すっぴんマスター -46ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第50審/愚者の偶像①

 

 

 

 

前回の「事件の真相」で九条が司法への疑いのまなざしを見せたところで新章開始だ!嵐山の独自調査も犬飼も、着地しないままだが、ずっとこんな感じなので、いまはまだ種をまいている段階なのかもしれない。

 

弁護士バッジを投げながら、九条が烏丸を連れて夜の街を行く。連日京極の紹介する社長たちとの会食で高くて予約がとれない店ばかり行っているらしい。京極は、小山もそうだが、スネに傷のある社長連中と九条を仲介するというはなしだったので、そのはなしにふつうにのっているということだろう。烏丸は現実的にこの際だから着手金一律33万をやめてはどうかというが、そこはゆずらないようだ。

以前話していて買収もうまくいったらしい。今日は小山といっしょだ。烏丸は以前の職場でM&Aの専門部署にいたというから、この手のはなしは得意でもあるようだ。このとき、第1審で出てきた日本一のたこ焼き屋の前を通る。九条と烏丸の世界観のちがいがうまく出た描写だった。

 

このときの1年前にはなしが戻る。登場するのは門脇数馬という俳優志望の男と、音羽千歌という歌手志望の女だ。まだずいぶん若い。ホテルのベッドで数馬はスマホで『愛の不祥事』を見ている。千歌はそれを好きだというが、数馬は演技の参考に見ているだけのようだ。

一瞬にして位置が入れ替わるふたり。数馬は有名なリアリティショーのオーディションに受かったという。これでたぶんちゃんと給料が入ってくるだろうから、数馬はいっしょに暮らそうともちかける。それはいいが、仕事で恋愛をしなければならないのが千歌はつらい。じぶん以外の女と話しているだけでもいやなのだから、嘘でも嫉妬はするのだ。

数馬はいまけっこう波がきてる感じらしい。戦隊モノに出てトップになる気まんまんだし、事務所もそうおもっている。しかし歌手志望の千歌は現実を思い知ったという。その流れで、じぶんが成功したら結婚しようと数馬はいう。そんなことないよとはいわず、オレが養うというニュアンスっぽい。

 

しかしまあ、このときのふたりは愛し合っていた。いまの彼らはどうだろう。数馬は九条たちのきているクラブで、尻に花火を挿す感じのお笑い系パフォーマンス要員である。ノーリアクションの九条、烏丸、壬生、小山の前で花火が元気に弾ける。小山は率直に下品でクソつまらんと酷評する。それは店にいってやれ・・・。

朝が早いということで九条たちは帰ろうとするが、京極との義理もあるのか、小山はなんとか九条を満足させようと、そばに座っていた女を持ち帰らせようとする。これが千歌だった。千歌はギャラ飲みをやっているようで、ほかの女の子も呼んでいるところだ。そして、この場所で千歌と数馬が出会ったのは偶然のようだ。ふたりはつい互いに反応してしまう。ということは、別れてからしばらくたっているのかもしれない。

いきなり千歌と数馬が知り合いっぽい反応を見せたことが小山は気に食わない。ここで誰かが帰るみたいなことを言い出し、千歌は「壬生くんまた」といっているので、九条が帰ろうとしているので壬生が気をきかせていっしょに帰ろうとしている感じだろうか。しかし帰るといっている吹き出しは九条のほうを向いているな・・・。九条が帰るといって、壬生が帰りそうな動きを見せている感じかな。

 

ひょっとするとまだ別れるというふうなところまでは至っておらず、あいまいな感じで会っていないだけなのかもしれない。数馬は尻花火の体勢のままこのおっさんは誰だという。小山は酒瓶でケツ越しに数馬の顔を打つ。千歌はただギャラ飲みしている美人ではない。小山と月20万で愛人契約をしているというのだ。そういうやりとりの様子を、壬生は意味ありげに黙ってみているのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

月20万で愛人というのは、それ以外にはぜんぜんお金はもらえないのだろうか。同様に小山の愛人枠だった「事件の真相」の愛美のはなしだと接待的にいろんな連中の相手もするのだろうし、小山だったら必要に応じて仕事を紹介する、AVに出すという路線も豊富に用意されている。20万は安すぎるのでは・・・。

 

じゅうぶんに愛し合っていた様子の数馬と千歌だったが、この関係はたった1年で解消してしまったようだ。とはいえ、嫉妬からかプライドからか、小山といっしょにいる姿をとがめるくらいなので、もしかするとまだ正式には別れておらず、しばらく連絡をとっていなかったようなところかもしれない。

愛し合って互いを必要とはしていたが、1年前のあのときから、すでにふたりの関係は非対称的であり、不安要素はないではなかった。

まずふたりは、俳優、歌手という夢を共通点にしている。数馬はよくわからないが、千歌は田舎から出てきている。数馬のほうは仕事がうまくいきそうな感じだ。「あのリアリティショー」というくらいなので、たぶんあの、有名なやつか、もしくはそれの二番煎じ的な、有料チャンネルでやっているやつだろう。いずれにせよかなり大きいチャンスと見ていい。いっぽうで千歌ははやくもじぶんの限界にぶつかっている。じっさいにパフォーマンスをしている描写や、誰か第三者が評価しているところがないので、自己評価にすぎないかもしれないが、たんに実力的なものに加えて「東京」に負けてしまっている感じもある。

千歌が歌手になることにかんしてどれほど熱心だったか、そういうこともわからないので、空想でしかないが、この段階での千歌は、ひとりの人間、ひとりの夢を追うものとしては、数馬に対して劣等感を抱えていたものとおもわれる。それが、おそらくこの段階では恋愛を構成する依存に変容していた。そのことを数馬も受け容れている。数馬は、大きな失敗をしなければ成功することが約束されたような状況である。この彼の前で、同じように夢を見ていた千歌が、それをあきらめるようなことをいって、彼は同居のはなしをするのだ。これはひとことでいえば「じぶんが養うから生活の心配はしなくていいよ」ということなのだ。つまり数馬は、千歌のことをこの時点では「同志」とは見ていないのである。もともと彼にその傾向があったのか、彼自身の成功と千歌の停滞がそれをもたらしたのか、それはわからないが、1年前の彼らは、そういうふうに互いの非対称なありかたを認め合っていたような状況だったのである。

 

次の1年のあいだにいったいなにがあったのか。店で数馬は「元芸能」と呼ばれているので、たぶんある程度じっさいに成功はしたのだろう。それが、そうではなくなった。そうではなくなるとともに、ふたりの関係も変化したのだ。もしかしたら数馬が落ち目になっていたときに千歌にちょっとしたチャンスが訪れたとかかもしれないし、ただたんに、落ちぶれた彼に千歌が耐えられなかったのかもしれない。いずれにせよ、依存関係というものは原則的に硬直している。人格の本質ではなく、関係性、位置関係のようなものを求めて、その関係は再生産されるからだ。その位置関係が、外部からの刺激によって微妙に変化してしまうと、そこにすがっていたものは戸惑うことになる。相手の見えかたが突如として大きく変わってしまうからだ。それでも、依存がたんなる動機ではなく結果であり、そこに至るまでの原動力にいわゆる意味での恋愛がかかわっているなら、克服もできるかもしれない。いまの彼らが関係の結びの段階なのか過渡期なのか、それもわからないのでなんともいえないが、ひとことでいえば夢までの道のりは一直線ではないということになるだろうか。

 

経過はどうあれ、いまのふたりは1年前とはまったくちがう人間になってしまった。いまのふたりの状況でも、引き続き夢を追うことはできる。というか、いまだに東京にいるということは、こころのどこかではまだ夢を捨ててはいないということなのだろう。数馬は夜の街でからだを張ったパフォーマンス、千歌は愛人契約である。また小山は千歌が女の子を呼んでいるみたいなこともいっているので、ただ小山にからだを預けているだけではなく、管理側というか、斡旋するようなこともしているようだ。壬生とも知り合いのようである。壬生も、丑嶋と同様あまり女の影が見られないが、これはケツモチということかな。小山は数馬のいた店にはたぶんふつうに飲みにきたとおもうのだが、ここに至るまでの、最初に九条と烏丸が語っていた高い店のはなしは、いつか京極がいっていた、小山のようにスネに傷のある、顧問になってほしいという会社社長だろう。この流れで、最後にお疲れ飲みっぽいことをしようとし、小山は千歌に女の子を用意させたのだ。となれば、千歌はどこで飲むのかを知っていた可能性がある。それでいてこのようなリアクションになるということは、千歌はもはや数馬がどこでなにをしているのかも知らなかったということになる。あるいは数馬がすすんでは教えなかったのかもしれない。もし関係の非対称性に千歌が目覚めてお別れということになったのであれば、これはほとんど形勢逆転である。数馬はケツに花火を挿してしかもスベっているが、千歌はそれを真顔で見ている客なのだから。しかしながら、この彼らの状況は、果たして夢への道のりの、「一時的なすがた」と呼べるものだろうか。彼らはもしかするとこれを「夢の変容したもの」と考えているかもしれないのだ。個々の事情もあるだろうし一概にいうことはできないが、要するになぜ田舎に帰らないのかということなのである。彼らのうちに生じたある種の歪み、たとえば数馬では、いちどの成功体験がじぶんは「できる」人間だということを刷り込み、正確な判断をできなくさせているのかもしれない。千歌は、歌手志望といっても実は「うた」に魅力を感じているのではなく、たんに有名になりたかった、お金を稼ぎたかっただけであったということを自覚してしまい、それならこういう道もありうると、思い込もうとしているのかもしれない。もしそうだとすると、今度は彼らが当初目指していた「夢」も、実はかりそめのものであり、じつは変容も起こっていないのではないかという可能性も出てくるのだ。けっきょくのところあるリンゴとあるリンゴをかたちのちがいで区別するだけで、中味は同じなのではないかと。

九条がこのはなしにどう関わってくるのかは不明だ。たんに壬生や小山の法的サポートをするものでとどまるのか、こうした夢の変容の解釈に法的なよすががあるものか、わからないが、いままで以上にウシジマくんっぽいはなしになりそう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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第122話/最大ノ弱点

 

 

 

 

嚙道を極め、屈指の強者である宿禰を倒したジャック・ハンマー。しばらくいいところのなかった彼だが、これで父や弟、ピクルや武蔵に並ぶレベルにもどったといってよいかもしれない。

観客の歓声を堪能しつつ、すぐに気をとりなおしたジャックは、立ち見をしていたバキを呼びつける。彼をたいらげるというのであった。

 

噛みつくではなく、喰っちまう。ジャックはそういい直す。ジャックは光成に向き直り、試合を組んでくれるようにいう。もちろんかまわないが、バキはどうなのかといちおう光成が訊ねる。バキはいつものこたえだ。いつでもどこでも誰とでも、「俺は断れない立場だから」と。チャンピオンだからということだろう。はっきり「立場」といったぞ。「立場」は非常に第三者的な言葉選びだ。

ジャックは少し笑いながら、思い上がってると、核心をつく。相手は必ずしもバキである必要はないと。そうして指差すのは、やはり観客席にいた本部以蔵である。気付かなかったが最前列だったようだ。

ジャックはいう。この「嚙道」は本部のお陰で生まれたと。たしかに、あの敗北は大きかった。負けただけではなく、たんに「服のうえから嚙む」という二度目の失敗をしただけで歯をぜんぶもっていかれたのだ。嚙みつきを選んだことじたいが根本的にまちがっていると考えなおしてもよい場面だったが、あくまでジャックは嚙みつきにこだわり、ここまでたどりついた。お礼に嚙みつきたいという。本部は無言だがうれしそうでもある。

続いて本部のとなりにいるガイアである。白兵戦における最終決着は、君等の採用する徒手格闘術ではない、太古より自然界が嚙みつきの有用性を証明していると、なんだかよくわからないいいがかりだ。この「君等」のニュアンスは、ガイアというより軍人一般ということだとおもうんだけど、軍人的な最終決着は一般的に徒手なのか・・・?

 

次は愚地独歩。渋川と並んでやはり最前列にいたみたい。空手は全方位体術である。武器にも、多人数にも対応する。しかし嚙みつきはどうだろう。

同じ空手でも克巳はどうか。独歩の隣には渋川がいるのに、それはとばして文脈優先で次に後列で立ち見していた克巳を見上げる。克巳ならあるいは・・・?みたいな言い方で、ジャックは克巳のことはかなり評価しているのかもしれない。年も近いだろうしな。

で、達人に戻る。以前のたたかいでジャックは達人のアキレス腱を奪った。次は足をまるごといきたいと。ジャックは既に達人に勝利しているわけで、スルーしてもよさそうなものだが、たたかいたいという気持ちはなくなっていないようだ。

 

以上、優れたファイターがたくさん集まっている会場だが、彼らでは無理だとジャックはいう。美しく、スマートに、堂々と、カッコ良く。そんな君等では無理だと。それが「最大の弱点」だともいう。ケツの穴をさらしてでも勝つ。ジャックからすればそういう気持ちに欠けているのだ。

 

 

 

つづく。

 

 

 

最後にジャックは、「アノ男デモソレハ出来マイ」という。この「あの男」とは、ふつうに考えると勇次郎だが、なんかこのシルエットだとちょっと武蔵みたいにもみえるな・・・。それに、勝利のためになんでもする、という流れ的にも、ちょっと武蔵っぽい。武蔵がまさにそういう人間だからだ。そんな男でもじぶんほどにまでにはなれまいと、そういうふうにいっているのかもしれない。

 

ジャックが指差してファイターたちに評価をくだしていくのはよかった。また、そうされて、彼らがぜんぜん負ける気なさそうのもまたいい。以前のジャックでもそうとう強かったものが、いま宿禰を倒すほどになったわけだが、独歩たちはそれでも負けるつもりはないみたいだ。だが、ジャックがいっていることを考えるとそう喜ばしい描写でもないのかもしれない。ジャックが彼らのなにを「スマート」といっているのかは、いまのところはよくわからない。しかし、彼が額に血管を浮ばせて、うらみさえこめていう必死さの欠如のようなものは、ちょっとわからないでもない。バキや独歩にも、勝ちへの欲望はある。だがたしかにそれは、ジャックに比べればどこかスマートなのだ。その場では負けても、「おうよ、あの勝負はあんちゃんの勝ちでえ」とかいってみたりするようなことは、ジャックではとても考えられない。失神から目を覚ますなりピクルに向かって走り出すのがジャックなのだ。

 

このちがいがどこからくるのかというと、やはり第三者性なのではないかとおもわれる。バキが「立場」という語を用いたことも今回は印象的だ。彼らはどこか、「他人」の視座を経由してじぶんを眺めているのである。もちろんバキたちはそういうイロモノキャラではない。いつでもじぶんのために、じぶんの勝利のためだけにたたかっている。だがそれでも、ジャックだけがもちえた必死さを、彼らはどこか欠いている。欠いているというより、人類としてふつうに生きていたら自然とそうなってしまうとでもいったほうがいいだろうか。自己とは、そもそもフィクションである。ラカンでは鏡像段階を通じて、鏡の向こうのじぶんと同期することで自己は成立する。その、じぶんが外部から眺めている自己を、他人も眺めていると確信することで、認識はすりあわされ、どうやらたしからしいそれぞれの「世界」は仮説のまま明確に一致する。誰もがごく自然に、「他人から見たじぶん」を生きているのだ。ジャックはそこにスマートさをみる。それもそうだろう。「他人から見たじぶん」を生きながら、その期待に応えるかのように圧倒的に強者となっていった彼らは、この意味では成功者にほかならない。「バキ」ときけば、誰もが強い少年をイメージし、背後の強大な父を思い出し、その血統を意識する。「独歩」ときけば、道を探究しすぎて催眠術にかかってもみずから過酷なたたかいを設定してしまう偉大なる空手バカを思い浮かべる。そして、げんに彼らはそういう人物である。これがスマートでなくてなんだろう。とりわけジャックからすればそうだ。前回考察したとおり、ジャックには「評価」の目線がなかった。強いとか弱いとか、いいとかわるいとか、その価値を正確にはかるような他者が外部になかった。理由はいくつかあるが、ひとつには母親の不名誉ということがある。ジェーンは勇次郎に強姦されてジャックを生んだ。ジャックが、勇次郎の息子であるということを世間に示すということは、この件を公表することと等しかったのだ。もし彼が、バキ同様、「勇次郎の息子である」ということこみで評価をまとっていたなら、強かろうと弱かろうと、このようなファイターにはなっていなかっただろう。だからジャックはこれを内面化するしかなかった。じぶんでじぶんを鼓舞するしかなかったのである。これが彼の異様なストイックさにつながる。前回彼が意外にも観客の声を喜びとともに受け容れたのは、じしんで打ち立てなければならなかった緊縛のようなものをほどくことがようやくできたということなのだと考えられた。不足ぶんをリビドーで調整していた「評価」を、ついに外部から正しく受け止められるようになったのだ。これはたんに「外部」がジャックを正しく評価するだけでは実現しない。彼自身が、それを受け容れる準備を完了させなければならない。あなたが天才的な作家で、誰も評価してくれない、見向きもされない状況にあるとして、それでも毎夜じぶんのちからを信じて、恨み節とともに書き続けた小説がついに世間に評価されるようになったとき、あなたはそれを素直に受け取れるだろうか。そういうことなのだ。

これが実現するためには、つまりジャックが他者の評価をすすんで受け容れることができるようになるためには、「他者の感受性」を尊重することができるようにならなければならなかった。これが嚙道によって達成されたというのがぼくの考えである。嚙道はカウンターの技術である。相手の考えられるあらゆる動き、もっといえば想定できないような動きにまで対応し、嚙みつきを練りこむ、そういう格闘術だ。これが、他者の身体をじぶんのもののように感じさせたのかもしれない。ともあれジャックは、他者が不如意なものであることを学び、そこに対応する技術、すなわちコミュニケーション技術を身につけたのである。これが準備を完了させた。

 

こう考えてみると、ジャックのうらみは歓声をそのままに受け容れることができるようになった時点で解消されたようでもあるが、そうではなかったというのが今回のはなしだ。いや、厳密には解消されたのだろうが、いざバキのような“恵まれた”人間とたたかうとなると、いまこうして同列に並ぶに至るまでの過程がどうしても想起されるわけである。ジャックがようやく素直に受け止めることができるようになった歓声を、バキらはほぼ自明のものとして受けてきた。大手事務所所属となった新人歌手が、作曲も作詞もやってもらったうえでヒットを出しているのを、20年近くアマチュアで活動している歌手が歯がみしながら見ている感覚だろうか。そこにはまた、彼にはわからない種類の苦労があるかもしれないが、それは当人からすればどうでもいいことだ。ジャックが人生をかけて獲得した第三者性、これを、彼らは生まれたときから自然に身につけていて、しかも上手くつかっているのである。

 

これが、いままではうらみのエネルギーにつながっていた。しかしいま外部の評価をそのまま受け止めることができるようになったジャックでは、自信につながっている可能性がある。バキらがほぼ無意識に享受している評価のプールとそれがもたらす成長を、ジャックはすべてじぶんのちからだけでやってきたのだ。彼からすれば独歩や渋川さえ甘いのである。そのいっぽうで克巳のことは評価しているっぽいのが気にかかるが・・・。

 


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第49審/事件の真相⑨

 

 

 

 

嵐山のところに外畠から電話がかかってきた。

外畠はデリヘルのドライバーをしていたが、そこの女の子に手を出したことで、オーナーから制裁を受けた(股間を焼かれた)。そのオーナーというのは、壬生の身内である久我で、彼らのほんとうの目的は女の子云々ではなく、人気女優となっていた外畠の娘であるしずくが潰されてしまったことの仕返しであった(小銭ほしさに外畠はAVメーカーを訴えた)。そのAV会社の社長が小山で、ヤクザの京極がケツモチをしている。そんなことは知らない外畠は久我の車に火をつけて報復したが、これがカメラにうつっていたために、嵐山に捕まった。だが嵐山の目的は放火事件にはなく、そこから久我、壬生、京極という具合に、娘の死にかかわっているであろう大物をたぐりよせようということだったのだ。

 

外畠は、ちょっと思い出したことがあるということで嵐山に電話を寄越したのだ。まず、ビニールをかぶせられていたときの音である。なにかがカタカタいう音と、排気音だ。たぶん自動車の整備工場だと。これだけでは証拠にもならないだろうが、嵐山的にはやっぱり壬生か、というところだろう。

今度は美穂だ。今日は愛美についての証言ではなく、ただ知り合いとして、世話になった嵐山に会いに来た感じだ。子育て支援が充実している街に引っ越すと。嵐山のおかげで人生を前向きにとらえられるようになったそうだ。

美穂が帰ったあとの嵐山は、「婚活アプリ詐欺事件」の捜査資料を手元において、複雑な表情をしている。

別の日、美穂の家を嵐山が訪れる。愛美のことを訊きに来たのではなく、美穂本人に用事がある。ドアを開けた美穂に手錠がかけられた。美穂の身元を調べたら詐欺被害の報告が出てきたと。嵐山じしんが出向く必要はなかったようだが、あえてじぶんがやることで責任を引き受ける覚悟を見せたというところだろうか。美穂としては、じっさい嵐山と出会うことで乗り越えたものもあったのだろうが、愛美について協力することで「点数を稼いでいる」感覚もあったのかもしれない。見逃してくれと、そういうのだが、嵐山には通用しない。

 

 

 

「それとこれとは別だ。

 

犯罪者は絶対に捕まえる。

 

絶対にだ」

 

 

 

 

壬生のところには九条がきていて、また逮捕されたらしい小山について話している。もちろん嵐山がしたことらしく、壬生は呆れている。

そこに当の嵐山と部下の深見がやってきた。客としてきたというはなしだ。

深見は、外畠や金本の件などもちだして、物騒な事件が続いているなと壬生に圧力をかける。嵐山も、死臭がするなどといっていやがらせめいた言動をとる。

犯罪者の片棒をかついで自分が嫌にならないかと、いつかもいっていたようなことを嵐山が九条にいう。

 

 

 

「弁護士が守ってるのは悪人ではない。

 

手続きを守っている」

 

 

 

九条はそういうが、ひとことで明確に九条のスタンスを説明したいいセリフだ。犯罪者かそうでないか、救いようのないワルかそうではないか、いずれにせよ、そのものには弁護士を雇う権利があり、誰もやらないならじぶんがやるしかないと、こういうはなしなのだ。ではなぜその誰もやりたがらない任務を九条が引き受けるのかというと、そうしないと手続きが、誰にもその権利があるという「原理」が守られないからなのだ。

九条は嵐山を感情的すぎると評す。感情道徳論と司法をわけて考えろと。実は、そんなことはない。さきほど美穂に対して示したように、むしろ嵐山はそこを徹底的にわけて考える人間だ。論点は、たがいに見えていないが、そこにはない。

嵐山は、自分の娘が強姦殺人されても、その被疑者を同じように弁護できるのかと問う。その質問に九条は直接こたえはしないが、冷静な判断ができなければプロとして身を引くべきだという。

 

嵐山が帰ったあと、多少昂ぶっているのか、九条は「自分の娘がもしも殺されたら」「司法になんて委ねたくない」というのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

すごい複雑な心理描写の回だったな。これは骨が折れる・・・。

 

今回明らかになったことは、九条と嵐山のちがいというものが、実はロゴス的な思考法の重点のおきかたより、向き、もしくは対象にあるということだったとおもう。いままでぼくの考えでいうと、九条は「星の王子さま」的思考法を採用し、嵐山は事物と事物の差異を言葉によって明確に把握するロゴス的立場だった。しかし、考えてみれば九条にもそのぶぶんはあった。それはじぶんの視点の“ありよう”にかんしてである。嵐山を諭しているように、九条は弁護士的な判断をくだすとき、感情や道徳をそこから除いている。そこに、明瞭な線引きがあらわれている。両者が似ているようで似ていない、もしくは似ていないようで似ているように感じられるのは、ここのぶぶんなのだ。なにかをくっきりきりわけることができるというロゴス的発想は、どちらにもある。嵐山はそれを「犯罪者/非犯罪者」(作中では「被疑者/協力者」)へのまなざしに、九条は「感情的な弁護士/冷静な弁護士」というものへのまなざしにほどこしているのだ。

 

ただ、それでも、特に嵐山の行動はわかりにくいぶぶんもある。彼は、多少感情移入してしまったとしても誰も責めないであろう美穂との関係において、まるでじぶんに言い聞かせるかのようにして、みずから逮捕の行動に出る。美穂への義理と、美穂が犯罪者であることは無関係であり、犯罪者は捕らえなければならないからだ。彼もまた「原理」に殉じる仕事人間であるということも、ここではいえるだろう。部下のくだりからしても、ほかならぬ嵐山が先頭に立つ必要はなかったものとおもわれる。それをわざわざ買って出てやるのは、九条がわざわざ面倒な客ばかり引き受けて、誰にも弁護士を雇う権利があるという「原理」を守ろうとするように、「犯罪者は絶対捕まえる」を実現しなくてはならないからだ。わかりにくいのはここと愛美にかんする彼の行動がうまくとらえられないからだ。ここで彼がいう「犯罪者」とは、法律がそのように規定したある特定の人物のことのはずだ。その者は、たとえ義理があったとしても、例外なく捕らえなくてはならない。生粋のワルだとしても弁護されなければならないということと同じように。しかしここで嵐山は、じぶんの娘にかんして、すでに解決している事件であるにもかかわらず、独自の調査を続けてきたのである。それは司法への疑い、すなわち、彼がよすがとする「犯罪者/非犯罪者」の区分を設定するものさしへの懐疑を示すことになるはずである。

 

この点についてふとおもいついたのは、以前亀岡が九条についていっていた、「弁護士の前に人間」ということだ。今回の九条とのやりとりをみてみると、嵐山は感情的であることはどうも否定していないようである。そのうえで、自分の娘が殺されても~というセリフが出ている。この場面は、亀岡がしたような非難の調子ではなく、純粋な問いかけのようにもみえる。嵐山の理想の刑事の姿は、司法が定めた「犯罪者」を絶対に捕まえるものだ。そこに感情が入り込む余地はない。しかし、その犯罪の被害者が自分の娘で、犯人は逮捕されたがどうにも納得がいかず、証拠はないが目星はついているという状況で、彼は感情を捨てるべきなのだろうか。そこにはたしかに「犯罪者」がいる。だがそこに確信を加えているのは感情なのだ。刑事としての嵐山が理想とする姿は、そういうものではない。感情を加えて捜査をする人間は、美穂をみずから捕まえたりしないだろうからだ。だから、嵐山にとって九条の姿はある種の理想に近いわけである。ところが、そういうものは娘の死を前にしては幻想に近いということを彼は悟ったわけだ。だからここではこういう問いかけがあらわれているようにも見えるのである。

同時に彼は、九条がいう刑事の二元論的思考にも、すこし躓いているようでもある。そもそも、父の嵐山が娘の愛美を見誤り、そのSOSのサインを見落としたのは、彼が仕事で忙しかったからだ。そして、その二元論的思考法がもたらす融通のきかなさが、娘に嫌われていたからだ。彼は、娘をあっさり「メンヘラ」と呼び、小山を「クズ」と呼び捨てる。そうした言葉は便利ではあるが、多くのものを見落とさせる。娘のメンヘラでないぶぶん、小山のクズでないぶぶんは、このような把握のしかたでは透明になってしまう。九条が傾聴によって拾うのはそうしたところである。だが、刑事の実務という点にしぼれば、こうした思考法は不可避ともいえる。今回の美穂の件がまさしくそれに該当する。義理があるからといって、犯罪者を放っておくわけにはいかない。「犯罪者」と「非犯罪者」のあいだにあるのかもしれない距離をいちいち考慮していたのでは、彼らは逃げてしまう。これは、「逮捕」という、非常にデジタルな時間的推移の断絶がもたらす必然的な思考法である。手錠の音が断定的に示すように、こと「逮捕」にかんしては、ひとが「逮捕されているともされていないともいえない」という状況は、ありえないわけである。

嵐山がロゴスに支配された二元論的思考法をとることには必然性がある。だが、娘の事件はこれを揺さぶることになった。それが今回のテーマである「真相」ということだ。「真相」とはすなわち「本当の顔」のことなのだ。世界を平面的な地図のように考え、これを切り分けて整理していくのが言葉の思考法である。法律もそうだろう。しかしこれだけでは、その地層のしたに眠る素顔を見抜くことはできない。だからこれは同時に「深層」でもあるのだろう。じっさいにいは、嵐山は「本当の顔」は「罪」と並存するというようなことをいっているので、地面を掘り返す作業そのものは行っている。というか、それが捜査というものだろう。だがその作業のあとに発見され、法的に定義付けられたものは覆りにくい。嵐山の実感としては、「いちどそう呼ばれたものはずっとそう呼ばれる」というところなのではないだろうか。

こうしたわけで、嵐山はまず娘の事件を経て、娘のことをなにもわかっていなかったということを知った時点で、みずからの世界観に疑いをもったはずである。このことが、彼の捜査観、もっと根底的な司法とのかかわりといった次元においても、疑いを抱かせているのである。あるいは彼にその自覚はないのかもしれないが、そのように見える。感情に左右されたまま捜査を続ける刑事は、「犯罪者」が誰なのか自分で決定するような存在である。嵐山がそんな刑事を目指しているはずはない。彼も感情を、じぶんの「人間」のぶぶんを押し出すことをよしとはしないはずだ。しかし、法が指定する「犯罪者」が、ほんらい裁かれるべき人間を呼び出さなかったとしたらどうだろう。それでも嵐山は無感情に、冷静にいるべきなのだろうか。これはロゴスというレベルでいえば、多くのひとが「犬」だという新種の生き物が「猫」にしか見えないとき、あるいは彼が動物学者なら「猫」であるという証拠をつかんだとき、それでも沈黙したまま「犬」と呼び続けるべきだろうかということなのだ。

こう考えると、嵐山の言動の揺れは、非常に強い遵法意識と、そのシステムへの疑いが並立しているような状況が生んでいるのである。その疑いの根底には、娘が死んだことへの後悔がある。それが彼に、九条に向かって娘のはなしをさせたのだ。

 

このうえで、最後の九条のセリフはどう受け止めればよいだろう。彼は、じぶんの娘が殺されても司法には委ねたくないという。流れからすると、彼は嵐山の頑迷さにうんざりしている様子なので、あのような刑事がいる場所に娘を預けたくないというような意味かとおもわれる。だが同時に、以上の嵐山にかんする考察を踏まえると、そうした言葉によるデジタルな規定への疑いを、「人間」としての九条も持ち合わせているようだということもいえるかもしれない。要するに九条は、今回美穂にかんして見せた嵐山のような態度を、じぶんの娘についても貫徹する心構えではあるのだが、嵐山が疑っているように、彼もその法が導き出したこたえにしたがいはしても、疑うことはあるのである。でも、弁護士はそこに仕えるものなのであるから、やるしかない。そもそも彼は刑事的な二元論的思考をしない人間である。いわば法に解釈される前の「原的世界」と、解釈がほどこされた「法的世界」のあわいにたゆたうものなのだ。その橋渡しが「手続き」である。この意味では、言葉によるデジタルな決定に加担しながらそれを嫌うことは矛盾していない。「委ねたくない」といっても、壬生にたよったりしない限り、現実には委ねるほかないわけだが。

 

嵐山のデジタル思考は、対象を人間とするものである。ある人間を「犯罪者」か「非犯罪者」、もしくは「被疑者」か「協力者」に分類する。そのとき見落とされる者を、九条は傾聴によって拾いあげる。大雑把にいうとそういうことになるが、九条ではこのデジタル思考が自分自身に向けられることになるというはなしだった。たとえばそれは「法律」と「道徳」であり、「司法」と「感情」である。しかしこれは、なんというのか、ある種の戒めのようなものにとどまるのかもしれない。というのは、逆説的になるが、彼は「法律」にとどまることによって、依頼人の「人間」のぶぶん、デジタル思考が見落とすぶぶんを拾うことができるようになるからだ。というより、厳密には、感情的になることによってなにかを見落としてしまうことを防ぐ、といったところになるだろうか。弱者を救済するにあたっては、むしろ感情的であることは望ましいかもしれない。しかしそれが行き過ぎると、亀岡のように極端な身振りをとることもありうる。そのあたりのことはまだよくわからないが、彼のばあいはそうした感情を仕事から分離させているというより、封印しているようなところがある。何度か書いたが、彼が家をもたないのはそのためだ。仕事から離脱し、プライベートに戻るというようなことが、九条にはない。人生におけるその面は、すべて娘の世界に預けてきた、そういう感覚なのだろう。したがって娘の領域は仕事の、法律の世界が侵してはならない。こういうこともあって、彼は今回こんなことをいったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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4月7日、連載30周年記念の刃牙展に行ってきた!東京ドームシティのギャラリー・アーモ。

 

 

 

 

 

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ここには以前『かいじゅうのすみか』というイベントで来たことがある。広さはそうでもないようだが(無駄なくセッティングされているものなので、体感的にはよくわからない)位置的にもちょっとした展覧会にはぴったりの空間である。サブカルチャーでもジョジョとかになるともっと大きい会場が必要になりそうだけど。

 

「かいじゅうのすみか」がまさにそうだったけど、会場それじたい、もしくはそこでの経験そのものが芸術になるようなインスタレーション作品としても、刃牙展は設計されているようだが、ぼくとしてはやはりただただ原画が楽しみだった。十何年も感想書いてる漫画の展覧会だからな。改めて何度も読んだページの見開きの絵とかをまじまじと見てみて、その複雑さに驚きもした。見開き絵は基本的に対決中のふたりが衝突している、技と技が交差しているような場面が多く、そうするとそこでは大量の「動き」が描きこまれることになる。渋川剛気だったか、あるいはモデルの塩田剛三だったかについての文章で板垣先生(か、もしくは渋川/塩田本人)が書いていたことで、握手ひとつとっても、そこにはいくつもの運動が潜んでいる。5本の指は別々の方向を向いているし、その指じたいも内側に折り曲がり、関節ごとに向きを変えていく。手のひらも若干の弾力を含み、手首から先より伝わる体重だとか腕力だとかを、解放のチャンスを求めて孕んでいくことになる。こういうことが、たとえば烈がピクルの鉄槌を蹴り防ぐ場面では、両者の全身で起こるのだ。

 

 

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板垣先生の絵では常にこういう「動き」が意識され、偏執的に描きこまれている。長く一緒に作品作りをしている高い技術のアシスタントのかたたちが多いということもある。もちろん、ぼくはそんなことは理解していた。毎週すみからすみまでなめるように読んでいるので。しかし、印刷の過程で損なわれることなく、描いたそのままのかたち示された絵の迫力を全身で受けてしまっては、やはり絵の作品としてのピークはこの瞬間なのだと感じないわけにはいかなかった。こんなに、ここまで細かいところまで描かれていたのかと、驚くほかないのだった。

 

 

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壁面に時代を追って展示される原画とは別に、要所にはクラウドファンディングで実現したものも含めて、新たに制作された実物大ジャックや勇次郎が接地されている。ジャックはいくらなんでも成長しすぎだということがよくわかったが、屈んでいるので身長的にはそうでもない。ただ手足がでかすぎる。特に足は、でかすぎてふきだしてしまった。大き目の画集サイズのパンをふっくら焼いたらこんな感じになるのかな。親指は成人女性の拳くらいあった。よくこんなのと直面して勝てるとおもったよな本部は。ほとんどハルクですよ。烈、ピクルあたりが大好きだった相方はこれを見てここにジャックも加えることにしたようである。いいけど花山もかっこいいよ?!

 

 

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会場のおそらくほぼ中央あたり(じっさいの位置は、すぐに方向を見失うのでよくわからないが、順路的にはほぼ真ん中)には地下闘技場の再現されたところがあって、なかではバキが構えて立っている。が、ここは混んでいたので、ぼくらは入らなかった。入ってもいっしょに写真撮ったりはしないタイプの人間なので・・・。ちっちゃい光成とかもいるっぽかったけど。あと闘技場のすぐ横あたりに勇次郎がいて、これももっと見たかったけど、闘技場に入るひとたちの列が横切る感じになっちゃってたから、あまり時間をとってみれなかった。

 

 

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オリバはなぜかオリバボール状態のギャグ要員的なあつかいであった。なんか、なんだろう、マットな、やわらかそうな素材だったので触りたかったが、おさわりは禁止。あとピクルのお食事になる直前のワニもいた。いったいどういうコンセプトなのか・・・。

 

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二箇所、通常の大きさのフィギュアがきれいに展示されたところがあり、なかにはわれわれがもっているもののバージョン違いみたいな烈がいてたまげた。バキとカマキリかっこいい。

 

 

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ディズニーランドと同じく、会場を出るとそのままみやげ物屋に直通してる感じで、ここに入るともう戻れなくなる。グッズはTシャツをはじめとしていろいろあるが、「カステラですよ。トランプじゃあるまいし。」というカステラなど、製作者の愛が伝わってくるものばかりである。見たところオーガハンガー(開脚してる勇次郎のハンガー)やバキSAGAのシャツはもう売り切れていたようだった(見当たらなかった)。入ってすぐのところには画集が山積み。最近書店の現場からは離れていて、新刊とかもチェックしていなかったので、ふつうにISBNある感じの書籍だったし、「おや、こんなの出たのか、知らなかった」みたいな反応のまま1冊購入したが、これはどうも会場限定商品のようである。いまアマゾンとかみても出てこなかった。一般に漫画家の画集というとカラーの扉絵を中心に後半に設定画とかが載っているやつを思い浮かべるが、そういうものではなく、展覧会で展示されていた原画がそのまま載っている感じで、要するに美術展で売られている「美術展の画集」と同じ扱いである。なかには展示されていた記憶のないものもけっこう載っている。たまに、展覧会限定としながら、じゃっかん内容を変えて一般販売されることもあるから、これもできたらそうしてほしいな。売りたい。ぼくはもう売り場にいないけど・・・。

 

 

展覧会は17日まで。チケットの買い方だが、公式サイトをみてもなんだかよくわからなかったので、ツイッターでの助言も参考にして、直で会場にいき、当日券を買った。入口にある紙に記入するか、もしくはQRコードで、オンラインで情報を入力し、その画面を見せるかしてなかに入れる。人数をカウントしている様子もなかったし、よほど混雑しない限りは、いきなり行っていきなり入れるとおもう。行けるバキファンは全員行くべし!写真も撮り放題だぞ!(おさわりは禁止)

 

 

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第121話/欲シイ全テ

 

 

 

4月7日、終了が迫っている刃牙展に行ってきた!

 

 

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詳細はまた後日書きます。

 

 

本編では、刃牙展でも実物大フィギュアが圧倒的なジャックが宿禰に勝利したところである。(ちなみにフィギュアは歯がチタンになっている現在の状態でした)

ジャックは全身で観客の盛り上がり、歓声を受けている。最大トーナメントでは準優勝、勇次郎の子でバキの兄であるジャックだが、最近はいいところがなかった。闘技場で試合をしていなくても、ここにくるのは選ばれたものだというはなしであるし、結果は知っているだろう。観客的には「ほんとうは絶対強いのに結果を残せない選手」みたいなあつかいだったのかもしれない。それがようやく勝った。観客もうれしいわけである。

 

歓声を受けて、ジャックはむずがゆい「甘い痺れ」を感じている。他では(じぶんにとって、他の方法では)到底味わえないとまでいっている。要するに、肯定されている感覚が心地よいのである。これはぱっと見は非常に意外な描写でもある。ジャックほど禁欲的にただ強さのみを求めてきたものもいないからだ。これは、理屈のうえでは以前宿禰との会話に出てきた「人目が欲しい」発言と平仄のあうもので、おかしなことはないともいえる。このあたりはあとでまた考えるが、嚙道は普遍性を備えた格闘技術の体系として成立しているので、本質的に人目を求めるものなのである、なんていうふうにもいえるかもしれない。たんにジャック個人の人格からするとけっこう意外だなというはなしだ。ひとが自己肯定感を求めていけないということはないし、自然なことだろう。

 

ジャックじしんのなかでも、強さへの渇望が振り返られる。まずそれは、「強くなりたい」である。これはいままでと変わらない。ここに、今回から「強いと思われたい」「凄い奴だと思われたい」が付け加わる。この感じは、なんというのか、ジャックが人間的成熟とともに、「強いと思われたい」の内側に、目立たないように縫いこまれている欲望を悟った、というようなことのようにおもわれる。たぶん、この欲望はずっとあったのだ。そのことに、嚙道にとりくむにあたって、またその果てに精神的に成熟するにつれて、彼はじぶんの欲望の横顔のようなものを知ったのである。

動機はどうあれ、ジャックが常軌を逸したトレーニングと日常を重ねてきたことは変わらない。これが報われたと。すべての肯定がここにはある。おもえばジャックは刑務所でテロリストの母親から生まれた出自からして「否定」に足場があったのだ。

 

光成が近寄ってきて、じゃっかん皮肉のようにもきこえるが、得意満面だなとしつつ、とりあえずほめる。巨大なジャックは片膝をついて、もう報われたから浮かれる時間は終わりだという。急いでいる感じがある。光成もそれに気が付く。なにかというと、ジャックが見上げるのは、観客席うしろで立ち見をしている弟の刃牙である。降りて来いと。バキは驚くが、すぐに笑って飛び降りる。観客席をひとっとびの、墜落するような着地で光成が浮かび上がる。むろん、流れからしてたたかうというはなしだろう。俺に噛みつくつもりかとバキはいうが、いやたいらげるつもりだとジャックは応えるのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

驚きの展開だ!しかし同時に宿禰の存在感がゼロになっていることも今回は驚きである・・・。

もともとジャックはめちゃくちゃ強い。最大トーナメントのあとも、それなりに強かったシコルスキーはまったく歯が立たなかったし、独歩や達人がいちどは敗北したアライジュニアも圧倒した。しかし、ピクル戦以降は空回りが続いていた。本部にも負けた。あれは本部の土俵だったとはいえ、負けは負けだ。こうしたことを、ジャックは乗り越えたわけである。どのようにして乗り越えたかというと、今回の自己肯定感のくだりを見てはっきりわかったわけだが、嚙道の普遍性と、じぶんのなかにある欲望の解像度をあげる行為の一致によってである。

 

ジャックの動機の根本には、まず母親の復讐があった。母の無念(存命だが)を晴らすため、バキとはまたちがった角度で、父・勇次郎を圧倒する必要があった。勇次郎は地上最強の生物であるから、必然的に地上最強を目指さなければならなくなる。ここはバキと同様である。では、この根本ぶぶんでなにが異なるのかというと、評価の問題なのではないかとおもわれるわけである。

バキでは、もともと父は克服の対象ではなかった。いやもともとバキは母親の愛情面で勇次郎にコンプレックスがあっただろうというとそれはそうなんだけど、それが「母親の復讐」というかたちで明文化されたことは大きかったはずだ。基本的に、バキは嫡子で、強くなることを期待されて育ち、げんに強くなっていった。その過程で、父に対する納得できない燃料みたいなものがたまっていき、母の死で着火、それを消火することに全人生が傾いた、といったような流れである。しかしジャックはそうではない。母・ジェーンは勇次郎をだまそうとした女であり、それを見抜かれ、強姦され、盾にされて放り出されたのだ。ジャックは勇次郎にも意想外の息子であり、バキのように「強くあること」が自明のように、周囲からおもわれて育つということはなかった。おそらくこれが、彼自身の内側にあの禁欲さを身につけさせたのである。タイミングやそのとき彼が抱えた感想などは想像するほかないが、ジャックは成長のある段階で、じぶんの出自を知ることになった。父親は範馬勇次郎という地上最強の生物であり、母はそれに襲われた。ひょっとするとバキの存在もはやくに知っていたかもしれない。彼は、範馬の血統であるならば当然浴びることになる「強くて当然」という視線を、まったく経験することがない。そうした「評価」の不在が、ジャックを天然の修行者のようにしたのである。直接の動機は復讐だろう。しかしこれを支持したのは、おそらくその「あるべき評価の不在」だったのである。ジャックにも父親に認められたいという欲望があるのかもしれないということは、これまでも感じられたことがあった。しかしこう考えると、彼にとっては勇次郎よりも、「勇次郎の息子」として扱う周囲の評価のほうが、もしかしたら大きかったのかもしれない。なぜなら、それを開示する、つまりじぶんが勇次郎の息子であることを示すためには、母親が襲われた件を経由しなければならないために、最大トーナメントのあの瞬間までは、ぺらぺらしゃべるわけにもいかなかったからである。

こうしたわけで、ジャックでは「強くあるべきだ」という他者からの評価や要請が、当然あるべきなのにないという状況だった。このことが、彼をあのようなストイックなファイターにしたのではないか。ほんらい外部から注がれるそうした評価の波を、彼はじぶんじしんの克己心で備給するほかなく、そのことがまたよせてはかえす波のように、孤独さの縁取りを太くもしたのである。

 

今回の観客からの歓声を堪能する描写は、これまで彼がじしんのリビドーで調整していた他者からの評価を、正しく受け取っている場面であると考えられる。観客たちは、ジャックを「ほんらい強いもの」と考えている。トーナメント準優勝、勇次郎の息子でバキの兄、誰もがいとう嚙みつきやドーピングをすすんで行う超実戦派、という情報を、彼ら観客はすでにもっている。このうえで、その勝利を喜ぶ。これが彼の待っていた、またこれまで不在していた評価なのである。「評価」といっても、賞賛だけではない。なんでもよいのだ。ただ、彼には、勇次郎の息子なら当然満ち満ちているはずの周囲の視線を、まったく浴びることがなかった。その実感が、想像的な他者を内面化して、じしんを厳しく戒めるものとして確立し、彼を禁欲的にしたのだ。ではなぜそれが達成されたのかというと、ここに嚙道がからんでくる。というのは、ただたんに、いい勝負をして、「範馬の血」などと叫ばれて、ほめられるだけでは、この肯定感はやってこないだろうとおもわれるからである。彼自身のほうに、それを受け止める準備がととのっていなければいけないのだ。なぜなら、その時点でのジャックはひたすらに禁欲的な存在だからである。「強くて当然」と告げる他者がいない状況で、それでも「強くて当然」と自身に言い続ける男は、他者からの賞賛など歯牙にもかけない。不在しているから内側に存在させた、その自律システムみたいなものを、改めて外部に持ち出さないことには、この状況は成り立たないのだ。そこで必要になるのが、凡庸ないいかたになるが、「他者の感受性を尊重すること」なのである。というのは、他者の評価を受け容れるということは、その「他者」のありようを、存在としては認めるということなのだ。他人のことなんかどうでもいいとおもっているうちは、それがなにをいっても無効だろう。他者とは、じぶんとはちがう感受性、ちがう視点、ちがう神経で生きているものであるという、当たり前のことを、いつでも自然に、ほとんど考えることなく理解できるとき、すなわち他者の存在を保留できるようになったとき、この条件は満たされる。これは一般的な意味での人間的な成熟とも重なるだろう。これがなされた。なにを通じてかというと、嚙道である。嚙道は、オンナコドモの武器である嚙みつきを基本的な技として、体術にねりこんだ普遍的技術体系である。技術が普遍的であるということは、レベルのちがいはあれど、誰もがそれにコミット可能だということだ。空手や柔道が一般に普遍的であるといわれるのは、老若男女、どんな条件のものであっても、「ある程度は強くなれる」、もっといえば、かすかに世界最強を夢見ることができるからだ。そういうものを普遍的という。嚙道はこれを目指した。むろん、もともとはジャックじしんの強さのためだろう。彼は技術の普遍化なんか最初はどうでもよかったかもしれない。しかしそうはならなかった。なぜなら嚙道がカウンターの技術だからである。ふつう、格闘の構えというものは、その先にある突きなり蹴りなりと等距離の位置に身をおくものである。次にどのような動作を起こすにあたってもほぼ同じ労力で到達できるように、脱力しつつ準備するのが「構え」だ。ところが宿禰戦で見られた嚙道はそうではなかった。むしろ嚙道は、相手のどのような動作からも等距離にあるような、対応の技術だったのだ。そのあたりどのように考えていたのだったか忘れたのでここはまた別のときに深めるが、ともかくいまは「嚙道はカウンターの技術」ということではなしをすすめよう。するとどうなるかというと、ジャックは相手の洞察に優れていくことになるのである。相手がどういう動きをとりうるのかを吟味するのだから当然のことだ。これが、普遍からは遠い、きわめて特殊な「嚙みつき」という技術を用いながら、結果として普遍的になっていった理由ではないかとおもわれる。そしてさらにいえば、それが「他者」の存在を認めてもいった。孤高の格闘家のままでは、この洞察は果たされない。どちらが先かはわからないが、このようにしてジャックは、じしんのまわりに「他者」をおく準備を完了させ、そこに、内面化していた評価の手続きを再構成し、ついにひととして完成した報われたのである。

 

このうえで呼び出した弟との対面は、以前とは別の意味をもつ。「たいらげる」はただのレトリックであるかもしれないが、存在として飲み込むという意味かもしれない。彼は宿禰の小指を食ったが、これは嚙道を極める過程でいかに「嚙む」がジャックにとって日常になっていたのかを示したものと考えられる。噛んだものはふつう食うのであり、相手を「嚙む」のが非日常であるのはそもそもそこに連続している「食う」が非日常、禁忌だったからである。だから、やはりこれはただの「表現」であるとおもわれるが、ここでジャックがいっているのは、手段としての「嚙む」を行使して「倒す」以上のことを、じぶんはいまできるようになっているということなのである。それも、ただ実力的にということではなく、そういう権利をいまではもっているのだということなのだ。ジャックはいまようやく、ただの復讐者から、バキと同じ目線でたたかえるようになったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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