対しているので(建前上はそうでもないが)、そういう意味でも互いに意気投合するところがあるのかも、ともおもえたが、事態はそう単純でもないようである。

 

仕事は車を運転するだけで3万円。わりはよさそうだがそうでもない。まず当然のようにこの車は盗難車である。「コードグラバー」というロシア製の機器をつかうと、スマートキーのデータをコピーできるのだという。そして盗んだ車を、高速など使わずに栃木まで運ぶ。ふつうに遠いが、犬飼はとりあえず車を届ける。で、どうやって帰るかというと新幹線だ。最寄駅までは歩いて39分。いや、「歩いて39分」ってなんだよ。そんな表現ある? というか、犬飼は小松という友人ときているのだけど、彼が別で車に乗って先導すれば済んだはなしでは・・・。

車はここで解体し、部品の状態で海外に送る。バレにくくなるし車体より税金が安くなるんだそうだ。犯罪行為の過程でふつうに税金ぬかれてるのがなんかじわじわくるな。

これで3万。盗難車それじたいを運転しているというリスクも考えると、たしかに安いかもしれない。どことなくむだな手間が多い印象があるのもよくない。犬飼はこんな仕事をまわしてきた菅原にイラついている。小松は菅原を尊敬しているのか、そういう犬飼の態度をとがめている。

そこで犬飼は、たったいま車を届けた車屋を強盗するといいだす。金庫と防犯カメラの位置は最初にいったときに覚えたのだそうだ。菅原が仕事を任せるところだ、どんな連中が背後にいるかわからないが、犬飼はバレなきゃいいという。

 

そして、マスクやライトやスラッパーなどの強盗パーフェクトセットみたいのをそろえて犬飼は実行した。最初は乗り気でなかった小松もあっさり成功して笑っている。数百万は手に入ったので、キャバクラにいこうというはなしになるが、その前にゲームをしようと犬飼はいう(最初は小松以外にもうひとり太った男がいたのだが、この時点で彼は消えている)。ナイフを指の開いて伏せた指の間にトントンやるやつだ。これを、じぶんではなく相手にやる「信頼ゲーム」だと犬飼はいう。まず小松にやれというが、小松はびびっている。というわけで犬飼がナイフをとり、小松の指という指をぐさぐさ切り落とすのである。小松は愛美の事件のときにグループだった男らしい。そしてこの件を吐いたのは小松のようなのだ。小松はよく平気で犬飼とふたりきりになれたな。それだけ菅原の圧力を信用していたということか。病院にはひとりで指詰めごっこをしてこうなったと説明すると約束するのだった。

 

強盗の件は即菅原に伝わる。車屋のケツモチヤクザが犯人を探しているがなにか知らないかといわれ、犬飼はもちろん小松も知らないとこたえる。菅原はほんとに疑ってないのかなんなのか、このはなしはすぐにやめてしまうのだった。

 

で、女集めてのみに行こうというはなしになる。同じ頃千歌と数馬はごろごろしていた。金持ちになった数馬を、港区的な千歌はふたたび認めつつある。鮨でも食べに、というはなしになるが、菅原が女集めにつかうのは千歌なのであった。

 

そして別の日、タクティカル・ペンをもった犬飼がついに壬生のもとにやってくるのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

犬飼は見た目ひょろひょろだが、苅ベー一派みたいな、ヤクザとかとはまたちがったこわさみたいのが感じられる。

 

犬飼の腕には無数の刺青がほどこされており、いくつかはロシア語の格言である。推定できるものにかんしていうと、ひとつは左手にある「Кто платит,тот и заказывает музыку」、金を出したものが音楽をリクエストできる、つまり金のあるもの、ちからのあるものがその場を掌握できるというものだ。次は左手の甲に見えた「На хвались,идучи на рать」、戦いに行くときに自慢をするな、結果が出てからにせよ、という意味になる。最後に確認できたのは右手首内側の「Москва слезам не верит」で、これは『モスクワは涙を信じない』という映画タイトルにもなっていて、意味としては「泣いたところで誰も助けてはくれないものだ」ということになるようだ(ウィキより)。

指には梵字らしきもの、それにイルミナティとフリーメイソンのなぞのシンボルである。梵字は読めないし、イルミナティやフリーメイソンについてもよく知らない。ただ、このシンボルだけはほんとうによくわからない。そもそもイルミナティとフリーメイソンってなにか関係あるんだっけとなって調べたが、関係あるとする本が出ているくらいなのだから、関係ないのかもしれない。シンボルも、ぼくはてっきりこの目のやつはフリーメイソンのものだとおもっていたが、イルミナティも似た感じなのか?なんか調べてもいい感じのサイトがぜんぜん出てこない。

格言では、力への欲望と成果主義、それに自己責任論に似た涙を否定するものと、ずいぶん勇ましい。ただ、これらの思考法は丑嶋や壬生のようなものを見ていると特段見るべきところがあるようでもなく、ロシア語になることでじゃっかん異質な感じがしているだけだ。力がなければ悪も正義もなせない、言葉でなく行動で示す、それに感情の揺らぎを否定して現実を直視するスタイルというのは、生き馬の目をぬく彼らの世界ではほとんど標準的作法である。ただ、そこにイルミナティとフリーメイソンの文字が加わっているわけである。このふたつの組織が表象するものは陰謀論にほかならない。陰謀論とは、ふたつのまったく無関係、もしくは関係があったとしても論理的にはそれを肯定することはまだできない事象を直接結び付けてしまう、短絡的思考法のことだ。現在「陰謀論」という語はかなりカジュアルに使われているために、それが論理的指摘であったとしても、否定したいものがそれを「陰謀論枠」に放り込んで思考停止するという、実に陰謀論者らしいありようが頻繁に観測されるが、もとはそのような、極端な思考の縮地をいうのである。陰謀論的にまず原因と結果を設定し、のちにその過程を掘り返し、距離をどんどん伸ばしていく、という脚本スタイルはエンターテインメント的にもよくあるもので、陰謀論はそういう意味で映画などでは非常に効果的に働く。ひとがどういうときに陰謀論にしがみつくのかというと、やはり理解を絶した現象や人物に出会ったときではないかとおもわれる。そこで、早急に結果を求めず、保留する態度もまた知性的であるのだろうが、そうもいっていられないときもあるだろう。また、音楽などでよく見られるが、社会の不備を告発するようなスタイルの芸術領域と陰謀論はけっこう親和性が高かったりする。巨大で、ちからがあって、こちらになにかを強制してくるものが、別のやわらかな姿をまとってこちらに迫ってくるとき、それを告発するものは、とりあえずは陰謀論を用いるしかないときもある。特にヒップホップなどリリックのちからが大きい言葉を含む音楽では、ある種の啓発、提案のようなことが重要なので、それこそ気軽に陰謀論は使われていく。

いずれにせよ、陰謀論は、弱者や、あるいは絶対的弱者でないにしても強者を前にした相対的弱者が、勘繰りとともに、疑いつつも手に取る世界観だ。たとえば自己責任論者は、すべての事態の責任を自身に回収するとしても、「すべての事態の責任はじぶんにある」という命題については了解しているわけである。そういう意味で、ロシア語の格言が示すタフな世界観と陰謀論がまったく重ならないかといえば、そういうことはない。ただ、このふたつの世界の側面が同時に示されることには、犬飼におけるなにか決定論的なあきらめのようなものも感じられる。「金がすべて」というものは、しかし「金」が決定するさまざまなことについては黙るほかない。「金」によって「金がすべて」という自身の行動原理を覆すことはできないわけである。ある格言や行動原理は、それが施行された瞬間、傘となってその人物の生を覆い、「外部」を作り出す。犬飼では、おそらく少年刑務所での経験が、こうした「外部」の存在を知覚させるのだ。端的には壬生や京極である。彼はこれを打ち倒そうとする。そのために、自己責任論的格言が全身にまぶされる。だが、ある種の宿命として、明確な行動原理は必ず「外部」を呼び込むということも、同時に認識されているのである。

 

だが、今回の刑務所経験によって、彼は「外部」を学習したと考えられないこともない。イルミナティ・フリーメイソンのシンボルが誇らしげに描かれるのは、そうした陰謀論の先にある「外部」にこそ、じぶんはなるべきだという確信があるからだろう。そして、それがあまりにも強く欲望として出すぎている。というのは、犬飼の行動が、目的を狭くしぼったものになっていないからだ。

彼は壬生を恨んでいる。300万ぽっちで10年の刑をくらったからだ。だから壬生を狙う。これはわかる。しかし、壬生を狙うなら、せっかく良好な関係を築けている菅原と、まずはうまくやるべきだ。菅原もまた強者であり、壬生とはうまくいっていないのだから。しかし犬飼はバレなければよいとあっさり菅原を裏切っている。「バレなければいい」というスタンスは、バレては困る相手に命を預ける無防備な態度である。つまり、強盗をしてしまった時点で、犬飼は菅原に殺される可能性をみずからつくってしまっているわけだ。だがこれも、彼の目的が、以上考えた陰謀論の「操る側」に立とうとすることだととらえればそう不思議でも無鉄砲でもない。壬生も菅原もじぶんに駆逐されるものたちであるということなのだから。ただ、根拠がないだけだ。

 

体格からいっても壬生が犬飼に負けるということはなさそうだし、壬生も当然準備をしているはずである。どう考えても、いま彼がもっているペンで壬生に襲いかかるのは得策ではないが、強盗の成功と小松の屈服によって、いまの彼は全能感に侵されている。強盗の成功は、駆逐されるべき菅原のような存在をシミュレーションゲーム的に制圧した感覚を呼んだことだろうし、小松の屈服はやはりじぶんは「外部」に立つものなのだという確信をもたらしたことだろう。どうも、このまま襲ってしまいそうな感じがする。それとも、壬生は案外3億あっさり出したりするのだろうか。なにかそういうところも壬生にはある気もする。

 

 

 

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■『日本文学史早わかり』丸谷才一 講談社文芸文庫

 

 

 

 

 

 

 

「古来、日本人の教養は詩文にあった。だから歴代の天皇は詞華集を編ませ、それが宮廷文化を開花させ、日本の文化史を形づくってきたのだ。明治以降、西洋文学史の枠組に押し込まれて、わかりにくくなってしまった日本文学史を、詞華集にそって検討してみると、どのような流れが見えてくるのか? 日本文学史再考を通して試みる、文明批評の一冊。詞華集と宮廷文化の衰微を対照化させた早わかり表付」Amazon商品説明より

 

 

 

例の、モノをしらない問題は続いており、いろいろアマゾンで漁っていた過程で当たり、読んだもの。とはいえ、丸谷才一のことはよく知っているので、たぶん「そういう本」ではないのだろうなとは想像できたが、想像以上に「そういう本」とはぜんぜんちがった。文芸批評というか文明批評みたいな強烈な1冊。たまたまなのだけど、最近読んだ大岡信『詩人・菅原道真』と似たような立ち位置から書かれているようなところもあり、そればかりか解説をその大岡信が書いている。遠くアマゾンのおすすめ機能の結果かもしれないが、なかなかばかにできないものだ。

とにかく、たとえば出口汪の『早わかり文学史』のような本と本書はぜんぜんちがう。要するに受験勉強に役に立つような本ではないということだ。というと正確ではなく、厳密にいえば役に立つ。見通しがよくなるのである。たんに作品や作者の名前と時代を記憶するためだけなら、この本はまったく不向きである。しかし、本書を読んだあとであれば、そうした無機質な「受験本」もまた味わい深いものになるかもしれない。そういう意味では、受験生に対しては、「試験には出ないけど読んだほうがいいよ」というすすめかたがいいかもしれない。

こんなことはふつう気にしない。つまり、受験に役に立つかどうかというのは、読書のためにはどうでもよい情報である。しかし、本書にかんしてはこのタイトルである。講談社文芸文庫なので値段も値段だ。こういうわけで、「『そういう本』ではないよ」ということはいちおういっておきたいわけである。「そういう本」ではない、しかし読んだほうがいいよと。

 

前半では詞華集、つまりアンソロジーを通じて日本文学史を通覧することで本質に迫る。丸谷才一にかんしては以前『後鳥羽院』を途中まで読んで挫折・紛失した経験があり、和歌の読解にかんしては、丸谷氏がどうとかいう以前にぼくじしんに問題があって、なかなか勉強がはかどらないが、本書でも和歌の読解は行われていく。が、ポイントは「詞華集」特に天皇の命で作られた「勅撰集」というのがなんなのかということだ。勅撰集の選者はその時代最高の詩人が担うことになるが、同時その人物は批評家としても卓越していた。というのは、詞華集というのはぜんたいでひとつの作品になっているからだ。どこに恋歌をおき、どこに叙景的な歌を連続させるか、というような、1冊を通して見られる起伏や濃淡の構造を計算して編むことそれじたいが撰者に求められる技量だったのである。「作品」と「批評」は不可分だったのだ。

 

天皇は五穀豊穣を祈る呪術者であり、これは繁殖行為にも通じていたため、天皇の恋歌は国家繁栄の目的もあった。こうした一種の高貴さが、呪術性が薄らいだとしても宮廷文化として和歌を栄えさせた。詠歌は高貴な者のたしなみであり、教養のあらわれそのものでもあったわけである。(33頁あたり)

こうして歌われる祈りを集めた勅撰集には、なにか予祝のような意味合いもあったようである(53頁)。要するに、四季の移り変わりについてどのように感じるべきかということのお手本のようなものが、ときの宮廷のうたによって示されていたわけなのだ。なんというかこのことは、ぼくはほとんど実体験的に理解できるぶぶんがある。以前ルーティンの大切さについて考えたこととほぼ同じなのだが、目的のあとに行為があらわれるのではなく、まず決まったことをしてしまうことで、現実のほうをそちらに引き寄せようとする意識だ。ぼくは出不精なので無縁だが、たとえば初詣なんかはまさしくそうじゃないだろうか。そのほか、祝日に規定されるイベントごととか、そもそも毎日の挨拶とか、とりあえずやってしまって、現実を寄せていく、そうなるよう願うという感覚は、実のところ身近なのである。めだたいから「あけましておめでとう」というのではなく、とりあえずいってしまってから、めでたいものにしようと努力するのだ。これを、勅撰集は国家事業的にやっていたものと考えられるのである。というのは、ときの第一級の歌人のうたには第一級の感受性がげんに宿っているのであり、歌人が暑さのなかに秋のおとずれを感じているのであれば、それはそこにあるということになるのである。こうした美的感受性を国家レベルで共有すること、それは統治においても非常に意味があることだったにちがいないのである。

こういうふうに、詩人であり撰者でもあるものが編んだ詞華集、それも天皇の命でつくられた勅撰集を見ていくことで、文学の、もっといえば日本史の姿はだいぶかわったものになっていく。これを踏まえ、結果として西洋に目配せして構築されることになったそれまで「日本文学史」に異を唱え、詞華集を目安に、より「文学」によりそうしかたで文学史を再構築しようとするのである。

 

 

あまり和歌にくわしくないという事情もあって、個人的には後半の自然主義文学についての考察がおもしろかった。自然主義は「露骨なる描写」によって、世界のありのままを表現する方法である。これはヨーロッパの、フランスの自然主義の輸入だが、そこには科学への強い信頼があった。ゾラでは医療現場における「カルテ」が、症状を患者から分離して描くことを実現している、いわば自然主義の至高と考えていたほどであった。これが日本に輸入されたときある種の誤解とともに作家の「ありのまま」の姿が描かれていくようになり、現代まで続く私小説の系譜ができていった。石原慎太郎などは私小説でなければ文学ではないとまで言い切っていたこともあり、日本では非常に強力な文学的系譜なのだが、丸谷才一は、中村幸彦『戯作論』を踏まえて、結果としては「趣向」が失われたと解く。「趣向」は抽象的な概念だが、ある程度の誤読もこみであえて大雑把にいえば、「おもしろみ」というようなところかとおもう。オリジナルの自然主義も「趣向」を抑えてはいたようだが、明治期の文学者では、江戸末期文学の反動もあって、極端に「趣向」を排除した文学を作り出したのだ。これは「趣向について」という文章に書かれていることだが、より発展的に「夷斎おとしばなし」では石川淳を引き合いに考察が深められている。ここで科学への信頼は因果律としてとらえられている。自然主義とは直接関係しなくとも、少なくとも自然主義のときにその傾向が最高潮に達したことはまちがいないようだ。いわばご都合主義の決定論的展開である。この窮屈さに自覚的になったジョイスやジッドは神話を、また石川淳はおとしばなしを参照して普遍性を取り戻そうとしたというはなしである。

 

本書はあとがきまでおもしろい。「著者から読者へ」で丸谷才一は、じぶんじしんが文学史を新しくつむいでいく立場であることの自覚を書く。自分なりの「文学史」、文学の経過をこころのなかに宿しておくことで、「今度は、自分なりの『文学的出来事の経過としての文学史』を、ただし未来に向つて生きてゆくことが可能になる」。そのための、ただの情報をおさめた教科書的一冊ではない、叙述的な文学史として、本書が成立したわけだ。見通しがよくなって当然なのである。

 

丸谷才一は第三の新人に分類される小説家で、もちろん小説もおもしろいのだけど、こういうふうに、批評も最高におもしろい。今回けっこう和歌に触れたので、『後鳥羽院』を発掘して再挑戦しようかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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