すっぴんマスター -48ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第119話/ナイス漢(ガイ)

 

 

 

 

嚙みつきだけではなく、ジャックはもともと超一流の打撃巧者だった。ということで、細かな連打で宿禰もダウンするが、大きな一撃なら耐えることもできる。力士として、強い衝撃がくると覚悟を決めれば、ダメージ云々に関わらず、立ち続けることができるのだ。

 

宿禰がつかみ、ジャックが嚙みつく、そういう、両者の武器をかわりばんこに示すようなところから、激しい打撃戦になっていったわけだが、じつはこのときも嚙みつきは行われていたのである。張り、蹴るたびに、サクサクと宿禰の手足が裂かれていくのだ。

ちょっと皮膚から血が出る程度のものならなんでもないだろうが、なかなか深い傷も多いようだ。もちろんそれだけではなく、ジャックは通常の打撃も行っている。打撃戦が互角だとしても、宿禰はじぶんの攻撃のたびにカウンターとして嚙みつきをもらっているわけで、ジャックのほうがはるかに優勢といえるかもしれない。

そうしてスムーズに複雑な攻防のなかに織り込まれる「嚙(かじ)り」に、体術としての完成をみて、宿禰はちょっと感動しているみたいだ。ケモノの特権、象徴的行為ともいえる嚙みつき、非人間的行為であるこれを、じつに合理的に、人間らしく闘争のなかに溶け込ませているのである。そんな前例は人類史にもまたとはない、とまでいっている。「ナイス漢(ガイ)」だと。ジャックは、女子供の象徴的反抗の技術としての嚙みつきを持ち込んでいるので、むしろ「漢」からは遠いのだが、その執念に反転した男らしさみたいなものを見ているのかもしれない。男らしさにこだわらない男らしさというか。

 

 

白目になってだいぶダメージがたまっている様子の宿禰が、武蔵がやっていたような、脱力の落下を利用した低空ダッシュをしかける。嚙道を極めたジャックには人体が血管などの嚙みつく対象で構成されたものに見えているようだ。そして、衝突とともについに宿禰の首筋、頚動脈に嚙みつくのだった。

だが、どこを嚙まれるのかはともかく、最初から身体を的にかけて接近するつもりだった宿禰である、彼は嚙ませたままジャックの骨盤をわしづかみする。しかし僧帽筋がやられて引く動作で投げることはできない。そこで宿禰は、協力な指先でジャックを固定したまま、跳躍する。空中で回転、これを地面につきさすのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

なぜか実況が決着の語を疑いつつくちにしているが、どうだろう、投げじたいは、背中がつかえないぶん、対した威力ではないようにもおもうのだが、つきささってるもんな。

ともあれおもった以上におもしろい試合になっていてうれしい。

 

嚙道は、ごく基本的なところでは、カウンターの技術になる。おおざっぱにいって、ふつうの格闘技の技術体系というものは、いくつもある攻撃方法のどれからも等距離のところに、標準的な構えを想定する。要は、空手家が左自然体といって、左足を前に半身を切って、ゆるくガードをあげている状態というのは、そこから生じるすべての攻撃、もしくは防御行動のどれを選んでも、同じくらいの時間しかかからないものなのである。たとえば力士の立ち合いの構えでは、突進することや低い位置からの投げはできても、突きや蹴りを行うにあたっては一挙動余計な動きをとらなければならなくなる。こういうふうに、構えは、その技術が備えているものを総体として把握し、いつでもつかみとれる位置にからだを置くものなのである。

前々回、ジャックは依然として打撃ファイターとしても強いということが示され、ちょっと風向きが変わってはきたが、嚙みつきが口を使って行われるということは変わらない。その意味で、身体の中心からの距離もなにもない、嚙道はいつでも「口」をどのように動かすかというところに注力されたはずである。ここで、宿禰を通してもいわれてきたジャックの「技術」というのが、いま書いたようなふつうの意味とはちがうのかも、というふうになったのだ。ふつうは、じしんの備えている技術を、身体の周辺に散らばらせて、いつでもとれるようにしておくのが「技術体系」であるところ、ジャックは相手の周辺に散らばっている無数の可能性のどれに対しても「口」で対応できるようにしているのではないかと。ひとことでいえば嚙道はカウンターの技術だったのである。

こうしてみたときジャックが到達したのが、顔に向かってやってきた拳や蹴りを「裂く」という動作だったのではないか、というはなしだ。カウンターといってもいろいろあるわけだが、幸いにも、というか、顔面というのはよくねらわれる場所である。手の内がばれて顔面が避けられたとしても、それはそれで、ジャックは顔以外へのダメージで倒れるということはそうないだろう。そして、口にむかってとんでくる手や足を、彼は手際よく裂くのである。

だが、これはじっさいのところそうとう難しいだろう。カウンター全般にいえることだが、ほんのわずか、タイミングを誤っただけで、大きなダメージを負ってしまうのである。さらに、もうひとつの問題としては、嚙みつきそのものの難所もある。ぼくはまず本部戦を思い出すのだが、あのときジャックは強化繊維の上から嚙みついたことで、ちょっと本部がからだを返しただけで、歯をぜんぶもっていかれてしまったのだ。あの経験がジャックに反省をもたらし、金属製の歯が新しくつくられたわけだが、歯茎からぜんぶ金属になっているわけでもない。たぶん、本部の衣服に同じように嚙みつき、同じようにからだを返されたら、やはり歯は抜けてしまうのではないかとおもわれる。ではどうすればよいのかというと、そっと嚙むのである。咬合力の働く方向にとにかく力を預けるのではなく、わずかに食い込む程度のちからで対象へ歯をあてがうのだ。これも、当たり前のことだ。飛んでくる拳にいちいちがぶがぶ嚙んでいたのでは、いまのような状況にはなっていない。宿禰が殴るたびに、拳にジャックが吸い付くというような、なんかおもしろい状況になっているだろう。そうではない。このカウンターにはそれほどのパワーは必要ない。意図した箇所からずれないよう、ある程度固定しながら、あとはタイミングを誤らず、首を振りぬけばよいのである。

もちろん、嚙むものとして、ジャックはいまでも顎を鍛え続けている。嚙道のメインはもちろんそこにある。しかしそれは、今回のような「裂く」タイプのカウンターにおいては、直線では結ばれないのである。勇次郎のようにどこまでも緊張するのでもなく、郭海皇のようにどこまでも弛緩するのでもない、裂くタイプの嚙みつきには、「適切な力加減」があるのだ。その塩梅を、ジャックは修得したのである。

 

 

今回宿禰がいっていた「ナイスガイ」は、なんか意味がよくわからない。わからないが、いちおう、「漢」という字を「ガイ」と読ませているところを拾ってもいいかもしれない。バキ的な文脈では、「漢」は「男らしさ」みたいなものをおもわせる。ところが、ジャックはむしろ男らしさからは遠ざかるファイターである。女子供の技といわれるような嚙みつきをとことん追求してしまうところが、彼の持ち味だからだ。嚙みつきが、一般のファイターから忌避されてきた理由は、いくつか推測できた。ひとつには、ジャックが宿禰の小指を飲み込んでしまったことから理解できるが、「嚙む」が「食う」とそう遠くないところにあるために、これが最終的には人肉食にいたってしまうのということだ。「嚙む」という動作を食事から分離させるのは言葉だ。それこそケモノなら、「嚙む」をただ攻撃方法としてもちいるだろうが、人間はそうではない。嚙んだものはふつう食うのである。それが、ファイターたちに無意識にこれを攻撃方法として見落とさせてきたのである。

もうひとつは、その、それが「女子供」の技だということだ。ことあるごとにバキ世界、特に光成では「男の世界」が強調されてきた。嚙みつきは、思いつかないし、思いついたとしても持ち込むべきではない、「男らしくない」攻撃なのである。

これを宿禰が男らしいと評したというのが、今回起こったことである。そもそも男らしいとか男らしくないとかどうでもいい、強ければなんでもいいというのがジャックの持ち込んだ価値観なので、微妙にかみ合わないようでもあるが、宿禰がいうとまた別の味わいが出てくる。というのは、一回おきくらいに書いていることだが、今回の試合が宿禰の勇次郎戦から地続きだからである。勇次郎は、じぶん以外の人類をメスと規定する。勇次郎に敗れた宿禰が、直後女の子とイチャイチャしたのは、ちょうどホモソーシャルにおいて、男性どうしでの交流が、同性愛嫌悪から「女体」を好むように、そうではない、メスではないと自他に向けて表現するものなのだ。こうした文脈でいう「男らしさ」というのは、じぶんが「非勇次郎」である以上、じしんのなかにはないわけである。じぶんのなかにないもの、世界の広さを痛感させる「未知」、それが、あれ以来宿禰のなかで勇次郎に象徴されているものだ。つまり、ここでの「男らしさ」とは、「未知」のことなのである。

 

 

 

↓バキ道13巻 5月6日発売予定

 

 

 

 

 

 

管理人ほしいものリスト↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

お仕事の連絡はこちらまで↓ 

tsucchini3@gmail.com

 

 

 

■『怪異猟奇ミステリー全史』風間賢二 新潮選書

 

 

 

 

 

 

 

「オカルト、エログロが日本探偵小説を生んだ!? 博覧強記の文学史がここに。18世紀英国ゴシック小説は、フェイク精神、心霊主義、疑似科学、進化論・退化論、観相学・骨相学、セクソロジー、変態性欲と、あらゆる思想・学問を吸収し、日本へと渡ってきた。黒岩涙香に始まり、江戸川乱歩、横溝正史を経て、綾辻行人、京極夏彦へ――怪異猟奇を孕んだ日本ミステリーの成立を解き明かす、異端の文化史」Amazon商品説明より

 

 

 

ぜったいおもしろいんだろうなとおもって読んだらやっぱり超絶オモシロ本だった。風間賢二によるミステリーの歴史。今回もあっさりめの紹介記事。

風間賢二氏を、いま「キングの翻訳で知られた」などと書こうとおもったのだけど、調べてみると案外出てこない。翻訳じたいはしているけど、ぼくの読んだやつではない。じゃあどこでこのかたを知ったのか、はっきりしない。いまではよく知っているかただけど、ぼくはいままでキングの翻訳で知ったとおもっていたので。ユリイカのゾンビ特集のときかな。それとも、キングのどれかの作品で解説を書いていたとか、そんなことかもしれない。ともかく、この手のはなしでは一級のひとだという認識があり、やっぱりそうだったということだ。そのままキング論も出されているので、これもすぐ読みたい。はやく給料安定しろ・・・

 

 

 

 

 

 

よくこんなに網羅的に把握できるものだなというほど、ありとあらゆる人物・作品・出来事をからめて、西洋ゴシック小説から日本の新本格に至るまでの過程が、細かく、楽しく論じられている。あるいはミステリというジャンルのもつ特性ともいえるのかもしれないが、ぼんやりしているとこの分野とは関係なさそうにおもわれるところまではなしは広がっていき、こうした、一般的には真面目な純文学系のはなしからは遠いところにあるとおもわれるミステリーが、実は文芸活動においては本質的なことなんだろうなということをつきつける。かといって、ふつうはここまで網羅的に知っていることはないとおもうが。まさしく博覧強記、おそろしく物知りなひとが、刺激的な批評もはさみつつ展開していく知的興奮まちがいなしの一冊。網羅的な一冊であるぶん、記事でまとめて紹介というわけにもいかず、読者はどこからでもヒントをつまみだすことができる。たとえばゴート人のことだ。いまいわれる「ゴシック」という語が「ゴート人のような」という意味で、侵略してくる彼らのイメージを付託して、基本的にgothには「外部」からやってくる破壊的なものというニュアンスがあるということは、どこかで読んで知っていた。だが、これまではその先がいまいちよくわからなかった。というのは、いま「ゴシック」と呼ばれるものからは、ぜんぜん「外部からくるいやなもの」みたいな感じを受けないからである。

げんにルネッサンス期にゴシックは蔑称だった。これが、18世紀イギリスではよい意味を含むようになっていく。歴史的連続性を求めて再評価されたとか、理由はいくつかあるようだが、反フランス感情というのが大きかった。柔和で女性的なロココ趣味に対立するものとしての、よく野蛮で、よく自然状態なゴシック、といったことである。かくして「ゴシック」の語感から外部的なものを排除する感覚は失せていった。では、それが表現しているものはなにかというと、まがいもの、フェイクの精神だという。従来の美とは、ひとことでいえば秩序に支配されていた。そこから、不均質であり、巨大であり、不気味でおそろしいものに美が見出されるようになっていった。その恐怖の逸楽を、エドマンド・バークは崇高美(サブライム)と呼んだ。ここがこの物語のスタート地点である。いまもむかしもミステリとかホラーといったものが、直観的には人類の到達点、文学的に高い価値があるなどとうけとられながらも、なぜかオルタナティブ的にとらえられるのは、だからまちがっていないのだ。均質的な表面の下にあるエス、合理的なものに対する非合理、それがこの領野なのである。完全にコントロールされた世界の住人、たとえばAIなどからしたら、ゴシック小説からはじまったすべての作品は、過不足なく、もとの意味のgothなのである。

 

宗教とスピリチュアリズムのちがいも、本書を読んではじめてはっきりした。そういう論調で書かれているわけではないが、たとえばぼくは書店員として、スピリチュアル系の本も並べるわけだが、前の店ではこれを宗教の棚においていた、というかたいがいの本屋ではそうしているとおもうが、それが、ずっともやもやしていたわけである。そりゃどこかには置かなければならないとしたら、そこしかないけど、聖書とコレを並べるのはちょっと・・・というような感情である。本書ではディケンズの時代の「スピリチュアリスト」の条件として異界との「コミュニケーション」をあげているのだ。要は、神や悪魔、死んだ人間の霊魂、またそれらが住まう異界を想定することと、そことじっさいに交信する、交信できていると信じることのあいだには距離があって、そこのところがぼくはずっともやもやしていたわけなのである。たまに「これは宗教なのかスピリチュアルなのか、あるいは科学なのか」みたいな本も、ほんとにたまにあるけど、これでかなり識別しやすくなった。

 

 

とにかくとてつもない一冊なので、少しでもミステリーやホラーに興味があるひとは絶対に読んだほうがいいです。

 

 

 

 

 

 

管理人ほしいものリスト↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

お仕事の連絡はこちらまで↓ 

tsucchini5@gmail.com

 

 

 

■『早わかり文学史』出口汪 語学春秋社

 

 

 

 

 

 

常識ない問題のために、とりあえずは自身の得意分野から伸ばしていこうみたいなことで、前に書いたように購入したもののひとつ。大学受験用の学習参考書なので、書評するようなものでもないのだが、読みものとしてとてもおもしろかったので、あっさりめに紹介したい。

 

出口汪氏といえば書店員としては現代文関係の学参でよく目にするかたである。名前のぶぶんが読めなくて、脳内ででぐちなんとかさんと呼んでいたが、今回、でぐちひろし氏であることを学習した。文学史は、不案内ということはないのだが、よりタイトに、明確な知識として身につけておきたいという気持ちがあり、そういうときは学参なので、値段も親切でしかも名前も見たことのある出口氏のものを手に入れたのだった。欲をいえば竹取物語や源氏物語以降の明治維新前の文学史についても知りたいのだが、それはまた今度。

 

形態としては講義で高校生に語りかけるような口調になっており、じっさいそうしたものを書き起こしたのか、よくわからないが、しゃべり言葉で冗談もよく含んだ読みやすいものになっている。主旨として、文学史の派閥とか作家のスタイルの変遷とか、要する「歴史」ということが、個人の主観に基づいたものであって、記すにあたっても、ということは試験になるにあたっても、便宜的なものを出ないということがある。ぼくは大学受験は理系で、数学一本で乗り切った人間なので、文系の現代文、しかも文学史の問題というのがどういうものなのかうまく想像できないが、そういうことであるぶん、その学習にあたっては思い切りが必要になる。解釈が極端にわかれるようなところにいつまでもとどまっているひまは受験生にはないのだし、ある程度定説になっていることをどんどん受け入れて、次に進んでいかなければならないのだ。

こういう前提を踏まえつつ、本書では個別の歴史的規定を便宜的なものとして、全体の流れのうちにつかむことを推奨していく。つまり、物語として把握するのである。要所で「ここは出る」という具合の、受験生を勇気づける断定が挿入されて、そのたびこれが学習参考書だったことを思い出す感じだが、基本的にはそうして明治維新以降の流れを有機的につないでいく。そしてそれがすごくおもしろいのである。非常に多くを学んだし、新しく知ったようなこともいっぱい出てきた。受験生向けの参考書としてももちろん有効だし、ぼくとしてはこれは読書案内というか、明治から大正、昭和にかけての名作文学のブックガイドとして扱いたい気持ちになった。つまり、受験用の本と割り切って、ある程度の断定と情報の切り捨てが行われつつも、じっさいには「もっと知りたい」とおもわせるような内容になっているのである。

 

こうしたあとに、本書後半にある付録、いわゆる「文学史」のテキストでよく見かけるタイプの表をみてみると、これまでと見えかたが異なっていることに気がつく。たとえば白樺派は、トルストイの影響を受けた理想主義で、武者小路実篤とかがいる、みたいに記憶してきたひとは、本書を読んだあとでは、学習院を中心に出てきたおぼっちゃんたちが、現実のシリアスさとは別のところにユートピア的なものを見出そうとしたという図像をそこへ付与することになる。ぼくのなかでも武者小路実篤のイメージがじっさい更新されたのだ。そしてこれは、人間の醜いぶぶんを徹底的に描き出した自然主義に対応する一派として現れてきているわけである。そういう、前後の因果関係、つまりダイナミズムとともに記憶された用語は、理解をともなう。忘れにくいし、忘れたとしても、自力で思い出せるのだ。記憶力に難のあるぼくにはありがたい一冊であり、短くてすぐ読めるので、受験生にもおすすめです。

 

 

管理人ほしいものリスト↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

お仕事の連絡はこちらまで↓ 

tsucchini3@gmail.com

 

 

 

相変わらず準備期間で気持ち的に落ち着きのない日々が続いているが、やるべきことがあるというのはいいものである。ぼくのばあいその「やるべきこと」が専門性の高いことではなく、常識レベルのことなのだが。

 

ひとまずは、得意な分野でもぼくではふわふわした記憶のままやってるところがあるので、知識や認識をくっきりさせておきたいということがある。たとえば、高橋源一郎の『日本文学盛衰史』以来、明治期の文学には大きな興味をもって接してきており、素人なりにまあまあくわしいほうだとはおもうのだが、誰と誰が同年代なのかとか、誰は何派なのかとか、そういう具体的な、つまり他人とのかかわり、もっといえば会話において必要になってくるような情報が、非常にあやふやなのである。思考し、文章にする限りにおいては、あやふやでも成り立つことはあるし、だいいち調べれば済むはなしだ。ところが現実世界ではそうもいかない。そして、そういう具体的な知識があやふやだと、現実では知らないも同然のものとなるのである。最近気がついたことで、ぼくはどうも「調べればわかること」を記憶しないようなのであるが、それじゃだめなのだ。とりわけ、それが仕事、しかも専門性の高いものにかかわってくるとなると、信頼性も毀損することになる。「知ってるんです、知ってるんですが、じゃっかん記憶が曖昧なので、調べますね」とかいって、ドリルもった歯医者さんが歯列の画像ググりはじめたらすいません帰りますってなるでしょ。そういうことです。

 

かといってなにをすればよいか明白ということもなく、ただただ「モノを知らない」だけであるから、ひとまずは、じぶんがいまふつうにやっていることをもっと鮮明な情報とともに受信しようと努力していくほかなかった。まずは、文学史をやろうと出口汪の『早わかり文学史』を買った。これは明治維新以降の近代文学のものなので、さらに記憶が曖昧な竹取物語以降の文学史はまた別で確認しなければならないが、ぼくがやりたいことというのは要するにこういうことである。当たり前だが学習参考書というものは学習に際して役に立つ。へんに大人向けの「5分でわかる」みたいなやつにする必要はない。たまたま風間賢二の『怪異猟奇ミステリー全史』も読んでいて、こちらはヨーロッパのゴシック小説から日本の新本格に至るまでの歴史を書いた、いわばサブカルチャー方面の文学史になるが、そういう分類は恣意的なものでもあり、言及時代がかぶっていることもあって、ちょうど多層的な理解ができる感じだ。

 

 

 

 

 

 

 

また、たとえば『書経』など読んだときも、翻訳文メインで読んで、書き下し文は注のあるところ以外はほとんど読み飛ばしていたが、そういうところも改善したいので、これもまたふわふわしていた古文の知識を補うつもりで桐原書店の『読んで見て覚える重要古文単語315』なども入手した。福沢諭吉や擬古文の森鷗外なども、あいまいな理解なままこれまで読んできたが、古文がてきとうだと古い和歌の読解とかもできないので、これまでずっとひっかかっていたのだ。現役の高校生のときも古文は苦手で、漢文のほうができた。理系だったし、抜群にできる必要はなかったのをいいことに完全に手を抜いていたわけだが、おかげでこのありさまである。これを機会にせめて高校レベルくらいは身につけたいわけだ。

それから、より一般的な意味での「常識」に近いものとして、二宮書店の地図帳も買った。ぼくはロシア語を勉強しているけど、いまウクライナってどこかと聞かれて、はっきり応えられないわけですよ。「ロシアの西のほう」ぐらいの感じ。いま起きてるああいう情勢って地政学の、位置関係の認識が大切なわけだけど、場所がわからないんじゃはなしにならない。小説でも評論でも、いろいろな国名・地名が出てきて、ぼくはそれを、なにかこう、知らない植物の名前でも目にしたようスルーしてしまうから、そこで立ち止まれるようにならないといけない。そう、「植物」も、ぼくはたいへんな弱点なのだが、それはまだずっとあとのはなしだ。それをいったら数学や物理もやりなおしたいし、苦手すぎて授業のほぼぜんぶをサボっていた化学も、ごく常識レベルはやっておきたよな・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こういう感じで、まあやる気はじゅうぶん、仕事そのものの勉強とは別に、かなり中身のある毎日になってはいる。とはいえ、まだ生活のリズムがうまく選び取れてはいないので、効率よくできているとはいいがたい。まだ「やってる感」をじぶんに向けて発しているような段階だ。通常の読書も止めてはならないし、ブログ更新が滞るとぼくの美点ともいえるようなぶぶんが凍結するような感覚になるから、時間の調整は今後の大きな課題でもある。

 

そういうわけで、ぼくはいま「あるべき姿」に足りていないので、それを補うために勉強するわけだが、気になるのは、「あるべき姿」になったところで、モチベーションは維持されるのだろうかということだ。どうも「そんなことを考える段階ではない」というのが周囲の見解のようで、やるべきことが多すぎて、それはたしかにもっともなのだが、いちいち構造から考えてしまうというのはぼくの短所でもあるとともに長所でもあるとおもうので、やはりこの視点は残していたい。

くわしく書くことはできないのだが、次の仕事は「労働」と「利益」がたんじゅんに結びつかないのである。売上があがり、トータルの利益が増したら、現実にはそうならないとしても、給料が上がったり設備に投資されたりということが起こる。人件費に投資されれば、ひとが増えて、やれることが増えていく。そういう増大、生長、要するに「生産」の感覚が、ぼくの素朴な書店員人生にもしっかり埋め込まれている。なぜそれが起こるかというと、貨幣を介してお客さんとやりとりをし、労働がもたらすじゃっかんの働きすぎ、オーバーアチーブを再構成するしかたで、余剰が生まれるからだ。ぼくは、人体というものを重農主義でいう大地のようなものと考える。それは、じっさいにはブラック企業的体質に直結するもので、どちらかというとじぶんの首をしめる危険な発想なのだが、実感としてはそうなのだ。ひとが、ほんの少し働きすぎたぶんが堆積して利益になる、それが10年ちょっとの小売経験がもたらした皮膚感覚である。

しかしそれがないとしたら、労働者はなにを動機に働けばよいのだろう。働きすぎはただの働きすぎで、ほかのなににも読みかえられないとしたら、必然的に等価交換的発想をするのがお利口であるということにならないだろうかと。

それで、似たような境遇であるでは公務員のひとたちはどうやってモチベーションを保っているのだろうかと考えて調べてみたが、やはり難しいようである。彼らの動機は「市民のため」という語に回収される。だが、それを維持していくのはかなりたいへんなようだ。また、回転し、生長し、改善されるような環境を、長くそこにいるものをほど望まない、という論理的必然のようなこともあるようである。

別に、これからのぼくの労働環境が暗いものになるという予想があるわけではない。いっしょに働く専門家のひとたちのやる気はじゅうぶんである。また、それが年月とともにすりへっていつか停滞してしまうと予測しているのでもない。ただ、成果が数字にできなかったり、公務員のように、数字になったからといってそれがなんの報酬ももたらさないというような状況が、なんとなく不思議なのである。いや、ぼくがこう考えることじたいが、むしろ不思議なのかもしれない。どちらかといえばぼくは、公務員的な「市民のため」的な思考法のほうが、なじみがあった。最初にいた店では完全にそうであった。この何年かの空虚な労働経験が、こういう思考法をもたらしてしまったのかもしれない。

 

が、いまはまだそんなことをいう段階ではないというのもまちがいなく、相変わらずぼくは不注意力を発揮しまくりなので、あんまりとんちんかんなことをいわないように気をつけていかないと・・・。

 

 

 

 

 

管理人ほしいものリスト↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

お仕事の連絡はこちらまで↓ 

tsucchini3@gmail.com

 

 

↓寄稿しました

 

 

第45審/事件の真相⑤

 

 

 

 

九条がAVメーカー、トゥールビヨンの小山社長に、愛人に貸していたものである部屋をあてがわれているところである。壬生から九条の屋上生活を聞いて、京極がはからったものだ。といっても、九条は別にお金がないわけではないし、好きでそうしてるので、いらないお世話なわけだけど。

 

電話で京極がその説明をするが、九条はあっさり断る。それはいいとして、京極は率直にトゥールビヨンの顧問にならないかと持ちかける。月30万、小山だけでなく、すねに傷がある会社はたくさんあるというはなしだ。

依頼主に誠実に、深くはなしを聴いて、事件の絶対的価値にとらわれずに対応する九条にとって、「顧問」というのは、どういう意味をもつだろう。顧問になれば、依頼主は動かない。仕事のしかたも変わってくるようにおもえるが、ともかく今回は考えていないということで断る。電話を切った京極は、飴が気に入らないなら鞭で叩くまで、なんとしても九条を従順な鳩にするつもりである。

 

 

警察署では嵐山が報告書の誤字が多いと上司に怒られている。部下たちがはなしあっていた、昇進試験がうまくいかないコンプレックスが、この部長に対しては強くあって、面倒はぜんぶ現場にまわしてじぶんは快適な椅子で昇進試験の勉強してる、というふうに嵐山はとらえている。

そこへ、前回はなしをきいた娘の昔の仕事仲間、笠原美穂が訪れる。今日はぜんぜん赤ちゃんが泣いていなくて、気配すらないのがなんか不気味だ。

美穂は嵐山に愛美の裏アカを教えてくれた。具体的なことはまだ不明だが、そもそもスマホが開けなかった状況から考えたら、重要な情報源であり、そこから「こやシャン」という人物の存在も判明したのである。それで美穂は謝礼を要求したのだが、嵐山はそれを軽蔑するように断って、美穂には「そういうとこだ」といわれたのであった。

その美穂がなんの用事かというと、こやシャンのことである。美穂からこやシャンの名前が出るのははじめてだ。どういう経緯でそうなったのかわからないが、美穂は「悩みをちゃんと聞いてくれたのは愛美ちゃんだけ」ということを思い出して、少し協力しようという気になったようだ。たぶん、いま美穂は孤独で、人生に明るい兆しを見出すこともなく、割いた画用紙でも食べているような味気ない毎日を送っていて、嵐山をきっかけにふと、愛美といたときのことを思い出したのである。どうしていままで思い出さなかったかというと、愛美とのギャラ飲みの記憶は、現在の味気ない日々と直結しているからである。

で、なんのはなしかというと、こやシャンが女衒のような仕事をしていたということだ。金持ちにグラビアアイドルや地下アイドルを斡旋して紹介料をもらっていたと。そのこやシャンと愛美は付き合っていた。それの意味することはまだわからない。

そして美穂は、その「こやシャン」というのがトゥールビヨンの小山義昭だというところまで教える。

 

美穂が帰ったあとで、上司の炭山部長が、嵐山がまだ10年前の事件を調べていることをとがめる。小倉から聴いたということで、その際に若いほうの部下、前に深見と呼ばれていたものっぽい男が気まずそうな顔をしているが、これは別の人物ということか? もしくはなにか大人の事情でまた名前が変更になったのかもしれない。

だが、嵐山としてはまだ事件は解決していない。そうとらえるじぶんの感性を疑ってしまってはからだを張れない。そこに正義を見出し、命をかけるのが嵐山の刑事としてのスタンスだ。しかし炭山は、そうではないという。正義は組織が決めるものである。もしそれを変えたいなら、その文脈に従うかたちでよい成績をおさめ、上にあがるしかない。閉じた警察の世界で「上に逆らう」という考えはない、裏で愚痴って表では本音を押し殺せと、炭山は現実的に語るのだった。

 

 

壬生のところにはいつものように20日カンモクでパイになった久我がきている。20日黙り続けるのはキツかったと久我は語る。嵐山の追及が厳しいからだ。そこから、はなしは自然と犬飼にうつる。

その犬飼は、もうじき出所である。驚いたことに弁護士は流木である。犬飼は、あんな馬鹿なことして10年も無駄にしたという。流木はそれを、「反省してるってコト?」と訊くが、そうではない。犬飼は、300万で愛美殺害をされたようである。300万で10年はつりあわない、出所したら壬生に3億を要求し、払わないようなら殺すというのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

壬生と久我の感じだと、犬飼が現在ではこの件についてあまり納得していないようであることは知っているみたいだ。当時、10代のヤンキーからしたら、300万は大金で、10年という期間もリアリティをもって感じることはできなかっただろう。犬飼はそれを後悔しているのである。このはなしに死んだ愛美の姿がかげもかたちも見られないのがすさまじい。

このことは、壬生が外畠の股間を焼いたときの描写も思い起こさせる。表面上、外畠はデリヘルの女の子を襲った件でこうなったが、じっさいの制裁の主体は京極で、売れっ子だった笠置雫を問題にしてしまったことにかんする制裁だったのである。このとき、デリヘルの女の子はいちども登場しない。株やビットコインのはなしでもするように、事件の中心にいる被害者の姿が浮ばないのである。ここで女性はどこまでも商品、物体、記号である。

愛美や美穂が行っていたギャラ飲みは、ウシジマくんでは若いころの竹本がやっていたアレと同じではないかとおもわれるので、たぶん売春とかそういうはなしにはなっていない。だが、そこで求められているのはただ若く、美しい女性であり、そこに固有の意味とか、共有すべき物語とかはない。そこへ、愛美たちは自覚的に、積極的に加担していたわけである。本編のタイトルは「事件の真相」であり、「真相」とは「本当の顔」という意味でもある。これは、嵐山が捜査論として語った、「罪」と同時に出現する、罪のない場所ではあらわれない顔のことだ。この場所で、愛美は記号としての女性を活用して稼いでいた。さらに加えて、小山との関係性において、おそらく売春もしていた。そして、その結果として、小山は身の危険を覚えることになり、京極から壬生へ、壬生から犬飼へとしかたで、愛美はいのちを落とすことになったのである。

 

これが事件の「真相」だ。愛美は、帰り道に考えの浅い不良に襲われて命を落としただけではなかった。げんにそのストーリーには空白があり、なぜ犬飼が愛美を狙ったのかは、不明だったわけである。嵐山はそこに執着した。じぶんじしん、見落としてきた娘の表情があるにちがいないとどこかで確信したからだ。つまり贖罪である。だから、ほかならぬじぶんの手で事件を解決しなければならない嵐山は、業者を使えばかんたんな暗証番号の発見にあれほどこだわったのだ。

ここでポイントは、犬飼は逮捕されて罰を受けているということである。ここでは京極や壬生のことは考えにいれないとすると、「事件の真相」が詳らかになり、そのストーリーの空白が明らかになったとしても、刑について変更はないのだ。犬飼はじっさい愛美を殺しているのだから。つまり、娘の「本当の顔」を求める父親は、ここでただ刑罰を貨幣のようにとらえる刑事としての姿から、過程を読み込むものに更新されているのである。

 

ここに「真相」は、「娘の本当の顔」といった文学的意味合いと、法的操作の必要性から自然と記号的になりがちな人物の感情の機微や経緯といったことにかんする法的意味合いの、ふたつをもつことになる。嵐山からすれば、娘が死んだことでやってきた後悔が、仕事にばかり注力して娘を見てこなかったことと結びついて、彼女の本当の姿を見出させようとする。また法律面では、事実として犬飼が犯人であることに変わりはなくとも、その過程が明らかになれば、壬生や京極などとのつながりも見えてくる。この見えかたは、嵐山の「本当の顔」についての考えかたと一致するものだ。だが、いずれにしても、ここに登場している愛美は記号に過ぎない。物体としての女性の価値を行使する愛美の相貌を、嵐山は「本当の顔」と呼ぶのだろうか。その結果として訪れたこの事件の経緯が明らかになったとして、それは、原因と結びついた真実を示すものになるのだろうか。いま明らかになりつつある愛美の姿、つまり嵐山が「本当の顔」と呼びつつある姿は、じつはどれも「本当の顔」から二次的に生じたものに過ぎないのである。

真相、本当の顔は、その先にあるのかもしれない。問題は、なぜ愛美がそのようなふるまいに至ったのか、ということだからだ。だが、そのときにみえた「顔」を、わたしたちは、なにをもってして「本当」だとするのか。ここには、他人が介入して測定できるような尺度はない。というのは、けっきょくのところこれは嵐山と愛美の物語だからである。そこには、両者が「これが本当の顔だ」と同意できるような落としどころがあるのだ。だからこそ、一時的にではあれ、愛美は父を求め、連絡しようとしたのだ。その瞬間にしか、愛美の「本当の顔」はあらわれなかった。それを嵐山は取り逃したのである。

 

その他同時進行的にいろいろなことが起きて、次週からの休載もあってかもりだくさんな回だったが、流木にかんしてはいきなりすぎてなにも語れるものがない。10年も中にいて、交友関係も薄くなって後ろ盾もないであろう犬飼が壬生を殺せるとはおもわれないが、いちおう、壬生も注意してはいるようである。犬飼は、300万円で10年を売ったのは安すぎた、というふうに解釈して壬生に3億を要求するつもりであるわけだが、ここには愛美の姿がまったく見られず、つまり反省していないようである。というのはけっきょく、応報刑的な視点でいえば、ある犯罪行為に対してそれ相応の罰がくだる、ある種の交換体系のようなものが考えられるところ、彼の場合はまず壬生との交渉があったわけだからなのだ。つまり、旧式の等価交換的な思考法でいえば、犬飼は10年でその犯罪を行う権利を買ったことになるわけだが、じっさいには彼は10年を300万で売ったことになるわけである。手元にあった10年は300万で売られてしまっているわけだから、犯罪の罰として交換すべき10年はもうここにはないのだ。彼の苦しい10年間は300万との交換でくだった理不尽な日々にすぎないのであり、罰ではないのだ。反省するわけがないのである。

そう考えると、刑法が正しく成立するためにも、背後のものにもきちんと罰がくだるように捜査をすべきであろうというふうにもなる。嵐山の刑事としての直観は正しかったわけだ。犬飼はたしかに逮捕され、罰を受けている。しかしそれは、罪を浄化するものとして払われてはいないのだ。

 

 

 

九条の大罪5巻 3月30日発売↓

 

 

 

 

管理人ほしいものリスト↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

お仕事の連絡はこちらまで↓ 

tsucchini3@gmail.com

 

 

寄稿しています↓