すっぴんマスター -45ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『サイレンズ・イン・ザ・ストリート』エイドリアン・マッキンティ ハヤカワ・ミステリ文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

「軍用ヘリが空を駆け、警察署はテロの標的となる。フォークランド紛争の余波でさらなる治安の悪化が懸念される北アイルランドで、切断された死体が発見された。胴体が詰められたスーツケースの出処を探ったショーン警部補は、持ち主だった軍人も何者かに殺されたことを突き止める。ふたつの事件の繋がりを追うショーン。混沌の渦へと足を踏み入れた彼に、謎の組織が接触を図り…新たな局面を見せる紛争×警察小説第二弾」Amazon商品説明より

 

 

 

80年代の北アイルランドを舞台にしたハードボイルド・警察小説、ショーン・ダフィ・シリーズ2作目。第1作『コールド・コールド・グラウンド』を読んだのは去年の3月か・・・。すぐ次のやつを買って、毎日ちょっとずつ、ずっと読んでいたので、1年以上ショーンと暮らしていたことになる。前のもそんな感じの読み方していたような気がするが、もうなんか、ずっとショーンといっしょに行動してきて、些細な感情まで共有してきたので、ツイッターのフォロワーみたいな感じというか、もはやショーンがちょっとした知り合いのような気分にすらなっている。第3作もすぐ買うぞ。

 

 

舞台は同じくベルファストのキャリックファーガス。前回より少し時間がたって1982年ということになっている。アルゼンチンとイギリスのフォークランド紛争の影響が、遠くアイルランドにまで及んで、以前よりさらに治安は悪くなっている。前回巡査部長だったショーン・ダフィは警部補になっていて、相変わらず出かける前に車に爆弾が仕掛けられていないか調べてから出発する日々だ。なんとか同盟とかなんとか軍とかが入り乱れ、いまだにぼくはどの団体がどの主義で、どの程度危険かよくわからないでいるが、出発したらいきなり車が爆発するのが日常の世界と考えればよいだろうか。それから、もともとの北アイルランド紛争として、カソリックとプロテスタントの対立ということもあたまに置いておくといいかもしれない。というのは、アイルランドではプロテスタントが主流であるいっぽう、インテリでもあるショーンはカソリックだからだ。そのあたりの疎外感や、彼が前提としているもろもろの宿命を気持ち的に備えて読むと、緊迫感もリアルになってくる。

 

事件の展開としては、切断されてスーツケースに詰められた謎の人物と軍人射殺事件が、無関係に見えつつ、つながっていくという、ふつうにミステリな内容だ。とはいえ、書いたようにけっこう時間をかけて読んできたので、あまり謎解き的な見方はしてこなかったせいか、途中でなにがなんだかわからなくもなってしまった。けっきょく、ぼくはハードボイルな雰囲気とショーンの日常を主眼に読み進めてきたわけで、その意味では、彼が発見する証拠とかにいっしょにこころ動かされたりできなかったことは悔やまれる。この読み方も、これはこれでありなのだろうが、それは、モンハンをやりながら、アイルーとキノコ狩りに行くことをメインとするようなもので、やっぱりちょっともったいなかったかもしれない。いや、アイルーとキノコ狩りは楽しいんだけど。

 

ハードボイルドな表現は、事物を等価に眺める、一種の形而上学的な視点で成立する。爆発の衝撃や直接的な暴力が、痛みや激情を伴うものとしてあらわれるのではなく、電話のベルや驟雨などと等価に扱われるのだ。この感覚は、実はハードボイルドな日常を送っていない一般人にもあるもので、ぼくは寝不足のときやひどい二日酔いのときにこれを感じる(だから、ひどく疲れているときというのは、クレーマーとかがきても非常に落ち着いて対応することができたりする)。このことが、ハードボイルド小説の主人公たちに「寝不足」や「二日酔い」状態を要請する、というのがぼくの考えである。そして、じっさい、ハードボイルド的な生活をしていると、このふたつの状況というのは実に自然に訪れる。殺し屋に追われて一晩中隠れていたら、飲み屋で出会った美女とワンナイトラブをかましたら、当然のようにそうなるわけである。かくして、ハードボイルド的日常は次のハードボイルド的日常を生んでいく。ここに、本作特殊の事情として、紛争による日常的な暴力ということがある。唐突にやってくる暴力を日常の瑣末な出来事と並列的に語る、だけではない。ショーンにとってみれば、表現であるということをこえて、つまり抽出、もしくは誇張されるまでもなく、事実として暴力は日常なのである。表現として確立する以前から彼の世界は常にハードボイルドであり、哲学者的なものごとを統一的にみる目線がナチュラルに宿ることになるのである。

といっても、ショーンは思慮深いタイプではないかもしれない。かといって脳筋でもないが、もしどちらかに分類しなければならないとすれば、彼は頭脳派というよりは足で解決する人間である。かなりのぶぶん直観にしたがいもするが、あざやかな論理的推理でかたまった結び目をほどくというタイプの刑事ではない。特に前作では顕著だったが、わりと的外れな推理もする。ここに、まだ全貌の見えない、陰謀論的な「大きな力」も加わっているようである。これが、彼をエトランゼにする。第1作ではカソリックであることに加えて赴任して間もないということもあり、この感じは強かった。どことなく「よそもの」であり、それを彼も理解して行動しているのだ。この条件が、彼の身の回りを靄で包むことになる。なにが起こっているのかよくわからないのだ。としたら、手探りで進んでいくほかない。手探りで、手に取ったものをしげしげと眺めてみるしかない。ショーンのハードボイルド的ふるまいは「生活の智恵」でもあったわけである。

だが本作ではショーンのエトランゼ感はやや薄まっている。以前からそうだった同僚のクラビーやマティとの関係が、より親しげになっているからだ。特にクラビーとは上司部下の関係をこえた友情が生まれつつあるようである。そのあたりもたいへんな読みどころであり、ぼくのいちばん好きなポイントだ。

同様にシリーズものとしてみたときにもうひとつ気になる点として、前作で恋人関係になった病理医のローラは物語序盤で退場してしまうのだが、これは、ずっとそうなのかな・・・。医者が近くにいるというのは展開上好都合でもあったとおもうのだけど、ショーンの日常の疎外感を考えると好都合すぎるという判断かもしれない。まあこれから復活するのかもしれないけど。

 

 

3作目は『アイル・ビー・ゴーン』で、密室殺人が題材になるらしく、これは作者のマッキンティが島田荘司の影響を受けて書いたものだということだ。解説も島田荘司が担当している。もはやぼくではショーンの日常をツイッターを追うように読むのが日常になっていることもあり、早めに手に入れておきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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■『日本的革命の哲学』山本七平 祥伝社

 

 

 

 

 

 

 

 

印象的だった大澤真幸『日本史のなぞ』のタネ本になっている、山本七平による名著。当たり前だけど、大澤真幸のものとはぜんぜんちがう本だった。

 

なにが書かれているかというと、鎌倉幕府第三代執権・北条泰時と、彼がかたちにした御成敗式目である。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で小栗旬がやっている義時は泰時の父。泰時が、日本では生まれにくい最初でおそらく最後の「革命家」だった、というのが基本的な前提だ。一般に「革命」という語がもっている使いやすさを考えると、意外な感じもするかもしれない。たとえば織田信長とかは革命家の名がふさわしい感じがするし、じっさい当時の人間がおもいもよらないことをやってのけたろう。人物に関係しなくても、たとえば明治維新や敗戦なんかで、日本社会は大きく変わった。それらは革命ではないのか? ここでいう「革命」とは、外部からの強制や要請に応じるかたちで実現するもののことではなく、内発的に、内部の成員の手によって行われるもののことなのだ。この意味で、朝廷を打倒した泰時(義時)は革命家であり、それまでの中国由来の律令的思考法から脱してはじめて式目という固有法を泰時が打ち立てたことは、革命であるのだ。

 

大澤真幸は社会学者であるので、ここから「ではどうして日本では革命が起こりにくいのか」というはなしになっていくが、山本七平では具体的な条文に触れていく歴史的な検証のような内容になっている。条文をきっちり原文で引用し、孟子や申命記など引き合いに出しながら、それがどのあたり斬新であるか、また現代日本にどのように接続しているものか、禁欲的に、ひとつひとつ順番にあたっていく。読むうえで体力のいる本ではあったが、おもしろかった。山本七平は、ぼくにとって『「空気」の研究』や『一下級将校の見た帝国陸軍』のひとであり、むしろ社会学的なものに近い「原理のひと」という印象だったが、それ以前にすさまじい読書量に裏打ちされた「歴史のひと」でもあったのだ。とりわけ中盤はそうした検証に注力しているということもあって、前半と最終部に見える、引用の少ないぶぶんの影がうすくもなるが、『「空気」の研究』などから入った読者は第一章、第二章、それに最終章だけでも読むといいかもしれない。ぼくも正直勉強不足で書かれていることすべてにすんなり納得できたわけではなかったし、原文をしっかり読むのがしんどくてかなり読み飛ばしてしまった。

 

 

泰時には明恵上人という、精神的よすがというか、仏教的なブレインみたいなひとがおり、このひとの「自然的秩序(ナチュラルオーダー)」の発想が、式目成立には大きな役割を果たしている。それは、日本国を「国土身」という肉体をもった、一個の人格と見るような立場だ(166頁~)。国家がひとりの人間であるなら、そこには自然の調和があるはずである。そうした予定調和的なあるべき姿のようなもの、ことに及んでも適切な判断が行われれば、またいまでいえば良心にしたがうかたちで誠実な判定をくだすのであればつねに正しい結果をうることになるであろうもの、これが自然的秩序を背景にもった国の姿なのである。また、式目は同時に武家法にほかならないものでもあり、これが現代日本の組織モデルに接続する発想であり、アメリカのようにわざわざ軍隊的な組織構造を持ち込むまでもなくすでに企業がそうであるという状況を日本にもたらしたというのもおもしろい(438頁)。武家法、もしくは武家をそのようにさせるものとはなにかというところでは、功績が地位に転化するという原則が上げられて、これは要するに豊臣秀吉のような生き方である。これはメリットクラシー、能力主義といえば聞こえはいいが、中根千枝の「タテ社会」にも連なる日本独特の制度と考えてよいようだ。日本が能力主義といわれても、ちょっと首をかしげてしまうが、それは、軍隊的秩序を後天的に企業に持ち込んでいる西欧と比較するからだろう。いまでも日常生活で異様な能力信仰を目にすることはある。能力や実績が、そのひとの悪名を帳消しにするかのようにとらえてしまうぶぶんすらある。

最後にわずかに、日本では裁判より示談が好まれるというはなしが出てくるが、これは、背後に法以前の自然的秩序があったうえであらわれてきたふるまいだった。すべての人間が自然的秩序にしたがって誠実に暮らしていたら法律など必要がないのである。

 

 

本書を読みつつ『日本史のなぞ』のことも考えていて、ときどきあたまによぎったのは、企業の監査というものである。監査は英語でaudit、会計がきちんと行われているのか、横で聴いているひとというのが原義になる。そのいっぽうで、折口信夫は天皇を「きこしをすもの」とした。大澤真幸ではこのことが日本での革命の起こりにくさとつながっていく。ただ「聴く」だけの天皇が形式上の最終的意志決定者となることで、「決定」という行為はすでにあることをただ追認するだけの空虚なものになる。最後の決定という身振りが様式的なものを出ない以上、革命は起こらないのである。このことと、特に中小企業の監査というものがとても似ているようにおもわれるのだ。ぼくの経験が未熟なせいもあるだろうが、ぼくは「監査」と聴いても、「決算のときにくるなにしてんだかよくわかんないひと」みたいなイメージしかないわけである。多くの中小企業が変わりにくいのは、ひょっとするとここに天皇のモデルを無意識に見ているせいなのではないかと、こんなふうに直観するわけだ(大企業だとぼこぼこ外部から人間が入ってくるので、こういうはなしにはあまりならないかもしれない)。

もしそうだとすると、ある種の組織では武家法的な秩序と天皇的なアンタッチャブルの領域が並存していることになる。山本七平も本書で、天皇家が武家法の原則から逃れるものとして考えている。承久の乱を乗り越えた北条の革命だが、それが引き継がれた日本の世では天皇的なものを頭上におく世界観を超越することはなかったのだ。しかし、では小さな会社で革命はどのようにして起こりうるのかというと、ここでヒントになるものといえばやはり自然的秩序ということになるだろう。内心の秩序が先立ち、それが社会の秩序に一致すれば、そもそも法律も不要である。ところが、現実には社会の秩序が先にあらわれうる、こういうはなしなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第123話/悪い奴

 

 

 

 

勇次郎がのしのし街を歩いている。この流れだと、前回ジャックが、ファイターたちに必死さが欠けているみたいなはなしをしたとき最後に出てきたシルエット、あれは見たまま勇次郎ということでよさそうだ。じっさいに武蔵っぽい流れでもあったということもあるけど、勇次郎風のシルエットで人間じゃねえからの夜叉猿という前例を経験しているものは、ああいう描写に慎重になってしまうのですよね。

 

 

勇次郎がこうして街を歩いている描写は案外多いんだけど、むかしは米軍にヘリ飛ばさせたり車運転させたりしてたのが、どういう心境の変化なのかな。親子喧嘩後、有名になってしまって、似合わないサングラスとかしたりもしてたけど、そういう周囲の反応がこれまでの人生にはなかったので、こころのどこかではまたあの感じになるのを期待しているのかもしれない。

勇次郎のばあいはそうでなくても注目を集める。ただ歩いているだけなのに、誰もが振り返って二度見する。巨体ではあるけど、2メートルを超えるようなものでもない。たぶん190センチくらいだ。そのくらいのひとだったら現代では日本人でもそう珍しいものではない。だから、注目されるのは大きいからではない。頑強な「顎」、巨木のような「頸(くび)」、巨大な「肩」、鎧のような「胸筋」、鋼鉄の鞭を束ねたような「腕」、こういう細部の要素ひとつひとつが異様であり、何者なのかとおもわせる風情を生んでいるのである。

 

ここで勇次郎の下半身への言及がないのは理由があるのかもしれない。光成邸にはひとりの脚の太い男がきている。光成とはすでに知り合いのようだ。ワイルド系の、しかしどこかひとのよさそうな雰囲気のある四角い感じの男だ。光成は彼を蹴速と呼ぶ。那須の大岩、九尾の狐で知られるあの殺生石が割れた件で、光成はすぐ蹴速のしわざだとわかったというのだ。この流れは、よくわからない。なぜ光成は殺生石と蹴速を結びつけたのか。

蹴速は言い訳があるとする。殺生石は悪い奴だったと。内部から毒を吐いてまわりの生き物を殺してしまう。

光成は一拍あけて、どうやって割ったのかという。もちろん蹴りだ。ひと蹴りだという。蹴ったということに光成は驚いており、いっそうわからない。とするなら、割れ口や割れかたから推測して「これは蹴速のしわざだ」と考えたわけではないことになる。じゃあどこからこの件と蹴速を結びつけたのか。

 

蹴速が外に気配を感じる。空間が歪んでいる。ふすまを開けて現れるのは勇次郎である。

 

 

 

つづく。

 

 

 

この手の登場シーンでありがちな、ぴりぴりした様子は勇次郎にはない。ふつうに光成のところに遊びにきたか、あるいは光成と同じように、殺生石の割れからなにか強者の存在を感知してやってきたのかもしれない。

 

蹴速は「蹴速」という名前にプライドをもっているようであり、だからこそ蹴りで岩を割ったという。まだ断定はできないが、この種のプライドは出自について宿りがちであって、これは自称ではなく、ふつうに当麻蹴速の末裔と考えてよさそうだ。これはけっこううれしいぞ。宿禰が代々受け継がれ、また探索されてきたものだとしたら、当麻蹴速側にもそれに対抗しようとする意志が生じて、それが引き継がれていったとしても不思議はないわけで、大岩を割る彼はホンモノと考えてまちがいないだろう。宿禰も、たしか血統ではなかったようにおもうが、この引継ぎのしかたはそのまま意志の継承ということでもあったので、それなら敗者である蹴速のほうが存続の意志が強くても不思議はなかったはずなのだ。

 

光成の反応だが、彼らがもともとの知り合いだったことを考えれば、説明できないこともない。描写のままだと、殺生石が割れて、その「割れた」というじたいそのものからピンときたかのようなのだが、そうではなく、たとえば蹴速は何日か前に光成に那須に行くというようなはなしをしていたのである。それ以外に光成が「ピンと」くる理由はない。割れかたなどから蹴速が連想されたということはない。ひと蹴りで割ったときいてひどく驚いているからだ。蹴速でなければ割れないというほどのものでもない。誰でもできることではないだろうが、これができるものは少なくとも5人くらいは光成のまわりにいるだろう。ざっと調べてみたところでは「当麻蹴速」というアイコンと殺生石とのつながりも特にない。とするなら、ちょうど近くに蹴速が出かけていた、あるいは住んでいたか、あるいはこういうようなことをすると事前ににおわせていたか、それしかないのである。

そう考えると、やはり光成と蹴速はもともとけっこう知り合いだったことになる。宿禰関連の調査の過程で知り合ったのかもしれない。光成をスポンサーにして、歴史的ライバルである宿禰が活躍しているのを、彼はどう見ていたのだろう。

いまのところは、蹴速の蹴速としての存在意義というか、端的にいって宿禰への復讐心みたいなものがあるのかないのか、そういうことはさっぱりわからない。ふつうに考えるとたぶんないだろう。いつのはなしをしているのかということだからだ。だから、感情的なものがあるとすれば、復讐心というよりは、アイデンティティの確立とか、そういうはなしになるかもしれない。というのは、蹴速がどんなに強くても、「宿禰に負けた人物の継承者」というような前提事項は変わらないからだ。その意味で、もし彼に宿禰に対して挑戦しようという意欲があるとするなら、いちど敗者の姿を経由しなければ存在が認識されないというその事実に原因があるとおもわれるのである。これはジャックの動機とも似ているぶぶんがある。ジャックもまた、長い間、じしんの本質が評価される場所というものをもたなかった。母親が勇次郎に暴行を受けた結果生まれたのがじぶんであるという歴史がまずあって、ジャックはその事実を隠し、必然的に失われる評価のものさしを自分自身で設定するほかなかったために、あのようなストイックなファイターになったのである。ただたんに強いとか弱いとか判定される場所があるかないか、という問題ではない。ジャックは勇次郎の息子である。バキが生まれたときからもっていたようなそういう条件、「勇次郎の息子なのに弱い」「勇次郎の息子だから強い」といった、ある種不純な評価軸が、彼にはなかったのだ。これは、彼が勇次郎の息子であるという事実がただ知れ渡るだけでは確立しない。彼自身が、これまで自衛的に内面化して育んできた自己練磨の精神を保留し、第三者的評価を素直に受け取れるよう成長しなければならなかった。宿禰戦のあとの、歓声を受け取るあの描写は、それが達成されたことを意味したとおもわれる。

これを含むと、蹴速とジャックは、評価の方向がそれぞれ逆向きに不十分であったと考えられる。蹴速は、「宿禰に負けたものの末裔」という前提が、彼の評価を不透明にする。ジャックは逆に、当然含まれるべき「勇次郎の息子」という情報を欠いたまま、不十分な状況で強弱を競うことになっていた。いずれにせよ、ともにのびのびと強さを競うような環境からは遠く、本質情報、本人がどうあがいても変えることのできないものに挑戦するという点で一致するぶぶんがあるようにおもわれるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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第51審/愚者の偶像②




新シリーズ「愚者の偶像」、新しい登場人物は門脇数馬と音羽千歌。1年前の時点で数馬は俳優志望、千歌は歌手志望だった。いまは彼らの心境はどのようなものか、数馬はサパークラブでからだを張ったギャグを行い、千歌は20万で小山と愛人契約をしている。九条たちを連れて店に向かった小山が、女の子を呼ぶ役目こみで千歌を呼び、その店にはたまたま数馬がいて、ふたりが遭遇した感じだ。

それが気に喰わない小山は瓶で数馬を殴る。小山が高いその酒を飲むようにいうのに数馬は威勢よく抵抗するが、なにしろかっこうが変態仮面みたいなのでいかにも迫力がない。そこに店の責任者らしきひとが出てきて、大物の小山に土下座して謝り、数馬はしかたなく、涙を流しながら酒を飲み、吐いてぶっ倒れるのだった。

千歌は小山をとめようとしたし、なんでこんなことするのかと問いもするが、通して無表情で、なにを感じているのかはよくわからない。小山は嫉妬でこういうことをするのだと、異様な正直さでいう。ただで千歌とやれる若いイケメンはじぶんにないものをもっていて、しかもその自覚がないと。ふつう、こういう、乗り越えることが困難なコンプレックスとか嫉妬は、言葉にしてしまうのをためらうものだが、小山はじぶんが金と地位でそれを圧倒しているという確信があるからいえるのだろう。


小山と車で去っていく千歌をうずくまって見送る数馬。なぜかそのそばには壬生が残っている。タクシーを待っているのだ。
それとは別に、壬生は数馬に興味があるようだ。たいがいのものは恥の感覚に縛られているから、笑われることを率先してやるのは勇気がいると、どこまで本音だか、とにかくほめる。なぜあそこで働いているのかと聴かれて、数馬は事情を話す。役者を目指していたが失敗して借金ができたと。失敗も気になるが、どういう経緯で借金ができたかも気になるところだ。
彼が役者を目指すきっかけは中学の文化祭で主演したことだ。なにかに選ばれたことがうれしい。だがもっともうれしかったのは、妹が喜んでくれたことだと。それをきいて壬生は破顔しているので、案外ここまではふつうに雑談してるだけなのかも。その妹は、生まれつきからだが弱く、入院と自宅療養をくりかえしているという。
いまの数馬はとにかく金がほしい、金を稼ぎたいんだということに気が付いた感じだ。そこで壬生は、なぜ金持ちは金持ちアピールするかわかるかと問う。ひとは金と影響力を崇拝してひざまずくからだ。本気で金持ちになりたいのかと、壬生が見開きで問いかける。まず100万貯めて、それができたら電話しろと、ふたりは連絡先を交換するのだった。
去り際になにをしているひとなのかを訊ねて、壬生が自動車整備工場だと応えたものだから、数馬はゆるむが、そのあとに誰か店の上のひとと話して、壬生が大物だと知る。だいたい、じぶんの勤務先のオーナーである。近辺にいくつも飲み屋やラウンジを経営していると。


そのあと数馬は、どうも千歌の家の前らしきところでタバコを吸いながら彼女を待っている。ということは、やはり別れてはいない・・・?でもあの感じはけっこう久しぶりっぽかったよな。合鍵もなさそうだし、別れたにしても納得してないか、自然消滅的に数ヶ月会ってなかった程度のことなのかもしれない。
帰途、数馬は母親に電話する。しばらく仕送りできないと。お金を貯めるからだ。妹は数恵という。母親は、心配しなくていいといってくれた。そして数馬は必ず100万貯めるという決意のメッセージを壬生に送るのだった。




つづく。



壬生は数馬からのメッセージを九条のそばで受け取っていて、どうしたか聞かれているが、なんでもないと応えている。数馬のことは九条も見てはいるわけである。「いや、昨晩の飲み屋で花火やってた若者と連絡先を交換したんですよ」くらいのはなしがあってもよいところである。となると、これはなにかたくらんでいるのかもしれない。
このメッセージで数馬は、今月中に100万貯めると、みずからハードルを上げている。壬生は別に時期の指定はしなかったし、貯めることができたのなら、これから彼が示す金を稼ぐためのなにかもできるだろうみたいなはなしなわけである。数馬なりにやる気を見せようということなのかもしれない。
壬生がなにをたくらんでいるか、という言い方が悪ければ、どうやって数馬に金を稼がせようとしているかというとわからないが、数馬のような人材は、案外壬生のまわりにはいないのかもしれない。コワモテばっかりで、イケメンがいてもみんな刺青がっつりで真っ黒に日焼けしているだろう。丑嶋にとっての高田はこういう意味で貴重だったが(「高田みたいな取立て」はほかの誰にもできなかった)、そういう、ふつうに雇って仕事させるみたいな稼がせ方ではないのだろうなとはおもう。たぶん、楽園くん路線だろうな。


数馬には数恵という、からだの弱い妹がいる。役者を目指したのは、その妹が喜んでくれたからだという。そして、夢破れ、けっきょくお金だという悟りを開いても、やはり彼のあたまには妹がある。だいたい、借金をしていまの仕事をしている数馬だが、それでもこれまで仕送りはしていたらしい。それをやめるというはなしで、母親がすぐ妹のはなしを出していることからしても、ここのところの原動力にも妹があるとみてまちがいない。妹が喜ぶから役者になりたい、妹が苦しいおもいをしているから、少しでもそれを安らげるためにお金を稼ぎたい、こういうふうに、彼の行動は制限されているのである。
妹、それもからだが弱い、「守るべき存在」が彼にもたらしているものは大きく、それは千歌との関係性にもあらわれており、彼は、夢をあきらめつつある彼女を応援するのではなく、養うという方向性で、同居を持ちかけていた。弱いものをみるとつい無理してでも守ってしまう、そういうタイプの人間なのだ。守るものが多い人間は悪いものには好都合でもある。壬生はそのあたりを見抜いたのかもしれない。
数馬は優しいのだろう。しかし、優しいことがいつもの本人によいことばかりをもたらすわけでもない。弱い妹がいることは彼に「優しくふるまうこと」を自明にさせ、相手を気遣うふるまいは彼が彼であることを確認させる行為として内面化されているのかもしれない。そうすると、彼は次に相手に弱くいてもらうよう願い、また「優しくふるまう相手」を探すようになる。弱いものが強いものに依存するように、その反作用のようにして、強いものは弱いものに依存するのである。前回書いたように、こうした依存関係は原則的に硬直している。ひとの強さ弱さは本質的な属性ではない。ただ、なにかと比べたときにあらわになるだけの性質だ。しかし関係性に依存するものは、それを保存しようとどこかで努めてしまうだろう。
以上のことはただの想像で、まだ物語はぜんぜん動き出していない。ふたりが別れた理由はなにか、そして壬生はなにをたくらんでいるか、これが見えて、はじめて読解が可能になる感じだ。ただ、もし「妹」、もしくは「弱いもの」がいま想像しているようなキーワードになるようなら、前回の「娘」同様、興味深い展開になるんじゃないかなとはおもう。


壬生が金持ちアピールのことを説明するくだりはおもしろかった。彼のいうとおり、小山なんかは金があることをおおっぴらにいうことができるから、若さに嫉妬していることをあんなにはっきりということができる。嫉妬してるけど、でもむりやり酒を飲ませていじめることができるのだ。そして、そういうことができるという事実をみて、また金を崇拝するものたちが集まってくる。だが壬生はどうだろう。壬生は、ああいう提案をするので、少し考えたら「お金があるんだな」というふうにおもわれるところだが、小山のように露骨なアピールはしていない。最終的には自動車整備の人間だといって数馬を拍子抜けさせているくらいなのだ。ではなぜ彼は露骨な金持ちアピールをしないのかというと、それ以外の強みがあるからである。もちろん暴力のことだ。つまり、壬生はすでに数馬にヒントを与えているわけだ。金をもっているのにそのアピールをしない人間は、そもそも他人からの承認を求めていないか、ほかに認められるポイントがあるか、どちらかということになるからだ。もちろん前者の可能性もあるが、「稼ぐ」ことに積極的であることを壬生は否定せず、むしろやる気があるなら連絡しろというはなしなわけである。「金持ちになりたいんだったら手伝うよ」ということをいう程度には、壬生は裕福さによる自己確立を認めているのだ。つまり、この時点で数馬は壬生が「金以外に強みがある人間」であることを原理的に見抜けるわけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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■『詩人・菅原道真』大岡信 岩波文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

「日本の文化伝統のなかには「うつしの美学」がきわめて深い根拠をもって生きている。「うつし」とは「移し」。すなわち、あるものを別のものに成り入らせ、その動勢と調和に美を見出す精神の活動である。菅原道真の詩は、その「うつし」が生んだ、最もめざましい古代的実例であった。和歌の詩情を述志の漢詩に詠んだ詩人を論じる。(解説=蜂飼 耳)」Amazon商品説明より

 

 

 

 

ちょうど1年くらい前、NHKのカルチャーラジオ『文学の世界』で、荒川洋治がやっていたシリーズ「新しい読書の世界」で紹介されていたもの。

 

菅原道真といわれてもぼくは「学問の神様」だとか「天神さま」だとか、あとは大宰府に左遷されて雷の祟りを起こすようになったとか、そこから雷に対しては道真の領地で落雷がなかったという「桑原」を唱えるようになったとかいう、部分的なイメージしかなく、けっきょくなにものなのかよく知らなかったのだが、文章博士(もんじょうはかせ)の家系から政治の中枢部にまでのぼりつめた学者ドリームみたいな人物である。文章博士というのは紀伝道の教官で、これは歴史や文学をあつかう教科となる。複数のエピソードがぼくのおぼろな意識の内にも残っていることが示すように、多方面で活躍した、才気煥発な、知性の権化みたいな人物である。

 

本書は、そのなかでもとりわけて詩人(漢詩人)としての菅原道真について考えたもので、書き手は本人も詩人であるあの大岡信であり、大岡信‐菅原道真という二層にわたって画期的な一冊となっている。というのは、この二者がともに、それまで誰もやってこなかったことをやっているからだ。

まずは、詩人としての菅原道真に着目した本が、本書が出るまではほとんどなかった、ということである。厳密にいえば、文中でもたびたび名前が出てくる川口久雄氏の研究からは、大岡信の専門が漢詩ではないということもあって(現代詩)、大きな影響を受けているし、「はじめに」のぶぶんで例外としてあげてもいる。だが、菅原道真がぼくでも知っている歴史的偉人であることも合わせてみれば、その人物の、しかも優れた漢詩作が、一般の読者にはまったく知られてこなかったというのはなかなか奇妙でもあり、大岡信は紀貫之の研究の過程でここに注目するようになり、本書が成立したという運びである。

 

詩人としての菅原道真のなにが画期的かというと、ごくかんたんにいって、主観的な和歌の感性に、漢詩の客観性を持ち込んだのである。

キーワードになるのは「述志」「直情」、そして「うつし」といったところだ。

「うつし」は、副題の「うつしの美学」にあるように、本書に通奏する基本概念である。これらは「写す」「映す」などの漢字があてはまるが、原義的には「移す」があって、これが転じたということのようだ。もちろんこれは、あるものを、ある場所から別の場所へ動かすことなのだが、その「あるもの」は、物体であったり、ひとの気持ちのようなつかみどころのないものだったりもする。もっとも重要なところで、古代では色や香りをうつすという考えかたもあった。「はじめに」で展開されるこの前提的なぶぶんで印象的なのは露草である。露草は、これを染料として利用したとき、「移花(うつしばな)」と呼ばれた。これはすぐ消えてしまうので染料としての価値はあまりないのだが、消えることによって、下書きに利用することができたのだ。移花は、媒体であると同時に、ここでは「もう一段高次のもの」に融け入るものとなる。これが「うつし」の基本イメージになる。菅原道真は、この日本語の「うつし」という本質的美点を行使し、漢語と大和ことばを、漢詩と和歌を融和させたのである。

万葉集でもなんでも、一般に和歌というものを思い浮かべると、歌われている(歌っている)主体が「誰」なのか、ほぼわからない。作者なのか、作者が仮構した誰でもない誰かなのか、男なのか女なのかさえわからず、ただ情念だけが自律しているようなこともある。これを著者は、独断的仮設と断ったうえで、大和ことばの構造的特質とする(76頁)。詩歌の余情はむしろここから生じるものであるが、そのぶん客観性を伴った「述志」には不向きだった。漢詩はこれを実現できる。

 

 

 

「和歌は究極のところ、「人間」を示すよりは「気分」そのものを示そうとします。これに反して、漢詩は、「気分」よりは、それをそのような気分としてあらしめている諸条件を背負った「人間」そのものを示します。そのため、後者にあってはすべての描写が「事実」の積み重ねを当然のこととして伴い、修辞の力はあげてそれを成功させるために動員されます。それがほとんど不可避的に虚構と誇張を含むことになるのは、詩が詩である以上、それが伝えようとしている最も重要なものは情緒であって、単なる事実報告ではないことによる逆説であるのは言うまでもありません」74頁

 

 

 

『新撰万葉集』は菅原道真の手による撰とされているが(よくはわからないらしい)ここでは和歌のそばに同一の状況を描いた漢詩が添えられており、そこではまったく異なる言語間での情緒の「うつし」が行われ、たがいが相対化されるということが起こっていたのだ。

『寒早十首』という作品集では、讃岐守に赴任して目撃した地域の貧困を、職業別に描き分けるということを行った。荒川洋治はラジオでこれを「リアリズム」だといっていた。そういったほうが、なにがすごいのかよくわかるかもしれない。そして、和歌の時代にこれができたというのは、そこに漢詩的な素養があって、じしんのありかたが相対化されていたからでもあるのだろう。というのは、リアリズムはリアリズムでも、貧しい庶民を同情とともに眺めるときには、「直情」も欠くことはできないからだ。「うつし」を和歌と漢詩のあいだで体現していた菅原道真ならではの、唯一無二の方法だったのである。

 

直情と述志は結びつくことはできるのか。そういう問題意識が菅原道真にあったということではおそらくないのだろうが、結果として道真はそこを掘り下げていくほかなかったものとおもわれる。大宰府に左遷されたのちの彼には、「詩」しかなかった。文字通りそれしかなかったようである。そして、詩を通じて、そう世代も違わない白楽天や元稹と語り合っていた。しかし、彼は知識のひとであり、政治家でもある。いってみれば彼の意識は強い「公」の意識によって保たれていたのだ。このことが、和歌の直情のなかに沈潜することを選ばせなかったのかもしれない。これが、客観的で叙事的な漢詩文を通じて直情を表現するという、芸術的な極地に彼を導いたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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