すっぴんマスター -42ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第129話/蹴速一族

 

 

 

 

勇次郎戦の途中で逃げ出した現代の当麻蹴速。なじる光成に、彼は仕切りなおしを持ち出して反論する。今回ばかりではない、宿禰とのあのたたかいを含めても、当麻家は「無敗全勝」だとするのである。

 

光成は呆れたようである。ここのやりとりも興味深い。光成は「無敗ぃぃ?」と疑うまなざしでいっているのだが、それを蹴速は即座に「そう 全勝です」といいなおしているのである。無敗であるからといって全勝とは限らないわけだが、蹴速的には「仕切りなおしの理論」がある。勝利していない試合は、まだ終わっていない、したがって全勝であるという発想なのだ。

光成はもういちど問いをたてなおす。いやそもそも「無敗」じゃないだろというはなしだ。宿禰との天覧試合は有名だと、光成は見てきたようにいう。宿禰が踏み殺しての勝利というのは、神話というより史実だと。ほんとは史実というより神話という感じだとおもうけど、ここには宿禰や蹴速一族の末裔を名乗る、じっさいに超強いひとたちが存在しているわけなので、まあ史実ということでいいか。

しかし蹴速はその「史実」を容れない。受け容れない。かるく拳を握る蹴速のなかにはいろんな感情がうずまいていそうだ。長い歴史の唯一の敗北を盾に、ひとは一族を不当に「弱者」と断じていると。さらに忘れてはいけないのは、「100年間無敗」を20回実現しているということだ。このぶぶん、最初はいっている意味がわからなかったが、要するにその宿禰戦を百歩ゆずって容れたとしても、2000年は「無敗」だったわけである、2000年とは、100年が20回ということである。なぜ2000年を「100年が20回」といいなおしたかというと、いくつか理由はあるとおもうが、もっとも強いものは人間の人生の射程感覚にあわせてということになるだろう。ひとは、一般的に考えられる寿命の間隔を超える時間をうまく想像することができない。いまなら1000円で宇宙いちおいしいコロッケを、150年後のご子孫さまにお届けします!といわれても誰も買わないだろう。だから原子力発電の汚染水処理問題とかは難航をきわめるのだし、人生の時間をこえた時間感覚をナチュラルに持ち得るものだけが、歴史に残るような仕事をなすのである。2000年といわれてもよくわからないが、現代でもわりと長生きに属する100歳くらいのひとの人生を20回くりかえした期間だといわれれば、なるほどとなるかもしれない、そういうことだ。

 

仕切りなおしとは、と蹴速は続ける。再びの立ち合いを前提とした幕間いだと。力士と武術家のちがいとしては、不意打ちなどの卑怯な行為がある。これを力士はやらないという。とはいえ、相手がもし力士でなかったら、これを受けることにはなる。古代角刀とはそういうものだったと蹴速は語る。それでも負けるわけにはいかないと。わかりにくいが、となると、古代角刀のと蹴速が体現する力士のスタンスは異なるということになる。古代では、力士もなんでもありだった。しかしいまの力士はそうではなく、不意打ちなどはやらない。けれども、「古代角刀」と呼ぶにふさわしい対決形式は現代にも残る。そこに、力士は現代の力士として、卑怯行為をしないものとして立ち合うと、こういうことだ。

 

では現代のそうした古代角刀的なんでもありの達人に、蹴速はどう対応するのか。現れたのは愚地独歩である。この流れではこのひと以外考えられないという人選だ。独歩の形容文句は「太い」に尽きる。これは、別世界の同一人物といってもいい、『餓狼伝』の松尾象山についてよく用いられた表現である。ぱっと見はもはやデブであると。しかしもちろんそうではない。眼差しや呼気まで太い。

そんな独歩を、蹴速は「切れッ切れの鉈」と表現するのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

まさしくなんでもしかけてくる達人中の達人がきてくれたぞ。アライジュニアラインがうっすら見えて蹴速が気の毒な感じもするけど・・・。

 

 

今回は「当麻蹴速」が含む敗者の意味について、本人から言及があった。神話に登場するなりいきなり敗者として記録される、いわば史上最初のかませ犬が当麻蹴速なわけである。前回くわしく考えたとおり、それはけっきょく他者の「評価」なのであり、勝ったか負けたか、じぶんたちだけが理解していればよいとすることもできる。しかしそれも、それを読み換える理屈が確立してこそだろう。ましてや2000年もその思考法を維持し続けるとなると、そうとうに確固とした理論が必要になる。それが「仕切りなおし理論」なのだ。

蹴速は、仕切りなおし理論を用いて当麻は「無敗全勝」であるとする。前回そう語り、今回も、光成が「無敗」というのを即座に「全勝」と切り返している。無敗と全勝は、ほんらい等号では結ばれない。試合不成立など、負けてはいないけど勝ってはいないという状況はありうるからである。たほうで勝ってはいるけど負けてもいるという状況はよほどアクロバティックな解釈をほどこさない限り(親子喧嘩がそうだった)ふつうないので、そういう意味ではそもそも言葉の性質として「無敗」と「全勝」はべつものであるともいえる。だが、当麻ではそうではない。なぜなら、彼らは勝つまでやるからだ。まだ勝っていないたたかいは、幕間にあるものであり、仕切りなおし中のものなのだ。この考えかたが採用されるときだけ、無敗は全勝と等しくなるのである。

 

とはいえ、初代宿禰とのあの試合を仕切りなおし中で負けてないとするのはいくらなんでもむちゃじゃないのかとするのはふつうの感覚だろうし、光成はそこに切り込んだわけだ。特にこの試合に関しては、いわれるまで忘れていたが、蹴速は踏み殺されているのだ。死んでいるのである。死刑囚篇でも、アライジュニア編での独歩たちでも、また実戦派の本部や武蔵の言動をみても、さすがに「死」は、ひとつの明確は勝敗のラインだった。死んだら負けであることだけは真理であり、そこまでをどう解釈するかで、これまでファイターたちはもめてきたのだ。ただこれも、新しい視点になるのだが、ひとつだけ死を敗北に変えない世界観があったのだ。それが「家」、一族というものにアイデンティティを見出す場合なのだ。初代蹴速は死んだ。しかしあの試合はまだ終わっていない。一族どうしの対決としていまだ幕間であると、こういうはなしなのだ。

 

興味深いのは、この思考法は戦時中のものに近いということである。量的に、または時間的に、じぶんという存在より大きなものに同化し、その生に、もしくは死に大義を見出すというのは、戦時中、命の危機に際して、それでもそれを正当化さざるを得ないときに人間が見出す最後の世界観なのだ。この世界観をやむを得ずとる場合もあれば、すすんでとる場合もある。もう母国に帰ることは絶対不可能だという確信だけがあり、そしてまず打ち破ることのできない敵に向けての出発が命じられたとき、そんなことはしたくないとしても、そういう世界観をとってひとまずの心理的安定を獲得するということはあるだろうし、国家への同一化が果たされている全体主義的な場所なら、市民はすすんでそういう自己認識をするかもしれない。それは、いろいろある。論点は、時空的にひとりの人間の身体感覚を超えたものと同化するこの戦時の感覚がなければ、「一族」として「無敗」をなのることはできないということだ。

そして、こうした感覚が特殊なものであるということを蹴速が自覚している、そのことを示すのが、2000年無敗をわざわざ「100年無敗」を20回

といいなおすところである。これも非常に興味深い。これは、戦争でいうなら、今回の戦争で相手国を何万人殺した、というようなことを告発する際に、それを参戦した人数で割り、兵士ひとりあたり何人殺した、というふうに言い換えるようなものだ。A国B国の戦争で、AはBの兵士を5万人殺した、といっても、なにかただ情報として流れていってしまうような感じがあるが、Aの兵士1万で割って、ひとりあたり5人殺した計算になる、などといいなおすと、途端に戦争の血なまぐささ、残酷さが皮膚感覚で理解できるだろう。蹴速がやっているのはそういうことだ。最近では100年生きる人間が珍しくなくなってきてもいるので、この計算はじっさいのところまちがっているが、ここでは便宜的に100年を「ひとりの人間の最大寿命」と考えよう。くりかえすように、ひとは、じぶんの持ち分を超える事物を想像することが得意ではない。得意であれば、タバコのポイ捨てや汚染水問題、また長期的な国家運営にかかわるような教育問題など起こっていない。世代超越レベルで物事の変化や持続をとらえるには、特殊な思考法が必要なのである。げんに光成は蹴速の「容れません」をよく理解していないだろう。とするなら、2000年無敗もよく理解できない。勝負というものはふつう、ひとの生と死のあいだに閉じ込められた、ある種の条件付きの実験だからだ。これを、蹴速は、時間を超越した一族レベルでの闘争というものを理解できないものに対する言い方で、100年を20回というふうに言いなおしたのである。

 

一族単位で勝利を希う、このスタンスでは「2000年」は別に長くない。だが、理解もされない。そして、おそらく当麻的には「理解」は重要ではない。じしんのうちにおける確立が肝要なのだ。というのは、けっきょくのところ、「敗者」の烙印は他人がいっていることだからだ。負けていないことはじぶんたちだけがわかっていればいい。けれども、そのためには理論が必要である。そこに出てきたのが仕切りなおしの理論だ。その結果、当麻は戦時の思考法を日常にした。100年を20回のくだりはいわば親切なのである。

 

とはいえ、ではなぜ敵前逃亡が正当化されるのか、という点は疑問が残る。一族単位で勝利を望むスタンスは死すらおそれないだろう。これについては、相手が卑怯な手をつかってきたら・・・というはなしのところにヒントがある。金玉をつぶされても「敗北」は許されないと、彼はいうのである。勝つまで負けないならなにが起きても敗北はないんじゃないかと、単純にはなるが、この言いかたからすれば、それでも「敗北」はありうるのだ。それがどんな状況かはわからないが、ここからは「勝つまでやるから負けはない」は屁理屈ではなく、それでも負けはありうるということがわかるのである。そうならないために逃げる。こういうはなしであるとおもわれる。

 

 

さて、一個人の強さとサバイバルをとことん追求してきた愚地独歩との対面である。いま見たとおりなら、蹴速の思考法は宗教性さえ帯びており、独歩のものを包み超越してしまうかもしれない。かもしれないが、ぜんぜんそんな気はしない。屁理屈ではないとしても、やはり「あたまで考えた」感じが否めないからだろう。蹴速のやっていることはただの解釈なのだ。まずはひとめ見て独歩がどういう感想をもつかがポイントだ。

 

 

 

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第56審/愚者の偶像⑦

 

 

 

 

 

大人の運動会に参加中の門脇数馬。体育館に敷かれたいくつかのマットの上には女の子が全裸で待っていて、参加者たちは気に入った子のところに並んでいる感じである。小山と見られる色黒の男が、狼だか犬だかのかぶりものをつけたまま楽しそうにやっているところだ。ただ、見たところ並んでいる男たちはかぶりものをはずしており、小山だけつけているっぽい。これついでに撮影とかしてないだろうな。馬の顔をつけた数馬は、いったん会場から出たはずだが、また戻ってきて、衝撃を受けているのか、この狂った状況を黙って見ている。

 

 

さて、伏見組組長の接見に向かった九条と烏丸である。接見は終わったようだ。京極の依頼で共謀罪で服役中の組長の弁護をする件だ。京極とからんでいる時点ですでにそうかもしれないが、組長というのは、一線を越える感じがある。そうでなくても、悪党たちに目をつけられて電話がじゃかじゃか鳴る毎日だ。烏丸はこういうことをやめてほしいと考えている。ひとつには、弁護士としてである。だが同時に、九条が心配なのだ。

けっきょく九条は烏丸の忠告を無視して引き受けたようだ。じぶんが引き受けなければ公正な弁護が受けられないじゃないか、というのが九条の言い分だが、そもそも彼らにとっての「公正な弁護」とはなにか?というのが烏丸の考えである。ヤクザ・半グレはすぐに証言をひっくりかえす。つまり、依頼人として信頼できない。契約上の正しい関係が築けない。「買うかわかんないけど」といっているひとの家が建築されることというのはふつうないわけである。

引き受けるならじぶんは去る、といっていたとおり、烏丸は付き合いきれないとして、九条のもとを去っていく。

 

 

大人の運動会に参加した数馬はなにかすでに金持ちになっているかのような言動を見せていたが、事実なっていたようである。いつものサパークラブの勤めながら、ネット広告の仕事をしていたのだ。控え室で、例の金髪の同僚の前で、スマホ片手にいろいろ連絡を受け、指示をして仕事をこなしていく。客には千歌に女の子を用意させていた医者もいる。構成を指示したり、インフルエンサーを用意したり、ふつうに広告の仕事をこなしている。

起業の経緯としては、壬生に紹介された草コインで爆勝ちしている人間の指示にしたがって投資した、ということだ。はじめてきいたことばだが、草コインとはまだあまり知られていない、知名度の低い仮想通貨を指すらしい。それで1200万稼いだ。そこから、初期投資が少なくて済む広告ビジネスに進んだのだ。

 

今度は壬生のところにきて報告している。壬生は、ごく原始的な売買について語っていた際、究極の売り物として会社をあげていた。数馬もいまの会社を売るのが目標のようだ。言葉遣いから思考法まですっかり成金という感じである。

ただ、いったい金持ちになるとはどういうことなのかというむなしさもある。ひとつには大人の運動会である。下品すぎて反吐が出たと。壬生いわく、ああいうのに参加するのは、「奪っちゃいけないものを金で買う守銭奴」と「売っちゃいけないものを金で売る馬鹿女」で成り立っている。彼らには志がない。金の使い道を知らない「ガキ」だから相手にするなというのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

九条の事務所では、なにかの依頼を受けた九条が烏丸の意見を聞こうと誰もいない空間に声をかけてしまっていた。そうか、もう君はいないのか・・・。

 

 

数馬が取り組んだのはそのままネット広告の仕事だったわけだが、壬生がいっていたリスク云々というのは、草コインの投資のことだろうか。投資しているわけであり、価値が不明瞭である草コインというものの性質上明らかでもあるが、たしかにリスキーではあるかもしれない。だが、草コインにかんしてはリスクがあるからリターンも大きいという、典型的なあのはなしになる。とはいえ、犯罪歴がないものを探していたという壬生のあの言葉を考えたら、たぶんこれがメインではないんだろうなという感じはするが。

 

前回の記事で、小山たちと数馬でなにが異なっているか、同じようにあぶく銭を稼いでいるのに数馬が「大人の運動会」に気持ち悪さを感じることができたのはなぜかというところで、人生にかんする歴史観のちがいを持ち出した。「大人の運動会」は、金を手に入れてちからをもった大人が行う「復讐」である。彼らにとって、体育館やマットといった記号は、まだ幼い、金も腕力もなかった無力な時代を表象するものだ。彼らはこれを「大人の運動会」の経験で上書きするのである。同様にして数馬も、じしんの若い時代、父親を経由した記憶のなかに無力さを感じてもいる。だが彼の場合はそれを書き換えようとはしていない。断ち切って生きなおそうとしているわけだ。この「無力な時代」をどうあつかうかというスタンスのちがいが、大人の運動会を受け容れるかどうかのちがいにつながっているものと考えられるのだ。

壬生は今回のことをどういっているかというと、金持ち側からみればほんらい「奪っちゃいけないもの」であり、売る側からすると「売っちゃいけないもの」というふうにいっており、つまり商品について語っている。これは、たんじゅんには売春のことをいっているわけでもある。ただ、大人の運動会に関しては状況がまず異常であり、ただからだを売ること以上の一線をこえたものがあることはたしかだ。ごくわかりやすく、両者の代表を小山とももよということにしてしまうと、いくらももよが風俗嬢であっても、多くのひとがいるなかで、あんなふうに目前で選ぶ行為が行われて、公開セックスをするということは、これまでなかったはずである。こうした異常性が、もともと売春に備わっている「奪っちゃいけない」「売っちゃいけない」性質を強烈に浮かび上がらせることになっている。

この壬生の文脈では、まちがいなく小山は「奪う」ほうで、ももよは「売る」ほうである。それはまちがいないし、壬生もそのつもりでいっている。だが、前回述べた歴史の書き換えという行為でこの取引を読み替えると、実は意味が転倒する。というのは、小山から「奪っちゃいけない」聖域的な幼い記憶を奪い、上書きしているのはももよであり、それを自主的に売っているのは小山だからである。つまり、ここではある種のフェアトレードが起こっているのだ。にもかかわらず、小山的にも、また第三者的にも、小山たちはまぎれもなく「奪うもの」であり、ももよも自覚的に売る側、弱者だろう。数馬のいいしれぬ気持ち悪さはここに着地するようだ。両者は互いに、他人に手渡すべきではないものを交換している。だが、幼い運動会の記憶とセックス交じりの大人の運動会の記憶を入れ替えることそれじたいが目的となることはない。小山の小さい時代の運動会の記憶が売り物にならない、ももよが公開セックスで差し出すことになるものとつりあわない、ともいえるし、そんなことをしても小山以外の人間にはなんの影響もない。だから、ここではそれが聖域を手渡すのではなく、聖域を奪うのだという物語に読み換えられる。この点では、壬生の語る「奪う」「売る」の関係性は読み換えられたあとのものということになる。もともとの、小山にとっての「売っちゃいけないもの」である幼い記憶は隠蔽され、金を通した奪う奪われるの物語として読み換えられることで、ある種の対称性が消滅してしまうのである。「売る」という語が貨幣をすでに含んでいるので、ここは言い換えると、要は「手放してはいけないものを手放している」という意味で、両者は同類である。にもかかわらず、金がどちらからどちらに動いているかという視点だけで事態が解釈されている、このことが、数馬には気持ち悪いのである。

とはいえ、そもそもどうしてそのような隠蔽が可能なのかといえば、「ももよが差し出すもの」に値段をつける者がいるからだ。小山の運動会の記憶を「買う」というものがいるのであれば、隠蔽もなにもない。しかし、こうした経路で彼が運動会の記憶を「売る」ことはないだろう。それが目的の全部ではないからである。おそらくこのぶぶんは無意識の行為に近いだろう。ただ、運動会のシチュエーションで全裸だったら背徳感を得られそう、くらいの感覚だ。では表面の目的はなんなのかというと、「買う」ことである。「買う」という行為そのものなのだ。じっさいには、小山も聖域を手放している。それは彼自身どこかで望んでいるからこそのことでもあるのだろうが、ともかくそうなっている。とすれば両者は本来同類だ。これをわかつのが、金の流れの向き、すなわち「買う」という行為なのだ。そこにはもはや「なにを」買うのかという志向性はない。この「買う」は自動詞である。壬生がいっている「志」とは、おそらくそういう意味だ。

 

しかし、では、そういう小山と数馬で、そんなにもお金の使い方がちがうのかというと、疑問は残るわけだ。仮想通貨で資金をつくったというのが象徴的だが、数馬じしんも、このうつろさを感じてはいるだろう。それどころか壬生さえ、高みから見る景色について語るときにこういうことをいっている。数馬の目的は、壬生のようにBIGになることだとおもうのだが、それでどうするの?という感覚は、すでに数馬のなかに宿っているのだ。とりあえず壬生には小山のような気持ち悪さはないので、この道を通ればああはならない、というふうに感じているのだろうが、不安があるからこそ、数馬はなんども確かめるのである。このうつろさは、お金を稼ぐことそれじたいが目的となったときに生じるものだ。まさに小山が「買う」という行為でじぶんがももよのような同類と並んだとき上位であることを示すように、志を書いた行為的行為に終始するようになったとき、この虚無はやってくる。あとはこの虚無をどう飼いならすかだ。小山は身体的快楽に振り切っているようである。だが、「買う」はほんらい他動詞なのだ。お金は、ただ交換のための記号にすぎない。こうしたことを理解した先に、壬生の落ち着きはある。丑嶋がお金をコントロールする金融の立ち位置を選んだのは裏社会が欲望=金によってかなりのぶぶん制御できるからである。同じように、おそらく壬生も、大きな目標がある。ひとつにはおもちを殺させた京極だろう。さらに、この手の「いつ刺されるかわからない」タイプの人間は、生存それじたいが大きな目的にもなりうる。こうした、行為的行為をこえた哲学や巨大すぎる目的物を想定しなくては、数馬もいずれ虚無に陥るだろう。その前にたぶん、壬生が用意している落とし穴に落ちることになるとおもうけど。

 

 

九条はあっさり伏見組長とはなしを進めてしまった。九条の哲学的にはそうなるんだけど、烏丸のことを信用していたはずだから、てっきり彼の忠告を受けてうまいこと断るのかとおもっていた。そうすることでほんとうに烏丸が去ってしまうだろうことも、九条はわかっていたはずだから、それだけ哲学優先のガンコものということだ。だが、ひょっとすると今回の最後の流れで、あくまで弁護業の必要能力的な面で、烏丸を呼び戻そうとするのかもしれない。しかし、ヤクザの組長まで面倒をみることと烏丸の居候が同時に成り立たないとなると、「仕事に差しさわりが出て烏丸が呼び戻される」という状況は、論理的にありえない。とすると烏丸はライバル弁護士とかになってしまうのだろうか・・・。

 

 

 

 

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第128話/敵前逃亡

 

 

 

 

 

勇次郎に蹴り上げられ、天井を破って姿が消えたその足で逃亡した当麻蹴速。営業先から直帰するみたいでなんか効率がいいぞ。

 

その後日、蹴速と光成が中華料理を食べにきている。横になった勇次郎をそのままにしてアライジュニアが帰宅したときは、ビルごとゆさぶる勢いで勇次郎は激怒していたが、今回は大丈夫だったのかな。やっぱりかなり丸くなったよな。

 

最初はなんだかわからなかったが、半月がたに刻んだピータンである。餃子みたいにたくさん並んだこれを、蹴速はレンゲでいっきにすくい、ビールで流し込む。ピータンはなぜかビールを甘くすると蹴速は語る。

次はやはり大量の北京ダック。二本ずつつかんでもにゅもにゅ食み、やはり甘いという。料理については非常に暗く、外食しても同じものしか食べない人間なので、よくわからないが、ピータンはアヒルの卵で北京ダックはアヒルの皮を揚げたものだという。こんなにアヒル尽くしのことってあるのかな?

 

次はなんか・・・なんか麺、麺だな(お料理の語彙がゼロですいません)。大量のそれを、猛烈な勢いで吸い込み、今度は紹興酒で流し込む。

とにかく「大食」という印象である。光成は「今どきのアスリートには珍しい」というが、これは皮肉かな? それとも、蹴速が力士ということで、力士というのは実在する職業であるから、とりあえずそういう括りに落とし込んだということか。

蹴速は、酒豪の中国人と飲み比べをし、2斗(36リットル)を飲み干して歩いて帰宅したという雷電為右衛門のエピソードをくちにする。一晩でお店を何軒も食べ尽くす力士がいた、ともいうが、これは名前が出ていないので、ひょっとすると現代の実在力士のはなしだろうか。「食」は「力」である、力士はアスリートではない、食はどこまでも「強さ」に向けられたものでなければならないと蹴速は語る。

勇ましい言葉だが、ならばなぜ逃げたのかと光成は問う。相手は勇次郎、それに逃げ足の速さも強さの要素だ、「ならば」っていわれても、という感じはあるが、まあよく真顔でそれを言えたなみたいなぶぶんもないではない。蹴速は逃げてないというが、言い訳の余地はないと光成は二回いう。

 

 

「古流角力道 第101代当麻蹴速

代々の先祖も泣いておろうな」

 

 

 

たいしたセリフではないが、はじめて蹴速の出自がちゃんと語られたのでメモしておこう。素直に受け止めれば当麻は家、血筋であるということになる。

蹴速的にはあれは「仕切り直し」であるが、光成はぜんぜん納得できないし気に入らない。だが蹴速は少しも動じない。当麻家は仕切り直しを恥じないという。ゆえに、宿禰との天覧試合を含めたこの2000年間、無敗全勝だというのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

最後のところでようやく光成は、感心してるのだかあきれているのだか、否定的態度を消しているが、やっぱりおもったよりぜんぜんいいキャラだな。

なにがそこまで気に入らなかったのか、今回の光成はわりとしつこかったが、少しもダメージを受けないのは歴史の重みだろう。つまり、当麻家というのはずっとこういう扱いだったのだ。仮にバキがあの場で逃亡したとして、光成はあそこまで追及しただろうか。

 

考えてみれば「当麻蹴速」の含む意味は非常に特殊なものだ。いきなり、なんの前提もなしに強者の条件だけ背負ってあらわれ、そして負けるのである。それ以前の物語なんかなく、誕生するなり敗者設定なのだ。ほとんど原罪である。一挙手一投足に、本質的な「敗者」の刻印をひとが探ってしまう、そういう一族なのである。

しかし、それはただ「評価」であるともいえる。だからこそ、手厳しい光成のことばにも蹴速はすずしい顔で対することができた。とはいえ、内なる原理が確固として成り立っていなければ、しょせん外野からの評価だと受け流し続けることも難しいだろう。そこで「無敗全勝」なのである。この言い方もおもしろい。全勝であれば、ふつう無敗である。しかし、無敗だからといって全勝とは限らない。引き分けや試合不成立など含めれば、無敗ではあるが全勝ではなくなる。無敗⊃全勝ということだ。つまり、通常であればこの言の「全勝」のぶぶんは修飾語に近いものになる。そうでないなら、「無敗」のぶぶんは不要である。当麻家はまず「無敗」である。そのうえで、実質全勝なのであると、こういう言い方になっている。この「実質全勝」というところに、ふつうであれば解釈の余地が生じるのだ。

つまりこうである。たんに「全勝」なのだということを伝えたいなら、「全勝」とだけいえばよい。しかし、この言説が生じる今回のような現場では、まず宿禰との対戦が想起され、同時に原罪のような当麻家の本質的敗北が浮かび上がってもくる。この言い方はこれに対応したものなのだ。「無敗である」と宣言することは、たんに負けがないこと以上に、この本質的敗北を無効にする。まずそうしなければ、「全勝」は効力をもたないことを、当麻家の人間は知っているのである。そもそも全勝しているかどうかは当麻家の人間だけが知っていればいいことでもあるかもしれない。が、このように宣言する場所というのは、まさに光成がしているような「評価」の状況である。これをどうでもいいとはできないタイミングなのだ。そこで、まず「無敗」なのだ。

しかし、見たように、「無敗」は必ずしも「全勝」を意味しない。この「全勝」が、解釈の余地がない、「無敗」と等価となる条件は、「勝つまで試合は続いている」という状況以外ないのである。これが今回蹴速の示した「仕切り直し」の原理である。これが、「無敗」を「全勝」の前におく理由だ。ひとつには、「無敗」は「対評価」の文脈で機能していたものだ。それが転じて、ここでは「無敗」であることが「全勝」と等しい価値をもっているのである。

 

ややこしくなってきたので整理する。当麻家は、存在のはじめから、原罪のように「敗北」を背負っている。ひとは敗北者として彼らをあつかう。それをただの「他人の評価」だと受け流すことも、彼らにはできる。しかし今回の光成のような状況ではそうもいかない。そうでなくても、彼らにも宿禰との対戦が現実的には敗北だったということは理解されているはずである。そのうえで、当麻家のプライドはどのように保たれるか。そこに持ち込まれたのが仕切り直しの原理なのだ。要するに、「あのたたかいはまだ終わっていない」ということなのだ。これが転じて「勝つまでやる」ということでもある。だから、当麻家が取り組む勝負に「負け」は絶対にありえない。ゆえに無敗である。おそらくじっさいには、この「無敗」という宣言は、ちょうど光成とのやりとりのような現場で出てきたものだろうとおもわれる。しかしこれがいつしか当麻家の勝負観になっていったのだ。くりかえすように、ふつう無敗と全勝はイコールでは結ばれない。しかし「勝つまでやる」のであれば、これは等号で結ばれうるのだ。

 

 

こうした思考法は別段珍しいものともおもわれないかもしれない。死刑囚たちも似たようなものだった。当麻が異様なのは、これが世代を超えた取り組みになっているということだ。要は、いまの蹴速が宿禰に勝つことがなかったとしても、次の世代がそれを達成すればいいのである。一族郎党単位で、世代交代までしてたたかいを続行する、そういう者なのだ。じっさい、ファイターとしての自己同一性が「家」に由来しているものだと考えれば、あっさり逃げ出す蹴速の行動も納得できる。要は、あのとき逃げ出したのはあの蹴速個人ではなく、「当麻家」なのである。

 

とはいえ、いまだに蹴速と宿禰の勝負がついていないっぽいというのは、不思議でもある。というのは、いまの宿禰は特殊中の特殊で、これまでの宿禰はどうもふつうの人間だったようだからだ。その間に勝負がつかなかったというのであれば、よりにもよっていまのあの宿禰に勝てるはずもない。この状況になっている理由は2通り考えられる。ひとつは、宿禰がこれまで逸材を出さなかったように、蹴速もずっと一般的な人材しか出てこなかったというものだ。もうひとつは、蹴速の側でいまの宿禰のような逸材の登場を待っていたというものである。格闘ロマン的には後者を推したいが、家単位でたたかっている以上、前者なのかなという気もする。もしくはたんにぜんぜんたたかってこなかったか。もう少し彼の宿禰への感情が語られれば、このあたりも見えてくるかもしれない。

 

 

 

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第127話/飛ぶ

 

 

 

 

勇次郎と蹴速の踏み合いが開始、蹴速の横蹴りっぽい直線的な蹴りを、勇次郎は上から膝裏で抱えるようにしてとらえるのだった。

 

どうするか?とたずねる勇次郎に、なんなら一日中相踏み合いませんか?という、微妙にずれた回答をする蹴速。「どうする?」という問いかけじたいはアライジュニアに猪狩アライ状態をしかけたときにも見られたもので、若者に対するときの勇次郎が最近するしぐさだが、この蹴速の提案を勇次郎は黙って咀嚼する。そして、再びどうするか訊くのである。つまり、踏み合いをすることに異論はないということなのだ。

で、どうするか。飛んでみますかと蹴速はいう。勇次郎が飛ぶのだ。蹴速の左足はいま空中で固定されている状態だ。そこで、飛び蹴りの要領で、蹴り足ではない右足を高く引き上げ、宙で腰を回転させることで勇次郎ごと左足を蹴り上げるのである。勇次郎の巨体が浮かび上がり、足の抱え込みははずれて、天井を破って向こう側に姿を消してしまう。その穴から戻ってくればいいのに、なぜか勇次郎は別の古い屋敷特有だという抜け道を通って、ふつうに部屋の外から歩いて戻ってくるのだった。

蹴速は興奮している。勇次郎が圧倒的な強さであることは明らかだ。いろいろ、つかってみたい技術が出てきているのだ。たとえば足の正拳であるとして、これが打たれる。烈もやっていた、指をかたく握りこんだ足の拳を突き刺す技だ。これは足技に長けるものが必ず到達するところみたいだ。通常の手による正拳と同じく、打つ瞬間まで指は開いて脱力し、打ち込む瞬間にちからをこめているようだ。しかしこれをなんなくかわした勇次郎は蹴速の背後にまわっている。あわてて追撃する蹴速に後ろ蹴りが打ち込まれる。回転しているのかどうかはよくわからないが、どちらにしても後ろ蹴りはもっとも強力な蹴り技のひとつである。いちおう蹴速はガードしているっぽいが、この描写だと蹴りじたいは腹に接触しているみたいだな。

 

後ろ蹴りは下からすくいあげる角度で打ち込まれる。結果、今度は蹴速が天井をやぶって消えてしまう。ふたつの巨大な穴が天井には出現したわけだ。けっこう近いところにあいているので、この感じだと特に蹴速がつっこんだ時点で、ぽっかり穴があくというよりぜんたいに広く割れてしまいそうだが、そうならないのはすごい速度で破ってしまったからだろう。ふっとんだ蹴速がつくった穴なんて人型になってるからな。

 

しかし、そこから蹴速はもどってこない。やがて加納が部屋にやってきて、蹴速が帰宅したことを知らせるのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

蹴速はおもった以上にいいキャラだな。ふつうに逃げおった。速さだけでなく、勇次郎の技の威力を体感して今回は出直すことに決めたものとおもわれる。

 

 

勇次郎の抱え込みからここまで、なんだかよくわからないまま終わってしまった感じだが、とりわけ今回の、天井をつきぬけてちがうところから出てくる、みたいな図像は、興味深くもある。蹴り上げられ、天井裏にいるものからすると、真下には相手がいるわけだから、そこにひらりと着地するのはちょっとリスクが高い。そういう意味で別のところから勇次郎は出てきたものとおもわれるが、なにかもう少し、根源的なところがゆさぶられる感覚があるのである。

 

前回考えたことは、特に勇次郎と蹴速の文脈で、どうやら「踏む」という語は「やっつける」というようなニュアンスで使われているらしいということだった。「踏」という字のもともとの意味は、神様へのメッセージ(祝詞)を水で台無しにするというようなことがある。ここに引き続くのが踏み穢すというイメージだ。字書的にはここに地鎮的な意味も並ぶ。神様へのメッセージを台無しにすることと、宿禰がやるように、邪なものを鎮めるということが両立するためには、「踏む」は他動詞的に、目的語を備えたときに完成するものと考えなくてはならない。つまり、「踏む」それじたいには、聖性は宿らないのだ。対象がどういった性質のものであれ、とにかくそれを損なう、また制限する、こういうものが「踏む」なのである。だから、この語が対象を想定しないまま単独でつかわれるときには、どこか抽象的な、つまり「やっつける」のようなぼやけた意味になる。勇次郎や蹴速はおそらくここに、近代格闘技の技術戦の成立という文脈もこみで、相手の性質を、つまり「踏む」の性質にとらわれず、ただ「やっつける」という意味を含めているのである。

こうしたことを踏まえて、今回起こったことはいずれも「蹴り上げる」ということだったわけだ。「踏む」に含まれる図像的ニュアンスにはまちがいなく下方に向けての、鉛直方向の運動と「潰す」感覚が宿っている。この図像は「踏む」の原義、すなわち、対象が善であれ悪であれ、それを台無しにするという感覚を呼び起こさせるものだ。ところが今回、両者は相手を宙に蹴り上げたわけだ。このやりとりが「踏む」の聖性をぎりぎりまで取り除いた技術的なものにほかならないということが、打ち合わせもなく、期せずして宣言されたようなかたちになっているわけである。

 

ここまではまだいい。興味深いのはやはり勇次郎が部屋の外側から帰還したこと、そして蹴速が吹き飛ばされたその足で帰宅したことである。ここからは、なにかあるエネルギーへの反発というような、通常の格闘で見られる当たり前のやりとりではないなにかである。

勇次郎でいえば、蹴り上げられたことで、ある種の反対給付義務のようなものが生じている。ダメージは負っていないかもしれないが、とにかく攻撃され、上方に飛ばされた。ふつう闘争というものは、このときに背負った負債のようなものをお返しするしかたで成立する。この、ダメージを交換しあうようなやりとりが、一般的な意味でのたたかいと考えても別にまちがってないだろう。しかし、今回勇次郎たちが見せたやりとりはどことなく贈与経済的である。クラ交易のように、あるものを受け取ったあと、その返礼を別のものに行うことで、巨大な円環が描かれるという交易体系だ。闘争はどこまでも閉じた二者のコミュニケーションである。しかし、今回からはそういうものが感じられないのだ。かといって第三者の存在が感じられるとか、大きな円のいちぶが見られるとか、そういったはなしではない。これはおそらく両者のスタンスのはなしなのだ。

 

通常の交換経済でひとは必要なものを手に入れる。お腹がすいたから、500円玉とコンビニのお弁当を交換するのだ。しかし贈与経済はそうではない。これは、ふつう考えられている交換経済のもっと原始的なかたちだ。このとき交換される物品そのものには、じつは価値が内在してはいない。極端には、その物品はなんでもいいのである。もっといえば、それを受け取ったものは、それがなんだかすらわからない。こういう状況で、しかし「なにかを受け取ってしまった」という負債感だけは残る。こうして、次の贈与が生まれ、世界は活性化され、現在に至ってきわめて単純化された交換体系にまで至ることになる。今回のたたかいからはこれと似たものが感じられるのだ。勇次郎は、蹴速に蹴り上げられて天井に消えた。ふつうなら、ここに「反撃」することになる。ところが勇次郎は、飛ばされた道筋をたどって(つまり、天井から飛び降りて)戻ることはなく、まるでたったいま受け取った攻撃を保存して、保留して、泳がせておくかのようにして、優雅に帰還したのだ。

こういう視点でいえば、即座の「反撃」は、いわば「瞬間的な解釈の断定」のようなことでもあったわけである。いまじぶんがどういう攻撃を受けて、どういう状態に陥ったのか、即座に断定しなければ、すぐさま攻撃に転じるということはできない。じっさい闘争とはそういうものである。しかし、特に宿禰対ジャック戦でもそうだったのだが、他者をどのように受けとっていくのかということは、バキ道では通底的なテーマになっている。他者とは、わからないもの、思い通りにいかないもののことだ。即座の反撃、殴り飛ばされた道を同じようにたどってもどっていき殴り返す、こうした行為は、いま起こったことを理解したと本人が確信している状況でなければおきないのだ。しかしこうした闘争はいかにもその場の勝負に重きが置かれている価値観によるものだ。コンビニのレジでお弁当をつきだされ、それが500円の価値があるものと断定するからこそ、わたしたちは500円を突き出すのである。このコミュニケーションはそこで終了だ。空腹は満たされるが、腹はまたすぐにすく。原的な贈与体系はひとを成長させる。なぜなら、つきだされたものがなんなのかよくわからないからだ。しかし、わたしたちはそれをとりあえず受け取る。受け取って、プールして、価値の海を泳がせる。このときにひとは成長する。原始的な交易という意味でも、こうして円環を描く体系を守るために造船技術などが発達していったというような面があるようであるが、こういう歴史的事実の検証はとりあえずいまはよいだろう。もっと個々人の実感に即した卑近なはなしだ。「これいいよ」と、友人が貸してくれた、タイトルすら読めないなんか海外のバンドのCDとかがあったとして、聴いてみたけどやはりなにかよくわからない。やがてその友人とは疎遠になってしまい、借りパクしたかたちになってしまったが、やはりいまでもよくわからない(わかっても別にいいけど)。ただ、その過程で、あなたはそこに書かれていたものがキリル文字であるということを知ったかもしれない。そしてのちにあなたは、そのときはまっていたスペインのバンドの音楽を、息子に聞かせるのである。

贈与の「システム」については、ここではそこまで問題にしない。だが、「贈与的な生き方」は、ひとを成長させる。今回二者によって演じられたものからはそれが感じられるのである。

 

 

 

↓バキ道 14巻 9月8日発売予定

 

 

 

 

 

 

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第55審/愚者の偶像⑥

 

 

 

 

 

数馬のはなしにもどるぞ。壬生にいわれた100万の貯金を達成した数馬は、次に1000万を目指している。しかしいままでのようにドンペリ1本いくらのやりかたではどうも難しそうだ。

近くには金髪の同僚がいて、前に出てきた男と同じ人物かわからないが、数馬の気迫と比べるといかにものんびり生きている。数馬的には、同じ時間同じ店で過ごしているのに売上がちがうのは努力がたりないからだというはなしになるが、金髪は運がいいだけだろという。これを受けて数馬は、なにをいってもむだだと、金髪を全面的にあきらめる。ほんとうは運も努力も両方なければこうはならないから、金髪を見下げた数馬もじつは金髪と認識の程度は変わらない。それもそうだよなとなれたら強かったのだが・・・。

そうして友人をあきらめ、見下げることでネガティブにわだかまりを解消した数馬は、彼にカレーをおごる。そして父親のことを語る。数馬は父親が金持ちを妬む姿をみてきた。なにかずるいことをしているから金があるのだと。貧すれば鈍する、貧しさはこうした視野の狭さを強化する。そしてそうした事物への鈍い感受性が、またさらに深い貧しさを呼び込むことになる。貧しさは貧しさを呼ぶのである。

 

ともあれ1000万は難しそう。数馬は壬生に相談する。安く買って高く売るのが基本なら、高いものをまず買って売れば利益も大きい、究極は会社だと壬生はいう。近道の方法はある。リスクをとる覚悟はあるかと訊かれて、壬生のみている景色をみたいと、数馬ははなしに乗る。貧しさが貧しさを呼ぶスパイラル、貧乏カルマを断ち切ると、数馬はこころに決める。

 

ももよは肉体改造(物理)に精を出している。数馬にひとつひとつ報告しており、数馬もそれを前向きなものとして受け取っている。そして完成したグラマラス美女のももよは、うまくいけば100万稼げるという仕事を千歌に紹介してくれるよう頼む。仕事場は、心配になるほど山奥の田舎だ。なにをするのかという、全裸で運動会である。女の子が7人集まって、パン食い競走的に一万円札をくわえている。AVの撮影かとおもったが、ふつうにただ「大人の運動会」をやっているようだ。女の子は全裸でなにもつけていないが、観戦している男はかぶりものだけしていて、馬と狼がはなしをしている。すぐにわかるが、馬は数馬で、狼はどうも小山のようだ。しかし相手が誰であるかはわからない。数馬が、これはなんなのかと訊ねて、大人の運動会だと小山が説明している感じだ。

このことと壬生の話していたリスクがつながるのか(この運動会への参加じたいが“リスク”なのか)どうかは、なんだかよくわからない。数馬は川原社長の紹介で来たという。最近会社を作ったのだが、飲み屋で誘われたと。ほんとうに、あれから時間がたって、会社を作ってここにきているのか、これらは作り話で、壬生と話したあの足で来た感じなのか、よくわからないのだ。壬生が「リスク」と呼んだなにかは、利益を生むものでなければならない。この運動会に参加することがどう利益を生むのか、またリスクというほどのものがどのあたりにあるのか見えないので、ふつうに前者なのかもしれない。

女の子はひとり20万もらっている。スマホなどは預かっているから情報漏えいはないし、彼女たちじしん、モデルやグラビアで、事務所に内緒できているから漏らす動機もない競技に優勝すれば10万もらえ、さらにこのあと、10万円で大人の組体操が行われるのである。たしかに、がんばりしだいで100万という感じだな。

数馬は女の子のなかにももよを発見。だからどうということもないだろうが、外に出てマスクをはずし、バスケゴールのところで立小便、男も女も、なんでも金に換算して気持ち悪いと、案外ふつうの感覚のことをいうのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

最後のところでは九条が伏見組長の面会に向かおうとしている。烏丸はこれ以上反社と関わるようなら九条から離れるということをいっていたので、へんな動きをして気を引こうとする人間を見る猫みたいな顔をしている。とりあえず会うだけ会って、断る流れだとおもうが。

 

 

大人の運動会にかんしては、組体操の10万円がいちばん驚いた。マットに女の子が座っていて、お気に入りの子のところに順番待ちで並んで、たぶんみんないる前でナニをするということだとおもうんだけど、10万というのは法外である。いや、売春の相場なんて感覚的にはわからないけど、安くはないんじゃないかなと。参加料20万とか競技に勝ったら10万とかも、要するにインセンティブなので、それくらいのお金を払わないと成立しないという意味ではそうなのかもしれない。しかし女の子たちがすでに20万もらっていることも考えるとやはり大金だろう。企画じたいは「富裕層」がしているようである。だから、ひょっとすると、数馬のようなゲストはこの時点ではまったくお金を払っていなくて、組体操ではじめてお金を出すということになるのかもしれない。で、この組体操の10万は女の子には入らないか、もしくは部分的に入るだけで、「富裕層」はここでじゃっかんお金を戻しているということなのかもしれない。いずれにせよ、微視的にみたとき、いちどの性交に10万が支払われていることにちがいはない。ももよはちがうけど仕上がりはじゅうぶんである、相手がグラビアやモデルだということを考えたら、そんなものなのかもなあという気もするが、参加料や優勝賞金まで含めて10万単位でお金が動いていることに戸惑ってはしまうわけである。

どうしてこうなるかというと、性交そのものにお金が払われているわけではないからである。運動会というこのシチュエーションに、彼らは大金を払っているのだ。行為そのものに10万の価値が施されているのではなく、そこまでの運動会の催しから体育館やマットという要素まで含めた「状況」に、高値がついているのだ。

そうだとして、しかしこの「状況」のなにがそんなに高価なのか。じっさいのところ、この「大人の運動会」ではなにが起こっているのか? ヒントとしては数馬の「なんでも金に換算」があてになるかもしれない。というのは、サパークラブ勤務で、ももよみたいな客もいて、いままさに壬生伝いに金持ちになろうとしているものにしては、この発言はナイーブすぎる感じがあるからだ。このときに数馬が感じたものはなんだったのか、小山たちは「なに」を金に換算しているのか。それはおそらく、幼年時代、少年時代という、ある種不動の聖域なのである。以前どこかで千原ジュニアが、少年時代に買えなかったゲームや玩具を大人になってから大量に買って「復讐」すると表現していたが、この意味での「復讐」が近いかもしれない。なにかこう、まだまだ無力で、金のちからなんかもちろんなくて、腕力もまともに備わっていなかったままならなかった人生の若い時期、こういうものを、「大人の運動会」で上書きしようとするような感性が感じられるのだ。この運動会の会場はじっさいの廃校を用いている。ただたんに「女の子に全裸で運動させる」だけなら、小学校が舞台である必然性はないだろう。そこにはそういう背徳感が必要なのだ。

 

どうしてこの富裕層は、無力な時代の上書きをしようとするのか。これは、いろいろな歴史の考えかたを閲してみるといいかもしれない。たとえば中国では、歴史が古いことはとにかく価値あるものとされる。『易学』の本田済では、狩猟民族が敏捷と膂力を伴うために「若さ」を賞賛するのに対し、中国のように農耕的な場所では経験と智慧、すなわち年を重ねている「老い」が尊重される。これが歴史の古さに対する価値の大きさに転じている。こうしたことが、現在に至るまでの歴史的な流れを盛ったり、そこに神話的人物を配したりという、日本にも見られる傾向を呼ぶのである。

 

 

 

 

 

 

歴史観は、現在の自己認識と、それを肯定する感覚によって決定するのだ。これが数馬の感じた「なんでも」というところなのである。現状、たしかに金持ちたちはなんでも金に換算する。だがそれはいまの数馬もそう変わらないだろう。彼が感じる気持ち悪さは、それを歴史観に拡張しているところにある。ある種の無垢さとともに、いま彼らが生きているオルタナティブなお金の物語とはほとんど別のところにある本質的な物語としての歴史を、お金で買いなおしているのである。そうすることで、本質とは別の流れだった傍流としての「お金の流れ」は見かけ上本流になる。歴史上、お金の力を行使できなかった時代を駆逐し、当時ありえなかったセックスで色づけして「復讐」する。彼らの行為はそういうことではないかとおもわれる。

ただ、これだけでも、数馬がいきなり「気持ち悪い」とするのは唐突な感じがある。もうひとつ、今回は彼が父親のはなしをしているぶぶんがあるのが興味深い。彼にはお金持ちを妬む父親がいる時代があったのだ。彼はこのカルマを断ち切ろうとしているのである。ちがいはここにある。無垢な時代、無力な時代は、各人にたしかにある。無力なぶん、数馬は「お金持ち」というものを誤解していただろうし、それは現在と地続きである。数馬は、「そうではなかった」ということ、つまり「お金持ちはズルをしてそうなっているわけではない」ということを確信するに至った。そこで、そうした記憶を別のものに入れ替えるのではなく、否定しようとするのがいまの数馬だ。歴史を書き換えようとする金持ちたちの行為には、数馬的にはどこか気持ち悪さがある。同様に「歴史的事実」を忌避しながらも、上書きするのか断ち切って別の生き方を開始するのかという点で、両者は異なっているわけだ。それがなにを意味するのかはわからない。こうみると、数馬は小山たちほどお金のちからをまだ信じきれてはいないのではないか・・・という気もする。個人的にはそれでいいとおもうが、たぶんこのままだと「小山のように」はなれないだろう。

 

 

あとは壬生がいっている「リスク」云々が今回の運動会とつながっているのかどうかかな・・・。たぶんあれとこれは別のはなしなんだろうけど、だとしたらすごい唐突だし、川原社長って誰だよって感じだし、なんだろうな・・・。

 

 

 

↓九条の大罪 6巻 7月29日発売予定

 

 

 

 

 

 

 

 

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