すっぴんマスター -47ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第48審/事件の真相⑧

 

 

 

 

取調室で対決することになった嵐山と小山だが、嵐山の娘・愛美と恋人関係だったことは認めたものの、その死については決着がついているものとして小山は取り合わず、逆に娘とうまく関係を築けなかった父親として、うまくやっているじぶんとの対比こみで、嵐山をやりこめたのだった。

 

無事カンモクパイで出てきたらしい小山がコンビニにきていて、陳列をしている店員を呼びつけている。小山のクソ野郎描写かとおもいきや、よく読むと店員もなかなかである。最初小山は、ふつうの音量で呼んでいるのだが、反応がないので、徐々に声をあげている感じだ。袋につめこむ動作も雑で、接客態度もかなりひどい。小山は、いつものあの、句読点のない一列の長いしゃべりかたでありながらよどみない、独特の調子で説教である。といっても店員を教化するたぐいのものではない。無価値人間だとか、コンビニは無人化したほうがいいとか、ただおもったことをくちにしている感じだ。

そうして買ったスイーツを、紗里奈という、噂の娘に渡す。小3くらいかな。顔をみて笑い合って、小山がいうように良好な関係のようだが、紗里奈のセリフはないのでなんともいえない感じだ。

 

小山のお礼の電話を、ため息まじりに九条が受けたところだ。喪服みたいなかっこの烏丸がコーヒーやおやつをもってやってきて、いつもの屋上で一服。そこへまた電話。知らない番号だが、なんと九条の娘の莉乃である。携帯を買ってもらったということだ。なんでもないあいさつだったが、九条はうれしい。烏丸は、鋭くいまの事態の背景を洞察する。要するにそれは、離婚した九条の奥さんが、携帯を買ってあげたうえで、九条の番号を登録してくれたということなのだ。非常時、じぶんが連絡とれないときに、次に莉乃がたよるべきは九条だということだろう。九条は信頼を失って別れたわけではなさそうだ。

 

今度は嵐山だ。美穂と会って小山のはなしをしている。愛美を売春婦呼ばわりされたと。小山のはなしでは、そもそも「売春婦だからナニ?」という理屈があって、小山はあの仕事をしていたはずなので、これは成り立たないものだが、嵐山はこたえているようだ。

嵐山も美穂も小山の代名詞のように「クズ」という語を連発する。若い子は自信満々のクズに弱いと、美穂はいう。一般論的な言い方だが、そんなことからも嵐山は娘のことをなにも知らなかったと考える。美穂は愛美とカラオケにいったときのことも思い出している。また、嵐山がうどんに七味唐辛子を大量にかけているのをみて、同じように愛美をしていたことなども思い出す。嵐山はすなおに、愛美のことをおぼえていてくれて感謝すると、はじめて敬語でいうのだった。

 

その感傷的なこころもちのまま、スーパーにやってきた嵐山が、パイの実的なお菓子をとって愛美を思い出す。虫歯になるからだめだと買ってやらなかったことを思い出し、膝をついて涙ぐむ。ささいなことであるが、そういうささいな記憶こそ印象深く残るものだ。そして死んでしまった人間は記憶のなかにしか生きていないのである。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

「娘」が3人も出てくる回だった。

ウシジマくんではかなり徹底的に「父」と「息子」が描かれたのだが、考えてみればそれは「娘」ではなかったわけである。「娘」が表象するものはどういうものになっていくのだろう。

 

三人の娘は、父親との関係において、異なった印象になっている。

嵐山の娘の愛美は、嵐山とはコミュニケーションがとれておらず、互いに理解しあえているとはいいがたかった。嵐山は娘の「本当の顔(真相)」が見えておらず、見えるもの見えていなかった。ということはおそらく愛美のほうも父親のことはよくわからなかっただろう。それでも、今回の美穂のなぐさめも含めて、愛美は父親の助けを求めていた。

小山の娘は紗里奈といって、小学生くらいで、小山いわく関係が良好だということである。これはなにしろ紗里奈がひとこともしゃべっていないので、まだほんとうのところはわからない。ただ、このときの紗里奈は大きな車のなかでスマホをいじっており、そこへスイーツをわたされているわけであって、なにかこう、ある種定型的なものを感じないでもない。小山の信じる「正しい娘」の姿に押さえ込んでいるようでもある。まあ、現実はそれでじゅうぶんなわけだが。

九条と莉乃の関係もじつはまだよくわからない。5歳の莉乃は離婚した九条の妻と暮らしている。九条のほんとうの名字は鞍馬で、別れた妻の名字をつかっているというはなしなので、莉乃の名字も九条のはずである。5歳なので、莉乃じしんの家族関係についての見解などはまだないだろうが、少なくとも九条と莉乃の間柄だけについていえば、良好といっていいだろう。

 

こういう三者を眺めてみて、遠く見えてきそうなものは、一般化できない娘のイメージのようなものかもしれない。

小山については、取調室での発言も含まれるので、いっていることをそのまま受け取るわけにもいかないが、どうも娘を愛しているのはほんとうのようである。しかし、それでいて、愛美をおもう嵐山の感受性には同意しない。それは彼が「嵐山ではないから」などというと言葉遊びになってしまうが、そう遠くないような感じもある。小山は冷酷な人間である。ほかの「娘」のことなど知ったことではない。勝手に栄えて勝手に滅びればよい。それを悲しむ親もどうでもいい。でも紗里奈はじぶんなりに大切にすると、こういうことではないかとおもわれる。今回のコンビニ店員とのやりとりは、一見すると不要にもおもわれるが、小山の人間観のようなものがあらわれているのだと考えられる。店員は、好きでもない仕事を嫌々やっていて、それを表に出すことを隠さず、客にあたっている。そこに小山は、「生きてる意味ありますか?」と問いかけるのである。彼からすればこの店員は「非生産的な無価値人間」で、生きている意味がないようなのだ。いま小山が買おうとしているものは、目前にいる店員が手渡さないと手に入らないものなのであるから、その意味では無価値ということはありえないが、小山は周到にそのぶぶんにも「コンビニ無人化」の理想を説いて応えている。いま、ほかならぬこの店員からスイーツを買う意味などひとつもないのだと、誰も議論をふっかけているわけでもないのに、あらかじめ備えているのだ。

彼の独特のフロウ感を備えたしゃべりかたは、どこか舞台俳優のようでもある。「舞台」というと高次の別の意味を含みもするので、もっとざっくりいえば芝居くさいということだ。つまり台本っぽいのである。このしゃべりかたを、ウシジマくんでは「洗脳くん」の神堂は意図的に用いていた。神堂は、通常しゃべり言葉では「ん」となるところ変化させずに読むことで、あえて台本っぽいしゃべりかたを実現していた。つまり、「やるんだ」ではなく、「やるのだ」といったようなことである。ふつうこういう発音の便宜から生じる音便を用いないしゃべりかたは、かたくるしくなるので、フォーマルな場面でもない限り、口語ではいとわれるものだ。しかし神堂は、そうしてみずからのしゃべりかたに「台本っぽさ」をあえてまぶすことで、最初からすべてわかっていたような、預言者的イメージをじぶんにまとわせていたのだ。

小山がこういうしゃべりかたをしているのも、仕事の影響かもしれない。彼は前回、じぶんの仕事を、悩み苦しむ女性の声に耳を傾けるものだとした。しかしおそらくそれでは仕事にならない。修斗がしずくにしたように、そこから、AV出演にはなしをもっていかなくてはならない。そのために、彼は一種の全能性、「すべてわかっている感じ」で自己演出をしなければならなかったろう。その成果がこのしゃべりかたなのである。

コンビニ店員に対しても、説教しているようでいて、じつはまったくコミュニケーションは成り立っていない。この場合店員側にも問題がありすぎてややこしいが、店員にも事情がある。背景の物語がある。そういうのはすっとばして、すきまなく埋め立てるようにして小山はただ持論を述べる。こういう彼の気性が、ここではあらわれている。そこから推測できる紗里奈のあつかいが、さっき少しだけ書いた、じぶんの考える娘像への埋め込みということである。娘のことも愛美同様どうでもいいなら、こういう埋め込みは行われないだろう。だから、いちおう、愛はあるとおもわれる。しかしそれは一面的なのである。

 

そして、この意味でいうと、嵐山も、少なくとも以前までは、大差がなかったのだ。彼は今日も美穂といっしょになって小山をクズと呼びまくるが、この呼称というか属性というか、そのひとがけっきょくなんのかということにこだわる態度というのは以前から見られたもので、愛美についても、裏アカを見ながら「メンヘラってやつか」と無機質にいっていたことがある。これもまた嵐山においては職業からくる思考法だ。例の九条がいっていた、「被疑者」と「協力者」に分類する刑事の二元論である。これは実務レベルでは有効な思考法なのだろうが、社会生活、特に愛がかかわるような家族関係では、まったく使えない。

この思考法については第43審感想で、星の王子さまを引き合いに出してくわしく考えた。

 

 

 

 

 

 

これじたいが第10審を思い出して書いたもので、出発点は九条の、兄・蔵人に対する「あなたには見えなくて私には見えてるものがある」というセリフである。これが、星の王子さまの金言、「大切なものほど目には見えない」を連想させるというはなしだ。

ここでいわれていることは、大人のロゴスが、どれだけ世界を見る目を歪ませてしまうのかということだ。ロゴスというのは言葉や論理のことである。言葉は、世界の以前にあるのでもなく、世界を構成する要素なのでもない。ただ世界をきりわけるだけだ。その際、不可避的にある種の切捨てが行われることになる。砂漠に不時着して死にかけのパイロットが出会う王子は、人間の「生きている状態」と「死んでいる状態」、要するに「生」と「死」の、語による分類が見落とさせているものをつきつける。というのは、「生きている状態」と「死んでいる状態」をあわせてみても、そのひと全体にはならないからである。そのとき失われるものを言葉で名指すことはできない。その瞬間、あらたな誤解と、歪みと、傲慢が生じるだけだ。だから、これは「見る」ことができない。わたしたちにできることは、「見えないものがある」ということを知っておくこと、それだけである。

 

九条が弁護士として探究する道にこの価値観があることはまちがいない。彼は、あらかじめ用意された依頼人の記号的な要素に左右されない(弁護士を目指している)。貧乏だから、金持ちだから、彼の態度が変わるということはない。九条がすることはただ、はなしをよく聴くことだけだ。ここまでは小山と同一だ。しかし小山は、それをじしんの思い描く「正しい世界」の枠組みのなかに組み込もうとする。くりかえすようにこれはただの勘だが、娘についてもそうした窮屈さのようなものが感じられるというはなしだ。そして嵐山はさらにわかりやすく、刑事の二元論的思考になれきっているぶん、あっさりと、娘さえも「メンヘラ」という一語のなかに回収してしまう。たしかに、愛美はメンヘラと呼ばれがちだろうし、小山はクズだろう。しかしその輪郭はにじんでいる。クズとクズでないものとの境界線はあいまいだ。小山にもそういう面、クズでないぶぶんがある、というはなしではない。そういう想定をせずにあっさり「クズ」とか「メンヘラ」とかいうふうにひとや事物を硬質の語に回収してしまうときに、なにかを見落としてしまうのではないかと考えていないこと、それが問題なのである。それがげんに、嵐山から娘の「真相」を隠し、唯一のチャンスだった電話を取り逃させたのである。

 

こうした具合に、傾聴という意味では九条と小山が、ロゴスのやたらな行使という意味では小山と嵐山が似通ってはいるが、ぜんぜんちがうともいえるふうになっている。では九条と嵐山は似ているのかというと、前回の、小山の態度に怒る描写だ。あれはなにかというと、「じぶんの娘」のことをおもったときの行動なわけである。嵐山はじっさいじぶんの娘のはなしをしているのだから当然だが、九条はまちがいなく莉乃のことをおもったはずだ。こうして、「娘」は一般化を回避する。それぞれの父に、それぞれの「娘」がいるのだ。この意味では小山もそのはずだ。役割を演じるようなしかたではありながら娘と良好な関係を築きながら、愛美についてあのような言動ができる、また嵐山への感情移入もまったくしないというのは、紗里奈以外のことはどうでもいいからなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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■『二度読んだ本を三度読む』柳広司 岩波新書

 

 

 

 

 

 

「若い頃に繰り返し読んだ名作は、やはり、特別な作品だった!小説家が若い頃に読んだ本を改めて読み直すと、本は自分自身を写し出し、はるか遠くの世界と自分とをつないでくれていたことに気付く。若い人はもちろん、全ての人への読書案内。『図書』好評連載」Amazon商品説明より

 

 

 

『ジョーカー・ゲーム』の柳広司による名作評論集。

 

じつは『ジョーカー・ゲーム』は未読。柳広司にかんしては随筆的なものをいくつか読んだことがある程度である。ぼくではジョーカーゲームはアニメだった。深夜枠のアニメをうまれて初めてみたのがジョーカーゲームで、この作品はオタク向けのものではなかったが、あの夜遅いへんな時間にアニメを見ることに抵抗がなくなったのはジョーカーゲームのおかげなんではないかと考えている。特に相方のほうがこのアニメにははまって、あまり小説は読まない彼女に原作小説もしっかり読むという得難いことが起きて、なにか他人とは、無関係な作家とは思えないのである。ぼくがどれだけすすめても読まないのに・・・。

 

本書は『図書』に連載されていたもので、筆者がこれまでの読書人生で二度以上読んだことのある本を厳選して、ひとつずつ紹介していくというもの。必然的に名作系のものばかりになるが(歴史を越えて残る作品というのは当然非常に優れているものが多いのだから)、モノをしらないぼくはそのあたり意外に読んでいないものも多いのでおもしろかった。たとえば『ガリヴァー旅行記』とかは、たぶん児童書でちょっとくらいなら読んだことあるとおもうけど、くわしくは知らなかった。まさかそんな終わり方をする小説だったとは・・・。

さらにいえば、複数回読むとなると、それだけすばらしい作品ということになるだろうが、作家としてはその「紹介する作品」にも、セルフイメージがともないがちであり、奇抜なものをセレクトしがちだろう。そういう意味でもおもしろかったし作家への信頼を新たにした。よく読み返す本ということでシャーロック・ホームズを、山月記を、山際淳司をあげるのって、けっこう勇気いるはずだ。まあ、このかたにかんしては、ホームズと漱石は「骨がらみ」なので、自然といえば自然なのだろうが。

 

継続読者にはおそらくおわかりの通り、本書はぼくの「モノをしらない」という苦悩に対応して購入したものの1冊で、ほんらい常識レベルで読書人が読んでいなければならないものに、改めて直面しようとして手に取ったものだ。たとえば『カラマーゾフの兄弟』くらいになると、ある意味ではもう読んでいるわけである。いま十代、もしくは大学生くらいのかたには、くれぐれもいまのうちに『カラマーゾフの兄弟』や『資本論』を読んでおくようにいいたいのだが(理解できるかどうかは二の次でいい)、それというのは、大人になるとこれほどの大部の本を読むまとまった時間がなくなってしまうからである。こういうことはずっと書いてきたが、それでも、なんのかんのといって、『カラマーゾフの兄弟』くらいになると、舞台作品を観にいったり、テレビ番組だったり、批評だったり、あるいはツイッターなどにおけるどなたかのささいな発言だったり、いろんな方向からはなしを聞くので、けっこう知っていたりするのだ。それで問題ないといえば問題ない。しかし、ぼくが必要としている知的態度というものは、そうした事物に正面からぶつかって粉々になるようなことなのである。そういう下手くそな生き方というのは、若いころしかできないということもある。だからこそ10代の乱読は糧になるのだが、本書の主眼は、そうした読者の不足感につきあうところにはない。あとがきにそのことが書かれているが、「年齢を重ねた者には、年齢を重ねた者なりの読書の仕方がある」のだ。すでに10代を過ぎたものが、本書に書かれているものを経験せず大人になり、そのことを後悔するということはありうるだろう。しかし、その人物、ようするにぼくにも、実りのある10代はあったわけである。そのときにむさぼるように読んだ本が、あったのだ。それを読み返してみるのはどうですかと、こういうふうに、じしんの経験を通じて提案するのが本書というわけなのだ。そういうことであるなら、本書で選ばれる本はなるべくいろいろなひとが読んでいる本、読者とかぶる可能性の高い本が望ましい。こうしたわけで、名作系のものが多めなのではないかとおもわれる。

では10代のころぜんぜん本を読んでこなかったひとはどうすればよいのかということになるが、このはなしは読書に限らないかもしれない。もちろん、本書をガイドブックに本を選んでいくこともできるし、ぼくもそうするつもりである。しかし本書が本質的に描き出していることは、すでに自己を構成して久しい、当然とみなされている要素の点検、もしくはあらたな吟味なのである。若いころ感動し、原体験となり、感受性の種、論理構成の出発点となっているような事物は、読書でなくても誰にもあるだろう。こういうものを、それが人生の基盤として不動のものとなった大人の状態で、再び味わうのだ。新しいものを取り入れて増幅するばかりが知的態度として立派なのではない、じしんを点検して再起動するような作業も、生のなかばでは意味があるのではないかと、このような提案であるとぼくは受け取った。

 

 

 

 

 

 

 

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第47審/事件の真相⑦

 

 

 

 

ついに嵐山と小山が取調室で直接対決だ!今週はほぼまるまる1話ダイアローグで成り立っている。

 

復活した愛美のスマホから美穂という友人を探し出し、裏アカの存在を教えてもらうとともに、いろいろ情報を手に入れた嵐山は、小山という当時の彼氏らしき男に当たった。これは、前のエピソードで笠置雫がAVデビューした会社の社長である。当時の小山は愛美含めた周囲の女性の弱みを握り、売春などさせていたようだ。

しかし今回はどんな容疑で連れてきたのだろう。嵐山は詐欺だという。京極をホテルに泊めていた件だ。ヤクザは記名をするタイプのきちんとしたホテルに宿泊できないから、京極は小山の借りた部屋に泊まっている。それをいっているのである。防犯カメラにもうつっているから証拠もばっちりだというが、これはいうほど「立派な詐欺」なのかどうか、よくわからない。

 

小山は黙っているが、嵐山は九条に20日間黙るようにいわれたんだろうと、おそらく図星なことをいう。嵐山は続いて外畠のことを持ち出す。外畠は誰かに拉致されて股間を焼き切られた。彼はその黒幕が働いていたデリヘルオーナーの久我だとおもっている。というか、じっさいその件で拷問されるのだということを、その場で壬生がそういっている。だから外畠は久我の車に火をつけて仕返しした。だが、そもそもそのストーリーじたいがニセモノだと、嵐山は見抜いている。人気女優のしずくがつぶれたのは外畠のせいであり、その報復なのではないかと。

しずくの件は今回のはなしに直接はからまないが、嵐山がなんでも見抜いているとおもわせる効果はあるだろう。次に嵐山はついに小川愛美の名前を出す。嵐山は離婚しているというはなしなので、母親の姓が小川なのだということだ。小山はふつうに忘れているようだが、10年前に殺された件を持ち出すとわずかに反応する。

嵐山は小山の女衒みたいな仕事を言い当てる。小学生にまで売春させてたとか・・・。さらに、お客には政治家や官僚までいた。どうやら愛美はこれを暴露しようとしたらしい。だから殺したんじゃないかと。いままでのはなしでは小学生の件や政治家のはなしは出てこなかった。描かれていないところで情報を得たか、あるいはここからさきは嵐山の勘なのだろう。

じっさい、これは勘なのかもしれない。ここで急に小山がしゃべりだすからだ。嵐山が微妙にまちがったことを言い出したので、ついうっかりゆるんでしまったように見える。逆にいえば、沈黙していたそこまでのぶぶんはぴったり正解なのだということだろう。

小川愛美さんには気の毒だがもう解決した事件ですよねと小山が問う。隠してもしかたないことなので、愛美と知り合いだったことは認めるようだ。事件はなにも解決していないという嵐山の顔は悲しげだ。そこで小山は納得する。このタイミングで嵐山が刑事だという愛美の父親だと、ようやく気が付いたのかもしれない。

小山は、愛美が父親の使ったあとの風呂を入れ替えていたという。たいがい入れ替えるとおもうが、げんに言葉にされるショックなものだ。

 

そのように、ことばにできない理由で、つまり生理的に父親を嫌う娘の親というものは、娘の話を聞かないものだと、小山はズバリ的確に嵐山を貫く。夫婦仲も悪いので、母親の悪口を聞いて育つことにもなる。

それでも嵐山は、それは自分自身のはなしではないのかと、いちおう反撃する。小山がAVメーカーなどやっているから娘にも嫌われるんだろうということだ。だが小山も一筋縄ではいかない男である。それは職業差別である、そもそもじぶんは問題を抱えている女性を傾けるものであり、結果としては逆に耳を傾ける立場になる。娘や妻とも関係は良好だと。

さらに小山は、愛美は嵐山じしんがふだん逮捕している金と男しか興味がない連中と変わらない「売春婦」だという。いまの小山の「職業差別」や「問題を抱えている女性」のはなしからすれば、「売春婦」だからなんなのということになるが、嵐山は特につっこまない。

 

 

九条との面談で、今回はじめて嵐山が昔の女の父親だと知ったと小山が語る。いちおう、九条には「逆恨み」といっており、愛美殺しについては無関係ということになっている。犬飼が壬生の命令で動いていたことまでは判明したが、その先、京極、小山については、まだ厳密には明らかになっていないので、まだ少しは小山が黒幕ではない可能性もある。

小山はなにしろ20日間も失うことが不愉快なようだ。父親も鬱陶しいが娘も鬱陶しかった、うっかり妊娠・堕胎させてからスーパードメンヘラになって死んでもなお鬱陶しいと、聴き手を集中させる種類のフロウ感のあるしゃべりである。問題のある女性やヤクザとわたりあってきた小山らしいといえばそうかもしれない。

その言い方は気に食わないと、九条はいう。しかし仕事はすると。

 

職場に戻った嵐山が、悔しさから机を叩いている。同時に、娘をもつものとしての九条も、小山のあまりの人でなしっぷりに、車のなかでハンドルを叩いてうつむくのであった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

車のなかが個室として、プライベート空間として描かれるのはウシジマくんでもよくあった。もっとも印象的なのはサラリーマンくんの小堀である。理不尽な毎日に疲弊しながら、小堀は車のなかで絶叫することで、これをどうにかこなしていく。最終的にはこなすことができなくなっていったが、とにかくそうしていた。ウシジマくんでも描かれたことがあるように、乗車する際に人物ではないものがドアをしめると監禁になるということは、ドアをしめたときの社会との切り離しの強さを示してもいる。ふつう、こうした距離の概念は公私の区分のようなことによく用いられるだろう。じっさい、車のなかは私的空間のわかりやすい事例であって、公的な関係性の網目から解き放たれる場所ということになる。ところが、あまりにも公的空間で疲れ切ったものたちは、本来等価、もしくは上位にくるはずの私的空間を調整に用いることになる。そうした生き方は長くは続かない。げんに小堀はそれではもたなかった。同じことが今回の九条にも見られるわけである。

どうしてこんなことにこだわるかというと、九条は私的空間をもたない人間だからである。というと極論すぎるが、九条にとって仕事をしているときとしていないときというのが、あまりちがわないのだ。職場の屋上でテント暮らしというのがそのもっともわかりやすい象徴となる。事件の死者(犯罪者でもある)の飼っていた犬を引き取るし、まったく考えかたの異なるふたりの師匠を同時に尊敬することもできる。それは、彼にとって「世界」がそう単純ではないということが、経験とともに受け容れられていることの結果だろう。たとえば、流木は貧乏人をメインに仕事をする良識派であり、山城は半グレだろうとヤクザだろうと関係なく、刑事事件を中心に、金をもっているものをおもな依頼人としている。しかし九条にはそのようなこだわりはない。金をもっているかどうか、悪党であるかどうか、そういう、事件の前後に時間的に伸びる個々人の事情をもってして仕事をするかどうかを決めたりはしないのだ。結果としてそういうう態度は、弁護士のほうから依頼人を名指しするものではないので、通常厭われるような依頼人の割合を増すことにはなるだろう。金持ちは金持ちウェルカムの、貧乏人は貧乏人ウェルカムの弁護士の依頼人になればそれでいいからだ。わざわざ誰にもそっぽを向いているような九条を取り立てようとするものは、そうした選択のしかたをしらないか、悪党すぎてできないかのどちらかなのである。

依頼人の個々人の事情は、まずはなしを聞くという彼の最初の態度からようやく関係することになる。こういう仕事の回路が、九条に「つねに本人」であることを要請する。それも自然なことなのだ。カウンター越しに金持ちか貧乏人かで客を選ぶものは、当然、じぶんにふさわしい客に向けた特注のペルソナを装着することになる。そうではなく、やってくるものすべてのはなしにしっかり耳を傾ける九条は、つねに九条間人本人であることになる。これは他面では技術的な問題でもあるだろう。要するに、相手のこころを開いて言葉を引き出そうとしたら、こちらもそのように接するしかないからだ。ただ九条のばあいは、最初の「客を選ばない」という身振りによってそれがすでに実現してはいる。それが実現しているということをはっきり示すもの、ひとことでいえば営業活動が、彼では「そっぽを向く」ということになるのだろうが、それもまた、固有の意味があるというよりは、通常の営業活動というものが望む客に向けて踏み込むものであるがゆえということにもなるだろう。そうではなく、気難しい犬と時間をかけて仲良くなっていくときのように、九条は興味がないような顔をして依頼者と接遇していく。これが営業活動の段階から始まっているということだ。

 

こうしたスタンスでいる九条は、私的空間をもたないのである。あるいは、私的空間を公的空間にまで拡張して生きるのである。「弁護士」という条件をつける以前の、ひとりの人間としての「九条間人」として接することが、彼なりの仕事のすすめかただからだ。しかしそれでも、納得がいかないことはあるし、原理的には正しいが認めたくはない現実に直面することもある。小山のような男の弁護がまさにそうだろう。寛容のパラドクスみたいなものだ。九条のありようは、ふつうなら聞き取れないような小さな声まで拾うことのできるものだ。これは彼がそっぽを向いてヒマそうにしているからこそ実現するものである。ところが、これをまっとうしようとすると、やがて京極や小山のようなものも相手にしなければならなくなる。これを拒否することはできない。厳密にはできるが、それをいっしゅの方針レベルにまで引き上げると、途端に彼は特殊なペルソナを装着することになる。ひとことでいえば、客を選ぶようになると、ほんらいそのつもりはなくても、誰も存在に気付かないような小さな声の持ち主が彼に到達できなくなってしまうのだ。

 

ここで、なぜ九条がこのスタンスに到達したのかということを考えると、それは娘の存在があるわけである。第9審の感想でくわしく書いたが、九条は娘の莉乃に全プライベートを預けて仕事に打ち込んでいるところがあるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

莉乃は今年で5歳、このときは莉乃の誕生日で、九条法律事務所の設立も5年前である。彼のほんとうの姓は鞍馬で、事情があっていまはこの名を使わず、別れた妻の名字をつかっている。つまり、莉乃と「九条間人」はほぼ同時に誕生していると考えられるのだ。

九条がいまふつうの結婚生活をして莉乃と暮らしていたら、そこには通常の家庭、つまり私的空間が広がっているはずである。だが彼は、「莉乃」が失われるとともに、ある種の覚悟をもって私的空間そのものを生活から抹消したのである。その彼が、小山の件で嵐山に感情移入するのが今回の場面だ。九条もまた仕事人間であり、離婚していなかったとして果たしてまともな生活ができていたかということもここにはあるかもしれない。いずれにせよ、彼は莉乃のことを考えないわけにはいかなかった。莉乃が小山のような男にいいようにもてあそばれたらということを想像しないわけにはいかなかったのである。これが、幻肢痛のように痛みをもたらすのだ。「莉乃」が失われたことが、そもそも現在の九条を成立させてもいる。そのように私的なものをもたないものでなければ、九条のようなふるまいは現れない。そしてそのことがいま、小山を通じて回帰しているのである。

彼が「九条間人」となって莉乃から遠ざかるのは、たんに離婚と身内との不和が原因なのだろうが、そこに加えて、なんとなくだが、莉乃を守ろうとするようなところもある感じがする。そこのところはこれからを見ていかなければならないが、少なくともいまのじぶんのような生き方に娘を近づけたくはないのではないかなとはおもわれる。だが、結果としてはむしろ招いてしまっているわけだ。「九条間人」でなければ、小山を弁護するようなこともなかったかもしれない。だが彼は客を選ばない方針を貫いた。私的空間のいっさいを取り除くことが、「莉乃」を仕事の世界から遠ざけることだとすれば、ここには背理が生じることになる。結果として彼は娘を失わせるようなものの味方をしなければならないからである。

だが、車内は象徴的には私的空間であるとともに調整装置である。たぶん九条は問題なく小山の弁護をするのだろう。

 

嵐山もある意味では九条と似た者なわけだ。ただ、彼は最初から仕事人間だった。家族を邪魔なものくらいに考えていた可能性もある。その償いが、今回の仕事になるわけだが、小山がいうように、嵐山は愛美のはなしを聞かなかったわけである。これが反転したものが九条の現在の傾聴のスタンスだというふうに考えるとおもしろいかもしれない。嵐山は、もはや聞くことのできない娘の声を聞こうとしている。そのメッセージのかけらをすこしずつ集めているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第46審/事件の真相⑥

 

 

 

 

刑務所にいる犬飼が別の男にくわえさせている。相手は、嫌がってるでもなく、どこかすすんでやっているような気持ちのようだ。

犬飼は10年前の事件のことを思い出しながら達している。といっても反省とか後悔とか、そういう否定的な感情としてではなく、ただただ歓喜の、快楽の情景としてである。後ろ手にしばられた愛美が全裸で倒れており、首にまわされたひもが、左右に立つ別の男に引かれている。よだれや鼻水をたらしながら腰を動かす犬飼は、目のところにある傷跡がなければ別人のようだ。そのまま彼女は死んでしまったのだろう。絞めることで膣が締まることもあるというから、「どうせ殺すなら」くらいの感覚で、犬飼はやらせているのだろう。殺すことがうえからの命令だったわけなので。

少年院や刑務所でのこういう関係性というのはよくわからないのだが、こういうとき相手にある男というのは、本人にとってどういうところに分類されているのだろう。うまくなっただろうと、なんでもない調子でいう男の指を犬飼が折る。キモいと。キモいのか・・・。

 

 

嵐山が笠置美穂に電話をかける。娘のメールでわからない言葉があるから教えて欲しいと。p5とかp7とかいう言葉だ。このpはパパ活のpで、要するに売春の値段ということだという。2時間1とか書いてあったらギャラ飲みで、p5なら5万円で売春。

怖いので「こやシャン」のことについてはあまり深く話したくはないが、じぶんが親になってみて、嵐山の気持ちもいまではわからないではない、ということで、美穂は少し協力的になっている。そのはなしでは、若い愛人を何人も抱えて、キメセク(をしたという動画などの証拠?)や暴力団をちらつかせて売春をさせていたと。美穂じしんはかかわっていないようだ。

美穂は、「父親と仲悪い女」の一般論を語る。じぶんも、愛美もそうだったのだろうというはなしだ。親に認められた経験がないと、自分に自信がなくなり、歪んだ関係でも、相手の都合に合わせた恋愛をしてしまうと。利用されているだけなのに、しかもそれをどこかでは理解しているのに、現実をごまかしてしまうのだ。

 

九条の事務所に金ヶ原という、すらっとした女がきている。うしろには壬生が見えるが、このあといっしょに帰っていくので、壬生が連れてきたらしい。

お悩みは、昔ヤクザとつきあっていて、自宅を薬物の隠し場所にされ、その件で捕まって「ヤクザと関係がある」ようなことになってしまったため、銀行口座が作れないということだ。

なにか店をやっていて、いま売上も好調だが、ビルのオーナーが変わって、家賃の銀行振り込みができないなら退去してくれというはなしになっているのだ。つまり、銀行口座はずっとなかったはずなので、それまでは現金で手渡ししていたということだろうか。しかし新オーナーはそういう融通は利かせてくれない。というより、金ヶ原のようなものを排除するために、そういう手をとっているのかもしれない。

 

九条は、口座をつくれるようにするとあっさりいう。どうやるのか、壬生も興味がある。すると九条は烏丸に合図する。烏丸はものすごいあたまがいいので、細かいとこまで完全に記憶していて、九条はそういう面でも重宝しているのかもしれない。

このやりとりの感じでは、「できるかできないかといえば、できる」ということなのかとおもったが、どうもすでに依頼としてはなしはすすんでいる状態だったっぽい。まず警察庁のデータベースにそのヤクザの名前がないことを確認、次に銀行協会に事故情報がないことを確認、最後に「不起訴処分告知書」をもって銀行にいくと。なんのことやらわからないが、その最初の警察庁の確認がいちばん苦労するということだ。一般公開している情報ではないからふつうは教えてもらえない。教えてもらえないのに、口座開設できると九条が断言するのは、もうそのはなしが済んでいるからだ。なんとなくへんな描写だが、一定方向に時間が進む映画的描写というよりは、キュビズム的な表現だというふうに考えればよいだろうか。まあ、真鍋作品では珍しくない構成だけど。

どうやって調べたかというと、元刑事の探偵をつかったのだという。壬生はそのはなしに妙に食いつく。探偵事務所を作りたいのだそうだ。嵐山みたいな正義感は嫌いだが、そういう悪い刑事は好きだと。

 

壬生らが帰り、ブラックサンデーといっしょに九条も寝言をいいながら寝ている。烏丸が上着をかけると九条は起きてしまうが、烏丸のせいではない。京極からの電話なのである。

 

 

 

つづく。

 

 

 

最後の場面では、前々回美穂伝いにその正体が判明した「こやシャン」、小山義昭と嵐山が取調室で対面している。

嵐山は、娘の死を経ることで、刑罰を貨幣のようにとらえる刑事から、その過程までこみで総体としての「真相」を暴くものになっている。小山は、ある意味ではこの事件の真犯人だ。彼は愛美がじぶんの悪事こみで刑事である父親に打ち明けようとしているのを察し、京極に相談した。京極は壬生に命令し、壬生は犬飼に命令した。そして、なにも考えていない犬飼は、300万だけもらって愛美を犯し、殺したのである。

この事件で、犯罪を実行した犬飼は逮捕され、罰を受けている。嵐山はそこに納得がいかなかった。そこには、娘の隠された表情があることを、遠く受け取ったのである。この隠された顔、「本当の顔」というのが、「真相」のことである。

 

前回、犬飼がぜんぜん反省をしていないことを受けて、それも当然だということを考えたが、これはじっさい、彼には動機がないことが、これをもたらしてもいるのだった。犬飼は300万を受け取って愛美を殺害した。これを彼は後悔している。要するに、そのことで喰らった10年の刑は、300万とつりあいがとれないということにおいてである。この後悔のなかに愛美の気配がいっさい感じられないことが異常でもあるのだが、彼のこの10年の拘束期間は、罪に対する罰としてではなく、300万円の対価として支払われたものだったのだ。だが、ふつう「動機」があって発生する「犯罪」は、このように犯罪が発生する前の状況を、交換の体系によって解消することができないものである。犬飼は、ごく単純化すれば、事件の前の段階で、「300万」と「10年」を交換することに同意したわけだ。この考えかたでは、犯罪と刑罰が対になっており、双方が実行されれば消滅するもののようである。ところがじっさいにはそうではない。なぜかというと、「動機」には対概念がないからである。むろん、小山もそうだし、誰かが誰かを殺したいとおもう「理由」じたいはあるだろう。その「理由」の段階から、負の贈与とでもいうか、「刑罰」で完結するこの交換体系ははじまっている。しかしここで生じている前段階の交換は、「個人の感想」を出ないものである。社会的に禁止されている「犯罪」と、それに対応する「刑罰」はそうではない。明文化され、数量化された、「目に見えるもの」だ。「動機」は、こうした負の贈与が社会化される閾値にただようものなのだ。

この「動機」が、事件の「真相」に踏み込むよすがになる。犬飼がまったく反省していないのは、そもそも動機がなかったからだ。動機がないところに、突如「犯罪」が発生した。「刑罰」は通常反省をうながし、この「反省」が、「動機」にいたらしめたもろもろの出来事を追想させる。「動機」の対概念は、おそらくこのときにしかあらわれない。しかしそもそもそれをする理由がなかった犬飼では、「動機」を解消する「反省」もあらわれえないのである。

こう考えると、嵐山はある意味では一貫しているのだ。彼は、娘の事件の「真相」を追い求めるにあたって、もはや解決している事件の「過程」を探ることになる。実行犯である犬飼が捕まっている以上、「犯罪/刑罰」の等価交換的体系で物事を見る限りで、この行為には意味がない。しかしその向こうに娘の本当の顔、つまり「真相」があるはずだと彼は考えたというはなしだ。このことを刑事としては更新されたのだというふうに考えてきたが、ひょっとすると、彼はこの段階でも、やはり対概念を追い求めているのである。というのは、この犯罪には「動機」がなかった。ここでは対概念、等価交換などということばを用いてきたが、これは厳密ではなかったかもしれない。これはまさしく贈与、「事件の真相」としかいいようのないなにか不定形のものが、動機、犯罪、刑罰、反省というふうに姿をかえていく過程のようである。ここで「動機」が、「犯罪」としてこの「事件の真相」を社会化するきっかけになる。刑法はここから先しか観測しない。というより、それしかできない。しかし、この変化の過程を見つめてみれば、突如として犬飼の人生に「犯罪」が出現したのは奇妙である。こういう目線が、父として娘のことを見てこなかった後悔も含めて、嵐山のなかに出現したのである。

小山は、そうして社会化されなかった犯罪、また前景化されなかった娘の父に対するおもいのなかにいる、非常に重要な人物ということになる。これを、嵐山は、取調室という、非私的空間に引っ張り出したのだ。

 

「動機」こそが、変容する「事件の真相」の社会化するポイントである、というのは完全にいま考えた思いつきなのだけど、考えてみれば京極はホワイトニングの男である。善も悪もなく、意識も無意識もなく、マグマのように情念と物理的事実が入り乱れるエスのような空間があったとして、そこから、ある事象が社会化を果たそうと突き出してくる。これが「犯罪」であると社会が判定するとき、京極はそれを漂白する。そして、じっさいにそれを行う(ことになるのかもしれない)のが九条であるということだ。しかし、この、「動機」をラインとして、湧き出る「社会化された行為」に注目するのが縦のラインだとすれば、九条はむしろ横のラインに注目するものである。社会化されてもされなくても、個々人の感想レベルでは、そこに因果関係や感情の動きがある。依頼人の声に耳を傾け、寄り添うというのは、そういうぶぶんに注目するということだ。こう見ると、一般的には悪徳弁護士と見做される九条が、京極についてはどちらでもないような微妙な反応を見せているのも、クリアに理解できるかもしれない。九条的には、京極もひとりの依頼人だと考えたときには、問題もない。しかし京極が行うホワイトニングは動機から始まるアナログな「真相」の変容がないのである。傾けるべき声もなく、寄り添う人間もなく、ただ社会化された現象を法治国家で成立可能なものにする技術だけが九条に求められるのだ。

 

動機のない犯罪行為を反芻し、快楽として受けとめている犬飼は、悪党としてもいかにも小物である。だが、大人物でなくても、いやそれだからこそ、後先考えずにとんでもないことをやらかすこともある。外畠だって小物だったが、それだからこそ、久我の車に火をつけることができたみたいなところがあるのだ。まあ、とはいえ、犬飼が襲ってくるのに反撃するまでもなく、社会的にきまりをつけたあとの犬飼の存在はリスクでしかないだろうし、逆に壬生や京極のほうからなにか動きがあるかもしれない。

 

今回登場の金ヶ原は、正直いってなんのために出てきたのかよくわからない。ということは、新しいストーリーラインが開始するということである。重要なのはおそらく壬生の探偵事務所のくだりだろう。「元刑事」について壬生は食いついているわけだが、その反応に、烏丸も反応している。古典的な意味で探偵と刑事は同義であることが多いが、ここに「元」がつくような状況というのは、以上述べたような社会化が果たされているかどうか、というところがポイントになる。「探偵」もまた、地層的には社会化の閾値あたりにいる、もぐりこむものである。今回の金ヶ原の件では、ちょっと難しくて細かいことはよくわからないが、なにしろ元刑事が警察庁のデータを入手できたことが決め手のようだ。そういう手段で入手した情報をそのまま使うことはできるのかなど、やはりよくわからないぶぶんはあるが、ともあれ、金ヶ原は探偵的なものの運用の実例ということになるのだろう。

 

 

 

 

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第120話/標高

 

 

 

 

複雑なたたかいのあいだに練りこまれた嚙みつきで全身血だらけの宿禰。僧帽筋をちぎられて投げもできない。接近し、組み合った彼は、ジャックの骨盤をとる。握力はまだ生きているのだ。しかし投げられない。どうするかというと、跳躍し、落下させたのである。

 

そうしてジャックが地面につきささる。あたまだけでささっているのではなく、ちょうど前に倒れた手や方のあたりが支えになって、ぶっささったまま静止している感じだ。落下に投げのパワーを加えてはいないのだし、それほどの威力でもないとおもわれるが、そのまま倒れたジャックは動かない。

光成は勝負ありを告げようと手をあげる。が、同時に宿禰もうずくまってしまった。なにしろ頚動脈を切られているのである。ほかにも、ひとつで救急車レベルの怪我が全身にいっぱいだ。肉体の強さとは関係のない、出血多量状態なのである。しかも、それを、倒れた頭上のあたりで感じているらしきジャックは、ちょっと笑っているっぽい。気を失ってもいなかったのか。

そのままジャックは、勇次郎が語った「決着」について述べる。頭部の標高が高いほうが勝ちというあれだ。本家では「頭部」といっていたはずだが、ジャックはそこを微妙に言い落とし、「身を置く」という言い方をしている。

ともかく、倒れているジャックとうずくまっている宿禰という状況なので、頭部だろうが身だろうが、宿禰のほうが高いところにいる。しかし、ついに宿禰は意識を失い、倒れてしまった。ちょうどじぶんのあたまの横にきた宿禰の後頭部をジャックがなでる。こんな決着もあると。この時点で光成から、実況・観客の合意こみで「決着」が告げられる。まだジャックは寝たままなのだ。

 

身軽に回転してジャックが起き上がり、両拳をあげて歓声に応える。嚙道のおひろめとしてじゅうぶんないい試合だった。ぜんぜんダメージはないようだが、宿禰を見送りながらジャックは内心、最後の骨盤投げについて考えている。最初にあれをやられていたら決着していたと。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

骨盤は特に痛んだりはしていないようだ。肋骨よりはじょうぶそうだし、ジャックだしな。

 

宿禰には、なにしろ「きちんと負ける」ことが必要だったと、これまでのところでは考えられた。勇次郎が宿禰につきつたものは、「宿禰は勇次郎ではない」ということだけだった。この「非勇次郎」という現実は、あるひとにおいては、圧倒的オス度との比較において、自身のメスを感じるというふうに受け取られる。だが、勇次郎でないものが「非勇次郎」であるのは当たり前のことだ。それをことさらに重要視してしまうのは、勇次郎の強さが常人にとってもファイターにとっても看過できないものだからだろう。これもくりかえされてきた描写だが、勇次郎は、相手の可能なことを目の前で実現してみせることで唯一無二性を損ない、その交換可能性をつきつけるのである。このメス云々のところではそういうふうには描かれていないが、基本的に勇次郎は相手を否定するものなのだ。たとえば探検家では、彼がそれまでの人生で積み上げてきたささやかな「男らしさ」みたいなものはなんにも意味がなかったとつきつけたろう。宿禰にとっては、肥大する自我の極北が、勇次郎との接触によって告げられた感覚だろう。

そうして、宿禰ではようやく「未知」を受け取る背景ができた。考えてみればこれは、母親とのまどろみのなかに介入する、エディプス的な父親のようなものにもおもわれる。大洋的な、連続した母親との世界に、父は社会性を身にまとって割り込んでくる。女の子とイチャイチャしている段階の宿禰は、いってみれば「それはいやだ」といっていたようなモラトリアム的なもののわけだ。女の子とのイチャイチャは、勇次郎に襲われてメスを感じてしまった探検家が、危険な挑戦をくりかえしてじしんがオスであることを確認し続けていたことと同じ行いだ。そうじゃない、おれはたしかにオスなんだと、思い込もうとしている段階なのだ。

このモラトリアム的段階は、しかしながらファイターとして成長していくためには邪魔かもしれない。というより、これはチャンスのはずなのだ。宿禰ほどの素質であれば、他者をいっさい無視して、自我の海のなかにこだわっていても、大きな獲得は見込まれるだろう。ふつうはそれでいい。勇次郎が「他人」であるから、なんだというのかというはなしだ。ある日突然モーフィアスがあらわれて、「この世界は仮想現実だよ」といったからといって、目の前のステーキがおいしい(と感じられる)という事実に変わりはないわけである。しかしそこには限界がある。限界があると、そのとき知ってしまう。それを、勇次郎は告げたわけだ。たとえば探検家は、あの件は悲劇だったが、勇次郎を克服する必要はない(そもそもできない)。勇次郎はあの件ではただただ「悪」であり、理解する必要もなければ、じぶんを否定することもない。だが宿禰レベルのファイターはそうもいかないだろう。こんなチャンスはそうそうない。じぶんが小宇宙に過ぎないということを発見できる機会など、宿禰くらいになるとしょっちゅうあることではないのだ。その先にいくためには、「未知がある」という状況を身体的に馴染ませなければならない。大洋的自我に介入する父を拒否するのではなく、精神分析的には超自我として読み替え、別の相に移行するのである。

ジャック戦はその好機だった。そして、それはたぶん達成された。例の、リアルシャドーの相手としての、「爆発する力士」(第118話)である。ここに、嚙みつきの要素を付与すべきだったと、闘争中に彼は考えていたのだ。もちろんここでいう「嚙みつき」は今回にかんする特別の要素で、本質は予測不可能性、未知にある。彼の「爆発する力士」とのたたかいは、動作の「抜け」を確認するのにちょうどよい。腕の内側に抱え込んだなら、相手はしたからすりぬけていく。それを足で捕獲したならば、今度は上から、また手と足のあいだから、ちからが逃げていく。そうして、全方向に250キロのパワーを放出する仮想力士は、いま宿禰がとらえきれていない箇所を指摘していく。これを制圧しようと努力する宿禰は、爆発飛散しようとするものを一箇所におとなしくさせておく、不均衡を是正するものにほかならない。この志向はおそらく、彼が邪を祓って聖地を守ってきたことと無関係ではない。大地のわきたつ怒りのようなもの、あるいは人間の奔放不羈な衝動のようなもの、そうした不埒なものを、四股の衝撃で制圧する、それが宿禰の使命である。こういう点で、彼は一貫しているのだ。成文法のようなものと考えてもいいかもしれない。

そういう彼が、制圧すべき対象を、量的に過大であることを超越して、未知を含むものとして想定しようというのである。敵、といってわるければ「対戦相手」とはそういうものであるということを、宿禰は今回学んだわけなのだ。

 

試合はジャックの勝利となったが、なんかよくわからない。決着の宣言じたいはジャックが寝ている時点でされている。要は、どっちも倒れて、ジャックはふつうに起きているので、勝ちということらしい。ジャックはここで勇次郎の「標高」を持ち出したが、今回はどうも「頭部」の要素は加味されなかったようである。最後にジャックが宿禰のあたまに手をそえることで、手のぶん、ジャックの位置は高くなる。そういう意味ともおもわれたが、「こういう決着もある」といういいかたを考えると、これもよくわからなくなる。どっちも寝ていて、標高もほとんどちがわないのに決着することもある、くらいのことだろうか。まあいずれにしても、いかにも勇次郎らしい、そしてかつてのジャックらしい、数字で表現可能な勝敗にかんして新しい可能性を示した、くらいのこととおもわれる。じっさい、そこまで明確に勝敗がわかるということは最近のバキ界では少なくもなってきているのだ。ただ、最後のジャックの元気さは、大相撲戦のときの地下ファイターたちのようで、なにかまだ余力があるようでもあるのが気になるが・・・。

 

次回は4月7日発売19号。

 

 

↓バキ道13巻 5月6日発売

 

 

 

 

 

 

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