いまの職場にきてから、「じぶんは『モノ』を知らない人間だな」と感じることが増えてきた。どうしてそう感じるようになったのかはよくわからないのだが、ともかく、そうして自信喪失することが多いのである。
というとこれまで「モノ」を知っているという自負があったかのようだが、そういうことでもなく、どちらかといえば、たとえばコンビニバイト時代に、半グレみたいなオーナーのひとに「ツッキーニは肝心なことはなにも知らねえな!」などと笑いながらいわれるとき、それをちょっとうれしくおもうような中二病的心理はあったし、いまでもあるわけである。要するにこのオーナーのセリフには、なんだか小難しい、余計なことはよく知ってるくせに、ふつうに生きていたら当然知っている、知っていなければならないことをまったく知らない、というようなニュアンスがこめられているからである。この前半ぶぶんが心地よく、また後半ぶぶんはその価値を支えるぼくの「捨てペルソナ」のようにすら感じてきたわけである。
前の会社の書店にいても、似たような気持ちだったようにおもう。どうしてそうあれたのか、またいま現在どうしてそうなれないのかというと、たぶんいまの会社が前よりはるかに小さく、社長などの重役がきわめて身近にいて、そのそばでピリピリしているようなひとたちとも接することが多いからかとおもわれる。前の会社でもえらいひとに会うことは多かったし、「上司」だっていた。けれども、ぼくのいた店はぼくと相方、それに他店の有力店長から「これどうするんだっけ?」みたいな電話がかかってくるような超仕事のできるベテランパートさんがいたので、「えらいひと」は不要だった。だから、いなかったのだ。相方はもちろんのことだし、ほかのパートさんやバイトちゃんとも、非常に長いつきあいになったので、ぼくがどういう人間かわかってくれていた。専門家になるわけでもないのに専門書をバカスカ買ったり、9000円の事典を衝動買いしたりしても、正気を疑うような目で見られたりということはなかったのである(いまの会社ではそうなる)。
こうしたわけで、ぼくは健やかな好事家ライフを満喫できていた。これが、現在の状況に移ることで現実に直面することになった。その意味ではよかったのかもしれない。いい年してぼくはまともな社会経験を積んでこなかった。だから、真顔で「え、なんのためにそんなことするんですか?」みたいなことも口走ってしまうのである。
そうしたわけで、日々「じぶんはなんにも知らない人間だなあ」とへこんで、2時間もするとまたもとに戻るみたいな生き方を重ねているが、ここでいうぼくが知らないことというのがなになのかというと、たとえば会計とか、税務とか、社会のしくみのようなことだ。要するに、新卒入社の時点で多くの若者が直面し、ネットなど経由して大急ぎで身につけるタイプの知識である。「確定申告ってなに?」「営業利益ってなに?」みたいなレベルずっと生きてきて、しかもそのいっぽうでロシア語は読めることを誇ってきたようなところのある人間なのだ。ぼくの継続読者のかたであれば、「こいつにはそういう知識を身につけることはできない」ということを理解していただけるとおもうが、事実できない。原理的なはなしは、好きでもあり、すぐ理解できるのだが、それがひとたび実務に移行し、具体的な数字や無機質な漢字の並びとともに表現されるようになると、とたんにヒエログリフと大差ない読み触りになってしまう。自己分析的には、たぶん集中力と記憶力の関係が問題なのだとおもう。ぼくは、熱中できる特定の状況になると、じぶんでも信じられない記憶力を発揮できる。たとえば、もっとも熱中してピアノの練習をしていたとき、楽譜は2,3回読めばすべて記憶することができた。だが、そういう熱量が発揮されないとき、端的に興味がわかないとき、ぼくの記憶力は充電のきれかけた髭剃りのようにちからを失ってしまう。会計や税務、法務の実務は、ひとつひとつの知識を積み立てて、前提を重ね、それを踏まえたうえで次の議論が展開されていく。こうしたところでそのひとつひとつの前提を記憶できないというのは致命的である。さらに問題なのは、このようなことを考え、問題として立てて、じっさいにくちにし、文章にしながら、こころのどこかでは、そんなじぶんを「知識の偏ったディレッタント」として誇っている可能性である。
そうなのだとしても、このままでいいということにはならないし、書店員としてもそれは問題である。というのは、書店員というのは文芸やコミック担当ばかりではないからだ。武田泰淳を知っていることは文芸、もしくは文庫担当として強みかもしれないが、編み物の技法の種類を多く知っていることも実用書担当であれば必要になるわけである(ここで編み物の技法の種類がひとつも出てこないくらいにはモノを知らない、というはなしだ)。
そして、異動なども含めて、実をいうとこれからさき、どうもさらに広範な知識が必要になりそうな感じもある。それは、いま問題にしている知識の広さばかりではなく、深さまで要求されそうなことなのだ。こういう状況で、知識とは、教養とはなんだろうな、という日が続いているのであった。
内田樹は『街場の現代思想』(に限らずいろいろなところ)で、教養とは知識についての知識、「自分の無知についての知識」だと書いている。じぶんがなにを知っているかをカウントするのでなく、なにを知らないかを悟るときに、「教養」は起動する。つまり、教養とは、「知識」という語が雰囲気としてもっている固形的なものではなく、運動のことなのだ。
こういう意味で、書店や、図書館という場所は、物理的な配架という方法で知識のマッピングを行うので、「教養」が起動しやすいところだろう。そう多くはないだろうが、博覧強記の書店員というものも実在はして、こういうかたはただ本を読むばかりではなく、たしかにその書店員のスキルを磨く過程で深い教養も身につけているのだ。じっさい、ぼくも専門書エリアにいたころには、まさしくその知識のマッピングの感覚に触れもした。もっとも、かなり熱中して記憶したものもぼくは猛烈なスピードで忘れていくので、いまはその影響はまったく残っていないのだが・・・。
だが、なんでだろうな、ぼくが「じぶんは『モノ』を知らないな」と感じるときの「モノ」というのは、なぜか、「ぼく以外のみんなは当然身につけていること」なのである。
すごいくだらない例になるのだけど、たとえばぼくは、同世代のひとが「懐かしい」というような音楽を、ほとんど知らない。なぜなら、ジャズやクラシックなど、ぼくはほとんど選択的に、「同世代が聴いていないような音楽」を聴いてきたからである。しかし、そういう世代的な地盤になるような経験がないと、たとえば上司とカラオケに行くことになったときなどにたいそう困るわけである。ぼくはうたわないので問題はないが、とりあえずリアクションはとれない。こんなものは「教養」とはいわないかもしれない。だが、ぼくがいま不足していると感じている知識群は、すべてこのようなものに見えるのである。要するにぼくは、コンビニのオーナーが指摘したように、「肝心なことはなにも知らない」ことをどこかで誇ってしまっているがゆえに、「ふつうなら知っていること」を当然に知らないのである。こういう当たり前の知識、年賀はがきは年内に投函すればちゃんと元日に届くとか、かつて日本ではナタデココが流行ったことがあるとか、ちゃんと年金を払わないと怒られるとか、そういう情報を馬鹿にしてきていっさい耳にいれてこなかったツケを、いま払わされているわけである。これら通常スムーズに内面化される知識は、「教養」などという大それた名目でマッピングされることもない。知識というより生存条件に近いからだ。呼吸のしかたを「知識」と呼ぶひとはいないのである。ただ、そのぶんぼくはたとえばジャズのことは同世代のなかでは知っているほうである。近代文学や古典についてもまあまあくわしい。ふつう、これらは教養と呼ばれるものだろう。だが、それがなんだというのだろう。少なくとも、いまのぼくの状況ではそれらの知識はまったくなんの役にも立たない。それが役に立つようなレベルに至ることが、そもそもぼくでは「生存条件」に等しい知識の不足のために、できないのだ。年賀はがきの送りかたを知らないものに誰も古典文学のことなど訊ねないのである。以前までの、そうした前提条件をすっとばしてぼくの存在価値を認めてくれる環境というのは、ただ周囲のひとたちの優しさと、つきあいの長さが実現していたものだったのだ。
もちろん、たんにいまの環境が悪いという可能性もある。だが、もしそれを変えようとするのであれば、以上述べたような生存の前提条件のような知識も必要になってくるにちがいないのだ。
そういうわけで、もともともっているものを深めつつも、これまでの遅れも取り返さなければならない状況で、洗濯をしながら語学をやったり、筋トレをしながら宗教のラジオを聴いたり、マルチタスク的な状況が増えているが、もともと集中力に欠く人間でもあるので、まー身につかないし続かない。最近気がついたことは、時間を惜しんで、二つ以上のことを同時にやるのは、むしろ効率が悪いのではないかということだ。要は、洗濯ものを干しながらロシア語のラジオをかけていても、けっきょくぜんぜん聴いてないのである。それで、そのあとちょっと巻き戻したりするのだ。だったら最初からきちんとテキスト開いてロシア語だけをやったほうがいい。ことにいまは精神的疲労もあってうまく集中できないことも多い。広い知識が必要ではあるが、あまり手を広げず、目標を定めて、ひとつのことに集中したほうがよいのかもしれない。こころに余裕が出てきたらもとのスタイルに戻ればよいのだ。
それから、最近考えることとしては、人生は有限だということである。とたんにジジくさくなったが、まじめなはなしだ。ブログを始めてからぼくの読書スピードは信じられないほど落ちて、いまでは年間30冊がいいところになっている。80まで生きるとしても、あと40年ちょっと。1200冊くらいしか読めないのだ。1200冊というと、たぶんぼくが読まずに積んでいる本がそれくらいである。つまり、これからぼくは1冊も本を買わなくてもいいくらいしか本が読めないのだ。読書スピードを上げればはなしは別だが、それはとりあえず考えないとして、そうなると問題はなにを読むかである。乱読の段階は10代で経験し、20代以降は精読の段階に入った。40代以降はおそらく、「なにを精読するか」という段階に入る。それは、これまで選書にあたってポリシーとしてきた衝動的出会いだけでは対応できない。ではどうすればよいかというと、「信頼しているひとの読んでいる本」以外ないのである。これは、作家とか批評家とかに限らない、ツイッターとかでかかわりのあるかたとかも含む。というのは、ブログやツイッターでかかわるかたというのは、どこかでぼくと似ているからそうなっているのだ。とすれば、問題意識や長所・欠点が似ている可能性も高い。無作為的な出会いからは遠くなる気もするのだが、現状の疲労と精神状態ではその先に踏み込むことはできそうにない。近いうちこれは回復するとおもうので、それまで、この路線で進むことにしたい。
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