『日本史のなぞ』大澤真幸 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『日本史のなぞ』大澤真幸 朝日新書

 

 

 

 

 
 

「革命とは無縁と思われる日本にも、歴史上、ただ一人、革命家とみなしうる人物がいた―。それは誰か?日本史のなぞを足がかりに、中国の易姓革命、イエス・キリストの革命との比較考察を通じて、社会を変える真因に迫る、知的興奮に満ちた思考の記録」Amazon商品説明より
 
 
 
 

 

 

以前群像の新人賞のこのひとの選評を読んだときは、教養主義的な感じがちょっとこわいくらいのように感じたけど、案外そうでもないのかな。歴史と社会学ということで、馴染み深いようであまり馴染みのないジャンルなので、新書とはいえ少し大人になった気分で手にしたのだけど、するする読めた。おもしろかったです。まあ、たしかに表面的には硬い感じのする文体なんだけど、慣れると別にそういうことはないということがわかってくる。学者っぽい論文調のものももちろん書けるけど、一般向けの読みものも、同様のテンションを保ちつつ書き上げることに慣れている感じがする。おもえば僕が記憶しているのは新人の批評家についての選評だったわけで、そりゃまあ、厳しい口調にもなろうというものだ。

 

 

実は社会学といわれても僕じしんはなんのことかよくわかっていない、アバウトな理解で、以前うちのブログをあるかたに紹介していただいたときも、ウシジマくんの社会学的な分析をしているブログ、というような評言を添えてもらいながら、社会学ってなんだろうというような状況だった。それで、最近ちょうどちくま新書から『社会学講義』という初心者向けのいい感じの共著が出ていたから、これを読みすすめてもいたのだけど、このなかの2章をこの大澤真幸というひとが担当されているのである。ときどき衝動的になにか手ごろな新書を読みたくなることがあって、新書の売り場をうろうろするのだが、そこでその名前が目に入り、手にした次第である。(結果としては社会学講義より先に読み終わってしまった)

 

 

 

構成のしかたが読者を強く引っ張るもので、まず、日本には革命家というものがいない、というふうにはじまる。革命の定義は、社会の基本的な構造がまったくかわってしまうような社会変動で、それもそこに属したメンバーが意図的に起こしたものでなければならないということである。日本に革命があったかどうかなんて考えたこともなかったし、そもそも革命という言葉も、個人のパラダイムシフトくらいの意味でもかんたんにつかってしまうもので、ひょっとしたらそういうところにすでに日本人と革命の無意識的な関係性が浮かび上がっているのかもしれない。

しかしそういうことをいうと、当然いくつかの反論が想定される。いや、織田信長は?後醍醐天皇は?大化の改新や明治維新は?終戦は?という具合に、革命、あるいは革命家候補というのは素人でもすぐにいくつか浮かんでくる。本書ではまず冒頭で、こうしたすぐに思いつく候補がなぜそう呼べないかを示していく。たとえば、大幅に日本のありかたを変えたと考えられる大化の改新や明治維新は、中国や黒船といった外部の脅威に対してやむを得ずとられた一種の反射であって、内発的なものとはみなせない。織田信長も、身にまとうエピソードや伝えられている野望など、いかにも革命家と呼ぶにふさわしい人物ではあるが、しかし彼は志なかばで明智光秀に裏切られて亡くなっている。そして、その裏切り、端的に彼が革命を達成できなかったことも、明智光秀の恣意的な謀反によるだけではなく、ある意味では必然であったともいう。日本では信長型のリーダーが部下からの忠誠を維持することはできないのである。

というようなわけで、一見すると日本には革命家がいないとおもわれる。しかし、ひとりだけ革命に成功した人物がいる。それが、鎌倉幕府第三代執権・北条泰時であると、このようにスリリングな設定を経て、論考ははじまっていく。高校の日本史の授業をほとんどさぼっていたような僕では、北条と聞いても戦国無双に出てくるチョイワルな氏康しか出てこないし、誰それという感じだが、歴史のテスト勉強的な言い方をすれば、御成敗式目(貞永式目)を制定したひとだ。そしてこれは、日本ではじめて固有法だったのである。それ以前の日本にも法はあったが、それは継受法といって、他国の、というか中国の律令を輸入して、それを変化させてつかってきたのだ。日本において独自に法が構想されたのはこれが最初なのである。それに加えて、御成敗式目に至る承久の乱においては、武士と朝廷がはじめて衝突し、そして武士が勝利することになった。それまでも、武士が皇室の誰かとたたかったことはあったが、どの場合も、朝廷において生じた分裂が原因であって、武士はいっぽうにつくことでたほうと衝突することになっていたというだけなのである。そういうわけではなく、朝廷を全面的に相手どり、しかも勝利したのは、承久の乱がはじめてのことだったのだ。

 

 

いってみればここまでが導入である。本書において重要なことは、日本史上唯一の革命化は北条泰時である、と指摘することではない。あとがきに至るまでその問題意識はあまり表面化しないが、著者は社会学者である。つまり、まず日本では革命が起きにくいという経験的事実がある。しかし、まったくなかったわけではない。わずかに一例ではあるが、それでもなしとげたものがいる。ということは不可能ではないということである。問題は、泰時においてはなにが特異であるのか、そして、特異な場合を含めても、なぜそれほどまで革命が難しいのか、それをほどいていくことなのだ。中国における革命と西洋における革命を分析し、それと比較していくことで、日本においてはなにが異なっているのかを見出していくのだが、それも、歴史的な研究というようなものではない。そこに、社会学者として論理を見出すことで、平方根をとるように、これを身近な、わたしたちの問題にしていくのである。

ぜんたいとしては山本七平の『日本的革命の哲学』にかなりのぶぶん負っているようだが、それでも、かかわる研究者の発言や著書を縦横無尽に引いていくので、とても短くまとめることなどできない。であるから、細かいところを割愛して書くと、鍵となるのはやはり「天皇」である。革命について考えようとすると、日本人にとって天皇とはなんなのかという、これもまた、誰もが考えそうで直面を回避しているかのような日常的事態につきあたるのである。中国や西洋の革命においては、乱暴にいえば、社会の外部にある「例外的な一者」の意志によってそれが起こる。中国の易姓革命においてそれは「天」であり、西洋では「唯一神」であると。このあたりも非常に細かい分析があって、それもおもしろいのだが、ともかく、こうした比較を経て、内発的な革命というものは、成員の意志が、そもそもその構造が成り立つときに先天的に存在しているなにか大きなものの意志として解釈されたとき、具現されるのである。日本でこのポジションを占めるのは天皇であることはまちがいない。天皇の役割とはなんであったか。本書では折口信夫を経て、「きこしをす」ものであるとする。天皇それじたいはなにもしない。ただ存在しているだけである。しかしそのそばでじっさいに舵をとっている重臣は、天皇に追認を求める。要するに、これでいいですかと訊ねることになる。天皇にはそれを判断するちからはない。ときによっては権利さえない。だから、ふるまいとしてはそこにはなんの意味もないようにおもわれる。だがそうなる。そうすることにはなんの理由があるのか。ここでふたたび他国との比較にもどると、中国の「天」などと対置したとき、しかし天皇は外在的なものであると同時に肉体をもった人間でもある。政治的な決定をする際に経由しなければならない外在的な性質をもちながら、同時にシステム内的なただの人間でもある。このとき、「社会システムをある意志によって主体化する『決定』の操作が、『すでにあること』『与えられたこと』をただ追認するという空虚な身振りへと転換する(148頁)」。形状として「天命」として働きながら、すでにあることの追認しか行われない以上、革命は起こりようがないのである。

 

 

意図してやっているのかどうか不明だが、たとえば冒頭の「日本では革命が起きにくい、しかしひとりだけそれを達成したものがいる」というようなぶぶんにしても、推理小説ばりにあおりにあおって引っ張りまくっている。後半でも、なぜ日本では革命が起きにくいのか、逆になぜ泰時はなしえたのかという問いに対応するものはなかなか出てこない。こうしたところが、著者が一般向けの本を書きなれていると感じたところだ。北条泰時は日本最初の固定法である御成敗式目を定め、六波羅探題を設置して朝廷(に敬意を払いつつも)とある面対等になりました、その意味では革命家なのです、というような説明をしても、読者はそんなに衝撃を受けないだろうし、すぐ忘れてしまうだろうし、だいたい僕みたいな飽きっぽく無学な人間は、六波羅探題とかいうまがまがしい単語が出てきた時点でアウゥとなってしまうだろう。推理小説では、「謎」の設定が非常に重要である。いくら仕掛けられているトリックが壮大であっても、謎が凡庸では価値も半減してしまう。そういう意味では、最近読んだものでは「バイエルの謎」とかもそうだったが、読者を引き込む謎の設定に非常に優れているのである。だから、歴史にうとい僕みたいなものも引き込まれて読んでしまうし、最後まで勉強させられてしまうのだ。それもまた、印象のうすい北条泰時などという人物を引っ張り出しながらそれを手掛かりに日本のありかたを解き明かし、「わたしたちの問題」にまでしようとしてしまう社会学者にとっては必要なテクニックなのかもしれない。

 

 

特に第3章あたりは、新書という形式もあるし、単純に紙数が足りないという問題もあってか、まだ語り足りないという感じがある。もっとくわしく読みたいという感じがあるのだ。というのも、どうもこの日本的な革命についての研究は、著者にとってまだはじまったばかりのところのもののようなのだ。もっと教養主義的で難しい感じのひとかとおもっていた反動もあるとおもうが、想像していたよりもずっと明快でわかりやすく、それが社会学なのだといえばそれまでだが、ひとつの場所にとどまらず、つかえるものは知識であれ思考法であれなんでも用いる、というある種の探偵的なアプローチは知的興奮を誘うものだった。とりあえずは共著の「社会学講義」を読みきることが先だが、ほかの著書も読んでみたい。