今週のバキ道/第149話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第149話/武術界の実戦性

 

 

 

 

宿禰篇がひと段落というところで、今回は本部流柔術の道場の描写からはじまる。弟子のガイアと、なぜか加藤が組手を行おうとしているところだ。加藤も、もともとは刃物つるはしが踊るヤクザの用心棒の世界にいたものなので、武器も含む闘争の世界には近いところにいる。ガイアや本部はその専門家というわけである。

審判的なポジションで本部がはじめの合図を出す。加藤の構えは、これ、なんだろうな、どっかで見たことあるような気がするけど、足が近い位置でそろっちゃってる感じの、へんなやつだ。と、不意に跳躍、後ろ廻し蹴りが身を沈めたガイアの頭をかすめる。まだ空中にいる加藤のアキレス腱のあたりを、ガイアは肘で叩く。すさまじいスピードだ。

ようやく着地した加藤の目前にはすでにガイアがいる。ガイアは手先で加藤の目をはじき、連続して頭突きも顔にめりこませる。実に実戦的な動きだ。が、そこで本部から待てが入る。そして、ガイアに大丈夫かとたずねる。ガイアは汗だくだ。頭突きと同時に加藤の膝かなにかが金的に決まったようだ。

 

稽古を終え、三人はバキと宿禰の対決について話している。話題は実戦性だ。バキは普段着のまま、タオルも首にかけたまま宿禰とたたかい、勝利した。ウォームアップも行っていないであろうことも、三人は見抜く。なんなら寝起きだったのだ。究極の実戦性の体現というわけだ。それは本部の土俵だとガイアはいうが、そこまで「徹する」ことができているかというと、本部じしん少し疑わしいぶぶんがある。たとえば道着である。稽古にあたって、本部は和服を着ているわけだが、ふだんそうしているわけではない。なぜそういう様式的なものにこだわるのか?ということにつながるのかな、本部は、武術にとっては有効性こそが価値であり、人格形成は二の次でいいという。対してガイアは武道の社会体育、「道」としての面を語る。つまり、人格形成がげんにうたわれ、志向されていると。本部の考えは独歩とよく似ている。人格形成が目的なら、わざわざ迂回して殺傷能力を身につける必要なんてないと。座禅でもしていればいい。このとき描かれるのが、たぶん達磨なんだけど、本部と似ていておもしろい。

武術の権化みたいな独歩や渋川も「道」は説かない。ただ強さを求める。その際にどうしても見上げてしまう存在、について本部が語る。この流れはかなりわかりにくい。「渇望」と聴いて、ガイアと加藤は勇次郎とバキをあげるが、あのふたりは「渇望」とはちがうと本部はいう。泣き出すほどの渇望、この世でいちばん強さに飢餓(うえ)た男といえば、ジャック・ハンマーである。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

ジャックはどうやらいま本部道場の前にいるようだ。ジャックは以前本部に完敗している。宿禰の戦のあと、彼は多くのファイターに宣戦布告をしていたが、これからひとつひとつ回収していく感じだろうか。だとしたらかなりうれしい。

 

「渇望」のくだりはかなりわかりにくい。ことばのまま流して読むと、武術に「道」などうそであり、ただ「強さ」だけが求められる、そのとき、「渇望」が訪れる。どうしても見上げてしまう存在がいる。だがそれはバキや勇次郎ではない。じゃあ誰かっていうと、それはわからない。ただ、ジャックは、泣き出すほどの渇望で、「強さ」を求めてきたと。要するに、強さを「渇望」するとき見上げてしまう存在いて、それがたとえば勇次郎のような非常に強いものであると、そういうはなしではないのだ。これはもう一歩引いたメタ的な発言なのである。つまり、強さを求める、「渇望する者」として見上げてしまう存在、そこまで「渇望」するのかと感心してしまう存在いると、本部はこういっているのだ。それで、ガイアたちは範馬親子をあげる。じっさい、彼らは強さを求めてはいるが、たしかに、一般に受け取られる意味での「渇望」とはぜんぜんちがう動機でバキらは強くなっていっただろう。しかしジャックはそうではない。あそこまで強い餓え、渇きとともに「強さ」を求めるものはほかにいない、その点で見上げてしまうと、こういうはなしだ。

 

今回の「道」のはなしは、バキ道というタイトルの説明につながりそうな話題だった。前作『刃牙道』に関して、「道」は、これまで彼らがたどってきた道のりのことだったと、ぼくは考えた(刃牙道考察まとめ④参照)。バキは武蔵が作り出した単独の武芸者の最強探究道の先端にいるものである。それが、武蔵を現代に「いちゃいけない」ものとして倒す、刃牙道はそんなはなしだった。なぜなら、現代の格闘技は、武蔵的な思想を内包しつつ、法治国家になじむものとして洗練され、整備され、ある程度の解答を導き出しているからである。刃牙道は、その道が武蔵から連なる実戦の道であることを確認しつつ、それが正しく近代化していることを確認した物語だった。

となれば、『バキ道』は、バキら近代格闘技のものたちがこれからすすんでいく道ということに自然なるはずである。それがバキが宿禰戦で見せた究極の実戦性ということになるだろうか。そこには武蔵的でありながらきわめて非武蔵的とでもいうべき弛緩がある。スマートなのだ。ある種の実戦性は、日常を緊張感とともに送ることで実現するだろう。しかしバキはそうではない。ほとんど眠るように、そして相手もまた眠るように葬り、葬られるのである。

 

いわゆる意味での道を説かない独歩らも、強さを求めるものだ。「強い」こととここで語られている「実戦性」はまっすぐに結びつくものではないが、それは「有効性」にかんするみかたのちがいによってあらわれる見解の相違というものかもしれない。たとえば試合のように、必要なとき必要なだけ強ければよい、という考えかたもあるだろうし、バキのような日常がそのまま実戦であるありようをよしとするものもいるだろう。だが、死刑囚や武蔵を経由したあとでは、「実戦」とはいかにも後者のスタイルが対応すべきものであるのだろうとおもわれる。少なくとも本部にとってはそれが自然な連想なのだ。そして、「日常が実戦型」のバキが、ある意味「必要なとき強ければよい」の究極型ともいえる宿禰を倒したということが、このスタイルの優位を語るものでもあるのだろう。

強さを求めれば、日常の実戦に徹する。これをテーゼとして、基本的に多くのファイターは「渇望」してきたと、こんな見取り図を本部は見ていると考えてよいのかもしれない。そこで、人生をかけて強さを求めてきたジャックの登場と、こういうドラマなわけである。あの宣戦布告のとき、ジャックはガイアのことも名指ししていた。ここでいちどにたたかうことになるのか、いよいよ二度目の兄弟喧嘩に向けてはなしが動き出してきたわけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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