今週の刃牙道/第173話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第173話/消えたね

 

 

 

 

 

 

 

 

武蔵との激闘の末、出血多量のためか気絶した花山は救急車で運ばれた。一命はとりとめ、治療は鎬紅葉が行ったようである。なら安心。バキ界の仙豆みたいなひとだから。

バスタブ一杯分にもなろうかという輸血量、10箇所の創傷は1000針にもなったという。花山のばあいは傷がクロスしまくっていたのがまたたいへんだったろう。漫画などに登場するむかしの不良はカッターナイフの刃2枚の間に十円玉をはさんで切りつけたが、これはそうすることで狭い距離にふたつの切り口をつくって、傷口を縫合しにくくするためである。あれだけぐちゃぐちゃに斬られたら、そりゃもうたいへんだったろう。ちなみに、念のため書いておくと、バスタブ一杯の輸血というのは鎬の用いた比喩です。

 

 

 

光成は鎬相手にはなしを続ける。バキが武蔵戦に名乗りをあげたというはなしだ。なるほど、あれはそういうことなのか。いや、光成はそう受け取ったけど、バキはそんなつもりではないかもしれない。ともかく、光成は、目の前でバキが宣戦布告して、しかもいまはやらないといったから、じぶんのところでやるという意味だととらえたようだ。

鎬はピクル戦など観戦していたが、やっぱり最前線にはいなかっただけ、なんかリアクションがずれている。ルールは武器解禁なのかと尋ね、剣をもってはじめて武蔵だ、などと光成が応えている。いや、バキじゃなくても、武蔵相手にボクシングとか、あるいは将棋とかオセロやってもしょうがないだろ。刀をもった武蔵を相手に、素手か、あるいは本部のように武器をもって対するか、あるいはたたかわないか、そのどちらかしかない。

とはいえ、刀をもった武蔵が強いということはもうじゅうぶん証明された、という鎬の言い分は、じゃっかん外野なぶん、いかにも正論である。もうわかった、強いよ、素手じゃ勝てない、そんな状況でやる意味はあるのかと。

しかしバキは、立ち向かうばかりか「葬り去る」と述べたのであった。鎬はこれをバキらしくないという。ハッタリと受け取ったか、あるいはそういう好戦的なセリフをバキらしくないと受け取ったか、それはよくわからない。なぜならバキはハッタリもかますし好戦的でもあるからだ。つまり「葬り去る」はじゅうぶんバキらしいセリフかとおもえるのだが、鎬の考えはちがうらしい。たぶん、かつてはけっこう悪人だったじぶんがバキに叩きのめされたという固有の経験が、バキに多少の聖性をほどこしているのだろう。鎬のなかでバキは誠実な正義のひとなのかもしれない。

しかし光成の見立てはちがう。たしかに、これがハッタリならバキらしくない。つまり、バキにハッタリはないというのである。まあ、ハッタリでじぶんを鼓舞して真実にしてしまう、という意味では、そうともいえるかもしれない。

 

 

 

物思いにふけりながらバキが街を行く。以前、武蔵とたたかうなら準備をするのはフェアじゃない、としていた通りに、もうずいぶんトレーニングをしていないらしい。剣豪武蔵は特訓の日々を送っているわけではない、普段通り生きているだけ、だからこちらも特訓はしない、それで対等だと。バキのこの理路については先週も考えたが、ややこしいので、あとでまた触れます。

バキのうしろを歩くカップルの男のほうが、バキのほうを見てなにかに気づく。なにか異様なものを見たような雰囲気だ。バキは考えを続ける。特訓はしていない。なのに、からだがどんどんでかくなっていく。肉体が備えを解かないのだ。

バキは突然襲われたときのことを考えている。殴りかかられたら、蹴りこまれたら、つかみかかられたら、斬りかかられたら・・・。その相手は、特に武蔵ということではないようである。なにか邪悪な誰かである。とにかく、それを想像したときには、もうからだが勝手に動いている。これは、動いているにちがいないということではなく、じっさいに、いまこの瞬間のバキのからだが動いているのである。バキは、想像上の相手の攻撃をかわして、上体をすばやく動かしているのだ。その瞬間、速すぎる動きのせいでバキの上半身が消えているのである。それを見て、後ろのカップルが驚愕しているのだ。こんなことを街中でやったら不審者あつかいされるに決まっている。しかしこれは、やろうとしてやっていることではない。ただ、あたまにそういう危険を思い浮かべているだけで、次の瞬間にはかってにからだが動いているのだ。ピクル戦にも似たような描写があったが、やっかいな体質になったものである。眠りについて、たたかいの夢でもみたら最後、起きたときには家が崩壊しているのではないか。

バキの想像はよりハードになっていく。刃物をもった複数の人間に囲まれたらと、想像した瞬間、バキのからだは足先だけを残して完全に消失してしまうのである。バキじしんがあとから「こう動くのか」と自覚するようなレベルで。

 

 

怪現象を目撃したカップルは、たぶん誰も信じてくれないということでか、これを見なかったことにするのであった。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

カップルは目にもとまらぬ速さで動くバキを捕捉できなかかったわけであが、ここではもうひとつ、見なかったことにするということもポイントになっているようだ。

 

 

このバキの準備しない理論については先週も触れたが、これは、そうすることで対等になるということである。だが、武蔵は特訓していない、なのでじぶんもしない、そうすれば対等だ、というのは、このぶぶんだけを読むと、まるで「特訓すると有利になってしまう、だからやらない」というふうにとれる。しかし鎬がいうように、刀をもった武蔵の強さは比類がない。特訓してもバキに勝ち目がないことは変わりない。それなら、特訓しなければもっと不利になってしまうのではないかと、ふつうはこうなる。しかし、バキが自覚していっているのかどうかは不明だが、武蔵の武術的観点からすると、そうではない。特訓とは、そのまま特別な訓練のことである。ことに及んで特別に時間を設け、特別なメニューで行われる訓練のことなのだ。ここでいうと、対武蔵を想定して、またその対決の日にちを意識して行われる調整も含めたトレーニングのことだ。特訓はいけない、というような、だからつまり、対武蔵のために特別なことをしてはならない、ということなのだ。

武蔵に挑むにあたっては特別なことはなにもしてはいけない、なにもしないことで対等になると、バキはいっている。たびたびふつうの感性を持ち出すと、現時点でバキは武蔵に負けているのだから、特別になにか対策をしないと、もっと勝ち目はなくなることになる。しかしバキは、そうすることでむしろ対等になると考える。ここから導かれる結論はひとつしかない。こと武蔵を相手にするということに限っては、特訓をすることは不利しか呼ばないのである。

対武蔵ということにかんして特別に時間をとり、訓練するほど、バキは武蔵戦について不利になる。その理由としては、まず武蔵じしんがそうやって生きているということがある。武蔵じしんが、次の相手のことを想定してい生きているわけではなく、ただじぶんのなすべきことをしているだけである。その意味では例の青竹を振り回していたトレーニングは、特訓ではない。やってくる勇次郎戦や本部、ピクル、花山戦を意識して、普段やっていないことを取り入れている、などということではないのである。そういう生き方のなかには、そもそもフェアであるかどうかという発想じたいが生まれてこない。フェアであるか否かを検証するためには、条件が一致していることを示すために、相手の生活やそこに至る道筋を想像する必要がある。たとえば、強い相手とたたかった直後で、疲れているから今日はやめておこう、というフェアネスの発想は、相手がじぶんとたたかう以前に疲労している、という推測がもたらすものだ。ところが武蔵は、おそらくそういう視点を採用しない。というのは、その「相手」というのは、向かい合った瞬間にはじめて誕生しているものだからである。もっといえば、たたかっているあいだだけ、武蔵にとっての「相手」は存在しているのである。

現状では武蔵はほとんど無敵である。バキたちの前にはその事実が厳然としてある。そして、バキたちにとってはそれだけが重要ともいえる。武蔵はそういう生き方をして、そのうえで強いのである。だからじぶんもそれを採用する、これで対等だと、このように読めるわけである。

もう少し具体的なことをいうと、じっさい特訓というのは、たとえば一ヶ月後に試合があるとわかっていて、そこに向けて調整をしていく限りにおいて有効なのであり、いまこの瞬間襲われるかもしれないというような状況においては、やはり不利しか呼ばない。たとえば筋トレひとつとっても、ベンチプレスを上げた翌日は筋繊維が破壊され、じぶんがとりうるベストなパフォーマンスをみせることは難しくなる。身体を酷使しつくし、その回復の過程において強くなる、そういう「特訓」の理念からすると、その回復の最中において、彼はほとんど無防備になるわけである。もっといえば、じしんにおける最重量のバーベルを挙げているその瞬間を襲われたら、もうどうしようもない。正しく特訓というのは特別な訓練であり、目標となる試合を除くすべてのファイトをあきらめなければ、行うことはできないのである。

 

 

武蔵という存在をつねに意識して、特訓をやめ、ただ生きることをするうちに、バキには日常生きることがそのまま備えになるような緊張感が生まれることになる。こういうはなしは、これまでも何度もやってきた。教室でのんびり授業受けていたところ急にドイルが襲い掛かってきて、なんとか逃げた裏庭で存在感ゼロの作業着姿で仕事していた柳が鎌を投げてくる、そんな日常を、バキもこれまで送ってきた。これらの、以前のありかたと今回のもので、どこかちがうところがあるだろうか。死刑囚篇などにおける緊張感は、暴力がどこにひそんでいるかわからないという強いられたものである。いつどこから攻撃がきても対応できるように、身体をリラックスさせ、感度を上げて、よく観察する。こういう意味では、いまのところ武蔵はそういう攻撃のしかたはしてこない。バキはあくまで待っている武蔵に挑む立場であり、武蔵としてはすでに何度かやりこめているバキをわざわざ襲おうというような気持ちはないはずだ。ここでのポイントは、日常の緊張感もさることながら、やはりトレーニングをしないというその動作そのものではないかと考えられる。書いたように、トレーニングという発想は、ある程度の安全がなければ成り立たないものである。それを解除することで、バキはむしろ強くなっている。いってみれば、回復を要するトレーニングを、特別な訓練をやめることで、彼は生きることそれじたいがトレーニングになるような境地を獲得しつつあるのである。

ただ、心配なのは依然としてバキが「対等」というような表現をつかっていることだ。くどいようだが、武蔵にはそんな発想はない。フェアもアンフェアもない、ただその瞬間のたたかいがあるだけだ。その点でバキは武蔵に遅れをとっている。だが、バキが武蔵より遅れていることはたしかに事実なのであるから、それもしかたないのかもしれない。武蔵は特訓を行わないことで現に強い、だとしたらじぶんもその境地に達しないと、圧倒的な実力差がある以上、五分にはならない。特訓をしては不利になる、これをやめて、生きることがそのままトレーニングになるようなありかたに達しなければ、「武蔵の生き方には公平性という概念じたいがない」と語る域に達することさえできないのである。

 

 

バキはあたまのなかに攻撃をイメージしただけで、じっさいにからだが反応して動いてしまう。からだを動かすことが可能になる、というようなはなしではなく、じっさいに動いてしまう。ここからは言語的な思考がいっさい除かれている。相手の攻撃を目撃→脳が受信→適切な行動を脳が指示→身体が動く、というような流れで動きというものが構築されているとしたとき、まんなかの二つを除いて、見るなり身体が動いているのである。これは、たんじゅんに出遅れないという実用的な要素も感じられる。ふたつの脳を介した過程を省いているのだから、そのぶん動きは速くなるし、回避のスピードという点で武蔵に負けない反応力になっている可能性がある。しかしここでは、こんな街中で、おもっただけでからだが動いてしまうという、一種の病徴としてこれを受け取りたい。ふつう、あたまのなかで攻撃をイメージしても、多くのひとがいる街中では動かない。ゾンビファンはショッピングモールにいくと立てこもった場合の行動を想像してしまうものだが、だからといって立て看板をバリケードがわりに組み立てはじめたり、武器になりそうなものをパクりはじめたりはしないわけである。おもうことと行動することのあいだには、脳が介在するので、すべきかどうか、判定する猶予が設けられるのである。しかしバキはじっさいやってしまう。バキがゾンビファンなら、ショッピングモールに到着するなりスポーツ用品店にいってバットやゴルフクラブをかきあつめはじめ、料理店の厨房にのりこんで刃物を調達、じょうぶな看板やテーブルを倒して壁をつくり、非常口をすべて封鎖してしまうにちがいないのである。ふつうのひとはそんなことをしない。なぜなら、そんなことをしたら警備員を呼ばれるにちがいないからである。このいっさいの思考が除かれているという点で、バキの「日常がすでに備え」というありかたは達成されているとみることができる。攻撃に対してどう動くか脳が判定するにあたって、もう「相手」以外の必要な情報がすべて失われている。いってみれば全世界を相手に臨戦体制でいるようなものだから、すべきかどうかを判定する必要など、武蔵のような人間にはないのであって、バキも正しくそこにたどりつきつつあるのだ。

 

 

そしてそれを目撃したカップルは、これを見なかったことにする。もちろんこれは、上半身が急に消失するという怪現象を目撃したということを、おそらく誰も信じないという理由で、見なかったことにする、ということである。もし彼らが、バキがなにをしているのか、つまりひとり攻撃をイメージして上半身を動かしているということを理解していたなら、ちょっとあぶない感じのへんなひとがいる、という理由で、見なかったことにするかもしれないが、彼らはバキになにが起こったのかを理解してはいない。速くて消えているだけなのだ。そしてこれが示唆的なのは、バキが武蔵の領域にたどりつきつつある、少なくともそうしようとしている、という点においてである。武蔵はあるレベルにおいて国家を転覆させた。依然として日本国は平和に機能しているようだが、もう彼をとめるものは誰もいない状況で、彼の存在を認めないと宣言できるものはひとりもいなくなってしまった。もはや武蔵の殺人は違法ではない。違法であると告げる機関、また違法であることを体現する象徴的人物である花山、この両方が敗北してしまったのだ。少なくとも武蔵の存在する範囲では、日本国の法律はもう機能していない。今後この世界の日本がどうなっていくかわからないが、かといって、武蔵が総理大臣にとってかわって国を支配する、なんてことにはならないだろう。武蔵は別に国を支配するために国家権力とたたかっていたのではない。ただ、じしんの存在する権利を獲得するために、それを否定する国家とたたかってきたのだ。この後国家のとりうる行動というのは、じつはひとつしかないのだ。勇次郎に対するのと同じく、「見なかったことにする」、これしかないのである。バキの奇妙な行動に対してカップルがそういう結論に至ったことは、彼が武蔵の領域にたどりつきつつあることを示唆しているのである。