今週の九条の大罪/第82審 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第82審/至高の検事⑱

 

 

 

 

40日ぶりくらいで九条の大罪が掲載だ!

久しぶりすぎてこれまでの考察とかほとんど忘れてしまった。

 

犬飼に逃亡を示唆した犯人隠避の疑いで九条が捕まったところだ。九条は独り言として指示をしていたし、録音などもないとおもうが、九条の指示で京極の武器をもって出頭した壬生がばらしたのである。壬生の意図はまだ不明だ。そこで九条は、かつてじぶんの事務所に居候をしており、反社についての価値観のちがいからたもとをわかり、いまは九条の師匠である流木のところでイソベンをしている烏丸を選任弁護人に希望したのだった。ただ、流木は壬生の弁護をしているので、その身内である烏丸が九条の弁護をすることは利益相反になる可能性がある。九条もそれはわかっているはずなので、今回の呼び出しは、対話以外の意味はないのかもしれない。

 

前回、壬生はノートに書いたなにかを流木に撮影させ、九条に伝えるよう頼んでいた。撮影は違反なので烏丸は断ったが、流木はこれを「踏み絵」として、日本の「人質司法」の問題を説きつつ、これを実行していた。しかし烏丸はそもそも写真など撮らずとも記憶できたという。さすが東大法学部首席。

まずひとつは、武蔵坊弁慶の辞世の句とされるもの、「六道の 道のちまたに 待てよ君 遅れ先立つ 習ひありとも」というものである。壬生は丁寧に旧仮名遣いも正しく記している。覚えていたのかな。源義経が、衣川の戦いで藤原泰衡に追い詰められた際に、弁慶が詠んだものということで、これには義経の返歌もあり、それは「後の世も また後の世も めぐりあへ 染む紫の 雲の上まで」というものになる。六道とは輪廻転生思想において、死後向かう六つの世界の分類のこと。たとえ死ぬ順番に違いがあっても、冥土の道の途中で待っていてくださいということで、業によって衆生の行き先は変わってしまうはずだから、おそらくそれが定まる前の分岐点で待っていてくれ、同じ道を行くから、という意味になるだろう。義経のアンサーはそれに同意するもので、「また後の世も」は、くりかえしどの生においてもという意味か、あるいは次の道で同じ世界に降り立てなくてもという意味か、どちらとも読めそうだが、まあそういう意味だ。

加えて、「飼い犬はもう二度と戻ってこない」というメッセージも加わっている。烏丸は、どう言おうが裏切った人間はもう一度裏切るといっているが、これは弁慶のうたを踏まえたうえで、壬生は忠誠心のようなものを見せているけど、また裏切るよ、ということだろう。では、飼い犬云々という点について、烏丸はどう受け取っているのだろう。これは、犬飼のことのようにも感じられる。つまり、犬飼はもうこの世にはいない、という暗号だ。じっさい、犬飼がどうなったかは、九条も烏丸も、嵐山も知らないはずだ。壬生がキャリーケースに詰めて京極に渡したところなので。だから、たとえば犬飼がどこかで捕まって「九条先生に指示されました」などとくちにすることはありえないよと、こういうことをいっているようにも見える。九条もそう受け取ったのではないかとおもわれる。だが烏丸はどうだろう。烏丸は、犬飼には思い至らないような感じがする。だが彼が「飼い犬」を「壬生」自身のことだと読んだとすると、弁慶の句とはちぐはぐの内容になってしまう。もし烏丸が犬飼のことを想起しなかったとしたら、ここには別の意味をくみとったはずである。忠誠心は持続する、しかし犬のようにただ指示を待つような「壬生」はもういないよと、こういうふうに読んだのだろうか。

 

撮影はしなかたったが、今回の内容では逃亡などにもつながらないので伝えたと、ネクタイをいじりながら烏丸はいう。当初、ネクタイは結び方がわからないのでひとつももっていないということだった烏丸だが、騎士の称号を授けるときみたいに、九条がネクタイをあげることで、つけるようになった(同じネクタイをしているのかどうかは未確認)。九条が導く「この道」のはじまりが、ネクタイには重みとして含まれているのだ。つまり、烏丸は今回ちょっと悪いことをした。それが、猫がむりやり服を着せられているときみたいなストレスを生じているのである。

手紙などは裁判所の許可をもらえば渡せることがあるらしい。しかし時間がかかると九条はいう。というか、まず許可されないと。悪法につきあうのはばかげている。

烏丸はいう。

 

 

「悪法も法なら、

 

法律がおかしい。私は制度と戦います。」

 

 

九条は、対句的に応える。

 

 

「悪法も法ならば、

 

弁護士の特権的立場を悪用してでも掻い潜る。」

 

 

久々に出たふたりの対照表現だ。建前だけで生きていくのか清濁併せ呑むのか。深いことをやろうとしたら綺麗事ではいけない。ドロドロのところを扱っているから、返り血を浴びないわけにはいかないと九条は続ける。返り血どころか大量出血だと烏丸はいうが、どう思われようと自分の人生を生きているのだと九条にいわれる。

 

利益相反について烏丸が述べる。九条は「そうですね」という感じで、やっぱりわかっていたみたいだ。担当は亀岡になりそうだ。そりゃーたよりになるな。

で、九条は依頼人の引継ぎとブラックサンダーの面倒を烏丸にお願いする。利益相反だとわかりきっているのに烏丸を呼びつけた理由はたぶんこれだろう。

 

烏丸が九条のいつもの住まい、事務所の屋上にやってくる。九条が逮捕されたときのまま、フライパンなどが置かれている。ブラックサンダーもおとなしく待っていたようだ。とはいえ、いきなり九条が連れ去られて不安だったろう。烏丸は、もう大丈夫だよと、ブラサンを抱きしめるのだった。

 

独房で支給されたお弁当を食べ、おトイレをしているときに、取調べの連絡。嵐山である。

 

 

 

つづく。

 

 

 

信用していた輩に裏切られてどんな気分?みたいなことを嵐山はいうが、九条は「別に。何も。」という反応である。嵐山は、壬生も京極も九条も一網打尽にできてうれしいだろうな。

 

壬生からのメッセージはどういう意味だろう。うえでもくわしく見たけど、ひとつは弁慶の辞世の句で、もうひとつは飼い犬が云々というものだ。これを、わざわざ、流木に違反をさせて、烏丸には踏み絵をさせて、伝えたのである。つまり、メッセージとして重要なものということになる。

まず弁慶の辞世の句だが、ここで重要なことは、それが辞世の句であるということと義経のアンサーの存在、弁慶というもののイメージだろう。藤原氏に追い詰められていた彼らがのんびりうたなど詠んでいられたのかというような問いは野暮というものだろうが、じっさいこれは創作か、そうでなくても、少なくとも戦争のさなかに詠まれたものではないだろう。つまり、遺言のように、たたかいがはじまるまえに用意しておいたものなのだ。それが戦争による辞世なのだとしたら、たいていのものはそうだろう。もしくは創作か。が、ここでは創作という線は無視することにしよう。つまり、「辞世の句」には、いままさにこの世を去ろうとしているリアリティに、実は準備、用意の感触もわずかに残るものなのである。そして、この辞世の句には、同じくらい有名な義経の返歌もある。じっさい、有名であろうとなかろうと、義経の返歌があるとないとで、弁慶のうたの印象はかなり変わってしまうだろう。義経のうたの存在は、弁慶のうたを、ただの忠誠心や愛のうたではなく、相思相愛の、かたい絆のうたにするのである。

つまり、ここで弁慶のうたが引用されることには、九条もまた同じおもいで、これに応えてくれるはずである、という壬生の確信が見えるのである。そうしなければ、弁慶のうたは完成しないし、これが引用された意味もないのだ。壬生は、弁慶のうたを示すことで、義経のふるまいをとることを、九条に申し出ているのである。

これがこうして暗号になっているのは、もちろんバレたときのことを考えてだろう。これが辞世の句であることの意味はそこにもある。要は、「辞世の句」が引用されている以上、傍目には、壬生はじぶんが「終わった」と感じていることになるからである。そこに飼い犬のくだりも加わる。今世での関係はとりあえずこれで終了である、だが六道を通った先の来世でまたお世話になりますと、表面的にはそういう意味になるのだ。烏丸もそう受け取っているだろう。だがじっさいには、弁慶は義経のアンサーを期待するうたを詠んでいた。それはかたい絆を意味するものであり、義経と弁慶の関係は終わっていないのである。

 

では、具体的に九条はどうすればいいのか。ここに弁慶のイメージが加わる。弁慶といえば、義経が正しく最後を迎えられるよう仁王立ちしていたイメージが非常に強い。じぶんはそのポジションであるということが、数ある辞世の句のうちから弁慶を選んだことのなかには含まれている。それはなにを意味するかというと、道の選択を任せるということではないかとおもわれる。弁慶は、六道の、道のちまたで義経を待つという。この「道」というのは、六道のどれかひとつの道なのか、いまいちはっきりしない。ただ、弁慶は義経と同じ道を歩むことになるという確信があったようではある。とはいえ、両者が合流する前に道がわかれてしまわないとも限らない。したがって、この「道のちまた」とは、いわゆる六道の辻、六道に入る前の門前のことを指すのではないかとおもわれる。そこで、ふたりは合流する。その先は、人間になるのか畜生になるのか、ともあれ、いっしょの道を歩むと。そこで、弁慶は仁王立ちで待つ。地獄のスタッフみたいなのが畜生道に案内しようとしても、義経がくるまで弁慶はてこでも動かない。合流したあとは、義経に委ねる。こういうことではないかとおもわれる。つまりこの句が意味するところは、絆の強さの、またその存在の確認と、じぶんは九条が道を決めるまで動かないからあとは任せる、という委任の感情ではないかとおもわれるのである。

 

絆が確認できれば、それが「裏切り」なのだとしても、先をみた戦略的な裏切りであることが伝わるだろう。あとは九条がなんとかする(してもらう)。ただ、重要なことがひとつある。それが、犬飼はもういないということだと、こんなところではないかといまは推測する。

 

 

今回もわかりやすく烏丸と九条の対比が示された。とはいえ、烏丸は学ぶ側であるし、やりとりを見てもリアルタイムで九条から学習している感じがあるので、蔵人と九条の対比ほど強いものではないが、烏丸の若さ、もしくは青さを通して九条のしたたかさを描いているといったところだろう。

ふたりの主張はこうである。烏丸は、法律、書いてあることがまちがっているなら、正しいものに書き直したい。九条は、書いてあることがまちがっていても、それを正すのはたいへんだから、バレないようにうまくやる。烏丸が「若い」のは、「書いてあること」がまったき善でありうると信じているということだ。いまある法は、誤りである。だから、正す。とするならば、この世には「完全に瑕疵のない絶対法」が存在することになるのである。それを目指すことそれじたいはまちがっていないだろう。そうでなければ、この世のどんな仕事もッモチベーションを書く歯車の運動のようなものになってしまう。ただ、それがリアルで実務的な目標になりうるのかというと、難しいところだ。直観的にもそれが誤りであることはわかるし、言葉というものはそのようにできていない。なぜなら、ある事物をそのように言い当てるということは、そうでないものを捨象するということにほかならないからである。ソシュールは、言語を砂浜に置いた網と表現した。砂浜それじたいは茫漠としたただの広がりだが、「ここ」と「あそこ」のちがい、差異に目をつけたとき、言語は生ずる。だが、これはある種「詩」としての言語のはなしだ。この視点においては、「言語が指示していないもの」は存在しないことになるが、まず第一に、わたしたちは言語で思考している以上、それを確認することはできない。次に、とりわけ法律の分野における語は、特に身近なものになればなるほど、あいまいさを嫌うものである。したがって網それじたいは太く明瞭なものになる。では、その太い網の影に隠れているぶぶんはどうあつかえばよいのか。

 

くりかえすように、烏丸の野心じたいは尊重されるべきもので、それどころか、人類が寝て起きるたび「なぜ生きているのか」という問いに直面しなくても済むのは、そうした志向がじっさいに有効だからだろう。しかしそれが実務においても有効化というと、書生論を出ないぶぶんはある。悪法も法なのではない。原理的に、言語で構成されている以上法とはつねに悪法なのであり、だから、それを掻い潜るすべを九条は身につけているのだ。

 

 

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