あけましておめでとうございます。
年越しはいつものように相方の家で。ただ、いつもとはなにかが違っていた。なんでかわからないが、ぜんぜん年越し感がなく、いつもはそんなに興味なくても「年越しだから」ということでつけるテレビもつけず、23時30分くらいまでWWEをみたりしていた。ジョン・シナがスマックダウンに久しぶりに参戦、ケビン・オーエンズとともに、ロマン・レインズ、サミ・ゼイン組を倒したという大ニュースを受けて、それに関連する動画をみたり、あとトリプルHがシナとCMパンクの対戦のレフェリーをしている謎の試合を見たりしていたら、そうなっていた。で、もうそんな時間なのに、なぜか『ラストナイト・イン・ソーホー』を見始めてしまい、55分くらいに「いかん、年が変わる」となって、いつもみている2355のスペシャルをつけ、阿佐ヶ谷姉妹と新年を迎えた。
ぼくは意外と年越しの感じが好きである。さくらももこもそんなことを描いているが、ともかく12月31日まで帳尻を合わせて、年明けからなにもかも忘れたようにけろっとなる現金さがたまらない。ポストモダン時代にあって暦は、災害のようにネガティブではない、好ましいものとしては残されたほとんど唯一の「大きな物語」であるからかもしれない。それが、ぼくじしんなぜかそこにコミットしようとしていなかったのである。大人になってからは初めての連休のせいだろうかとも思ったが、これまではむしろ休みがぜんぜんないことで年越し感を損なっていたのである。ということは、連休があることにかまけて、ふだんはしていた「年越し感を味わう努力」を気づかず怠けていたということかもしれない。
ともあれ年が明け、『ラストナイト・イン・ソーホー』という傑作に胸を打たれ、いい感じにスタートのはずが、いますごく体調が悪い。昨晩久しぶりにビール飲んだからかもしれない…。
「私はイヤだ」というセリフじたいは、かなり最初のほうからある。だけど、それを受け取る器じたいが既存の制度に依存したままなら、その言葉は正しく機能せず、抑圧されて別のすがたになって実現してくる。連帯はその器になりうるんだなと考えた。 https://t.co/7cNtWRagDR
— ツッキーニ (@tsucchini) 2022年12月31日
今年も引き続き教養の底上げをしていくことになるが、目標としては、最近はなにか集中力に欠いている感じがあり、なにをしても身になっていない感触がある。その原因は、たぶんいろいろなことに手を伸ばしすぎということだろうと考えている。たとえば語学では、いまはもうノートを使って声に出しつつ例文をうつす、みたいなことはしていなくて、ただラジオを流すだけみたいなことが多い。結果、ほとんど聴いておらず、聴いたかどうか思い出せないことすらある。なぜかというと、同時になにかをやっているからである。これが、たぶんよくないのだ。10代のスポンジ脳ならまだしも、その頃以上にいくつも学習事項を抱えて、そのすべてをやろうとするから、結局ぜんぶ中途半端になってしまっているのである。だから、少しルーティンやその周辺の雑務を見直さなければならないかもしれない。
いつも正確な時間に散歩する姿をみてひとが時計の針を調整したといわれているのはカントだったかな、そこまでの厳密な時間の管理は、ぼくにはできない。高校では遅刻で留年しかけ、大学では一限に出れずついに中退にまでなった、時間と犬猿の仲な人間である。だからこれは、相対的なはなしだ。これらのルーティンをぼくが実行していると聞いたら、高校の友人などは驚き、笑うかもしれない。だらしない人間なのだ。おそらくぼくをギリギリのところでまともにしているのは、ピアノを独学でマスターした経験と、空手の延長にある筋トレである。これらのことはぼくに「反復」がもたらすものの貴重さを非常に明らかなかたちで教えてくれたものだ。左手と右手の運動規律が別々で、どんなに複雑な曲でも、ひとつひとつ、拍子ごとに分解するレベルで楽譜を読み、それらをつなげて反復していけば、いつか必ず「あ、そういうことか」と納得する瞬間がやってくる。筋トレのほうがもっとわかりやすい。去年ぼくは約8年前から取り組んでいたプランシェをついに達成した。ふつうならもう少しはやくできるかもしれない。筋トレの内側でさえわりと興味が散ってしまうので、結果としてはひとつの達成にひとの何倍も時間がかかるのである。だが、そうした反復・蓄積が価値のあるものだという実感はたしかなものだ。それがぼくにルーティンをさせる。あとは、それをどう管理するかである。幸いというか不幸にもというか、「モノを知らない」を突きつけられる毎日ではあるので、メンタルの調子さえよければモチベーションを欠くことはないだろう。問題は目がうつり、しかもそのどれをもやろうとすることなのだ。ぼくの時間管理力はひとより弱い、そのことを忘れて、やりたいことぜんぶ詰め込んでたら、そりゃパンクするのである。
とはいえ、たとえば去年はじめた数学をやめたほうがいいのかというと、そういうはなしではないだろう。ではどうするかというと、ここでは筋トレの超回復の理論と、それに基づくスケジュールのたてかた、そのノウハウが役に立つかもしれない。
ごく初歩的なことを大雑把に書くと、筋トレとは、対象の筋肉をトレーニングで破壊する行為である。筋肉は、次にその破壊が行われたときに耐えられるよう、適切な補給と休憩がとられていれば、以前より強く大きくなる。それが超回復だ。この回復に、だいたい1日から3日くらいかかる。その間、その筋肉にはなるべく強い刺激がいかないようしなければならない。そのため、スケジュールが必要になる。上級者ほど筋肉を微細に把握し、ある種目が筋肉のどこに働きかけているか綿密に計算してスケジュールを立てるが、ここではわかりやすく「胸から上」「体幹」「下半身」くらいで考えるとしよう(このとらえかたはじっさい筋トレ初心者にも有効だとおもいます)。これを月曜から順番にやっていく。そうすれば、水曜日の「下半身」の翌日である木曜日には、「胸から上」は回復しきっており、トレーニングのタイミングとなる、といったわけである。(この感じだと週に2巡して日曜日は全休みたいにするといいかも、このはなしと関係ないけど)
この思考法を、学習ルーティンにもちこんではどうかというはなしだ。むろん、語学のように、毎日やったほうがいいものはその限りではないだろうが、そのためにこそ、時間を確保しなければならない。つまり、いまは語学と数学、法律、行政学、経営学、図書館学などをいっきに集中力を欠いたままやっているところ、語学以外を分散させるのである。そして超回復的には、たとえば法律と行政学は隣接させないほうがいいとか、数学は単独でたくさんやって週1がいいかもとか、そういうはなしになるわけである。
まあこれは完全にいま思いついたことでぜんぜん詰めてないが、悪くない気がする。日中の仕事に不満があって、不完全燃焼だと、寝る前に損を取り戻そうとしてなかなか入眠できない「リベンジ夜更かし」をさがちだというが、それにも似て、「やるべきことができていない」感覚が強いと、ついその場であれもこれもとなりがちだ。しかしそうではなく、もっと広い時間感覚でやっていけばよいのではないかというはなしである。そのための、回復を見越してスケジュールを立てる超回復理論というわけだ。
まあこんなこと威勢よく書いても実現できるかわからないが、元日とはそういうものですよね。みなさま、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
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