今週の刃牙道/第174話 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第174話/気の強靭(かた)

 

 

 

 

 

 

 

 

結果として光成に救われた感じになったが、重傷の花山が運ばれたあと、バキと武蔵は勝負を開始しそうになっていた。そもそも花山の行動じたいが突発的なものだったので、ここで始まってもじゅうぶん武道の範疇というか、問題なかったとおもうのだが、バキとしてはたぶん、まだ勝てないという気持ちがあったのかもしれない。まだ勝てないというのは、今後なら勝てる可能性があるということであり、準備をしない、特訓をしないバキがそういうことをいうのは奇妙に聞こえるが、実はバキはそうすることで強くなっているのである。前回考察したので、くわしくはそれを読んでもらうとして、バキとしてはもう少し、準備をせず、いつ襲われてもいい緊張とそれに対応できる弛緩のはざまにただ生きることで強くなってからでないと勝てない、という感覚があったのかもしれない。

 

 

今週のバキはさらに読者を混乱させる。これまで観客などではたびたび顔を見せていた鎬紅葉の弟・昂昇の道場を訪れ、久々の斬撃空手の実演を見ているのである。

どうやら昂昇じしんの道場らしく、例のずたずたのサンドバッグが見える。このひとは素手でなんでも斬っちゃうことをおのれの流儀としているので、それを確かめるためにはじっさいになにかを斬らなきゃならないから、いろいろ金がかかってしかたない。なんかこう、粘土のようなもので、復元可能な稽古用の道具を開発すればいいのに。

余談だが、僕はバキ作品に死刑囚篇から入って、コミックは第2部1巻からはぜんぶもっているのだけど、実をいうと第1部グラップラー刃牙時代のコレクションは穴ぼこだらけで、特に最初期の、鎬兄弟が出てきたころのコミックを持っていない(幼年篇と最大トーナメントはほぼ集めてある)。コンビニ版で所持していたのをなくしてしまったり、漫画喫茶で補完したりして、もちろんいちおうすべて読み尽くしてはあるのだけど、もってはいないのでくりかえし読んだりもしていない。ちょうどジョジョと同じで、あれも僕は第4部から入ったので、もっとも人気があるとおもわれる第3部のコミックをあまりもっていないのである。だから鎬兄弟の出自を理解していないのだが、でも少なくとも弟の昂昇は死刑囚篇でもかなりかっこいい見せ場があった。例の、「烈海王にも勝てる」というやつだ。あそこで人間のもちうる技術とパワーの到達点として烈の名前を出すというのがまた空手家としてリアリティがあり、誇張なしに彼が強くなったじぶんを自覚しているのだということが感じられ、そしてじっさいドイルを圧倒した彼は強かった。うっかり爆撃をくらい、負けてはしまったが、あんなところからよくわからないしくみで攻撃されるなんて烈じゃないと予測も反応もできないだろう。兄の紅葉なんか、最大トーナメントで兄弟対決してから一回もたたかってないのだから、昂昇はそれでも優遇されているほうなのだ。

 

 

バキが見ている前で、弟子が放り投げたバスケットボールを、昂昇が切り裂く。あとのはなしから貫手的なもので裂いているとおもわれるのだが、どんな手のかたちで斬っているのかぜんぜん見えない。さらに、すでに割れているボールをすばやい足の一撃で縦に裂く。バキにもできないことではないだろうとおもわれるが、やはりこれらは空手家の部位鍛錬のたまものだろうから、この技術に特化した長い時間の稽古が必要になってくるだろう。

刃物ではない手足でなぜ切れるのか、それは手首足首から先の、先端の操作がもたらすものであると、バキは正しく言い当てる。ボクシングやムエタイなどのグローブをつけた競技者は、一流になれば素手の格闘家にも当然脅威となる。もし素手の側に優位性があるとすれば、グローブに覆われてしまっている手首から先の融通性にあると。これはバキ世界や餓狼伝世界でもよくいわれていることだ。正拳、裏拳、鉄槌、手刀、背刀、背手、平拳、掌底、孤拳、何種類もの貫手など、拳のかたちには数え切れないほどの種類がある。すべて、必要に応じてつかわれる実用的なものであり、ほんらいグローブの技術であるフックやアッパーにかわる角度の攻撃も、手のかたちの変化によって対応できるのである。今回はそこに足も加わる。烈などは足の指を手のようにつかうことで、人間離れした足技を使用していた。昂昇もそうして、足による斬撃も可能にしているのかもしれない。

 

 

そもそもなぜバキが昂昇のところにきたのかがわからないのだが、昂昇は武蔵戦が行われるということを誰かから聞いて知っているようだ。この言い方だと、やはり試合は、しっかり日時を決めて、地下闘技場で行われるようだ。

武蔵は帯刀、バキは素手、というルールは、冷静に考えるとひどいものだ。しかし昂昇はそうとらえない。昂昇は、おそらく手足を刃物化するじしんの流儀もあってか、バキの手足じたいが凶器であるという見解を示す。これはゲバルの忍者部隊のときにもあったはなしだが、なにも物騒なものをもっていないバキは、ふつうに空港の探知機を通り抜けて飛行機に乗り込める。これが、じつはたいへんなことなのだと。バキがその気になれば、かんたんにハイジャックできるのだから。いまのバキはそういう存在なのだ、というのが、昂昇の見立てである。

 

 

 

さて、光成邸にもどっている武蔵である。光成が花山についての感想を求めている。読者はわりと細部まで武蔵の感想を読んでいるからいまさらな感じもするが、光成はただ見ていただけだし、改めてひとことでいうとどうだったか聞きたい感じもある。

人でも石でも鋼でも、斬れぬものなしと武蔵は自負していた。そして、斬れるか斬れないかでいうと、武蔵は花山を斬った。しかしそうすることで倒すこと、斬り伏せることはできなかった。花山の肉の宮は鎧を凌駕(しの)ぐ。とはいえ、肉なら斬れるはず。武蔵もここで少し考える。言葉を選んでいるようである。

 

 

 

 

 

 

「意志

思い

念・・・

 

 

それら『気』のものの強靭(かた)

 

 

気の『硬さ』が刃をハネた

 

 

 

――とでも言えば満足か・・・?」

 

 

 

 

 

 

武蔵の言い方は微妙だが、光成は少し笑っている。そして、その花山より、刃牙は強いぞと、武蔵にはキョトンとするほかない事実を告げるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

これは武蔵も反応に困っちゃう。だって武蔵はすでにバキと接触したことがあるのだから。花山戦後のあのやりとりでも武蔵はなんの問題もなくバキを斬れると確信したことだろう。光成としてはこれは一種の警告というか優しさのようなものなのかもしれない。バキは、もちろん強いのだけど、けっこう油断する。ピクル相手でも、最初は一撃でKOされていたし、そういう例はたくさんある。でも、最後には勝っちゃう。そういうのを光成は何回も見ている。もしあの最初の接触の印象でバキを見ていると危ないぞと、そういうふうにいっているのかもしれない。

 

 

武蔵の花山戦の感想を見ると、武蔵じしん、なぜ斬り伏せられなかったかよくわかっていないようである。今回のいいかたを踏まえると、「肉の宮」とか「骨の宮」というのは、斬れないという結果が導く一種の抽象のようである。花山がどんなに頑丈でも、けっきょくは骨と肉でできているだけだから、武蔵には斬れる。そのはずが、なぜか斬り伏せることはできなかった。この論理の穴を、武蔵はとりあえず「肉の宮」という表現で埋めているのである。論理的には斬れるはずが、結果そうならない。それは、肉と骨のかたまりであるだけの目の前の肉体が、肉の宮だからだと、理解できないものごとを名づけて、存在を認識するだけにとどめ、とりあえず保留しているのである。その保留していた箇所を、今回光成に聞かれたので、しばらく考えて、「気」を持ち出したのである。花山はじっさい、非合理的な存在だし、そうとしか考えられないと武蔵がいったとしても、しかたないぶぶんはある。

 

 

武蔵が帯刀してバキが素手というルールは、考えてみれば異様なものである。ふつう、ルールというのは、両者の条件を等しくするためにほどこされるものだが、このばあい武器を解禁してなんでもありにしているぶん、こういうことになるのだ。でも、多少素手の闘技者として肩をもっているぶぶんはあるだろうが、昂昇にいわせるとバキも武器をもっている。これはグローブ競技者と素手の格闘者との比較がわかりやすい。グローブは、たんに拳や相手の顔を守るだけでなく、それじたいで武器になる。質量があるし、拳じたいが大きくなるし、リーチも伸びる。素手では本来難しい軌道である、拳の先端に近いぶぶんをつかったアッパーやフックなどの攻撃も可能になる。素手でいうと掌底が同様の効果を発揮するらしいが、脳の深奥へのダメージという点でいうと、かたい拳よりやわらかいグローブのほうが大きいということもあるようだ。グローブはそれじたいでじゅうぶん武器なのである。だが、そのかわり、グローブは手首から先の変化を防がれている。グローブと素手の対峙では、素手のものにグローブという武器をつけたしたものがグローブの闘技者なのではなく、まったく別のものとなるのだ。これが、対武蔵にかんしてもいえると、昂昇がいっているのはそういうことと考えられる。素手の選手は、帯刀している選手から刀を引いているだけなのではない。両者の到達点はまったく別なのである。昂昇の言い方をそのまま借りれば、刀をもち、その技術を洗練させた彼らは、素手の格闘技者にとってじゅうぶん脅威だが、もし優位性があるとすれば、素手であることそれじたいがもたらすはずの、先端の操作なのだ。

 

 

ハイジャックのたとえは、前回のバキの行動と、それを目撃したカップルの反応ともつながっている。バキが備えている脅威的な技術を、空港のセキュリティーは脅威としては認識しない。これは要するに、通常の世界の秩序では、彼のありようをそのままに噛み砕いて認識する枠組みがないということなのだ。どんな危険も見逃してはいけない空港のゲートでは、たとえば金属のあるなしとか、あるいはカバンを透過して視認する以外のことをしていない。逆にいえばそれで大半の脅威は見抜けるわけである。そうした常識的な視点のうちに、素手でハイジャックが可能なほどの肉体の強さは含まれていない。もし含まれていれば、身長に対する体重の比率が大きすぎるものや拳ダコが大きすぎるもの、背が高すぎるもの、握力が強すぎるものは乗れないことになる。しかしそういう規則はないわけで、一般にはそれほどの強さというものが想定されていないのである。前回、バキのすばやい動きを目撃したカップルは、これを見なかったことにしたが、今回はもう、見えないのである。ハイジャックの例でいうと、あのカップルは、たとえばドアノブを握りつぶすなどして、ハイジャックが可能なほどの強さをバキがもっていることを目撃したのだが、それを理解できず、ただ奇怪なものとして見なかったことにした、という具合である。これが、実は武蔵の到達点と合致している。警察もヤクザも突破した武蔵は、もはや法でしばることのできない領域に達した。ひとを斬る武蔵をとがめることは、もう国内ではできなくなってしまったのだ。かといって、「自由にひとを斬っていいです」という法律ができたわけでもないし、そうするわけにもいかない。日本国の平和を維持しつつ、武蔵ともうまくやるには、世間は武蔵を「見なかったことにする」ほかないのである。

世間から見なかったことにされる点で、武蔵とバキでそのありかたの形状はよく似ているが、こうして見ると微妙に異なったところがある。武蔵もバキも、ともにハイジャック可能な凶器を手にしている。しかし、バキでは金属探知機は鳴らない。つまり、世界からは見えない。武蔵では、彼が通る前に金属探知機のスイッチが切られるか、あるいは反応があったとしても係員が見なかったことにするのである。ともに視野の外にあって、見なかったことにされるものでありながら、バキのばあいはそもそも見えないし、前回のようにそれが超スピードというしかたで表面にあらわれても、世界の認識の外にあるぶん、ただ奇怪なだけで、脅威とは認識されない。しかし武蔵は逆に脅威であるから見なかったことにされるのだ。このあたりのちがいは、そのまま帯刀と素手のちがいが読み替えられたものだ。つまり、もしバキが武蔵に対して優位になることがあるとすれば、こうした点においてなのである。世界の視野の外にあるという点で、両者は似ている。しかし、武蔵が意図的に見なかったことにされているいっぽうで、消えてしまうバキは、認識じたいが難しい。もっとざっくりいってしまいえば、このとき世界の視野の外におかれているものというのは、武蔵では刀それじたいなのである。ところがバキや昂昇のような男たちは、誰もがもっている手足を巧妙に使うことで、刀と等価のものとしている。ブリコルールなのだ。これは、世界の外部から特注の武器をとりよせるものと、世界の枠組みのなかにすでにあるものを創意工夫で武器化するものの対決になるわけである。