花組東京公演『雪華抄/金色の砂漠』 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

 

 

 

 

宝塚舞踊詩

『雪華抄(せっかしょう)』
作・演出/原田 諒


<特別出演>・・・(専科)松本 悠里
花鳥風月——日本ならではの風雅な趣をテーマに、華麗に格調高く繰り広げる舞踊絵巻。華やかな初春の風情に始まり、夏のきらめく波濤、秋の月、そして雪の華が舞う白銀の世界から桜花夢幻の春の讃歌へと、絢爛豪華な場面が次々に展開されます。現代的なエッセンスを加え、宝塚風にアレンジした日本古来の伝説なども織り交ぜながら、四季の美しさと艶やかさを華やかに謳い上げた日本物レビューの意欲作。
国際的に活躍するファッションデザイナー丸山敬太氏が、衣装デザイン・監修を手掛けます。

トラジェディ・アラベスク

『金色(こんじき)の砂漠』
作・演出/上田 久美子


昔々、いつかの時代のどこかの国。砂漠の真ん中にあるその王国の王女は、“ギィ”という名の奴隷を持っていた——

自分がどこから来たのかも知らず、王女タルハーミネの奴隷として育てられた少年、ギィ。常に王女に付き従って世話をする彼は、長じるにつれ、美しく傲慢な王女に心惹かれるようになる。ギィを憎からず思うタルハーミネではあったが、王女の立場と何より彼女自身の矜りが、奴隷を愛することを許さない。タルハーミネはわざと高圧的な態度でギィを虐げる。奴隷でありながら矜り高いギィは、そんな王女を恋の前に屈服させたいと激しい思いを募らせる。
ギィの怒りにも似た愛は、やがて報復の嵐となってタルハーミネと王国を呑み込んでゆく——
架空の古代世界を舞台に描き出される、愛と憎しみの壮絶なアラベスク。

 

 

 

 

以上、公式サイトより

 

 

 

 

 

 

花組東京公演『雪華抄/金色の砂漠』観劇。1月13日13時半開演。

 

 

宝塚年始一発目は花組だぞ。特別ファンということではないんだけど、明日海りおのやわらかいうたごえはときどきむしょうに聴きたくなるへんな中毒性があるので、じつは楽しみにしていた。

 

 

 

演目は久々に見る日本ものレビュー『雪華抄』と大人気の上田久美子による『金色の砂漠』である。予想外にどちらもおもしろかったので、ハードスケジュールでからだがきつかったけど、きてよかった。和もののレビューって、なにしろその手の教養に欠けるので、思い出深い作品があまりおもいつかないし、芝居は芝居で、娘役がおなか出してる感じの世界観がすごい好きということがないというかなんというか・・・、そういう感じだったんだけど、そういう先入観はあてにならないのだ。

 

 

『雪華抄』の演出は原田諒。カポネとかのひとですよね?お芝居専門かとおもいきや、ショーも書かれるんですね。というか、僕はそういうのみんな先生方は専門でやられてるものだとばっかり思い込んでいたんですけど、齋藤先生とかも最近は芝居を書かれているし、そういうことでは別にないのかな。

雪華抄にかんしてはとにかく音楽がすばらしかった。本格的な日本舞踊を洋楽でやってしまう、というのは宝塚独自の方法だとおもうけど、そういうところ突き抜けた感じがする。今回は松本先生も一場まるまる踊られているけど、松本先生の舞踊の場面って、いっつもよくわからない音楽で、舞踊じたいも無教養なのでどこを見ればよいのかよくわからないのに身のおきどころに困ってしまう感じなのが、どういう音楽だったか思い出せないが、今回は舞いに集中することができたので、なんらかの仕掛けがあったものとおもわれる。また今回はドラムスの活躍がすごい。その松本先生の舞踊のあとの場面、「鷹と鷲」の場面か、あそこのドラムスが、DJ VIBLAMの作るブレイクビーツかよというほどハードなもので、コワモテのラッパーたちがマイクリレーをはじめるんじゃないかというほどの躍動感なのである。まさか和モノのショーであんなビートが聴けるとはおもわなかったなあ。ふつうに電子音もつかってたし・・・、へんに日本の音楽感覚に阿らず、洋楽でやることを多いに楽しんでいる感じがあって、好感がもてた。

 

 

 

たいへんな見ごたえの『金色の砂漠』は、書く作品すべてが話題作になる上田久美子。僕は「星逢一夜」しか拝見したことはないが、あれもたいへんな完成度の作品だった。ただ、それだけに、彫琢されすぎている、という感想もないではなかった。当時の記事にその形容しがたいもやもやをくわしく書いたけど、ちょっとこの先生はあたまがよすぎるのである。ものすごい高性能の頭脳をお持ちなうえに、博覧強記で、あらゆる文芸に通じていて、メタファーも、結末のもたらす意味も、すべて意図的に制御したうえで製作されていると、そのように感じてしまうのである。ひとことでいえば無意識のぶぶんが皆無なのである。それは悪いことではないわけだが、同時に解釈の余地が少しもないことを意味してもいる。観客は泣くべきところで泣くのであり、疑問におもうべきところで疑問を抱えるのである。誰に聴いても感想がだいたいいっしょなのだ。だから、ツイッターなど見ていても、星逢一夜の感想はことごとく「泣ける」で埋め尽くされるのである。これは、三島由紀夫とか、現代だと平野啓一郎とか、あと村上龍もどちらかというとそうかな、そういう非常に高性能の頭脳をお持ちのかたに多い作風だ(皮肉ではありません、ほめています)。作品じたいの緻密さはひとことの注文もはさませないものであり、すばらしい。しかしどこか、そうした余白のなさにかたさも感じてしまうのである。

とはいえ、それだけに作品の完成度はたいへんなもので、本作もまことにすばらしいものであった。というか、ほとんど革命的といってもいいかもしれない。というのは、いままで宝塚歌劇がお茶をにごしてきたことに挑戦し、その先をやってみせたからである。

 

 

舞台は砂漠に囲まれたどこかのお城。「イスファン」という国で、ルサンクの設定を読むと、1~2世紀あたりのイランをイメージした造形らしい。登場人物の名前がギィとジャー以外まったく覚えられなくて難儀したが、まず明日海りおのギィが奴隷で、花乃まりあのタルハーミネについている。この国では王族にかんして生れたときからスタンドのようにひとりの特別な奴隷があてがわれることになっており、その人物のなにからなにまで知るものとして面倒をみて、痛みや苦しみは奴隷が受け止めることになる。理由は明かされないが、基本的に異性の奴隷があてがわれるのがしきたりである。この国の王様は鳳月杏演じるジャハンギールという偉丈夫で、王妃が次期娘役トップ(おめでとう!)の仙名彩世演じるアムダリヤ。イスファンはもともとジャハンギールの国ではなく、彼が武力で奪ったもので、アムダリヤは前王の妃だった。ヒロインにあたるタルハーミネをはじめとした王女たちは、アムダリヤとは血のつながりはないようである。ほかに王女は、桜咲彩花の心優しいビルマーヤ、音くり寿演じる騒がしいシャラデハがおり、それぞれ芹香斗亜のジャー、瀬戸かずやのプリーが特別な奴隷としてついている。アムダリヤは子を産まず、後宮に生ませた子どもたち・・・というのが王女たちのことだとおもうが、それも女の子ばかりなので、外国から有力な婿を入れようとしているところである。タルハーミネの婿候補には柚香光のテオドロスという男があてがわれている。・・・メインの登場人物はこれくらいかな?ふう・・・。

 

 

さて、幼いころから互いを知っている王族の娘と奴隷という設定である。奴隷の描写にはけっこう容赦がない。奴隷のあつかいがいかに野蛮でひどいものか見せつけながら、それをじゃっかん笑いにもっていくのは、脚本と、あと瀬戸かずやたちの力量もあるだろう。不快感はない。で、こういう設定だから、宝塚を見慣れたわたしたちはすぐに展開が予想できる。彼らが恋しあわない理由はないと。そして、もちろんそうなる。ただ、その過程は非常に歪んでいる。ギィは、内に秘めたおもいを自覚的に抑圧し、我慢している。しかしタルハーミネはそうではない。経験の乏しさがそうさせるのか、彼女はギィへのじぶんの感情を前景化させるすべをもっていないか、あるいは無自覚に抑圧しているかして、その感情に気づいていない。もっといえば、精神機構のなにかが、それに気づいてはいけないということを先取りして感知しており、みずから気づかないように、目をそらし続けているのである。それがけっきょくは、外国人であるテオドロスが引くほどの露骨な奴隷あつかいの描写に転じている。タルハーミネは奴隷というものについてテオドロスに説明するとき、自分自身にも言い聞かせているのである。ただ、こうした幼馴染、どころの親密さではないふたりが、果たして現実に恋に落ちることがあるだろうかというと、常識的にはなさそうにおもえる。家族みたいなもの、という表現がいちばんしっくりくるが、皮膚感覚としてはもう家族というか「自分」そのものみたいなものだろう。とりわけ、「奴隷とはこういうもの」という説明が形而下に刷り込まれている、刷り込もうとしているタルハーミネでは、その感覚は強いだろう。

このことは作品の構造としても想定されている。というのは何度か出てくる「鏡」というイメージである。じっさいにおおきな鏡の道具も登場している。ドレスを着るにあたっても、美しいテオドロスとの並びにかんしても、それがどう見えているかを、タルハーミネはギィに訊ねるのである。これは、ひょっとするとラカンを意識したイメージの配置かもしれない。ふつうはこういう想定は作家の無意識で、批評の二次創作ということになるのだけど、上田先生はたぶんふつうにこういうことを意図的に組み込んでくるとおもう。

ジャック・ラカンはフロイト以降のひとだが、自我の形成にかんして幼年時の鏡像段階というものを想定した。外部にある、じぶんではないものとして他者的な鏡、その内側に、じぶんの身体感覚と同期するようななにものかがうつり、あるとき幼児はそれが自分そのものだと発見する。フィクションとしての自我を、鏡を経由して獲得するのである。おそらく、タルハーミネがギィを呼びつける動作にときどき鏡が含まれていることは、彼女がギィの目線を通して自我を確立していることを意味している。本作では誇りということもキーワードになっているが、彼女の抱える自尊心は、ギィの見ているタルハーミネ、もっといえばギィの彼女に向けた感情により修飾されたタルハーミネ、という像に担保されているものなのである。

 

 

愛にかんしては、劇中でも英真なおきが定義しているぶぶんがある。かんたんにいうと、相手をじぶんのものとして支配したいというものと、相手の幸せを願って尽くすものの2通りだと。前者は、相手を失ったとき「欠乏」の感覚を呼び起こす。ふつう、愛する相手と生れたときからいっしょということはないので、たいていのばあいわたしたちは「いままでの人生は相手が欠けていた」という転倒したしかたで充足感を味わうことになる。ところが、彼らのばあいは文字通り相手の存在によって自我を確立している。相手が欠けることが欠乏感をもたらすことはまちがいなく、それが翻って愛情になるとしても、それは不思議ではないわけである。いってみれば、愛情としか呼びようのないなにか、というところだ。ところが、タルハーミネは誇り高い王女で、まさか奴隷の存在によってみずからの自我を確立させているとはおもいもよらない。だから、ギィを失うことが欠乏感をもたらすとは絶対に認めない、と同時に、無意識ではそれを認めているので、手放さない。そういう引き裂かれた感情なのだ。後者の、相手の幸せを願うという行動では、願う主体であるじぶんになにがもたらされるか、ということは一顧だにされない。宝塚ファンがタカラジェンヌを見るときのような寛い愛である。これは、ジャーとビルマーヤが担っているものだろう。

 

 

というわけで、彼らの愛が歪んでみえるのは、じっさい歪んでいるからで、必然性を帯びながら、どこか、それで正しいのか判断できない違和感が漂うのは、それが回避のできない欠乏感を生むからであって、その引き裂かれのなかで、両者のあいだには「ムカツク、でも好き」という、典型的といえば典型的だが、歪んでいるといえば歪んでいる、無二の関係性を作り出されているのである。

 

 

そして、婚礼の前夜、ふたりは一線を越えることになる。これがバレたことで、ギィは殺されかけるのだが、そこに王妃アムダリヤがあらわれ、逃がそうとする。じつはギィとジャーは、以前の国王との間に生れたアムダリヤの息子たちだったのである。この時点で、ああそのパターンかと、正直いって僕はがっかりしてしまった。公と私の対立というのは宝塚の恋愛劇ではもっとも基本的な形式である。公というのは、個人の感情を超えた社会のルールとかそういうことで、典型的なのは身分の違いだし、ロミオとジュリエットみたいに家柄どうしが対立していて関係を認めない、なんてパターンもある。じぶんたちは、ただ相手が好きなだけなのに、じぶん以外のもろもろがそれを邪魔する、というのは、もともと恋愛ということが他者のうちから私的なものを選び取るぶんじっさいそういう面があるから、現実を誇張したものとして、恋愛を描くにあたっては非常に適切なのである。それを解決する手段としては、よくつかわれるものは二通りあって、ひとつには心中である。公などという邪魔のない、ふたりだけのネバーランドにいってしまおうというもので、本人たちが意図しなくても結果そうなるというのは、ロミオとジュリエットもあてはまる。そしてもうひとつが、「落陽のパレルモ」とかがそうだったけど、身分違いとかそういう邪魔していることが実は誤解だった、というものである。今回がそれで、奴隷とおもわれていたギィがじつは王族だったとわかれば、いろいろもめはするだろうけど、少なくとも身分違いの恋ではなくなるわけである。ミー&マイガールでは、どんどん貴族になっていくビルに対して劣等感を抱えるサリーが、上流階級のふるまいを身につけることでハッピーエンドを迎えるが、これもその変形で、要するにサリーは努力して上流階級の人間になったのであり、貴族と平民がそのままに合流したわけではない。本作でいうと形状的には、「金色の砂漠」がネバーランド、「ここではないどこか」にあたるのであり、結末もそうなっているのだが、物語なかばでこういう展開が出てきて、ああそっちになるのねとなったわけだ。それでなぜがっかりしたかというと、僕はこの結末がいつも不満で、それでは、たとえば身分違いの恋ということでいえば、貴族と平民とはぜんぜん和解していないではないか、わかりあっていないではないかということがあったわけである。ロミオとジュリエットでは、ふたりが死ぬことで両家が対立を乗り越えるが、死んでしまっては愛の成就もなにもない。なかではベルサイユのばらがかなり独特の解釈をしていて、これは複数の視点のエピソードを展開することで、各自各様の事情があるということを開陳し、対立はそのままにしながらも、場合によっては叩き潰しながらも、結論を保留していて、そういうのがたぶんあれがいまでも愛されている理由かとおもうが、くわしくないので深入りはしない。

というわけで、アムダリヤがそういうことを言い出したときは、ああそっちいっちゃうのかとなったのだけど、物語はここから先にすすむ。これが結末なのではない。最初に本作が革命的なんじゃないかといったのはこのことだ。一線を越えたことがバレて、どちらかが死ぬという状況になったとき、タルハーミネはもともと抱えていてギィへの複雑な感情のせいもあってか、かたちとしては彼を売ることになる。それもあったうえ、そんな出自をはじめてきかされ、誇りを捨てて生き残り、子どもたちを守るほうを選択した母への怒りもあり、ギィは復讐すると言い出すのである。宝塚の全作品を見ているわけではないから、ほんとうに革命的かどうかというのはわからないのだが、少なくとも僕が知っている限りでは、ふつう、はなしはここで終わるのである。だって、彼らの関係を邪魔していたもっとも大きなものが取り払われたのだから(王が認めるはずはないので同じことといえばそうだが)

 

 

 

本作は「その先」が描かれていると、そのことだけがとにかくいいたかったのだが、長くなってしまった。ふたりは歪んだ「嫌い、でも好き」な感情を抱えながら、たがいになすべきことをなして突っ走る。まだまだ公演は続くし、ここから先もかなりおもしろいから、あまり書かないでおくが、「嫌い、でも好き」を保存しながら到達する場所で、ふたりは「魂だけ」になって溶け合う。その意味では、さきほどの例でいえば心中のパターンと見ることもできるかもしれない。しかし、認められないものを成就するため、公というものの存在しない「ここではないどこか」に逃避する、というありようとは、やはり大きく感触を異にしている。そもそも、特にタルハーミネは、みずからの手で、この恋の邪魔をしてきたのである。みずから、その成就を阻んできた。素直になれないなどという生易しい感情ではない。彼女はほんとうに、真実、それを認める気がない。なぜかというと、ギィが奴隷であるからである。まず奴隷を好きになることなどありえないという、超自我的な規制が彼女のなかにはある。そして、それを基礎づけるのは「公」のシステムである。彼女はそれを内面化し、誇り高い自我を形成している。しかし、うずく恋の感覚が、アラームを鳴らす。そもそも、そのギィを否定しようとする自尊心じたいが、ギィという鏡を経由しなければもたらされることのないものだからである。それに気づいてはならぬと、タルハーミネの内面はしきりに彼女の感情を刺激し、怒らせるのだ。かくして、全人類が滅亡したとしても決して実ることのない恋愛が成立する。そう考えると、この結末は選択肢のひとつなのではない。これ以外ないのである。

 

 

 

本作で花乃まりあが退団ということだ。とりわけ今回の役は難しいとおもうけど、なにしろ感情のよくのる聴き取りやすい声ですばらしい。それからこういう感じの衣装とか髪型がけっこう似合うのね。最後までケガなどありませんように。