今週のバキ道/第127話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第127話/飛ぶ

 

 

 

 

勇次郎と蹴速の踏み合いが開始、蹴速の横蹴りっぽい直線的な蹴りを、勇次郎は上から膝裏で抱えるようにしてとらえるのだった。

 

どうするか?とたずねる勇次郎に、なんなら一日中相踏み合いませんか?という、微妙にずれた回答をする蹴速。「どうする?」という問いかけじたいはアライジュニアに猪狩アライ状態をしかけたときにも見られたもので、若者に対するときの勇次郎が最近するしぐさだが、この蹴速の提案を勇次郎は黙って咀嚼する。そして、再びどうするか訊くのである。つまり、踏み合いをすることに異論はないということなのだ。

で、どうするか。飛んでみますかと蹴速はいう。勇次郎が飛ぶのだ。蹴速の左足はいま空中で固定されている状態だ。そこで、飛び蹴りの要領で、蹴り足ではない右足を高く引き上げ、宙で腰を回転させることで勇次郎ごと左足を蹴り上げるのである。勇次郎の巨体が浮かび上がり、足の抱え込みははずれて、天井を破って向こう側に姿を消してしまう。その穴から戻ってくればいいのに、なぜか勇次郎は別の古い屋敷特有だという抜け道を通って、ふつうに部屋の外から歩いて戻ってくるのだった。

蹴速は興奮している。勇次郎が圧倒的な強さであることは明らかだ。いろいろ、つかってみたい技術が出てきているのだ。たとえば足の正拳であるとして、これが打たれる。烈もやっていた、指をかたく握りこんだ足の拳を突き刺す技だ。これは足技に長けるものが必ず到達するところみたいだ。通常の手による正拳と同じく、打つ瞬間まで指は開いて脱力し、打ち込む瞬間にちからをこめているようだ。しかしこれをなんなくかわした勇次郎は蹴速の背後にまわっている。あわてて追撃する蹴速に後ろ蹴りが打ち込まれる。回転しているのかどうかはよくわからないが、どちらにしても後ろ蹴りはもっとも強力な蹴り技のひとつである。いちおう蹴速はガードしているっぽいが、この描写だと蹴りじたいは腹に接触しているみたいだな。

 

後ろ蹴りは下からすくいあげる角度で打ち込まれる。結果、今度は蹴速が天井をやぶって消えてしまう。ふたつの巨大な穴が天井には出現したわけだ。けっこう近いところにあいているので、この感じだと特に蹴速がつっこんだ時点で、ぽっかり穴があくというよりぜんたいに広く割れてしまいそうだが、そうならないのはすごい速度で破ってしまったからだろう。ふっとんだ蹴速がつくった穴なんて人型になってるからな。

 

しかし、そこから蹴速はもどってこない。やがて加納が部屋にやってきて、蹴速が帰宅したことを知らせるのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

蹴速はおもった以上にいいキャラだな。ふつうに逃げおった。速さだけでなく、勇次郎の技の威力を体感して今回は出直すことに決めたものとおもわれる。

 

 

勇次郎の抱え込みからここまで、なんだかよくわからないまま終わってしまった感じだが、とりわけ今回の、天井をつきぬけてちがうところから出てくる、みたいな図像は、興味深くもある。蹴り上げられ、天井裏にいるものからすると、真下には相手がいるわけだから、そこにひらりと着地するのはちょっとリスクが高い。そういう意味で別のところから勇次郎は出てきたものとおもわれるが、なにかもう少し、根源的なところがゆさぶられる感覚があるのである。

 

前回考えたことは、特に勇次郎と蹴速の文脈で、どうやら「踏む」という語は「やっつける」というようなニュアンスで使われているらしいということだった。「踏」という字のもともとの意味は、神様へのメッセージ(祝詞)を水で台無しにするというようなことがある。ここに引き続くのが踏み穢すというイメージだ。字書的にはここに地鎮的な意味も並ぶ。神様へのメッセージを台無しにすることと、宿禰がやるように、邪なものを鎮めるということが両立するためには、「踏む」は他動詞的に、目的語を備えたときに完成するものと考えなくてはならない。つまり、「踏む」それじたいには、聖性は宿らないのだ。対象がどういった性質のものであれ、とにかくそれを損なう、また制限する、こういうものが「踏む」なのである。だから、この語が対象を想定しないまま単独でつかわれるときには、どこか抽象的な、つまり「やっつける」のようなぼやけた意味になる。勇次郎や蹴速はおそらくここに、近代格闘技の技術戦の成立という文脈もこみで、相手の性質を、つまり「踏む」の性質にとらわれず、ただ「やっつける」という意味を含めているのである。

こうしたことを踏まえて、今回起こったことはいずれも「蹴り上げる」ということだったわけだ。「踏む」に含まれる図像的ニュアンスにはまちがいなく下方に向けての、鉛直方向の運動と「潰す」感覚が宿っている。この図像は「踏む」の原義、すなわち、対象が善であれ悪であれ、それを台無しにするという感覚を呼び起こさせるものだ。ところが今回、両者は相手を宙に蹴り上げたわけだ。このやりとりが「踏む」の聖性をぎりぎりまで取り除いた技術的なものにほかならないということが、打ち合わせもなく、期せずして宣言されたようなかたちになっているわけである。

 

ここまではまだいい。興味深いのはやはり勇次郎が部屋の外側から帰還したこと、そして蹴速が吹き飛ばされたその足で帰宅したことである。ここからは、なにかあるエネルギーへの反発というような、通常の格闘で見られる当たり前のやりとりではないなにかである。

勇次郎でいえば、蹴り上げられたことで、ある種の反対給付義務のようなものが生じている。ダメージは負っていないかもしれないが、とにかく攻撃され、上方に飛ばされた。ふつう闘争というものは、このときに背負った負債のようなものをお返しするしかたで成立する。この、ダメージを交換しあうようなやりとりが、一般的な意味でのたたかいと考えても別にまちがってないだろう。しかし、今回勇次郎たちが見せたやりとりはどことなく贈与経済的である。クラ交易のように、あるものを受け取ったあと、その返礼を別のものに行うことで、巨大な円環が描かれるという交易体系だ。闘争はどこまでも閉じた二者のコミュニケーションである。しかし、今回からはそういうものが感じられないのだ。かといって第三者の存在が感じられるとか、大きな円のいちぶが見られるとか、そういったはなしではない。これはおそらく両者のスタンスのはなしなのだ。

 

通常の交換経済でひとは必要なものを手に入れる。お腹がすいたから、500円玉とコンビニのお弁当を交換するのだ。しかし贈与経済はそうではない。これは、ふつう考えられている交換経済のもっと原始的なかたちだ。このとき交換される物品そのものには、じつは価値が内在してはいない。極端には、その物品はなんでもいいのである。もっといえば、それを受け取ったものは、それがなんだかすらわからない。こういう状況で、しかし「なにかを受け取ってしまった」という負債感だけは残る。こうして、次の贈与が生まれ、世界は活性化され、現在に至ってきわめて単純化された交換体系にまで至ることになる。今回のたたかいからはこれと似たものが感じられるのだ。勇次郎は、蹴速に蹴り上げられて天井に消えた。ふつうなら、ここに「反撃」することになる。ところが勇次郎は、飛ばされた道筋をたどって(つまり、天井から飛び降りて)戻ることはなく、まるでたったいま受け取った攻撃を保存して、保留して、泳がせておくかのようにして、優雅に帰還したのだ。

こういう視点でいえば、即座の「反撃」は、いわば「瞬間的な解釈の断定」のようなことでもあったわけである。いまじぶんがどういう攻撃を受けて、どういう状態に陥ったのか、即座に断定しなければ、すぐさま攻撃に転じるということはできない。じっさい闘争とはそういうものである。しかし、特に宿禰対ジャック戦でもそうだったのだが、他者をどのように受けとっていくのかということは、バキ道では通底的なテーマになっている。他者とは、わからないもの、思い通りにいかないもののことだ。即座の反撃、殴り飛ばされた道を同じようにたどってもどっていき殴り返す、こうした行為は、いま起こったことを理解したと本人が確信している状況でなければおきないのだ。しかしこうした闘争はいかにもその場の勝負に重きが置かれている価値観によるものだ。コンビニのレジでお弁当をつきだされ、それが500円の価値があるものと断定するからこそ、わたしたちは500円を突き出すのである。このコミュニケーションはそこで終了だ。空腹は満たされるが、腹はまたすぐにすく。原的な贈与体系はひとを成長させる。なぜなら、つきだされたものがなんなのかよくわからないからだ。しかし、わたしたちはそれをとりあえず受け取る。受け取って、プールして、価値の海を泳がせる。このときにひとは成長する。原始的な交易という意味でも、こうして円環を描く体系を守るために造船技術などが発達していったというような面があるようであるが、こういう歴史的事実の検証はとりあえずいまはよいだろう。もっと個々人の実感に即した卑近なはなしだ。「これいいよ」と、友人が貸してくれた、タイトルすら読めないなんか海外のバンドのCDとかがあったとして、聴いてみたけどやはりなにかよくわからない。やがてその友人とは疎遠になってしまい、借りパクしたかたちになってしまったが、やはりいまでもよくわからない(わかっても別にいいけど)。ただ、その過程で、あなたはそこに書かれていたものがキリル文字であるということを知ったかもしれない。そしてのちにあなたは、そのときはまっていたスペインのバンドの音楽を、息子に聞かせるのである。

贈与の「システム」については、ここではそこまで問題にしない。だが、「贈与的な生き方」は、ひとを成長させる。今回二者によって演じられたものからはそれが感じられるのである。

 

 

 

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