宮本武蔵とは何か(刃牙道考察まとめ)④ | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

③のつづきです

 

 

 

 

 

 

バキは、宮本武蔵のありようを否定し、近代格闘技のありようを肯定するために、宮本武蔵を葬らなければならなかった。宮本武蔵のリアリティは現世では認められない。と同時に、現代の格闘技からはリアリティが失われている、というのが、武蔵のおもうところになるが、じっさいにはそんなことはない、というのがバキの立場だ。近代格闘技は、武蔵流のリアリティを欠いているわけではない。ルールのなかに消化し、内面化しているのであり、ルールを守る選手たちがそれをどうとらえるかも自由というところで、はじめて立場は分岐し、リアリティを求めるか否かのはなしになってくるのだ。さらに、近代格闘技からリアリティが失われていないということは、そこに武蔵が含まれているということでもある。歴史の流れのいちぶとなるこの「自然な武蔵」を肯定することが、じつは近代格闘技の肯定にも繋がる。しかし、そこにもとの姿のままの武蔵があらわれてしまった。その非合理、矛盾、不自然さを解消するためにも、バキは武蔵を葬る必要があった。相手を殺さなければ勝利ではない、とする武蔵を否定するために、武蔵を殺すことは論理的にできない。かくして、あらわれたときと同じく、非合理を行うすべとして、徳川寒子が再び呼び出されることになったのだった。

 

 

 

武蔵は「最強」の概念をつくった、バキたちのような個の強さを競うものたちの父祖だった。そのことがまず前提としてある。漫画世界と現実世界は異なったものとしてあり、通常、モデルのあるキャラが登場するような作品は、現実世界を写像したものと受け取られる。しかし、今回武蔵が実物として登場したことがこれを狂わせ、読解にあたってはイデアの世界を背後に想像せざるを得なくなったのだった。そして、漫画と現実のその分岐は、そもそも武蔵の存在がもたらしたものだったのである。「最強」という概念が成り立たなければ、最強とはなにかという問いも立てようがないし、バキたちのようなやりかたで強さを追求するものも出てこない。範馬勇次郎がいまと同じ強さで存在していても、彼の唯一無二の価値は知覚されることがなかったにちがいないのである。こういう点で、彼らは武蔵に敬意を払い、同時に、あのイメージと実物の齟齬を呼び込んだ見誤りをつくりだしたのだった。

 

 

さて、ここまでの僕の考えで、物語のうえに起こったこととその構造はほぼほどかれたとおもうが、最初にもどって、なぜ刃牙道が、ほかのシリーズと異なって、武蔵にはじまり武蔵に終わったのか、ということは、まだぼんやりしたままである。つまり、このあとスクネ編がはじまることになるようだが、それは刃牙道の流れで、199話からスタートということではいけなかったのだろうかということだ。それが、タイトルにおいた問いである。宮本武蔵とはなんだったのか、ということなのだ。

 

 

考えられることとして、最初の記事に列挙したように、これまでのバキシリーズは相対化を重ねていく思考実験だったが、武蔵にかんしてはそれができないということがある。宮本武蔵は、どのような物語バイアスも、あるいは、イデアの世界からなんらかの規則に基づいて築かれる世界に翻訳する際の読み換えも無効にしてしまう、絶対的な存在であるということだった。勇次郎が強さの不等号にかんして絶対的であるということとはまた違った意味で、彼は絶対者なのである。それは、むろん、この漫画世界が、武蔵によってはじめられたからだ。この事実だけは、いかに歴史の解釈をゆがませてもかえることができない、そういう、最終的に誰もが合意形成して納得してしまうようなものとして、武蔵はあつかわれているのである。こうした、物語のはじまりを、どのような文明も求めるものである。ふつう、それは宗教となってあらわれる。現代では、科学が発展して、科学がいつかそれを解き明かすという信憑を経由するしかたで、保留されているものだ。この世界がなぜ、どのようにして存在を開始したのか、それを、人類が問うときに、神話的思考はあらわてくる。いってみれば、宮本武蔵は刃牙道で刃牙道の登場人物として登場したが、そのことが、実はすでに背理で、クローンの倫理的問題とか、近代格闘技がリアリティを失ったのかまだもっているのかとか、そういう問題以前に、「不自然」なのである。神話であれ、あるいは科学であれ、その「物語のはじまり」は、通常、手持ちのものさしで測定できないものになる。なぜなら、測定できるものであれば、それは判明しているにちがいないからである。しかるに、暗然としてふたしかである。となれば、論理的にいって、それはわたしたちの手持ちのものさしでは(科学的視点では“いまのところは”)測定できないものということになる。刃牙道は、それが現世に降臨し、手をかえ品をかえ、現世のものさしで大きさを測定しようとした前代未聞のシリーズなのである。

 

 

現在観測できるアフリカなどの地域でも、神話というものは手持ちのことば、概念で構成される。人類最古の思考法であるブリコラージュをするものをブリコルールというが、神話をつくりだす思考法はブリコラージュだ。ひとことでいえばそれは、手持ちの、ありあわせのものでなにか別のものをつくりだす思考法だ。神話は、世界のはじまりや、背後の関係性、理不尽な自然現象などを説明するものとして、物語のかたちをとって構築される。このとき用いられるものは、あくまで手持ちのものさし、彼らじしんの言葉なのである。

同様にしてバキたちも、彼らが無自覚に探究した世界のはじまりであるところの宮本武蔵、少なくとも「最強」を目指す彼らからすれば「最初の人類」にほかならない宮本武蔵は、手持ちのことばによって構成されていた。そして、これが、彼らの武蔵のイメージ、「あの宮本武蔵」を構成することになる。部族間で語られている神話は、近接した地域のものでも、微妙に異なり、微妙に似ているものになるようだが、それは、彼らの「手持ちのことば」が、微妙に異なり、微妙に似ているからだろう。このことは、神話が指し示すその中心にある「神」ともまた、それらが微妙に異なり微妙に似ていることを示唆するだろう。そのように、バキ世界での見解が相対化されるようなことがあれば、あそこまでイメージと実像がずれてしまうことはなかったかもしれない。だがそうはならない。彼らは、神話のなかの武蔵とたたかい、そして、実物の武蔵に負けてきたのである。最初に真剣勝負を挑み、そこそこいい勝負をしたのが烈であったのも、この点からすれば自然である。彼はただ強者としての武蔵に挑んだのであり、中国人である烈には、武蔵にかんする神話的な見解など最初からなかったのだ。

 

 

だが、このバキたちの「手持ちのことば」には、宮本武蔵がたしかに含まれている。「最強」を探究するという姿勢そのものが、すでに武蔵のものだからだ。にもかかわらず、おおきなずれが生じ、ほとんどのものが敗北する結果となった。なぜそうなるのか。この問いは、批評的な観点からなされるものではない。この問いじたいが、実は刃牙道の原動力だったのではないか、というのが僕の見立てである。格闘技は、武蔵の「最強」からはじまり、そのリアリティを内面化し、進化し続けてきたはずである。しかし、やってみると、まったく歯が立たない。内面化したはずのリアリティに及ばない。どうしてそうなるのか、そして、果たして、ほんとうに、近代格闘技は武蔵のリアリティに及ばないのか、こういうことを作品通して問いにしたのが、本作なのである。

 

 

そのこたえとしては、近代格闘技の結晶であるところのバキが、そんなことはない、現代にも武蔵のリアリティは生きているということを示したが、彼らからすれば、そもそもなぜそんな問いがいま出てきたのか、ということがあるわけである。彼らが見てきた武蔵は神話的な「イメージ」にすぎず、実物とは異なっていたわけだが、それは、別にどちらでもいいことである。マルクスに強い影響を受けて哲学者になり、功成り名遂げた人物からすれば、重要なのはマルクスの著書とそこから感じ取られる脳の冴えであって、実物のマルクスがお金の計算ができない人物であったとか、字が汚すぎてエンゲルスがいなかったらまずいまのようなかたちで論文は残っていなかったとか、そういう「事実」は、はなしとしてはおもしろいが、哲学者の彼としてはどうでもいいことである。ただ、そうしたことをぬきに、ファイターとしての衝動があることもまた否めない。過去にじっさいにあったサムライの時代に、じぶんたちの格闘技術は通用するのだろうか、という問いは、自然かもしれない。この葛藤のあわいに刃牙道はある。実物の武蔵がどうであれ、じぶんたちが達成してきたことの価値がゆらぐことはないだろう。しかし、ほんとうにそうだろうかと、こういう不安が、刃牙道を生んだのである。

だが、これは「不自然」な状況だった。マルクスがどれだけダメ人間であっても、その人物はたしかにマルクスの著書をきっかけに立派な学者になったのであり、その流れの先に結果を残している。ここにマルクスを復活させて、彼のダメ人間っぷりを示し、失望させることには意味がない。そんなことをしても、彼が著書(イメージ)を通してこころを動かされ、じぶんなりのものをつくりだしたことは変わりないからである。ただ、その迷いが、不自然さを呼び込んだ。その不安が、霊媒師の寒子という特殊なキャラを召還し、過去の人物をそのままよみがえらせるという禁じ手をさせたのである。この不安は、バキの近代的勝利を経ていちおう解消されたとみていいだろう。武蔵は、バキたちが、そして作品世界が感じていた不安を、光成を通してかたちにしたものだった。そして、そのことで、大勢の人間が死んでしまった。彼らの迷いが、作品のなかに多くの死を招いたのである。この無自覚が、彼らに一種の責任感、あるいは贖罪のような感覚を生んだ可能性もある。特にバキの「いちゃいけない」からの、葬ることへの使命感のようなものは、これのあらわれといっていいかもしれない。彼は近代格闘技を代表すると同時に、じぶんたちの迷いが亡霊となってあらわれたに等しい武蔵を、じぶんの手でどうにか倒したいと考えたのだ。

 

 

 

そして、これをふまえると、刃牙道というタイトルの含みも理解可能になる。ふつうにとらえるとこれは、武蔵登場によってこれからも起伏豊かにのびていくことになるバキの修業の道筋を示すものと考えられたが、そういう描き方はされなかった。これは、これからのバキの道を示していたのではなく、これまでの彼らの道のりのことだったのである。武蔵からはじまったこれまでの格闘技の進化の過程、これがまちがいのないものだったと確認されたのが本編であり、それこそが刃牙道だったのでる。だが、それは視点によっては自明のことでもある。だからこそ、バキは周囲のものがへんにおもうほど「葬る」ということばに固執し、武蔵は封印されるように昇天したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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