第83審/至高の検事⑲
逮捕された九条と嵐山が対決だ!けど、九条のやることというのは決まっている。彼がいままで依頼者にそうするよういってきたこと、20日カンモクでパイである。嵐山も、そうするつもりなんだろうと当然わかっている。法を犯さない範囲でどううまく沈黙を破るのかが刑事の腕の見せ所だろう。特に嵐山には娘の死という経験がある。あの事件に九条は直接かかわってはいないが、主犯の犬飼がいまふつうに外を歩いていて(死んだけど)、黒幕の京極や小山はなんの罪にも問われない、そういう状況を実現させる弁護士が、この世にはいる。彼はそれを憎んでいる。そしてまさに九条は、その手合いなのである。気合はじゅうぶんだ。いまのところ九条はぜんぜんこたえていない。
壬生が隠していた武器を持ち込んだことで、京極も逮捕されている。担当は山城らしい。壬生の担当は流木だったから、メインの登場人物はほとんどこの件にからむことになる。
隠していた武器の量で刑がかわるのか、よくわからないが、山城は10年はもっていかれると京極にいう。京極は落ち着いて、九条ならもっと短くできたんじゃないのみたいなことをいう。山城に頼らなければならない状況でそんな嫌味みたいなことをいうとは・・・。だが九条は逮捕された。ほとんど同時に起こったことなので、京極もひとからふたしかな感じで聞いただけだろう。山城は、ほんとかどうか、知らないという。京極的には九条を弁護士に使いたいわけだが、それを封じられたという見方のようだ。なるほど、身を守るだけではなく、壬生そうやって九条を一時的に封じることで、京極のちからをも削いでいるわけだな。
要するに、京極のまわりでものごとがぜんぜんうまく運ばなくなっており、明らかに絵を描いたもの、首謀者がいる。彼は、壬生を許さないというのであった。つまり、それが壬生だと理解しているということである。当の壬生は独房で貞観政要を読んでいる。ふしぎな符合というか、ねらったのか、少年院ウシジマくんでも、若い丑嶋が、同房の仁科から、上に立つには必要だと、貞観政要を渡されている。貞観政要についてはよく知らないので、とりあえずカドカワのビギナーズクラシックのやつを急いで注文した。ビギナーズクラシックは、方丈記みたいにもともとが短いものを除くと基本的には抄なので、本格的に学ぼうとする向きには物足りないだろうが、ものはたしかであり、解説もすばらしいものが多いので、いまのぼくのようにとりあえず学ぶというようなときにはうってつけである。壬生が読んでいるのはちくま学芸文庫のしっかりしたものだ。ちくま学芸文庫を正座で読む半グレ・・・いいな。
外では伏見組が暴れまわっている。菅原がケツモチだか経営だかをしていたクラブで大暴れだ。京極が捕まったところでこのようにもとのままの暴力で集団が機能するのがヤクザ組織のおそろしいところである。黒スーツの男たちのなかに、これは鍛冶屋とかが出てきたときに壬生にビビッてたふたりかな、パッと見は半グレっぽい雰囲気のある若いふたりがいる。彼らは大勢で金属バット片手に壬生や菅原のシマを荒らして、菅原、それに久我を探しているようだ。道ばたでもそれらしい不良たちがしめあげられている。久我は、路地に隠れながら菅原に連絡をとる。久我は菅原の悪徳介護施設にスパイとしてもぐりこんでいたが、もうわだかまりはないらしい。壬生のカリスマはとてつもないな。
久我は、幹部には隠れるよう連絡をしたが、返事がないものが数人おり、それらに直接会うみたいな危ないことをしているらしい。菅原はすでに韓国にいる。航空チケットも即久我に送ったらしく、わりと親身に、はやく来いよという。だが、久我は去り際の壬生にあとは頼むといわれたこともあり、やれることをやってから向かうつもりらしい。おもっていたより壬生・菅原・久我の関係性が好ましい感じなので、読者としてはもういいから逃げろよとなってしまうな。
これは記者の市田かな、彼女が、検事で九条の兄の蔵人と会っている。九条が逮捕されたと。蔵人は知らなかったようだが、別に驚きもない。いつかこうなるとわかっていたと。縁を切っているから関係ないと、余裕の表情だが、仲間の検事たちはそう見てないし、ほんとうはそのことを蔵人も理解しているだろう。まともな弁護人もつかないだろうといいながらタバコを出そうとするので、市田が喫煙所に移動するかと訊ねて、それを断り、タバコをもとに戻している。要するに動揺しているのだ。
市田は、弁護人はたぶん烏丸だろうという。蔵人はいちど争ったことがあるらしく、筋のいい、検察官にスカウトしたい人材だったと烏丸を評するのだった。
つづく。
いよいよ複雑になってきたな。菅原はこの件にはそこまで深入りしていないわけだが、壬生が捕まってしまっている以上、伏見組ができることはその周辺をとっつかまえて詳細を吐き出させるくらいで、そうなるのを見越して、菅原は逃亡したわけである。逃亡しちゃった以上、もう言い逃れできないような感じもするけど。だが、菅原はともかく、久我はじっさい詳細を知っているので、捕まってしまうとまずいことになるかもしれない。
京極はどういうふうに状況を理解しているのか。武器を預けていたのが壬生以外にいなければ、自首したのは壬生ということになり、その流れで壬生を許さないといっているようにもみえるが、セリフからすると、この事態を裏でコントロールしているなにものかが壬生だというふうに見ているようでもある。だけど、壬生は京極がどうなるかわかったうえで自首しているわけであり、ふつうに考えてそれはつまり京極を陥れるための自首ということになる。その彼が九条を封じるのは、こうみると自然なことであって、「誰か絵を描いた奴がいる」というのはなんだかよくわからない。そりゃ壬生でしょ、というところじゃないのかな。しかし、事件がけっこう複雑なので、しかもかなり忘れているので、どこかに見落としがあるかもしれない。京極的には黒幕が壬生なのは明らかだが、それは猛の件でひと悶着あった結果だ。そのくだりについて山城に勘繰られたくないのかもしれない。というか、冷静に考えると、犬飼は死んで京極に差し出されているのであり、それでとりあえず京極は納得しているのだから、そこではなしは終わってもよかったところ、おそらく京極の支配から逃れるために、壬生は出頭したわけなのであった。つまり、これは壬生の消極的な防御というより積極的な攻撃なわけなのだ。前回の壬生が烏丸を経由して九条に伝えたメッセージのひとつ「飼い犬」は、犬飼のことにおもわれたが、ここにはもうひとつ、そのままの意味に、京極の「飼い犬」としてのじぶんはもういない、ということでもあったのかもしれない。おもえば彼は、菅原たちを引き入れたときにじぶんのことを京極の犬だといっていたし、京極じしんも、壬生のことを飼い犬だといっていた。九条はそうした表現が行われた現場にいたことはなかったはずだが、伝わらないということはないだろう。だが、ちょっとこのあたりは、単行本を通じて一気に見ないとよくわからないな・・・。
蔵人は久しぶりの登場である。蔵人は烏丸のことも知っており、しかも実力を評価しているのであった。それは、これまでも見てきたとおりのことだ。蔵人にとっては、もっと厳密には、烏丸の能力を評価しているというより、じぶんと同じようなタイプの法律家であるということを認めているのである。じっさい、烏丸は蔵人とは似ているぶぶんがあり、それが九条とのわずかな対立を生んできた。それは、法律のことばを、全世界をすみからすみまで覆うものとしてとらえる観点だ。むろん、法律じたいはそのようであろうとはしているだろう。けれども、法律云々以前に、そもそもそれを構成することばというものが、彫琢されるにつれ実は現実から離れていくものなのである。これは、ピアノの鍵盤を思い浮かべてみればよい。白鍵のシとドのあいだには、黒鍵もなく、両者は半音で隣り合っている。しかし、今度はバイオリンなどのフレットレスな弦楽器を思い浮かべればわかるように、じっさいにはシとドのあいだにおとは存在する。ピアノの合理性のうちでは無視してよいサブリミナルな音だから、便宜的に考慮されないだけだ。ピアノが音楽を合理化したように、ことばは世界を合理化する。そして、ことばの合理性の依拠するしかたで秩序をもたらすのが法律なのだ。九条はそのシとドのあいだに埋まってしまうような見えないものを拾う。ことばによる世界の合理化は、じっさいに目前に広がる世界の見えかたじたいも変えてしまう。たとえば、現在いわれる「恋愛」というものは、ことばとともに明治期に輸入されたものである。現在「恋愛」として片付けられるものによく似た心理現象や行為は、むろんそれ以前も存在したが、わたしたちが「恋愛」と聞いて思い浮かべるもろもろは、すべてその輸入と翻訳語のあてはめからはじまったものなのだ。つまり、いま中学生が恋愛にあこがれ、コード化されたしかたでセンパイに恋をする、その姿は、自明なのではない。ことばが世界を規定するというのは、そういうことなのだ。
そうした、ことばを通じた世界の理解は、大人になるにつれ長けてくる。『星の王子さま』が描いたもの、大切なものほど目には見えないというのは、そのような意味においてである。大人になるほど、語彙は増え、その扱いに慣れて、世界は(言語的に)豊かになっていく。しかし同時に、その豊かさは、ある種の見落としとトレードオフなのだ。
たほうで蔵人は法律に絶対の信頼をおくものであって、善と悪をくっきり区別されたものとしてとりあつかう。だから、九条のようなありかたを認めない。それが法律家であればなおさらだ。烏丸は、まだ若く、経験的に未熟であることもあって、蔵人と似た世界観にある。だが、九条のような世界観にも関心がある。だからこそ、彼は九条のところに居候していたのだ。
前回も九条と烏丸の対比は見られた。烏丸いわく、悪法も法なら正さなければならない。しかしその発想の行き着く先は、どんな場合も確実に有効な絶対法である。そのときも書いたが、そうしたものを目指すことそれじたいは悪いことではないだろう。誰しも、それが可能かどうかはともかく、世界がよりよくなることを目指して日々働いている。ただ、そのスタンスが最終的にはなにを意味するのかはあたまにおいておかなければならない。絶対法が存在する、つまり真善美が「ある」と信じることは、それを構成することばへの絶対の信頼がなければできないことだ。この点において烏丸と蔵人は似ているわけなのである。ただ、くりかえすように、烏丸がそのようであるのは、未熟だからだ。彼自身、それをわかっていて、そのうえで、九条にはなにかおもうところがあるから、彼を観察し、いまになっても黙ってアクリル板越しに九条のことばを聞いてしまうのである。
そうして、善悪のくっきりとした区別をコンパスに法律のなかをすすむ烏丸だが、前々回だったかにタバコを吸う描写を通じて、変化を見せていた。禁煙の場所でタバコを吸っていたのである。これは、もちろん、彼が、壬生のメッセージを届けるという踏み絵的な行動に出る前段階の、決意の表現でもある。だが、その後の言動からもわかるとおり、彼はまだ流木や九条の弁護士的行動に完全に同意したわけではない。なぜ彼がタバコを吸ったのか、それは九条の立ち位置にじぶんを置いてみるためなのだ。彼はもともとタバコを吸わないし、吸う気持ちもわからないという。だが、有馬という、喫煙者の親友の命日に、彼は有馬がなにを考えていたのかにおもいを馳せながら、有馬が命を絶った部屋で、タバコを吸うのだ。これは実に烏丸らしい行動なのである。その以前から、彼は部屋の様子などから家主の性質を推測するプロファイリング的なものに長けていた。いくども書いていることなのでくわしくは書かないが、ポーの時代から推理小説と怪奇小説は隣接しているジャンルだった。モノが氾濫する時代に、家具は家主の行動の縁取りとなって、その死後、わたしたちの前に残る。それが怪奇小説として解釈されれば、家具の縁取りのなかに幽霊があらわれるだろうし、名探偵はその縁取りから家主の性質を呼び出すわけである。縁取りから、すでにここにはいない存在にコミットする、これが烏丸の思考法だ。だが、縁取りは縁取りでしかない。有馬がなにを考えていたのか、それをつきつめようとしたとき、次に彼ができることは、その縁取りのなかに身をおいてみることである。それが、あの部屋で、タバコを吸ってみるということだったのだ。ここで「タバコ」は転じて「理解できないものを理解しようと努力する」行動の記号になるわけである。そして烏丸はついに、これまで九条が座っていたアクリル板の「こちら側」に、ほかならぬ九条と対話しながら座ることになったのである。
こういうふうに、禁煙箇所でのタバコは、特に蔵人や烏丸においては、九条的なもの、「見えないもの」を見ようとするものたちにコミットする行為の象徴となる。もし今回蔵人が非喫煙所のあのベンチで、市田の遠まわしの指摘を経たあとでタバコを吸っていたら、おやとなっていたところだ。しかし彼は吸わない。「吸っていい」と書かれていないからだ。相変わらず蔵人は蔵人というはなしなのだが、問題は、ではなぜタバコを出したのかということである。要するに、蔵人は動揺しているのである。キャリアにかかわるから。市田は、内心けっこうおもしろがっているかもしれない。
↓九条の大罪 9巻 9月28日
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