宮本武蔵とは何か(刃牙道考察まとめ)② | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

の続きです。

 

 

 

親子喧嘩を経験することで、世界は表と裏が接合され、一体となった。スカイツリーはその表象であると考えられる。このとき、地表にあらわれているものがその以前まで表の世界と考えられていたもので、地下にあたるのがバキたちが属する裏世界である。これが接合するということは、両者が同じ度量衡で計測可能なものになったということだ。

表にあらわれているスカイツリーは634メートル、武蔵野を踏まえて「むさし」という響きを含んだものになっている。ところが、作中の宮本武蔵はその最深部、頂上から1000メートルの地点で生まれた。これは、のちに問題となるいわゆる宮本武蔵、「あの宮本武蔵」というイメージが、この地表の634メートルのスカイツリーに付託されていたものだったと考えることができるだろう。

刃牙道がはじまってもっとも驚いたことは、宮本武蔵が実在の人物だということだった。宮元武蔵でも、源武蔵でもなく、わたしたちの世界に存在していたことのある、あの歴史上の人物なのである。これまで登場したほとんどのキャラクターが、モデルの明らかなもので、その意味ではつねに「実在の人物」が登場してはきたのだが、名前がそのままであるということは、そういう意味で実在である、ということではない、ことが含まれている。これは作中でもはじめてのことであり、たんに過去の人物であるというだけではなく、こうしたことのために、おそらく徳川寒子は呼び出されたのである。

 

 

このことにかんしてはイデアを用いて考察した。ふたつのりんごが並んでいる。両者は、一致したかたちをしておらず、色も微妙にちがう。しかるに、我々はそれを同じりんごだと認識する。このとき想定可能なのがイデアの世界である。少なくとも、この視点をここでは採用する。渋川剛気というキャラクターは、実在の合気道の達人である塩田剛三をモデルにしている。だから、ふつうに考えると、現実世界の塩田剛三のような人物が、現実から漫画に、なんらかのフィルターのようなものを透過して写像されたとき、渋川剛気になることになる。しかし、これが示唆することは、漫画世界全体が、現実世界をなんらかの規則のもとに写像したものだということだった。しかるに、宮本武蔵は、実在の、あの宮本武蔵であった。ここでは、ふたつのことが考えられる。そもそも現実から漫画への写像という発想がまちがっていたということと、宮本武蔵は翻訳不可能な存在である、ということである。

ここで、現実世界もまた、イデアの世界の翻訳にほかならない、という視点を導入した。むろん、じっさいの生活で、仮想現実のように世界を受け取って生きていくことはないが、ここに漫画世界を持ち込んだとき、そのような相対化は無意味ではないと考えられる。イメージとしては、フィギュアをつくったりするときや、漫画を描くときにつかう、なんというのかあの人形、素体のようなものを考えるとよい。これらの素体の区別はあるが、これがじっさいにある世界のうちで動き出すときには、それにふさわしい肉付けがほどこされる。つまり、思弁のうちでしか存在しないある素体が、現実世界のフィルターを通ったときに塩田剛三になり、漫画世界では渋川剛気になるということだ。そして、宮本武蔵にもイデアが想定できる。ところが、それは、どのようなフィルターを通っても、必ず「宮本武蔵」になる。ということは、おそらくその肉付けをされる前の素体そのものが、すでに宮本武蔵なのである。

 

 

宮本武蔵が実物の「あの宮本武蔵」であることは、それじたいで、彼が、どのような環境、時代でも「宮本武蔵」として出現することを意味する。仮に武蔵がわたしたちの現実世界に生まれても、あのようなふるまいをとるにちがいない、少なくとも作品はそのように考えているのである。したがって、漫画世界に宮本武蔵が出現したということは、現実世界に彼が出現したことと、思考実験という意味合いでは少しもちがわないのである。このことをある意味で理論的に()支えたのが、徳川寒子である。寒子は霊魂を憑依させることができるが、じつは生きている人間の魂を抜いて宿すこともできる。以前、武蔵が実在の人物である以上、これを寒子がおろせるということは、そしてその対象の人物の生死が無関係であるということは、寒子がその気になれば、いまこれを書いているわたくしの魂も呼び寄せることができると書いたが、考えてみれば、これは武蔵が特殊だった、イデアから肉付けされるにあたって変容しない人物だったからこそ可能だった、とも考えられる。いずれにせよ、現実世界と漫画世界の接合点に立つ宮本武蔵にコミットするには、生死をこえた、ということは時空を超えたコミットが可能な寒子がどうしても必要だったのだ。

ちなみに、武蔵が接合点に立つというのは、イデアの世界が現実と漫画に分岐するにあたって彼だけがその例外であるということだけが理由なのではなく、厳密にいえばそれは結果のひとつで、すべては彼が「最強」の元祖だったからである。「最強」がなければ、「最強はなにか」という問いは発生しないのであり、したがってイデアの向こう側に出現したこの漫画世界もありえなかったのだ。その意味で武蔵は接合点、あるいは特異点のようなものなのである。

 

 

この武蔵の出現を正しくうけとめたのは、本部以蔵だけだった。このことも、スカイツリーの表象にすでにあらわれていた。伝説の剣豪である武蔵は、現代では「あの宮本武蔵」として、イメージが先行するしかたで受け止められてきた。これは、表世界にあらわれる634メートルのスカイツリーのことなのである。裏世界のファイターたちは、正しく「最強」を目指してきたので、そのぶん、武蔵の眠る地下366メートルの地点で地面を踏み固めてきた。そして見上げるのがスカイツリーなのである。いつしか「最強」は概念としてひとりあるきをはじめ、武蔵から離れて、当の武蔵は五輪書や創作などを経由した「あの宮本武蔵」として、別の像をかたちづくり始める。当初ファイターたちは、この武蔵とたたかっていた。だから、武蔵の真の姿をとらえられず、彼の実力を、また戦術を見誤ってきた。そんな武蔵を本部は「孤独」であるという。そして、その武蔵から、親しいファイターたちを「守護る」としてきたのである。むろん、表層的にいえば、その「孤独」とは、金持ちのエゴで現代に復活させられた武蔵の孤独である。同時にこれは、ファイターたちが武蔵の実像をまったく見ていないということでもあると、当ブログではとらえてきた。強者である武蔵があらわれ、構えても、向かい合うファイターたちは、誰も目の前の彼を見ていない。おのおの抱える最強の元祖としての武蔵を、そこに期待し、見誤るばかりなのである。本部はこれを彼の孤独といっていたと考えられる。勝負の最後の局面において、本部は、武蔵じしんも守護るといっていたが、これは、あの勝負で、イメージの武蔵と実像の武蔵がついに一致したという確信を、少なくとも本部は覚えたということを示すだろう。なぜかというと、武蔵の実像をつかめているのはじぶんだけだという感覚が彼にはあったからである。誰も、目前にいる武蔵を見ず、イメージの武蔵ばかり見ている。だから、実力を見誤り、かんたんに負ける。そして、これはいって伝わることではない。なぜなら、本部以外のファイターは、武蔵の闘法をからだで理解してはいないからである。ましてや、最大トーナメント一回戦負けの本部がいっても説得力はない。だが、現代では本部だけが、武蔵の時代から地続きの技術を継承しているのである。これは、本部の感覚としては、考えてみれば自然なのである。戦国からの闘法を彼は宿しており、それは、素手のトーナメントなどではなかなか生かしきれない。そんな本部の説得に、ファイターたちは応じない。つまり、そこに説得力を見出さない。本部が素手でないファイトなら強い、などということが、信じられないからである。そして、このことがまさに、彼らが武蔵を見誤ることと表裏をなしている。彼らは、じっさいにたたかい、またはたたかいをみたことのある本部の実力すら把握できていない。だからこそ説得に応じない。その「説得に応じない」という動作が、まさに、彼らが武蔵の実像をつかめていないことを示しているのである。

そのいっぽう、本部は現代のファイターでもある。本部とのたたかいを経由することで、武蔵の実像は開示された。この勝負を最後に、本部は孤独とか守護とかいうことをいわなくなる。現実には以後さらに武蔵の孤独は深まり、犠牲は増えていくが、少なくとも当初本部がいっていた意味での「孤独」は、彼が媒介となって武蔵の実像が開示されたときに解消されたのであり、ということは、ファイターたちが実力を見誤ることもなくなって、彼の任務であるところの守護は、以後不要になったのだ。

 

 

これを経て、イメージの武蔵は打ち砕かれ、ぼやけていた武蔵の輪郭がくっきり結ばれることになる。が、それと同時に、社会は武蔵を排除する方向に動き始める。ふわふわした幽霊のようなもの、いわばゲストとして降臨しただけの武蔵が、本部の手によって像を結び、地に足をつけるようになったが、そうなると、存在の権利を獲得する必要が出てくるのである。こうして、国家と武蔵のいくさがはじまった。きっかけはなんだかよくわからないテレビ番組のトラブルだが、遅かれ早かれ、こうしたことは起こっていただろうし、武蔵としてもそういうトラブルを待っていたようなところがあるのではないかとおもわれる。というのも、そうでなければ、彼の望みであるところの「富と名声」は手に入らないからである。現世において、しかるべき足場を手に入れなければ、富はともかく名声は決して手に入らない。そうしたわけで、「それしか知らない」武蔵は、切り登るために、せっせと喧嘩を売ってまわるのである。

 

 

 

③につづきます

 

 

 

 

 

 

 

 

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