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 昨日の日報は コチラ → 本日は・・なぜかギックリ腰に(泣)

 11月の参拝記事

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         第165回 大阪市北区・太融寺編
         第164回 大阪市西区・高野寺編
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         第158回 大阪市天王寺区・どんどろ大師・善福寺編
         第157回 大阪市西区・和光寺編
         第156回 大阪市中央区・三津寺編
         第155回 大阪市中央区・法案寺編


 10月以前の参拝記事はコチラ

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 参拝日:19/11/23(土) 天候:晴れ


 淀川天神社(よどがわてんじんしゃ)

 御祭神:天穂日命(アメノホヒノミコト)

 所在地:大阪府大阪市北区国分寺1丁目4-1

 アクセス:大阪メトロ谷町線、堺筋線「天神橋筋六丁目」駅下車
      徒歩約5分

 公式ホームページ:なし



 由緒

  当神社は、聖武天皇の御代、天平十年(738)、行基菩薩が、此の地方に
  巡錫(説教に廻ること)に来られた際、此の地方開拓の守護神として
  天穂日命を勧請し奉り、民衆の幸福を祈念せられて以来、
  祭祀をたやすこなく今日に至っている。
  (本年は御鎮座以来一千二百五十年目に当たる。)

  資料は散逸して不詳であるが、西隣の国分寺の鎮守社として創建された
  とも言われ、明治初年度、当時の国分寺村村長安東萬次郎氏よりの
  聞伝えによると、江戸時代中期より、神佛混淆思想の影響で、東隣の
  正徳寺の同域境内にあって管理されていたが、明治六年、神佛分離令に
  よって分離独立し、当初社名を天神宮と称したが、明治五年、社格を
  村社に列せられてより、天神社に改める。

  明治三十五年より、通称名を淀川天神社としている。
  明治四十一年、神饌幣帛料供進社に指定される。

  神職は分離独立後、現在で六代目である。
  大東亜戦争中、昭和二十年六月七日・十五日の二回に亘り、米軍機の
  空襲を受けたが本殿・幣殿・拝殿は、戦災を免れ、鳥居・玉垣・社務所
  ・倉庫は、戦後復興したものである。

  御神体は、創建当時は小祠であったので、鏡又は石玉類であったと
  思われるが、分離独立した時に寺側より返納された御神像
  (木造彩色坐像)を現在御神体として奉齋申し上げている。(年代不詳)

  現在の神殿(瓦葺流造)は、明治四十三年に中島村(東淀川区)の
  神社神殿を買受け建替えた物で享保年間の社殿と推される。

  古い建造物では、裏門の鳥居(寛保三年・明治末期迄表門になっていた)、
  明和・寛政年間の石燈籠、宝暦五年の木造彩色狛犬、文化八年の石狛犬等
  がある。  

          以上、拝殿前の由緒略記より
  

 写真①、鳥居前より。
     鳥居右側には大きな銀杏が生えています。


 写真②、付近のGoogleEarth。
     国分寺からは公園を挟んですぐそば。
     左上の五差路は天六(天神橋筋六丁目)駅。
     右側に大川も流れています。


 写真③、でっかいイチョウの木。


 写真④、鳥居の扁額。 


 写真⑤、社号標も「天神社」。


 写真⑥、さて境内に入り、手水を探すも見つからず・・。
     境内の端っこに工事中らしいのを見つけましたorz。


 写真⑦、こちらが拝殿。


 写真⑧、拝殿の扁額は「御祭神天穂日命」。
      


 写真⑨、久しぶりに角のある狛犬を見た気がします。


 写真⑩、こちらは阿形。 


 写真⑪、寛政元己酉年(1789)の灯篭。


 写真⑫、境内の模様。


 写真⑬、最後にいただいてきた御朱印です。



      以上、土曜日に訪問した淀川天神社の記事でした。