今週の九条の大罪/第75審 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第75審/至高の検事⑪

 

 

 

 

息子の失踪について事務所に京極が乗り込んできたところだが、九条は烏丸のことを思い返している。九条からの誘いで飲みに出かけるところだ。出雲という、たぶん弁護をしていたものの死刑判決が出たのである。所詮は他人事と割り切るところだが、そううまくいくものではない。こういうことを珍しく九条がいうので、烏丸はとことんつきあうということをいうのだった。

 

そうした、弁護士として必然的に抱えることになるこころの傷に、烏丸は寄り添ってくれたわけだが、物理的危機(に近いもの)とともに京極が乗り込んできたいま、烏丸はいないのである。

壬生が見つかるまで京極は動かないつもりだ。しかし、なにか連絡が入る。有力な情報が入ったのだ。そうして、これからもつきあうことになるであろう九条へ非礼をわび、京極は出て行く。

 

その壬生は、久我とともに車で移動することで身をかくしている。鍛冶屋という年をとったヤクザは銃をもってうろうろしていて、壬生のアジトである工場は艮というヤク中の引退ヤクザがトラックでつっこんだ。けっこうまずい状況なわけだが、逆に壬生はそのことでいっそ京極をぶっ殺してしまおうという決意をかためたようだ。壬生はすでに菅原に連絡をとっており、屈強な男たちを集めさせていたのである。19人かな。菅原が壬生を追い詰めたときにいたものも見える。どいつもこいつもムキムキのゴリマッチョである。伏見組の若いヤクザが理由しだいでは襲撃をためらってしまうのもしかたないよな。とはいえ、菅原の人望や信頼感もなかなかすごい。壬生に敗北したのちの菅原に、彼らはしたがっているということなのだから。背後に壬生がいるからともいえるかもしれないが、この菅原の感じからして、モブマッチョたちとの関係性が以前とそうちがっているようにも見えない。どういうふうに接するのだろうな。

 

菅原や兵隊たちにはそのまま待機を願い、壬生はトイレに出かける。そして逃亡中の犬飼だ。埼玉のラブホテルに隠れているらしい。まわりになにもないところだ。ツーブロックなのかえりあしをそめてるのかわからないが、例の、猛を始末することについて反対していたほうの連れが買い出しから戻ってきたところである。買い出しといってもお菓子とカップ麺、酒ばかりで、まともな食事というものではない。それをとがめる男、犬飼に指を切られたほうの連れは連れで、この状況でポケモンをやっているらしい。じぶんのこととして現実的に受け止められてはいないようだ。

犬飼はひとり外に出て公衆電話から壬生に電話をかける。たぶん、猛をどうするか相談してスマホの電源を切って以来のやりとりだろう。いわれたとおり逃げたけどどうすればいいかという状況だ。

猛を殺したということじたい、今回はじめて報告することになる。いちおう犬飼のなかでの合理性とともに猛殺害は決まったことだが、とはいえ、「で、どうする?」という感じはぬぐえない。金はあるから海外逃亡の手配をしてくれないかと、わりとビビッた感じで犬飼はいう。とりあえず、ラブホには伏見組から犬飼たちの顔などの情報がいっている可能性があるから出てほうがいいらしい。位置情報を送るから待ち合わせようというはなしになる。

ビビッた犬飼は銃をもって走る愛沢ばりにダッシュする。スマホは、電源を切りながらもいちおうもってはいたのかな。その彼の横を、京極たちのものらしきものものしい雰囲気の車が数台過ぎていくのだった。

 

壬生と久我がコンビニ前で一服しているところへ九条から電話、話がしたい、いまから会えないかということである。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

九条と対面した壬生のそばにはすでに犬飼がいて、無事合流できたようだ。だが、ほかの連れふたりの姿はない。そのまま逃げたっぽい。犬飼は壬生の舎弟だが、まだいまのところは猛失踪に関して無関係の位置にいた。だが犬飼は部屋を出るとき壬生に電話してくるということをいっており、おそらくつかまった連れふたりがそのことをいってしまえば、いよいよ壬生は関係者ということになる。

 

九条がとるべき態度とはどういうものになるだろう。こういうことになるから、烏丸は以前から警告していたわけなのだが、九条は九条で、彼なりの「依頼人を選ばない」という方針にしたがったうえのことだった。九条の弱みは、その方針それじたいはよいとしても、それが結果として導く今度のような事態を、ではどうするのかということなのだ。今回の事態を受けてどうするのかという問題は、もともとの、依頼人を選ぶとか選ばないとか、そういう次元とは、問題のレベルが変わってしまっているということはある。つまり、この件をなんとか突破したあとで、引き続き九条がいままで通りの弁護士のふるまいを取り続けるということは、原理的にはありえる。ありえるが、果たしてそれは、方針レベルで、持続的なものとして採用可能なままなのだろうか。要するに、ひとことでいえば、弁護士という仕事を持続することはできるのだろうかということだ。ある制度があって、それに反発する理論が生じたとして、かといってその理論のままにすすむと、制度にすがるぜんたいが崩壊してしまい、理論も成立することがないということはよくある。弁護士の使命はいくつかあるのだろうが、それらが成立する前提として、「そのひとが弁護士である」ということは、自明なこととして含まれているだろう。これは現在系だが、それを拡張したところには、「弁護士でありつづける」ということが含まれても不思議ではない。「弁護士の使命」が、AとかBとかあるとして、しかしそうした議論が可能である前提に、そもそもその人物が弁護士である、弁護士であり続けるということが、暗黙のものとして書き込まれているのである。これが自明のことで、いちいち語られないことには理由があり、というのは、これが前景化されすぎると、保守的になってしまうからである。「弁護士の使命」たるAやBより前に「弁護士であり続けること」がきてしまうのだ。だから、大きな声では語られない。それはその「使命」を損なうからだ。しかしそれはたしかにある。九条は、みずからを律するものとしてCという、多くの弁護士が厭う使命を掲げ、行動を限定している。だがそれは、あまり語られない当たり前の前提、「弁護士であること」という現実を毀損するものでもある。烏丸はそのことを指摘する存在なのだ。

 

九条のありようというのは、いってみればファンタジーである。ピーターパンとウェンディは眠りの夜のうち星空に旅立つし、『フック』という映画でティンカーベルはネバーランドの位置を、夢と現実のあいだという表現で示していたが、これらはすべて『星の王子さま』のプチプリンスが表現した、言語のはざまにある、言い当てることのできないものと出自の等しくする。このブログでくりかえししてきた表現でいえば、ピアノの鍵盤における「シ」と「ド」のあいだの音である。言語は、世界を認識するツール、ぜんたいではシステムにすぎない。ここに全能を見出し、むしろ言語が世界であるとするのが蔵人的立場である。だから、善も悪もはっきりしている。それも無理のないところで、彼ら法律文書を通じて世界を掌握するものにとって、言語はそれだけ大きな意味をもつものなのだ。ところが九条は、蔵人に見えないものが見えるという。じっさいわたしたちは、曽我部やしずくのような、非常に弱い、善だとか悪だとかのラベルを貼ることにあまり意味がないとおもえるものを多く見てきたはずである。九条は、蔵人的立場のものが必ず見落とすこういう「言い当てることのできないもの」を拾うものなのだ。ところが、これはじつはネバーランド的なものにならざるを得ないところがあるのだ。それもそうだろう。現実世界は言語で整序されている。少なくとも、いまわたしたちが意志をもってなにかをしようとする認識の世界は、言語で調整されているのだ。その足場のぶぶんには広大な無意識が広がってはいるが、現実の生活感覚にはあまり関係のないはなしだ。そもそも、法律のおおもとである憲法にしてからが、ある種コストパフォーマンス的な、法律家の労力節減のために設定されているぶぶんがある(憲法がない状態で、たとえばただでさえ膨大な民法のようなものを、ありえる個別の状況をひとつひとつ思い浮かべながら立法するという状況を考えてみればいいだろう)。蔵人的な言語観は、ひとつにはそうした経済性という点において、現実的なのである。だから、九条的言語観、また星の王子さまやピーターパンのネバーランド的事物の位置は、ファンタジー的になりがちなのだ。もっといってしまえば、「現実的ではない」のである。

 

九条がアウトローの面倒ばかりみているのは、その方針の副産物にすぎないのかもしれない。つまり、彼の初期衝動としては、曽我部のような弱いものを救うために、ということが、おそらくはあったとおもわれる。しかし結果としてはアウトローばかりが寄ってくることになる。そして九条としても、その方針をすすめる以上それはしかたのないことであると、冷静に仕事として受け止めていく。ここでは、九条のもつ非現実性が、ファンタジーとしてではなく、文字通りアウトローのもの、法律文書の書きこぼしを読むものとして読み換えられているわけである。烏丸の指摘はつきつめればここにたどりつく。九条がファンタジーであるぶんにはまだいいだろうし、そのおかげで救われる「言い当てることのできないもの」たちはたくさんいるだろう。しかしそのファンタジー性を悪く読み換えられたとき、どうすべきなのかということなのだ。個人的には、ファンタジー性を保持しつつアウトローを拒否するのは「あり」ではないかとおもう。誰もが丑嶋や竹本のようにひとつの原則を決めたらそれからはずれた行動は絶対とらない、というふうに生きれるわけではないからだ。けれども、九条はおそらくそうしない。なぜなら、そのようにアウトローたちを拒否するときの判断基準が、言葉によっているものだからだ。それではまったく意味がないのである。

 

ただ、はなしがあるとしてわざわざ呼び出している以上、九条もなにかを決意してはいるようだ。壬生との関係を断つみたいなことはなさそうだが、流れからすると菅原たちをつかった戦争を止める感じかもしれない。そのための落としどころを提案しにきた感じじゃないかな。ただ、直前に烏丸のことを思い返しているくだりもあるので、以後事務所立ち入り禁止的な展開になったとしても不思議ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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