すっぴんマスター -43ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第55審/愚者の偶像⑥

 

 

 

 

 

数馬のはなしにもどるぞ。壬生にいわれた100万の貯金を達成した数馬は、次に1000万を目指している。しかしいままでのようにドンペリ1本いくらのやりかたではどうも難しそうだ。

近くには金髪の同僚がいて、前に出てきた男と同じ人物かわからないが、数馬の気迫と比べるといかにものんびり生きている。数馬的には、同じ時間同じ店で過ごしているのに売上がちがうのは努力がたりないからだというはなしになるが、金髪は運がいいだけだろという。これを受けて数馬は、なにをいってもむだだと、金髪を全面的にあきらめる。ほんとうは運も努力も両方なければこうはならないから、金髪を見下げた数馬もじつは金髪と認識の程度は変わらない。それもそうだよなとなれたら強かったのだが・・・。

そうして友人をあきらめ、見下げることでネガティブにわだかまりを解消した数馬は、彼にカレーをおごる。そして父親のことを語る。数馬は父親が金持ちを妬む姿をみてきた。なにかずるいことをしているから金があるのだと。貧すれば鈍する、貧しさはこうした視野の狭さを強化する。そしてそうした事物への鈍い感受性が、またさらに深い貧しさを呼び込むことになる。貧しさは貧しさを呼ぶのである。

 

ともあれ1000万は難しそう。数馬は壬生に相談する。安く買って高く売るのが基本なら、高いものをまず買って売れば利益も大きい、究極は会社だと壬生はいう。近道の方法はある。リスクをとる覚悟はあるかと訊かれて、壬生のみている景色をみたいと、数馬ははなしに乗る。貧しさが貧しさを呼ぶスパイラル、貧乏カルマを断ち切ると、数馬はこころに決める。

 

ももよは肉体改造(物理)に精を出している。数馬にひとつひとつ報告しており、数馬もそれを前向きなものとして受け取っている。そして完成したグラマラス美女のももよは、うまくいけば100万稼げるという仕事を千歌に紹介してくれるよう頼む。仕事場は、心配になるほど山奥の田舎だ。なにをするのかという、全裸で運動会である。女の子が7人集まって、パン食い競走的に一万円札をくわえている。AVの撮影かとおもったが、ふつうにただ「大人の運動会」をやっているようだ。女の子は全裸でなにもつけていないが、観戦している男はかぶりものだけしていて、馬と狼がはなしをしている。すぐにわかるが、馬は数馬で、狼はどうも小山のようだ。しかし相手が誰であるかはわからない。数馬が、これはなんなのかと訊ねて、大人の運動会だと小山が説明している感じだ。

このことと壬生の話していたリスクがつながるのか(この運動会への参加じたいが“リスク”なのか)どうかは、なんだかよくわからない。数馬は川原社長の紹介で来たという。最近会社を作ったのだが、飲み屋で誘われたと。ほんとうに、あれから時間がたって、会社を作ってここにきているのか、これらは作り話で、壬生と話したあの足で来た感じなのか、よくわからないのだ。壬生が「リスク」と呼んだなにかは、利益を生むものでなければならない。この運動会に参加することがどう利益を生むのか、またリスクというほどのものがどのあたりにあるのか見えないので、ふつうに前者なのかもしれない。

女の子はひとり20万もらっている。スマホなどは預かっているから情報漏えいはないし、彼女たちじしん、モデルやグラビアで、事務所に内緒できているから漏らす動機もない競技に優勝すれば10万もらえ、さらにこのあと、10万円で大人の組体操が行われるのである。たしかに、がんばりしだいで100万という感じだな。

数馬は女の子のなかにももよを発見。だからどうということもないだろうが、外に出てマスクをはずし、バスケゴールのところで立小便、男も女も、なんでも金に換算して気持ち悪いと、案外ふつうの感覚のことをいうのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

最後のところでは九条が伏見組長の面会に向かおうとしている。烏丸はこれ以上反社と関わるようなら九条から離れるということをいっていたので、へんな動きをして気を引こうとする人間を見る猫みたいな顔をしている。とりあえず会うだけ会って、断る流れだとおもうが。

 

 

大人の運動会にかんしては、組体操の10万円がいちばん驚いた。マットに女の子が座っていて、お気に入りの子のところに順番待ちで並んで、たぶんみんないる前でナニをするということだとおもうんだけど、10万というのは法外である。いや、売春の相場なんて感覚的にはわからないけど、安くはないんじゃないかなと。参加料20万とか競技に勝ったら10万とかも、要するにインセンティブなので、それくらいのお金を払わないと成立しないという意味ではそうなのかもしれない。しかし女の子たちがすでに20万もらっていることも考えるとやはり大金だろう。企画じたいは「富裕層」がしているようである。だから、ひょっとすると、数馬のようなゲストはこの時点ではまったくお金を払っていなくて、組体操ではじめてお金を出すということになるのかもしれない。で、この組体操の10万は女の子には入らないか、もしくは部分的に入るだけで、「富裕層」はここでじゃっかんお金を戻しているということなのかもしれない。いずれにせよ、微視的にみたとき、いちどの性交に10万が支払われていることにちがいはない。ももよはちがうけど仕上がりはじゅうぶんである、相手がグラビアやモデルだということを考えたら、そんなものなのかもなあという気もするが、参加料や優勝賞金まで含めて10万単位でお金が動いていることに戸惑ってはしまうわけである。

どうしてこうなるかというと、性交そのものにお金が払われているわけではないからである。運動会というこのシチュエーションに、彼らは大金を払っているのだ。行為そのものに10万の価値が施されているのではなく、そこまでの運動会の催しから体育館やマットという要素まで含めた「状況」に、高値がついているのだ。

そうだとして、しかしこの「状況」のなにがそんなに高価なのか。じっさいのところ、この「大人の運動会」ではなにが起こっているのか? ヒントとしては数馬の「なんでも金に換算」があてになるかもしれない。というのは、サパークラブ勤務で、ももよみたいな客もいて、いままさに壬生伝いに金持ちになろうとしているものにしては、この発言はナイーブすぎる感じがあるからだ。このときに数馬が感じたものはなんだったのか、小山たちは「なに」を金に換算しているのか。それはおそらく、幼年時代、少年時代という、ある種不動の聖域なのである。以前どこかで千原ジュニアが、少年時代に買えなかったゲームや玩具を大人になってから大量に買って「復讐」すると表現していたが、この意味での「復讐」が近いかもしれない。なにかこう、まだまだ無力で、金のちからなんかもちろんなくて、腕力もまともに備わっていなかったままならなかった人生の若い時期、こういうものを、「大人の運動会」で上書きしようとするような感性が感じられるのだ。この運動会の会場はじっさいの廃校を用いている。ただたんに「女の子に全裸で運動させる」だけなら、小学校が舞台である必然性はないだろう。そこにはそういう背徳感が必要なのだ。

 

どうしてこの富裕層は、無力な時代の上書きをしようとするのか。これは、いろいろな歴史の考えかたを閲してみるといいかもしれない。たとえば中国では、歴史が古いことはとにかく価値あるものとされる。『易学』の本田済では、狩猟民族が敏捷と膂力を伴うために「若さ」を賞賛するのに対し、中国のように農耕的な場所では経験と智慧、すなわち年を重ねている「老い」が尊重される。これが歴史の古さに対する価値の大きさに転じている。こうしたことが、現在に至るまでの歴史的な流れを盛ったり、そこに神話的人物を配したりという、日本にも見られる傾向を呼ぶのである。

 

 

 

 

 

 

歴史観は、現在の自己認識と、それを肯定する感覚によって決定するのだ。これが数馬の感じた「なんでも」というところなのである。現状、たしかに金持ちたちはなんでも金に換算する。だがそれはいまの数馬もそう変わらないだろう。彼が感じる気持ち悪さは、それを歴史観に拡張しているところにある。ある種の無垢さとともに、いま彼らが生きているオルタナティブなお金の物語とはほとんど別のところにある本質的な物語としての歴史を、お金で買いなおしているのである。そうすることで、本質とは別の流れだった傍流としての「お金の流れ」は見かけ上本流になる。歴史上、お金の力を行使できなかった時代を駆逐し、当時ありえなかったセックスで色づけして「復讐」する。彼らの行為はそういうことではないかとおもわれる。

ただ、これだけでも、数馬がいきなり「気持ち悪い」とするのは唐突な感じがある。もうひとつ、今回は彼が父親のはなしをしているぶぶんがあるのが興味深い。彼にはお金持ちを妬む父親がいる時代があったのだ。彼はこのカルマを断ち切ろうとしているのである。ちがいはここにある。無垢な時代、無力な時代は、各人にたしかにある。無力なぶん、数馬は「お金持ち」というものを誤解していただろうし、それは現在と地続きである。数馬は、「そうではなかった」ということ、つまり「お金持ちはズルをしてそうなっているわけではない」ということを確信するに至った。そこで、そうした記憶を別のものに入れ替えるのではなく、否定しようとするのがいまの数馬だ。歴史を書き換えようとする金持ちたちの行為には、数馬的にはどこか気持ち悪さがある。同様に「歴史的事実」を忌避しながらも、上書きするのか断ち切って別の生き方を開始するのかという点で、両者は異なっているわけだ。それがなにを意味するのかはわからない。こうみると、数馬は小山たちほどお金のちからをまだ信じきれてはいないのではないか・・・という気もする。個人的にはそれでいいとおもうが、たぶんこのままだと「小山のように」はなれないだろう。

 

 

あとは壬生がいっている「リスク」云々が今回の運動会とつながっているのかどうかかな・・・。たぶんあれとこれは別のはなしなんだろうけど、だとしたらすごい唐突だし、川原社長って誰だよって感じだし、なんだろうな・・・。

 

 

 

↓九条の大罪 6巻 7月29日発売予定

 

 

 

 

 

 

 

 

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映画『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』を観てきた!2022年6月23日。仕事が変わってからは月1で相方と出かけられてうれしい。ただ映画館に行くだけだが、これまでは意図的に同じ日の休みをはずされていたので・・・。

 

 

ちょっと前にテレビでブロリーをやっていて、それを途中から見て以降しばらく、ドラゴンボール熱が続いていた。1983年生まれのぼくもふつうにドラゴンボール大好き少年で、水曜の夜7時は黄金の時間だった。

少年時代に誰が、あるいはストーリーのどういうところが好きだったか?というとちょっと思い出せないのだけど、大人になってからはだんぜんピッコロだった。悟飯を守って死ぬあの場面もそうだし、セル戦での、悟飯をつかった悟空の戦略をまちがっているとするところも大好きだ。年をとるにつれ、ピッコロの人物としての魅力がわかってきて、どんどん好きになっていくのである。逆にいえば、ピッコロがあの物語で主力として活き続けるにはそれしかなかったということもあるかもしれない。サイヤ人という概念が導入されてからは、ふつうの人間はほとんど居場所がなくなってしまった。クリリンや天津飯はまだいい。どちらも達人だから、パワー系のサイヤ人が持ち得ない技術の繊細さを表現しうるし、クリリンには悟空たちとの長く深い信頼関係と18号という魅力的な奥さんもいる。しかし、もっと出してくれてもよかったのにな・・・とおもわれるようなちょい役の達人(たとえば、ナムとか、チャパ王とか)は、たたかいのレベルが上がるにつれもはや登場することも許されなくなってしまった。登場可能性があったとしてもミスター・サタン枠である。あのヤムチャでさえ観戦するだけになってしまっていったのだ。こういう次元で、クリリンたちよりははるかに強いがサイヤ人よりは弱い、しかしキャラクターとしてしまってしまうのは惜しい、こういう位置にピッコロはいたのだとおもわれる。今回の映画では、このピッコロと、彼を語るうえで欠かすことはできない悟飯との関係性がメインで描かれたのである。観にいかないわけにはいかないのだった。

 

 

今度の敵はレッドリボン軍である。この点でもぼくが食いつくにはじゅうぶんである。ぼくが現在進行形でアニメを見て、それから遅れてコミックやジャンプ本誌を買うようになったのはフリーザから人造人間篇あたりだったとおもうのだが、それ以前のはなしもわりとすぐ読むようになっていたようにおもう。特にレッドリボン篇はかなり好きだった。物量で攻めてくるレッドリボンはある点ではぼくら読者のような「一般人」の量的拡大であって、彼らが行う悪行や、あるいは悟空から受けるダメージというのは、こちらの現実感覚と地続きでもあった。要するにトレースできるのである。これを、悟空はとことん打ち破っていく。ときどきブルー将軍や桃白白のような、悟空をもおびやかすような特殊人材が現れるのもたまらない。そして、こうしたことを踏まえたうえで、やっぱり悟空がめちゃくちゃ強いという結果が、圧倒的な解放感を呼ぶのである。まだサイヤ人という設定が出ていなかったあのころ、「満月をみると大ザルになる不思議な少年」ということで悟空の説明が回収できたときには、とにかく悟空のもっている「可能性」に興奮したものである。「サイヤ人」はいわばその「説明」にあたるわけだが、ものごとは不思議なままにほどかないでおいたほうがいいときもあるというふうなことも、当時から感じていた。「サイヤ人」はそうした説明とともに「戦闘能力」という量的概念も持ち込んだものであり、ある面でドラゴンボールが停滞することなく42巻つきぬけた原動力として大いにそれを認めつつも(これがなければあれ以上はなしが広がることはなかった)、物語が、悟空がもっていた素朴な不思議さを損なってはしまったよな、とはおもうわけである。

 

 

レッドリボン軍は現在レッド製薬という表向きの顔で活動しており、いまも世界征服をたくらんでいる。社長はマゼンタという男で、レッド総帥の息子だ。調べてみるとこの母親がバイオレット大佐で、名前の由来としてはレッドと混ぜるとだいたいマゼンタになるということのようだ。これが、ドクター・ゲロの孫であるヘドを見つけ出し、強力な新しい人造人間、ガンマ1号と2号を作るという筋書きだ。

悟空がレッドリボンを壊滅させたとき、なんとか逃げ出したドクター・ゲロは、これを恨み、フリーザを超える人造人間を、またそれをも上回るセルを作り出した。セルはゲロの残した人工知能が完成させたのではなしとしては別になるが、17号たちをつくった時点でのゲロはフリーザのことは知らないはずである。そのうえで、これらを圧倒的に上回る17号や18号、さらにはそれ以上の16号を作り出していたというのは驚くべきことである。ふつう、こういう創作は想像力によってかなり限定されるからだ。要は、レッドリボンとたたかっていたようなころの悟空や亀仙人たちが、仮にはなしに聞いたとして、フリーザやセルほどの「強さ」を、ほんとうに理解できただろうかということなのである。とりわけ強さを競っているものなのであるから、なにか目標物があって、それを超えるというしかたで、基本的にこれらの創作、もしくは修業はなされていくはずだ。この意味でもゲロがどれくらい天才だったかがわかるというものだ。車輪で動く車の発明という経験を経ずにホバリングしながら道路を移動したり運転手なしで動いたりする自動車を思いつくことはかなり難しいのだ。

ともかく、このゲロは、なにしろ悟空を倒すことは大きな目標にしていた。しかしマゼンタやヘドはそうではない。マゼンタはただ世界征服が目的のようである。ヘドはというと、もはやそういう野望はない。ゲロを上回るほどの天才であるが、ヒーローオタクで(ヒーローのサイン会みたいのに出かけている写真が一瞬うつる)、どちらかといえば正義をなすものを愛している。ゲロへの愛着のようなものも特にない。その傾向を見抜いたうえでの戦略なのか、マゼンタは、悟空ファミリーを「悪の組織」としてヘドに伝える。悟空たちは「悪いヤツ」なのだ。そういうことならと、ヘドは協力する。そのうえでつくられたガンマ1号・2号は、必然、ヒーローを名乗ることになるのである。

 

この、マゼンタが語る「悪の組織」としての悟空ファミリー、もしくはブルマ・ファミリーという像は興味深い。じっさい、あの世界に生きている市民たちは、事実を知ったとして、悟空たちをそのように受け取らないとも限らないわけである。これは、「正義とはなにか」みたいな重大なはなしではないだろう。もっと生活実感に即した、政治的なはなしかもしれない。要するに、彼らのちからが圧倒的に強すぎるということがまず事実としてある。ちからをはかろうにも、用意したパンチングマシンはちょっと強くたたいただけで壊れてしまう。セル戦が中継されたこともあって、それ以降の悟飯たちは以前よりさらにちからを隠して生活するようになってしまった。ここには、「あまりにも強大なちからは恐怖を呼ぶ」という信憑があるようである。だから、マゼンタが悟空たちを「悪」としたのはまちがっていないのだ。制御できないほどの強いちからをもったものたちがこの世界にはいる、こういう事実だけで、ひとは恐怖を感じるのだ。

 

強すぎることは「悪」である、というのは厳密ではなく、たとえばミスター・サタンは、「強い」ことを理由に賞賛されている。ただ、その強さは一般人と地続きのものだ。要するに、悟空たちほどに強くなってしまうと、それは想像を絶した存在になってしまう。こういうものを、ひとはおそれるのだ。このはなしは、先ほどの、ぼくがレッドリボン軍篇をどうして好きかということとも通じるかもしれない。なぜ今回、マゼンタのくちを通じて、ヘドをだますためという動機ありきとはいえ、悟空たちを「悪」ととらえる視点が導入されたかというと、それが「一般」の感覚だからなのだ。この意味では、次第しだいに人造人間を強くしていく、想像力を少しずつ拡張していくというしかたではなく、いきなり17号、18号をつくりえたドクター・ゲロもまた超人であり、一般的な意味でいっても「悪」ということになるだろう。ブルマ含めドラゴンボールの世界では科学力がある程度のちからをもっている。ただそれは、人類の財産として、「想像を絶するもの」に対抗するものとしては用意されない。ゲロ、ブルマレベルの知力は、やはり脅威であり、その意味では、悟空たちのパワーと等しいのである。

 

こういう状況が呼び込んでいるのが、悟空やベジータたちの神格化だろう。これは比喩的な表現ではなくて、文字通りの神化である。新作のドラゴンボール超は、中途半端なところまでしか読んでいないので、大雑把な認識で語るものだが、今作をみても、悟空たちは相変わらず破壊神ビルスと仲良くつるんでいる。もうひとつは、彼らをそこまでの存在たらしめた理由であるところの「サイヤ人」という要素への回帰であり、これがブロリー篇にあたるだろう。彼らはポッといきなり神になったのではなく、理由があってそうなった。その「説明」を、現実感覚とは別のところからフィクショナルに持ち込んだものが「サイヤ人」という物語なのだ。

 

こうしたうえで、なぜ今回レッドリボン軍がテーマになったのかというと、たんに新しい鉱脈を探していたというようなことだとはおもうのだが、それが物語としてどういうものを持ち込んだのかというはなしである。ゲロもヘドも、以上のような意味では一般人ではない。しかし世界征服をたくらむレッドリボン軍は、いかにも現実感覚の住人なのである。そこからけっきょく飛躍していては、一般人と悟空たちのあいだの断絶は埋まらない。しかし、ポイントは、ヘドがあくまで彼らを「悪」と認識して、正義をなそうとした結果ガンマを生み出しているということだろう。悟空たちを「悪」とするのは現実感覚なのだ。

ではなぜそうした現実感覚による、いまさらながらの相対化が行われたのかというと、キャラクターを活かすためなのではないかとおもわれるのである。ピッコロはまだましなほうだ。しかし、ドラゴンボールにはまだ魅力的なキャラが隠れている。これを引き出すためには、現実感覚が物語世界に通奏していなければならないのだ。といっていまの時点でたとえばナムが登場できるかというともちろんできない。しかし、準備にはなる。つまり、現実感覚に即したある種の語彙が、基本的なところに備わっていなくては、そもそも「登場できるかどうか」という次元でナムがあつかわれることはないのである。指輪物語の世界にスマートフォンは決して出現しないのだ。

こうしたわけで、本作でレッドリボンがあつかわれたこととピッコロがメインであることは連続しているのではないか、というのがぼくの考えである。ピッコロは人物として魅力的である、これを主役にしたい、しかしながら現行の神話的世界の文脈では出すことができない。強さのレベルを引き下げず、それでいて地に足ついた物語をつくるには・・・という具合に、レッドリボンがあらわれたのではないかと想像できるのである。

 

じっさいのところ鳥山明の創作するキャラクターはじつに魅力的だ。ぼくはむかしからドラゴンボールの表紙絵が大好きだ。一枚の絵、ひとりの人物の、その向こう側に、世界の広がりが感じられる、そういう絵を描くのだ。技術的なことはわからないが、たぶん、デザインが優れてるとかそういうことなのだろう。服装や機械の構造、また配色などから、それがそこに至るまでの物語内での時間や労力が感じられるのだ。だから、ガンマ1号がただ突っ立っているだけの絵を、ぼくはずっと見ていられる。そこからなにかが始まり、そしてすでに始まっている、そういう感じが、高揚感とともに到来するからである。ピッコロの再解釈とともに、今作は鳥山明のそういう強みに改めて回帰したように感じられる。さらに上へ、もっと強くという原『ドラゴンボール』的なものを、ぼくも求めてはいる。しかし同時に、キャラクター固有のもの、強さとは別にその人物しか持ち得ないものを描くパワーも『ドラゴンボール』はもっている。ここに、本作は自覚的な挑戦したのではないかとおもわれる。

 

というわけで本作はピッコロの、またピッコロと悟飯の関係性のファンにはたまらない内容となっている。ちょっと過剰なほど「こういうのがみたかった」が盛り込まれているのだ。ピッコロファンは絶対観にいって。ガンマ1号2号もかっこいいしかわいいし、悟飯の娘のパンも、これはピッコロが面倒をみているのだが(ピッコロは年中子守をしているな)、ものすごいかわいい。パンは原作にもぎりぎり登場しているけど、まだこんなに掘り下げる余地あったんだなと驚くはず。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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■『人間の顔は食べづらい』白井智之 角川ホラー文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

「「お客さんに届くのは『首なし死体』ってわけ」。安全な食料の確保のため、“食用クローン人間”が育てられている日本。クローン施設で働く和志は、育てた人間の首を切り落として発送する業務に就いていた。ある日、首なしで出荷したはずのクローン人間の商品ケースから、生首が発見される事件が起きて―。異形の世界で展開される、ロジカルな推理劇の行方は!?横溝賞史上最大の“問題作”、禁断の文庫化! 」Amazon商品説明より

 

 

 

風間賢二『怪異猟奇ミステリー全史』で、悪趣味かつ新本格的である逸材として、いちばん最後に期待の新人的に紹介されていた白井智之氏のデビュー作を読んだ。横溝正史ミステリ大賞最終候補作で、続く『東京結合人間』は綾辻行人にも絶賛されている。

 

全体的な読書がはかどらないときは、呼び水的に安定しておもしろいものを読むことにしている。これまでそれは浦賀和宏だったり飴村行だったり、あるいは町田康や芥川龍之介だったりした。さくっと読めて、読みでがあり、しかも達成感もあるような得難い作家たちだ(加藤典洋や内田樹などの評論系は、おもしろくても時間がかかることが多いので、このあつかいには入れない)。飴村行は粘膜シリーズをまだ制覇していないのだけど、なんとなくもうちょっと引き伸ばしたいという気持ちもあり、今回新しい作家に挑戦してみた次第である。なるべくホラーがよかったので角川ホラー、上記の風間賢二の評価も決定的だった。

レーベルとしてもジャンルとしてもたしかにホラーであり、どちらかといえば猟奇的な小説ではあるのだが、骨組みとしてはたしかにミステリであり、飴村行のような「どうかしてる」感じは弱い。非常に新鮮な気持ちで一気読みした。

「新本格」とは綾辻行人『十角館の殺人』以降定着した謎解きがメインの探偵小説のことだ。この呼称には出版社の宣伝も関与しているので、厳密には、たとえば島田荘司と綾辻行人のあいだにそう径庭があるものでもないのだが(ゲーム性は高くなっているかもしれない)、一般には島田荘司の推薦を受けてデビューした4人、綾辻行人、歌野昌午、法月倫太郎、吾孫子武丸あたりからはじまったものとされる。社会派ミステリ、つまり人間ドラマ的なものへの反発から出現したものでもあり、猟奇的な描写とは相性がよい。どの作品とはいわないが、たとえば人体をパズルのようにあつかうことが可能になってきたわけである。本作はファンタジー要素も含めた特殊設定ものだが、こうした新本格のゲーム性のようなものをしっかり受け継いで、なおかつ必要に応じて猟奇的描写もしっかり展開させるという、優れたバランス感覚になっている。

 

 

舞台はなんと、新型コロナウイルスが蔓延した近未来である。この作品は2014年発表のものなので、これはたまたまなのだが、「コロナ」という文字が出たときはぎょっとして奥付を確認してしまった。その症状は、現在われわれが経験しているものよりずっと深刻で、人間に限らない哺乳類、鳥類、魚類にまで及んでいる。ウイルスそのものには抗ウイルス剤を用いて対応することができたが、これは人間以外には効かない。結果として人類は肉をまったく食べなくなった。結果として畜産業が壊滅状態になり経済は混乱、野菜は高騰して、経済格差がそのまま子どもの成長状態に反映するような状況に陥った。そこにあらわれたのが遺伝子工学の第一人者でもあった冨士山博巳という政治家で、人間のクローンを培養し、その身体を肉食することを提案、なんとこれが実り、一大産業になっているというのが現状である。

主人公は「柴田和志」と「河内ゐのり」のふたりで、ふたつの視点が交互に示される。柴田はヒトクローンの首を落として発送するプラナリアセンターに勤めており、河内は彼と仕事で出会った風俗嬢だ。この人肉食はしっかり法律も定まった合法的なものであって、ルールがある。基本的に発注をかけられるのは自分のクローンだけである。これによって、倫理的な問題と共食いがもたらす病気の問題の両方をほとんど解決できる、というのが冨士山の認識である。そして、センターで作業によって首が落とされる。食べるところがあまりないから・・・だったかな。このあたりの作業も、ついている首輪は成長とともにとれなくなるが、首を切ったときにとれるとか、いちいち合理的にできていて関心してしまう。

こういう異様な世界が、納得感さえともなう合理性とともに淡々と展開していく。あるとき、客のもとに届いた首なしクローンのケースに、たしかに柴田が取り除いた生首がいっしょに入っていたという事件が起き、彼が疑われる・・・ということから事件がはじまっていく感じだ。あらゆるところに生首や首なし死体が転がっているのでよくわからなくなってくるのだが、事件のはじまりとしてはきわめて平凡なものといえるかもしれない。箱に入れていないはずの、そして入れるタイミングのないものが入っていた、というだけなのだから。だが、これがどう考えてもほんとうにできないとなると、謎解きミステリである。ふつう探偵小説は、「犯罪」が起こったのちに刑事や探偵が働き出すことになる。しかしここまで異常な世界では、読者はいったいどこから「事件」ととらえればよいのか、戸惑うことになる。本作においてはその猟奇性、合理的異常性みたいなものが、「どのぶぶんが問うべき“謎”なのか」を揺さぶる効果ももたらしているのだ。つまり、新本格が備えている謎解き優先のゲーム性のようなものがたしかに猟奇性を導きはしているのだろうが、それがしっかり、作品構造の本質として、ミステリの内側に有機的に接合しているのである。

 

というわけで白井先生のものは今後も読んでいこうとおもうが、やっぱり、そもそも「角川ホラー文庫」にはずれがないのではないかという気持ちもあるので、読書の呼び水としてさくさく読んでいきたいし、そういう意味でもおすすめしたい。グロテスク描写が問題ないひとに限られるが、本作に関してはそうでもない、のかな。ちょっとマヒしてるかもしれないが・・・。粘膜シリーズが大丈夫なひとはまったく問題なしです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第54審/愚者の偶像⑤

 

 

 

 

京極が九条をラブホテルに呼び出している。今回は数馬・千歌の描写はなし、久しぶりのひとも登場するぞ。

京極は、以前小山が嵐山に詰められていた、ホテルの名義貸しの件で、詐欺ということで逮捕されていたらしい。それで、おそらくしばらくのあいだはということだろうが、ラブホテル暮らしをしているのだ。

 

用事はなにかというと、若い衆がみかじめを回収していたら逮捕され、服役中にもかかわらず伏見組長まで共謀罪にされてしまったという件だ。ヤクザは末端のものがなにかやらかしただけでトップにまではなしがいく。若いヤクザはそのせいで喧嘩ひとつろくにできないということを以前読んだことがある。それはたしかに理不尽なのだが、衝動的な犯罪を抑止するためには効果的なのかもしれない。悪いことしようとすると組長の顔がちらつくわけだから。しかし組織的な犯罪にかんしての効果は、よくわからない。

京極のはなしでは、京極を通じて九条のはなしを聞いた伏見組長が、彼に興味をもっているということである。どこまでほんとだかわからないが、とにかく組専門の弁護士として抱えたい京極としては、九条にとって断りにくい要素をひとつひとつ増やしていっている感覚だろう。九条は黙っている。

 

外では京極の部下が待っていて車で送るというが、烏丸と車できているので断る。帰りの車のなかでは、別のヤクザから電話がかかってきている。京極からはなしを聞いたという丁寧な口調で、組員の強盗について相談にのってほしいという問い合わせだ。九条はとりあえず事務所にきてくれという。非常にいやな感じの流れである。九条という弁護士が、有能なうえにじぶんたちの弁護を気安く引き受けてくれるというようなうわさが広まり、殺到している感じである。

 

ずっと黙っていた烏丸は、車をおりたところで、いまの状況をどう考えているのかと問う。判例として価値がある案件ならまだいい、しかし現状、九条はまるで反者の使いっぱしりであると、烏丸ははっきりいう。九条の事務所での経験で、ということだろうか、烏丸は、反社の人間の行動原理を理解したという。自己保身である。じぶんを守るためならかんたんに証言をひっくりかえすと。ひととひととの約束だとか、契約だとか、倫理だとか、そういうものは通用しないのだ。いつかさされると、烏丸はいう。

 

さらにはっきり烏丸は、伏見組長の件は断ってくれという。断れないなら、じぶんは九条とはいっしょにいられないと突きつけるのだった。

 

 

表向きの自動車整備の仕事をしている壬生である。近くには久我がいる。嵐山の娘、愛美を、壬生の指示で強姦殺人した犬飼が出所したというはなしだ。愛美は小山の悪事をばらそうとしており、そのときから小山のケツモチだった京極が壬生へと指示を出し、そうなったわけである。ただ、その当時の犬飼はバカ丸出しの若すぎる不良だった。たった300万円で10年間失ったことで壬生を恨んでいる。

壬生がその恨みを感じていないわけはないとおもうが、出所したのになんで連絡寄越さないのかと、なんだかのんきなことをいっている。久我は、クラブのセキュリティから、無視できない情報をつかんでいた。犬飼はどうも菅原とつるんでいるようなのだ。

場面が変わって、犬飼が菅原のところにきている。菅原はずいぶん太ったな。もともとプクプクしてたけど、こんなにだったかな。

少年刑務所は後ろ盾がないとキツイと菅原はいう。犬飼は菅原の後輩・綾部に世話になったようだ。そのおかげでなんとかやれたのか、それとも自力でなんとかしたのか、どちらともとれる表現だが、ともあれ犬飼は出所した。彼の決意は、以前流木に語っていたものと変わらない。壬生に3億要求する。渋るなら殺すと。壬生に一杯食わされている菅原には非常に好都合な人材である。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

本筋というか、メインの人物の掘り下げが行われた重要な回だった。

烏丸のいっていることはなんなのかというと、ひとことでいえば弁護士と依頼人の信頼関係である。

ごく日常的な契約や商談の現場でも、わたしたちは依頼するものとされるものが互いに最善の行動をとることを前提としている。「最善」というと語として強すぎるからもっと口語的にいうならば、「悪いようにはしない」といったところになるだろうか。本屋で本を注文する、オンラインショップで服を注文する、こういうとき、カウンターの書店員や個別の商品を選択する担当者は、なるべく速く、安くお客に届く方法を瞬間的に選び取る。もしこれが「最速」ということになってしまうと、ほかの要素を見落とすことが許されるなら、もっと速い方法はあるかもしれない。取次や系列店に在庫がない場合、書店では出版社注文になるので、速くても1週間は時間がかかることになる。そうなると当然アマゾンのほうが速い。かといってふつうは「かわりにアマゾンに頼んでおきますね」ということにはならない。店としては当然店頭で買ってもらいたいし、ネット環境にないとか、なるべく書店で買いたいとか、客側にも事情がある。複雑に入り組んだ条件、利害関係の内側で、なるべくよい状況にもっていく、悪い状況から離れようと努める、これが、わたしたちが「契約」をするときの暗黙の前提条件なのである。なぜかというと、これもまた迂遠な言いかたになるが、とりわけ利益を追求する会社組織に依頼するときには、「最善を尽くさない理由がない」からである。その反対に、依頼者は約束を守る必要もある。約束とは、明文化されたものだけに限るものではない。完食した弁当が、やっぱりまずかったからお金返して、というようなことはふつう成立しない。成立しないということが常識として前提になっており、そういうことをお客が言い出さないということが、販売時点に前提として、わざわざ確認しなくとも存在しているのである。

こういうふうに、無関係の二者が利害関係で結びつき、契約が出現するとき、互いが「最善」を尽くすことは客観的にみて当たり前のことなのである。烏丸がいっているのは、反社にはそれが通用しないというはなしだ。弁護士が最善を尽くしてくれることを依頼人が無垢に信じるように、弁護士は依頼人が真実を話している、またこちらをそのように信頼してくれているということを信頼している。そうでなければ仕事にならない。それが、証言をかんたんに変えられてしまうのでは、誠実な弁護など不可能である。「証言を変える」は動的な表現であり、変えたあとの証言が真実であると解釈すれば「嘘をついていた」ということになるし、もともとの証言が真実であるとするなら「嘘をついている」ということになる。いずれにせよ、法律の言葉の解釈で勝負をしている弁護士にとっては、「真実」はそれほど重要ではないかもしれない。特に九条ではそうだろう。弁護業がジグソーパズルのようなものだとすれば、パズルのピースが箱に表記されているものでまちがいないかということは、あまり関係がないのである。だから烏丸でもこのように動的な表現が用いられる。嘘をついているのかいないのかということより、なにしろ証言が変わってしまったという事態のほうがシリアスなのだ。ジグソーパズルをしていて、突然いくつかのピースがかたちを変えてしまうようなことなのだから。

 

烏丸は九条とのつきあいの結果、いくにんかの反社を目にし、この理解に達した。ではなぜ反社は「最善」を尽くさないのか? これはほとんど同語反復かもしれない。そもそもここでいう「善」、という語は強すぎるから、「なるべくよい方向に」などというときの「よい」とはなにかというと、「わるくない」、つまり「あなたにとっての損がなるべくないように」というようなことなわけである。ここから、反社は利己的なので他者の利益に配慮するわけはないというところに着地してもよいのだが、反社が反社たる理由はもう少し深いところにある。弁護士でも書店員でもオンラインショップでも、なぜ依頼を受けたものが最善を尽くすかというと、それがじぶんにとっても善だからである。ただ、この善のかたちはいくとおりかあるかもしれない。会社組織として割り切ったときに、小売店で本を売る書店員は、そのことで利益を得て、さらにそのお客にまたきてほしいから気持ちのいい接客をする。弁護士はどうだろう。流木のようなタイプの弁護士なら、利益以前に弁護士としての存在意義をかけて最善を尽くすかもしれない。ではサービスに応じて利益が増すということのない公務員、特に末端の行政施設で接遇をする地方公務員などはどうだろう。このときに、接遇が正しく成立している公務員と市民のあいだでは、個人を超越した、属性どうしの対面が成立しているといえるかもしれない。つまり、あなたとわたしではなく、公務員と市民なのである。このときの公務員は自治体の代理であり、自治体にとっての善をなしていると考えることができるだろう。こうして、どのような場合も、依頼される側にとっては「善を行うことが善」なのである。ではなぜこういうことが成り立つのか。それは、「社会」が成り立っているからなのだ。本を売ったらお金が入ってくるシステムがあるから、奉仕すべき法があるから、代理となる自治体や国家があるから、そもそもそうした「善」はなしうるのである。わたしたちはそうして、「善」を重ねることで、社会を再構築している。ふだんの生活ではもはやそうした「善行による再構築」のようなことはおもいもよらない。そうすることじたいが当たり前になっているのだ。そう考えれば、反社会的組織が善を追求しないのは当然ともいえる。反社会的組織は「社会」の補集合なのである。「社会」を日々強固に塗り固めている「善行」に加担する義理もないし、そもそも彼らはそうした強固な社会形態の見落としを回収している存在なのである。

 

問題は、このことが九条のポリシーとどのように衝突するのかということだ。九条は依頼人を選ばない。反社会的人物も、その国に属していれば成員であるにはちがいない。彼らには法に守られる権利がある。しかしそれは、そもそも「法治国家」を認めたうえでのはなしではないか、というのが、烏丸の言い分をつきつめたところの結論である。証言を利己的に変更する依頼人は、法のもとに最善をつくすものではない。「最善」はひとによりけりであり、教育環境によってはとても「善」とはいえないのではないかということもある。しかし、そうしたひとびとと、意図的に法を無視することで利益を得ようとするひとびとはまったく別物である。そもそも前者のようなタイプは端的に「弱者」であり、とうてい「最善」を尽くしているとはおもえないとしても、九条からすれば救わなければならない人間だろう。しかし京極のようなものはそうではない。そうしたひとびとまで、九条は面倒を見なければならないのかと、こういうはなしなのだ。原則的には、見なければならないだろう。ほかならぬ九条が見る必要はないとしても、では「最善を尽くしていない」はどの段階からはじまるのか、という回答不可能な問いが生じてしまう以上、その権利は包括的に保護しなければならない。怪我して当然のふるまいをしていたからといって、病院が治療をしないということはないわけである。だから、烏丸がいっているのはもっと個人的なことである。そして、そういう師匠のもとではもう学ぶことはできないと、彼はこういっているのだ。言い換えれば、もし九条がこうした現状にとどまるのであれば、それが九条の限界だということを、烏丸は伝えているのだ。これはつまり、そうじゃないだろうということだ。しずくのような、九条が救わなければならない「弱者」はたくさんいる。その仕事を減らしてまで、法にしたがわないものを法で守る必要はあるのか。法律のような「ルール」は、幸福の総量を最大化することを目的にひとびとの行動に制限を加えるものなので、必然的に守らないものが得をするようになっている。物理的には、赤信号を無視するもののほうが目的地に早く到着するのである。ここにとどまりつつ誠実な弁護士業をしようとしたら、それは革命を望むものである。世界を根こそぎを変えてやろうとするものでなければ、ここで正気を保つことはできないだろう。要するに、反社を全員改心させてやろうというようなことだ。おそらく、九条はそこに「落としどころ」を探していたはずだ。壬生とのつきあいは絶妙だった。しかし京極は、九条が構築したそのいい感じのポイントを壊してくる。九条が京極のはなしを断るともおもえないし、かといって烏丸のメッセージを理解していないともおもえない。ここはなんとか「断らずにはなしが消滅する」みたいな感じが望ましいわけだが、それには壬生がどう動くかがかかってくるかもしれない。だがその壬生には、敵対する菅原と犬飼が迫っている。壬生は丑嶋とよく似ている。数馬というコマも、どういう意図かまだ不明だが、手に入ったところだ。とりあえずは犬飼に、直接の指示は京極だったということを伝えてみてはどうだろう。それは事実なわけだし。

 

 

 

↓九条の大罪6巻 7月29日発売予定

 

 

 

 

 

 

 

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第126話/相踏み合いましょう

 

 

 

 

ジャブより速い勇次郎のハイキックが蹴速の顔をかすめる。たぶん足先が鼻にかすった感じだろう、ギャグ漫画みたいに蹴速の鼻から血が噴き出すのだった。ぼくも鼻折ったことあるけど、だぼだぼ滝みたいにとまらないというのはあったけど、あんなふうに鼻腔の角度に合わせて強烈に噴き出す感じはなかった。あれはこっちで噴出そうとしてふんばらないとならないような気がするが・・・。

 

これは止血をしているのかな、眉間のあたりの筋肉を緊張させつつ、両方の指で鼻の根本をおさえ、血をとめている。ハンカチで血を拭きながら、蹴速はようやく、相手が噂の「地上最強の生物」だと気が付いたことを光成にいう。猛獣やシャチより強い、そういう、ある種荒唐無稽な表現ばかりされる男がいる、そういうことは知っていたが、どんな男かは知らなかった。そのぼんやりした信じがたいようなイメージと実像が合致したところなわけだ。

 

やたら親切な勇次郎は、ではどうするかと問う。神話のように両者相踏みあってみるかと、こうもちかける。相手の正体がわかったあとである、いちファイターとしてとてつもない僥倖だ。もちろん蹴速はそうしたい。そこで勇次郎は、両手を広げた、いつもの構えをとる。いちおう認めているということなのだろうが、なんか、あまりにも勇次郎が親切なので、ただサービスでやってるようにも見える。

忘れがちだが蹴速も力士というはなしだ。彼もまた、相撲っぽい所作で開始を承諾したことを知らせ、続いてなんだか不思議な構えにうつる。所作じたいは相撲のようだが、構えは打撃系だ、というのが光成の見立てだ。腰を低く落としているが、手はじゃっかん前に伸びて指を開いている。続いて、なにか空手の内廻しのような蹴りを見せる。あてるものではなく、素振りである。これも所作のひとつなのかなんなのか、蹴速は続けていくつもの足技を目前で展開してみせる。さっさとこいと、じゃっかん勇次郎はイラついているようだ。

 

ひたぶるに力比べせんと、神話と同じ言葉を発してからついに蹴速が攻撃にうつる。横蹴りと前蹴りの間のような、いずれにせよ直線的な左の蹴りである。これをかわした勇次郎は、うえから落とした右足の膝を曲げ、膝裏のぶぶんではさんでしまうのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

なんかよくわからない攻防だが、ともかく勇次郎が優しい状況は続くようだ。前回のハイキックもそうだし、今回も、やろうとおもえば決定的な攻撃はできたよね。ここまでくると、たんに「若者に優しい」みたいな状況をこえて、なんか意図があるんではないかともおもえてくる。たとえば、文字通り育てる気だったり。

 

宿禰や蹴速がくちにするときの「踏む」が、厳密にはなにを指すものであるのかは、実はよくわからない。少なくとも現代に生きるふたりは9割くらい蹴り、もしくは足裏での踏みつけの意味でつかっているようである。これはもともとは日本書紀の記述のようである。ここまで書いておいて、特に日本書紀を開いてみたりはしていないものなので、ぼくの霊感にしたがったものであるということは断っておくが、なんというか、ここでの「踏む」は、現代語でいうと「やっつける」がいちばん近いのではないかという感じがするのである。いま勇次郎が喜々として蹴り技の応酬を開始しようとしているほどには、「蹴り」の意味をタイトに含んではいないんじゃないかな、と言う気がする。白川静では、「踏む」の沓のぶぶんは、お祈りを水で台無しにするという図像になる。白川学では「口」はサイと呼ばれ、祝詞をいれる器を指す(人間の顔についている口ではない)。これに水をかけて効力を損なうのである。また白川学では甲骨文字や金文を参照するが、その後の篆文に依存した『説文解字』でも、祈りの効力を弱めるものと解釈されているらしい。ここから、「踏」には足でふみ穢すというニュアンスが備わったようだ。ただ、のちに成立する地鎮的な意味も「踏」にはあって、このことと「踏み穢す」がどのように共存するのかはよくわからない。『字訓』には「おそらく古くは地霊に対して、これを鎮撫するための行為をいう字であろう。古代においては、その地を踏むということに重要な意味があり、周初の文献では、祭祀の場に「歩して入る」ことが、その儀礼の一部をなしていることが多い」とある。つまり、なんというのか、「踏む」というのは、他動詞的なのである。最初から、お祈りを台無しにするものとして「踏む」が自律しているわけではない。損なうべき対象、つまり敵や、新しく踏み入る場所、暴れ狂う大地、こういうものがあったのちに、「踏む」があらわれるのであると、こう考えれば、踏むの「穢す」効力と地鎮をほどこす霊的パワーが同時に成り立つ。これが「踏み穢す」の単独の意味で、つまり現代的に「踏み荒らす」などというときのような意味で機能するのは、これらが転じて主体的、自動詞的に使われるようになってからなのかもしれない。

 

『字訓』片手に、ほかのろくな資料もなくずいぶん適当な推理を働かせてしまったが、この霊感にしたがって続けると、やはり「踏む」は半分くらいは「やっつける」のニュアンスなのではないかとおもわれてくるわけだ。そこでじっさいなにをすることによって相手の制圧を行うのかとなると、足裏、蹴りをつかうと、こういうはなしだ。だから、ひどく厳密ないいかたをすれば、いわゆる相撲的な攻撃や、現代の突きのようなことを蹴速や宿禰がやったとしても、「踏」のもとの意味に接続するものであれば、それは「踏」であると考えてよいのではないかとおもわれる。

 

ルソーでは「戦争行為」とは相手国の憲法を攻撃するものである。憲法はすべての実定法の根拠になる、宗教でいう聖典のようなものだ。これを書き換えようと働きかける行為、これが戦争である。「踏」のニュアンスはこれにかなり近い。なにしろ、神様に向けて書いたお祈りの文章(祝詞)に水をぶっかけて台無しにする行為だからである。いま強引に両立するものとして解釈したが、「踏み穢す」と「地鎮」が手触りとしては似て非なるものであるということは、戦争、もしくは「たたかい」という語からも感じられることである。つまり、「踏み穢す」はいかにも侵略行為だが、「地鎮」はいかにも自衛行為なのである。だが、これらはどちらも「たたかい」だろう。そして、勇次郎はこうした相反する意味を同時に表現する言葉の、表面の凹凸だけを拾って、「踏む」という語を用いているのである。これはいかにも近代的な発想なのだ。というのも、たとえば格闘技の試合で「たたかう」ものたちは、別に侵略しようとも自衛しようともしていないし、相手を穢そうとも教育して矯正しようともしていないのである。ただ、その際に必要になる技術や能力を競っているのだ。これはたぶん蹴速でもそうかもしれない。「踏む」にはいずれにせよ不倶戴天的な意味が含まれている。侵略にしても自衛にしてもそこは変わらない。しかし、ここでその意味がどちらであるかということはもはや問題にされない。勇次郎は心底その意味で「踏む」を行っているのか?それはわからないが、最後に蹴速がいっていた「なんならずっと“相踏み”ません?」も含めて(もとの意味ではこうした発言じたいがそもそも成り立たない)、現状これはきわめて近代的な「たたかい」の解釈になっているわけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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