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昨日の日報は コチラ → 本日は・・喜連まで短距離ポタリングへ。
10月の参拝記事
第154回 大阪市浪速区・大乗坊編
第153回 奈良市菅原町・喜光寺編
第152回 奈良市西大寺芝町・西大寺編
8月以前の参拝記事はコチラ。
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参拝日:19/11/04(月) 天候:晴れ
蓮池山 智善院 和光寺(れんちざん ちぜんいん わこうじ)
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
所在地:大阪府大阪市西区北堀江3-7-27
アクセス:大阪メトロ千日前線 西長堀駅から東へ徒歩2分。
尚、最寄りの大阪シティバスのバス停は「あみだ池」か「白髪橋」。
公式ホームページ:なし
歴史
院号の「智善院」は開基者である智善から。
この地にある阿弥陀池は、後に信濃善光寺の本尊となる阿弥陀如来像が
捨てられ、また引き上げられた場所として有名であり、江戸時代の初期
には念仏修行者の精舎が建てられていた。
そこに、元禄11年(1698年)堀江新地の開発に合わせて智善上人が
信濃善光寺の本尊が出現した霊地として新たに寺院を建立、
蓮池山智善院和光寺と称した。
江戸幕府の命令で境内地は1800坪とし、また永代寺地と定められた。
そして信濃善光寺から全長約45cmの金銅製阿弥陀仏像を迎え、
元禄12年(1699年)に本尊として祀った。
迎えられた阿弥陀仏というのは善光寺の本尊である一光三尊の
善光寺式阿弥陀三尊を、承久3年(1221年)に浄蓮上人にお告げが下り、
同年5月に模して制作されたものである。
光背には七仏薬師が付いており、現当二世のご利益があるとされるものである。
智善上人は大和国郡山藩(大和郡山市)の柳沢氏の出身で、信濃善光寺大本願
第113世の光蓮社心誉智善上人である。享保12年(1727年)7月21日に没した。
江戸時代には本堂・放光閣・観音堂・普門堂・愛染堂・薬師堂・抹香地蔵
(まっこうじぞう)・閻魔堂・地蔵堂・金比羅権現(こんぴらごんげん)
・金銅地蔵・鐘堂があった。
周辺で参詣人を目当てとした「いろは茶屋」と称する47軒の茶屋が遊所と
して商いを行なっていたほか、境内にも浄瑠璃の席、講釈の寄席、軽業等の
見世物や物売りの店が並び、特に富くじと植木市が有名であった。
1945年(昭和20年)3月14日、米軍による第1回大阪大空襲で本堂
・諸堂などが焼失した。
戦後の復興計画により境内地が削られたが、1947年(昭和22年)には仮本堂を建立。
放光閣も再建された。
1953年(昭和28年)には庫裡が完成、1961年(昭和36年)6月15日、本堂の
落慶法要が営まれた。
本堂は鉄筋コンクリート建て、一階は会合など集会に使用できるようになっている。
wikiより。
写真①、和光寺山門前より。
西側の山門ですが前の南北の道が「あみだ池筋」。
東側にも山門はありますが通り抜けできない模様。
尚、南側は葬儀用の車の出入り口です。
写真②、付近のGoogleEarth。
真ん中が和光寺。
境内の北側にある池が阿弥陀池。
すぐ西の南北の道があみだ池筋、さらに西の大きな道は
「新なにわ筋」。
なお、上(北側)の真ん中に緑地帯のある東西の道が長堀通。
写真③、入ってすぐに祀られている北向き地蔵尊。
写真④、細い道を通って行くと葬儀会場チックな場所を抜けたらこんな風景。
奥に見えるのが東門。
写真⑤、東門そばの手水舎。
写真⑥、手水にはかえるさん。
写真⑦、本堂でお参り。
写真⑧、扁額は「和光寺」。
写真⑨、境内の結跏趺坐したお地蔵さん。
写真⑩、阿弥陀池の手前に和光寺の説明が・・。
写真⑪、阿弥陀池と放光閣。
写真⑫、阿弥陀池の碑。
写真⑬、放光閣。
昔は蓮池山というぐらいなので池には蓮の花が
咲き乱れていたそうですが現在は普通の池のよう。
写真⑭、松梅稲荷大神さん。
写真⑮、不動三尊像。
写真⑯、子安地蔵さんかな。
写真⑰、白龍大明神さん。
写真⑱、あごなし地蔵尊。
あごより上の病苦を取り除いてくれるそうです。
さて、一通り廻ったんですが寺務所や庫裏が見つからない。
それらしい建屋はあるもののインターホンもなく
勝手に入っていいのか判らないので
電話をしてみる。
写真⑲、なんとそれらしい建屋が正解だったんですが・・。
インターホンが中にあるとはorz。
写真⑳、最後にいただいてきた御朱印です。
こちらは摂津国八十八ケ所の第三番。
以上、11/04に訪問した和光寺の記事でした。