宮本武蔵とは何か(刃牙道考察まとめ)③ | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

の続きです。

 

 

 

 

ルソーによれば、戦争とは、相手国の憲法を書き換えようとする行為のことである。イメージを打ち砕いて実像として生きることが可能になった武蔵は、今度は存在の権利を獲得し、富と名声を得るために斬り登らなければならない。だが、現行の日本国の法律では、武蔵の生き方は認められない。こうした意味でいえば、対国家篇はたしかに戦争だったが、しかし武蔵は、そこまで徹底して相手国の法を変えようとしていたわけではない。ただ、じぶんにかんしての特殊ルールを求めただけだ。

警察側も最終的には特殊部隊STATまで投入して、武蔵制圧を目指したが、これは失敗した。もちろん、対勇次郎にかんしてがそうであるように、巨大な兵器を用いれば、彼らを倒すことは不可能ではない。しかし、彼らはゲームの世界で生きているのではない。それがもたらす犠牲者、また、それを実行することで起こる国際関係上のもろもろが、制限をかける。武蔵がクローンで生まれたということもまた事態をややこしくする。総理は、これを、可能な限り静かに、目立たないように処理したい。ここで持ち上がったのが花山薫だった。花山はヤクザであり、警察とは反対の存在だ。花山の行動指針は義ということばで表現できる。人間の行動を制限する段階を、外側から法、良心というふうにしたとき、さらに内側にあるのが、この義である。これを、僕はルソーのいう「憐れみの情」のことであるとした。世界には法が、社会契約が必要であると主張する、ときの啓蒙思想家たちは、その動機の必然から、法がない世界、自然状態の世界がいかにひどいものかを示してきた。ホッブズでは、これは万人の万人に対する普遍闘争の状況になる。おのおの、私利私欲にしたがって奪い合う世界は、殺し合いの世界になり、いちぶの強者が資源を独占することになるが、その強者にしてからが、秩序のない世界という前提であるから、そのうちに寝首をかかれることになる。しかしルソーは、自然状態の人類は普遍闘争には陥らないとした。なぜなら、人間には法以前に「憐れみの情」が備わっているからだと。これは、ひとの痛みを、じぶんのもののように感じる機能のことである。

たほう、フロイトでは、「良心」とは内面化された父である。母親との親密な関係を維持したい幼児は、これを邪魔してくる父親を憎むようになる。これを、ソポクレスの神話にちなんでエディプス(オイディプス)・コンプレックスという。しかし、幼児にとって父親はあまりに強大であり、打ち克つことはできない。だから、彼はそれを超自我として内面化する。じしんの行動にあてがうように、最初の心的審級として奥底にすえられる“ものさし”である。ここで、父とは、母親との親密圏にもっとも近いところいる他者、要するに、もっとも近しい他人である。父は、社会の秩序や他者との断絶などを宿した存在であり、いわば人類の経験則のようなものを帯びて、うちにとりこまれるのである。

いちばん外側には、「法」がある。これは、個々の状況に応じた、たんなる文章であり、ひとことでいえば法律である。次に、「良心」がある。人類の経験に応じて善悪を見定めるための、もっとも手近なものさしだ。そしてさらに内側に「憐れみの情」があると推定できる。なにしろ自然状態の人類が抱えているくらいだから、ほとんど無自覚のものと考えてよいだろう。状況としては、「ペット禁止のアパートに住んでいるのに、雨にうたれて鳴いている捨て猫がかわいそうで拾ってきてしまう」のが「義」「憐れみの情」である。まず「ペット禁止」という文章、「法」がある。そして、そうした法にはしたがったほうがいいととらえうる「良心」がある。しかし、猫がかわいそうだという気持ちには逆らえない。そうして、わたしたちはそれを連れてきてしまうのである。

花山の動機はこの「義」にある。それは、法の外側というより、内側で、それがとりこぼす衝動のようなものを拾う機制なのだ。「憐れみの情」じたいは、ルソーの推察によれば、法以前からある。しかし、それが「義」として認識されるのは、当然法以後である。そこにプライドのようなものがほどこされ、行動の指針になるほどであれば、なおさらそうだ。だから、発端としては原始的なものでありながら、花山のありようは実は法治国家のものなのである。法がなければ、義はその価値を正しく与えられることがないのだ。

 

 

内海警視総監が土下座しそうになるのを止めて、花山は出陣する。これは、あくまでヤクザもの、警察()があってはじめて価値あるものとなる義の立場を踏まえた花山らしい真面目さの表現である。そうして、法治国家の最後の表現者として、花山は武蔵に挑んだ。これの敗北は、武蔵がついに居場所を獲得した、武蔵のありかたを否定するものがいなくなった、ということを意味した。けれども、このじてんではまだ武蔵は存在の権利を獲得しただけにすぎない。次に彼はこれを行使する必要がある。そうして訪れたのが下水道に棲むピクルである。実力を見誤るものがなくなったという点でいえば、本部によって武蔵の孤独は解消された。だが、じっさいには彼は最後までひとりである。とりわけ、現代のファイターたちの前ではそうだ。本部じしんがそうであったように、現代のファイターにはいちど以上拳を交えた友人がたくさんいる。しかし、武蔵の時代にはそういうことはありえなかった。たたかう以上、どちらかが死ぬか再起不能になるからである。これが、武蔵に「斬りたい衝動」をもたらし、斬っても斬っても倒れないものを求めさせた。唐突にもみえた武蔵の斬りたい衝動の表明は、おそらく現代にくることで、じぶんはむかしからそう感じていたのだと、ある意味創作された感覚ではないかと考えられるのだ。ピクルはこれに該当する。バキと花山は何度かたたかっているが、親友といっていいだろう。そしてその友情は、たたかいを踏まえたうえで築かれたものである。だが、武蔵のたたかいかたではこういう形状の友情関係はありえない。斬る以上、死んでしまうからである。ピクルは、バキにとっての花山のような、武蔵にとっての、現代ではじめての「知人」だったのである。

 

 

 

さて、このようにして武蔵は、現代において、彼を否定するもの(警察/ヤクザ=法)を黙らせて存在の権利を獲得し、ピクルのうえにそれを行使した。ようやく、斬り登るための土台が完成したのである。それは、たしかに、ある面ではたしかに効果があった。花山戦後の「お送りしろ」がそれである。武蔵じしん、これを名声の一種としてとらえていたようだ。だが、武蔵が戦国や江戸で獲得したような名声が今後も持続的に得られるかというと、それはそうもいかない。なぜなら、現代には暴力を評価する文脈というのが非常に限られているからだ。そういう視点でいえば、武蔵のいくさはまだ続いていた。というのは、もし彼が真に名声を求めるならば、この国の価値観を根底から変えねばならず、それは国を転覆させるに等しいからである。しかし、そのような政治的な意図は武蔵にはない。かつては、斬ることで評価を獲得できたが、いまはそういう世の中ではない、このことを、武蔵じしんも理解していた。しかし、じぶんはそうするしかない。こういうことを受けて、バキの「いちゃいけない」という奇妙な発言が出てくる。武蔵のような男がいてはいけない、存在していはいけないと、バキは、どの立場でいうのだろうか。「いちゃいけない」という言い方は、外部になんらかの規則があって、それに照らし合わせて、不適合であると判断する、そういう言い方である。しかし、その外部の規則とはなにか。法だろうか、良心だろうか、義だろうか。法は、すでに打ち砕かれ、少なくとも武蔵の周辺では無効なものとなっている。法を司るものの実力不足であり、そのかわりをじぶんが務めるということであるなら、それはそれで、すでに法は破綻している。警察機構が脆弱だから、じぶんたちで身を守るといって武装する集団を、認めるわけにはいかないのと同じである。このバキの発言からは当初ファシズム的なものが感じられた。武蔵は烈を殺している。STAT虐殺について観客たちが知っているとはおもえないが、それでも、試合を組むとなると、バキがチャンピオンであることもあって、武蔵はヒール的なポジションに自然なる。こういうときチャンピオンが、相手の存在を否定するようなことをいっているのである。それでなくても、なにかファナテッィクな結末になりはしないか、じゃっかん心配だった。が、これはそういうことではなかった。バキは、なにか思想的なものの代表として発言しているわけではなかった。いや、強いていえば、彼は、近代格闘技だけを代表していたのである。

 

 

刃牙道のはじめのほうから、いやもっといえばバキがはじまってからずっと、なにをもって勝敗を決めるかということは難問のひとつだった。刃牙道ではそれが極まった。くりかえされるのは、いっぽうが気絶し、なんらかの事情でたほうがとどめをささず、もういっぽうが「殺せたのに」などといいながら立ち上がる、というパターンである。とどめをさすまでわからない、とするのが武蔵で、「殺せた」という事実をもって勝敗とするのがバキたち近代格闘技者である。本部はこれを「生殺与奪の権」ということばで説明した。ジャックを縛り上げて、生かすも殺すも自由となったとき、本部の理屈で、彼は勝者となった。かつて極真会館が空手に直接打撃制を導入したとき、主流だった寸止めに対して立てていた思想は、当ててみなければどうなるかわからないし、それをよけられないようでは空手家ではない、というようなものだった。これはその問題とよく似ている。いくら殺せたという事実が明らかでも、ほんとうにどうなるかは、やってみなければわからないし、それに反応できてこそ真の武術家ではないかと。

このように、武蔵とバキでは勝敗の価値観が異なっている。互いにちがうルールで勝負しているのである、だから、両者はかみあわない。だが、両者が行っていることそれじたいは勝負であり、相手を再起不能にすることを目的としたものだ。だから、この齟齬は、両者の解釈が異なっていることによって生じる。「生殺与奪の権」も、じつは解釈にほかならない。近代格闘技は、相手をじっさいに殺さなくても勝負がつくようにルールが整備された結果生まれてきたものだ。だから、ボクシングで相手をノックアウトしても、ふつうそれを「勝者が敗者に対して生殺与奪の権を獲得した」とはいわないし、勝ったほうもそんなふうには考えない。「生殺与奪の権」は、ルールが成立するときに内面化されており、そのうえで勝負をすることが、内側にそれを宿しつつも、意識せずに競技としてそれを行うことを可能にしているのである。

そして、重要なことは、生殺与奪の権を獲得したものが、現代では通常相手を生かすことを(結果的には)選択するということである。権利を獲得したのちに、相手を殺すか生かすか、行動は分岐するが、このとき、権利上、ふたつの行為は等価になる。したがって、この権利が解釈のなかに見出されたときには、じつは相手を生かすことによって、事実上相手を死なす権利も、裏側で行使されているのである。あるほしい商品があって、こちらにはそれを手に入れるためのじゅうぶんなお金があるとする。しかも、相手はそれを売ることに積極的である。このとき、買うか買わないか、わたしたちは選択することになる。行動としては単線的だが、ここに選択があったことを、事後的に解釈することは別に不自然ではない。ここで、たしかにわたしたちがそれを買った、あるいは買わず、そしてそれが選択だったと解釈されるとき、もういっぽうの選択はされなかったことになる。つまり、「選択」という解釈がなければ、行為としては単線的かつ不可逆的なものであるが、ここに権利と選択を見出したとき、わたしたちはそこで可能だったもうひとつの選択に思い至ることになるのである。

つまりこうである。相手が倒れる。武蔵は、そのとどめをささなければ決着ではないという。武蔵の視点では、倒れた相手を放っておく現代の格闘家は、なにもしていない。しかしここに「生殺与奪の権」が見出される現代では、そうはならない。彼は、「なにもしない」のではない。相手を生かすという行為を選択し、実行しているのである。

 

 

いってみれば近代の格闘技観というものは、相手を殺さなければ勝敗にはならないという武蔵の極論と、ひとを殺してはいけないという法治国家の命令を同時に解決するために、「生殺与奪の権」を内面化し、無意識の構造にまで組み込んだルールを弁証法的に考案したわけである。だから、見た目としては武蔵のほうがリアリスト的なものでありながら、じつは、近代格闘技の行為のなかに武蔵のリアリティは含まれているのであり、それを実現するものの能力の差によって多少の差はあれ、武蔵流のリアリズムは失われているわけではなかったのである。

バキの「いちゃいけない」は、この視点から出てきた言葉だ。近代格闘技は武蔵のリアリズムを近代的に消化し、内面化している。勝敗イコール生死の武蔵のありようは、存在し続けることで、格闘技の進化を否定するものにもなる。命を奪わなければ勝ちではない、というありようは、近代格闘技の立場にいる限り、断じて認めるわけにはいかなかったのである。

だから、バキはこれを葬らねばならない。しかし、ここに最後の難問が横たわる。バキは武蔵を否定しなければならない。だが、近代格闘技のルールで、「生殺与奪の権」を獲得することで否定することはできない。武蔵がそこですんなり納得してくれたらそれでもよいのだが、そうはいかなかった。だが、だからといって殺せない。殺さなければ勝利ではない、という主張を否定するために相手を殺して勝利することはできないからである。ほかの場合ならはなしはまた別だ。じっさい、アライジュニア戦で、バキは相手を殺す気でいた。しかし武蔵にかんしてはスタイルのぶつかりあいであり、いってみれば思想のたたかいだった。

バキには武蔵を殺せない。殺すことは、その動機じたいを否定することになるから、なにもやらないに等しくなるのである。そうしたところで呼び出されたのが、武蔵をおろした張本人である徳川寒子なのであった。武蔵の復活は、歴史の自然な営みという視点からすれば「不自然」であった。「自然な武蔵」ははるかむかしに亡くなっており、その達成は、バキの蹴りや、独歩の拳や、本部の戦術など、現代の格闘技につながるものとして、歴史の歯車の重要なひとつとして、いまも生きている。つまり、技術の進化の果てにあらわれたこの近代格闘技の思想には、武蔵じしんも含まれているのであり、「自然な武蔵」を保護するためにも、バキはなんとしても「不自然な武蔵」を葬らなければならなかったのである。

 

 

 

 

④につづきます。たぶん次で最後です。

 

 

 

 

 

 

 

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