『方丈記』鴨長明/簗瀬一雄 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『方丈記』鴨長明/簗瀬一雄 角川ソフィア文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「枕草子・徒然草とともに日本三大随筆に数えられる、中世隠者文学の代表作。人の命もそれを支える住居も無常だという諦観に続き、次々と起こる、大火・辻風・飢饉・地震などの天変地異による惨状を描写。一丈四方の草庵での閑雅な生活を自讃したのち、それも妄執であると自問して終わる、格調高い和漢混淆文による随筆。参考資料として異本や関係文献を翻刻」Amazon商品説明より

 

 

 

 

 

 

「ゆく河の流れは絶えずして」でおなじみの方丈記である。そろそろ日本三大随筆とかそういうの読んどかないと、くらいの感覚で、なんでなのか記憶はないが、方丈記は前から読みたかったような衝動の残りかすみたいなものだけは感じられて、これにした。加えて、村上春樹や、最近だと田山花袋、あとラッパーのDELIの作品なんかを通して、無常観についてもっと研究しないとだめだなという考えもずっとあった。その点でいうと、たとえば徒然草とかでもよかったわけだけど。

 

 

さてどのバージョンで読もうかという段になっていろいろ調べて、たとえば同じ角川でもビギナーズクラシックとかがあるし、非常に迷ったのだが、アマゾンのレビューなどを参考にしつつ本書にした。特に決め手というものがあったわけではないが、とりあえず方丈記というものを書架に収めたいくらいの感覚で、教養として読みたいということなのであれば、やはり原文、は当然としても、表示されているどこまでが「原文」なのかはっきりわかるようなものが好ましい。その点ではやはり本書で正解だった。時系列を考慮しなければ、方丈記にもたくさんの系列があって、研究者はそのどれが、またどの程度、後世のものの手が加わったものであるか見定めなくてはならない。細かいところまでチェックはしていないが、詳細な註や資料を通して、本書ではやろうとおもえばそういうことを厳密に読み取ることが可能な仕組みになっているのである。本書では基本的に「広本系統」の「大福光寺本」を基本にして、都度、諸本を参考にしている、ということである。学者によってはこの「大福光寺本」を鴨長明の自筆であるとするひともいるようだが、本書編者である簗瀬一雄は断定を避けている。

そして本書のきわめて特徴的な面として、このように編者の意図に基づいて構成されながら、全体としては編者の解釈や創見のようなものは影が薄いということがある。とにかく、事実として「方丈記」という偉大な書物が日本にはあって、さまざまな作品や人物に影響を与え、日本文学の原風景のようなものになっている、それを、ひとまずは教養として受け止め、書架に収めてもらいたいと、そういう願いが感じられるようである。これ一冊があれば、素人レベルなら方丈記研究にはじゅうぶんであるし、ここからどのように飛躍していくことも可能だ。そしてその飛躍は、ニュートラルな立場にあることを神経質に望んだ編者のおかげで、決して歪んだものにはならないだろう。いま、たとえば『風の歌を聴け』という作物を研究しようとしたとき、我々があたるべきなのは講談社文庫の薄い一冊だけである(現代でも青木淳悟のように、版を重ねるたびに文章が新たに生成されていくようなひともいるけど、そういうのは例外といっていいだろう)。これがたとえば明治時代の小説だと、文庫化にあたって歴史的かなづかいがなおされていたりするので、いくつか分岐するが、それでも、原テキストにあたることは別に難しくない。ところが、『方丈記』のような作品はそうではない。なにが原テキストなのか、そもそもそれは、いま手元にあるもののうちのどれかであるのか、それすらわからないのである。書架に当たり前に収められている標準的な『方丈記』をつくろうとしたら、あらゆる研究とその結果による合意形成を踏まえ、またその過程までも開示しつつ、公平にみて(また学問的にみて)もっとも中立的とおもわれるものを提示しなくてはならないのである。だから当然、註や解説は冗長になる。書架に収められているべき教養を司る書物というのは、ふとしたおもいつきで手に取ったそのときの疑問やアイデアに応えるものでなくてはならないからである。

 

 

そんなようなわけで、本書は読むことによりなにかを獲得するというより、ことあるごとに手にとって手垢で汚していくタイプの本なので、いまここで解釈をくだしてしまうことはあまり利巧ではないともおもうのだが、せっかくなので少しはおもったことを書いておこうとおもう。

僕は真面目な学生ではなかったし、古文の授業なんかは控えめにいって嫌いだったので(漢文のほうが得意だった)、冒頭で知ったかぶりをしてはみたが、正直言ってどういうはなしだかぜんぜん知らなかった。なので、方丈というのが長明の住んだ庵のことだということにもぜんぜん気づかなかった。要するに1丈四方、畳四畳半ぶんの広さ、ということなのである(ちなみに高さは7尺ということだから2メートルちょっと)。いちばん有名な冒頭の節をまるまる引用しておこう。

 

 

 

 

 

 

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし」15頁

 

 

 

 

 

 

 

水は刻々と移り、もとの場所にあることはなく、あわはあらわれては消え、消えてはあらわれ、ぜんぜんとどまることがない。ひとも、またその住処も同じだと、こういうふうにはじまるのである。そして続く節では、平安京において、立派な家がいっぱいあって、永遠に続きそうなものにおもえるけど、そんなことはない、小さくなったり、なくなったりしてしまって、まったく定まることがない、というふうになる。方丈記は「家」「住処」についての文章だったのである。

といっても建築のはなしであるということではなく、もちろんここにいう「家」というのはひとの生の営みの具体的なあらわれのことだろう。ひとが生きている証明、しるしとでもいうか、その面における具体物として、「家」が語られているのだ。どうしてこんなに荒れた時代になっているのかさっぱりわからないが、大火事やむちゃくちゃな遷都、飢饉や大地震などが相次いで、長明や同時代人たちは末世も末世な「濁悪世」(十七節)を目撃することになるのだが、ここにおいても、やはり「家」が、そのダメージを引き受けることになる。火事や地震では直接崩壊することになるし、飢饉でも、続出する浮浪者と行き倒れるひとびとは失われた家を暗示する。遷都にかんしてもいうまでもない。「すべて、世の中のありにくく、わが身と栖との、はかなく、あだなるさま、また、かくのごとし」(33頁 二十四節)というわけである。そしておもしろいのは続く二十五節で、以上のような災害のたぐいはむろんのこと、生きていれば、環境や境遇によって生じる心労も多い、ということで、権力者の隣人だったらとか、金持ちの隣人だったらとか、まず「家」のある位置によってそのなかに住むひとの環境・境遇が決定するというのである。ひととひととの関係性において「鴨長明」として生きるとき、もっとも表面にあって自己を規定するものが「住処」であるかのようなのだ。

この二十四節あたりまで災害等の描写が続き、二十六節では長明のこれまでが短く語られるが、父の死をきっかけに、これまで住んでいた屋敷にいることができなくなり、オースターのムーン・パレスばりに、ちょっとずつ家が小さくなっていって、最終的に方丈にたどりつくのである。ここまでくるともはや家とはよびがたく、ほとんどテントみたいなものである。だからかんたんに移動できるし、移動にかかる費用も車二台ぶんだけということで、いわゆる鴨長明のイメージが完成する運びとなる。

 

 

くどいようだが、方丈記がというより本書が、何度も読み返す性質の本なので、断定は避けるが、長明においてはやはりたんに俗世から離れて山に引きこもっているということそれじたいよりも、この「家」を、最低限生活を持続させながらどこまでゼロに近づけることができるか、という点が重要であると感じられた。おそらく重要なのは距離ではなく、家のありようなのだ。家がゼロに近づくとき、ひとびとが「鴨長明」と認識するときの、その関係性における自己もまた消失していく。このことが、三十三節の、ほとんど極論ともおもえる、友人なんかいらない的な言説と、じぶんの身体を奴婢とするという思想につながっていると考えられる。家がゼロに近づくほど、長明はなにものでもなくなり、ソウルフルな内部からの衝動に任せた生き方が可能になっていく。ただたんになにものでもなくなっていくことはけっこう難しい。というのは、たとえば急に山奥に引っ込んで人間関係を絶っても、ある意味でそのもとの人間関係は「絶つ」という行為によって外部に保存されているのである。そうではなく、長明はもろもろの無常をつきつける経験から、家を縮小していく方向でこれを進めていった。そうしてたどりついたのが方丈である。これはもう、たんに長さ(というか面積)のことなので、ただの概念である。そこに至ることで、なにが獲得できたのか。おもえば無常観というのは、ある種の客観である。なにごともひとつのところにとどまらず、持続しないという感覚は、少なくともその観察している事物よりはとどまり、持続しているものでなければ得ることができない。ひとの死を通して無常を感じるには、生きている必要があるのである。長明が家を縮小することによって手に入れた、ソウルフルな、身体を奴婢とした生き方は、この客観から解き放たれたものだ。もちろん、長明を客観するものが、その生き方や死にかんして無常を感じることは可能だろう。そのことは、最終部分の三十四節から三十六節あたりに集中的に書かれているが、長明も自覚しているようである。だが、長明じしんはその生き方を愛しており、それを客観する視線は、家をとことん縮小しているために、もはや長明にはあらわれようがない。そうして、いってみればはじけるあわの一瞬のうちに集中して生きるありようを長明は獲得したのではないかとおもわれるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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