今週の九条の大罪/第47審 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第47審/事件の真相⑦

 

 

 

 

ついに嵐山と小山が取調室で直接対決だ!今週はほぼまるまる1話ダイアローグで成り立っている。

 

復活した愛美のスマホから美穂という友人を探し出し、裏アカの存在を教えてもらうとともに、いろいろ情報を手に入れた嵐山は、小山という当時の彼氏らしき男に当たった。これは、前のエピソードで笠置雫がAVデビューした会社の社長である。当時の小山は愛美含めた周囲の女性の弱みを握り、売春などさせていたようだ。

しかし今回はどんな容疑で連れてきたのだろう。嵐山は詐欺だという。京極をホテルに泊めていた件だ。ヤクザは記名をするタイプのきちんとしたホテルに宿泊できないから、京極は小山の借りた部屋に泊まっている。それをいっているのである。防犯カメラにもうつっているから証拠もばっちりだというが、これはいうほど「立派な詐欺」なのかどうか、よくわからない。

 

小山は黙っているが、嵐山は九条に20日間黙るようにいわれたんだろうと、おそらく図星なことをいう。嵐山は続いて外畠のことを持ち出す。外畠は誰かに拉致されて股間を焼き切られた。彼はその黒幕が働いていたデリヘルオーナーの久我だとおもっている。というか、じっさいその件で拷問されるのだということを、その場で壬生がそういっている。だから外畠は久我の車に火をつけて仕返しした。だが、そもそもそのストーリーじたいがニセモノだと、嵐山は見抜いている。人気女優のしずくがつぶれたのは外畠のせいであり、その報復なのではないかと。

しずくの件は今回のはなしに直接はからまないが、嵐山がなんでも見抜いているとおもわせる効果はあるだろう。次に嵐山はついに小川愛美の名前を出す。嵐山は離婚しているというはなしなので、母親の姓が小川なのだということだ。小山はふつうに忘れているようだが、10年前に殺された件を持ち出すとわずかに反応する。

嵐山は小山の女衒みたいな仕事を言い当てる。小学生にまで売春させてたとか・・・。さらに、お客には政治家や官僚までいた。どうやら愛美はこれを暴露しようとしたらしい。だから殺したんじゃないかと。いままでのはなしでは小学生の件や政治家のはなしは出てこなかった。描かれていないところで情報を得たか、あるいはここからさきは嵐山の勘なのだろう。

じっさい、これは勘なのかもしれない。ここで急に小山がしゃべりだすからだ。嵐山が微妙にまちがったことを言い出したので、ついうっかりゆるんでしまったように見える。逆にいえば、沈黙していたそこまでのぶぶんはぴったり正解なのだということだろう。

小川愛美さんには気の毒だがもう解決した事件ですよねと小山が問う。隠してもしかたないことなので、愛美と知り合いだったことは認めるようだ。事件はなにも解決していないという嵐山の顔は悲しげだ。そこで小山は納得する。このタイミングで嵐山が刑事だという愛美の父親だと、ようやく気が付いたのかもしれない。

小山は、愛美が父親の使ったあとの風呂を入れ替えていたという。たいがい入れ替えるとおもうが、げんに言葉にされるショックなものだ。

 

そのように、ことばにできない理由で、つまり生理的に父親を嫌う娘の親というものは、娘の話を聞かないものだと、小山はズバリ的確に嵐山を貫く。夫婦仲も悪いので、母親の悪口を聞いて育つことにもなる。

それでも嵐山は、それは自分自身のはなしではないのかと、いちおう反撃する。小山がAVメーカーなどやっているから娘にも嫌われるんだろうということだ。だが小山も一筋縄ではいかない男である。それは職業差別である、そもそもじぶんは問題を抱えている女性を傾けるものであり、結果としては逆に耳を傾ける立場になる。娘や妻とも関係は良好だと。

さらに小山は、愛美は嵐山じしんがふだん逮捕している金と男しか興味がない連中と変わらない「売春婦」だという。いまの小山の「職業差別」や「問題を抱えている女性」のはなしからすれば、「売春婦」だからなんなのということになるが、嵐山は特につっこまない。

 

 

九条との面談で、今回はじめて嵐山が昔の女の父親だと知ったと小山が語る。いちおう、九条には「逆恨み」といっており、愛美殺しについては無関係ということになっている。犬飼が壬生の命令で動いていたことまでは判明したが、その先、京極、小山については、まだ厳密には明らかになっていないので、まだ少しは小山が黒幕ではない可能性もある。

小山はなにしろ20日間も失うことが不愉快なようだ。父親も鬱陶しいが娘も鬱陶しかった、うっかり妊娠・堕胎させてからスーパードメンヘラになって死んでもなお鬱陶しいと、聴き手を集中させる種類のフロウ感のあるしゃべりである。問題のある女性やヤクザとわたりあってきた小山らしいといえばそうかもしれない。

その言い方は気に食わないと、九条はいう。しかし仕事はすると。

 

職場に戻った嵐山が、悔しさから机を叩いている。同時に、娘をもつものとしての九条も、小山のあまりの人でなしっぷりに、車のなかでハンドルを叩いてうつむくのであった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

車のなかが個室として、プライベート空間として描かれるのはウシジマくんでもよくあった。もっとも印象的なのはサラリーマンくんの小堀である。理不尽な毎日に疲弊しながら、小堀は車のなかで絶叫することで、これをどうにかこなしていく。最終的にはこなすことができなくなっていったが、とにかくそうしていた。ウシジマくんでも描かれたことがあるように、乗車する際に人物ではないものがドアをしめると監禁になるということは、ドアをしめたときの社会との切り離しの強さを示してもいる。ふつう、こうした距離の概念は公私の区分のようなことによく用いられるだろう。じっさい、車のなかは私的空間のわかりやすい事例であって、公的な関係性の網目から解き放たれる場所ということになる。ところが、あまりにも公的空間で疲れ切ったものたちは、本来等価、もしくは上位にくるはずの私的空間を調整に用いることになる。そうした生き方は長くは続かない。げんに小堀はそれではもたなかった。同じことが今回の九条にも見られるわけである。

どうしてこんなことにこだわるかというと、九条は私的空間をもたない人間だからである。というと極論すぎるが、九条にとって仕事をしているときとしていないときというのが、あまりちがわないのだ。職場の屋上でテント暮らしというのがそのもっともわかりやすい象徴となる。事件の死者(犯罪者でもある)の飼っていた犬を引き取るし、まったく考えかたの異なるふたりの師匠を同時に尊敬することもできる。それは、彼にとって「世界」がそう単純ではないということが、経験とともに受け容れられていることの結果だろう。たとえば、流木は貧乏人をメインに仕事をする良識派であり、山城は半グレだろうとヤクザだろうと関係なく、刑事事件を中心に、金をもっているものをおもな依頼人としている。しかし九条にはそのようなこだわりはない。金をもっているかどうか、悪党であるかどうか、そういう、事件の前後に時間的に伸びる個々人の事情をもってして仕事をするかどうかを決めたりはしないのだ。結果としてそういうう態度は、弁護士のほうから依頼人を名指しするものではないので、通常厭われるような依頼人の割合を増すことにはなるだろう。金持ちは金持ちウェルカムの、貧乏人は貧乏人ウェルカムの弁護士の依頼人になればそれでいいからだ。わざわざ誰にもそっぽを向いているような九条を取り立てようとするものは、そうした選択のしかたをしらないか、悪党すぎてできないかのどちらかなのである。

依頼人の個々人の事情は、まずはなしを聞くという彼の最初の態度からようやく関係することになる。こういう仕事の回路が、九条に「つねに本人」であることを要請する。それも自然なことなのだ。カウンター越しに金持ちか貧乏人かで客を選ぶものは、当然、じぶんにふさわしい客に向けた特注のペルソナを装着することになる。そうではなく、やってくるものすべてのはなしにしっかり耳を傾ける九条は、つねに九条間人本人であることになる。これは他面では技術的な問題でもあるだろう。要するに、相手のこころを開いて言葉を引き出そうとしたら、こちらもそのように接するしかないからだ。ただ九条のばあいは、最初の「客を選ばない」という身振りによってそれがすでに実現してはいる。それが実現しているということをはっきり示すもの、ひとことでいえば営業活動が、彼では「そっぽを向く」ということになるのだろうが、それもまた、固有の意味があるというよりは、通常の営業活動というものが望む客に向けて踏み込むものであるがゆえということにもなるだろう。そうではなく、気難しい犬と時間をかけて仲良くなっていくときのように、九条は興味がないような顔をして依頼者と接遇していく。これが営業活動の段階から始まっているということだ。

 

こうしたスタンスでいる九条は、私的空間をもたないのである。あるいは、私的空間を公的空間にまで拡張して生きるのである。「弁護士」という条件をつける以前の、ひとりの人間としての「九条間人」として接することが、彼なりの仕事のすすめかただからだ。しかしそれでも、納得がいかないことはあるし、原理的には正しいが認めたくはない現実に直面することもある。小山のような男の弁護がまさにそうだろう。寛容のパラドクスみたいなものだ。九条のありようは、ふつうなら聞き取れないような小さな声まで拾うことのできるものだ。これは彼がそっぽを向いてヒマそうにしているからこそ実現するものである。ところが、これをまっとうしようとすると、やがて京極や小山のようなものも相手にしなければならなくなる。これを拒否することはできない。厳密にはできるが、それをいっしゅの方針レベルにまで引き上げると、途端に彼は特殊なペルソナを装着することになる。ひとことでいえば、客を選ぶようになると、ほんらいそのつもりはなくても、誰も存在に気付かないような小さな声の持ち主が彼に到達できなくなってしまうのだ。

 

ここで、なぜ九条がこのスタンスに到達したのかということを考えると、それは娘の存在があるわけである。第9審の感想でくわしく書いたが、九条は娘の莉乃に全プライベートを預けて仕事に打ち込んでいるところがあるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

莉乃は今年で5歳、このときは莉乃の誕生日で、九条法律事務所の設立も5年前である。彼のほんとうの姓は鞍馬で、事情があっていまはこの名を使わず、別れた妻の名字をつかっている。つまり、莉乃と「九条間人」はほぼ同時に誕生していると考えられるのだ。

九条がいまふつうの結婚生活をして莉乃と暮らしていたら、そこには通常の家庭、つまり私的空間が広がっているはずである。だが彼は、「莉乃」が失われるとともに、ある種の覚悟をもって私的空間そのものを生活から抹消したのである。その彼が、小山の件で嵐山に感情移入するのが今回の場面だ。九条もまた仕事人間であり、離婚していなかったとして果たしてまともな生活ができていたかということもここにはあるかもしれない。いずれにせよ、彼は莉乃のことを考えないわけにはいかなかった。莉乃が小山のような男にいいようにもてあそばれたらということを想像しないわけにはいかなかったのである。これが、幻肢痛のように痛みをもたらすのだ。「莉乃」が失われたことが、そもそも現在の九条を成立させてもいる。そのように私的なものをもたないものでなければ、九条のようなふるまいは現れない。そしてそのことがいま、小山を通じて回帰しているのである。

彼が「九条間人」となって莉乃から遠ざかるのは、たんに離婚と身内との不和が原因なのだろうが、そこに加えて、なんとなくだが、莉乃を守ろうとするようなところもある感じがする。そこのところはこれからを見ていかなければならないが、少なくともいまのじぶんのような生き方に娘を近づけたくはないのではないかなとはおもわれる。だが、結果としてはむしろ招いてしまっているわけだ。「九条間人」でなければ、小山を弁護するようなこともなかったかもしれない。だが彼は客を選ばない方針を貫いた。私的空間のいっさいを取り除くことが、「莉乃」を仕事の世界から遠ざけることだとすれば、ここには背理が生じることになる。結果として彼は娘を失わせるようなものの味方をしなければならないからである。

だが、車内は象徴的には私的空間であるとともに調整装置である。たぶん九条は問題なく小山の弁護をするのだろう。

 

嵐山もある意味では九条と似た者なわけだ。ただ、彼は最初から仕事人間だった。家族を邪魔なものくらいに考えていた可能性もある。その償いが、今回の仕事になるわけだが、小山がいうように、嵐山は愛美のはなしを聞かなかったわけである。これが反転したものが九条の現在の傾聴のスタンスだというふうに考えるとおもしろいかもしれない。嵐山は、もはや聞くことのできない娘の声を聞こうとしている。そのメッセージのかけらをすこしずつ集めているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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