すっぴんマスター -44ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第53審/愚者の偶像④

 

 

 

 

壬生にいわれた目標の貯金100万を達成した門脇数馬。

今回はまず音羽千歌の描写からだ。なにやら細かいことは見てもよくわからないが、LINEを通じ、依頼にあわせてさくさく女の子を紹介しているみたいだ。で、適当にテレビみたりごろごろしたりして過ごしている。彼女が今週着ているascensionと書かれた服、前回の数馬と同じだな・・・。

そこへ整形外科医の山梨新一から電話がかかってくる。常連のようだ。女の子三人呼んでほしいと。ひとり10万、千歌には紹介料5万出す。できたら単体女優であんまり売れていない子を。最後はどういう条件かよくわからないが、千歌は調べもせず大丈夫だとごろごしたまま請け合う。さらにフェラしたら1万、本万で8万だという。ずっと表現がアバウトで、ちょっとひやひやするが、千歌は勝手を知っているので問題ないのかもしれない。これは、フェラして本番したら9万ということなのか?それとも、本番8万がマックスで、フェラは本番の量的縮小と考えればよいのか?ひとがたりなかったら千歌がきてもいいと医者はいうが、千歌はそういうのはしたくないらしい。彼女はそのまま知り合いの女の子に電話をかけて即約束する。ひとり5万円だと千歌はいう。ということは、最初に医者がいっていたひとり10万紹介料5万というはなしは、3人紹介して15万千歌がもらえるということか?千は10分で20万もうけたと無感情にいっているが、これは、最初のLINEも含める感じかな。なんか最近お金の計算がうまくできないな・・・。

今度は逆に女の子のほうから仕事がないかという電話だが、相手はももよである。売掛金で貯金がなくなってしまったというが、その相手は数馬だ。もちろんそんなことは千歌は知らないだろう。仕事はある。たいへんだが100万稼げると。しかしいまももよはダウンタイムということで、整形直後で腫れあがった顔をしている。それが済んだら連絡してくれと千歌はいう。ということは、やはり女を売る感じの仕事なのだろう。しかし1日100万とはいったい・・・。

 

そういうわけで、千歌は男と女の、欲望の中継地点みたいな仕事をしている。楽にみえるがどうだろう、負の感情が集中する地点でもあるし、リスクも高そう。まあ、そのために小山や壬生がケツモチ的にいるのかもしれない。

 

 

そして今回は数馬と千歌が久しぶりにプライベートで顔を合わせている。ふたりのいまの関係がわかるかもしれない。

会話では、久々のランチで、忙しかったから会えなかったということはわかる。だがやはり別れたとか別れないとか、そういうことはよくわからない。そもそも、つきあうとか別れるとか、そういう考えが薄いのかもしれない。前回考えたアナログな、グラデーションの人間関係をイメージすればよさそう。

数馬は仕事で身につけたスキルをちょっと使ってみたくなったのかもしれない、じぶんのために化粧してくれてうれしいみたいなことをいうが、化粧は自分が自分であるために必要なものだとあっさり打ち落とされる。数馬は、千歌はブレないというが、1年前の自信のない様子を思い浮かべると、むしろ大きく変わったなというふうにもおもわれる。

彼女は端的に「東京カレンダー」をなぞってく人生を選んでいるのだ。東京カレンダーとは、そういう雑誌だ。そこにのっているおすすめをなぞればよい。ほんのわずかに冗談も含まれているのかな、数馬は実家のカルピスより薄い価値観だ!とわりとぼろくそにいうが、続くたとえも飲み物であったことを千歌につっこまれている。

東京カレンダー的成り上がりかたとして、千歌の目標は言いなりの金持ちをつかまえてタワマン住まい、性格上離婚はするだろうからはやめに子どもをつくり養育費と慰謝料をぶんどるというものだ。

こういうはなしをした足で、千歌は数馬を家に連れ込んで行うべきことは行う。これは事後なのか、これからそうなるものか、よくわからないが、体勢的にはフェラっぽい位置関係になっている。が、ふたりとも服は部屋着を着ている。こうなると、ふたりはいっしょのベッドに入り、仲良く寝もするが、セックスはしていないという可能性すら出てくるな。プラトニックとかそういうことではなく、なんというのかな、セックスがひとつの熟語として、ほかのどんなふるまいとも似ていないものとしては結ばれないのである。股間のあたりに手をおいて、そこに顔をのせているのだから、ふつうに考えたら肉体関係がある距離感だが、ほんとうのところはわからないなというはなしだ。

ともあれ、数馬は小山との関係を気にしている。寝ているのか?という問いには、まさかというこたえだ。女の子を紹介したりはしてるけどと。数馬はどうあれ関わって欲しくない。しかし千歌的には金ヅルとして小山を手放すわけにはいかない。家賃もそうだし、美容やブランド品など、いまの彼女はお金がかかる。

千歌は顔がブスな貧乏人の男が大嫌い、だから港区から出たくないという。小山は顔はナニだが金はある、数馬は貧乏だがイケメンだもんな。でも、だとしたら数馬が金持ちになったら無敵ということになる。数馬もいままさに金持ちになろうと努力しているところだ。俺が金持ちになったら俺だけといてほしい、数馬はそういう。いま見たように、金持ち数馬は無敵のはずだ。しかし、千歌はあきらめたようにいう。

 

 

 

「千歌が本当に欲しい物は絶対に手に入らない。

 

数馬がお金持ちになったら今の数馬はいなくなるよ」

 

 

 

非常に意味ありげなセリフの直後、さきほどとまったく同じクリっとした表情で、小山の股間に顔を載せた千歌が描かれる。今度も千歌は下着を着ているが、小山は全裸である。数馬といたときの千歌も部屋着とはいえすごい薄着ではあったが、小山とは扇情的な印象のブラジャーとパンツで、疑いの余地なく肉体関係のある間柄だ。

千歌は青山のタワマンに住みたいと小山にいうが、千歌のいっている将来の離婚相手というのは、この小山のことなのだろうか。小山は結婚して娘もいるし、なにしろ壬生と九条がそばいにいるのだ、そうかんたんに別れたり慰謝料とったりできないとおもうぞこの男は・・・。

小山はこの部屋にじぶん以外の男の気配を感じ取っている。もちろん小山はこうしたことを冗談では済まさない。約束を破ったら覚悟しておけという態度である。

 

さて、100万貯めた数馬がそのことを壬生に報告している。壬生は頑張った、すごいとほめる。0から100万つくるほうが、100万を10倍100倍するより難しいのだという。だから次は1000万貯めろと。前よりかんたんなはずだからという炊きつけだ。数馬はその気になっているようだ。この100万、壬生の手元にあるように見えるんだけど、どういうことかなこれは。預けるようなはなしはしていなかったとおもうが・・・。

 

直後、なのか、久我と廃屋にいる壬生は飼い主と犬が再会している動画を見て和んでいる。壬生は犬が好きなのでなんでもない描写のようだが、数馬とのやりとりのあとなので、彼のなかでの数馬の価値がわかる描写にもなっている。

そしてここで久我が、読者が知りたかったことを訊いてくれる。最近数馬にご執心だけどなんなんですかと。いま見定めているところだと壬生は応える。犯罪歴のない人間に任せたい仕事があるからと。その足元には、壬生のもっているハンマーで殴られてぶっ倒れている男がいるのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

不穏な流れであり、やっぱりそうだよな、という感じでもあるが、「犯罪歴のない人間に任せたい仕事がある」のは世のあらゆる事業者がそうなので、このセリフだけからはなにもいえないだろう、というのは屁理屈だが。

 

ようやく現在の数馬と千歌のやりとりが見れたわけだが、けっきょくふたりの関係はなんだかよくわからない。こうなると、そもそもふたりは「つきあっている」状態ではなかったのではないか、ともおもわれるが、読み返すとたしかに数馬は結婚のはなしをしている。千歌は、例の恋愛リアリティショーに数馬が出るにあたって嫉妬しているし、恋愛感情もある。場所はホテルのベッドのうえで、今回と同じくふたりとも半裸というか、部屋着だ。この描写では、事後か事前か、それはともかくとして、肉体関係のにおわせを読者が受け取ったとしてもまったく不思議ではない、そうとらえるのが自然な描写になっている。ただ、今回の全裸小山と下着千歌のリアリティと比べると、いかにもなにか、繊細な感じがある。ふたりにも肉体関係はあるのかもしれないし、ないのかもしれない。だがそれは、「ふたりで映画館に行ったことがある」こととそう変わらない、なにか決定的な意味をもちはしないものなのではないか。

そして、もともとあったそういう曖昧なぶぶんが、いまの、彼らいわく忙しくなった状況でより強調されているのだ。関係がうすくなり、互いがなんの仕事をしているのかさえよくわからなくなっている状況で久しぶりに遭遇し、そこで数馬は千歌のパトロンである小山をじゃっかん怒らせている。こういう状況でも、彼らはふつうにLINEをする。これはももよとのやりとりにも見えたものだ。200万の売り掛け金がある状況で、店としても「飛んだ」と把握しても不思議はないところで、数馬が電話をすると、ももよはふつうにそれに応えるのだ。こういう描写の連続が、彼らにとっての人間関係がどういうものであるかを告げてくる。グラデーションとしての、アナログな連続体としての関係性である。

ソリテス・パラドックスという認知上の誤謬がある。砂山のパラドックスとも呼ばれる有名なもので、同様の意味でハゲ頭のパラドックスなんてものもある。これは、定義の曖昧な語を用いることで生じるパラドックスだ。ここに「砂山」がある。「砂山」から砂を一粒取り除いても、そこにあるのはまだ「砂山」だ。再び砂粒を除いてもやはり「砂山」である。だから、ひとは「砂山」から砂を一粒取り除いたとしても、それは依然として「砂山」と呼びうるものである、ということを学ぶ。だがこれを延々くりかえしていくと、最後には一粒の砂だけが残ることになる。いままでのはなしではこれも「砂山」のはずだが、むろんそうではない。「ハゲ頭のパラドックス」は、頭髪のうすいところに一本いっぽん髪の毛を植えていく作業がこれにあたる。いったいいつ、砂山は「砂」に、ハゲ頭は「ふさふさ」になってしまったのか?

こういうふうに、特に千歌は、「砂山」の語の定義を曖昧にしたまま日々を過ごしている。いま目前にある砂の集合を「砂山」と呼びうるかどうか、この意味を重視する場面では合意形成しておく必要がある。つまり、たとえばもとの山の3割を切ったところでとか、2粒以上あればそれは山だとするとか、ともかくどこから「砂山」とは呼べなくなるのかを決めておけばなんの問題もないのだ。

しかしじっさいの人間の生活では「どこから砂山でなくなるか」というのをいちいち決めてまわっていたのではたいへんである。たとえば「友人」という語の定義をかっちり決めて、それにしたがって行動しているひとというのはいない。家電量販店のポイントカードみたいに、「3年以上交流がないひとは友人からはずれる」として、3年と1日目から急に塩対応になるひとなんてのはいないわけである。あいまいさは人生の緩衝材になる。しかしこれをどこまでもどこまでも広げていったらどうなるだろう。ひとつぶの砂は砂山と区別がつかなくなり、しっかり髪の毛が生えたひとは依然として悪口をいわれることになるのだ。

千歌はおそらく、言葉のデジタルな定義におびえている。何者かであることや、それを強いられることを、徹底的に回避しているのだ。その反動に、彼女は「港区女子」たろうとしている。不思議な「反動」だが、おそらくまちがいない。どうしてそうなったのか、そこには歌手志望としての挫折の経験があるのだろうが、そのあたりはまだわからない。だが、数馬とのやりとりで、ニュアンスに関しては感受するままに理解するしかないが、どことなく諧謔的な調子が含まれているのは、彼女にも東京カレンダーによるその「定義」が空洞だという自覚があるからだろう。では彼女は、どういった語の定義から逃れ、東京カレンダーの定義に従おうとするのか。おそらくこれはここのところに接続するセリフではないのだが、今回は「本当に欲しい物は手に入らない」というところもあった。まだ不明な点も多いが、彼女が半笑いで空虚な言葉の定義にしたがい、なにかから目を背けていることとこのセリフは、無関係ではないかもしれない。

そのいっぽうで、現在進行形で存在するのが、数馬と小山という存在だ。両者はともに、ちがった感情のまま、千歌を定義しようとする。ひとことでいえば、どちらも彼女を「じぶんのもの」にしようとしているのである。おそらく千歌の気持ちとしては、「数馬のもの」になることについては問題はないだろう。だが数馬には金がない。では「小山のもの」でいいのかというと、たぶんそうではない。現状、彼女はなんらかの挫折を通じ、内部からの求めにしたがった行為は無価値であると達観している。数馬との関係性は好ましく、求めてもいる。だがそれは実現しない。こういう、「あきらめ界」のような地層がまずある。彼女はそのうえに「現実界」のような、小山の住まう東京カレンダー的世界をかぶせている。「現実界」による定義を受け容れる用意はある。つまり、港区女子であろうとし、また小山の愛人として「小山のもの」になる用意は、ある。だが、(かつての)数馬が住む「あきらめ界」への未練もまだあるのだ。この結果が、おそらく彼女に、中途半端な「あいまい界」をもたらしている。それはすべての価値判断を保留するような、一粒の砂を「砂山」と言い張るような世界なのである。

 

ではなぜ、「金持ちの数馬」を彼女は認めないのか。それは、小山のいる「現実界」のリアルを知ってしまっているからだろう。数馬の本質的なぶぶんとはまた別に、千歌のなかには無垢な、ある種のフィクションとしての「数馬」がいる。これは、「現実界」のリアリズムがないからこそ、夢をみたまま呼吸するものである。したがって、「金持ちの数馬」という無敵の存在は、原理的にありえないのだ。お金のリアリズムにまみれた途端、千歌の夢のなかにしかいないような夢見る「無垢な数馬」は雲散霧消してしまうのである。

 

ふつうに読めば数馬は犯罪行為に加担させられるのだろう。ずっと謎になっている九条のかかわりポイントだが、壬生はそこで九条を召還して前科がないことを力点に弁護させるつもりなのかもしれない。

 

 

 

↓九条の大罪6巻 7月29日発売予定

 

 

 

 

 

 

管理人ほしいものリスト↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

お仕事の連絡はこちらまで↓ 

tsucchini3@gmail.com

 

第125話/どんだけ速ぇえ?

 

 

 

 

(更新遅くなってすみません、忙しいというよりは、絶妙に書けない感じの勤務構成とかぶってしまって・・・)

 

突然登場した当麻蹴速の継承者らしき人物。光成と知り合いらしき彼のところに勇次郎がふらりとあらわれる。勇次郎はいきなり、その名前からして速そうな蹴りが、どのくらい速いのかと挑発するのだった。

 

蹴速は通称とか、なにか称号のようなものではなく、ふつうに戸籍に登録されている名前なのだろうか。「幸子」さんに、ほんとうに幸せですかと訊きませんよねと、蹴速は常識的なことをいう。「賢」さんがどのくらい賢いかもふつうたしかめない、だから蹴速だからといって・・・という流れで突然蹴速が蹴りを放つ。あぐらか正座か、よく見えないが、ともかく座った体勢から右足を前蹴り気味に突き出した感じだ。しかしこれはぎりぎり勇次郎の顔には当たらない。当てたつもりだったのだがと蹴速は少し戸惑っている。蹴速は、蹴りのとき、左足の指を反らせてしっかり蹴り込んでいる。とすると、蹴る前から、正座かあぐらか、その体勢のまま、じゃっかん足の位置を変えて、親指が接地するようにしていたのかもしれない。それに気付けば蹴りがくることを読むことはできる。が、そうでなくても、勇次郎では、細胞がおそれて攻撃を当てないようにしてしまうという、あの花山がとらわれてしまった現象があり、どちらにも見えるような気がする。

勇次郎は「タヌキが」というが、別にこれは怒ってないな。タヌキっぷりもいいし、蹴りじたいもなかなかであると見たのかもしれない。そうでなくてもなんか最近の勇次郎は若者に優しいからな・・・。

蹴速があなたの蹴りを見ていないというので、ふたりは光成を連れて道場に移動する。

 

どうも勇次郎はそれほどいまの蹴りを速いとはおもっていないらしい、それが蹴速の感じ取ったものだ。でも、それなら勇次郎なりの蹴速を見せてもらわなければと、こういうはなしだ。向き合った状態から勇次郎がゆっくり歩み寄り、蹴速は上着を脱ぐ。と、勇次郎がくちから空気の塊のようなものを発射する。これが目にあたり、蹴速はいっしゅん気をとられる。そのときに、非常にゆっくりした動作で勇次郎が右足を伸ばし、蹴速の金的にそっとあてがうのである。

 

 

 

「仮に(時速)300キロでも―――

見えちまえば「武」的には“遅い”

 

見えぬならダッシュ――

カタツムリの歩みとて――

「武」的には“速い”」

 

 

武は陸上競技ではないもんなと、蹴速はこの勇次郎の説に納得する。が、そこで勇次郎が突如気配を変え、アライジュニアもびっくりのあの右廻し蹴りを放つ。触れたのかどうか、微妙なところだったが、鼻先にかすったようで、蹴速の鼻からギャグ漫画ばりに鼻血が噴き出す。理屈としてはそうだけど、速いほうがカッコイイと、それが勇次郎の感想である。

 

 

 

つづく。

 

 

 

勇次郎は最近ほんと、若者に教育熱心だよなあ・・・。ひょっとして、ほんの少し、じしんの老いを感じていたりとか、そんなこともあったりするのかな。

勇次郎は蹴速の視力を奪い、見ることを制限することで、武における意味での「速さ」を示した。そのようにして場をコントロールする技術が「武」なのであり、それができれば、もはや物理的な意味での速さは必要ない。とはいえ、勇次郎は暴力の男なので、速いほうを選ぶけどと、こういうはなしだ。「武」のなんたるかを説明するくだりは、はっきりいってじしんの強さにしか興味がないという人格では不要なものだ。「武」では速さは不要であるのが事実なのだとしても、それは勇次郎とはなんの関係もないからだ。バキに対してはもともとこうだったとおもうが、最近はこういうふうにおせっかいを焼いているような場面が多いような感じがするのである。

 

勇次郎のいう武は、目に見えない状況を作り出すことによって速さを不要にするわけだが、勇次郎レベルの速い攻撃は、それを必要としない。要するに、見えない。こうみると、はなしはそう複雑ではない。「見えない」という状況をどう作り出すか、その方法が異なっているだけなのである。資質があれば、また鍛錬を重ねれば、速さが、技を見えなくする。しかしそれが実現できないとしても、その他の技術が結果としては「速くて見えない」と同じ状況をつくりうるのである。着地点は同じなのだ。だから、勇次郎は少しふざけているようだが、どちらがかっこいいか、好きかという、審美眼的なものでこの方法のいずれを選ぶかというのは、わりと正しいわけである。問題は「速さをとるか、技術をとるか」というところにはない。どちらもとにかく「見えない」を目的にしているのであって、そこに至る方法はどちらでもよいのだ。

 

ではこの「見えない」、見ることができないというのはどういうことか。これは、おおざっぱに「評価できない」ということになるかもしれない。宿禰や大相撲の力士たちは、覚悟を決めたならば強烈な打撃も耐えることができる。宿禰ではジャックの蹴りさえ耐えて見せていた。しかしこれはむろん見えたらのはなしだ。なにかがくる、そしてそのなにかとは蹴りである、さらにいえばいままでの攻撃からしておそらくこのくらいの衝撃である、こういうようなことを予測したうえで、その衝撃を受けたのちの自分自身を最初に想定してしまう、そうすることで、彼らはふつうなら意識を失うレベルの衝撃にも耐えてみせる。だが、ジャックのコンビネーションに宿禰が翻弄されていたのを見てもわかるように、ほんの少しそこに技術的なものがまぶされ、本体の打撃が見えなくなると、耐えることはかなわなくなる。どういう打撃がくるのかを認識し、身体を準備して、さらにそののちに依然として立っているじぶんを想像する、こういうことが攻撃の輪郭が不明瞭なままではできないから、倒れてしまうのだ。

 

この可能か不可能かという視点での「見える/見えない」は、じつはだいぶ前からバキの世界ではひとつのテーマになっており、わかりやすいのは日常生活を送っているバキが消失するあの現象である。日常が非常になっているバキは、あたまのなかで想像しただけで、その動きがじっさいの身体に実現し、消失していた。ただ道を歩いているだけでそういうことが起きるので、うしろにいた一般人には、バキが消えてしまったと見えたわけである。それを、その一般人、カップルだったのだが、彼らは「見なかったこと」にした。どういうはなしだったのか、じぶんの記事を読み返して思い出したところだが(刃牙道173話)これは武蔵が警察も花山も倒して完全に法の外の人間になったタイミングだった。上記リンク記事にくわしく書いてあるようだが、このときの武蔵は、たとえばひとを殺傷しても、もう「ひとを殺傷してはいけません」と告げるものがまわりにいなくなっていたのである。かといって武蔵は国を支配しようとしているものではない。とすれば国はどうすればいいのかというと、見なかったこと、見えなかったことにするほかないのである。カップルがバキの身に起きた怪現象を「見なかったこと」にしたのは、ここに通じているわけだ。バキは対武蔵戦に備えて特訓をやめる。書き間違いではない。備えとして、備えをしないのである。なぜなら、ある種の備えは、安全であることを要請するからだ。重いバーベルをデッドリフトであげるためには、それを行うとき襲われないことが前提になっている。最重量のベンチプレスをあげれば、しばらくは胸の筋肉が使い物にならなくなり、いわゆる「ベストコンディション」ではなくなる。アスリートは試合に向けてこうした調整を行い、当日に最高の状態がくるようにするわけだが、そんなレベルではなくても、一般人でもこのように「安全」を前提にしたトレーニングをしているわけである。バキはそれをやめたというはなしだ。そして、それがどのように実を結んだのかということのひとつの象徴的現象が、消失であったわけである。彼は一般人には見えないものになり、また見えないという事態を、一般人は「見なかったこと」にしたのである。もはや法が武蔵をどうすることもできない、どのようなものであると規定することができなくなっているように、バキも一般人の感性や常識では解釈できなくなっていると、こういう比較になっているのではないかというのが、当時のぼくの考えである。

こういうふうに、バキでは以前から「見えない」は「評価できない」とほぼ同義だったと考えられる。「速さ」、もしくは「技術」は、これを実現する。だが、じっさいの闘争の現場では、「見えない」は日常であるともいえるわけだ。むしろそこから先をどうするのかということが問題なのだ。宿禰はけっきょくその点未熟であったため、ジャックに負けてしまった。相手が速いなら、重いなら、強いなら、それ以上のものを身につければよいと、こう考えるのは合理的だが、彼はふとした拍子に出会った想定以上のものに対応できない。「評価できないもの」、宿禰では「嚙道」にどう対応するのか、それが彼の課題なわけである。極端なことをいえば、「覚悟を決めれば耐えられる」は、バキレベルのファイターからすれば当たり前なのだ。そこから先、見えないもの、わからないもの、評価できないものにどう対応するか、それが宿禰や、ひょっとすると蹴速に課せられた試練であり、若さのあらわれなのだ。なにか最近の勇次郎はその点の教育に熱心なように感じられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

管理人ほしいものリスト↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

お仕事の連絡はこちらまで↓ 

tsucchini3@gmail.com

 

 

 

 

 

5月19日、シンウルトラマンを観てきた!『シン・ゴジラ』の庵野秀明、樋口真嗣コンビによる、タイトルに「シン」とつくシリーズである。あいまにエヴァンゲリオンも作られているが、ぼくはエヴァはぜんぜん知らないので今回はスルー。

 

「シン」の世界がMCUや最近のDC、髑髏島やM・ナイト・シャマランのアンブレイカブルのシリーズのようにユニバースを構成するものかどうか、まだよくわからないのだが、いくつかヒントはあり、期待してもいいかもしれない。ぼくとしてはまず、シン・ゴジラがおもしろかったというたんじゅんな経験がある。多くのひとがそうだったろう。そのうえで、ウルトラマンは大好きだ。庵野氏はエヴァをはじめとしてサブカルチャー的な世界では神聖ささえ帯びている偉大な存在だろうが、ぼくはその文脈では庵野氏を見ることができない。エヴァを知らないので。だから、このふたつの経験、シンゴジラが超おもしろかった+ウルトラマンが好き、という流れだけでこれを鑑賞したわけである。

相方もほぼ同様の前提条件である。そして、彼女はこれを非常に楽しみにしていた。だから、公開してすぐ流れた賛否両論には動揺したものである。描写の古さ、端的にいってセクハラ描写が問題になったのである。実はそれを含めないものでも、首をかしげている感じの観客を見ることはあり、あまりにも相方が楽しみにしているものだから、大丈夫かよ、頼むからおもしろくあってくれ・・・と、ガッカリしている彼女を見たくないものだから、祈ってしまったくらいである。結論からいえば、ぼくらは非常に満足できた。おもしろかったし感動もしたのだ。あとで触れるつもりだが、描写の古さにかんしては、じっさい感じられた。それが、じっさい感受性が古いことによるものか、あるいは意図的にほどこされたものなのか、その判定はできないし、ぼくの鑑賞スタンスとしてもしないのだが、たしかにそれはノイズになりうるものであった。また、技術的なことはわからないので、消費者的なクレームになりうることだが、CGにかんしては、これで合ってるのかな、製作者の意図したとおりなのかなとなる箇所もないではなかった。しかしそれでも目が釘付けになる物語のパワーはたしかにあり、要するに、おもしろかったのである。

 

 

購入したパンフレットにはネタバレ注意と書かれた帯による封がされてもおり、個人的にはそれほどネタバレを注意する展開でもないように感じたのだが、公式の希望がそういうことであるので、なるべく具体名や展開については触れないよう書いていくつもりだ。だが、うっかりしたところがひとによって「ネタバレ」にならないとも限らないので、未見のかたは以下注意をしていただきたい。

 

 

 

 

 

最初にユニバース云々についてちょっと書いたのは、この映画のはじまりに「シン・ゴジラ」の文字が見えるからである。それはちょうど、オリジナルのウルトラマンで、最初にウルトラQのタイトルが示されるのと同じ方法においてだ。ウルトラQがウルトラマンを包括するように、シンウルトラマンはシンゴジラと連続しているのである。そして、まったく明言されないが、シン・ゴジラとおそらく同一人物であるとおもわれるある人物が、本編後半には登場する。そういうわけで、ユニバース展開の可能性を強く感じたわけである。

最初ひといきに巨大生物の出現が報告されるところでは、シン・ゴジラ同様の、あの、なんというのか、扇情的な文字による演出が重ねられていた。そういう点でもゴジラとのつながりを強く感じたが、これは次第に弱まっていき、やがて本作独自のリズムのようなものが獲得されていく。今回はそこに実相寺アングルが効いていたようにおもわれる。実相寺アングルとは、実相寺監督が多用した、なにか盗み見しているような、不思議な角度・距離感による撮影方法で、これはゴジラにも見られたものである。専門的にこの撮影方法でなにが生じているものかぼくは知らないが、個人的な感想をいえば、いっしゅの疎外が生じているようにおもわれる。ひとことでいえば、「感情移入」というよりはまさに盗み見で、他者の言動を観察する立場に強制的に置かれることになるのである。そこから興味を失うことも、よく耳を傾けることも、自由である。が、言説そのものは一定の距離から発生している。他者へのコミットメントについて、人間がもちうる即座の感情移入を回避して、クールダウンさせる効果があるのである。ゴジラでは政治的な交渉や判断が物語の強い魅力で、優れた討論やニュースでも見ているような知的スリルがもたらされていたが、本作はこのアングルによって落ち着きを獲得しているようにおもわれた。会議に遅刻しそうで社内を猛ダッシュ、ぎりぎり間に合ったがしばらくは息があがってはなしが耳に入ってこない、しかしやがてじぶんが着席しているという事実が理解されていき、呼吸が整うとともに会議の内容もあたまに入ってくるようになる、そのような感覚である。

そうして、まず巨大生物が最近よく出現しているという状態がレポートされることで、現実世界では荒唐無稽でも物語内で共有されているであろう常識がひといきに形成されて、まともに描いたらそれだけで映画一本ぶんになるであろう経緯をほんの数分で確固とした前提にしてしまった。そこに用いられているのがシン・ゴジラの文字情報表現なのである。というか、ある意味でこの演出は観客がシン・ゴジラを見ていることが前提になっているようでもあった。「こういうことがありました」ということを、文字だけでぽんぽん説明していくあのテンポ感を鑑賞者が知っていることが、ここでは予習事項になっているのである。

 

最初にまともに登場する巨大生物はネロンガであり、これがかわいいので、ぼくらはコイツ目当てで来てたみたいなところがあるのだが、この前段階あたりで、巨大生物は「禍威獣(カイジュウ)」という呼び名になる。オリジナルでは科学特捜隊、通称科特隊(カトクタイ)と呼ばれていた、これら巨大生物に対応する特別組織は、本作では「禍威獣特設対策室」、通称「禍特対(カトクタイ)」となる。これは、たんなるオリジナル要素というだけにとどまらず、重要な点におもえる。もとの科特隊は、おそらくウルトラQからの連続で、警察組織的なものとして存在していたようである。そのうちの非常に特殊な任務として怪獣とのたたかいがあったという位置づけである。ところが本作のカトクタイにおける「カ」は、科学の「科」ではなく、コロナ禍の「禍」、わざわいという意味なのだ。加えてそれより意味的には弱くなるが、「タイ」も、「隊」ではなく「対」である。イデ隊員みたいなウルトラ科学力の人間がいたこともあり、科特隊は事件に先んずるかたちで存在した守護者である。しかし本作のカトクタイは必然的に「対応するもの」になる。わざわいに対して、常に遅れてやってくるものなのだ。

 

この点については見る前から想像していたのだが、斎藤工に移ったウルトラマンがレヴィ=ストロースの『野生の思考』を読んでいる場面と、そこから続く人類の「弱者」描写、さらに有岡大貴が演じる滝明久の敗北感とともに、さまざまなことに合点がいったのである。シン・ウルトラマンが、もとのウルトラマンともっとも異なる点、それは、ひとことでいえば人類が「弱い」ということなのだ。

 

 

以前までのぼくの考えでは、元祖ウルトラマンは外部から飛来した一神教的存在で、ニーチェが『悲劇の誕生』で考えたプロメテウスの火に対応する。「火」は、人類に大きな発展をもたらしたが、同時に破壊力も大きく引き上げることになったのだ。ほとんどのばあい、怪獣は地球の内部にもともといたもので、自然のサイクルに回帰しうるものだが、ウルトラマンはそうではなかった。科学特捜隊は、こうした自然のサイクルからふと出てきた突然変異や、予想をこえた太古の破壊力を制限するものだ。ウルトラマンはぎりぎりまで変身しないのは、なるべくならば科学特捜隊をも含めた自然の連環の内側で、つまり地球という条件の全体のみで、事態を解決すべきだからなのである。また、ウルトラマンが太陽エネルギーを使って行動し、しかもその行動がたった3分であるというのも、これはウルトラマンが地球のために課した負荷であると考えられた。ウルトラマンの活動が短ければ短いほど、事件の解決は「地球」のみを条件にしたものに近くなる。彼が太陽を原動力にするのは、自然のサイクルになるべく接近しようとした努力の結果であろうとおもわれるのだ。

どうしてウルトラマンがこういう努力をするかというと、ウルトラマンじしんも、そうした外部のエネルギーによってちからを得、また同時に災厄を招いているからだ。というのは、設定がけっこうまちまちなので、一概にいえることではないのだが、ひとまずはプラズマスパークという、人工的な太陽のようなものである。これはウルトラ一族のちからの源だが、ベリアルはこれに見せられて悪の道に堕ちてしまった。また真船一雄のコミックでは、怪獣の出現じたいがそれを原因としているのである。コントロールを誤れば一族を滅亡させるほどの怪人を生み出すような発明は、外部からの飛来物ではないにしても、自然のサイクルに組み込まれているものとは言い難い。この意味で原子力発電のメタファーでもあったシン・ゴジラのほうが感触としては近いかもしれない。ともあれ、ウルトラマンにも、原風景として「土に還らないもの」の脅威があるのである。地球ではウルトラマンじしんがそれになりうるのだ。

こうした展開はシン・ウルトラマンにもはっきり見える。くわしくは書かないが、ウルトラマンはたしかに地球に災厄を呼び込んでしまうのであり、その責任を感じたこともあって、たたかい続ける。ここまでは、細部や感触は異なるにしても、同質と考えていいだろう。大きく異なるのはやはり人類なのである。科学で自然のサイクルに怪獣を引き戻すのか、わざわいに対応するものとしてつねに遅れてあらわれるものか、こういうちがいが強く出ているのだ。

 

ここで滝くんは、人類最高レベルの知性をもった物理学者だが、立て続けに起こる事件の規模と、あらわれるものたちの知性の高さにすっかり打ちのめされてしまう。いろいろ胸打たれるポイントの多い映画だが、ぼくは滝くんの敗北感がいちばんこたえた。じぶんがやってきたこと、人類が積み立ててきたことのあまりの素朴さに耐え切れず、彼はいちど仕事を投げ出すほどにまでなってしまうのである。真っ赤になって自虐的言動をくりかえす滝くんの姿は痛々しい。このようにして人類は「弱い」のだ。けれども、それがなんなのかというはなしなのだ。ウルトラマンはおそらく最初からそれを理解していた。なぜかというと、『野生の思考』を読んでいるからである。西洋的主知主義礼賛のサルトル的時代に、知性のありかたは一様ではないと、原始の論理にきらめきを見出すレヴィ=ストロースの名著である。具体的にはフランス語でブリコラージュと呼ばれる「ありもの仕事」である。これは、卑近ないいかたをすれば、「手近にあるものでどうにか問題を解決する」知性のありかたのことなのだ。

もともともっていたか、『野生の思考』で学んだのか、それはわからないが、ウルトラマンは「『存在』の価値をひとことで語りつくすことはできない」というようなことをまず理解していた。人類は弱い。弱いし、のちに明らかになるように、存在しているだけで問題を引き起こす可能性がある(それが判明してしまうのはウルトラマンの責任なのだが)。しかし、弱いことや科学的に劣ることは価値の低さを意味しないのである。そこには、人類しかもちえない、またウルトラマンがもっている語彙では形容しきれない「なにか」がある。「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン」とは、そういう意味だ。

そしてブリコラージュは、知性の程度の比較のようなことを跳ね返す強度をもった、野生の思考である。これは、いままでの文脈でいえば、「自然のサイクルの内側でどうにかする」という思考法にほかならないのだ。ウルトラマンからヒントをもらいつつ、滝くんはここに到達する。こう考えると、たしかに本作は人類の「弱さ」を克服する物語であるのだが、もっといえば、「禍特対」が「科特隊」になる物語なのだということなのかもしれない。

 

なぜこのように人類の「弱さ」が強調される結果になったのか、順序はどちらが先かわからないが、この禍威獣たちは、じつは「自然のサイクル」由来のものではない。このあたりあいまいな表現もあるが、「外部からの飛来物」としての面と、人類の環境破壊などのあわせ技で出てきたようでもある。とするのであればウルトラマンの存在は不可欠であり(外部からきたものには外部のもので対応するほかない)、「自然のサイクル」でははじめのうちはどうしようもないだろう。これが当初の「弱さ」につながっているわけである。ではなぜ、いわゆるゴモラ的な、自然由来の脅威に設定しなかったのか。「弱さ」が描かれるためにそうした設定になったのか、この設定を生かすために「弱さ」が描かれているのか、それはなんともいいがたい。ひとまずいえることは、ブリコラージュは自然のサイクルに回収されるだけのものではなく、必要なら「科学」にもなりうるということだろう。「科特隊」はウルトラマン視点(もしくはサルトル視点)からすれば、完成した人類である。本作はそこにリアリズムを持ち込んだのだ。ここには、「禍」という字から連想されるように、コロナ禍も影響しているかもしれない。コロナは外部からの飛来物ではないが、これまでの人類の、想定されていた枠組みの内側にはなかった脅威である。こうしたものに、わたしたちは「ありもの」で対応するほかない。わざわいに対応する「禍特対」は、この過程で、絶対知的な「科特隊」に漸近していくのである。

 

 

さて、作中のノイズである。それらはたしかに、ひとむかし前の演出を連想させるというか、端的に「古い」ものだった。これを、ネット上のいいかたを借りれば、製作側の認知がアップデートされていない結果とみるか、なんらかの理由で“あえて”やっているものとみるか、正直なんともいえない。どちらにも見える。ただ以上の考えからすると、これらは人類の「弱さ」のあらわれと考えることも可能かもしれない。『野生の思考』ごしのウルトラマンは、人類のありようを「弱さ」とは考えないだろう。そこには、ウルトラマンのもっているものさしでは計りきれない価値がたしかにある。だが、ほかならぬウルトラマンじしんが、そこに外部の要素、プロメテウスの火を持ち込んでしまった。人類はそこにおいて相対化される。わたしたちがその描写を古いと感じる、セクハラだと感じる、それは「火」が持ち込まれてしまった以上必然なのだ。そのあとで人類はどうするのか? ヤケになった滝くんのようにすべてをあきらめるしかないのか? ブリコラージュの思考法は価値観の更新についても有効だ。なぜなら、そこにない語彙を語ろうとするときにわたしたちがつかえるものは、そこにある語彙以外ないからである。どのようにして宇宙が膨張していることを宇宙にいながら理解すべきか、魯迅のいう鉄の部屋のなかでまどろみながらどのようにそこから脱出するのか、ちがうものさしをもったものどうしでの「対話」はほんとうに可能なのか、これらは、ここ何年かずっと考えてきたことだが、ぼくは逆に今回のことで大きなヒントをもらったように感じている。わたしたちは、ブリコラージュ的に、もっているものをつかってやっていくしかない。新しい価値観がそれを「古い」としても、それが克服されるのは古さのなかにまどろんでいるものが目を覚まし、ありものをいじくりまわしたときだけなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

管理人ほしいものリスト↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

お仕事の連絡はこちらまで↓ 

tsucchini3@gmail.com

 

第52審/愚者の偶像③

 

 

 

 

本気で金持ちになりたいならまず100万貯めてそれから連絡してこいと、壬生にいわれた門脇数馬。サパークラブでロジャーという酒をあけまくって稼いでいる。時給なしにして売上の40パーセントが給料になるという、新しいシステムで働いているようだ。ロジャーという酒も注文ごとに10パーセントバックがあるという。これが7万円の酒で、1本ごとに7000円入るのを20本あけたから14万。そこに売上40パーセントのぶんをたすと35万になると。「売上」がロジャーだけのことなのかなんなのか、よくわからない。たすと35万なのだから、「売上」は525000ということになる。たんじゅんに売った額ならロジャーだけで140万にもなるが・・・。

ほかにもがぶがぶ飲んだらしい。数馬にはももよという太客がおり、これは恋愛リアリティーショー時代からのファンだという。風俗で稼いで貢いでいる。金髪の同僚との帰り道で営業のはなしになる。もとは、芸能時代のファンは客として呼ばないというポリシーがあったらしいが、いまはテックトックつながりで呼びまくっているらしい。誰かの負担が誰かの利益になっているという重商主義の考えかたを数馬はくちにする。この思考法では、生産はせず、結果としてひとから奪うことがもっとも効率がよいという結論に至る。しかし数馬の決意はかたく、表情も悪くない。壬生と、あと母親が背中を押してくれたのが効いているのだろう。

 

これは家についてすぐなのかな、水をがぶ飲みして酒を洗い流す。吐いているとはいえ、そんなに飲んでいるのにつぶれたり酔っ払ったりしていないのだから、かなり酒飲みの素質はあるのかもしれない。

金髪は、今月から急にどうしたのかとたずねる。数馬は、シンプルに千歌に認められたいのだと応える。彼女が小山ときていたことは金髪も知っている。数馬はLINEもしているようだが、返事がそっけないという。返事は一応あるらしい。つまり、音信不通ということにはなっていないのだ。あのあと小山と千歌はふたりで消えたわけだが、家に送り届けただけだよな?などと数馬がいうので、金髪はやってるに決まっていると断言する。なんか知らないが金髪はあんまり千歌のことをよくおもっていないようで、使用感たっぷりのヤリマンだとボロクソである。まるで見たことあるかのように乳首の使用感を語っているが?さずがに数馬は怒って金髪を追い出す。

 

とまた別の日、数馬があたまを抱えてうめいている。ももよが売り掛け金200万残して飛んだと。といってもこちらも音信不通になったわけではなく、ふつうに電話にでる。なんかすごいな最近の若い子は。200万残して飛んでるのに電話出るのかよ。

といってもいちおう理由がある。ももよはいま整形してすごい顔だ。貯金はそれでなくなったし、いまは仕事もしていない。

これは数馬ではなく上司だろうか、オーナーに相談してみるかと、壬生に電話をすることになる。途中から電話は数馬がかわり、もうすぐ目標の貯金100万になるから弁護士を雇ってでも200万回収したいと語る。常識的に考えてもそれは難しそうだが、壬生はいちおう九条につないでくれる。だが九条も難しいというこたえだ。ここで再び壬生に相手がもどり、壬生が商売の基本を語る。安く買って高く売るのが商売の基本、しかし数馬が売るのはシャンパンではない。

 

 

「原価と売値の大きな差額を埋める物語を売っているんだ。

 

物語に納得したら客はいくらでも払う」

 

 

商品本体にそれだけの価値があるから金が支払われるのではなく、その価値に至るまでの物語の説得力が、価値を呼び込む。壬生はそのヒントとして承認欲求をあげている。人生は空虚だから擬似恋愛は金になる。恋愛リアリティ出身の数馬には理解のたやすいことかもしれない。鞭でひっぱたいてもしかたない、脳が溶けるくらい甘い飴を与えろ、というのが壬生の助言である。

 

決意を新たにした数馬は助言にしたがい、ももよと閨をともにしつつ、優しくふるまう。ももよも気持ちを改めてお金を入れてくれるようになったようだ。

そしてついに数馬は100万の貯金を達成するのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

飲めば強くなれるという超聖水を求めてカリン様のところにやってきた悟空が、奪えたら飲んでいいよということで逃げ回るカリン様をおいかけまくるその過程で強くなってしまう、あれと同じで、数馬は金持ちになりたいならまず100万貯めて連絡しろということでがんばりつつ、既に金持ちになれそうな感じを備えつつある。まあ、もちろんそんなうまくいかないんだろうけど。

 

ホストではないが数馬のような個人の魅力で営業をするような仕事では特にということになるだろうが、壬生がいっていることはどのような商売にもあてはまるかもしれない。ただ、これは不必要なほどに「お金を使わせる」ことに着目した場合に限るものでもあるだろう。120円のボールペンで事足りるひとに10000円を超えるような一品を買わせるには、10000円もして当然であるとおもわせる物語が必要になるのだ。しかし、本来120円のボールペンで達成可能だった目的行為は、10000円のペンを必要としない。加えた説得力には責任も伴う。うつろな人生を仮に埋め立てるものであるぶん、幻想性を自覚的になってしまったり、人生が満たされて不要になってしまったとき、客が説得されていたものはあっさり色彩を失ってしまうし、そうなれば同時にこちらは信頼も失う。労働を背骨にした「価値」ではないぶん、こうして生じる再現性の低い利益はリスクが高く、もろいものなのだ。

ただ、はなしの流れからするとおそらく壬生はそういうことができるかどうかを数馬のふるまいから読み取っているということになるのだろう。それが「できる」とはどういうことかというと、物語を、つまりフィクションを売り物にすることができるのか、ということになるわけである。

 

そう意味のあることではないのかもしれないが、今回はちょっとひっかかる描写として、LINEと電話があった。千歌と数馬のいまの関係はよくわからない。別れているのかもしれない。しかし積極的につきあいを持続しようという感じではないし、千歌のほうでは露骨に興味がなさそうですらあった。このあいだは愛人契約をしている小山と数馬がもめたばかりでもある。しかし千歌は別に数馬からのメッセージを無視したりしないのである。そっけなくはなっているということだが、ふつうに相槌はうつわけだ。ももよの場合は電話だ。前段階の事情はわからないが、数馬はももよが「飛んだ」と考えている。これは、200万のツケを残してこなくなってしまったということだ。その状況で数馬がかける電話に、彼女はふつうに出る。今後もお金ができたら行くつもりだったのかもしれないが、はなしの流れからしてじゃっかん興味を失っていたようにも読める。ふつう、バックにこわいひとたちがいても不思議ではないこういう店で、200万借金しているも同然の状況で、電話に出れるだろうか。この一連の描写から、あまりこういう言い方もナニだが、人間関係の深さがグラデーションのように連続しているありようみたいなものが見えるわけである。「つきあいのあるひと」と「つきあいのないひと」が断絶せず、なめらかな傾斜で、あいまいに、そのときどきの状況こみで判断される感じなのだ。これをつきつめると、わたしたちは全人類と「つきあいがある」ということができる。もちろんそんなわけはない。ぼくとAJスタイルズは「つきあいがある」関係ではない。この感じには、現代のSNS的コミュニケーションの発達が関係しているかもしれない、が、あんまり適当なことを深めてもしようがないので、ただそういうアナログな傾斜のうちに人間関係が回収されるありようが描かれていると指摘するだけにしよう。つきあいの深さが、対個人の深度ではなく、状況と濃淡で決定するのである。そしてここでいう状況というものが物語であり、濃淡というのが物語へのコミットメントの度合いなのである。

 

もちろんこれを「現代的状況」などと割り切ってしまうのはあさはかすぎるだろう。人間関係とはそもそもフィクションなのである。ただ、あまりにフィクションくささがすぎると、ひとはそこに自覚的になってしまうし、人間関係としては認識しなくなってしまうかもしれない。もしここに「現代的状況」があるとすれば、その「フィクションくささ」に抵抗がない、というか、SNS的なやりとりの熟達により、フィクションに「うそ」というルビをふることがなくなっているということなのである。この感覚も、別に新しいものではない。というのは、わたしたちはいつでも、小説や映画を受け取るときにこの感受性を用いているからである。

 

恋愛リアリティショーは、ぼくはあまり見たことはないのだが、当初はちょっと、なにをやろうとしているのかわからなくてかなり戸惑った記憶がある。ほんとうっぽくしているが、リアルにしようとはしていない。かといって創作物として割り切っているようでもない。これはどうやってみればいいの?と、ちょっとじぶんの年齢が感じられるようでもあり、うんざりするが、正直感じてしまったのであるが、これもそういうふうに考えるとすっきりする。これを真実の描写として受け取ってもそれはそれで別によいのだが、多くのひとはむろんフィクションとして受け取っているはずである。だとするなら映画を撮るようにつくればよいところ、あえてそうせず、うそくささを残すことでフィクションからつくりものっぽさを除き、地に足ついた感受性に接近させる、そういう手法だったのではないかとおもわれる。これが、アナログな傾斜の人間関係に慣れている状況ではごく自然なのである。そこにお金を支払う、その極北に、数馬のような接客があるのだ。

 

 

こうしたところで「物語を売る」とはどういうことかといえば、じぶんの人生を切り売りするということにほかならないわけである。壬生のような悪党はいつの時代も他人の人生を切り売りしてきたろう。現代でそれは「物語を売る」という状況に言い換えられる。そして、そのことにわたしたちは多くのばあい抵抗がない。なぜなら、いつでもわたしたちはげんにフィクションとしての人間関係、もっといえばフィクションとしての「わたし」を切り売りしてきたからである。

 

果たして壬生の目的はなにか、ほんとうにただ数馬をつかってもうけたいだけなのか、ぜんぜんわからないし、なにより九条がどうかかわってくるのかもまだ見えてこない。このあたりで裁判とかそういうことにならない感じのエピソードをはさんでくるのかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

管理人ほしいものリスト↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

お仕事の連絡はこちらまで↓ 

tsucchini3@gmail.com

 

第124話/鉄球

 

 

 

 

待望の蹴速の登場だ!

この蹴速は自称なのか?宿禰と同じく正統的な継承者なのか?継承者だとして、血統なのか流儀なのか?いろいろわからないし、わからないままふつうに進みそうだが、とりあえず強いらしいことはまちがいない。

前回語られた殺生石の事件が今回は描写される。経緯はよくわからなかったが、殺生石は毒気を出す悪い奴であるというはなしだった。だから蹴割った、というふうにはいっていないが、なぜ割ったのかの言い訳として大義名分的にそれを持ち出している感じだ。

 

満月の晩に岩のある山にやってきている蹴速だが、上半身裸で、下は帯で結ばれた道着のようなもの、そしてはだしといういでたちである。さすがに家からこれできたということはないとおもうのでどこかに荷物があるのだろうが、少なくともたたかう気満々で来たということではあるようだ。

彼が向き直った殺生石だがものすごくでかい。そして蹴速が語っていたように、殺虫灯ばりに、地面には大小の羽虫が累なっている。ちょっと驚いているようにもみえるな。たんに特に理由もなく割りにきたら虫がいっぱい死んでいた、みたいな感じかもしれない。

 

少し離れた蹴速がとるかまえは、腰を落とした相撲の立ち合いのようでもあるが、なにより蹴りをするように見えないのが興味深い。蹴りは軸足の回転が破壊力を生むので、基本的にはどちらかの足を前に出したかまえになりがちである。だがそうではないようだ。

そして跳躍、水平方向の飛び蹴り一発で蹴速は岩を割ったのだった。

 

さて現在、光成と蹴速のところにいきなり勇次郎が現れたところである。顔のところだけ隠れた不思議な、というかホラーっぽい構図で勇次郎がゆらりとあいだを通る。

勇次郎はそのまま黙ってあぐらをかく。蹴速は勇次郎のことは知らないようだ。で、光成お決まりのどう見えるかという問いで、本人を前にいいにくいと、丁寧な態度で、強い衝撃を受けたと告白する。どの程度の衝撃か、ということでは鉄球をあげる。といって鉄球そのものではない。超一流のハンマー投げ選手が、金メダルを狙う勢いで、鉄球をぶんまわしながら入室してきたと。射程に入った瞬間致命傷を負う、という直観なのだろう。

 

勇次郎がくちを開く。蹴とばすのが速いと書いて蹴速、どれだけ速いんだと。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

この調子だと勇次郎は蹴速がいることをわかっていて来たっぽいので、光成が連絡したのかもしれない。しかし初対面でいきなり「蹴りが速いって聞いたけどどんだけ速いの?」っていうのは、蹴速もたいへんだな・・・。人生ずっとこうだったのかな・・・。

 

近くに住んでいるというようなことでなければ、蹴速は最初から殺生石を割るつもりで那須にやってきたようなのだが、動機についてはその石が「悪いやつ」だからということでよいのだろうか。前回の言い方では、「悪いやつだから、なんとしても退治したく・・・」というようなニュアンスではなく、本人がいうように「言い訳」として、なんなら後付けとして、その動機が添えられているようにも見える。ただ、ではなんのために割ろうとしたのかということを改めて考えようとすると、じっさい殺生石が「悪いやつ」だからという理由以外ちょっと浮かばない。あのくらいの岩が那須にしかないということはないだろうし、なんなら岩にこだわる理由もない。要するに、「悪いやつ」は理由としては適切なのだが、ほんとうの心底から彼がそれを動機としているようには、前回の言い方と今回の虫が死んでいるのを見た表情をあわせた印象レベルだが、見えないのだ。つまり、動機どころか、この行動の目的が、そもそも「悪いやつ」とはあまり関係がない、いってしまえば、これはたぶん宿禰の聖性に対抗したものなのである。彼のほんとうの目的は、宿禰が四股で大地の邪を祓い、聖地を守るようなことを「俺もできる(そして、やる)」と示すことなのではないか、というのがぼくの直観的な仮説である。そう考えてみると、虫を見ているときの表情もなんとなく理解できる。悪い気を出していると聴いてはいたが、おやほんとに虫がいっぱい死んでる、というような表情だとおもってみると、そう見えなくもない・・・。

なぜそういうことをするかというと、ひとことでいえば対抗心だろうが、初代宿禰と蹴速の因縁によるものという線は、どうなのかなという気はする。本人がそう述べるということはあるだろうが、神話でしか語られることのない、歴史的とさえいいがたい出来事を復讐心レベルにまで定着させて引っ張るということは、そうできることではないとおもわれるからだ。でも、そういうはなしがあることはたしかである。蹴速は宿禰に負けたものである。ここから、義務を果たすような感覚で、宿禰に対抗しようとしていっているのではないかな、というふうに、これも直観だが、おもわれる。殺生石にかんする態度と同じだ。目的は、殺生石を割ることや、宿禰に対抗することにはなく、それを行うことそれじたいが義務的な関心になっているのである。

 

その方法だが、いくつもあるなかで宿禰の聖性にかんするぶぶんで対抗をしている(可能性がある)というのもまた興味深い。たとえば、「俺にもできる」をやるにあたっては、石炭をダイヤに変えるとか、オリバを倒しに行くとか、横綱を相撲で倒すとか、いろいろあるわけである。どれも同じことを再現することは難しいだろう。たとえば、石炭をダイヤにというのは、仮に蹴速が宿禰より強かったとしても、できないかもしれない。だったら、似た行為でいえばたとえば、「ゆうえんち」でやっていたような、大木を抱えて花を咲かせるとか、休火山を踏んづけて活発化させるとか、そういう行為でもいいわけである。また、オリバは大怪我をしているだろうから、それに近いもの、たとえばゲバルとか、龍書文を襲撃するとか、そういうはなしになってもよかったはずなのだ。そうならないのは、彼が宿禰との対抗という文脈において「聖性」を強く見ているからだろう。もっといえばそれがコンプレックスということになるかもしれない。宿禰が勝利者の末裔として聖地を守っているいっぽうで、おそらく蹴速にはそういうものがないだろうから。

 

最近の勇次郎は強者とみたら喰うという感じではなくなっているので、ふつうに実力をたしかめて帰宅ということになりそうではある。しかしバキ対ジャックという最強のカードが組まれ、歴代最高レベルの強者である宿禰が容態不明という状況で、こういう新キャラが出てくるというのは、冷静に考えるとよくわからない。想像しているよりずっと大きなイベントがこのあとはじまるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

管理人ほしいものリスト↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

お仕事の連絡はこちらまで↓ 

tsucchini3@gmail.com