『書経』山口謠司 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■ビギナーズ・クラシック 中国の古典『書経』山口謠司  角川ソフィア文庫

 

 

 


 

「四書五経のひとつで、中国最古の歴史書である『書経』。『書』や『尚書』とも呼ばれ、堯・舜から秦の穆公まで、古代の君臣の言行が記されている。我が国の年号の出典にもたびたび使われ、「昭和」は堯典の「百姓昭明なり。万邦を協和せしむ」、「平成」は大禹謨の「地平かに天成る」から採られた。帝王学の書としても知られ、教えのもっとも重要な部分を精選。総ルビの訓読文とわかりやすい解説を加えた、恰好の入門書。模範とすべきリーダーの行いを記すビジネスマン必読の書」Amazon商品説明より

 

 

四書五経など中国の古典もじゅんばんに読んでいきたいという気持ちはずっとあり、ひとまずはごく短い書経から読むことにした。角川ソフィア文庫のビギナーズクラシックなので、もちろん全文ではなく、重要なところを、わかりやすい翻訳と解説つきで抜粋したものである。どこで見たのだったか、組織論とかそういう文脈で、ビジネス書的に読まれることもあり、その意味でもとっつきやすかった(という言い分は、ちょっと前までのぼくなら考えられなかったことである)。

 

「はじめに」によれば、実物の書経は文体もかたく、けっこう難解なようである。さらさら読める翻訳を読んで、章ごとに付されている語句解説で、漢語なのか中国語なのか、気になることばを拾い、そのぶぶんだけ書き下し文や原文で読む、みたいな読み方をしていたのでぜんぜんそうは見えないが、そうらしい。

書経は、文献によっては尚書、またたんに「書」と記されることもあるという。「書」はもと記録を意味し、そこには「天」と「帝」と「民」の間に交わされた契約が書かれることになった。五経は、どれも伏羲や神農などの聖人(無双オロチでおなじみ)が記したことになっており、つまり、誰が書いたのかよくわからないようだ。書経を編纂したのは孔子ということになっているが、これもじっさいのところはよくわからない。その後、実物としての書経はいくどもうしなわれ、手を加えられ、いまに至っているという。であるから、古代の文書はなんでもそうかもしれないが、読むにあたり、「古い」という事態がもたらす霊験に感化されるだけではなく、そこにはなにか屈託のなさのようなものが必要になるかもしれない。いにしえのインテリはこうした書物を素読(意味はともかくただ声に出して読む)して言語感覚や思考の細分化能力を鍛えていったが、こうしたときに、いちいちさかしらに「ソース」を探していたのでは時間がもったいないのである。誰もが、国家の体制がどう影響を及ぼしているかにかかわらず、とりあえず学校で渡された教科書で勉強する。そういう無邪気さが、ここまでの超古典を学ぶ際には必要だろう。

 

なにが書かれているかというと、堯(ぎょう)からはじまる帝位のうつりかわりである。堯や舜(しゅん)などは、日本でいうと日本書紀みたいなことで、見るからに神話だなという感じだが、じっさいどこから実在する帝なのかは読んでいてもわからない。そして、こういう帝王を輔弼する優秀な臣下がまわりにいて、それがああでもないこうでもないといったりする、そういう内容である。記紀もそうだが、こういう、神話と現実をあいまいにして語る方法は、国家のおこりを語るに際しては非常に有効で、たとえば天照大神について語られている文章を読んで、神話だなとおもいつつも、ひとはそれを「現実ではない!」といちいちいって回ったりはしないのである。そういうことをおもうと、ラカンの鏡像段階とか、平野啓一郎の分人主義とかのことが想起されるが、なんというか、本質的に人類というのは「フィクション」のなかを生きているのである。科学の登場が「現実」という概念を強く意識に打ち込み、たほうのフィクションを「嘘」としてはじき出したが、どこまでもこの現実世界が映画『マトリックス』のような仮想世界である可能性を捨てきれないのと同じ水位で、根っこのぶぶんでわたしたちはフィクションを抱えており、どこかで「そういうもの」と納得しているのである。

 

神話には、物理現象を説明したり、げんに生じている状況の理由になったりする原因譚的側面がある。たとえば蛇に手足がないのは、創世記で、人間をそそのかして悪いことをしたからである。こういう意味では、古代のひとびとが現状に納得しようとして、そうした創作を行ったものともおもわれるが、たぶん、自意識と神話の発生はほぼ同時とおもわれるので、誰か個人が創作したというより、求めに応じて自然発生した複数の神話の共通部分が次第しだいに整理されていき、やがて孔子みたいな天才的なひとが固体にした、というところなんではないかとイメージする。ただ、この堯という人物は、フィクションではあるが、「理想の帝王」ということであったようである。これはいかにも、到底納得できない現状があったうえで創作されたものではないかとおもわれるので、その意味ではこれは神話とはいえないかもしれない。「神話」というのはもっと集団の無意識が生むものとおもわれるからだ。堯の治世でもっとも重要なことは、「禅譲」であるという。要するに、現在よく見られる世襲ではなく、個人の徳をはかったうえで位を譲るということだ。これは、舜の次の禹から啓にかわるときに途絶えてしまい、それも書経には書かれている。そういう問題点を感じていたからこそ、堯は創作されたのかもしれない。しかしこれは堯の次の次の次のことなので、けっこう早い段階で途絶えていることにはなる。

 

さまざまの優れた良弼がいろいろなアドバイスを帝にしていくが、それらのことばにもっともあらわれる概念が「天」である。「天」とはなんなのか。直観的には、ノモス的な、考えられるもっと外側にある規範のようなものではないかとおもわれるが、ちょうどいま読み進めている『日本的革命の哲学』で山本七平は、「天」とは(つきつめると)「人民の意志」であるとしている。この発想の前提には、「民は誤らない」ということが求められるが、そもそも、治世が民を治めることなのだと限定すれば、誤るもなにも、そこには民とその感情しかない、というふうに乱暴にいうことはできるかもしれない。ではなぜそれを「天」と言い換えるのか。「民が困っているのだから助けよう」だけではだめなのか。さらに乱暴に想像をすれば、それが「帝」と「民」という二者によるコミュニケーションに閉じることを回避したものかもしれない。二者のコミュニケーションが破綻しそうになったとき、第三者があらわれてその場が落ち着くということは日常でもある。そうした齟齬が、プレイヤーが三者になることで循環形式になり、滞ることを防ぐのではないかなと想像する。

 

たぶん各所で読み込まれ、ビジネス書、もしくはビジネス的啓蒙の「元ネタ」になっているせいだろう、誠実にあればそうなるよね、という発想がくりかえし見られもする。不届きな経営者や政治家のひとにしっかり読み込んでもらいたい本だが、ぼくとしてはなにしろ中国の歴史がはじまったときの、神話と現実のあわいレベルでの歴史が学べたというのが大きかった。それから、うえにも書いたが、各章に伏されている語句解説がかなりいい。たんに「昧爽 夜の明け方。朝まだき」みたいに短く書かれているだけだが、知らない言葉だらけだった。非常に勉強になる一冊だったといってまちがいない。

 

次は「大学」でも読もうかな。

 

 




 

 

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