ミュージカル・プレイ
2017年5月に新潮社から発行された伊吹有喜の小説『カンパニー』を舞台化。愛妻を亡くし生きる意欲を失った製薬会社の青年サラリーマン青柳誠二が、社の協賛公演を行うバレエ団への出向を命じられ、世界的プリンシパル高野悠が踊る冠公演「新解釈版・白鳥の湖」を成功に導くため、一癖も二癖もあるダンサーや業界人に翻弄されながらも、バレエ団のバレリーナ高崎美波との淡い恋や新しい仲間たちとの友情を支えに、様々な困難を乗り越え奮闘する姿を描くハートウォーミングな成長譚。努力・情熱・仲間たち(レッスン・パッション・カンパニー)をテーマとし、個性豊かな登場人物たちがそれぞれに懸命に生きる姿を、新感覚のバック・ステージ・ミュージカルとしてお届け致します。
ショー・テント・タカラヅカ
舞台は地球首都・TAKARAZUKA-CITY。世界統一され、戦争も犯罪も全ての悪が鎮圧されたピースフルプラネット“地球”に、月から放浪の大悪党バッディが乗り込んでくる。バッディは超クールでエレガントなヘビースモーカー。しかし地球は全大陸禁煙。束縛を嫌うバッディは手下たちを率い、つまらない世の中を面白くするためにあらゆる悪事を働くことにする。彼の最終目標はタカラヅカ・ビッグシアターバンクに眠る惑星予算を盗み出すこと。しかし、万能の女捜査官グッディの追撃が、ついに彼を追いつめる!
なお、この作品は演出家・上田久美子の初のショー作品となります
以上公式サイトより
月組東京公演『カンパニー ―努力、情熱、そして仲間たち―/BADDY ―悪党は月からやって来る―』観劇。2018年4月27日金曜日13時半開演。
いやはや・・・。珠城りょうは、グランドホテルをお披露目として月組トップに就任、続く作品は小池修一郎の大作『ALL FOR ONE』、次回作が、娘役を極めた相手役の愛希れいか退団公演となるエリザベート、ということで、3作目となる今作はいかにも宝塚オリジナル作品、定期公演の谷間という感じが、ないでもなかった。「お披露目公演&グランドホテル再演」「小池修一郎作品」「愛希れいか退団/エリザベート」というそれぞれの要素は、いかにも外部的な要素で、作品内容やその出来にかかわらず、初観劇のものや僕みたいなライトなファンを劇場に向かわせる原因となりうるが、宝塚オリジナル作品というのは、前例がないから、そういうわけにはいかない。ポスターなどみても作品内容が楽しみでしかたないという感じにはならず、月組じたいは非常にいい組なので、とりあえず見とかないと、くらいの期待度で足を運んだわけだが、完全にだまされた。特にショーのほうのだまされ具合はふつうではない。ポスターやキーヴィジュアルみたいなやつをみて、誰があの内容を想像するだろう。まあ、静的な写真表現や断片的な映像であれを再現するのは無理といえば無理なのかもしれないが・・・。
石田昌也の『カンパニー』は、伊吹有喜の小説を原作とした、最近では珍しい現代日本を舞台にした作品だ。個人的には雪組シャルウィーダンス以来かな・・・。
主人公の青柳誠二(珠城りょう)は有明製薬という会社のサラリーマン。この有明製薬が他社と合併するにあたって、さまざまな宣伝展開が立案される。ひとつは、「バーバリアン」という、EXILE的なグループによるCMソング、ふたつめは、アイドル的なかわいらしさの鈴木舞というランナーを支援した広告活動、最後に、イメージキャラクターも務めていた世界的プリンシパルの高野悠(はるか)(美弥るりか)を主役にした白鳥の湖の上演である。鈴木舞には瀬川由衣(海乃美月)という、美人コーチがマネージャー的な仕事も含めてついていたが、この重要なタイミングで舞の妊娠が発覚、瀬川由衣はその責任を負わされる。これ以前のふたりの関係は描かれないのだが、誠実な男である青柳はこれを不服、ということでもないが、なんとかしようと会社にかけあうが、むしろ火に油をそそぐ結果となり、瀬川由衣と青柳誠二はいっしょに敷島バレエ団の面倒見係にとばされてしまう。なんでもこなす総務出身とはいっても、バレエのことはなにも知らない青柳と、美人ではあるがどうも体育会系すぎるところのあるトレーナーの瀬川由衣(海乃美月ジャージ似合いすぎ)という、畑違いのふたりが、バレエ団、ひいては三つ目のプロジェクトである白鳥の湖をプロデュースすることになってしまったのである。このバレエの企画の要でもある高野悠だが、これもまた問題を抱えており、長時間のダンスは苦しい状況になっていて、決められていた王子役ではなく、じぶんは出番が限られる悪魔の役をやりたいなどと言い出す。ではその王子役はというと、なんやかんやで、バーバリアンのボーカル、水上那由多(月城かなと)が着任、結果としては三つのプロジェクトがすべて青柳のもとに集約されることになったわけである。
愛希れいかはなにを演じるかというと、この敷島バレエ団所属の高崎美波という女の子で、当初はなにも知らなかった青柳にバレエやその界隈の事情について説明していく係に(自然と、いつのまにか)なっていた。有明製薬の社長令嬢である有明紗良(早乙女わかば)は敷島バレエ団のプリマで、王子の相手役となるが、彼女はこの代役、バックアップクルーみたいなこともしている。バレエだけで食べていけるダンサーはごくひとにぎり、ほとんどのものはバイトなどをして生計をたてており、美波もコンビニで働いていて、ときどき見かける青柳のことがちょっと気になっていた。しかし、青柳は実は2年前に妻を亡くしたばかりで、まだ彼女のことが胸のなかにある。こうして、すんなりことが運ぶと予想される要素がひとつもないようなでこぼこ集団による新解釈白鳥の湖の稽古がはじまったのであった。
「カンパニー」というのは作中では「仲間」と訳されている、舞台用語である。僕も最近になって知った言葉だが(蘭寿とむとかが退団後に使っていてはじめて知ったような記憶がある)、みんなでひとつのものを作り上げる総合芸術であるお芝居において、それをなす集団を指してそのように呼ぶのである。そういう人間関係の機微を描くバックステージものということで、彼らの達成そのものは、舞台上ではあまり描かれない。終盤、なにかよくわからないが、千秋楽も間近というところで、ものたりなさを感じるバーバリアンのリーダー兼プロデューサーの阿久津仁(宇月颯)が振り付けの変更を持ち出し、挑発にのった有明紗良はこれにのるのだが、結果、彼女はケガを負ってしまう。そうして、最後の公演の最後の幕で、急遽代役の美波が出演することになる、というドラマチックな展開なのだが、このときを除いて、彼らが舞台のうえで表現したであろうバレエの内容物は描かれない。そういう作品なのか、と、観劇しつつわかったが、考えてみればその点でも特殊な感じがする。彼らが上演を終えて、観客の評価を得ている描写が入れば、それで作品としてはじゅうぶんである。しかし、たとえばベルサイユのばらでいうと、革命を起こそうとしている連中が、ついに革命となったところで暗転、マリー・アントワネットの処刑後の場面に切り替わる、というようなことなわけである。つまり、ここでは、その内実が、問題とされていない。実行された、そしてそれがきちんと評価されている、それこそが、ここでは問題なのである。だから、たとえばその観客の「評価」にかんしていえば、それが正しいものであるかどうかというようなことにかんしては、当然不問となる。それとは反対に、フラッシュモブなど、公演に向けての宣伝などは念入りに描写されている。つまり、なんというか、ここには、彼らが作り出す舞台芸術“以外のもの”だけが、徹底して描かれているのである。むろんそういうジャンルなのだといえばそうだが、これはやはり主人公が青柳誠二であることを貫徹したためだろう。たとえば高野悠が主人公であったら、同じようなバックステージものであったとしても、舞台裏での軋轢がじっさいの演技にもたらした無視できない影響とかを描くことになったにちがいないのである。そんな彼もまちがいなくカンパニーであり、作品をつくった人物のうちのひとりであることはまちがいない、ということが、ここでは肝要なのだ。ただ、作り手と受け手が別々に存在していて、作品個体が消費物としてそのあいだを行き交う、そういうわかりやすい図式には、とりわけ会社のバックアップと多くのひとびとの協力なしには成立しない舞台芸術ではならないのだ。これは、アイドル歌手に近い那由多が王子役を務めるときいて落胆し、いったんウィーンに帰ってしまった高野の立場に反映されているだろう。芸術作品は受け手から主体的に歩み寄らなければ掘り下げることができない、という意味で「商品」ではありえない、そういう視点で、高野はいちどは身を引いたわけだが、ほかならぬカンパニーの一員としてなにもかもを差し出す青柳や瀬川の情熱に打たれ、高野は考えを改めるのである。彼自身がいっているように、舞台作品には観客の存在が最初から含まれている。だから、彼らが作り出した「作品」そのものを、たとえば書店で『三四郎』を手に取るように、それじたいとして取り出すことはできないのだ。このことを、多少はくわしくなったといっても素人にはちがいない高野が最後まで作品に関与し、しかももっとも重要な役割を果たすことで、間接的に示している。作品の出来や、そもそもそこでなにが表現されたかということの読み取りが欠落する、青柳のような視点もこみで、はじめてこの白鳥の湖はありえたのであり、「カンパニー」は、にかわのように外部と接着するこのポジションも含めたものなのである。
『BADDY』はヒット作続きの上田久美子によるショー作品だ。僕が拝見したものといえば『星逢一夜』と『金色の砂漠』で、このときの記事にもくわしく書いたが、よくわるくも理知によってコントロールされた完成度の高い作品を提出する先生である。で、こういう経緯だから、芝居の先生がショーを演出するというのはどういうことだろうかと考えた。別にそういうことがないわけではないが(齋藤吉正とかは逆に当初はショーメインだったが、最近は芝居の演出も増えている)、やっぱり専門というものはある。劇団期待の演出家でもあるし、なんというか、経験を積むというような意味でここらでショーでも、ということなのかと想像したが、プログラムをみて驚いた。上田先生はもともとショー(レビュー)を書きたくて入団したということなのである。入団試験で出した企画書のレビューは、しかし試験官を務めた先生方には「ようわからん」ものだったらしく、それで芝居を書くことになったと。そんなこともあるのか、というか、それでよく受かったな。
最初に書いたようにポスター等を見たときの印象はあまりよくなく、なんかこう、『曙対ボブ・サップ』的とでもいうか、イロモノかとおもっていた。という形容のあとに名前を出すのは失礼かとおもうが、だから演出のひとも、齋藤吉正か新人のひとかなと、勝手に思いこんでいた。だから、観劇の数日前に公式サイトで内容を確認してぎょっとした次第である。あのインテリの先生がこんないかにもイロモノ作っちゃうのかと・・・。
それでまあ、イロモノの定義にもよるかとおもうが、実に変わったショーであることにはちがいなく、いや変わっているどころか、既存の様式美みたいなものをぶっ壊すという点ではほとんど革命といって差し支えない内容である。『金色の砂漠』でも時間をかけて考えたが、この先生は宝塚がなしえてきたことのアウトラインについて非常に自覚的なかたである。だから、意地悪な言い方をすれば、どうすれば観客が涙を流し、納得して帰っていってくれるか、ということを、完全に理解しているので、「泣くべきところ」が決まっているのである。そしてじっさい、ただ30過ぎて涙もろくなったということもあるとはおもうが、僕もまた、その「泣くべきところ」で泣いてしまうのである。
そのいっぽうで、上田先生はその枠組みの外側も意識している。宝塚の感動の構造を理解するということは、宝塚の文脈がとりこぼす外部のものも把握するということにほかならない。それが、特に『金色の砂漠』でよくわかった。くわしくは過去記事を見てもらうとして、宝塚の恋愛劇に典型的な「身分違いの恋」である。恋愛は私的な営みなので、例外的な場合を除いて、多少の差はあれ、通常、それは公的なものとの衝突を免れない。この意味で、「結婚」は恋愛の社会化である。だから、恋愛劇は多くの場合「公的なもの」と対立するカップルを描くことになるのであり、ロミオとジュリエットのような「許されぬ恋」や、身分違いの恋を通して、これを誇張することになる。恋愛劇を十八番とする宝塚は、この対立にいくつもの解決を与えてきた。しかし、僕はこれまで、そのどれにかんしても、完全に納得することはできなかった。いちばんよくあるパターンは、貴族と平民が恋に落ちて、実はその平民が貴族だった、という展開である。ミー&マイガールのように、平民が貴族にふさわしいものになる、なんていう変則的なパターンもある。これで、カップルは公的なものに認められ、社会化される。けれども、ここでは、貴族と平民の対立が解消されたわけではない。ロミオとジュリエットのように、ふたりが徹底して「私」をまっとうすることで、「公」のほうが浄化され、対立が解消するということもあるが、これが同時には成り立たないのである。ミー&マイガールのサリーが貴族としてのふるまいを身につけ、貴族に受け容れられて、おそらくのちに結婚することになっても、ランベスウォークの夜にわずかに見えたあの両者の溶け合いは、おそらく持続的なものとしては実現しない。対立は対立のまま保存されているのだ。『金色の砂漠』も、この「実は貴族だった」パターンを採用している。が、革新的なのはこれが結末ではないということだった。上田先生は僕の管見がおよぶ範囲ではじめて、その先を描いたのである。
BADDYにはストーリーがある。舞台は統一された地球、ピースフルプラネットだ。飲酒、喫煙が全大陸において禁止され、グッディ(愛希れいか)という捜査官を守護神としていっさいの犯罪が駆逐されたこの惑星には、「わるいこと」がなにもない。ここに、月においやられた悪党のバッディが帰還し、かきみだしていくのである。この惑星の首都はTAKARAZUKA-CITYで統一から103年ということであるから、ピースフルプラネットは宝塚歌劇団の表象である。また、本作では「わるいこと」の表象として「喫煙」がわかりやすく持ち上げられており、偶然だとおもうが、タバコへの言及は『カンパニー』でもみられる。東京オリンピックに向けてすすめられる喫煙所縮小のことだ。これもまた、それじたいでメッセージであるというより、表象である。「わるいこと」のイメージをタバコに託しているとでもいえばいいだろうか。だから、この無菌的な白い惑星は、日本であると同時に、宝塚歌劇団でもある。宝塚のなりえたことの枠組みを把持したうえで「泣くべきところ」を描き、その外部にまで挑戦的に手を伸ばす先生が、宝塚歌劇団そのものを相対化したとしても不思議はない。
バッディや、ともにやってくるスイートハート(美弥るりか)は、ただたんに、これじゃつまらないということで、悪事をなしていくとおもうのだが、それは結果としてこの白い星を賦活していくことにもなる。バタイユはかつて、制度の側にある善に対して、悪は持続のできない、子どもの衝動のようなものであるとした。善と悪は対立したものとしてとらえうるが、じっさいには、両者は等価ではない。発露するその瞬間だけ存在するのが悪であり、これが制度となることはありえないのである。バタイユは非常に難解で、これもどこで読んだのか覚えていないが、ごく素朴に考えても、これは理解できるぶぶんがある。悪は、それじたいとしては成立不可能であり、大人が内部に宿している子どものような衝動が、抑圧を逃れ、解放されたときにあらわれる。抑圧するものは内面化された善であり、父である。だから、こういうものが存在しない自然状態の、また超自我形成前の人類には、善も悪もない。悪という現象そのものは制度の規定するものであり、その制度が成立しているということそれじたいの抑圧するものが回帰するしかたで、悪はやってくるのである。これも偶然だとおもうが、「カンパニー」にも月にかんする言及がある。夏目漱石がI love youを「月が綺麗ですね」と訳したということを受けて、青柳がそのようにいうのである。ここでいう月とは、高野悠がバレエを詩であるといったことも踏まえれば、すなわち詩のことである。「悪とよばれうるもの」は、詩の世界においやられる。くりかえすが、「悪」といっても、法律的な意味での悪ではない。善が規定するところの悪のことだ。人間の内部にかんしていえば、制度によって、詩は抑圧され、散文的な善が全体を支配することになる。だが、抑圧されたものはかたちを変えて必ず回帰する。それがバッディの帰還なのである。
この抑圧されたものとは、具体的にはなんであるだろうか。宝塚の文脈で宝塚についての批評をくりひろげる、というアクロバティックな方法であるから、難しいぶぶんもあるが、ひとつには「すみれコード」があるだろう。観客の目に見えるところに明文化された法があるわけではないが、それはたとえば、性的に、あるいは暴力的に過剰な演出を避けるというようなことだ。すみれコードに配慮して、性的に過剰な演出を回避しながら性的に過剰な演出をすることは当然できない。だから、このときにおこなわれる批評は、「性的に過剰な演出を回避している」ということに言及する、というメタ的なしかたになる。要するに、「ここにはコードがある」ということをいってしまう、ということである。しかし、そのためにはその抑圧される対象物が描かれなくてはならない。真っ白な世界で、この世界が真っ白であるということをいうためには、黒という概念が存在しなければならない。かくして、善と悪は、対立しない、等価ではない関係でありながら、互いに規定しあうことになる。善は、悪を呼び出す。が同時に、善が善として機能していることをいうためには、悪に登場してもらわなければならないのだ。もし、この悪があらわれないまま真っ白な世界が持続したら、世界はどうなるか。そこの住人は、じぶんの、また世界のある特定のぶぶんを、権威によってぬりつぶされ、じしんの全貌を知らないまま、蒙昧に暮らしていくことになるのである。統一された世界で、彼らはそれを選択した。この世界が宝塚の表象であることには、上田先生個人の批判意識も当然あるとはおもうが、同時に、ちょうどいい、ということもあっただろう。というのは、わたしたち観客が「すみれコード」に守られて観劇を続けても、そこに隠されている「過剰なもの」を知らないということは、外部に生活がある以上、ないからである。むしろ宝塚はそのことを踏まえたうえで、そうではない夢の世界を目指して現在のありようを確立させたのである。しかしまた同時に、そういう問いかけがあってはならないということではない。宝塚がその存在理由に直結するしかたであえて見落としてきたもの、これを指摘することで、抑圧の構造を導きだす、これが本作の動機になっているものであると考えられるのである。
美弥るりかが演じるスイートハートは、男でも女でもない、色気の権化みたいな人物である。栗木拓次だったら「に・・・人間じゃねぇ・・・」とつぶやくであろう想像を絶する美しさだ。ここでいう「男」や「女」も、ということは「男役」や「娘役」も、善が根拠となる制度が決めた概念である。スイートハートは、そうした制度が自明のものではないということをその存在そのもので目一杯しめしていく役柄なのだ。
タバコはからだに悪い、健康によくない、だから悪である、というのも、制度が決めたことである。というのは、この背景には、健康であることが善であるという健康ファシズムが隠れているからだ。健康であること、長生きであることが善であるということは、自明ではない。年頃になったら女性は結婚するものである、ということがもはや自明ではないことを思い起こせばわかりやすいだろうか。いうまでもなく、本作は喫煙を推奨するものではない。わかりやすいイメージとしてあつかっているだけだ。
そういうわけで、本作における「悪」は、制度に抑圧された原始的な詩性の読み換えである。CDが売切れてしまっていて、まだDVDも出ていなかったものだから、聴きたくなっても聴けないのだが、たとえば愛希れいかが怒りを原動力にしてパワフルにロケットまで導くあれは、いってみればそうした善のものに抑圧されている悪の、白い読み換えだろう。ほとんど歌詞が聞き取れないような歌唱は、いってみれば咆哮である。バッディは、極端ないいかたをすれば快楽主義者かもしれないが、グッディは、筋トレ描写が示すように、禁欲的なものだ。グッディは、抑圧され、回帰したものを、そのままにではなく、じしんの規範に含まれるものとして読み替えて、原動力とするのである。しかしじつは、こうした働きは以前までの白い世界にはなかったものだ。バッディの登場はそうやって、善のものも、善のまま、人間らしいものに変えていったのである。
フィナーレの男役群舞では、ハウスというかテクノというか、70年代のYMOみたいな無機質な電子音の四つ打ちが聴こえてきた。たとえば僕世代がトランスと聴くと、シンセサイザーを駆使した電子音を想起するが、もともとこうした音楽はもっとプリミティブなものだった。これを、ここでは意識的に取り出している。四つ打ちもループも執拗な同形の旋律の反復も、すべて人間の原始的な感性に反応するものなのだ。
そして、ここでもまた意外性があるというか、いちど悪は駆逐され、白い世界がとりもどされる。ここからパレードになるが、ふつう、パレードのはじまりは、ショーでも一本ものの芝居でも、すべての物語が終了したことを示す。だがそうではなかった。このパレードは天国であり、バッディはここでもやはり「悪」なのである。そうやって、抑圧された悪は、退治しても退治しても必ずもどってくるのであり、それが「人間」なのである。
トップ就任からもう3作目、珠城りょうもずいぶん立派なスターになったものである。先代の龍真咲が長かったということもあるとおもうが、月組は基礎がしっかりしていて、まったくすきがない。美弥るりかはしっかり2番手としての位置を確立しており、そのしたには優等生的になんでもこなす月城かなとがひかえる。というか、そういう実力云々を言う前に、いまの月組はビジュアルだけでもたいへんなものがある。愛希れいかは次のエリザベートで退団となっているが、ここまで娘役を極めたひとがいるだろうかというレベルの安心感だ。エリザベートはいったいどのような仕上がりになるだろう・・・。
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