今週の九条の大罪/第43審 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第43審/事件の真相③

 

 

 

 

店の女の子に手を出したということで壬生に股間を焼かれた外畠。しかしそれは建前で、実は彼がAV女優としてこれからさらにヒット作を出すであろう笠置雫を潰された、京極の指示によるものだったのだ。

外畠は壬生の姿を見てはいないし、京極にまでたどりつくことは絶対にありえない。だが、じぶんがそうなったのはデリヘルの女の子に手を出したからだということは理解している。だから、彼はオーナーを恨んでいた。そのオーナーというのが、菅原をスパイしていた壬生の子分、久我だったのである。

外畠はを逮捕した嵐山は、とにかく決定的な理由で壬生を捕まえたい。そこで外畠を利用し、表向きは別の理由(職業安定法)で久我を捕まえて、外畠暴行の件を詰めるのである。

 

九条と烏丸が久我と面会している。外畠がどこまでしゃべっているのかわからないので、今後のことはなんともいえない。そもそも九条はここに職業安定法違反で捕まった久我を助けるためにきているのであって、外畠の名前も寝耳に水のはずだ。この場ではどうしようもない。

こういう場所では本当のことをいうべきである。九条はほんとうに暴行したのか訊ねるが、その日久我は福岡にいたという。じっさい、久我は関わっていない。しかしその気はあったという。外畠が店の子に手を出したはなしじたいは聞いていたのだ。

そういうわけで、証拠はないようだし、いつものように黙秘してパイするパターンだが、久我はカンモクできる自信がないという。嵐山の当たりが強くて言い返してしまいそうだと。なぜか。その理由も、久我は理解している。嵐山の娘・信子を殺した犬飼という男が、壬生含めた地元の連れなのである。

 

第1審で話題になった日本一のたこ焼きのはなしをしながら九条と烏丸が警察署から出てくる。そこに、嵐山がやってきて、からみはじめる。嵐山はけっこうくわしく九条の背景を知っているようだ。有名な鞍馬弁護士の息子で、兄は鞍馬検事、邪魔するなよと。九条はかなり強めに嵐山を拒否する。父も兄もじぶんとは別人であって、ひとくくりにできるものではない。だいたい縁も切っている。だからこその「九条」なのである。

 

これで嵐山が九条のことも目の敵にしていることがわかったが、烏丸との帰り道、九条も刑事は好きではないとくちにする。被疑者か協力者かの「二元論でものを考える」からだ。

 

 

刑事三人がごはんを食べにきている。深見はもりもり豚の脳みそを食べているが、嵐山は手をつけない。食べないんですか?みたいなことをいう深見を、又林が心配そうに見ている。やがて嵐山は「黙れガキ」とブチ切れて去ってしまう。嵐山は検死の際の、娘の脳みそのことを思い出してしまうのだ。又林はこうなることを予期していたようである。前にもそういうことがあったのかもしれない。

 

帰宅した嵐山は信子のスマホを手に取る。10年前のものだが、充電すればいまでも起動する。しかし暗証番号がわからない。いまなら50万円も払えば業者の手で解除することができるが、当時はできなかった。捜査が終了したいまも、嵐山は信子のスマホを開こうとしている。いまなら、その業者とやらをつかえばいいわけだが、嵐山は狂気的な執着心で、じぶんの手でこれを解除しようとしている。暗証番号は100万通りある。それが、すべて書き出されて壁に貼ってあるのだ。日に何回か間違えるとロックがかかるので、毎日毎日、少しずつ塗りつぶす日々だ。傍らにはおそらく当時のままの信子の靴や衣類がビニールに包まれておいてある。

 

そして、10年もたったいま、ついに嵐山は暗証番号を見つけるのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

暗証番号は「315087」だったようである。事件は10年前、ざっと3650日あったわけだが、すると1日あたり100件くらいになる。そんなわけはないので、嵐山なりに「ありえない数字」は省いて進めていたのだろう。たとえば、最初の1000件は、確かめる必要はないかもしれない。それから、たとえばだが、最初の数字が1であることは少ないとか、そういう感じのある種のパターンをどこかで知って、10万台はまるまる飛ばしたとか。

この数字じたいに意味はあるだろうか。いろいろ考えてみたがはっきりしたことはまだ言えないそうだ。しかし、家族の誕生日とか、そういうものは優先的に試しているだろうから、そういう数字ではないのだろう。

 

捜査は終了しているので、暗証番号解析の業者を使うのだとしても、それはたぶん自腹になる。とはいえ、嵐山の執念を考えたら、50万くらいなんでもない金額かもしれない。また、現段階でまだ半分もいっていないわけで、労力的な面でいっても、いまから業者に頼む意味はある。それをしないのは、嵐山じしんの自己規定が、この行為によりかかっているからだ。もちろん目的は、暗証番号を見つけて、捜査の過程で見えた以上の娘の秘密を確認することである。嵐山は、父親であるほかならぬこの自分が、娘の「真相」を見つけ出さねばならないと考えているのだ。「相」という字には「すがた」という意味がある。彼は、娘の真のすがたを、彼女が死ぬまで知ることはなかった、その事態について、深く後悔している。だから、彼はそれをじぶんじしんの努力によって知らなければならない。後悔は、それまでの彼の人生における娘の価値の形状を見誤ってきたという感覚を呼び寄せただろう。そこに責任感、もしくは負債感のようなものが芽生える。娘がこうなったのは(どうなったのかはまだよくわからないが)あるぶぶんではじぶんのせいであると、こういうふうに考えているから、自罰的に、傍目には無意味におもえる虚無的な反復にこだわるのである。これは彼が彼自身に課した地獄の罰なのである。

だが今回それがほどけることになった。行為じたいに意味がある状況になっていたので、嵐山はちょっとあっけにとられたのである。うつろな反復それじたいに意味がある状況なので、嵐山はどこかでこれが永遠に続くことを願っていたにちがいないのだ。きわめて病的な倒錯であるが、嵐山の状況を考えたらしかたのないことかもしれない。彼が、暗証番号をじぶんの手で見つけ出すことにこだわるということ、それはすなわち、それを(業者などの)他者の手にゆだねないことを意味し、その行為じたいに自罰的な意味を見ている状況では、暗証番号は見つかってはならないのである。ひとことでいえば、自罰的な行為を、目的のある行為に重ねるべきではなかったのだ。暗証番号は業者に任せ、じぶんは死ぬまで自主的な早朝のパトロールを続けると決めたとか、そういうふうに、ほんらいは別々のものとして行為が分かれるべきだったのである。しかし彼は、ほんとうであれば手段を選ばず目的物に到達することがまず優先であるところにじしんへの罰となる意味をかぶせてしまった。娘の真のすがたを、後悔とともに求めながら、同時に見たくはないという複雑な心理が、この行為には見えるのである。

 

ところで「真のすがた」とはなんのことだろう。これは以前嵐山が回想シーンでいっていた「本当の顔」のことだ。罪を共有している人間しか知らないという、あれのことなのだ。嵐山のあの言い方では、すべての人類は罪を犯しており、それを共有しているものしか、「本当の顔」は知らない、というはなしになる。これは危うい考えで、宗教的な原罪の思考法を採用するのでない限り、現実にはむしろ、罪に至るまでの前段階というものがあるので、罪と並ぶそのひとの顔はむしろ二次的になる。彼は、娘を失い、知らなかった娘の相貌を知るという経験に悟り、この悲観に陥っているのだ。

この嵐山の考えかたの根本にみえるものは、「本当の顔は隠されるものである」というものである。ニュアンス的にもこれはじっさいそうだろう。だが、なぜひとは「隠されているもの」を「本当」だと感じるのだろうか。外では明るく社交的にふるまっている人物が、実は犯罪をしていたというとき、なぜひとは、その隠されていた「犯罪者」の顔を「本当」だとおもうのだろうか。なぜ、明るく社交的な姿が「本当」で、犯罪者の姿が「仮」ではないのだろう。これはおそらく、社会生活を営むうえで、関係するものとの距離や数などによって、わたしたちが複雑にペルソナを使い分けているという、誰しも理解可能な経験によった直観であろうとおもわれる。社会生活は、基本的には「偽」なのだ。そして、究極までその社会生活的な関係性を剥ぎ取ったときに、「本当」がようやく露出する、そういう見えかたが、わたしたちにとっては一般的なのだ。

こうしたことで、その人物の「本当」は「隠されるもの」となる。厳密には、「隠れているもの」となる。そして、罪を犯すとき、ひとはその相を「隠す」ことになる。論理的にはここは結びつかない。犯罪は隠れて行われるものだが、隠れて行われるものすべてが犯罪ではないからである。だが、嵐山は刑事である。日々法と犯罪に触れるなかで、この差はほとんどなくなっていったのだ。決定打は娘の死である。そうして、彼のなかで「本当の顔」は「罪」と同居するものになったのだ。

しかし、これこそがまさしく、九条のいう二元論なのだ。平野啓一郎は、こうした社会生活における個別のペルソナが、それぞれにすべてわたしそのものであるという分人主義を提唱している。わたしたちは、西洋的な個人の感覚の度移入とともに、「本当のわたし」を想定することに慣れてしまった。だから、日々複数のペルソナを使い分けることで歪みを覚え、ストレスを抱えることになる。だが、そもそも「本当のわたし」というのは、あるのだろうか。場面ごとに異なるそれぞれの顔は、どれもわたしそのものなのではないか。これが分人主義である。

 

 

 

 

 

 

問題は、真相、つまり「本当の顔」を想定することに意味はあるのかということだ。嵐山は経験的に意味はあると考えているだろう。しかし九条ではそうではない。九条がいっているのは、ある事件に関わる人間を「被疑者」と「協力者」のふたつに分類する、刑事の思考法のことだ。以前書いたように、これはある瞬間の世界の状況を切り取った無時間モデルなので、専門家が事物を定量的に調査する際の、取り扱いに注意が必要な思考法である。じっさいには、ひとはつねに被疑者であり協力者である。このことについてはすでに第10審で書いたことがある。家族の距離②のとき、兄の蔵人と対面した九条がいった「あなたには見えなくて私には見えてるものがある」というもののことだ。これが、星の王子さまの「大切なものほど目に見えない」を想起させるというはなしだ。

 

 

 

 

 

 

星の王子さまは、大人になることで失われるある世界の見えかたのおはなしだ。ひとのありようというものは、「生きている状態」と「死んでいる状態」に分けることができるが、「生きている状態」と「死んでいる状態」を合わせてみても人間にはならない、そのとき失われているものの物語が、星の王子さまなのだ。この「生」と「死」は、それぞれ言葉、ロゴスである。嵐山の無時間モデルの世界観はここに属する。法律もまた言葉である。だが、それらの言葉は、それが成立した瞬間、なにかをとりこぼすことになる。九条はそれを拾うものなのだ。

その経験に同情の余地はあるが、嵐山が娘の「本当の顔」にこだわる限りで、彼はむしろ娘の、目に見えない、言葉にできない「大切なもの」を見落とすことになる。暗証番号という「真相」をあれほど強く求めながら業者にはゆだねない彼には、そのことがもしかするとわかってもいるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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