ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー3を観た(ネタバレあり) | すっぴんマスター

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5月9日、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』を観てきた。

 

 

 

 

 

 

この日をどれだけ楽しみにしていたか・・・。こんな傑作を同時代に見れて云々という評言をよくみかけるが、正直ぼくも今回はそれをおもった。笑いすぎて頭痛くなるみたいな感じで、おもしろくすぎて、感動しすぎて、途中で具合悪くなってしまった。人生通して指折りの傑作だったとおもう。

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のシリーズは、いやシリーズというか世界観や登場人物たちは、アベンジャーズと同じユニバースのものでありながら、どこかこう、コミックでいうと「出版社が違う」みたいな、根本的な空気感を異にしているぶぶんがある。ひとつには、本シリーズをどれも傑作に仕立てるジェームズ・ガン監督の作風であり、またそれに尽きるということになるが、なんというのかな、アベンジャーズの世界に最初に「この世界は“ユニバース”レベルで共有されるものなんだ」ということを示した作品だった。アイアンマンのトニー・スターク、キャプテン・アメリカのスティーブ・ロジャース、またハルクのブルース・バナーは、もちろん常人では不可能なことを行いながら、基本的には常識的感性の拡張で認識可能なヒーローたちだった。なかではマイティソーだけが神話の世界の住人なので別格となるが、それでも、宇宙人というよりは神話の住人であるということが、むしろソーを特別枠に放り込むことを許したようなところがあるようにおもう。それでいてハルクとは互角くらいの強さであるというところ、そのように描くことが可能なところなどもMCUの強みであるのだが、ともかく、そういう目線でいえば、ガーディアンズは異色だった。強いとか弱いとかそういうはなし以前に、世界がちがうのである。木がしゃべってたたかい、アライグマが銃をもってファンキーに立ち回り、スターウォーズばりの色使いでさまざまな異星人が現れる、そういう映画なのだ。MCUの作品では、主人公ではないヒーローがゲスト出演することがほぼ毎回あるわけだが、ガーディアンズではそれもほぼないということもある。インフィニティウォーでサノスと本格的にたたかうようになるまで、地球のヒーローと彼らが交錯することはじっさいなくて、いったいどうやって彼らがアイアンマンらと知り合うことになるのか、ほんとうにわからなくて、げんに彼らが登場したときには、いよいよこのストーリーが宇宙レベルになってきたのだということを実感したものである。

 

おそらくガン監督はガーディアンズが単独で成立することをじっさい求めてもいて、その他の作品が、そこに連なる全作品を視聴することがとりあえずは推奨されるMCU的状況のなかでほとんど唯一、単独でおすすめすることのできる作品でもある。が、もちろん、本シリーズがユニバースの物語に深く関わっていないということはなく、要所でメンバーは活躍しているのであり、インフィニティウォーでもエンドゲームでも、メンバーは深い印象を残してきたのである。

 

こういうふうに、ガーディアンズ単独の世界観を大事にするガン監督だが、同時に、というかものの道理として、登場人物たちも非常に愛され、大事にされているのが、これまでの作品からもよく伝わってきた。本作ではその方向性が極まった感がある。たくさんの人物が登場する映画であるが、セリフと名前があるようなものについてはすみからすみまで目が行き届いているようで、全キャラにそれにふさわしい見せ場が用意されていた。ガーディアンズたちはちょっと変わったものが多いので、会話劇も魅力のひとつであるが、それを冗長ととる向きもあるようである。しかしぼくは、これだけ見せ場をつくって、しかも重厚なストーリーを展開させたうえでのそれなので、これは“あえて”ではないかなと感じた。収納上手のひとがつくった棚のような精密さ、というか精密であることを感じさせることは、物語には不要なので、「全員に見せ場がある」というのは批評的立場からの感想であり、現実に映画をエンターテインするうえでそうした見方はあまり意味がないわけである。むしろ、「全員に見せ場があるなあ」と、誰かの見せ場のたびにおもわせるようでは、脚本が失敗している可能性さえ出てくる。こういうところで、映画に適切な余白、休憩時間をもうけ、観客に余裕を感じてもらうために、あの会話劇は適度に挿入されているのではないだろうか。

 

以下若干のネタバレを含みます。

 

 

 

 

 

本作ではメンバーのひとり、アライグマのロケットがメインに描かれる。かつてコレクターが住んでいたノーウェアに基地を建設したガーディアンズたちだったが、2に登場した金色の選民的な一族、ソヴリン人のうらみを買い、彼らが作り出したアダム・ウォーロックという超人の襲撃を受けてしまう。ウォーロックはなんとか追い払うも、ロケットはダメージを受け、意識不明の重体になる。このときはじめて、ロケットの発言や、見た目からうすうす感じられていたこと、彼が改造人間であることがはっきりとメンバーに理解される。といっても、ぼくも勘違いしていたのだが、ロケットは人間がアライグマに改造されたものではない。遺伝子操作等で知性を得たアライグマそのものだったのだ。しかしこれまでの言動からも明らかに、ロケットはそのことを肯定的には受け止めていなかった(また、ロケットじしん、実はじぶんの出自をよくわかっていなかった)。だから聞けなかったということもあるだろう。ともかく、ロケットは重体であり、技術が盗まれることを防ぐために設定された「キルスイッチ」が、治療それじたいを拒んでいる(治療しようとするとロケットのからだが破壊されるようになっている)。ロケットの親友を自認する、リーダーのピーター・クイルは、オルゴ・コープ社という遺伝子研究の会社に乗り込むことにする・・・というような流れだ。オルゴ・コープ社の前にはラヴェジャーズという、かつてクイルが属していた宇宙海賊が待っており、そこにはエンドゲームで現代に迷い込んだ4年前のガモーラがいた。ガモーラはクイルと恋仲だったが、エンドゲームの際、ストーンを集めんとするサノスによって殺されている。4年前のガモーラはクイルが誰かもわからない。こういう、胸がしめつけられるような描写も重なる。

ガモーラの協力もあり、やがて彼らはハイ・エボリューショナリーという男の存在にたどりつく。完璧な種、完璧な社会を生み出すため、動物実験をくりかえし、命をいじくりまわしている男だ。この男が、ロケットの生みの親だった。現在の彼は、いちおう、彼が定義するところの「完璧」さに到達し、地球そっくりの星をひとつつくって理想郷を完成させ、人型の動物たちをそこに住まわせている(じっさいには、非マルクス的な社会主義が直面したものと同じ肌触りで、ぜんぜん完璧ではない)。そこに至るまでの、いくつか前のバージョンが、ロケットたちだった。ロケットは、檻のなかで出会ったカワウソのライラなどと、無邪気にハイ・エボリューショナリーのいうことを信じ、いつかいっしょに青空を見る日がくることを信じている。しかし、彼らはハイ・エボリューショナリーにとっては実験台でしかない。ついにおだやかで完璧な種が完成したとなったとき、彼らは処分されることになるのである。

 

ハイエボ(名前が長すぎるので以下こう呼ぶ)にとってロケットたちは最新種より劣った古い種でしかない。しかしロケットだけは、なにか特別なものをもっていた。天才だったのである。ふとしたやりとりで、ロケットはハイエボにヒントを与えてしまう。うまくいかない動物実験と種の更新について愚痴っぽいものをハイエボがくちにしたとき、ここをこうしてこうすればいいのでは?みたいなことを指摘し、しかもそれがハイエボにとっては目からうろこの斬新なアイデアだったのである。だから、種としての興味はなくても、ロケットのことを、厳密にはロケットの脳を、ハイエボは求めていると、こういうわけだ。

 

以後もハイエボは研究を続けており、さらに完璧とおもわれる種を開発しているが、じしんにおいても、また作り出した種においても、もうひとつなにかがたりない。それが、ロケットのもっていた「ひらめき」だったというわけなのだが、ぼくはこのロケットの能力を、人間においてはわりとふつうに行使される類推の能力ではないかと感じた。人間にできてAIにできないことのアレである。あるいは、比喩の能力といってもいいかもしれない。無関係なふたつの事物をもってきて結びつける、あるいは、ある出来事から、まったく別の出来事を想起して結びつけてしまう、そういう、誰もがもっている能力だ。こうしたランダムな生命力みたいなものは、数量的なモデルでは無視せざるを得ないか、捨象されてしまうのかもしれない。

じっさい、ロケットは優秀だろう。チームでは機械関係のことは彼かネビュラがすべて引き受けていたし、エンドゲームでは技術者としてスタークの手伝いをしていた。しかし、ハイエボが感じる天才性がいままで感じられたかというと、微妙でもある。そこで、この能力は、人間的なもの、ハイエボが不要と判断するもののなかに混ざりこむものであって、多くの人間にはふつうに備わっている能力なのではないかと考えたわけだ(ギャグっぽい会話ではあったが、クイルとドラックスのあいだでも「もののたとえ」についてのやりとりがあった)。

 

今度のフェイズ4の大ボスであるカーンと同じく、今回のハイエボも、秩序を作り出した神のようなタイプの敵である。エターナルズもそういうことになるかな。「人間とはこういうものだ」ということを一方的に決めてくる、なにか父なる存在。それに対抗するのがフェイズ4ということでどうもまちがいなさそうだ。

アントマンのときにも考えたが、ここでわたしたちが直面するのは、決定論的にとらえられる運命のようなものと経験の衝突である。

 

 

 

 

 

 

このときはジョジョ6部に登場するフー・ファイターズや、ファイナルファンタジー7のケットシーを例にあげた。彼らは特殊な条件ゆえ、死んでも復活することができた。しかし、フー・ファイターズはそれを拒み、ケットシーは、復活はするけれども、それはこの、いま死につつあるじぶんではない、ということをいう。復活をすれば、同じ能力、同じ性格のものが新たに登場することになるが、しかしそれは、これまで主人公たちと冒険を重ねてきた「その人物」ではない。「その人物」と、復活したものとのちがいはなにかというと、「経験」なのである。

カーンはマルチバースを通じて自己同一性をゆさぶり、ハイエボはひとのありようを型にはめてくる。タイプが異なるものではあるが、共通するものは、その人間がどういう人間であるかということがあらかじめ決定しているということだ。だから、ここに自由意志はない。最初に登場したカーンは、『ロキ』における「在り続ける者」という名前の人物で、彼は神聖時間軸というものを設定し、そこから逸脱するものを剪定(文字通り消し去る)ことで秩序を維持してきて、ある意味もっともマシなカーンだった。ふつうに生きているうちには、わたしたちはカーンの存在を知覚することはないし、そこには実は自由意志はないということに気がつくこともない。ちょうどマトリックスのなかに知らず過ごすものと同じことだ。しかし、剪定を逃れたり、ある条件を満たしたとき、マトリックスでいえば外の世界に「現実」があると知ったとき、また魯迅でいえば「鉄の部屋」の外にも世界があると知ったとき、わたしたちは自由意志を求めることになる。

 

父なるもの、制度、秩序、決定論、ファシズム、こういったものに対決するとき、ひとはなにを求めるのか。とりわけ、マトリックスのように、神聖時間軸のように、また「鉄の部屋」のように、その内側にいるときにはまどろみのなか酸欠で緩慢な死を待つ以上のことを知らなかった状態から、そうした抑圧を知ったとき、ひとはどうするか。フェイズ4はこういうものを描いていると思われる。それが、「ロケット」の象徴するものなのだ。

 

そして、詳細を書くことは避けるが、これは恋愛について考えたとき、よりリアルなものになるだろう。つまり、「運命のひと」がこの世には存在していて、ひとの恋愛的使命はそれを見つけることであり、そうすることでひとの生は完全なものとなるとするような、ロマンチック・ラブ・イデオロギー的なものは、カーンやハイエボに近い発想なのである。この発想では、どのような経緯をたどろうと、わたしたちが結びつく相手は決まっているのであり、そこにたどりつけないのはしかるべき手順を踏んでいないからだ、ということになるからだ。しかし「人間」はそういうふうに生を歩まない。運命は経験を通じ事後的にそう呼ばれるものだ。だから、いかに強い運命が感じられたとしても、ちがう経験を積んだ別の宇宙にいるそのひとと、また恋に落ちるとは限らないのである。

 

ただいっぽうで、グルートの存在もある。グルートは「木」であり、じつはガーディアンズシリーズの1作目でいちど死亡している。が、残った枝が再生し、2のあの、かわいすぎるベビーグルートが生まれ、現在に至っているのである。このグルートはまさしくフーファイターズやケットシー的な位置にある。このことをどう受け止めればよいか? ぼくは、おそらくガーディアンズたちは新しいグルートを、前のグルートと同一のものととらえてはいないのではないかなとおもう。だからこそ、グルートは赤ちゃんの状態から、スクリーンを通じても伝わるよう「経験」を積む姿が描かれてきたのではないかなと。じっさい、いま1をみてみると、現在のグルートとはどこかちがう感じもある。なにかトロいのだ。あの、最後の場面での、ずっと強気なロケットの号泣場面もある。

そして、最後のあの場面だ。本作ではグルートに関して、これまで作品を見てきたものが必ず驚く場面が用意されている。それは、グルートが、「アイ・アム・グルート」以外の言葉を発するというものだ。不思議なことに、このときガーディアンズのメンバーはまったくリアクションをとらない。これはつまり、音声のうえでは、これまでどおりグルートは「アイ・アム・グルート」と発声しているからだとおもわれる。このことについては2通りの解釈が可能だ。ひとつは、彼らガーディアンズは、「アイ・アム・グルート」という発声を受けて、脳内で英語に翻訳し、グルートと会話をしている、だとしたら、グルートがじっさいにほかの英語をしゃべったとしても気がつかないのではないかということ、もうひとつは、そうではなく、ほかでもない、映画を鑑賞するわたしたちが、グルートのいっていることがわかるようになったということである。特に後者の解釈においては、やはり「経験」が生きている。映画を通じ、彼らの楽しいとき辛いときを共有してきたわたしたちにとっての彼らの像というものが、彼らそのものであり、だからこそ、わたしたちはグルートの言葉を理解できるようになったのだ。そのために、グルートは赤ちゃんのところから描かれていかなければならなかった。こういう視点からも、1のグルートと2以降のグルートは、別なのではないかと考えられるわけである。

 

 

ロケットの出自についてはおそらくロケットじしんよくわかっていなかった感じもあり、ネズミだとかウサギだとかいわれるのはまだしも、見たまま「アライグマ」と呼ばれても、彼は怒っていた。その感じがはなしをややこしくもし、ロケットは改造人間であるという勘違いも呼んだとおもうのだが、じっさい、彼はアライグマだったのである。そこに、深い闇をくぐりぬけたものが手にする、二度とゆらぐことのない自己肯定が訪れる。この場面は非常に感動的なので、もういちど観たい。じぶんはなにものなのか、ハイエボの手が加わることで両手を広げて受け止めるというわけにはいかなったところ、むしろハイエボやカーン的な強権的父性と対決することで、彼は悟ったのである。じぶんがなにものなのかは、探し出すものではない。運命の相手も、どこかにいるものではない。いまこうしてあるじぶんがじぶんそのものであり、愛した相手が運命の相手なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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