第48審/事件の真相⑧
取調室で対決することになった嵐山と小山だが、嵐山の娘・愛美と恋人関係だったことは認めたものの、その死については決着がついているものとして小山は取り合わず、逆に娘とうまく関係を築けなかった父親として、うまくやっているじぶんとの対比こみで、嵐山をやりこめたのだった。
無事カンモクパイで出てきたらしい小山がコンビニにきていて、陳列をしている店員を呼びつけている。小山のクソ野郎描写かとおもいきや、よく読むと店員もなかなかである。最初小山は、ふつうの音量で呼んでいるのだが、反応がないので、徐々に声をあげている感じだ。袋につめこむ動作も雑で、接客態度もかなりひどい。小山は、いつものあの、句読点のない一列の長いしゃべりかたでありながらよどみない、独特の調子で説教である。といっても店員を教化するたぐいのものではない。無価値人間だとか、コンビニは無人化したほうがいいとか、ただおもったことをくちにしている感じだ。
そうして買ったスイーツを、紗里奈という、噂の娘に渡す。小3くらいかな。顔をみて笑い合って、小山がいうように良好な関係のようだが、紗里奈のセリフはないのでなんともいえない感じだ。
小山のお礼の電話を、ため息まじりに九条が受けたところだ。喪服みたいなかっこの烏丸がコーヒーやおやつをもってやってきて、いつもの屋上で一服。そこへまた電話。知らない番号だが、なんと九条の娘の莉乃である。携帯を買ってもらったということだ。なんでもないあいさつだったが、九条はうれしい。烏丸は、鋭くいまの事態の背景を洞察する。要するにそれは、離婚した九条の奥さんが、携帯を買ってあげたうえで、九条の番号を登録してくれたということなのだ。非常時、じぶんが連絡とれないときに、次に莉乃がたよるべきは九条だということだろう。九条は信頼を失って別れたわけではなさそうだ。
今度は嵐山だ。美穂と会って小山のはなしをしている。愛美を売春婦呼ばわりされたと。小山のはなしでは、そもそも「売春婦だからナニ?」という理屈があって、小山はあの仕事をしていたはずなので、これは成り立たないものだが、嵐山はこたえているようだ。
嵐山も美穂も小山の代名詞のように「クズ」という語を連発する。若い子は自信満々のクズに弱いと、美穂はいう。一般論的な言い方だが、そんなことからも嵐山は娘のことをなにも知らなかったと考える。美穂は愛美とカラオケにいったときのことも思い出している。また、嵐山がうどんに七味唐辛子を大量にかけているのをみて、同じように愛美をしていたことなども思い出す。嵐山はすなおに、愛美のことをおぼえていてくれて感謝すると、はじめて敬語でいうのだった。
その感傷的なこころもちのまま、スーパーにやってきた嵐山が、パイの実的なお菓子をとって愛美を思い出す。虫歯になるからだめだと買ってやらなかったことを思い出し、膝をついて涙ぐむ。ささいなことであるが、そういうささいな記憶こそ印象深く残るものだ。そして死んでしまった人間は記憶のなかにしか生きていないのである。
つづく。
「娘」が3人も出てくる回だった。
ウシジマくんではかなり徹底的に「父」と「息子」が描かれたのだが、考えてみればそれは「娘」ではなかったわけである。「娘」が表象するものはどういうものになっていくのだろう。
三人の娘は、父親との関係において、異なった印象になっている。
嵐山の娘の愛美は、嵐山とはコミュニケーションがとれておらず、互いに理解しあえているとはいいがたかった。嵐山は娘の「本当の顔(真相)」が見えておらず、見えるもの見えていなかった。ということはおそらく愛美のほうも父親のことはよくわからなかっただろう。それでも、今回の美穂のなぐさめも含めて、愛美は父親の助けを求めていた。
小山の娘は紗里奈といって、小学生くらいで、小山いわく関係が良好だということである。これはなにしろ紗里奈がひとこともしゃべっていないので、まだほんとうのところはわからない。ただ、このときの紗里奈は大きな車のなかでスマホをいじっており、そこへスイーツをわたされているわけであって、なにかこう、ある種定型的なものを感じないでもない。小山の信じる「正しい娘」の姿に押さえ込んでいるようでもある。まあ、現実はそれでじゅうぶんなわけだが。
九条と莉乃の関係もじつはまだよくわからない。5歳の莉乃は離婚した九条の妻と暮らしている。九条のほんとうの名字は鞍馬で、別れた妻の名字をつかっているというはなしなので、莉乃の名字も九条のはずである。5歳なので、莉乃じしんの家族関係についての見解などはまだないだろうが、少なくとも九条と莉乃の間柄だけについていえば、良好といっていいだろう。
こういう三者を眺めてみて、遠く見えてきそうなものは、一般化できない娘のイメージのようなものかもしれない。
小山については、取調室での発言も含まれるので、いっていることをそのまま受け取るわけにもいかないが、どうも娘を愛しているのはほんとうのようである。しかし、それでいて、愛美をおもう嵐山の感受性には同意しない。それは彼が「嵐山ではないから」などというと言葉遊びになってしまうが、そう遠くないような感じもある。小山は冷酷な人間である。ほかの「娘」のことなど知ったことではない。勝手に栄えて勝手に滅びればよい。それを悲しむ親もどうでもいい。でも紗里奈はじぶんなりに大切にすると、こういうことではないかとおもわれる。今回のコンビニ店員とのやりとりは、一見すると不要にもおもわれるが、小山の人間観のようなものがあらわれているのだと考えられる。店員は、好きでもない仕事を嫌々やっていて、それを表に出すことを隠さず、客にあたっている。そこに小山は、「生きてる意味ありますか?」と問いかけるのである。彼からすればこの店員は「非生産的な無価値人間」で、生きている意味がないようなのだ。いま小山が買おうとしているものは、目前にいる店員が手渡さないと手に入らないものなのであるから、その意味では無価値ということはありえないが、小山は周到にそのぶぶんにも「コンビニ無人化」の理想を説いて応えている。いま、ほかならぬこの店員からスイーツを買う意味などひとつもないのだと、誰も議論をふっかけているわけでもないのに、あらかじめ備えているのだ。
彼の独特のフロウ感を備えたしゃべりかたは、どこか舞台俳優のようでもある。「舞台」というと高次の別の意味を含みもするので、もっとざっくりいえば芝居くさいということだ。つまり台本っぽいのである。このしゃべりかたを、ウシジマくんでは「洗脳くん」の神堂は意図的に用いていた。神堂は、通常しゃべり言葉では「ん」となるところ変化させずに読むことで、あえて台本っぽいしゃべりかたを実現していた。つまり、「やるんだ」ではなく、「やるのだ」といったようなことである。ふつうこういう発音の便宜から生じる音便を用いないしゃべりかたは、かたくるしくなるので、フォーマルな場面でもない限り、口語ではいとわれるものだ。しかし神堂は、そうしてみずからのしゃべりかたに「台本っぽさ」をあえてまぶすことで、最初からすべてわかっていたような、預言者的イメージをじぶんにまとわせていたのだ。
小山がこういうしゃべりかたをしているのも、仕事の影響かもしれない。彼は前回、じぶんの仕事を、悩み苦しむ女性の声に耳を傾けるものだとした。しかしおそらくそれでは仕事にならない。修斗がしずくにしたように、そこから、AV出演にはなしをもっていかなくてはならない。そのために、彼は一種の全能性、「すべてわかっている感じ」で自己演出をしなければならなかったろう。その成果がこのしゃべりかたなのである。
コンビニ店員に対しても、説教しているようでいて、じつはまったくコミュニケーションは成り立っていない。この場合店員側にも問題がありすぎてややこしいが、店員にも事情がある。背景の物語がある。そういうのはすっとばして、すきまなく埋め立てるようにして小山はただ持論を述べる。こういう彼の気性が、ここではあらわれている。そこから推測できる紗里奈のあつかいが、さっき少しだけ書いた、じぶんの考える娘像への埋め込みということである。娘のことも愛美同様どうでもいいなら、こういう埋め込みは行われないだろう。だから、いちおう、愛はあるとおもわれる。しかしそれは一面的なのである。
そして、この意味でいうと、嵐山も、少なくとも以前までは、大差がなかったのだ。彼は今日も美穂といっしょになって小山をクズと呼びまくるが、この呼称というか属性というか、そのひとがけっきょくなんのかということにこだわる態度というのは以前から見られたもので、愛美についても、裏アカを見ながら「メンヘラってやつか」と無機質にいっていたことがある。これもまた嵐山においては職業からくる思考法だ。例の九条がいっていた、「被疑者」と「協力者」に分類する刑事の二元論である。これは実務レベルでは有効な思考法なのだろうが、社会生活、特に愛がかかわるような家族関係では、まったく使えない。
この思考法については第43審感想で、星の王子さまを引き合いに出してくわしく考えた。
これじたいが第10審を思い出して書いたもので、出発点は九条の、兄・蔵人に対する「あなたには見えなくて私には見えてるものがある」というセリフである。これが、星の王子さまの金言、「大切なものほど目には見えない」を連想させるというはなしだ。
ここでいわれていることは、大人のロゴスが、どれだけ世界を見る目を歪ませてしまうのかということだ。ロゴスというのは言葉や論理のことである。言葉は、世界の以前にあるのでもなく、世界を構成する要素なのでもない。ただ世界をきりわけるだけだ。その際、不可避的にある種の切捨てが行われることになる。砂漠に不時着して死にかけのパイロットが出会う王子は、人間の「生きている状態」と「死んでいる状態」、要するに「生」と「死」の、語による分類が見落とさせているものをつきつける。というのは、「生きている状態」と「死んでいる状態」をあわせてみても、そのひと全体にはならないからである。そのとき失われるものを言葉で名指すことはできない。その瞬間、あらたな誤解と、歪みと、傲慢が生じるだけだ。だから、これは「見る」ことができない。わたしたちにできることは、「見えないものがある」ということを知っておくこと、それだけである。
九条が弁護士として探究する道にこの価値観があることはまちがいない。彼は、あらかじめ用意された依頼人の記号的な要素に左右されない(弁護士を目指している)。貧乏だから、金持ちだから、彼の態度が変わるということはない。九条がすることはただ、はなしをよく聴くことだけだ。ここまでは小山と同一だ。しかし小山は、それをじしんの思い描く「正しい世界」の枠組みのなかに組み込もうとする。くりかえすようにこれはただの勘だが、娘についてもそうした窮屈さのようなものが感じられるというはなしだ。そして嵐山はさらにわかりやすく、刑事の二元論的思考になれきっているぶん、あっさりと、娘さえも「メンヘラ」という一語のなかに回収してしまう。たしかに、愛美はメンヘラと呼ばれがちだろうし、小山はクズだろう。しかしその輪郭はにじんでいる。クズとクズでないものとの境界線はあいまいだ。小山にもそういう面、クズでないぶぶんがある、というはなしではない。そういう想定をせずにあっさり「クズ」とか「メンヘラ」とかいうふうにひとや事物を硬質の語に回収してしまうときに、なにかを見落としてしまうのではないかと考えていないこと、それが問題なのである。それがげんに、嵐山から娘の「真相」を隠し、唯一のチャンスだった電話を取り逃させたのである。
こうした具合に、傾聴という意味では九条と小山が、ロゴスのやたらな行使という意味では小山と嵐山が似通ってはいるが、ぜんぜんちがうともいえるふうになっている。では九条と嵐山は似ているのかというと、前回の、小山の態度に怒る描写だ。あれはなにかというと、「じぶんの娘」のことをおもったときの行動なわけである。嵐山はじっさいじぶんの娘のはなしをしているのだから当然だが、九条はまちがいなく莉乃のことをおもったはずだ。こうして、「娘」は一般化を回避する。それぞれの父に、それぞれの「娘」がいるのだ。この意味では小山もそのはずだ。役割を演じるようなしかたではありながら娘と良好な関係を築きながら、愛美についてあのような言動ができる、また嵐山への感情移入もまったくしないというのは、紗里奈以外のことはどうでもいいからなのだ。
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