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 12月の参拝記事

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         第172回 阿倍野区・正圓寺編


 11月の参拝記事

         第170回 池田市伏尾町・久安寺編
         第169回 大阪市城東区・大日寺編
         第168回 大阪市北区・宝珠院編
         第167回 大阪市北区・淀川天神社編
         第166回 大阪市北区・国分寺編
         第165回 大阪市北区・太融寺編
         第164回 大阪市西区・高野寺編
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         第162回 大阪市福島区・持明院編
         第161回 大阪市福島区・了徳院編
         第160回 大阪市平野区・如願寺編
         第159回 大阪市平野区・式内楯原神社編
         第158回 大阪市天王寺区・どんどろ大師・善福寺編
         第157回 大阪市西区・和光寺編
         第156回 大阪市中央区・三津寺編
         第155回 大阪市中央区・法案寺編


 10月以前の参拝記事はコチラ

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 参拝日:19/12/08(日) 天候:曇りときどき晴れ


 朝日山 荘厳浄土寺(しょうごんじょうどじ)


 真言律宗

 御本尊:不動明王

 所在地:大阪府大阪市住吉区帝塚山東5-11-14

 アクセス:南海高野線「住吉東駅」より約100m。

 公式ホームページ:なし



 縁起

    住吉大社第39代神主の津守国基(つもりのくにもと)は、白河天皇の勅を
    承けて応徳元年(1084)、本尊不動明王を中心に八町四方の寺域を以て
    創建されました。
    その土木工事の折、土中より『七宝荘厳浄土云々』と書かれた金の三尺の宝鐸
    (ほうたく[堂宇の屋根の四方に付ける飾り])が見つかり、この銘文に因んで
    『荘厳浄土寺』と名付けられたのでした。

    また国基は堂の飾り石、庭石を取りに紀州和歌浦に赴き、奇石を得ようとするも
    上手くいかず、彼の地の玉津島神社(和歌の神)に詣で、和歌二首を献詠、
    祈願されました。

     『夜な夜なに ながれなれしも もなかぞと
               おもへばかはる 月のかげかな』
     『年ふれど 老ひもせずして 和歌浦の
               幾夜になりぬ 玉津島姫』

    その夜、夢の中に唐土(もろこし)の姿をした姫十人計り舞い降りて石の
    獲り方を教えられた国基は、翌朝、夢のお告げ通りになすと、忽ちに多くの
    青石を得ることができ、当山に運び込まれたのでした(告磯石)

    そのような経緯を辿って、漸やく諸堂整い、13年後の永長元年(1096)3月
    7日、導師に比叡山横川の慶朝僧都(後、天台座主)、読師は同じく西塔の
    宋心阿闍梨、白河天皇の勅使は警察の任に当たる検非違使長官、宮道式賢
    (国基の孫娘婿)と伶人紀溝任、別当(住職)には増命阿闍梨(国基の長男)
    を任じ、開眼落慶法要を執行されたのでした。
    その時の様子は、中右記など当時の日記類に『数千市をなす』ほどの盛大さ
    であったと記されています。

    次の鎌倉時代文応元年(1260)には、一代の高僧、西大寺興正菩薩叡尊上人の
    掲げた『仏教の原点、釈尊に帰れ』---戒律の復興と慈善事業---の運動に参画。
    以来、天台宗より真言宗に改宗して、南都西大寺派の中核となったのです。
    そうして建元元年(1275)8月24日には、上人の巡錫を仰ぎ、近在の人々
    192人に受戒の式を遂げられ、名実共に戒律の根本道場の道を歩めたのでした。

    南北朝時代、後村上天皇(南朝)は、父後醍醐天皇25回忌追善の為に、
    法華八講の法要を2度親修され、五色仏舎利と和歌を奉納されたのでした。

    出、新葉和歌集
      正平18年8月16日、
      御八講などをこなはれける夜、月くもりて侍りければ、よませ給ふける。

       『秋をへて 月やはさのみ 曇べき
              泪かきくるる いざよひの空』

      正平21年2月17日、
      御八講をこなはれける日、雪いたうふりて侍りければ、妙光寺内大臣もとへ
      つかはされける。

       『思ひやる さが野の春の 雪にもや
              消ける罪の 程は見ゆらん』

       『をしむなよ 法の席の 春の雪
              消らん罪の ためしなりせば』御返(妙光寺内大臣)


      後、変置して戦国乱世の大永年中には、山林を開き田畑となし法燈護持に
      努めるも天正年間、織田信長の兵火を被り、往昔の建物、悉く失った
      のでした。
      そして慶長11年、豊臣秀頼が施主となって、本堂の再建、本尊の台座
      などの修理をされるも、大坂夏の陣の時、豊臣方の兵火によって再度全焼。
      降って天和元年、約2町四方の寺域を以て復興にかかり、現本堂等々を造り
      現在に至っているのです。

                (いただいてきた「荘厳浄土寺900年の歩み」より)
  

 写真①、山門前より。
     山門自体は江戸時代初期の薬医門で明治になって廃寺となった住吉大社の
     神宮寺である新羅寺から移築したもの、大阪市指定有形文化財。
     前の道はわりと狭いんですが境内は思った以上に広い模様。


 写真②、付近のGoogleEarth。
     今回も前回の「西之坊」の近くで、住吉大社の裏手。
     住吉四天王寺のひとつと称せられたお寺だけにわりと大きい。


 写真③、山門前の寺号標。


 写真④、左側の石標。
     『後村上天皇聖蹟』とあります。 


 写真⑤、その前には上記の後村上天皇が詠んだ歌の歌碑があります。


 写真⑥、山門左手に鎮座するお地蔵さまたち。
     右側のお地蔵さまだけバストアップ状態なので
     覗きこんでみるとこちらだけ立像ですね。


 写真⑦、山門裏の鎮守のお稲荷さん。


 写真⑧、小菊の花が満開。


 写真⑨、大師堂。     


 写真⑩、御本堂。


 写真⑪、堂内には御本尊の不動明王立像(二童子付き)。
     桧材で一本彫成の総高2.2m。
     「当山の創建を遡ること約100年、朱雀天皇の命を受けた明達上人は
      神宮寺に於いて当尊に祈りし処、平将門、藤原純友の乱おさまる。
      よって当山開創の折、招来し本尊となす。」

     向かって左側は像容からすると十一面観音様。
     右側は愛染明王様と思われます。


 写真⑫、こちらは本堂奥の「阿弥陀堂」。


 写真⑬、扁額と鐘や鈴の代わりに「念珠繰り」の大数珠が吊るされています。
     御朱印をお願いしている間、この堂内で待たせていただきました。


 写真⑭、堂内はこんなカンジ。


 写真⑮、内陣左手の「興正菩薩叡尊上人」坐像。
     江戸時代、正徳年間の作にして、胎内納入物あり。


 写真⑯、こちらが阿弥陀堂御本尊の阿弥陀如来座坐像。
     旧、西大寺蔵で南北朝時代のもの。
     なお、右手には弘法大師像がおられました。


 写真⑰、最後にいただいてきた御朱印です。
     こちらは摂津国八十八ケ所の第35番。
     左上の鐘のような朱印が『七宝荘厳浄土云々』と
     書かれた宝鐸です。




   以上、先週、日曜日にポタリングで行ってきた荘厳浄土寺の記事でした。